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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年08月21日

岩村城へ行ってきました4


ふもとにある、岩村城の案内図


岩村城の一番ふもとにある 太鼓櫓


岩村歴史資料館にある岩村城の模型。

実際に行ってみると、車でも上がれるので高さがわかりませんが、こうして模型で見ると
かなり大きな山を利用して作られているお城だということがわかります。

このお城、女城主で有名になっていますが、実は森欄丸も天正10年3月に城主になっています。
実際には、居城せず、家臣の各務氏を置いていました。
ところが、その3ヵ月後に、本能寺の変がおき、森欄丸は織田信長と共に討ち死にしますので、
実際には、3ヶ月間だけ城主だったということです。


岩村城古絵図


岩村城年表

徳積善太

  

2008年08月19日

岩村城へ行ってきました3


頂上にあった案内図

岩村城 出丸

出丸は本丸の南部の防衛の役目を持ち、東曲輪帯曲輪と共に本丸を防衛した。
櫓が二つ多門が三つあり、門は一つのみで帯曲輪からしか入れなかった。
櫓は二重櫓と太鼓櫓があって城下町がよく見える位置にある。太鼓櫓には大太鼓があって、
非常の際は城下に知らせた。この太鼓が打たれると武士達はただちに完全武装して登城し、
定められた部署について戦争等の準備をした。城下町の町民は火をすべて消し、木戸を締めて
城からの指令を待った。
多門は三つあり、一つは武者隠多門といって、戦争のときに城兵を待機させた建物である。
一つは大工小屋といって、城の営繕関係の中間(ちゅうげん)が仕事をしていた。



なんと、頂上にあった茶屋は「欄丸」という名前の茶屋でした。営業していなかったです。


頂上にあった茶屋の周辺。
この辺は、かつては出丸の建物があった場所でした。

徳積善太
  

2008年08月17日

岩村城へ行ってきました2

昨日に引き続き、岩村城の城跡の写真です。


大変大きな岩村城の立て看板


本丸の説明書き


本丸の説明書き2


上から見た、見事なまでの石垣


「昇竜の井戸」 こんな海抜の高いところでも井戸があったのは驚きです。


それにしても広い本丸

徳積善太
  

2008年08月16日

岩村城に行ってきました1

森欄丸の足跡をたずねて、岩村城に行ってきました。

岩村城は、旧恵那郡の岩村町にある山城で、女城主の伝説のあるお城です。
森欄丸は、わずかの期間でしたが、この城主をつとめていたそうです。
ただし、岩村の郷土館には、その展示がありませんでした。


頂上付近 面白い絵人形の立て看板が


頂上に残る見事な石垣


かつてはここに本丸の城門があったのでしょう


本丸広場


岩村城の看板

徳積善太  

2008年08月14日

中山七里

下呂から金山を経て白川に至る30km程は、中山七里と呼ばれている景勝地です。かつては、材木運送の難所。高山線建設の難所でした。
  

2008年08月13日

9月1日からの展示会2

9月1日からの金森展では、たくさんの初公開展示史料を用意することができました。

その一部をチラシに掲載しました。



みなさん、ぜひお越しください。

徳積善太
  

2008年08月12日

9月1日からの展示会

9月1日から24日まで、飛騨市美術館において、「金森氏とまちづくり展」を開催することになりました。
昨日、そのチラシを作りました。

一晩で作り上げましたが、大変でした。



徳積善太  

2008年08月10日

金森家と町づくり展3

昨日は、高山のT寺様にお邪魔して、借用品を確認してきました。


大阪冬の陣の陣形図   これは、本邦初公開となります。


大阪冬の陣の別の陣形図。 こちらには、3つの金森の名前が書かれています。

一つは、金森出雲守・・・金森可重のことです。
2つ目は、金森掃部介・・・金森長近の兄 政近の子供です。
3つ目は、金森出雲守・・・金森可重のことで、淀川河口の警護2番手として小出氏と共に
3千騎をもってあたるように書かれています。

昨年の郷土館長 田中氏の講演にもありましたが、金森家はお家存続のために、家康方と
豊臣方に分かれて戦ったとの事。お家存続のためかどうかわかりませんが、両陣営に
分かれてたたかったことは事実のようです。

また、編年史要によりますと、この掃部介は、萩原の旅館に住んでいたとなっています。
この史実については、あまり解明されていません。

徳積善太


  

2008年08月09日

佐藤家の所蔵品2

9/1から行う予定の「金森家と町づくり」展

佐藤家の所蔵品にこんなものがありました。


金森家先祖書

江戸時代の高山の豪商 桐山力所が所蔵していた本を佐藤家の先祖が書き写した
もの。弘化4年のもの(江戸時代末期)です。


中はこのようになっています。(内容は現在分析中。ほぼ皆さんのご存知の通りです)


備品のなかに、こんなものまで見つけました。田中大秀著の飛騨八景の絵図です。

これらのものは、来年までに「佐藤家遺品展」として開催しようという話になりました。
まだ、公開されていないものばかりだそうです。

徳積善太  

2008年08月08日

佐藤家の所蔵品

実は、このたび、9月1日から24日まで、古川の飛騨市美術館(旧 山樵館)にて、
「金森家と町づくり」展を行うことになりました。

現在、あと3週間しかないので、その準備に取り掛かっています。

そのため、金森関係の展示品を絞り込み中ですが、古川町上町にあった佐藤家の
所蔵品について、確認することができました。
展示する予定の一部をご紹介します。


金森宗和の花生け


金森重頼公、頼直公の短冊

このほかにも、たくさんの展示品を展示する予定です。
本邦初公開のものがたくさんあります。ぜひご覧ください。

徳積善太  

2008年07月16日

塩屋筑前守秋貞について2

先日、宮川村前村長さんにお聞きしたので、早速、光明寺におまいりしてきました。


宮川村打保の光明寺


風格のある正面

こちらは、禅宗(曹洞宗)のお寺ですが、高山の素玄寺の末寺だそうです。
そのためか、屋根と玄関には、金森の梅鉢紋があり、何か関係があるのかと思いました。

ご住職に伺うと「金森との関係というより、前田家の菩提寺ということで、あの家紋が
使われていると伺っております」とのことでした。

早速、塩屋筑前守のご位牌を見せていただきました。

塩屋筑前守のご位牌


位牌の裏面

この位牌は、後年になって直された物らしいのですが、ちゃんと文字を確認することが
できました。
こういう記述があります。
「天正六年五月十二日戸谷字山之口ニ戦歿 古川高野城主 塩屋筑前守秋貞
享年六十三歳」

徳積善太

  

2008年07月15日

塩屋筑前守秋貞について1

以前、お知らせいたしましたが、塩屋筑前守秋貞という人が飛騨にはいました。

彼の足跡は、伝承などをつなげると下記のようになります。
これは、まだ、どの本にも書かれていません。私の私見です。

高山塩屋生まれ→丹生川尾崎城主→古川蛤城主→越中 猿ヶ倉城主→
越中より飛騨に攻め入る(同時期 宮川 塩屋城主として上杉軍を迎え入れ)→
上杉軍の先兵として越中 真宗門徒と戦う→戦いきれず上杉を裏切る→
上杉に追われ 猪谷で鉄砲にあたり戦死(享年63歳)→宮川村に墓が存在(伝承)

ということがわかってきました。
猪谷には、彼の墓があり、宮川村に墓と位牌があります。

猪谷にある 塩屋筑前守の墓と伝えられる墓


宮川にある 塩屋筑前守の墓と伝えられる墓

先日、前村長さんにお会いして、この墓のいきさつについてうかがったところ、
「猪谷に墓があるとの伝承を聞いたので、先に作っておかないとやられてしまうという
ことになり、教育委員会が中心になって、墓を建てた。この戸谷という地域には、
昔、墓があったという伝承があり、塩屋筑前守の位牌を安置した祠があった。
のちに、光明寺という寺がこの地にできたので、そこに位牌が安置された。」

ということでした。

この猪谷の地と、宮川町戸谷の地の二箇所に墓があるというのは非常に不思議でした。
距離にして、大体20kmくらい離れていますので、鉄砲傷を負った人が、いくら戸板に
乗せられて命からがら逃げ帰ったとしても、ここで存命したとは考えにくいです。

私の私見ですが、おそらく猪谷でなくなり、その遺髪を持った家来たちが、飛騨のこの
戸谷の場所に、その遺髪を埋めたのではなかろうか。そこを地元民の人たちが代々、
塩屋筑前の墓として守をしてきたのではないか。と考えました。
まさに、歴史ロマンですね。


徳積善太

  

2008年07月13日

中日新聞 全国版社会面に掲載されました


昨日の「薩摩琵琶を聴く会」について、中日新聞の全国版に掲載されました。

<番外編>

料亭 州さきの庭。 打ち水をすると涼しい感じの雰囲気のいい庭です。


料亭 州さきの大広間。  座敷が準備される前です。簾戸がいかにも涼しげです。


大広間の床の間。  左側の部分が、「琵琶床」といって、元来飾り琵琶を飾る場所だそうです。
この「琵琶床」のある座敷は、大変珍しいそうです。


井村先生が、飾り琵琶を飾ってくださいました。なお、この琵琶は、15年ほど前に熊谷さんという
飛騨春慶塗の職人さんの作品だそうです。
この琵琶は、4種類あって、西郷隆盛の家訓「敬天愛人」の文字がそれぞれ記されているそうです。
この琵琶には、そのうち「愛」の文字が、後ろに書かれています。


琵琶の弾奏前の勉強会。  徳増先生による「金森宗和」の説明がありました。


井村先生による、薩摩琵琶の弾奏です。 2曲続けて演奏されました。


終了後の懇親会。 いろいろとお話が出ました。


偶然なんですが、徳増先生は「佐藤一斎翁」の研究家で、座敷の額は一斎翁の文字が飾ってありました。

徳積善太  

2008年07月12日

薩摩琵琶の演奏会を開催しました

昨日、高山の料亭 州さきにおいて、薩摩琵琶の演奏会を開催しました。


演奏されたのは、薩摩琵琶の弾奏者 井村右水先生です。先生は普段明治村で琵琶の弾奏を
されていますが、「千利休」「佐藤一斎」「中江藤樹」などの歌詞を考え、演奏活動を行われて
います。

今回は、「飛騨の国 都への道」というテーマで、飛騨の匠と金森宗和を題材に作品を作られました。
そこで、金森宗和といえば、洲さきさんの宗和流御膳ということもあり、今回の発表会を企画しました。
今日の中日新聞、市民時報に記事が掲載されることと思います。

皆さんには、9月13日に古川の地で、金森長近公の400年忌法要が行われますので、その折に
琵琶の演奏を聴く機会があります。ぜひ、そちらへもお出かけください。
「魂の演奏」という言葉がふさわしい、演奏を聴くことができると思います。


薩摩琵琶「飛騨の国 都への道」について
井村右水氏の作品による「飛騨の国 都への道」は、二部構成になっており、第一部が、飛騨の匠  (15分)
第二部が、金森宗和  (15分) となっています。
一部では、飛騨の匠が奈良の都を目指して行く風景を中心に薩摩琵琶の弾奏によって表現されています。
二部では、金森家の長男として生まれた重近公が、武門を捨てて茶の湯の道に入り、その精神を貫いた
ことを表現しています。

薩摩琵琶とは

約500年前、薩摩の名君 島津日新公と盲僧琵琶の渕脇寿長院の協力によって生まれた、
薩摩武士のたしなみとしての教養音楽であった。人の道を説いた教訓歌に始まった。
しかし、戦国時代はその音楽と楽器を変容させたのである。
壮絶な戦闘の物語は、勇壮と哀切の極限に達する無類の音楽を創造した。
明治維新のとき、薩摩藩の武士たちによって東京に進出した琵琶楽は、明治天皇にこよなく
愛吟されたことは有名である。

この琵琶は、明治維新の頃まで、藩の領内から他国に出る事はなかったが、明治の世になって、
西郷隆盛をはじめ、薩摩の人たちが、時の政府に仕えるようになり、しだいに東京を中心として
諸地方に広まっていった。 しかし、一時的な流行を見たものの、第二次大戦後は著しく衰退し、
現代ではこの美しい音色を聴く機会すらない現状を黙視するには忍びず、是非1人でも多くの人に
日本古来の音曲にきれいな言葉をのせて次の世代に伝えたいとの切なる思いから、音曲に理解の
ある善意の人たちに弾奏の場を提供して戴き、活動に励んでいる。

 また、琵琶歌はすべて自作で、古典の「敦盛」「判官都落ち」。茶道を極めた「千利休」「古田織部」。
戦国時代を生きた「明智光秀」「斎藤道三」「本能寺」。江戸時代の思想家「佐藤一斎」「中江藤樹」
「細井平州」など東海地方を中心として活躍した人物の作詩が多くあります。

薩摩琵琶の製法と材質

大きな桑の木を適当な寸法に切り、胴の部分をくり抜いて腹板と貼り合わせ、腹板を曲面にして
大きな音を出させる。(これは他の琵琶には見られない特徴である。)
端部の糸をつないである部分の裏の腹板に一ヶ所と中央部の三日月に一ヶ所づつ共鳴孔がある。
胴、腹板は桑を以って最良とし、次にケヤキ、桜、モミジを良材とする。
ばち撥は、つげ黄楊の根元を山形の形に切って用いる。

ここに展示してある琵琶は、六面ともすべて桑で作られており、又、保存を良くする為に漆塗りし、
撥面には琵琶の銘を図柄にした蒔絵を施してある。

徳積善太  

2008年07月02日

越前大野訪問~長近の越前侵攻2~


金森長近書状  専福寺蔵

金森長近は天正三年(1575)大野進入にあたって、高田派寺院や豪族にあてて、
勧告を行いました。これによって、大野進攻は順調に進み、わずか1ヶ月で平定する
にいたりました。

「其国乱入ニ付て 大野郡至、被抽忠 節おいてハ、一所可 申付事、不可有 相違候、併可随
忠義候、恐々謹言     金森五郎八
七月廿三日 長近(花押)

専福寺、賢松寺、保福寺、山田兵内助殿、山田猪介殿、戸田権内殿、印牧勝蔵坊、同十城坊、
笠井三郎衛門尉殿、野尻与一殿

御宿所」

この手紙を見てもわかるように、当時、誰がどの地域をどのように押さえていたか、確実に把握
しています。その情報網たるや、すごいものがあろうかと思います。
現在のように、携帯電話やインターネットで調べるわけでもなく、ちゃんとその地域に明るい人を
味方に付け、しかも、自分に味方した場合は、ちゃんとその所領地を安堵するという方法で、
人を殺さずに、平定する。そういう術に長けた人であることが伺えると思います。

大野歴史資料館の館長 岩井先生に伺いましたが、残念ながら、当時のこの地域の調査や、
どのように金森氏が侵攻し平定して行ったかについては詳しく調査がされていないようです。


徳積善太
  

2008年07月01日

越前大野訪問~長近の越前侵攻~

いま、調べていることは、金森長近と浄土真宗の関係です。

一昨年に発表された文書の存在によって、東本願寺派の開祖 教如上人を徳川家康に紹介
した人が、金森長近であることがわかりました。
これは、「本願寺教如」という本に掲載されています。

さて、その金森長近ですが、越前大野の城主だったことは知られているところです。


越前大野博物館に、金森長近の年表がありました。
それからご紹介しますと、

天正元年(1573)50歳 8月 朝倉義景との戦いで、越前府中に出陣する。
天正三年(1575)52歳 織田の軍団、大挙して越前に進攻。一向一揆の徹底的討伐を行う。
               8月 長近、搦手の大将として美濃から大野郡に侵入し、ほどなく一揆を鎮定する。
               9月 長近、大野郡の3分の2を与えられる。
天正四年(1576)53歳 8月、長近、築城と城下の建設を始める。

となっています。

ここで、注目していただきたいのは、一向一揆をわずか1ヶ月で平定していることです。
この時期、この地域には、浄土真宗高田派という一派が大野地域にかなりの数いて、朝倉氏や、
織田氏に対して、永年にわたり抵抗をしていました。
その抵抗が、ほとんどなく、わずか1ヶ月で大野地域を平定するということを、長近はやってのけます。

このあと天正14年(1586)に飛騨に進攻しますが、このときも、長近は、浄土真宗を手なづけて、飛騨に
やすやすと進入し、飛騨をわずかの間に平定します。そのとき、飛騨の浄土真宗門徒は、彼に対して
抵抗するどころか、そののち、高山の城下町を作るときには、白川にあった照蓮寺を高山城下に移して、
戦闘などで出ることの多かった、金森長近・可重の代わりに、高山の町を護っています。

つまり、金森長近という人は、浄土真宗の門徒と裏でつながっていたということです。

その史実を、解明するべく、いろんな調査を行っているわけです。
今後の調査については、またの機会に発表していきたいと思いますので、ご期待ください!

徳積善太

  

2008年05月02日

広瀬氏について

金森が飛騨に入国する前に、三木氏と共に飛騨を治めていた、広瀬氏のことを調べています。
そのことをお尋ねしに、国府町の菅田一衛先生をお尋ねしました。

 
(写真は広瀬氏の居城のあった高堂城跡)

広瀬氏の出自は明らかではなく、鎌倉時代から国府町のあたりを治めていた豪族です。
広瀬氏の土地は、山科家によって知行されていた事もありますが、垣根氏が知行した
こともあり、その土地は、所有者が複雑に入れ替わる土地となっていました。

いまの上広瀬~広瀬~古川の入り口にいたるまで広範な土地を知行していました。

広瀬氏の居城 高堂城は、国府町の瓜巣にあり、城址は岐阜県の重要文化財に指定されています。
看板には、次のようにかかれています。
「かつて、広瀬郷を治めていた広瀬氏の居城であり、天文年間(1532~54)年に広瀬左近将監利治
がこの地に築城したとされている。
標高はおよそ700m。四面は天然の要害となっており、宮川を南北に俯瞰することができ、山頂には
平地があり、以下段々に小さな平地がある。
名張地区にある広瀬城の詰城としてその規模は、高山市にある高山城・松倉城に継ぐものと言われて
いる。
後、広瀬氏は三木自綱に滅ぼされ、城の主は三木氏に移ったが、この三木氏も天文十三年(1585)
豊臣秀吉の命を受けた金森長近により攻められ、広瀬城により防戦したが、降伏した。」

のち、広瀬氏は、越前大野にいた金森氏に投降し、金森の先陣役として金森氏の飛騨入国を助けました
が、論功行賞がなく、かつての知行地を与えられなかった為に、金森可重に対して反抗しますが、結果的に
天正十四年に完全に滅ぼされてしまいました。
その後、広瀬氏は、滋賀県に渡り、武士を捨て僧侶となったようです。また、広瀬氏の部下達は、すぐに
武士を捨て、百姓となったためにそれまでの土地を安堵され、その末裔は、今でも国府町の地域に住居
された方が多かったようです。

徳積善太
  

2008年04月24日

本願寺教如上人

24日に非公開ですが、「本願寺教如上人と金森長近」という題名で講演会があります。
冬頭町の東等寺のご住職 竹田雅文師が講演を行います。
私も、資料作成とプロジェクターの操作等でお手伝いをさせていただきます。


教如上人像(東等寺所蔵)


金森法印像(高山別院所蔵)

教如上人は、徳川家康によって作られた東本願寺の祖と言われる人です。
金森長近は、高山の城主だった人です。
上記2つの絵画は、高山に存在するんですよ。たいへんな驚きです。

その二人が、茶の湯を通じて、親交があり、徳川家康に教如を紹介した人が長近であったこと。
教如上人との親交の中で、高山の照蓮寺は、その地位を高め、後に長近の孫 宣心が照蓮寺に
養子として入り、本願寺からさな姫を迎える事になったこと。

教如上人は、秀吉により本願寺12代を追放され、諸国を行脚した時代がありますが、
そのころに、照蓮寺が教如上人をかばったこともあったりして、飛騨とつながりが深いようです。
飛騨では天正八年八月大坂本願寺退去より照蓮寺の善了・明了・大進・浄昧・願生寺の
道智・願了(杢之丞)が教如と結縁したことにより飛騨門徒が教如を支持し、教如教団が形成
された。それを示すものが教如が下付した授与物と『岷江記』、『願生寺由来』、願生寺
『由緒書』などで判明する。

400年も前の時代に、飛騨は、宗教の上でもしっかりと中央と結びついていたことを実証を
示しながらお話をされます。

徳積善太  

2008年03月06日

金森長近は、教如上人を家康に紹介した

金森長近は、教如と友人の間柄で、徳川家康に紹介した張本人だった。
そういうことが、下記の文書からわかるそうです。


金森長近

この文書は、もともと高山の照蓮寺にあったらしいのですが、高山別院が輪番制といって
各地のお寺の皆さんが、住職の代りに当番を勤めるようになったときに、照蓮寺から
何らかの理由で持ち出されて、岡崎の勝鬘寺に伝わったものだそうです。
(参考文献 「教如上人と東本願寺」より)

岡崎勝鬘寺所蔵「照蓮寺文書」 金森素玄書状    16.0cm×47.5cm
                 14.猶々對其方  新門
                 15.御懇共候つる、又比
        1.態令申候 仍其方
  16.御状六寺進之候、
        2.事、七月五日より
  17.誰々も望候方へ
        3.十日ニ一度つゝ高山へ
  18.可被遣候、以上、
        4.被越、中二日つゝ逗留
        5.候て、白川江可被相
        6.帰候、然者昨日十二日ニ
        7.新門へ我等所ニ而
        8.御茶申候、其節其
        9.方をハ高山留守ゐニ
       10.頼候而置候由、申候へハ、尤
       11.之由御申候、可被得其
       12.意候、尚追而可令申候
       13.恐ゝ謹言
     六月十三日 素玄(印)
     照蓮寺       儿下
 「態令申候 仍其方事、七月五日より十日ニ一度つゝ高山へ被越、中二日つゝ逗留候て、白川江可被相帰候、
然者昨日十二日ニ新門へ我等所ニ而、御茶申候、其節其方をハ高山留守ゐニ頼候而置候由、申候へハ、尤之由
御申候、可被得其意候、尚追而可令申候
                           恐ゝ謹言
 猶々對其方新門御懇共候つる、又比御状六寺進之候、誰々も望候方へ可被遣候、以上、
     六月十三日 素玄(印)     照蓮寺       儿下」

  

2008年03月02日

飛騨に攻め入った?上杉謙信

塩屋筑前守秋貞の事を調べていたら、面白い記事を見つけました。

何と、上杉謙信が天正4年に飛騨に攻め入って、三木自綱を松倉城に攻めたことが
あるというものでした。(中世江馬氏の研究 葛谷鮎彦著より)

 三木自綱公

ただし、先生はこの著の中で数々の軍記物や史料を分析されていますが、どうも
江戸時代にかかれたものであり、あくまで「軍記物」としての性格をぬぐえないもの
であると思います。史実かどうかはわかりません。
あまりによくできた軍記物ですので、お知らせしたいと思います。

「また「北越家書」には上杉謙信の飛騨攻略を次のごとく詳細に記述している。
天正四年(1576) 六月、飛州の塩屋筑前守秋貞から上杉謙信へ書翰を呈し、江馬時盛、
輝盛父子を征伐して飛騨一国を平和西、この国を上杉の勢力下におくことがなにより急務だ
との旨を進言してきた。それには塩屋父子が道案内をつとめるによって援軍を差向けられたい。

 また童子に検使の将も共に派遣されたいと願いでた。謙信はさっそく重臣たちを集めて軍議
を開き、飛騨出兵の可否をはかった。重臣たちは異口同音に塩屋の意見を用いて飛騨攻略の
兵を出されるがよかろうと賛成した。このとき謙信のいうことには、飛騨の三分の二はすでに
武田の領地である。信玄の時代ならいざ知らず、昨年われに和を乞うてきた勝頼の領地を
攻取ることはわが本意ではない。
 しかしながら飛騨の地は信濃、美濃、越前から距離的に近いところから一両年を経ずして
かならず織田、朝倉などの餌じきになるだろう。ここで勝頼を納得させ、越後の領地にするのが
良策と思う、と、早速専柳斉という者を甲斐へ使者として遣わし、この旨勝頼に申入れた。

 使者の言葉にいわく飛騨は信長がすでに内密のうちに攻取る手だてを講じていると聞いている。
自分は今明年のうちに越中一国を戡定するつもりでいる。しかるに越中の賊徒どもは、攻めれば
逃げて飛騨にかくれ、また時がたつと現われて上杉に叛(そむ)く、その災いのもとは飛騨にあり
とみて、謙信は弓矢にかけても飛騨を手に入れる所存である。このように理をもって説き、礼を尽
して挨拶するのだから武田方は今後飛騨から手を引くようにと厳重に申入れた。

 こうして謙信は七月下旬、春日山城を出発魚津に着陣し、ここで河田豊前守長親を先陣の大将に、
鯵坂備中守と平子和泉守を副将に任命して先駆を命じた。軍兵の総数は六千余騎、これをもって
飛騨攻略の軍勢とした。
 留守大将には直江大和守実綱、斉藤二郎兵衛利実、長尾権三郎景嗣の諸将である。これらを
魚津、水橋に置き、越中の賊徒反乱に備えた。

 まず先陣六千の軍兵は越中婦負郡加賀沢口から飛騨小豆沢口へ押渡ったが、道は思いのほか
嶮岨で難所が多く、騎馬の軍勢を多数通過させることは困難である。さきに兵六千にしぼったのも、
まこと当を得た処理と思いあたることであった。

八月四日、軍勢が飛越の境に到着した頃、塩屋監物が出迎えに馳せ参じ上杉軍の陣に参加した。
ここで河田長親ら軍議を催し、総大将謙信の来るのを待受けた。

 やがて謙信が到着したので、塩屋父子が嚮導役をつかまつり、かねて用意しておいた多数の牛
どもに輜重させ軍勢は南西の方角へと進んだ。騎馬のやからは馬からおりて険難の悪路を徒渉し
て進んだが聞きしにまさる悪路でしかも時は初秋である。
 霧が深くたちこめ、まったく視野を弁ずることさえむずかしい。さすが戦に駈けては強い越後武者も
綿のごとく疲れた身体をたがいに元気つけあい、かつはげましつつようやく塩屋城にたどり着いた。

(中略)

 上杉氏はすでに二人の降人を得て、先行よしとよろこび塩屋城を出発した。越後勢の張り
切りようは非常なもので、勇気百倍連日の悪天候は道路を決潰し、馬を進めるにも進めようも
ないほどであったが、謙信に出馬をうながし南方に向かって進んだ。
塩屋父子は一千余騎を率いて、謙信を大将にたてまつって越後勢に従い大野郡に乱入した。

 まず三木自綱の拠る松倉城を攻めて高山郊外河上川の近くに陣を構えた。

 松倉城を包囲している間に、白川郷牧戸帰雲城主内島兵庫頭氏理を降服させようと、
山吉玄蕃允、色部長門守、杉原左近将監など上杉方の猛将に兵八百余を授け、塩屋の
家臣和耳藤兵衛、後藤内記を嚮導役として帰雲城攻略に向わせた。
 ところがあいにく内島氏理は信長の命により越前方面へ出陣し留守であった。従って城内に
はわずかの番兵どもが立籠もっていただけで、城はたちまちにして陥落した。上杉勢は城内に
あった財宝などを分捕り、塩屋の兵を番隊に残して引揚げた。そして松倉城攻撃の軍に合流した。

 松倉城には三木自綱が立籠り、上杉勢と一戦を交じえんものと待ちかまえていたが、小島城主
姉小路侍従時光の重臣杉崎兵頭、広瀬高堂城主広瀬宗域などが上杉軍に応じて三木に背き、
松倉城攻撃に加わっていた。
 また昨日まで無二の味方だった一宮水無神社の社家、氏子たちまでが自綱の敵となり、寄手の
軍に加わわっていたので、松倉城内の三木方の兵士はみな色を失ない、敗戦気分にかきたてられ、
これ以上戦争を続行することは不可能に見えた。さすが傲慢な自綱も今はせんすべなく、心を決して
降人となり謙信の軍門に降った。
 三木氏は以前から上杉氏に属し忠勤を励んでいた家であったが、この頃になって織田信長に
心酔し越後上杉方に対して冷淡になっていたのであろう。

 謙信はわざわざ飛騨まで遠征し、三木を徹底的に攻め、これを滅亡させようと思っていたが、
自綱が進んで降服してきたこと、それに国内にはまだ江馬という剛勇がやじりを研(と)いて頑張って
いる以上、ここで三木を助けておくのも、今後なにかの役に立つだろうと心ひろく情にあつい謙信の
酙酌によって、三木の降を許しそのかわり大野郡一円の土地を没収し、旧領益田郡萩原以南の地
を与えることとした。
 三木の降服によって国内の小豪族どもは謙信の努力に恐れ越後勢になびいたが、いまだに上杉に
従わない国侍や謙信に伺降しない小豪族の小城はかたっぱしから攻落された。
やがて謙信は全軍をあげて高原表へ馬を進め江馬を討伐することとなった。
(中略)
 今度の飛騨勘定にもっとも功労のあった塩屋秋貞には、恩賞として新規に領地が与えられ、飛騨目
代に補任せられた。また飛騨攻略に勲功があった越後の部将たちにも、それぞれ品によって恩賞があった。」