2008年08月18日
8月18日放送分_茂住宗貞の謎について
<8月18日放送分>みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、8月も第三週に入りました。お盆休みも終って、観光関連業者の方はほっと一息といったところでしょうか。
このお盆は、8月15日が金曜日という事もあり、今年は前半と後半に分かれてお休みを取られた方が多かった
のではないでしょうか。どちらかというと観光地は分散傾向にあったのではと思います。
子供たちも、夏休みはあと少し。気がついてみると、宿題の山がという子供も多いのではないでしょうか。
実は私も子供のときは、夏中遊んでいて、最後の一週間で、やっつけるように宿題と夏の自由研究をこな
していた1人です。そのためか、自由研究では、やっつけ仕事ばかりしていましたから、賞には恵まれません
でした。
さて、今週は、第三週ですので、古川や飛騨市のことについてお話したいと思います。
先週予告をさせていただきましたように、今日は「茂住宗貞」について、お話させていただきます。

皆さん、茂住宗貞って、どういう人かご存知でしょうか?
飛騨では一般に、金森宗貞などとも呼ばれ、金森公が飛騨を知行していた時代の、鉱山師として
有名な方ですよね。この「茂住」(もずみ)というのは、漢字で書くと茂るに住むと書きますが、場所の
名前なんです。
神岡から国道41号線を富山方面に行くと、有峰湖へ行く跡津川の合流点がありますが、そこから
まだ先に5分ほど走ると、集落の集った地域があります。そこが茂住という地域です。
昨年、古川のふるさと案内人会の研修会で、私も初めて茂住という地域にお邪魔しました。
今まで、富山に行くときに41号線ですっと通るだけで、なかなか立寄った事はありませんでしたが、
行ってみると、かつてはそこに人口2000人以上の集落や、料理屋などが立並んでいたというだけ
あって、古くて大きな建物が密集しており、中には高山の三之町あたりにある建物と変わりがない
ようなものまでありました。その建物の土間に建つと、かつてここでたくさんの鉱山関係者の方が、
酒を飲み、情報交換をしたんだなと思いました。
さて、話を茂住宗貞に戻しますが、この人については、調べてみましたが、なかなか本になったものは
ありませんでした。金森史とか、飛騨編年史要とか、大野郡史などを見ますと、書いてあることがまち
まちで、いったいこの人は、いつからいつまで飛騨で活躍したのか、わかりませんでした。
たとえば、こんな記述があります。高山市郷土館の発行された「金森史」という本から引用しますと、
・天正17年(1589)、飛騨国東茂住の豪民にして糸屋彦次郎宗貞は国主長近に仕え、
姓を賜り金森宗貞といった。(越前大野城と金森長近)
・慶長13年(1608)長近が逝去したことを知った金森宗貞は、茂住のわが家に火をつけ、自身は
即刻越中へ逃げ、能登へ退いた。(飛騨国中案内)
・同8月24日 金森宗貞、邸を発して敦賀に逃げた。(越前大野城と金森長近)
・寛永8年(1631)この年、重頼、宮島平左衛門を金山奉行となす(大野郡史)
・寛永15年(1638)5月宮島平左衛門、讒者(=ザンシャ、そしる人)の言によって高山城中に殺さる。
・寛永18年(1641)5月重頼、城中に宮島平左衛門の霊を祀る。(大野郡史)
・寛永20年(1643)宗貞歿す。年八十五歳、法号岸松院殿乾應宗真大居士。
(越前大野城と金森長近)
・寛文8年(1668)9月18日頼業、鉱山師茂住村宗貞の驕奢を悪み、其下代宮島平左衛門を
城中に殺す(飛騨編年史要)
・寛文11年(1671)金森頼業、江戸にて卒去。
というような事が書かれているのですが、いまお聞きいただきましたように、一度死んだ人が生まれ
変わったり、また、宮島平左衛門という人が二度も死んだり、支離滅裂なことがかかれています。
歴史というのは、本などによっても記述が違いますので、時々こういうことがおこるんです。
後半では、この辺を整理していきたいと思います。
さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。曲は「中原めいこで 君たちキウィ・パパイア・マンゴーだね」
をお届けします。
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今日の飛騨歴史再発見は、茂住宗貞についてお話しています。
さて、私も調べているうちに結局わからなくなって、昨年のふるさと案内人会の研修会で講師を
勤められました、茂住の片山先生にお尋ねしました。先生は、茂住で十数代続く旧家の方で、茂住宗貞の
ことについていろいろとお調べになっておられました。
先生から一冊の本を見せていただきました。明治時代に柿下廣業という人がまとめた、茂住宗貞略伝
という本です。この本は、当時地域に伝わっていた口伝なども含めてまとめられたものですから、信憑性
については、薄いですが、結構詳しくまとめられていました。
それによりますと、茂住宗貞は、糸屋彦次郎宗貞といい、もともと越前の人で、金森長近が飛騨に入国
したときに、連れてきた人だったそうです。鉱山師とは書いてはありませんが、いわゆる商売人の類で、
鉱山師の人たちをまとめる元締めをしていた方だったようです。彼は、先ほどの話にもありましたように、
金森長近とは、昵懇の間柄だったようですが、彼が亡くなったことを察知してすぐに、飛騨を後にし、
越中へ逃れました。
途中、倶利伽羅峠のところで、蛇に出会い、それを殺した事から、打つという字に蛇と書いて、打蛇と
名乗り、そのままでは具合が悪いと、蛇の字から虫へんを取った字を使って、打它宗貞とそれからは
名乗ったそうです。その後、敦賀に逃亡したようです。その地で、商売をして、その後大商人になったと、
敦賀市史にも書かれています。
当時、北前船で秋田や山形といった米所から米を運ぶのには、日本海を南進して下関をぐるっと廻り、
瀬戸内海を通って大坂へ運ぶのが一般的でした。しかし、彼が行った商いは、敦賀で一旦米を水揚げして、
その米を陸送して、琵琶湖の北岸から琵琶湖~淀川を通じて京都・大阪に運ぶといった商売でした。
運賃が節約できるばかりか、納期も短縮できるため、かなりの商売を営んでいたようです。
もっとも、なぜ、敦賀に逃亡したという事ですが、おそらく、飛騨にいた頃から、彼は商売の拠点をそこに
作っていて、金森長近公の逝去を知ったと同時に、自分の身を守るべく、そこに移転したのではと思われます。
後に彼は、事業で大成功をおさめ、敦賀では、お寺に梵鐘を寄進したりして、一大檀那衆としての生涯を
終えます。彼の息子は、京都に支店を出していましたが、どちらかというと商売よりも茶の湯の先生として
活躍をしたということです。
さて、先ほどの話に戻しますが、先ほどの話の中で、2度死んだ方がありました。宮島平左衛門という方です。
飛騨編年史要には、彼は茂住宗貞の下代ということになっていますが、宗貞と平左衛門は、違う時期に活躍
した方と見た方がよろしいようです。また、平左衛門が2度目に死んだ事になっている寛文8年の話は、どうも
うさんくさい感じがします。
たまたまこの頃に、金森家に不幸が相次ぎ、当主の頼業も24歳という若さで亡くなったために、あとから人々が
「あれは、宮島平左衛門を城中で殺したたたりである」とのうわさが立ち、作られた話ではなかろうかと思います。
実は、最近、JAひだで黄金菊を奉納されたニュースがありましたが、護国神社にある「黄金神社」。じつは
この神社の祭神が「今日お話した、茂住宗貞と宮島平左衛門」の二人なんです。
もともと、金森家に連続して不幸な事が起こるというので、平野神社として二ノ丸に宮島平左衛門が祀られて
いました。
文化年間になって、この祠が老朽化したために、町年寄が相談して、神社の祠の新築を高山陣屋に願い出ます。
ところが、新築は承認されず、結果的に修復ということで許可が出ますが、このときにどうも茂住宗貞と宮島平左衛門
を合祀して祀ったのが、いまの黄金神社だったようです。
この位牌は、高山市の大隆寺に保管されていて、右側に茂住宗亭の法名、左側に宮島平左衛門の法名が書かれた
位牌が、現在も大隆寺に祀られています。

実は、この宮島平左衛門という人、法名が2つありますので、これについては、現在調査中です。
もしご存知の方がありましたら、私までお知らせ下さい。
さて、今日も時間となりました。来週は、第4週目ですので、先月の続き、運材に関するお話をしたいと思います。
それでは、今日はこの曲でお別れです。曲は「杉山清隆とオメガトライブで サマーサスピション」
ではまた、来週!
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、8月も第三週に入りました。お盆休みも終って、観光関連業者の方はほっと一息といったところでしょうか。
このお盆は、8月15日が金曜日という事もあり、今年は前半と後半に分かれてお休みを取られた方が多かった
のではないでしょうか。どちらかというと観光地は分散傾向にあったのではと思います。
子供たちも、夏休みはあと少し。気がついてみると、宿題の山がという子供も多いのではないでしょうか。
実は私も子供のときは、夏中遊んでいて、最後の一週間で、やっつけるように宿題と夏の自由研究をこな
していた1人です。そのためか、自由研究では、やっつけ仕事ばかりしていましたから、賞には恵まれません
でした。
さて、今週は、第三週ですので、古川や飛騨市のことについてお話したいと思います。
先週予告をさせていただきましたように、今日は「茂住宗貞」について、お話させていただきます。

皆さん、茂住宗貞って、どういう人かご存知でしょうか?
飛騨では一般に、金森宗貞などとも呼ばれ、金森公が飛騨を知行していた時代の、鉱山師として
有名な方ですよね。この「茂住」(もずみ)というのは、漢字で書くと茂るに住むと書きますが、場所の
名前なんです。
神岡から国道41号線を富山方面に行くと、有峰湖へ行く跡津川の合流点がありますが、そこから
まだ先に5分ほど走ると、集落の集った地域があります。そこが茂住という地域です。
昨年、古川のふるさと案内人会の研修会で、私も初めて茂住という地域にお邪魔しました。
今まで、富山に行くときに41号線ですっと通るだけで、なかなか立寄った事はありませんでしたが、
行ってみると、かつてはそこに人口2000人以上の集落や、料理屋などが立並んでいたというだけ
あって、古くて大きな建物が密集しており、中には高山の三之町あたりにある建物と変わりがない
ようなものまでありました。その建物の土間に建つと、かつてここでたくさんの鉱山関係者の方が、
酒を飲み、情報交換をしたんだなと思いました。
さて、話を茂住宗貞に戻しますが、この人については、調べてみましたが、なかなか本になったものは
ありませんでした。金森史とか、飛騨編年史要とか、大野郡史などを見ますと、書いてあることがまち
まちで、いったいこの人は、いつからいつまで飛騨で活躍したのか、わかりませんでした。
たとえば、こんな記述があります。高山市郷土館の発行された「金森史」という本から引用しますと、
・天正17年(1589)、飛騨国東茂住の豪民にして糸屋彦次郎宗貞は国主長近に仕え、
姓を賜り金森宗貞といった。(越前大野城と金森長近)
・慶長13年(1608)長近が逝去したことを知った金森宗貞は、茂住のわが家に火をつけ、自身は
即刻越中へ逃げ、能登へ退いた。(飛騨国中案内)
・同8月24日 金森宗貞、邸を発して敦賀に逃げた。(越前大野城と金森長近)
・寛永8年(1631)この年、重頼、宮島平左衛門を金山奉行となす(大野郡史)
・寛永15年(1638)5月宮島平左衛門、讒者(=ザンシャ、そしる人)の言によって高山城中に殺さる。
・寛永18年(1641)5月重頼、城中に宮島平左衛門の霊を祀る。(大野郡史)
・寛永20年(1643)宗貞歿す。年八十五歳、法号岸松院殿乾應宗真大居士。
(越前大野城と金森長近)
・寛文8年(1668)9月18日頼業、鉱山師茂住村宗貞の驕奢を悪み、其下代宮島平左衛門を
城中に殺す(飛騨編年史要)
・寛文11年(1671)金森頼業、江戸にて卒去。
というような事が書かれているのですが、いまお聞きいただきましたように、一度死んだ人が生まれ
変わったり、また、宮島平左衛門という人が二度も死んだり、支離滅裂なことがかかれています。
歴史というのは、本などによっても記述が違いますので、時々こういうことがおこるんです。
後半では、この辺を整理していきたいと思います。
さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。曲は「中原めいこで 君たちキウィ・パパイア・マンゴーだね」
をお届けします。
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今日の飛騨歴史再発見は、茂住宗貞についてお話しています。
さて、私も調べているうちに結局わからなくなって、昨年のふるさと案内人会の研修会で講師を
勤められました、茂住の片山先生にお尋ねしました。先生は、茂住で十数代続く旧家の方で、茂住宗貞の
ことについていろいろとお調べになっておられました。
先生から一冊の本を見せていただきました。明治時代に柿下廣業という人がまとめた、茂住宗貞略伝
という本です。この本は、当時地域に伝わっていた口伝なども含めてまとめられたものですから、信憑性
については、薄いですが、結構詳しくまとめられていました。
それによりますと、茂住宗貞は、糸屋彦次郎宗貞といい、もともと越前の人で、金森長近が飛騨に入国
したときに、連れてきた人だったそうです。鉱山師とは書いてはありませんが、いわゆる商売人の類で、
鉱山師の人たちをまとめる元締めをしていた方だったようです。彼は、先ほどの話にもありましたように、
金森長近とは、昵懇の間柄だったようですが、彼が亡くなったことを察知してすぐに、飛騨を後にし、
越中へ逃れました。
途中、倶利伽羅峠のところで、蛇に出会い、それを殺した事から、打つという字に蛇と書いて、打蛇と
名乗り、そのままでは具合が悪いと、蛇の字から虫へんを取った字を使って、打它宗貞とそれからは
名乗ったそうです。その後、敦賀に逃亡したようです。その地で、商売をして、その後大商人になったと、
敦賀市史にも書かれています。
当時、北前船で秋田や山形といった米所から米を運ぶのには、日本海を南進して下関をぐるっと廻り、
瀬戸内海を通って大坂へ運ぶのが一般的でした。しかし、彼が行った商いは、敦賀で一旦米を水揚げして、
その米を陸送して、琵琶湖の北岸から琵琶湖~淀川を通じて京都・大阪に運ぶといった商売でした。
運賃が節約できるばかりか、納期も短縮できるため、かなりの商売を営んでいたようです。
もっとも、なぜ、敦賀に逃亡したという事ですが、おそらく、飛騨にいた頃から、彼は商売の拠点をそこに
作っていて、金森長近公の逝去を知ったと同時に、自分の身を守るべく、そこに移転したのではと思われます。
後に彼は、事業で大成功をおさめ、敦賀では、お寺に梵鐘を寄進したりして、一大檀那衆としての生涯を
終えます。彼の息子は、京都に支店を出していましたが、どちらかというと商売よりも茶の湯の先生として
活躍をしたということです。
さて、先ほどの話に戻しますが、先ほどの話の中で、2度死んだ方がありました。宮島平左衛門という方です。
飛騨編年史要には、彼は茂住宗貞の下代ということになっていますが、宗貞と平左衛門は、違う時期に活躍
した方と見た方がよろしいようです。また、平左衛門が2度目に死んだ事になっている寛文8年の話は、どうも
うさんくさい感じがします。
たまたまこの頃に、金森家に不幸が相次ぎ、当主の頼業も24歳という若さで亡くなったために、あとから人々が
「あれは、宮島平左衛門を城中で殺したたたりである」とのうわさが立ち、作られた話ではなかろうかと思います。
実は、最近、JAひだで黄金菊を奉納されたニュースがありましたが、護国神社にある「黄金神社」。じつは
この神社の祭神が「今日お話した、茂住宗貞と宮島平左衛門」の二人なんです。
もともと、金森家に連続して不幸な事が起こるというので、平野神社として二ノ丸に宮島平左衛門が祀られて
いました。
文化年間になって、この祠が老朽化したために、町年寄が相談して、神社の祠の新築を高山陣屋に願い出ます。
ところが、新築は承認されず、結果的に修復ということで許可が出ますが、このときにどうも茂住宗貞と宮島平左衛門
を合祀して祀ったのが、いまの黄金神社だったようです。
この位牌は、高山市の大隆寺に保管されていて、右側に茂住宗亭の法名、左側に宮島平左衛門の法名が書かれた
位牌が、現在も大隆寺に祀られています。
実は、この宮島平左衛門という人、法名が2つありますので、これについては、現在調査中です。
もしご存知の方がありましたら、私までお知らせ下さい。
さて、今日も時間となりました。来週は、第4週目ですので、先月の続き、運材に関するお話をしたいと思います。
それでは、今日はこの曲でお別れです。曲は「杉山清隆とオメガトライブで サマーサスピション」
ではまた、来週!
徳積善太
2008年08月04日
8月4日放送分 武田軍の飛騨侵攻について
(8月4日)みなさんこんにちは。このコーナーは飛騨歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
もう8月に入りました。今年の梅雨は、例年より入梅が早かったようですが、あまりまとまった雨は
降らずに終ってしまった観がありますね。しかし、それにしても、暑いですねえ。これも地球温暖化の
影響なんでしょうか、このまえ、台湾の友人にメールを出したら、なんと高山の気温と台湾の気温が
同じである事がわかりました。今年の中部地方は、熱い空気に覆われているようです。
どうぞ、体調管理にはくれぐれもお気をつけ下さい。
さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、武田軍の飛騨侵攻についてお話
させていただきます。

私もこれについては、今まであまり知らなかったのですが、興味を持って
調べてみると、様々な人間関係の狭間に、飛騨という一国は置かれていたんだなということが
わかりました。
皆さんもそうだと思いますが、戦国の世の中で、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった3英傑
の話や、隣国の齋藤道三の話などは、よく大河ドラマなどで取り上げられているので知っています
が、ではその時、地元飛騨ではどうだったか、ということはあまりご存じない事だと思います。
ちょっとここで、戦国時代に金森氏が飛騨に入国する前の戦力状況について、考えて見ましょう。
時代はだいたい永禄年間(1558~1570)前後40年のお話です。
織田信長は、愛知県の尾張にいて、秀吉はその家来として仕えていました。家康は、その少し南、
三河にいました。静岡県の駿河には、今川義元。隣の山梨県、甲斐と信州には武田信玄。
新潟県の越後には、上杉謙信。岐阜県の美濃は、齋藤道三。福井県の越前には朝倉氏。
滋賀県には浅井氏が勢力を張っていました。戦国時代にこういった英傑がいたというお話や、
三英傑の話しは、皆さんすでに大河ドラマなどでよくご存知ですよね。
さて、その頃、飛騨ではどうであったか。この番組でもお伝えしてきましたが、下呂市の竹原から
萩原あたりにかけては、三木氏が知行していました。高山盆地は、鍋山氏、飯山氏、岡本氏などが
知行していました。この3家はのちに三木氏によって滅ぼされますので、最終的には三木氏が
高山盆地を制する事になります。
白川郷は、南側が内島氏。北側が浄土真宗の照蓮寺がありました。
古川盆地は、南側を広瀬氏、北側を姉小路三家である小嶋氏、牛丸氏、姉小路氏が知行していました。
神岡のあたりは江馬氏が知行していました。
こうやって話してみると、かなりたくさんの小さな豪族が、飛騨を分割して仲良く知行していたわけ
ですが、これらの豪族を打ち破って、台頭してくるのが下呂あたりを知行していた三木氏です。
三木氏は、良綱、自綱の2代にわたってこれらの小さな豪族を破り、北へ北へと進出し、最終的
には飛騨を統一するまでになります。
この三木氏を破って飛騨の領主となったのが、再三お話しています金森長近という武将です。
さて、この飛騨の武将が、この永禄年間にどういう状況にあったかというと、好むと好まざるとに
関わらず、武田と上杉のどちらの配下になるか、二者択一を迫られていました。
まず、三木氏は、自分が北進する為に、眼前の敵は、吉城郡にいた広瀬氏と江馬氏でした。
つまり背後にいた上杉謙信と手を結んでいました。再三、上杉に使者を送り、また最終的には、
自分の手下であった塩屋筑前守秋貞という人を上杉の貴下において、上杉が上洛する為に、
越中富山へ進軍する手助けをさせます。
一方、攻められる側の広瀬氏は、三木氏の背後にいる武田軍と手を結びます。今まで平和に
小さな豪族達が仲良く暮らしてきたのを脅かそうとする三木氏の動きを広瀬氏は大変警戒して
いました。そこで、武田信玄に書状を送り、再三、出兵を促して三木氏を滅ぼしてくれるように
頼んでいます。
しかし、武田信玄の目的は、上洛と背後にいた上杉勢力の弾圧でしたから、上杉の上洛を阻止
する目的で信州から飛騨を通って、越中の浄土真宗と手を組み、援軍を差し向けています。
そのため、自分の手下や配下の軍を遣わして飛騨を攻めたのです。
また、その頃の江馬氏は、飛騨のみならず越中にも進軍していましたから、家内が2つに
われていました。武田軍と手を結ぶもの、はたまた上杉軍と手を結ぶものの2つのグループが
ありました。江馬氏は、武田氏についたり、上杉に付いたり揺れ動いていました。
さて、武田軍が実際に飛騨に攻め入ってきたお話は、後半ですることにしましょう。
ちょっとここでブレイク。曲は「サザンで勝手にシンドバッド」をお届けします。
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今日のひだ歴史再発見は、武田軍の飛騨侵攻の事についてお話しています。
さて、飛騨に武田軍が何回来たかについてですが、神岡の郷土史研究家 葛谷先生の著述など
によると5回も飛騨に侵攻してきています。一部、諸説があって、解らない部分もございますが、
先生の著書「中世 江馬氏の研究」という本と、岡村利平氏の本、金森史などをもとに、私なりに
分析した話をご紹介したいと思います。
まず1回目は、永禄2年(1559)六月下旬、第二回の川中島の戦いの翌年に、飯富昌景、馬場景政、
甘利晴吉が、道なき道を切り開き、大木を倒して橋を掛け、安房峠の南側の大峠を越えて、信州から
攻めてきたというものです。この時は、飛騨出身の都竹五郎左衛門の説得により、江馬が武田軍に
降伏して、知行地の安堵をされています。また、平湯温泉はこの時に発見されたとされています。

平湯で発見されたといわれる「神の湯」(平湯温泉HPより)
さて、飛騨に入ってきた2回目は、永禄3年(1560)の大威徳寺の戦い。これは、弘治元年(1555)より
武田軍と同盟下にあった苗木城の遠山氏が、飛騨に攻め入ってきたときの戦いです。下呂の舞台峠
のところに、かつて大威徳寺というお寺がありましたが、三木氏はこのお寺に立て篭もり、遠山軍を
迎え撃ちます。ただし、この時は、伽藍を含めて建物のほとんどを焼き尽くされ、三木氏が敗北する
という結果になりました。
この大威徳寺の戦いの年度については、諸説あって、飛騨では永禄3年(1560)とする説が最も有力と
されていますが、元亀3年(1572)ではないかとする説もあります。
3回目は、永禄7年(1561)3月、飯富軍が安房峠を越えて、飛騨に入り、高原の江馬の館を取り囲んだ
というもの。このとき、江馬父子は、再び武田方の軍門に下り、輝盛の弟 善立を人質として武田に
入れました。
4回目は、永禄7年(1561)5月。これも同じく、飯富昌景が山県昌景と名を変えて、飛騨に入ってきます。
この時は、江馬氏を扇動して、飛騨統一をもくろんでいた三木氏を滅ぼすためでした。
このとき、塩屋筑前守秋貞の居城である丹生川の尾崎城が焼き討ちにあっています。同時に、スポン
サーである三木氏を擁護していた千光寺も一山ことごとく焼き討ちにあっています。この千光寺の焼き
討ちの話には、攻めていた江馬氏に内応して、国府にいた武田方の広瀬氏が裏山から火を掛けたの
ですが、真っ赤に焼けた鐘つきの鐘が、ごろごろところがって武田軍の兵を何人も殺したという逸話が
残っています。このとき、三木軍は一旦兵を引揚げて、益田郡に蟄居し、時期の到来を待ちました。
そのため、一時期、三木の居城であった新宮城、三仏寺城を江馬氏の家来 川上縫殿助に預けて城代と
しました。
このとき、飯富軍は三木氏の息の根を止めることはせず、それからすぐ、兵を引揚げます。
なぜかというと、使者が来て第5回目の川中島の合戦の為、兵をそちらへ差し向ける必要が出てきたので、
信州へと引き上げたといわれています。事実、この年の8月に川中島の合戦が起こっています。
しかしこれは、上杉軍が、三木良頼の要請を受けて、飛騨救援の為に、飛騨方面に江馬を背後から
攻めさせると同時に、自身も川中島へ出陣する事によって、武田勢をけん制するといったものでした。

川中島の戦いのメインとなった八幡原
このように、飛騨の戦いが第五回目の川中島の合戦を引き起こしたということです。これは、あまり知られて
いないお話ですね。
このあと、永禄7年に江馬時盛は、国府の広瀬氏と組んで、三木氏の息の根を止めようと、7月に兵を
挙げます。ところが、子の江馬輝盛が内紛によって、三木方につくため、形勢が逆転します。
時盛は上杉配下の越中松倉城主 椎名康胤によって逆に攻められたために高原の城に立て篭もり、
武田の援軍を待ちます。しかし、第5回の川中島の戦いが60日にも及ぶために、武田の援軍はとうとう
来ず、時盛は和睦を申入れて降伏します。江馬氏はこうして、三木氏と共に上杉方になります。
この話は永禄4年という説もあります。
最後に、5回目ですが、永禄10年(1567)5月に、武田信玄本人が、信州から安房越えに飛騨に入り、
越中に入り、椎名康胤の松倉城、神保氏春の増山城、瑞泉寺、聞名寺などを巡見し、甲州に帰って
いるようです。
この時、どうも神岡の江馬氏の館に信玄は逗留したという記録があるようです。
この辺の話は、興味のある方も多いと思いますので、またあらためて詳しくお話したいと思います。
さて、本日も時間となりました。
来週は、お盆の時期でも有りますので、飛騨の浄土真宗と金森長近のお話をお届けしたいと思います。
今日は、この曲でお別れです。
曲は「ピンクレディで 渚のシンドバッド」ではまた来週お会いしましょう。
徳積善太
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
もう8月に入りました。今年の梅雨は、例年より入梅が早かったようですが、あまりまとまった雨は
降らずに終ってしまった観がありますね。しかし、それにしても、暑いですねえ。これも地球温暖化の
影響なんでしょうか、このまえ、台湾の友人にメールを出したら、なんと高山の気温と台湾の気温が
同じである事がわかりました。今年の中部地方は、熱い空気に覆われているようです。
どうぞ、体調管理にはくれぐれもお気をつけ下さい。
さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、武田軍の飛騨侵攻についてお話
させていただきます。

私もこれについては、今まであまり知らなかったのですが、興味を持って
調べてみると、様々な人間関係の狭間に、飛騨という一国は置かれていたんだなということが
わかりました。
皆さんもそうだと思いますが、戦国の世の中で、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった3英傑
の話や、隣国の齋藤道三の話などは、よく大河ドラマなどで取り上げられているので知っています
が、ではその時、地元飛騨ではどうだったか、ということはあまりご存じない事だと思います。
ちょっとここで、戦国時代に金森氏が飛騨に入国する前の戦力状況について、考えて見ましょう。
時代はだいたい永禄年間(1558~1570)前後40年のお話です。
織田信長は、愛知県の尾張にいて、秀吉はその家来として仕えていました。家康は、その少し南、
三河にいました。静岡県の駿河には、今川義元。隣の山梨県、甲斐と信州には武田信玄。
新潟県の越後には、上杉謙信。岐阜県の美濃は、齋藤道三。福井県の越前には朝倉氏。
滋賀県には浅井氏が勢力を張っていました。戦国時代にこういった英傑がいたというお話や、
三英傑の話しは、皆さんすでに大河ドラマなどでよくご存知ですよね。
さて、その頃、飛騨ではどうであったか。この番組でもお伝えしてきましたが、下呂市の竹原から
萩原あたりにかけては、三木氏が知行していました。高山盆地は、鍋山氏、飯山氏、岡本氏などが
知行していました。この3家はのちに三木氏によって滅ぼされますので、最終的には三木氏が
高山盆地を制する事になります。
白川郷は、南側が内島氏。北側が浄土真宗の照蓮寺がありました。
古川盆地は、南側を広瀬氏、北側を姉小路三家である小嶋氏、牛丸氏、姉小路氏が知行していました。
神岡のあたりは江馬氏が知行していました。
こうやって話してみると、かなりたくさんの小さな豪族が、飛騨を分割して仲良く知行していたわけ
ですが、これらの豪族を打ち破って、台頭してくるのが下呂あたりを知行していた三木氏です。
三木氏は、良綱、自綱の2代にわたってこれらの小さな豪族を破り、北へ北へと進出し、最終的
には飛騨を統一するまでになります。
この三木氏を破って飛騨の領主となったのが、再三お話しています金森長近という武将です。
さて、この飛騨の武将が、この永禄年間にどういう状況にあったかというと、好むと好まざるとに
関わらず、武田と上杉のどちらの配下になるか、二者択一を迫られていました。
まず、三木氏は、自分が北進する為に、眼前の敵は、吉城郡にいた広瀬氏と江馬氏でした。
つまり背後にいた上杉謙信と手を結んでいました。再三、上杉に使者を送り、また最終的には、
自分の手下であった塩屋筑前守秋貞という人を上杉の貴下において、上杉が上洛する為に、
越中富山へ進軍する手助けをさせます。
一方、攻められる側の広瀬氏は、三木氏の背後にいる武田軍と手を結びます。今まで平和に
小さな豪族達が仲良く暮らしてきたのを脅かそうとする三木氏の動きを広瀬氏は大変警戒して
いました。そこで、武田信玄に書状を送り、再三、出兵を促して三木氏を滅ぼしてくれるように
頼んでいます。
しかし、武田信玄の目的は、上洛と背後にいた上杉勢力の弾圧でしたから、上杉の上洛を阻止
する目的で信州から飛騨を通って、越中の浄土真宗と手を組み、援軍を差し向けています。
そのため、自分の手下や配下の軍を遣わして飛騨を攻めたのです。
また、その頃の江馬氏は、飛騨のみならず越中にも進軍していましたから、家内が2つに
われていました。武田軍と手を結ぶもの、はたまた上杉軍と手を結ぶものの2つのグループが
ありました。江馬氏は、武田氏についたり、上杉に付いたり揺れ動いていました。
さて、武田軍が実際に飛騨に攻め入ってきたお話は、後半ですることにしましょう。
ちょっとここでブレイク。曲は「サザンで勝手にシンドバッド」をお届けします。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今日のひだ歴史再発見は、武田軍の飛騨侵攻の事についてお話しています。
さて、飛騨に武田軍が何回来たかについてですが、神岡の郷土史研究家 葛谷先生の著述など
によると5回も飛騨に侵攻してきています。一部、諸説があって、解らない部分もございますが、
先生の著書「中世 江馬氏の研究」という本と、岡村利平氏の本、金森史などをもとに、私なりに
分析した話をご紹介したいと思います。
まず1回目は、永禄2年(1559)六月下旬、第二回の川中島の戦いの翌年に、飯富昌景、馬場景政、
甘利晴吉が、道なき道を切り開き、大木を倒して橋を掛け、安房峠の南側の大峠を越えて、信州から
攻めてきたというものです。この時は、飛騨出身の都竹五郎左衛門の説得により、江馬が武田軍に
降伏して、知行地の安堵をされています。また、平湯温泉はこの時に発見されたとされています。

平湯で発見されたといわれる「神の湯」(平湯温泉HPより)
さて、飛騨に入ってきた2回目は、永禄3年(1560)の大威徳寺の戦い。これは、弘治元年(1555)より
武田軍と同盟下にあった苗木城の遠山氏が、飛騨に攻め入ってきたときの戦いです。下呂の舞台峠
のところに、かつて大威徳寺というお寺がありましたが、三木氏はこのお寺に立て篭もり、遠山軍を
迎え撃ちます。ただし、この時は、伽藍を含めて建物のほとんどを焼き尽くされ、三木氏が敗北する
という結果になりました。
この大威徳寺の戦いの年度については、諸説あって、飛騨では永禄3年(1560)とする説が最も有力と
されていますが、元亀3年(1572)ではないかとする説もあります。
3回目は、永禄7年(1561)3月、飯富軍が安房峠を越えて、飛騨に入り、高原の江馬の館を取り囲んだ
というもの。このとき、江馬父子は、再び武田方の軍門に下り、輝盛の弟 善立を人質として武田に
入れました。
4回目は、永禄7年(1561)5月。これも同じく、飯富昌景が山県昌景と名を変えて、飛騨に入ってきます。
この時は、江馬氏を扇動して、飛騨統一をもくろんでいた三木氏を滅ぼすためでした。
このとき、塩屋筑前守秋貞の居城である丹生川の尾崎城が焼き討ちにあっています。同時に、スポン
サーである三木氏を擁護していた千光寺も一山ことごとく焼き討ちにあっています。この千光寺の焼き
討ちの話には、攻めていた江馬氏に内応して、国府にいた武田方の広瀬氏が裏山から火を掛けたの
ですが、真っ赤に焼けた鐘つきの鐘が、ごろごろところがって武田軍の兵を何人も殺したという逸話が
残っています。このとき、三木軍は一旦兵を引揚げて、益田郡に蟄居し、時期の到来を待ちました。
そのため、一時期、三木の居城であった新宮城、三仏寺城を江馬氏の家来 川上縫殿助に預けて城代と
しました。
このとき、飯富軍は三木氏の息の根を止めることはせず、それからすぐ、兵を引揚げます。
なぜかというと、使者が来て第5回目の川中島の合戦の為、兵をそちらへ差し向ける必要が出てきたので、
信州へと引き上げたといわれています。事実、この年の8月に川中島の合戦が起こっています。
しかしこれは、上杉軍が、三木良頼の要請を受けて、飛騨救援の為に、飛騨方面に江馬を背後から
攻めさせると同時に、自身も川中島へ出陣する事によって、武田勢をけん制するといったものでした。

川中島の戦いのメインとなった八幡原
このように、飛騨の戦いが第五回目の川中島の合戦を引き起こしたということです。これは、あまり知られて
いないお話ですね。
このあと、永禄7年に江馬時盛は、国府の広瀬氏と組んで、三木氏の息の根を止めようと、7月に兵を
挙げます。ところが、子の江馬輝盛が内紛によって、三木方につくため、形勢が逆転します。
時盛は上杉配下の越中松倉城主 椎名康胤によって逆に攻められたために高原の城に立て篭もり、
武田の援軍を待ちます。しかし、第5回の川中島の戦いが60日にも及ぶために、武田の援軍はとうとう
来ず、時盛は和睦を申入れて降伏します。江馬氏はこうして、三木氏と共に上杉方になります。
この話は永禄4年という説もあります。
最後に、5回目ですが、永禄10年(1567)5月に、武田信玄本人が、信州から安房越えに飛騨に入り、
越中に入り、椎名康胤の松倉城、神保氏春の増山城、瑞泉寺、聞名寺などを巡見し、甲州に帰って
いるようです。
この時、どうも神岡の江馬氏の館に信玄は逗留したという記録があるようです。
この辺の話は、興味のある方も多いと思いますので、またあらためて詳しくお話したいと思います。
さて、本日も時間となりました。
来週は、お盆の時期でも有りますので、飛騨の浄土真宗と金森長近のお話をお届けしたいと思います。
今日は、この曲でお別れです。
曲は「ピンクレディで 渚のシンドバッド」ではまた来週お会いしましょう。
徳積善太
2008年07月28日
7月28日放送分 運材について(中流域)
(7月28日)みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう夏になって、猛暑が続いていますね。年々、高山も暑さが増しているような気がします。
つい最近までは、高山は日陰に入ると涼しくて、クーラーが要らない状態だったと思いますが、
これも地球温暖化の影響でしょうか? 空気が「のくとい」ですね。
しかし、朝晩は涼しいですから、都会の熱帯夜を考えると、まだまだすごしやすいようです。
ただ、窓を開け放して眠っていて、朝起きたら寝冷えで夏風邪を引いたというのもよく聴く話です。
どうぞ体調管理には十分気をつけて下さい。
さて、今日のお話は、第4週目ですので、飛騨の匠についてお話しする週です。今日は、
先月お話しました「運材について」の続きを、お話したいと思います。
まず、先週までのお話を振り返ってみたいと思います。
先月の放送でお話したことは、都を建設したり大火にあって町を造るのに、木を使って建物を
作りました。そのため、木は、最初は都となる場所の近くから大木を伐り出しましたが、そのうち、
伐り尽くしてしまってまちの近くには木がなくなってしまいました。
そのため、人々は、大木を山の奥地に求めるようになり、奥山へ入って、木を切り出すようになり
ました。伐った木は、自然の川を使って、奥山から運ばれ、そして、上流部では、ダムを作って、
たまった雪解け水と一緒に一気に川下へ流す。そういうことをして、木を運んだという話でした。

また、飛騨の匠と呼ばれた人たちは、大工さんとしての技術のみならず、こういった奥山から木を
伐りだす方法、そして木を運ぶ方法=運材ということを知っていた技術者集団だったのではという
お話でした。
今日は、そのお話の続きをするわけですが、皆さんが知っておられる川のことを実際に名前をあげて
お話した方がわかりやすいので、今日は、川の名前を言いながら、江戸時代に書かれた「運材図会」
に基づいたお話をしたいと思います。
この前のお話で、飛騨というところは、分水嶺があり、たとえば宮峠のところで、雨が降れば、南側の
斜面の水は、益田川に集められ、途中から飛騨川となって流れ、木曽川に合流して、最終的には、
伊勢湾に流れ込みます。
一方で、北側に降った雨は、宮川に集められ、川上川と合流し、高原川と合流して神通川となり、
富山湾に流れ込みます。これと同じように、木というものは、伐られたら、川に流されたわけですから、
一般的には、分水嶺から北側の木を北方山(きたかたやま)。分水嶺から南側を南方山(みなみかた
やま)と呼びました。
ここで、一般的にと申し上げたのは、いくつか文献が出てきていまして、必ずしも、北方山の木が
北ばかりに流されたのではないという史実があったからです。これについては、またの機会に
お話したいと思います。
では、南方山の例を出してお話したいと思います。益田川の源流といえば、高根の山奥です。
そこで伐られた木は、どうやって、運ばれたかですが、江戸時代のはじめ頃までは、木を倒すと、
まず、決められた長さに切っていました。江戸時代の初めごろ、自由に木を切っていたのですが、
だんだん奥山にも木が少なくなってきて、幕府が制限するようになりました。巣山といって、鷹が
巣をかける天然の木が残っている山を指定して、見張りを立てました。そういう山は、いい材木が
豊富で、林相がよくて、なかなか人が近寄ってもいけないような山でした。
また、留山といって、山を育てるために切り出しを止めた山を作ったのもこの頃です。
最初は、板子といって、平べったい形の板を流したようですが、川に流すと割れるので、頭の部分を
三角の形にして流しやすくしました。最初の板子は、立派なもので、大体幅90cm、長さ2間くらいの
大きなものだったようでしたが、だんだんそういった大きな木がなくなってきたようです。
どちらかというとそういう板子は、正目の木が多かったようです。

天和三年(1683)ごろになると、だんだん板子の幅も小さくなってきました。とうとう享保13年には板子が
廃止されてしまい、山を育てるために留山となった場所も出てくるようになりました。

ちょっとここで、ブレイクしましょう。今日はこの曲をお届けします。渡辺真知子で「唇よ熱く君を語れ」
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
本日の飛騨歴史再発見は、運材について、中流域の運材についてお話しています。
さて、木を切り出して集めたところには、ダムが作ってあって、水の細い川などは、水と一緒に一気に
下流へ流されます。瀧のあるところなどに差し掛かると、木が瀧を落ちたときに折れたり、割れたりして
歩留まりが悪くなりますから、そういったところでは、間伐材を伐ってきて、やぐら状にくみ上げ、
ちょうど木の滑り台のようなものを作って、木の上を滑らせて下に流す。そういうものを作ったという
ことが、運材図会に載っています。
木が割れないように、上手に工夫をこらした様子が描かれています。中には、木のやぐらを三階建て
の建物の高さくらいにくみ上げて、流すというより滑らせるような、構造になっています。
そうして、木をたくみに流しながら、朝日あたりまできます。そこでは、川の流れに任せて、一本づつ、
流していきます。途中で、木が詰まったりするところもありますので、そこは、トビという道具を使って、
木を水の流れのほうへ、移動させたりします。

このトビという道具は、昨年、匠学会の展示会でも展示させていただきましたが、木の棒の先に金具を
とりつけたもので、それがちょうど鳥のとんびのくちばしのような形をしています。

このトビの有名なものが高山で作られていたもので、山口とびといいました。江戸時代から明治時代に
かけて、この山口とびを持っていると、事故にあわない、怪我をしないという噂が、こういった山師の方々
の間で広まり、全国的に有名になったということでした。昨年の展示では、桂川さんという山口とびの
製造元へ全国から注文書が入ったという注文書を展示しましたよね。

さて、木が今度は小坂のあたりに集められました。そこでは、上流部で流した木が、ちゃんと上流部で
チェックされただけの本数、そこまできているか。途中での盗難などはなかったか。また痛みや傷などが
ないかをチェックされます。
(
どうして、このように厳しくチェックをしたかというと、御用木というのは、種類が
決められていました。飛騨も同じだったと思われますが、木曽には、木曽五木(ごぼく)というのがあって、
一番いい商品から順番に檜、さわら、こうやまき、あすなろ、杉といったものが貴重な五木(ごぼく)でした。

江戸時代には、享保の改革以後、だんだん木が少なくなってきたので、幕府が山を管理するようになり、
勝手に伐った者には処罰を与えるようになりました。 たとえば、ヒノキを勝手に伐り倒した場合、木を
一本伐っただけで、その処罰というものは、打ち首になると言われたほどでした。最近でもヒノキの皮を
茶室の壁などに利用する場合がありますが、たとえヒノキの皮をはいだだけでも、牢獄に入れられる
という、厳罰がありました。今ではなかなか考えられない話ですよね。
これについては、加子母村の奥で、実際にあった話ですが、どうしても儲かる木があると犯罪が増加
するというのが人間の常だったようです。いろいろな例がありました。木を切ると音がするので、こだま
がしますからすぐに木を切っているとわかってしまいますよね。
そこで、村人は、木を切らないで鎌を持ってきて皮をはぎました。
ヒノキの皮のことを桧皮(ひわだ)といいますが、この桧皮は、壁などの建築材料のほか、火縄銃にも
使ったりして、良く売れたそうです。そのため、皮はぎの犯罪が多いのが特徴だったそうです。
この他にも山林犯罪の例は12例あるのですが、処罰は、過料、入牢、死罪、切腹などがあって結構
重罪だったようです。
享保改革以降、最初のうちは死刑になることが少なかったのですが、規則を知らしめるためか役人が、
厳しく取り立てました。しかし、その後になると、死刑にまですることは余程でないとなかったようですが、
罰金、所払いなどの状況になっていました。当然、犯罪者が町に行けば、無宿人、非人として扱わ
れたようですから、一生重荷を背負って生きることになりました。木を許可なく切ると一生を台無しに
してしまったんですね。
さて本日も時間となりました。この続きは、来月の第4週にお話します。
来週は、戦国時代のお話。武田軍の飛騨侵攻について、お話したいと思います。
今週はこの曲でお別れです。大瀧詠一で「君は天然色」ではまた、来週。
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう夏になって、猛暑が続いていますね。年々、高山も暑さが増しているような気がします。
つい最近までは、高山は日陰に入ると涼しくて、クーラーが要らない状態だったと思いますが、
これも地球温暖化の影響でしょうか? 空気が「のくとい」ですね。
しかし、朝晩は涼しいですから、都会の熱帯夜を考えると、まだまだすごしやすいようです。
ただ、窓を開け放して眠っていて、朝起きたら寝冷えで夏風邪を引いたというのもよく聴く話です。
どうぞ体調管理には十分気をつけて下さい。
さて、今日のお話は、第4週目ですので、飛騨の匠についてお話しする週です。今日は、
先月お話しました「運材について」の続きを、お話したいと思います。
まず、先週までのお話を振り返ってみたいと思います。
先月の放送でお話したことは、都を建設したり大火にあって町を造るのに、木を使って建物を
作りました。そのため、木は、最初は都となる場所の近くから大木を伐り出しましたが、そのうち、
伐り尽くしてしまってまちの近くには木がなくなってしまいました。
そのため、人々は、大木を山の奥地に求めるようになり、奥山へ入って、木を切り出すようになり
ました。伐った木は、自然の川を使って、奥山から運ばれ、そして、上流部では、ダムを作って、
たまった雪解け水と一緒に一気に川下へ流す。そういうことをして、木を運んだという話でした。
また、飛騨の匠と呼ばれた人たちは、大工さんとしての技術のみならず、こういった奥山から木を
伐りだす方法、そして木を運ぶ方法=運材ということを知っていた技術者集団だったのではという
お話でした。
今日は、そのお話の続きをするわけですが、皆さんが知っておられる川のことを実際に名前をあげて
お話した方がわかりやすいので、今日は、川の名前を言いながら、江戸時代に書かれた「運材図会」
に基づいたお話をしたいと思います。
この前のお話で、飛騨というところは、分水嶺があり、たとえば宮峠のところで、雨が降れば、南側の
斜面の水は、益田川に集められ、途中から飛騨川となって流れ、木曽川に合流して、最終的には、
伊勢湾に流れ込みます。
一方で、北側に降った雨は、宮川に集められ、川上川と合流し、高原川と合流して神通川となり、
富山湾に流れ込みます。これと同じように、木というものは、伐られたら、川に流されたわけですから、
一般的には、分水嶺から北側の木を北方山(きたかたやま)。分水嶺から南側を南方山(みなみかた
やま)と呼びました。
ここで、一般的にと申し上げたのは、いくつか文献が出てきていまして、必ずしも、北方山の木が
北ばかりに流されたのではないという史実があったからです。これについては、またの機会に
お話したいと思います。
では、南方山の例を出してお話したいと思います。益田川の源流といえば、高根の山奥です。
そこで伐られた木は、どうやって、運ばれたかですが、江戸時代のはじめ頃までは、木を倒すと、
まず、決められた長さに切っていました。江戸時代の初めごろ、自由に木を切っていたのですが、
だんだん奥山にも木が少なくなってきて、幕府が制限するようになりました。巣山といって、鷹が
巣をかける天然の木が残っている山を指定して、見張りを立てました。そういう山は、いい材木が
豊富で、林相がよくて、なかなか人が近寄ってもいけないような山でした。
また、留山といって、山を育てるために切り出しを止めた山を作ったのもこの頃です。
最初は、板子といって、平べったい形の板を流したようですが、川に流すと割れるので、頭の部分を
三角の形にして流しやすくしました。最初の板子は、立派なもので、大体幅90cm、長さ2間くらいの
大きなものだったようでしたが、だんだんそういった大きな木がなくなってきたようです。
どちらかというとそういう板子は、正目の木が多かったようです。

天和三年(1683)ごろになると、だんだん板子の幅も小さくなってきました。とうとう享保13年には板子が
廃止されてしまい、山を育てるために留山となった場所も出てくるようになりました。

ちょっとここで、ブレイクしましょう。今日はこの曲をお届けします。渡辺真知子で「唇よ熱く君を語れ」
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本日の飛騨歴史再発見は、運材について、中流域の運材についてお話しています。
さて、木を切り出して集めたところには、ダムが作ってあって、水の細い川などは、水と一緒に一気に
下流へ流されます。瀧のあるところなどに差し掛かると、木が瀧を落ちたときに折れたり、割れたりして
歩留まりが悪くなりますから、そういったところでは、間伐材を伐ってきて、やぐら状にくみ上げ、
ちょうど木の滑り台のようなものを作って、木の上を滑らせて下に流す。そういうものを作ったという
ことが、運材図会に載っています。
木が割れないように、上手に工夫をこらした様子が描かれています。中には、木のやぐらを三階建て
の建物の高さくらいにくみ上げて、流すというより滑らせるような、構造になっています。
そうして、木をたくみに流しながら、朝日あたりまできます。そこでは、川の流れに任せて、一本づつ、
流していきます。途中で、木が詰まったりするところもありますので、そこは、トビという道具を使って、
木を水の流れのほうへ、移動させたりします。

このトビという道具は、昨年、匠学会の展示会でも展示させていただきましたが、木の棒の先に金具を
とりつけたもので、それがちょうど鳥のとんびのくちばしのような形をしています。

このトビの有名なものが高山で作られていたもので、山口とびといいました。江戸時代から明治時代に
かけて、この山口とびを持っていると、事故にあわない、怪我をしないという噂が、こういった山師の方々
の間で広まり、全国的に有名になったということでした。昨年の展示では、桂川さんという山口とびの
製造元へ全国から注文書が入ったという注文書を展示しましたよね。

さて、木が今度は小坂のあたりに集められました。そこでは、上流部で流した木が、ちゃんと上流部で
チェックされただけの本数、そこまできているか。途中での盗難などはなかったか。また痛みや傷などが
ないかをチェックされます。
(どうして、このように厳しくチェックをしたかというと、御用木というのは、種類が
決められていました。飛騨も同じだったと思われますが、木曽には、木曽五木(ごぼく)というのがあって、
一番いい商品から順番に檜、さわら、こうやまき、あすなろ、杉といったものが貴重な五木(ごぼく)でした。
江戸時代には、享保の改革以後、だんだん木が少なくなってきたので、幕府が山を管理するようになり、
勝手に伐った者には処罰を与えるようになりました。 たとえば、ヒノキを勝手に伐り倒した場合、木を
一本伐っただけで、その処罰というものは、打ち首になると言われたほどでした。最近でもヒノキの皮を
茶室の壁などに利用する場合がありますが、たとえヒノキの皮をはいだだけでも、牢獄に入れられる
という、厳罰がありました。今ではなかなか考えられない話ですよね。
これについては、加子母村の奥で、実際にあった話ですが、どうしても儲かる木があると犯罪が増加
するというのが人間の常だったようです。いろいろな例がありました。木を切ると音がするので、こだま
がしますからすぐに木を切っているとわかってしまいますよね。
そこで、村人は、木を切らないで鎌を持ってきて皮をはぎました。
ヒノキの皮のことを桧皮(ひわだ)といいますが、この桧皮は、壁などの建築材料のほか、火縄銃にも
使ったりして、良く売れたそうです。そのため、皮はぎの犯罪が多いのが特徴だったそうです。
この他にも山林犯罪の例は12例あるのですが、処罰は、過料、入牢、死罪、切腹などがあって結構
重罪だったようです。
享保改革以降、最初のうちは死刑になることが少なかったのですが、規則を知らしめるためか役人が、
厳しく取り立てました。しかし、その後になると、死刑にまですることは余程でないとなかったようですが、
罰金、所払いなどの状況になっていました。当然、犯罪者が町に行けば、無宿人、非人として扱わ
れたようですから、一生重荷を背負って生きることになりました。木を許可なく切ると一生を台無しに
してしまったんですね。
さて本日も時間となりました。この続きは、来月の第4週にお話します。
来週は、戦国時代のお話。武田軍の飛騨侵攻について、お話したいと思います。
今週はこの曲でお別れです。大瀧詠一で「君は天然色」ではまた、来週。
徳積善太
2008年07月21日
7月21日放送分「小島城と小鷹利城について」
(7月21日)みなさんこんにちは。このコーナーは飛騨歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
7月も第3週に入りました。だんだん夏らしくなってきましたね。この頃飛騨では、朝晩は
いつもと同じで涼しいのに、昼間になると都会と代らないくらい。ひょっとすると、都会よりも
暑い事があります。これは、皆さんがクーラーを使うことと、自動車からの廃熱、パソコンなど
の電化製品の普及などによって、盆地に熱がこもることから起る現象です。都会のヒート
アイランド現象とはちょっと違いますが、以前は、日影に入ると涼しかった飛騨地域ですが、
今はどこへ行っても暑くなりましたから、困り者ですね。できるだけ、エコを考えて、クーラーを
使わずに過ごしたいですね。
さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、6月1日に古川で行われました、
古城めぐりのご報告をさせていただきたいと思います。この企画は、「飛騨を誇る実行委員会」
という有志の皆さんの主催で、開催されました。全部で40人ほどの参加がありましたが、古城
研究の各務ヶ原市 熊沢喜三郎先生による現地の解説と、郷土史研究家の川上節男先生の
歴史背景の解説を交えて、小島城と小鷹利城に登ってまいりました。
皆さん、小島城と小鷹利城といっても、どういう人の城だったか、ご存知でしょうか。
これは、室町時代初期、15世紀に飛騨を知行していた姉小路氏のお城です。ちょっと姉小路氏に
ついて振り返ってみましょう。
姉小路氏は、あねがこうじとも言われ、公家の中では中納言、後に大納言に選ばれた公家でも
上層部の方でした。よく大納言という位は耳にする事がありますが、現在で言う大臣の位にあたり
ます。そんな方が飛騨を知行しておられたのですね。
姉小路氏は、いまから680年ほど前、鎌倉幕府が滅んだ翌年、建武元年(1334)に京都の後醍醐
天皇から国司として任命され、姉小路家綱と言う人が飛騨の地に住んでおられました。その居城が、
現在の古川町太江にある小島城というお城です。おそらく、普段の住まいは、山の麓に館を構えられ、
有事のときには、山城である小島城に登って、敵の攻撃を防いだものでしょう。姉小路家綱は、
京の都を偲んで、この地に東山、嵯峨山、北野、賀茂川、賀茂宮などという地名を名付けられ、
今でもその地名が残っている場所があります。
応永18年(1411)に有名な応永飛騨の乱という戦争が起きます。このときに、姉小路尹綱(ただ
つな)という国司が、反逆したというかどで、越前の朝倉氏、信州の小笠原氏などの5000人とも
いわれる連合軍に10分の一の兵力で立ち向かい、滅ぼされます。
ただし、この時は、尹綱という人一人を排斥するための戦いだったようで、戦争の後、知行地は、
室町幕府よりそのまま姉小路氏に安堵されています。
その後、姉小路家は、3つに分裂し、北から蛤城を拠点とした古河家、太江の小島城を拠点と
した小嶋家、向小島城を拠点とした向小島家に分かれます。
姉小路家は、この3つの家に分かれた事で、現在の古川町から河合町にかけての一帯を知行
する豪族として君臨しました。主家の小島家は天正13年(1585)に小島時光が金森長近と戦い
討死するまで、8代250年の間、公家の名家 姉小路家としての地位を保ち続けました。

説明をされる熊沢先生
さて、小島城は、古川の安望山の尾根続きの山の先端にあり、標高620mあります。麓からは
130mほどの山城で、県の史蹟に指定されています。
熊沢先生の解説によると、曲輪(くるわ)、橋台、掘切、竪堀、石垣、升形虎口などが確認でき、
時代を経て規模を拡大してきた、中世の山城です。
曲輪(くるわ)というのは、城郭や砦などの周りの囲い区域のことで、いわゆる後の安土桃山
時代以降に天守閣や二の丸、三の丸のあった場所で、城の一番中枢の部分です。
ただし、中世の城は、皆さんがイメージされる、天守閣のような建物があったわけではなく、
山の一番上に、柵で囲った平らな場所というものが一般的でした。

小島城の主曲輪
したがって、そこでは、城主が幕などで陣を張り、武装して、戦況を報告させ、指令を出していた
という場所です。
もちろん、普段の生活では、そのような場所は必要ありませんから、普段の生活は、麓にあった
館で、歌でもたしなみながら優雅に暮らしていた事でしょう。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は、夏らしい曲。チャゲと石川優子で「ふたりの愛ランド」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、小島城と小鷹利城のお話をしています。
自然の要害という言葉をよく耳にする事がありますが、先ほど申上げた、堀切、竪堀という言葉や、
土塁、畝堀などという言葉は、まさに自然を生かして作ったものです。それぞれ、地面を掘ったもの
が堀切。山の傾斜に合せて竪に掘ったのが竪堀。掘るのではなくて土を盛り上げたものが土塁。
竪堀を、1m間隔くらいで何本も掘ったものが畝堀というものです。熊沢先生もおっしゃっていましたが、
飛騨は、600年の間、山が自然の形で残っているので、昔の古城の形態が損なわれる事なく、当時の
まま残っているのが特徴だそうです。

竪堀の跡
なるほど、現地に行ってみると、草や笹が生えてぼうぼうになっていますが、少し平らなところがあったり、
畝があって、でこぼこになっていたり、素人の私でも、ここにはどんな堀があったのか、確認できる様子でした。

また、古い石垣が残っていましたが、よく見ると泥岩でできていて、お城のすぐ下のところにあった
石切り場から持ってきたものであることがわかりました。泥岩は加工しやすく、自然の石に比べて、
真っ直ぐに割ったりすることができることから、そういう専門の石工の人がいて、加工したんだなと
思いました。

一般に、お城というと、石垣の堅固なイメージを想像していましたが、飛騨の古城は、崩れやすいところや、
斜面の急なところでは、確かに石垣が組まれていますが、そういう場所は本当に少しで、ほとんどが
地形をそのまま利用したお城だったことがわかりました。
小島城の一番上に立ってみたら、少し木が生い茂っていてわかりにくい部分もありましたが、
南には古河盆地が一望でき、その向こうに蛤城。

北西の方角を見ると、盆地の向こうに向小島城。

そして、後ろ側、北東方向には、神原峠が一望でき、なるほど、交通の要害としては、すべてが
一望できる素晴らしい場所だと思いました。
徒歩で上がる場合は、杉崎からの杉崎口と、沼町からの沼町口、そして太江から上がる太江口が
ありますが、太江口の奥には、途中まで車で上がれる車道があります。途中、車一台分が通れる
くらいの細い砂利道になっていて、慣れないと少し怖いかもしれませんが、乗用車なら楽に行けます
ので、一度行ってみてください。



さて、小鷹利城ですが、場所は、古川町黒内にあるサッカー場の後の山の上にあります。地理的
には、古河町と河合町の境目になります。黒内からも遊歩道があり上がることができますが、河合の
稲越地区に一旦出て、国道360号への橋を渡らないで左へ行きます。
すると、夏に六本木へ持っていく雪が保管してある谷の道をどんどん上がっていくと、丁度小鷹利城の
山の後に出ます。今回のツアーもそこから歩きましたが、その道の方が、城跡へ行きやすいと思います。
ここにはかつて、姉小路一族の小鷹利伊賀守が住んでいたといわれています。ここは、峰続きの黒内城
というお城があって、最初は、この黒内城が、姉小路の宰相藤原頼鑑(よりかね)という人が建武2年
(1335)に築き、その後、防禦に勝れた小鷹利の城を作り、そちらに移転したものとも言われています。

黒内城と小鷹利城の両方を熊沢先生がご案内くださいました。
なるほど、城の規模も防禦の仕方も小鷹利城の方が勝れている事が素人目にもわかりました。
中でも驚いたのは、畝堀というものが本丸のすぐ下のところにありましたが、本数が14本もありました。

1mほどの巾で傾斜は30度から40度くらいのものでしょうか、そういう堀がたてに何本も掘られていて、
草がぼうぼうのところもありましたが、草の波ができているようにうねった状態を見ることができました。
ただでさえ、険しい山を敵が登ってきても、最後のこの場所に至ったときに、またこんな要害があれば、
上から弓矢や石を投げられたら、ひとたまりもありません。大勢で攻めてきても、この畝堀を登るときには、
巾が狭いので1人づつしか上れませんし、上の人が倒れれば、その人が下に転げ落ちれば下にいる
何人もの人がなぎ倒されます。昔の人は、よくこういう知恵を出して城の構造を考えたのだなと感心しました。

さて、本日も時間となりました。この続きは、ブログの方で紹介したいと思います。
来週は、第4週目ですので、匠の話、先月の続きで、木を川に流したお話の続きをしたいと思います。
今日は、この曲でお別れです。
曲は、ちょっとマニアックな曲。山下達郎で「愛を描いて Let's kiss the sun」ではまた来週。
徳積善太
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
7月も第3週に入りました。だんだん夏らしくなってきましたね。この頃飛騨では、朝晩は
いつもと同じで涼しいのに、昼間になると都会と代らないくらい。ひょっとすると、都会よりも
暑い事があります。これは、皆さんがクーラーを使うことと、自動車からの廃熱、パソコンなど
の電化製品の普及などによって、盆地に熱がこもることから起る現象です。都会のヒート
アイランド現象とはちょっと違いますが、以前は、日影に入ると涼しかった飛騨地域ですが、
今はどこへ行っても暑くなりましたから、困り者ですね。できるだけ、エコを考えて、クーラーを
使わずに過ごしたいですね。
さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、6月1日に古川で行われました、
古城めぐりのご報告をさせていただきたいと思います。この企画は、「飛騨を誇る実行委員会」
という有志の皆さんの主催で、開催されました。全部で40人ほどの参加がありましたが、古城
研究の各務ヶ原市 熊沢喜三郎先生による現地の解説と、郷土史研究家の川上節男先生の
歴史背景の解説を交えて、小島城と小鷹利城に登ってまいりました。
皆さん、小島城と小鷹利城といっても、どういう人の城だったか、ご存知でしょうか。
これは、室町時代初期、15世紀に飛騨を知行していた姉小路氏のお城です。ちょっと姉小路氏に
ついて振り返ってみましょう。
姉小路氏は、あねがこうじとも言われ、公家の中では中納言、後に大納言に選ばれた公家でも
上層部の方でした。よく大納言という位は耳にする事がありますが、現在で言う大臣の位にあたり
ます。そんな方が飛騨を知行しておられたのですね。
姉小路氏は、いまから680年ほど前、鎌倉幕府が滅んだ翌年、建武元年(1334)に京都の後醍醐
天皇から国司として任命され、姉小路家綱と言う人が飛騨の地に住んでおられました。その居城が、
現在の古川町太江にある小島城というお城です。おそらく、普段の住まいは、山の麓に館を構えられ、
有事のときには、山城である小島城に登って、敵の攻撃を防いだものでしょう。姉小路家綱は、
京の都を偲んで、この地に東山、嵯峨山、北野、賀茂川、賀茂宮などという地名を名付けられ、
今でもその地名が残っている場所があります。
応永18年(1411)に有名な応永飛騨の乱という戦争が起きます。このときに、姉小路尹綱(ただ
つな)という国司が、反逆したというかどで、越前の朝倉氏、信州の小笠原氏などの5000人とも
いわれる連合軍に10分の一の兵力で立ち向かい、滅ぼされます。
ただし、この時は、尹綱という人一人を排斥するための戦いだったようで、戦争の後、知行地は、
室町幕府よりそのまま姉小路氏に安堵されています。
その後、姉小路家は、3つに分裂し、北から蛤城を拠点とした古河家、太江の小島城を拠点と
した小嶋家、向小島城を拠点とした向小島家に分かれます。
姉小路家は、この3つの家に分かれた事で、現在の古川町から河合町にかけての一帯を知行
する豪族として君臨しました。主家の小島家は天正13年(1585)に小島時光が金森長近と戦い
討死するまで、8代250年の間、公家の名家 姉小路家としての地位を保ち続けました。
説明をされる熊沢先生
さて、小島城は、古川の安望山の尾根続きの山の先端にあり、標高620mあります。麓からは
130mほどの山城で、県の史蹟に指定されています。
熊沢先生の解説によると、曲輪(くるわ)、橋台、掘切、竪堀、石垣、升形虎口などが確認でき、
時代を経て規模を拡大してきた、中世の山城です。
曲輪(くるわ)というのは、城郭や砦などの周りの囲い区域のことで、いわゆる後の安土桃山
時代以降に天守閣や二の丸、三の丸のあった場所で、城の一番中枢の部分です。
ただし、中世の城は、皆さんがイメージされる、天守閣のような建物があったわけではなく、
山の一番上に、柵で囲った平らな場所というものが一般的でした。
小島城の主曲輪
したがって、そこでは、城主が幕などで陣を張り、武装して、戦況を報告させ、指令を出していた
という場所です。
もちろん、普段の生活では、そのような場所は必要ありませんから、普段の生活は、麓にあった
館で、歌でもたしなみながら優雅に暮らしていた事でしょう。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は、夏らしい曲。チャゲと石川優子で「ふたりの愛ランド」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、小島城と小鷹利城のお話をしています。
自然の要害という言葉をよく耳にする事がありますが、先ほど申上げた、堀切、竪堀という言葉や、
土塁、畝堀などという言葉は、まさに自然を生かして作ったものです。それぞれ、地面を掘ったもの
が堀切。山の傾斜に合せて竪に掘ったのが竪堀。掘るのではなくて土を盛り上げたものが土塁。
竪堀を、1m間隔くらいで何本も掘ったものが畝堀というものです。熊沢先生もおっしゃっていましたが、
飛騨は、600年の間、山が自然の形で残っているので、昔の古城の形態が損なわれる事なく、当時の
まま残っているのが特徴だそうです。
竪堀の跡
なるほど、現地に行ってみると、草や笹が生えてぼうぼうになっていますが、少し平らなところがあったり、
畝があって、でこぼこになっていたり、素人の私でも、ここにはどんな堀があったのか、確認できる様子でした。
また、古い石垣が残っていましたが、よく見ると泥岩でできていて、お城のすぐ下のところにあった
石切り場から持ってきたものであることがわかりました。泥岩は加工しやすく、自然の石に比べて、
真っ直ぐに割ったりすることができることから、そういう専門の石工の人がいて、加工したんだなと
思いました。
一般に、お城というと、石垣の堅固なイメージを想像していましたが、飛騨の古城は、崩れやすいところや、
斜面の急なところでは、確かに石垣が組まれていますが、そういう場所は本当に少しで、ほとんどが
地形をそのまま利用したお城だったことがわかりました。
小島城の一番上に立ってみたら、少し木が生い茂っていてわかりにくい部分もありましたが、
南には古河盆地が一望でき、その向こうに蛤城。
北西の方角を見ると、盆地の向こうに向小島城。
そして、後ろ側、北東方向には、神原峠が一望でき、なるほど、交通の要害としては、すべてが
一望できる素晴らしい場所だと思いました。
徒歩で上がる場合は、杉崎からの杉崎口と、沼町からの沼町口、そして太江から上がる太江口が
ありますが、太江口の奥には、途中まで車で上がれる車道があります。途中、車一台分が通れる
くらいの細い砂利道になっていて、慣れないと少し怖いかもしれませんが、乗用車なら楽に行けます
ので、一度行ってみてください。
さて、小鷹利城ですが、場所は、古川町黒内にあるサッカー場の後の山の上にあります。地理的
には、古河町と河合町の境目になります。黒内からも遊歩道があり上がることができますが、河合の
稲越地区に一旦出て、国道360号への橋を渡らないで左へ行きます。
すると、夏に六本木へ持っていく雪が保管してある谷の道をどんどん上がっていくと、丁度小鷹利城の
山の後に出ます。今回のツアーもそこから歩きましたが、その道の方が、城跡へ行きやすいと思います。
ここにはかつて、姉小路一族の小鷹利伊賀守が住んでいたといわれています。ここは、峰続きの黒内城
というお城があって、最初は、この黒内城が、姉小路の宰相藤原頼鑑(よりかね)という人が建武2年
(1335)に築き、その後、防禦に勝れた小鷹利の城を作り、そちらに移転したものとも言われています。
黒内城と小鷹利城の両方を熊沢先生がご案内くださいました。
なるほど、城の規模も防禦の仕方も小鷹利城の方が勝れている事が素人目にもわかりました。
中でも驚いたのは、畝堀というものが本丸のすぐ下のところにありましたが、本数が14本もありました。
1mほどの巾で傾斜は30度から40度くらいのものでしょうか、そういう堀がたてに何本も掘られていて、
草がぼうぼうのところもありましたが、草の波ができているようにうねった状態を見ることができました。
ただでさえ、険しい山を敵が登ってきても、最後のこの場所に至ったときに、またこんな要害があれば、
上から弓矢や石を投げられたら、ひとたまりもありません。大勢で攻めてきても、この畝堀を登るときには、
巾が狭いので1人づつしか上れませんし、上の人が倒れれば、その人が下に転げ落ちれば下にいる
何人もの人がなぎ倒されます。昔の人は、よくこういう知恵を出して城の構造を考えたのだなと感心しました。
さて、本日も時間となりました。この続きは、ブログの方で紹介したいと思います。
来週は、第4週目ですので、匠の話、先月の続きで、木を川に流したお話の続きをしたいと思います。
今日は、この曲でお別れです。
曲は、ちょっとマニアックな曲。山下達郎で「愛を描いて Let's kiss the sun」ではまた来週。
徳積善太
2008年07月14日
7月14日放送分「山の展示会について」
<7月14日放送分>みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう7月に入ってだんだん暑くなってきましたねえ。ビールがおいしかったり、清涼飲料がおい
しかったりしますが、あまり飲みすぎますと、冷えからおなかを壊したりします。
どうぞ、健康管理は充分にしていてくださいね。
さて、この放送ですが、放送時間のほうは、毎週月曜日の夜7時半からと、毎週土曜日の午前10時半
からお届けしております。最近、リスナーの方にお聞きしますと、土曜日の放送を聞いておられる方が
多いようですね。
どうしても、野球とかドラマとか、TVのゴールデンタイムには、そっちを楽しみたいですよね。
また、聞き逃してしまったという方には、この放送のバックナンバーを、ひだっちブログのほうにも掲載
させていただいていますので、一度ご覧下さい。
こちらのほうは、昨年12月以降は毎日更新しています。この放送でお伝えできない画像や私が最近
調査したことなどもお知らせしておりますので、どうぞごらんいただければと思います。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、今度、飛騨センターに起きまして、山の展示会が開催
されますので、それについてのお話したいと思います。
今日は、この番組にしては珍しく、というか、昨年10月以来ですから、久しぶりにゲストをお招きして
おります。私が一人でやるようになってからは、初のゲストですが、ご紹介したいと思います。
私のこの原稿をいつも、監修してチェックしていただいています、ミュージアム飛騨 学芸員の
牛丸岳彦さんです。
牛丸さん、こんにちは。
う「こんにちは」
な「牛丸さんには、いつもこのコーナーの原稿をチェックしていただいてありがとうございます。」
う「いえどうも」
な「さて、今度、岐阜県ミュージアム飛騨で開催される展示会ですが、どのような展示会ですか?」
う「タイトル:山とひだびと 雲上の頂に挑む
期間:7月19日から9月15日
目的:飛騨の人にとって山はなじみ深いものです。ひだびとは山とどのようにかかわってきたのか?
特に登山を中心にして取り上げます。
展示内容:「縄文時代の遺跡からは長野県や新潟県でしか採れない石が出土していますし、
縄文土器にも信州系、富山系などと言われているものがありまして、各方面との交流がありました。
当時山を越えていた人がいたということです。
また、山で暮らしを立てている人も多くいました。木を伐る人、木製品を作る人、猟師、漁師などです。
ところがこれらの人には山頂を目指す、という発想はなかったのではないでしょうか?
山頂を目指す、という行為が始まるのは一つは宗教登山であり、もう一つが西洋アルピニズムの影響で
始まる近代登山であると。こういったことに関わる資料を展示します。」
な「今年は、飛騨山岳会が、創立100周年ということですが、そちらの展示もあるのですか?」
う「はい。今回は特に飛騨山岳会が100周年を迎えるということで、共催という形で開催されます。
昨年チベットのモンタ・カンリ峰というまだ誰も登ったことのない山に登ったことは記憶に新しいかと
思いますが、その時の装備なども展示したいと思います。
また、飛騨山岳会の歴史は近代登山の歴史でもあります。これを調べていくと飛騨の、いえ、
日本の近代登山の歴史も分かるのではないかと思います。」
さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。曲は私が選曲しましたが、山に関することということで、
「高山市の歌」をお届けします。冒頭に「しろがねの、雪のアルプス真向かいに~」という歌詞で始まる
んですよ。では、お聞きください。
今日の飛騨歴史再発見は、今度 ミュージアム飛騨で行われる「山の展示会」についてお話しています。
本日は、ゲストに 牛丸岳彦さんをお迎えしてお話を伺っています。
な「さて、牛丸さん、後半では展示についてもう少し細かくお話いただきたいと思いますが、昨年の飛騨の
匠展では、4つのコーナーごとにテーマを決めた展示を行いましたが、今度の展示では、そのような形を
とっているんですか?」
う「今回は小さなコーナーもありますが、大きくは三つに分けています。一つは生活の山、もう一つは宗教
登山、最後に近代登山です。」
な「では、それぞれについて、お話いただきましょう。(各コーナーについての紹介)」
う「一つ目の生活の山、というのは先ほども少しお話しましたが、縄文人とか、木を伐る人などの展示です。
面白いのは、木を伐る前に、山を調べに何日も山にこもるのです。山翅(やまかき)と江戸時代の人は言って
います。また、当時の山小屋は入ると真中に土間があって、その両側に板の間があって居住スペースに
なっているのですが、この形は初期の山小屋に引き継がれていきます。
猟師さんほど山に詳しい人はいません。明治時代に山に登る人はほとんど猟師に案内を頼んでいます。
有名なところでは、上高地にウェストン碑がありますが、このウェストンは上高地の嘉門次という猟師や、
また奥飛騨温泉郷の中尾の猟師などに案内を頼んでいます。
二つ目の宗教登山ですが、山というのは信仰の対象になるものです。私も残雪、新緑、紅葉など、いろんな
山を見ると心が落ち着くような気がします。8年高山を離れ、帰ってきた時に、冬頭町の山から飛騨山脈をみて、
「あ~、この町で生きていこう」という気になりました。
昔福田夕咲という詩人がいたのですが、この人は「山岳は人格を浄化す」なんてことを言ってますね。
話がそれました。まぁ、このように山に対する信仰心は多くの人が抱くものだと思います。縄文人も同じような
感情は持ったと思います。宗教登山が実際に出てくるのは白山や御嶽山などで、白山などは平安時代に
遡ります。実際に山頂の近くからお祭りなどに使ったとみられる土器がたくさん出ています。
新田次郎の小説で『槍ヶ岳開山 播隆』がありますが、この播隆が最初に開山、正確には再興ですが、
したのが笠ヶ岳です。
笠ヶ岳は円空や道泉和尚などが早くに登ったという伝承がありますが、確実なところでは南裔というお坊さん
が山頂に鉄札を置いてきているのが最初です。
その他面白い人がいまして、無尽秀全という行者なんですが、上牧太郎之助や板殿正太郎などの、後に
登山道の整備に尽力する人たちが、この無尽秀全という行者の影響を受けているのです。」
な「 今回は、山岳会の方々とも協力体制を取っているんですか?」
う「飛騨山岳会の歴史は近代登山の歴史、といっても過言ではないと思います。百年の歴史を限られた
時間で話すのは難しいですし、私が適任とも思えませんが、簡単にまとめてみると。100年前、学校の
教員達が山の自然を調査したり、体を鍛えたり、それを子供たちに伝えたり、というようなことを目的に
飛騨山岳会を設立します。これが山に多くの人が入るようになり、山の事が分かってくると、今度はそれを
皆に伝えよう、という活動をするようになります。
今の乗鞍青年の家あたりは昭和のはじめ頃に開発されて「飛騨乗鞍スキー場」というのがありました。
もちろんリフトなどはなく担いで登って滑ってくる、というものですが。飛騨山岳会は一時期五つの山小屋を
持って管理していました。名古屋や大阪の人もやってきて非常に賑わっていたそうです。
そうして、戦後、登山というものが一般に認知されてくると、飛騨山岳会は登山を専門にする団体に
変わってきます。笠ヶ岳や錫杖岳の岩壁のルートを開発したり、海外登山なども盛んに行っています。
それが今回のモンタ・カンリにもつながってくると思います。
あと、今回イベントとして対談「登山医学を考える」、講演会「山頂から宇宙を探る」シンポジウム
「笠ヶ岳を考える」「飛騨の山体験バスツアー」なども計画しています。
日曜日には誰かが鑑賞ガイドを行っていますのでこの日に来ていただけると面白い話が聞けると思います。」
な「それぞれの詳しい時間などは、市内各所に置いてありますパンフレットなどでご確認いただきたいと
思います。では最後に、もう一度、展示会の名前と、期間についてお話いただきたいと思います。」
う「展示会名:山とひだびと 雲上の頂に挑む
開催期間:7月19日から9月15日
入場料:大人の方500円です。高校生以下は無料!です。」
な「ということでございますので、皆さんもぜひこの機会にごらんいただければと思います。」
さて、来週は、第3週目ですので、古川のお話。先日6月1日に古川でツアーがありまして、
小島城と小鷹利城に登ってきました。そのレポートをお話したいと思います。
それでは、最後になりました、今日は牛丸岳彦さんをお迎えしてお届けしました。最後に牛丸さん、
曲のリクエストをいただけますか?
う「村下孝蔵で 初恋」をお願いします。」
な「はい、それでは、牛丸さんからのリクエストでお別れです。曲は「初恋」
牛丸さん、今日はどうもありがとうございました。」
う「ありがとうございました」
な「ではまた、来週、お会いしましょう!」
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう7月に入ってだんだん暑くなってきましたねえ。ビールがおいしかったり、清涼飲料がおい
しかったりしますが、あまり飲みすぎますと、冷えからおなかを壊したりします。
どうぞ、健康管理は充分にしていてくださいね。
さて、この放送ですが、放送時間のほうは、毎週月曜日の夜7時半からと、毎週土曜日の午前10時半
からお届けしております。最近、リスナーの方にお聞きしますと、土曜日の放送を聞いておられる方が
多いようですね。
どうしても、野球とかドラマとか、TVのゴールデンタイムには、そっちを楽しみたいですよね。
また、聞き逃してしまったという方には、この放送のバックナンバーを、ひだっちブログのほうにも掲載
させていただいていますので、一度ご覧下さい。
こちらのほうは、昨年12月以降は毎日更新しています。この放送でお伝えできない画像や私が最近
調査したことなどもお知らせしておりますので、どうぞごらんいただければと思います。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、今度、飛騨センターに起きまして、山の展示会が開催
されますので、それについてのお話したいと思います。
今日は、この番組にしては珍しく、というか、昨年10月以来ですから、久しぶりにゲストをお招きして
おります。私が一人でやるようになってからは、初のゲストですが、ご紹介したいと思います。
私のこの原稿をいつも、監修してチェックしていただいています、ミュージアム飛騨 学芸員の
牛丸岳彦さんです。
牛丸さん、こんにちは。
う「こんにちは」
な「牛丸さんには、いつもこのコーナーの原稿をチェックしていただいてありがとうございます。」
う「いえどうも」
な「さて、今度、岐阜県ミュージアム飛騨で開催される展示会ですが、どのような展示会ですか?」
う「タイトル:山とひだびと 雲上の頂に挑む
期間:7月19日から9月15日
目的:飛騨の人にとって山はなじみ深いものです。ひだびとは山とどのようにかかわってきたのか?
特に登山を中心にして取り上げます。
展示内容:「縄文時代の遺跡からは長野県や新潟県でしか採れない石が出土していますし、
縄文土器にも信州系、富山系などと言われているものがありまして、各方面との交流がありました。
当時山を越えていた人がいたということです。
また、山で暮らしを立てている人も多くいました。木を伐る人、木製品を作る人、猟師、漁師などです。
ところがこれらの人には山頂を目指す、という発想はなかったのではないでしょうか?
山頂を目指す、という行為が始まるのは一つは宗教登山であり、もう一つが西洋アルピニズムの影響で
始まる近代登山であると。こういったことに関わる資料を展示します。」
な「今年は、飛騨山岳会が、創立100周年ということですが、そちらの展示もあるのですか?」
う「はい。今回は特に飛騨山岳会が100周年を迎えるということで、共催という形で開催されます。
昨年チベットのモンタ・カンリ峰というまだ誰も登ったことのない山に登ったことは記憶に新しいかと
思いますが、その時の装備なども展示したいと思います。
また、飛騨山岳会の歴史は近代登山の歴史でもあります。これを調べていくと飛騨の、いえ、
日本の近代登山の歴史も分かるのではないかと思います。」
さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。曲は私が選曲しましたが、山に関することということで、
「高山市の歌」をお届けします。冒頭に「しろがねの、雪のアルプス真向かいに~」という歌詞で始まる
んですよ。では、お聞きください。
今日の飛騨歴史再発見は、今度 ミュージアム飛騨で行われる「山の展示会」についてお話しています。
本日は、ゲストに 牛丸岳彦さんをお迎えしてお話を伺っています。
な「さて、牛丸さん、後半では展示についてもう少し細かくお話いただきたいと思いますが、昨年の飛騨の
匠展では、4つのコーナーごとにテーマを決めた展示を行いましたが、今度の展示では、そのような形を
とっているんですか?」
う「今回は小さなコーナーもありますが、大きくは三つに分けています。一つは生活の山、もう一つは宗教
登山、最後に近代登山です。」
な「では、それぞれについて、お話いただきましょう。(各コーナーについての紹介)」
う「一つ目の生活の山、というのは先ほども少しお話しましたが、縄文人とか、木を伐る人などの展示です。
面白いのは、木を伐る前に、山を調べに何日も山にこもるのです。山翅(やまかき)と江戸時代の人は言って
います。また、当時の山小屋は入ると真中に土間があって、その両側に板の間があって居住スペースに
なっているのですが、この形は初期の山小屋に引き継がれていきます。
猟師さんほど山に詳しい人はいません。明治時代に山に登る人はほとんど猟師に案内を頼んでいます。
有名なところでは、上高地にウェストン碑がありますが、このウェストンは上高地の嘉門次という猟師や、
また奥飛騨温泉郷の中尾の猟師などに案内を頼んでいます。
二つ目の宗教登山ですが、山というのは信仰の対象になるものです。私も残雪、新緑、紅葉など、いろんな
山を見ると心が落ち着くような気がします。8年高山を離れ、帰ってきた時に、冬頭町の山から飛騨山脈をみて、
「あ~、この町で生きていこう」という気になりました。
昔福田夕咲という詩人がいたのですが、この人は「山岳は人格を浄化す」なんてことを言ってますね。
話がそれました。まぁ、このように山に対する信仰心は多くの人が抱くものだと思います。縄文人も同じような
感情は持ったと思います。宗教登山が実際に出てくるのは白山や御嶽山などで、白山などは平安時代に
遡ります。実際に山頂の近くからお祭りなどに使ったとみられる土器がたくさん出ています。
新田次郎の小説で『槍ヶ岳開山 播隆』がありますが、この播隆が最初に開山、正確には再興ですが、
したのが笠ヶ岳です。
笠ヶ岳は円空や道泉和尚などが早くに登ったという伝承がありますが、確実なところでは南裔というお坊さん
が山頂に鉄札を置いてきているのが最初です。
その他面白い人がいまして、無尽秀全という行者なんですが、上牧太郎之助や板殿正太郎などの、後に
登山道の整備に尽力する人たちが、この無尽秀全という行者の影響を受けているのです。」
な「 今回は、山岳会の方々とも協力体制を取っているんですか?」
う「飛騨山岳会の歴史は近代登山の歴史、といっても過言ではないと思います。百年の歴史を限られた
時間で話すのは難しいですし、私が適任とも思えませんが、簡単にまとめてみると。100年前、学校の
教員達が山の自然を調査したり、体を鍛えたり、それを子供たちに伝えたり、というようなことを目的に
飛騨山岳会を設立します。これが山に多くの人が入るようになり、山の事が分かってくると、今度はそれを
皆に伝えよう、という活動をするようになります。
今の乗鞍青年の家あたりは昭和のはじめ頃に開発されて「飛騨乗鞍スキー場」というのがありました。
もちろんリフトなどはなく担いで登って滑ってくる、というものですが。飛騨山岳会は一時期五つの山小屋を
持って管理していました。名古屋や大阪の人もやってきて非常に賑わっていたそうです。
そうして、戦後、登山というものが一般に認知されてくると、飛騨山岳会は登山を専門にする団体に
変わってきます。笠ヶ岳や錫杖岳の岩壁のルートを開発したり、海外登山なども盛んに行っています。
それが今回のモンタ・カンリにもつながってくると思います。
あと、今回イベントとして対談「登山医学を考える」、講演会「山頂から宇宙を探る」シンポジウム
「笠ヶ岳を考える」「飛騨の山体験バスツアー」なども計画しています。
日曜日には誰かが鑑賞ガイドを行っていますのでこの日に来ていただけると面白い話が聞けると思います。」
な「それぞれの詳しい時間などは、市内各所に置いてありますパンフレットなどでご確認いただきたいと
思います。では最後に、もう一度、展示会の名前と、期間についてお話いただきたいと思います。」
う「展示会名:山とひだびと 雲上の頂に挑む
開催期間:7月19日から9月15日
入場料:大人の方500円です。高校生以下は無料!です。」
な「ということでございますので、皆さんもぜひこの機会にごらんいただければと思います。」
さて、来週は、第3週目ですので、古川のお話。先日6月1日に古川でツアーがありまして、
小島城と小鷹利城に登ってきました。そのレポートをお話したいと思います。
それでは、最後になりました、今日は牛丸岳彦さんをお迎えしてお届けしました。最後に牛丸さん、
曲のリクエストをいただけますか?
う「村下孝蔵で 初恋」をお願いします。」
な「はい、それでは、牛丸さんからのリクエストでお別れです。曲は「初恋」
牛丸さん、今日はどうもありがとうございました。」
う「ありがとうございました」
な「ではまた、来週、お会いしましょう!」
徳積善太
2008年07月07日
7月7日放送分「高山のまちづくりパート2」
<7月7日放送分>みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、7月に入りました。今週は、飛騨にとって歴史的なことがありましたね。7/5に36年の歳月を
かけて作られた東海北陸道が全通しました。関係者の皆さんの努力には敬意を表します。
全通おめでとうございました。
おかげさまで、この放送もリスナーの方が増えてきたようで、最近は、励ましのお言葉をいただく
ようになりました。先月は、法人会高山支部の広報紙にも取り上げていただき、写真入りで掲載
いただきました。ありがとうございます。
今後ともなるべく、わかりやすい放送を心がけてまいりますので、どうぞ応援してください。
この放送のバックナンバーのほうは、再三お伝えしておりますが、ひだっちブログのほうにも掲載
させていただいていますので、一度ご覧下さい。番組に対する要望、調べてほしい事などもござい
ましたら、なるべくお調べしてお話したいと思いますので、どうぞ、ヒッツFMのほうへ、ファクスなり
メールなりでお問い合わせ下さい。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、高山のまちづくりパート2と題して、お話したいと
思います。
先月、お話した内容は、高山の町が、それまであった川の流れを変えて作られたこと。そして、
金森長近という武将が、浄土真宗をたくみに自分の仲間として取り入れて、街づくりを行ったと
いうお話をしました。
今週の放送は、その続きのお話をしたいと思います。
高山のまちというのは、城山のところにお城の天守閣と、二の丸と三の丸が作られています。
そして、その真下に城下町である一之町、二之町、三之町、片原町が配置され、それを取り囲む
ように宮川と江名子川の流れが、お堀の代わりとして作られました。
そこまでは、先週お話した事ですが、では、武家屋敷はどこにあったのか。
それは、高山の古地図を見るとよくわかります。
金森の家来の配置は、まず、城に一番近いところに城代家老を配置しています。
現在の文化伝承館のあるあたりには、家老の金森将監(かなもりしょうげん)、そして海老坂を上った
あたりには、平岡という家老を配置しました。家来達は、空町、現在の堀端町、島川原町、春日町の
一帯に配置しました。馬の練習場として馬場があったところは、現在も馬場町と呼ばれています。
また、鉄砲町は、武具を作らせた職人町でした。
吹屋町は、天領時代になって作られた、お金を鋳造するところ。ふいごを動かす吹屋からつけられた
職人がいたところだそうです。
また、中橋を挟んで対岸には、金森の向屋敷をつくり、その手前の西町、川原町のあたりには、
扶持人屋敷が広がっていました。向屋敷の裏あたりは、現在は町屋が広がっていますが、こうなった
のは、高山駅ができてからで、それまでは、沼地が広がっていた場所でした。
名田町というのがありますが、名田(みょうでん)と書いて名田と読ませたのは、ずっと後のことで、
それまではさんずいに難、難しいと書いて灘といい、非常に開墾するには難しいような沼地が広がって
いたようです。
宮川とすのり川が氾濫を繰り返して広がっていた土地で、高山城にとってみれば、西からの敵を
防禦する自然の要害だったという事です。
さて、北側はどうかというと、金森左京という金森家ゆかりの人の屋敷を江名子川の対岸に作り、
北からの敵に対して防禦することを考えました。今でも、左京町という町名がありますが、これは、
金森左京にちなんで付けられた名前だそうです。
高山の町は、風水を非常に考えた作りになっていて、お城の裏鬼門の方角=南西には、日枝神社を
勧請しました。もともと、日枝神社は、片野の山の上にあったものを、室町頃になって、地域の氏神様
として移転したものでした。
現在の片野町の益田歯科医院さんの北側に公園がありますが、その場所は、もともと日枝神社が
あったところと伝えられています。今でも、高山祭の行列が必ずその場所に立ち寄り、神事が行われる
慣わしになっています。
一方、鬼門にあたる北東には、桜山八幡宮を勧請しています。このお社は、もともと三福寺にあったもの
らしいのですが、金森時代にはすでに現在地にあったようです。
さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。曲は今週は七夕がありますので星にちなんだ曲、
「山口百恵で 乙女座宮」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、高山の街づくり パート2についてお話しています。
現在の高山の町の発展があるのは、こうして、風水を上手く取り入れた土地柄であるということは、
まんざら否定できない事だと思います。風水の話をすれば、上二之町にある二木酒造さんの玄関の
左側のところに、屋敷の図面がありますが、そこには、屋敷の中央から放射状の線が描かれています。
これは、風水を考えて作られた屋敷の設計図です。皆さんも一度、機会がございましたらご覧下さい。

さて、話をまちづくりの話に戻します。 高山の町は、京都に似せて造ったから、碁盤の目になって
いるとか、言われていますが、もともと城下街づくりの基本は、攻めてこられたときに、すぐに天守に
たどり着けないように、迷路のような構造になっている通りを造るのが基本でした。
したがって、直線の道路を作ると、向こうまで見渡せてしまいますから、あまりそういう街づくりをする
事はありませんでした。高山の現在の町を地図などで見ると、上一之町のあたりは、海老坂の下で
大きく右方向、つまり西のほうへ振られています。上町の上の方は、斜めになっていますから、決して
碁盤の目になっているというわけではありませんね。
また、桐谷先生のお話では、上一之町のことを昔は「大町(おおまち)」といいました。これは、江戸時代
には参勤交代のときに、隊列を組みなおす為の通りであったとの事です。そのためか、城坂の上のところ
から、北の方を見ると、上一之町の下から下一之町に掛けて、まっすぐに見ることができます。
皆さんも一度、確認してみてください。
もうひとつ、京都に似せて作ったといわれるのに、北山と東山があります。京都ほどはっきり北と東に
別れているわけではありませんが、東山には雲龍寺、久昌寺、大雄寺、洞雲院、素玄寺、天照寺、法華寺、
善応寺、宗猷寺というたくさんの寺院があります。この中で、大雄寺が私のところの手次の寺ですので、
先日、和尚様といろいろお話していたときに、すごい伝承があったことをお聞きしました。
確証は得られていませんが、要約するとこんなお話でした。
「もともと、東山には、雲龍寺さんの御坊がもともとあって、その門前には、塔頭として久昌寺などのお寺が
あった。その南側に、大雄寺が国府の上広瀬から移転してきたのですが、どうして移転したかというと、
金森の城下町を作った家来の人が京都の人で、浄土宗の信者だった。あるとき、立派な町ができたので、
褒美に何かと求められたときに、
『私は京都の法然様の信者です。調べたところ、飛騨には浄土宗のお寺が、国府の上広瀬に一つしかない。
願わくば、そのお寺を高山の城下に移転する事をお願いします。』といわれたそうです。
早速、金森公は、大雄寺に寺地を寄進し、その寄進された一帯が、現在の大雄寺の場所から、宗猷寺に
掛けての東山一帯だった。そのとき、大雄寺の守り神として愛宕神社を対岸の山の上に勧請し、もともと
あった般若院というお寺を改造して、別当 天照寺を建立しました。」というお話でした。
大野郡史などを見るとその後、法華寺を西之一色から。宗猷寺を新安国寺として国府から誘致し、素玄寺を
金森の菩提寺として建立したようです。善応寺は、もともと松倉城下にあって、素玄寺の塔頭として、現在の
素玄寺駐車場のところにあったものを現在地に移転されたものですから、現在の東山の寺の中では一番最後に
作られたようです。
また、洞雲院は、大雄寺の塔頭として、林香院、正定院、栄寿庵などともに、のちに作られた寺院だそうです。
この4つの塔頭のうち、林香院、栄寿庵は現存しませんが、正定院は、のちに天満町に移転されました。
現在の善光寺です。
東山のお寺も、長い年月の中で姿かたちを変えて現在の状態になったんですね。
もっと後の話、戦後のお話ですが、この愛宕神社へ、大雄寺の火伏の神として祀られていた神社を勧請して
合祀した事がありました。江戸時代の数回の大火で、近所のお寺は焼けたのに、大雄寺の本堂は焼けなかった。
それほど、霊験あらたかな神社だったそうですが、この神社を合祀した事で、歴代ご住職が随分心配をされて
いたそうです。そうしたら、大雄寺が昭和42年に火災に遭って本堂とご本尊を焼失してしまった。
そのため、この火伏の神様だけをご分霊して現在の本堂の裏に勧請した、それが、大雄寺の稲荷様だという
ことでした。もっとお話したいのですが、このお話の続きはまたの機会にお話したいと思います。
さて、今日もお時間となりました。
来週は、第2週目ですので、来週から岐阜県ミュージアムで開催される山の展示に関してのお話をしたいと
思います。それでは、今日はこの曲でお別れです。曲は「谷村伸司で すばる」 ではまた来週!
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、7月に入りました。今週は、飛騨にとって歴史的なことがありましたね。7/5に36年の歳月を
かけて作られた東海北陸道が全通しました。関係者の皆さんの努力には敬意を表します。
全通おめでとうございました。
おかげさまで、この放送もリスナーの方が増えてきたようで、最近は、励ましのお言葉をいただく
ようになりました。先月は、法人会高山支部の広報紙にも取り上げていただき、写真入りで掲載
いただきました。ありがとうございます。
今後ともなるべく、わかりやすい放送を心がけてまいりますので、どうぞ応援してください。
この放送のバックナンバーのほうは、再三お伝えしておりますが、ひだっちブログのほうにも掲載
させていただいていますので、一度ご覧下さい。番組に対する要望、調べてほしい事などもござい
ましたら、なるべくお調べしてお話したいと思いますので、どうぞ、ヒッツFMのほうへ、ファクスなり
メールなりでお問い合わせ下さい。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、高山のまちづくりパート2と題して、お話したいと
思います。
先月、お話した内容は、高山の町が、それまであった川の流れを変えて作られたこと。そして、
金森長近という武将が、浄土真宗をたくみに自分の仲間として取り入れて、街づくりを行ったと
いうお話をしました。
今週の放送は、その続きのお話をしたいと思います。
高山のまちというのは、城山のところにお城の天守閣と、二の丸と三の丸が作られています。
そして、その真下に城下町である一之町、二之町、三之町、片原町が配置され、それを取り囲む
ように宮川と江名子川の流れが、お堀の代わりとして作られました。
そこまでは、先週お話した事ですが、では、武家屋敷はどこにあったのか。
それは、高山の古地図を見るとよくわかります。
金森の家来の配置は、まず、城に一番近いところに城代家老を配置しています。
現在の文化伝承館のあるあたりには、家老の金森将監(かなもりしょうげん)、そして海老坂を上った
あたりには、平岡という家老を配置しました。家来達は、空町、現在の堀端町、島川原町、春日町の
一帯に配置しました。馬の練習場として馬場があったところは、現在も馬場町と呼ばれています。
また、鉄砲町は、武具を作らせた職人町でした。
吹屋町は、天領時代になって作られた、お金を鋳造するところ。ふいごを動かす吹屋からつけられた
職人がいたところだそうです。
また、中橋を挟んで対岸には、金森の向屋敷をつくり、その手前の西町、川原町のあたりには、
扶持人屋敷が広がっていました。向屋敷の裏あたりは、現在は町屋が広がっていますが、こうなった
のは、高山駅ができてからで、それまでは、沼地が広がっていた場所でした。
名田町というのがありますが、名田(みょうでん)と書いて名田と読ませたのは、ずっと後のことで、
それまではさんずいに難、難しいと書いて灘といい、非常に開墾するには難しいような沼地が広がって
いたようです。
宮川とすのり川が氾濫を繰り返して広がっていた土地で、高山城にとってみれば、西からの敵を
防禦する自然の要害だったという事です。
さて、北側はどうかというと、金森左京という金森家ゆかりの人の屋敷を江名子川の対岸に作り、
北からの敵に対して防禦することを考えました。今でも、左京町という町名がありますが、これは、
金森左京にちなんで付けられた名前だそうです。
高山の町は、風水を非常に考えた作りになっていて、お城の裏鬼門の方角=南西には、日枝神社を
勧請しました。もともと、日枝神社は、片野の山の上にあったものを、室町頃になって、地域の氏神様
として移転したものでした。
現在の片野町の益田歯科医院さんの北側に公園がありますが、その場所は、もともと日枝神社が
あったところと伝えられています。今でも、高山祭の行列が必ずその場所に立ち寄り、神事が行われる
慣わしになっています。
一方、鬼門にあたる北東には、桜山八幡宮を勧請しています。このお社は、もともと三福寺にあったもの
らしいのですが、金森時代にはすでに現在地にあったようです。
さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。曲は今週は七夕がありますので星にちなんだ曲、
「山口百恵で 乙女座宮」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、高山の街づくり パート2についてお話しています。
現在の高山の町の発展があるのは、こうして、風水を上手く取り入れた土地柄であるということは、
まんざら否定できない事だと思います。風水の話をすれば、上二之町にある二木酒造さんの玄関の
左側のところに、屋敷の図面がありますが、そこには、屋敷の中央から放射状の線が描かれています。
これは、風水を考えて作られた屋敷の設計図です。皆さんも一度、機会がございましたらご覧下さい。
さて、話をまちづくりの話に戻します。 高山の町は、京都に似せて造ったから、碁盤の目になって
いるとか、言われていますが、もともと城下街づくりの基本は、攻めてこられたときに、すぐに天守に
たどり着けないように、迷路のような構造になっている通りを造るのが基本でした。
したがって、直線の道路を作ると、向こうまで見渡せてしまいますから、あまりそういう街づくりをする
事はありませんでした。高山の現在の町を地図などで見ると、上一之町のあたりは、海老坂の下で
大きく右方向、つまり西のほうへ振られています。上町の上の方は、斜めになっていますから、決して
碁盤の目になっているというわけではありませんね。
また、桐谷先生のお話では、上一之町のことを昔は「大町(おおまち)」といいました。これは、江戸時代
には参勤交代のときに、隊列を組みなおす為の通りであったとの事です。そのためか、城坂の上のところ
から、北の方を見ると、上一之町の下から下一之町に掛けて、まっすぐに見ることができます。
皆さんも一度、確認してみてください。
もうひとつ、京都に似せて作ったといわれるのに、北山と東山があります。京都ほどはっきり北と東に
別れているわけではありませんが、東山には雲龍寺、久昌寺、大雄寺、洞雲院、素玄寺、天照寺、法華寺、
善応寺、宗猷寺というたくさんの寺院があります。この中で、大雄寺が私のところの手次の寺ですので、
先日、和尚様といろいろお話していたときに、すごい伝承があったことをお聞きしました。
確証は得られていませんが、要約するとこんなお話でした。
「もともと、東山には、雲龍寺さんの御坊がもともとあって、その門前には、塔頭として久昌寺などのお寺が
あった。その南側に、大雄寺が国府の上広瀬から移転してきたのですが、どうして移転したかというと、
金森の城下町を作った家来の人が京都の人で、浄土宗の信者だった。あるとき、立派な町ができたので、
褒美に何かと求められたときに、
『私は京都の法然様の信者です。調べたところ、飛騨には浄土宗のお寺が、国府の上広瀬に一つしかない。
願わくば、そのお寺を高山の城下に移転する事をお願いします。』といわれたそうです。
早速、金森公は、大雄寺に寺地を寄進し、その寄進された一帯が、現在の大雄寺の場所から、宗猷寺に
掛けての東山一帯だった。そのとき、大雄寺の守り神として愛宕神社を対岸の山の上に勧請し、もともと
あった般若院というお寺を改造して、別当 天照寺を建立しました。」というお話でした。
大野郡史などを見るとその後、法華寺を西之一色から。宗猷寺を新安国寺として国府から誘致し、素玄寺を
金森の菩提寺として建立したようです。善応寺は、もともと松倉城下にあって、素玄寺の塔頭として、現在の
素玄寺駐車場のところにあったものを現在地に移転されたものですから、現在の東山の寺の中では一番最後に
作られたようです。
また、洞雲院は、大雄寺の塔頭として、林香院、正定院、栄寿庵などともに、のちに作られた寺院だそうです。
この4つの塔頭のうち、林香院、栄寿庵は現存しませんが、正定院は、のちに天満町に移転されました。
現在の善光寺です。
東山のお寺も、長い年月の中で姿かたちを変えて現在の状態になったんですね。
もっと後の話、戦後のお話ですが、この愛宕神社へ、大雄寺の火伏の神として祀られていた神社を勧請して
合祀した事がありました。江戸時代の数回の大火で、近所のお寺は焼けたのに、大雄寺の本堂は焼けなかった。
それほど、霊験あらたかな神社だったそうですが、この神社を合祀した事で、歴代ご住職が随分心配をされて
いたそうです。そうしたら、大雄寺が昭和42年に火災に遭って本堂とご本尊を焼失してしまった。
そのため、この火伏の神様だけをご分霊して現在の本堂の裏に勧請した、それが、大雄寺の稲荷様だという
ことでした。もっとお話したいのですが、このお話の続きはまたの機会にお話したいと思います。
さて、今日もお時間となりました。
来週は、第2週目ですので、来週から岐阜県ミュージアムで開催される山の展示に関してのお話をしたいと
思います。それでは、今日はこの曲でお別れです。曲は「谷村伸司で すばる」 ではまた来週!
徳積善太
2008年06月30日
6月30日放送分_運材について2
(6月30日)みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、スポーツの祭典がニュースになる季節になりましたね。すでに皆さんの周りでも、子供が
部活動で来週大会があるとか、予選があるとかっていいながら、あちこち飛び回っておられる方も
あろうかと思います。どうぞ、道中の交通安全には充分気をつけてください。
今日の「飛騨歴史再発見」は、先週、お話が出来なかった木材の運材方法について、今日は
時間をかけてたっぷりお話したいと思います。
さて、木の運び出し方ですが、江戸時代の後期に、富田礼彦と言う人が「運材図会」という絵図を
残しています。
これは同じ地役人だった松村梅齋という人に絵を画いてもらって、一連の運材方法を絵画で残されて
います。最近になって、昨年なくなった大野先生が監修されて本として発行されていますので、
大変有名になりましたから、ご覧になった方も多いのではと思います。
しかし、この運材方法は、もっと昔、奈良時代以前より行われていたようですので、それ以前の
ことについての文献は乏しく、正確なところはわかっていないというのが現状です。
奈良時代から江戸時代後期まででも、1000年くらいの歴史がありますから、人々は、いろいろと
工夫をして、運材図会に見られるような形での運材方法を編み出してきたものと思います。
今日は、その運材図会に見られる方法、今から200年前の運材方法について、その中から、
ケヤキの伐りだしについてのお話したいと思います。
まず、木の伐木に関わる人たちを、今では木こりといいますが、木遍に山と書いて「杣(そま)」
とも呼びました。この杣の人たちは、山に入って、下枝を切ったり、間引きをしたりして、木が
ちゃんと生長するように山の管理も行っていました。
彼らは、ある程度育った木を伐りだすのに、まず、山の神様への感謝の念を込めてお祈りを
捧げます。切り出そうとする木の根元のところに、お供えをして、山の恵みに対しての感謝と
仕事の安全を祈願してお祈りをします。
かつては人生50年といわれましたが、最近は日本人も86歳というのが平均余命です。
しかし、木はそれよりももっと長生きです。時には樹齢300年、400年といった木を伐りだす事
だってあります。そうなると、その木を育ててくれた自然への感謝、その木が植えたもので
あれば、木を植えて育ててくれたご先祖への感謝、そういう気持ちが自然と出てこないはずが
ありません。そういったものが山の神信仰となって、杣の人たちに受継がれていました。

お祈りが済むと、先ず最初に、木の株のところに切り込みを入れます。大きな木には斧を
15cm間隔で、周囲ぐるりと入れます。そうしてできたくぼみに、小さなたきぎを詰め、
そこに火をかけます。こうやって火を使うことがケヤキの伐りだしの特徴で、ケヤキは、
高山の屋台などにもあるように、木目が大きくて、一枚板にすると非常にきれいな模様を
見ることが出来ます。しかし反面、木目が大きいという事は、水分をたくさん含んでいる為に、
一度、根元のところで焼いてあげないと、下から上まで乾燥したときに割れが入りやすい
そうです。そのため、杣の人たちは、それを経験でよく知っていて、木の根元を焼く事で、
水分の上昇を抑え、割れが入りにくいように火をかけます。
この火掛の作業は、ケヤキ特有のものですが、現在でも、久々野町と萩原町の境目にある
あららぎ湖から萩原町山之口にかけて行く途中に、このケヤキの火掛の跡を見ることが出来
ます。私も見たのは5年ほど前ですので、もうなくなったかもしれませんが、私が行ったとき
には、たくさんの木株が、真っ黒になって残っていました。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。
曲はおじいさん達には懐かしい曲、欧陽緋緋(オーヤンフィーフィー)で「雨の御堂筋」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、江戸時代の運材方法についてお話しています。
さて、ある程度焼きがはいったところで、今度は本格的に、切り倒す作業に入ります。
杣の人たちが、木に斧で切り込みを入れます。そのときには、山の傾斜、他の木の生え具合
などを見て、どちらの方向に倒せば、一番木が傷みにくいか。また、どの場所なら作業がしや
すいか、などを考えて木を切り倒します。

倒した木は、そのままだと重いので、決められた長さにその場で加工しました。
木を伐るのは、木の成長が止る冬場に行われました。これは、木の状態が冬場の方がいいこと
ばかりでなく、木の運送がしやすいためだったといわれています。切り出した木を、木橇(そり)に
積み、雪の上を曳きました。
人間が一人でひく場合もありますが、大量になると馬に曳かせたようです。
さて、昔は木を運び出すのに、自然の川を使いました。木を伐って丁度いい大きさに、現地で
加工して川流しを行いました。しかし、上流の方は、川といっても小川です。水がそんなに流れて
いるわけではありません。大量の木を一気に流す為には、水が必要です。
そこで、木こりの人たちは堰を造って水をため、水と木を一気に下流へと流しました。
雪どけ時の水は大変冷たいですが水量が多いので木を流すには絶好の条件でした。

ある程度、木ができると、その小川をせき止めた場所まで、運びました。そこでは、2次加工が
されました。裏木曽や飛騨では流すのにちゃんと決められた形があって、大きな木は、皮をはぎ、
中心の芯を取り除いて放射型に伐ります。ちょうど、みかんの皮をむいたときに中の房が現れま
すね。あのような状態にして木の形を整えました。
江戸時代後期になると、この形ではなくて、木を30cm角、15cm角にして、先をとがらせた
ようです。これは、川に流したときに、引っかかりにくくしたことと、水揚げしてから加工をしやすく
したためだそうです。
さあ、水も木も集ると今度は堰を一気に切って、大量の水と大量の材木を一緒に流します。
堰は、いろんな作り方があったようですが、一度壊してしまうと使えなくなるので、大抵は間伐材
(かんばつざい)と石、土、土嚢をうまく組み合わせて、丁度今のダムのような形を作り、真中の
水門を空けて水と木を流す方法や、中央の石の部分を壊して流す方法があったようです。
この方法については、庄川町にある「水の博物館」にて常設展示で見ることが出来ます。
映像と模型で紹介されていますが、堰を切って水を流すときには、実際に大量の水が目の前に
流れてきて、たいへんな迫力がありました。
さて、そうやって、小さな小川から、中流域へと木が流されていきます。
ところで、皆さんご存知のように、飛騨には、中央部分に分水嶺があります。この分水嶺を境に
して、南に流れているのが、長良川と益田川―飛騨川―木曽川の2つのルート。
逆に北方向へ流れる川は、宮川と川上川や高原川から神通川に通るルートと、庄川という2つの
ルートがありました。
この分水嶺を境にする事で、飛騨は、南方山(みなみかたやま)と北方山(きたかたやま)に分け
られていました。
江戸や京都・大坂方面へ材木を出す場合、南方山は、北方山に比べて太平洋に注ぐ分、近い
ですから、北に持っていくより早く大都市へ運ぶ事ができました。
来月は、この点についてお話しする事にしましょう。
さて、今日も時間となりました。
来週は、先月のお話の続き、「高山のまちづくりパート2」をお届けしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は、私の大好きな曲、松田聖子で「瞳はダイヤモンド」
ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、スポーツの祭典がニュースになる季節になりましたね。すでに皆さんの周りでも、子供が
部活動で来週大会があるとか、予選があるとかっていいながら、あちこち飛び回っておられる方も
あろうかと思います。どうぞ、道中の交通安全には充分気をつけてください。
今日の「飛騨歴史再発見」は、先週、お話が出来なかった木材の運材方法について、今日は
時間をかけてたっぷりお話したいと思います。
さて、木の運び出し方ですが、江戸時代の後期に、富田礼彦と言う人が「運材図会」という絵図を
残しています。
これは同じ地役人だった松村梅齋という人に絵を画いてもらって、一連の運材方法を絵画で残されて
います。最近になって、昨年なくなった大野先生が監修されて本として発行されていますので、
大変有名になりましたから、ご覧になった方も多いのではと思います。
しかし、この運材方法は、もっと昔、奈良時代以前より行われていたようですので、それ以前の
ことについての文献は乏しく、正確なところはわかっていないというのが現状です。
奈良時代から江戸時代後期まででも、1000年くらいの歴史がありますから、人々は、いろいろと
工夫をして、運材図会に見られるような形での運材方法を編み出してきたものと思います。
今日は、その運材図会に見られる方法、今から200年前の運材方法について、その中から、
ケヤキの伐りだしについてのお話したいと思います。
まず、木の伐木に関わる人たちを、今では木こりといいますが、木遍に山と書いて「杣(そま)」
とも呼びました。この杣の人たちは、山に入って、下枝を切ったり、間引きをしたりして、木が
ちゃんと生長するように山の管理も行っていました。
彼らは、ある程度育った木を伐りだすのに、まず、山の神様への感謝の念を込めてお祈りを
捧げます。切り出そうとする木の根元のところに、お供えをして、山の恵みに対しての感謝と
仕事の安全を祈願してお祈りをします。
かつては人生50年といわれましたが、最近は日本人も86歳というのが平均余命です。
しかし、木はそれよりももっと長生きです。時には樹齢300年、400年といった木を伐りだす事
だってあります。そうなると、その木を育ててくれた自然への感謝、その木が植えたもので
あれば、木を植えて育ててくれたご先祖への感謝、そういう気持ちが自然と出てこないはずが
ありません。そういったものが山の神信仰となって、杣の人たちに受継がれていました。

お祈りが済むと、先ず最初に、木の株のところに切り込みを入れます。大きな木には斧を
15cm間隔で、周囲ぐるりと入れます。そうしてできたくぼみに、小さなたきぎを詰め、
そこに火をかけます。こうやって火を使うことがケヤキの伐りだしの特徴で、ケヤキは、
高山の屋台などにもあるように、木目が大きくて、一枚板にすると非常にきれいな模様を
見ることが出来ます。しかし反面、木目が大きいという事は、水分をたくさん含んでいる為に、
一度、根元のところで焼いてあげないと、下から上まで乾燥したときに割れが入りやすい
そうです。そのため、杣の人たちは、それを経験でよく知っていて、木の根元を焼く事で、
水分の上昇を抑え、割れが入りにくいように火をかけます。
この火掛の作業は、ケヤキ特有のものですが、現在でも、久々野町と萩原町の境目にある
あららぎ湖から萩原町山之口にかけて行く途中に、このケヤキの火掛の跡を見ることが出来
ます。私も見たのは5年ほど前ですので、もうなくなったかもしれませんが、私が行ったとき
には、たくさんの木株が、真っ黒になって残っていました。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。
曲はおじいさん達には懐かしい曲、欧陽緋緋(オーヤンフィーフィー)で「雨の御堂筋」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、江戸時代の運材方法についてお話しています。
さて、ある程度焼きがはいったところで、今度は本格的に、切り倒す作業に入ります。
杣の人たちが、木に斧で切り込みを入れます。そのときには、山の傾斜、他の木の生え具合
などを見て、どちらの方向に倒せば、一番木が傷みにくいか。また、どの場所なら作業がしや
すいか、などを考えて木を切り倒します。

倒した木は、そのままだと重いので、決められた長さにその場で加工しました。
木を伐るのは、木の成長が止る冬場に行われました。これは、木の状態が冬場の方がいいこと
ばかりでなく、木の運送がしやすいためだったといわれています。切り出した木を、木橇(そり)に
積み、雪の上を曳きました。
人間が一人でひく場合もありますが、大量になると馬に曳かせたようです。
さて、昔は木を運び出すのに、自然の川を使いました。木を伐って丁度いい大きさに、現地で
加工して川流しを行いました。しかし、上流の方は、川といっても小川です。水がそんなに流れて
いるわけではありません。大量の木を一気に流す為には、水が必要です。
そこで、木こりの人たちは堰を造って水をため、水と木を一気に下流へと流しました。
雪どけ時の水は大変冷たいですが水量が多いので木を流すには絶好の条件でした。

ある程度、木ができると、その小川をせき止めた場所まで、運びました。そこでは、2次加工が
されました。裏木曽や飛騨では流すのにちゃんと決められた形があって、大きな木は、皮をはぎ、
中心の芯を取り除いて放射型に伐ります。ちょうど、みかんの皮をむいたときに中の房が現れま
すね。あのような状態にして木の形を整えました。
江戸時代後期になると、この形ではなくて、木を30cm角、15cm角にして、先をとがらせた
ようです。これは、川に流したときに、引っかかりにくくしたことと、水揚げしてから加工をしやすく
したためだそうです。
さあ、水も木も集ると今度は堰を一気に切って、大量の水と大量の材木を一緒に流します。
堰は、いろんな作り方があったようですが、一度壊してしまうと使えなくなるので、大抵は間伐材
(かんばつざい)と石、土、土嚢をうまく組み合わせて、丁度今のダムのような形を作り、真中の
水門を空けて水と木を流す方法や、中央の石の部分を壊して流す方法があったようです。
この方法については、庄川町にある「水の博物館」にて常設展示で見ることが出来ます。
映像と模型で紹介されていますが、堰を切って水を流すときには、実際に大量の水が目の前に
流れてきて、たいへんな迫力がありました。
さて、そうやって、小さな小川から、中流域へと木が流されていきます。
ところで、皆さんご存知のように、飛騨には、中央部分に分水嶺があります。この分水嶺を境に
して、南に流れているのが、長良川と益田川―飛騨川―木曽川の2つのルート。
逆に北方向へ流れる川は、宮川と川上川や高原川から神通川に通るルートと、庄川という2つの
ルートがありました。
この分水嶺を境にする事で、飛騨は、南方山(みなみかたやま)と北方山(きたかたやま)に分け
られていました。
江戸や京都・大坂方面へ材木を出す場合、南方山は、北方山に比べて太平洋に注ぐ分、近い
ですから、北に持っていくより早く大都市へ運ぶ事ができました。
来月は、この点についてお話しする事にしましょう。
さて、今日も時間となりました。
来週は、先月のお話の続き、「高山のまちづくりパート2」をお届けしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は、私の大好きな曲、松田聖子で「瞳はダイヤモンド」
ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太
2008年06月23日
6月23日放送分_運材について1
(6月23日)みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、サッカーのワールドカップが始りました。それが終ると北京オリンピックです。これから夏場に
かけて、甲子園ですとか、スポーツの祭典がニュースになる季節になりましたね。すでに皆さんの
周りでも、子供が部活動で大会があるとか、予選があるとかっていいながら、あちこち飛び回って
おられる方もあろうかと思います。どうぞ、道中の交通安全には充分気をつけてください。
また、お酒を飲む機会も増えると思いますが、どうぞ、酒気帯び運転、飲酒運転はくれぐれもなさら
ないようにお願い申上げます。
今年に入って、隣の大陸では、5月の始めにミャンマーでのサイクロン被害、四川大地震での
大地震被害など、自然災害が続いています。お亡くなりになった方には、改めて御冥福をお祈り
したいと思います。
さいわい、日本で自然災害がないのがありがたいですが、備えあれば憂い無し。もし、地震に
あったら。台風の被害にあったらどうするか。そういうことを考えて行動することは、必要です。
ちょっとここでお知らせですが、先日、昨年行いました飛騨の匠展のサブ事業、市民勉強会の
記録小冊子が発表されました。私も、谷口与鹿の講演をさせていただきましたので、当日にお話
した内容と、それまで観光協会の広報紙に連載してまいりましたものを一つにまとめて掲載させて
いただきました。
谷口与鹿について、それまで老田先生が書かれたものや、岐阜県が発行した漫画しかありません
でしたが、伊丹に行ってからの与鹿のことや、老田先生がお調べにならなかったことを補稿して
書上げましたので、一度ご覧いただければと思います。
今年の勉強会は7月5日から飛騨センターで始ります。郷土館長の田中館長など3人の方が
シリーズでお話されるようですが、それに申し込みをするとこの本がおまけで着いてくるそうです。
この本について、講演会については、飛騨センターのほうへお問い合わせいただきたいと思います。
その小冊子の中に、現代の匠 高原建設の高原さんの記述があります。大工の組み手について
のことがものすごく詳しく載っています。高原さんがおっしゃっていましたが、「地震のときなどに、
こういった昔ながらの組み手を使っていれば、建物が地震でつぶれるという事はなかった。
ところが、現代の建築物は、組み手などは使わず、ほとんどが釘を打ち付けて止めている建物
だから、どうしても柱と柱の間にはすかいといって、斜めの木組みが必要になる。
しかし、それすら手を抜いて建物が建てられているから、どうしても地震などには弱く、家が倒れて
しまい、たくさんの犠牲者がでるんだ。」ということでした。
確かに、阪神大震災のときも、建物の柱と柱の間に、斜めの「はすかい」というものをつけた
建物や、アメリカで開発されたツーバイフォーの建築物は、倒壊をまぬがれました。
今回の中国の大地震では、建造物のなかでも、小中学校の建造物の倒壊が大きな話題と
なりましたが、大体の建物が柱と天井の枠を作っただけで、壁はレンガを一面に敷き詰めたもの
です。むこうでは、内装は、入居する人が自分でリフォームするという考え方が主流です。
私も以前、海外に住んでいましたときに知ったのですが、中国人の発想では、ブレイクアンドビルド
という考え方ですので、建物にはあまりお金をかけません。日本人のように同じ建物に何年も住む
のではなく、20年くらいすると壊して立て替える。ライフスタイルを新しい生活で行うといった考えが
主流なので、あまり建物にお金をかけず、内装にお金をかける人がほとんどです。
昨年の飛騨の匠展で紹介された、実物の組み手、展示会では仕口となっていましたが、展示され
ている木組みがまるでパズルのようで、なかなか外れませんでした。
そういう日本人の細かい技術があれば、あれだけの死者が出なかったのではと思います。
そういうところに匠の技術は生きているんですね。
あれ、地震の話で済んでしまいましたね。後半は予定のお話をしましょう。ちょっとここでブレイク。
曲は、「イルカで 雨の物語」をお届けします。
さて、今日のお話は、4週目という事で飛騨の匠についてのお話をする週ですが、今日は、江戸時代
の材木の運材方法について、お話したいと思いますが、とても一日でお話できるような内容では
ございませんので、シリーズでお話ししていきたいと思います。
飛騨というところは、金森氏が入国したのが天正十四年で、いまから400年前のことです。
もちろん、それ以前にも、両面宿難の時代があり、飛騨の匠が都へ行ったという話があり、
古代寺院が建造されたなどという話があるわけですが、いつの時代も、注目されていたものが
ありました。それは、「山」です。
山には、豊富な資源としての山林があります。また、掘れば鉱山としての鉱脈があり、金銀銅、
鉄、鉛が取れます。そういう資源が注目されてきたんですね。
なかでも、人間の生活の中で、衣食住は大切な三大要素ですが、日本人は昔からこの住を考えた
ときに、木の建物に住む習慣を持っていました。
そのため、人は、山から木を切り出し、その木を削って建物を作ったり、家具を作ったり、生活の
道具を作ったり、信仰の為の仏像を作ったりしてきました。本当に木は、日本人の生活を豊かに
してきた資源だったんですね。
おそらく、人口の密集地、いわゆる都といわれた地域では、最初は、近くの里山から伐り出した
に違いありません。しかし、木は育てるのに、何年もかかります。一旦伐ってしまうと、もう近くには
ありませんから、どんどん奥山に伐りに行くようになります。そうすると、山奥に行けば行くほど、
今度は持ってくる事を考えなくてはいけない。折角伐った木でも、その場所から都まで運べなければ、
その木はただの倒木になってしまいます。
そんなわけで、人々は自然の川を利用した「運材」ということを考え出したわけです。
また、人が密集すると、火事や地震という災害にあう、被害も多くなってきました。日本人は、
そういった歴史の中で、壊されては建て、また壊されては建て、材木がなくなれば、どこから
持ってくるか=だんだん奥山からということを繰り返してきたんです。
また、木を伐り過ぎてしまえば、今度は水が一気に流れてくるから、水害が起きる。そうして、
また建物が壊されて、また作る。今度は、水害に遭うと困るから、山に植林をして育てることを
考えるようになった。ですから、山と人間の生活というのは、切っても切り離せない、そういう
関係があるのです。
今で言う、「飛騨の匠」というのは、単に木を削って建物を建てる人のことを言うのではなくて、
こういった奥山からいかにして伐った木を運び出すか、そういった技術も含めて、木に関わる
技術を持った人のことを言ったのではないかと思います。
三重大学名誉教授で郷土館名誉館長の八賀晋先生は、昨年の学会での発表の中で、
「両面宿難はそま匠の棟梁だった」ということをおっしゃっていました。飛騨人のもともとの
ルーツは、飛騨の匠に代表されるような、山仕事を最も得意とする民族集団であった。
そういう技術を持っていた人たちの集まりだったから、奈良時代には、非常に重宝されて、
全国の国分寺・国分尼寺の建造に携わるようになり、有名になった。
その時には、これだけの建造物を作るのに、木はどのくらい必要か。これだけの材料を
どこから伐りだすか。どうやって持ってくるか。どのくらいの人足が必要か。
そういうことができる技術者集団が飛騨の匠だったということです。
さて、今日も時間となりました。このお話は次回から具体的にお話しすることにしましょう。
来週は、今日のお話の続きをお届けしたいと思います。今日はこの曲でお別れです。
曲は「ツイストで 燃えろいい女」
ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、サッカーのワールドカップが始りました。それが終ると北京オリンピックです。これから夏場に
かけて、甲子園ですとか、スポーツの祭典がニュースになる季節になりましたね。すでに皆さんの
周りでも、子供が部活動で大会があるとか、予選があるとかっていいながら、あちこち飛び回って
おられる方もあろうかと思います。どうぞ、道中の交通安全には充分気をつけてください。
また、お酒を飲む機会も増えると思いますが、どうぞ、酒気帯び運転、飲酒運転はくれぐれもなさら
ないようにお願い申上げます。
今年に入って、隣の大陸では、5月の始めにミャンマーでのサイクロン被害、四川大地震での
大地震被害など、自然災害が続いています。お亡くなりになった方には、改めて御冥福をお祈り
したいと思います。
さいわい、日本で自然災害がないのがありがたいですが、備えあれば憂い無し。もし、地震に
あったら。台風の被害にあったらどうするか。そういうことを考えて行動することは、必要です。
ちょっとここでお知らせですが、先日、昨年行いました飛騨の匠展のサブ事業、市民勉強会の
記録小冊子が発表されました。私も、谷口与鹿の講演をさせていただきましたので、当日にお話
した内容と、それまで観光協会の広報紙に連載してまいりましたものを一つにまとめて掲載させて
いただきました。
谷口与鹿について、それまで老田先生が書かれたものや、岐阜県が発行した漫画しかありません
でしたが、伊丹に行ってからの与鹿のことや、老田先生がお調べにならなかったことを補稿して
書上げましたので、一度ご覧いただければと思います。
今年の勉強会は7月5日から飛騨センターで始ります。郷土館長の田中館長など3人の方が
シリーズでお話されるようですが、それに申し込みをするとこの本がおまけで着いてくるそうです。
この本について、講演会については、飛騨センターのほうへお問い合わせいただきたいと思います。
その小冊子の中に、現代の匠 高原建設の高原さんの記述があります。大工の組み手について
のことがものすごく詳しく載っています。高原さんがおっしゃっていましたが、「地震のときなどに、
こういった昔ながらの組み手を使っていれば、建物が地震でつぶれるという事はなかった。
ところが、現代の建築物は、組み手などは使わず、ほとんどが釘を打ち付けて止めている建物
だから、どうしても柱と柱の間にはすかいといって、斜めの木組みが必要になる。
しかし、それすら手を抜いて建物が建てられているから、どうしても地震などには弱く、家が倒れて
しまい、たくさんの犠牲者がでるんだ。」ということでした。
確かに、阪神大震災のときも、建物の柱と柱の間に、斜めの「はすかい」というものをつけた
建物や、アメリカで開発されたツーバイフォーの建築物は、倒壊をまぬがれました。
今回の中国の大地震では、建造物のなかでも、小中学校の建造物の倒壊が大きな話題と
なりましたが、大体の建物が柱と天井の枠を作っただけで、壁はレンガを一面に敷き詰めたもの
です。むこうでは、内装は、入居する人が自分でリフォームするという考え方が主流です。
私も以前、海外に住んでいましたときに知ったのですが、中国人の発想では、ブレイクアンドビルド
という考え方ですので、建物にはあまりお金をかけません。日本人のように同じ建物に何年も住む
のではなく、20年くらいすると壊して立て替える。ライフスタイルを新しい生活で行うといった考えが
主流なので、あまり建物にお金をかけず、内装にお金をかける人がほとんどです。
昨年の飛騨の匠展で紹介された、実物の組み手、展示会では仕口となっていましたが、展示され
ている木組みがまるでパズルのようで、なかなか外れませんでした。
そういう日本人の細かい技術があれば、あれだけの死者が出なかったのではと思います。
そういうところに匠の技術は生きているんですね。
あれ、地震の話で済んでしまいましたね。後半は予定のお話をしましょう。ちょっとここでブレイク。
曲は、「イルカで 雨の物語」をお届けします。
さて、今日のお話は、4週目という事で飛騨の匠についてのお話をする週ですが、今日は、江戸時代
の材木の運材方法について、お話したいと思いますが、とても一日でお話できるような内容では
ございませんので、シリーズでお話ししていきたいと思います。
飛騨というところは、金森氏が入国したのが天正十四年で、いまから400年前のことです。
もちろん、それ以前にも、両面宿難の時代があり、飛騨の匠が都へ行ったという話があり、
古代寺院が建造されたなどという話があるわけですが、いつの時代も、注目されていたものが
ありました。それは、「山」です。
山には、豊富な資源としての山林があります。また、掘れば鉱山としての鉱脈があり、金銀銅、
鉄、鉛が取れます。そういう資源が注目されてきたんですね。
なかでも、人間の生活の中で、衣食住は大切な三大要素ですが、日本人は昔からこの住を考えた
ときに、木の建物に住む習慣を持っていました。
そのため、人は、山から木を切り出し、その木を削って建物を作ったり、家具を作ったり、生活の
道具を作ったり、信仰の為の仏像を作ったりしてきました。本当に木は、日本人の生活を豊かに
してきた資源だったんですね。
おそらく、人口の密集地、いわゆる都といわれた地域では、最初は、近くの里山から伐り出した
に違いありません。しかし、木は育てるのに、何年もかかります。一旦伐ってしまうと、もう近くには
ありませんから、どんどん奥山に伐りに行くようになります。そうすると、山奥に行けば行くほど、
今度は持ってくる事を考えなくてはいけない。折角伐った木でも、その場所から都まで運べなければ、
その木はただの倒木になってしまいます。
そんなわけで、人々は自然の川を利用した「運材」ということを考え出したわけです。
また、人が密集すると、火事や地震という災害にあう、被害も多くなってきました。日本人は、
そういった歴史の中で、壊されては建て、また壊されては建て、材木がなくなれば、どこから
持ってくるか=だんだん奥山からということを繰り返してきたんです。
また、木を伐り過ぎてしまえば、今度は水が一気に流れてくるから、水害が起きる。そうして、
また建物が壊されて、また作る。今度は、水害に遭うと困るから、山に植林をして育てることを
考えるようになった。ですから、山と人間の生活というのは、切っても切り離せない、そういう
関係があるのです。
今で言う、「飛騨の匠」というのは、単に木を削って建物を建てる人のことを言うのではなくて、
こういった奥山からいかにして伐った木を運び出すか、そういった技術も含めて、木に関わる
技術を持った人のことを言ったのではないかと思います。
三重大学名誉教授で郷土館名誉館長の八賀晋先生は、昨年の学会での発表の中で、
「両面宿難はそま匠の棟梁だった」ということをおっしゃっていました。飛騨人のもともとの
ルーツは、飛騨の匠に代表されるような、山仕事を最も得意とする民族集団であった。
そういう技術を持っていた人たちの集まりだったから、奈良時代には、非常に重宝されて、
全国の国分寺・国分尼寺の建造に携わるようになり、有名になった。
その時には、これだけの建造物を作るのに、木はどのくらい必要か。これだけの材料を
どこから伐りだすか。どうやって持ってくるか。どのくらいの人足が必要か。
そういうことができる技術者集団が飛騨の匠だったということです。
さて、今日も時間となりました。このお話は次回から具体的にお話しすることにしましょう。
来週は、今日のお話の続きをお届けしたいと思います。今日はこの曲でお別れです。
曲は「ツイストで 燃えろいい女」
ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太
2008年06月16日
6月16日放送分_古川のまちづくりについて2
<6月16日放送分>みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、6月も第三週に入りました。だんだん暑くなってきましたねえ。いつもなら梅雨の時期ですが、
今年は梅雨らしい梅雨ではないような気がします。梅雨の時期ですと洗濯物が乾きにくいとか、
押入れの壁が結露するとか、主婦泣かせの時期でもございますが、奥様方は大変ご苦労様です。
そんな時期ですから、たまにはちょっと手を休めていただいて、自分達の住んでいるところが、
どういうところなのか、考えていただいては、いかがでしょうか? この放送は、皆様に開かれた
番組をこころがけておりますので、番組に対する要望、調べてほしい事、近くにこんなものがあるん
だけど何だろうなどということがございましたら、わかる範囲内で、なるべくお調べしてお話したいと
思います。どうぞ、ヒッツFMのほうへ、ファクスなりメールなりでお問い合わせ下さい。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、古川のまちづくりパート2と題して、お話したいと思います。
実は、先日の日曜日に、古川の方で小島城と小鷹利城に登るツアーが有り、参加してきました。
実際に上に上がってみることでとても勉強になりました。この二つの古城の話は、またこのコーナー
でしたいと思います。
先月、お話した内容は、願生寺由来記をもとに、古川のお話をさせていただきました。古川の町が、
現在の上町あたりにあって、金森可重が新しく増島野というところに、新しくお城を作った。そのお城は、
これからの戦さ(=鉄砲戦)を考えて平地の中の小山に天守閣を配置するように作られた。
また、可重は堀を延長された川の西側に、城下町である一之町、二之町、三之町が配置して、
城下町を作ったのですが、なかなか民衆が動いてくれない。そこで、円光寺の元であった正覚寺が、
率先して新しい城下町の方へ移転したところ、城主の可重は他の者の見本となると喜んで、杉板3百枚
を褒美として渡した。そこまでは、先週お話した事です。
さて、増島城のお話をする前に、それまでの古川の場所がどこにあったかですが、以前にもこの放送で
お話しましたが、現在の古川町とは異なる場所に古川の城下町はありました。先日、リスナーの方から、
「古川の蛤城の場所がよくわからない」との御指摘をいただきましたので、ちょっと確認してみたいと思い
ます。
現在、国道41号線の古川バイパスが通っていますが、バイパス沿いに、トヨタカローラさんがあります。
あそこから、西の方を見ると、小さな小高い山が宮川を挟んで対岸にあります。その場所が、蛤城の
城址です。明治時代頃までは、そこには橋が架けられていて、対岸と行き来ができたそうです。
そして、トヨタカローラさんの東側に田中製作所という木工会社があります。ちょうどその木工所の
辺りが、旧古川町の城下町でした。宮川から順番に、一之町、二之町、三之町という町が作られて
いたということです。おわかりいただけましたでしょうか。
その場所から、現在の古川の町のほうに、民衆が移転してきたという事です。
さて、増島城ですが、古川のかたには、古川小学校の裏手のところに、増島神社がありましたから、
古川のかたは、場所の事は充分ご存知ですね。 高山のかたには、ちょっとよくわかりにくいので、
お話いたしますと、古川の町の中に入ると、アーチ型の霞橋がありますね。その橋を渡って、本光寺と
いう飛騨で一番大きな本堂のお寺を右手に見て、真っ直ぐ行くと、古川駅のところで突き当たります。
左手に行っていただくと、JRの飛騨古川駅ですが、そこを右手に行っていただきます。
真っ直ぐ、200mくらい行きますと、右手にお堀があって、増島城が見えます。そこは丁度、古川小学校
の裏手に当たります。
今でも、お堀と、石垣が残っていますので、お城の状態がよくわかると思います。昨年でしたか、ここに
あった増島神社は、古川祭りで有名な気多若宮神社に合祀されました。古川祭りに関係している古川の
町の中の皆さんは、殆んどの方が気多若宮神社の氏子ですが、彼らは、今までこの増島神社の氏子も
兼務されていたようです。古川の町に住むという事は、自動的に2つの神社の氏子になるということでも
あったようですので、総代さんなど関係者の皆さんは、春に開催される古川祭りと、秋に開催される
増島神社のお祭りと年に2回のお祭りを出されていたわけですから、大変なご苦労だったと思います。
今年から、お祭りが一つになったわけですから、氏子の皆さんの御負担は、少しは楽になったのでは
ないでしょうか
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、6月も第三週に入りました。だんだん暑くなってきましたねえ。いつもなら梅雨の時期ですが、
今年は梅雨らしい梅雨ではないような気がします。梅雨の時期ですと洗濯物が乾きにくいとか、
押入れの壁が結露するとか、主婦泣かせの時期でもございますが、奥様方は大変ご苦労様です。
そんな時期ですから、たまにはちょっと手を休めていただいて、自分達の住んでいるところが、
どういうところなのか、考えていただいては、いかがでしょうか? この放送は、皆様に開かれた
番組をこころがけておりますので、番組に対する要望、調べてほしい事、近くにこんなものがあるん
だけど何だろうなどということがございましたら、わかる範囲内で、なるべくお調べしてお話したいと
思います。どうぞ、ヒッツFMのほうへ、ファクスなりメールなりでお問い合わせ下さい。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、古川のまちづくりパート2と題して、お話したいと思います。
実は、先日の日曜日に、古川の方で小島城と小鷹利城に登るツアーが有り、参加してきました。
実際に上に上がってみることでとても勉強になりました。この二つの古城の話は、またこのコーナー
でしたいと思います。
先月、お話した内容は、願生寺由来記をもとに、古川のお話をさせていただきました。古川の町が、
現在の上町あたりにあって、金森可重が新しく増島野というところに、新しくお城を作った。そのお城は、
これからの戦さ(=鉄砲戦)を考えて平地の中の小山に天守閣を配置するように作られた。
また、可重は堀を延長された川の西側に、城下町である一之町、二之町、三之町が配置して、
城下町を作ったのですが、なかなか民衆が動いてくれない。そこで、円光寺の元であった正覚寺が、
率先して新しい城下町の方へ移転したところ、城主の可重は他の者の見本となると喜んで、杉板3百枚
を褒美として渡した。そこまでは、先週お話した事です。
さて、増島城のお話をする前に、それまでの古川の場所がどこにあったかですが、以前にもこの放送で
お話しましたが、現在の古川町とは異なる場所に古川の城下町はありました。先日、リスナーの方から、
「古川の蛤城の場所がよくわからない」との御指摘をいただきましたので、ちょっと確認してみたいと思い
ます。
現在、国道41号線の古川バイパスが通っていますが、バイパス沿いに、トヨタカローラさんがあります。
あそこから、西の方を見ると、小さな小高い山が宮川を挟んで対岸にあります。その場所が、蛤城の
城址です。明治時代頃までは、そこには橋が架けられていて、対岸と行き来ができたそうです。
そして、トヨタカローラさんの東側に田中製作所という木工会社があります。ちょうどその木工所の
辺りが、旧古川町の城下町でした。宮川から順番に、一之町、二之町、三之町という町が作られて
いたということです。おわかりいただけましたでしょうか。
その場所から、現在の古川の町のほうに、民衆が移転してきたという事です。
さて、増島城ですが、古川のかたには、古川小学校の裏手のところに、増島神社がありましたから、
古川のかたは、場所の事は充分ご存知ですね。 高山のかたには、ちょっとよくわかりにくいので、
お話いたしますと、古川の町の中に入ると、アーチ型の霞橋がありますね。その橋を渡って、本光寺と
いう飛騨で一番大きな本堂のお寺を右手に見て、真っ直ぐ行くと、古川駅のところで突き当たります。
左手に行っていただくと、JRの飛騨古川駅ですが、そこを右手に行っていただきます。
真っ直ぐ、200mくらい行きますと、右手にお堀があって、増島城が見えます。そこは丁度、古川小学校
の裏手に当たります。
今でも、お堀と、石垣が残っていますので、お城の状態がよくわかると思います。昨年でしたか、ここに
あった増島神社は、古川祭りで有名な気多若宮神社に合祀されました。古川祭りに関係している古川の
町の中の皆さんは、殆んどの方が気多若宮神社の氏子ですが、彼らは、今までこの増島神社の氏子も
兼務されていたようです。古川の町に住むという事は、自動的に2つの神社の氏子になるということでも
あったようですので、総代さんなど関係者の皆さんは、春に開催される古川祭りと、秋に開催される
増島神社のお祭りと年に2回のお祭りを出されていたわけですから、大変なご苦労だったと思います。
今年から、お祭りが一つになったわけですから、氏子の皆さんの御負担は、少しは楽になったのでは
ないでしょうか




