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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年07月23日

今日の市民時報

今日の市民時報、久しぶりに屋台の記事がトップでした。


谷越獅子彫刻「一之説」有力に 八幡の鳳凰台・新証拠?出る
「高山祭りの全屋台中最大の大きさを誇り、名工・谷口与鹿(たにぐちよろく)の作という説が
有力だった、八幡祭の鳳凰台の彫刻「谷越獅子」(左写真)が、実は弟子の浅井一之(あさい・かずゆき)
の作である可能性が高まった。

 この屋台は、現在、九十九年ぶりの全面改装中。そのため、屋台から彫刻を外したところ、三つある
彫刻の一つに”一之谷口和助則刻”などと彫ってあるのが発見された。(下写真)。和助は一之の通称。
 この彫刻については、高山市郷土館にある文書『屋台の再興仕法規定書』の中で、安政三年(1856)
に制作費として与鹿に十両、一之に一両一分支払ったと記されていることや、地元の一刀彫師らが一之の
別の作品と見比べて、作風などが異なっていることなどから「与鹿の作だろう」ということになっていた。
昭和二十七年刊の『高山市史』でも、この説を採用している。
 しかし谷口家に「与鹿が下絵を描いて、後を一之にまかせた」と推測できる資料が残っているなど、
「一之説」も根強かった。今回の発見は一之が彫ったという大きな証拠となりそうだ。
ただし、一之が谷口姓を名乗った記録は無いことから「なぜ谷口と彫ってあるのか」という、新たな謎も
合わせて浮上した。」
(高山市民時報 平成20年7月23日(水) 第6265号より)

鳳凰台の谷越え獅子と呼ばれている、3枚の彫刻は、次の通り
屋台正面
屋台右側
屋台左側
いずれもケヤキの一枚板をくり抜いて作ってあり、当時、ケヤキの大板が出たので、それに
彫刻をしてもらおうと、鳳凰台組の方々が依頼したとの言い伝えがあります。

この文中の、『「与鹿が下絵を描いて、後を一之にまかせた」と推測できる資料』というのは、与鹿が
鳳凰台の方に宛てて書いた手紙のことで、次のように書かれています。


屋台会館にある、谷口家所蔵の与鹿書簡

「与鹿書簡訳
仰せにより乱獅子の絵を書いたけれども、急いで帰国(摂津へ)せねばならなくなったので、彫る人
一之に依頼している。本意ではないのですが、宜しくお願いします。獅子は痩せ型に書きました。
屋台に合うように工夫してください。うまくできればと心配をいたしています。五台山の獅子や、以前に
私が手がけた作品などをよく見させ、良いところを取り入れ、まずい部分は捨てさせて彫刻させたいと
願っております。・・・・・・後文略

※これは、大新町組鳳凰台下段彫刻「乱獅子渡渓之図」の製作にあたり、彫刻依頼を受け、
手間賃金十両を受け取った与鹿が、下絵のみを描き、彫りを弟子 浅井一之に頼んで急ぎ
攝津へ旅立つ前に、兄延恭にあてて書き残した手紙と思われる。
これにより、鳳凰台の下段大彫刻の事実が明らかになった。」

この頃、与鹿は、ホームグランドを伊丹においており、この安政三年になぜ高山へ急遽帰ったのか
依然として謎に包まれていますが、私は、次のように考えています。

「兄の延儔の急逝により、鳳凰台の棟梁がいなくなったため、谷口一門が困って、急遽与鹿に高山へ
帰り、采配を振るうように依頼した。そのため、一門の中をとりまとめ、甥の宗之が棟梁として父の後を
継ぐように段取りし、依頼された彫刻については、下絵を急遽仕上げ、彫を弟子の一之にやらせた。
そのあと、伊丹に急遽帰ることになったのは、ある意味口実で、捨てた高山に長居をしたくなかった」
のではないかと考えています。

ただ、伊丹でも、その頃、愛妻の出産を控えていたり、孝明天皇に拝謁するのもこのころでしたので、
それなりの理由はあったものと思います。

早速、明日にでも、鳳凰台の関係者の方にコンタクトをとりたいと思っています。

徳積善太



  

2008年07月06日

金山~万福寺の彫刻について4~

中に入ると、和尚様がおられて、その場所へとご案内くださいました。
そこは、本堂のご本尊が祀られているまさにその真上にあり、大変失礼ながら
写真を撮らせていただきました。



ちょっと暗いですが、そこには、看板の通り、3mほどの竜の彫刻がありました。





和尚様のお話ですと、両側の向梁の彫刻も同じ時期に作られたものとの事で、
撮影させていただきました。





前述の郷土史研究家 長瀬先生の書かれた由緒書きには次のようになっています。
「竜の欄間     町指定文化財 昭和四十四年十二月十五日
 文政年間(1818年)信州諏訪の宮大工 立川和四郎の作。和四郎は左甚五郎の再来と
言われた名工で幕府から「匠」の称号を受け、一般には諏訪の和四郎と呼ばれている。
 宝暦年間、江戸に出て、本所立川通り幕府御用大工棟梁の立川小兵衛について宮彫の
技を習得。諏訪神社の壮麗な彫刻は遠近に聞え特に獅子、雲竜、牡丹、松鷹、波涛の彫刻
を得意とした。
 この竜の彫刻は、本堂内陣の鴨居の上にあって、縦二尺、横九尺、その複雑な浮き彫りの
素晴らしさは驚嘆に値する。
又、鶯張りの廊下も和四郎の作で、二百余年を経た今日でも鶯の声を聞くことができる。
その外にも本堂須弥檀にある一対の蓮のうち、片方の蓮は和四郎が昼休みに作ったもので、
もう一方は弟子の手によるものとされている。
 昭和四十四年この文化財を岐阜県指定にするために岐阜県文化財審議委員長 中野効四郎
先生が期待して来られたが、調査の結果、昭和二十年の大雪で須弥檀が壊れて銘が見当たら
なかったため、残念乍ら町指定に止まった。」とのことでした。

私が見たところ、私が今までに見た立川流の彫刻とは、異なるような気がしました。
また、向梁の彫り方も、立川流のものとは異なるので、調査が待たれるところであると思いました。
長瀬先生にお聞きしたところ、「先代のご住職からの伝承で、和四郎に間違いないとおっしゃっていた
ので、地元民はその通りだと思っています。」とのお話でした。
いずれにせよ、この彫刻の作者が誰であるかは、棟札や彫刻の落款などで確認するしかありません。
皆さんが信じておられるので、確認しないほうがいいのかもしれませんね。

徳積善太

  

2008年07月05日

金山~万福寺の彫刻について3~

階段を上がっていると、二つの看板が目に付きました。


そのうちの一つには、こう書かれています。


もう一つには、こう書かれています。


「文化財彫刻 竜の欄間  金山町指定 昭和四四年12月15日
文政年間(十九世紀初め)信州諏訪の宮大工、立川和四郎の作です。
この竜の彫刻は、本道内陣の鴨居の上にあり、約三メートルに及んで横臥しています。その複雑な造形を
巧みに消化した技術は、当時稀に見る名工で左甚五郎の再来ともいわれ、幕府より匠の称号を受けていた
通称諏訪の和四郎の傑作です。   金山町教育委員会」

まさに、これです。
これがもし、本当に和四郎の作品となると、飛騨にある立川関係の関連証拠が6つ目となるので
私の胸は自然と踊り始めました。

つづく

徳積善太

  

2008年07月04日

金山~万福寺の彫刻について2~

金山の万福寺は、国道41号線を南進し、金山町に入る手前に下原という場所があります。
その下原の場所の手前に、アーチ型の橋があります。
その橋を渡って、左手に下原八幡神社を見ながら、どんどん上へ上がっていくと、山の懐にあります。

この由緒は大変古く、飛騨でも有数の古刹のようです。

地元の郷土史研究家 長瀬先生の書かれた「由緒書」によると次のように書かれています。

「神亀山萬福寺の由緒
 萬福寺は下原郷中津原村字洞田にあって、臨済宗妙心寺派である。
 寺説によると往古は天台宗で亀像院と号し、神亀元年(724)約千三百年の昔、
加賀の国白山を切り開いた越前の高僧「泰澄大師」の開基で七堂伽藍を建立し
ていた。
爾後、幾星霜経て堂宇悉く頽廃に及んでいたのを天文七年(1538)飛騨萩原桜洞城主
三木大和守藤原直頼が再興し、禅昌寺二世杲天彗紹和尚を講じて開山とした。

 次いで四世眼高知寛和尚が、寛永七年(1630)寺号を現在の萬福寺と改めた。
後宝暦六年(1756)七月七日火災に罹り堂宇をはじめ諸記録等悉く焼失した。
 時の住職講堂知存は十方の檀家の布施を仰ぎ安永五年(1776)に堂宇を再興し
今日に至っている。約二百五十年前の事である。
其の他明治二十九年 岐阜県警察史上最初の殉職者 矢島友吉巡査の顕彰石碑、
・大正十五年 下原村忠魂碑、
・昭和三十五年 伍柳庵大人(今井萬吉)狂俳の歌碑、
・昭和三十七年 下原村畜産組合建立の肉牛供養碑、
・平成五年 落慶の庫裏、
・平成十二年完成の鐘楼と位牌堂、
・平成十三年 水子供養碑が建立している。」  となっています。


入り口のところに、山門はありませんが、自然木が山門のようになっていました。


山門をくぐり、長い石段を上がっていくと、そのお寺はあります。


やっとお寺にたどり着きました。

つづく

徳積善太

  

2008年07月03日

金山~万福寺の彫刻について1~

高山祭りの屋台に白木彫りの彫刻が取り付けられたのは、天保年間になって、諏訪の
和四郎の彫刻が五台山に取り付けられたことに、感銘を受け、谷口与鹿が数々の彫刻を
残したことによります。


五台山の獅子彫刻 天保年間 立川和四郎富昌作

現在、私が確認している飛騨にある立川流との関係を示すものは、5つあります。
1.五台山の彫刻  立川和四郎富昌作(上記写真)

2.谷口与鹿が方有という人に写させた、立川流の鳳凰の彫刻写生
(高山市郷土館蔵)

3.還来寺(丹生川町)の山門彫刻
(これについては、与鹿作として村の文化財に指定されている)


4.古川の龍笛台の棟札にある「清水寅吉」の名前。
(清水寅吉は、諏訪の大工で、立川流の流れを汲む人。明治初期から中期にかけて
活躍した。有名な作品は、岡谷の繊維工場キカヤの社長宅にある欄間と仏壇。(国の
重要文化財となっています)
ただし、これについては、寅吉の作品がどれであるか、確認ができていません。)

棟札の存在から、看板にも寅吉の名前があります。

5.高山の素玄寺の山門の龍
(これは、ご縁があって、立川流彫刻研究所の間瀬先生が、種蔵先生より依頼されて
素玄寺の山門に取り付けられました。平成3年のことです。)

これ以外に、立川流の彫刻があるというので、金山の万福寺に行ってきました。

この続きは、明日のブログにてお話します。

徳積善太  

2008年05月20日

高山のミニチュア屋台1

高山の家庭にある、ミニチュア屋台は、高山祭りのものを模したものと、そうでない
オリジナルのものがあります。


下二之町の柴田商店さんのものは、大工さんが作ったオリジナルの屋台です。

昔の旦那衆の「遊び」の一つとして、こういった巨費をかけた創意工夫があったんですね。
500万円もかけて、作られた屋台とのことです。


徳積善太
  

2008年04月20日

今年の古川祭





今年の古川祭は、あまり屋台をみずに終ってしまいました。
両日とも仕事で、あまり町内を回れませんでした。

その分、友人がたくさん取っていますので、また、わけてもらってからUPします。

徳積善太  

2008年04月17日

高山まつり 番外編

どうしても、自分の所の屋台の事は知っていても、外の組の事になるとわかりません。

1)青龍台の大でこの衣装

大でこというのは、屋台の舵を取る人の事。どこの屋台も衣装が同じだと思っていたら、
青龍台の場合は、前の人と後ろの人と装束が違うそうです。これは知りませんでした。

2)琴高台のからすと、うさぎ


琴高台組の皆さんの許可を得て、上に上がらせていただきました。ありがとうございます。
今まで気になっていた、ヤタ烏とウサギを至近距離で撮影させていただきました。

この烏は、一説には、一刀彫の初租 松田亮長の作で、ウサギは谷口与鹿の作ではないかと
いわれています。ただし、証拠が無いので、わかりません。

3)琴高台の天井絵

この絵は、私も知らなかったのですが、屋台の天井に見事な龍が描かれています。
作者は、「明治廿七申年莫之写 香宗」とありますが、どなたかわかりませんか。

また、屋根のボタンの裏には、ぼたんの絵が描かれていました。
この場所に、絵を描くというのは非常に不自然ですので、前の屋台のものかと思いましたが、
この屋台は、天保年間に谷口家が作ったのが最初だそうです。

4)琴高台の戻し車

谷口一門が、屋台建造に携わったのが、現存する屋台では一番古い形です。
この戻し車が、いつごろ考え出されたものか、わかりませんが、谷口家が高山の屋台に
この方式を取り入れたとすれば、琴高台のものが一番古い物であるといえます。

5)琴高台の看板

ここに、屋台の設計は与鹿が担当したとありますが、八幡の鳩峰車もこの前年に与鹿が設計したとの
伝承があります。ただし、若干17歳の与鹿が、大工棟梁の仕事をしたとは考えにくく、おそらく、
父親の延儔あるいは、兄の延恭の設計と思われます。

6)龍神台の看板

私も知らなかったのですが、明治になって与鹿の甥 谷口宗之によって、龍神台の大改修が行われて
いますが、その前の屋台は、権守の息子(長男)與平紹芳(34歳で早世)が作ったと看板に記述がありました。
これについては、再度調べて見たいと思います。紹芳が作った唯一の屋台という事になります。

7)龍神台の正面龍

これも見事な龍ですが、宗之がこのような彫刻までしたかというと、ちょっと疑問です。
与鹿の弟子、浅井一之もこのころはなくなっていますので、宗之の一歳下の弟 與三次郎の作ではと
思っています。與三次郎は、まったく表に出てこない人なんです。

徳積善太






  

2008年04月15日

昨日の高山祭 2・神移し神事と行列

おみこしは、神様が乗る「輿(こし)」です。

日枝神社では、カンカコカンを鳴らしながら、神様の御神体をお神輿に移します。
その時、宮司さんが、御神体を白い幕をはった内側に持ち、お神輿に移されました。



そうして、移された神様をお連れして、氏子の区域内を行列して練り歩くのです。

途中、神様をお慰めするために、氏子が、カンカコカン、太太神楽、雅楽などの演奏をして、
神様が退屈なされないように、ご奉仕を致します。(一部画像提供、ノアドココ様)

そして、陣屋前のお旅所に再度お移しし、今度は、屋台の夜祭(よまつり)の前に、夜祭
(やさい)を行って、再度舞を奉納し、お慰みをします。


そのあと、皆さんがよくご存知の、夜祭(よまつり)が始まり、各氏子の屋台に提灯が
取り付けられ、灯りをともし夜祭がスタートします。

12台の屋台が、町内を練り動きます。

辻辻では、神楽台の演奏で、獅子舞が行われます。
主に、この場所では、「場ならし」「へんべとり」が披露されます。


最後に、順道場と言うところに到着します。ここでは、宮本の皆さんが、待機して各屋台の
到着を待っておられます。



順道場に到着すると、各屋台組の代表は、調印式に望みます。
調印が済んだ屋台組へは、お酒が振舞われます。神楽では、最後の獅子舞が披露されました。


この調印式が済んだ屋台組から、順番に引き分かれとなり、各屋台組に帰って行きます。
そのときに歌われるのが「高い山」という歌です。
「高いやまから、谷底見ればよ~。瓜やなすびの花盛り。あれもよい、よいよい。これもよいよいよい。」
という歌を歌いながら、各屋台蔵へ帰って行きます。それで、夜祭は終わります。



徳積善太
  

2008年04月15日

昨日の高山祭 1.采女の舞の奉納

みなさんこんにちは。
昨日は、370ものアクセスを一日に頂きました。ありがとうございます。

さて、今日は、ほとんどの祭の予定が予定通り行われました。
ここでは、皆さんがあまりご存じないと思われる画像をお届けします。

まず采女の化粧から。朝の7時から、子供たちは準備をします。


顔におしろいを塗ります。


顔に紅を塗って伸ばします。


口に紅をさします。


目の所に赤いアイシャドーを入れます。


手におしろいを塗ります。


軽くはたきながら、伸ばします。


城の着物を着て、袴と千早。そして冠をつけると、このようないでたちになります。

采女の子供たちは、舞の奉納時に、東遊求子の舞(あずまあそびもとめごのまい)を
日枝神社に伝わる古歌「片野山(かたのやま)」に合わせて舞います。
画像は、13日におこなったリハーサルの様子。


朝、9時半からの神事と、6時からの夜祭(やさい)にて披露しました。

徳積善太





  

2008年04月12日

春の高山祭りをとりしきるのは・・・

高山の春祭りをとりしきるのは、「宮本」といいます。

春祭りには、下記のような旗があって、「須督祭事賡先例」 祭事を督するにはすべからく先例に賡(つ)ぐべし
という旗を行列の最後尾に掲げ、この祭礼が、先例に基づいて行われているという意味を表しています。
これは、宮本旗というものです。


その宮本には、屋台組から3つ。御輿組から3つの組が選出されます。
どの組も、3年間勤める慣わしになっていて、最初の年は、見習いの補佐という意味で、準加役(じゅんかやく)
2年目は、宮本の補佐という事で、加役。そして3年目に宮本という大役が回ってきます。

宮本は、神社の神事以外の一切のことを取締ります。従って、屋台の運行、行列、弁当の手配、会計、順道場の設置、
人足の手配・・・などまつりの行事の一切を行います。
この役があたった当番組は、なるべく赤字にならないように運営をしないといけないので、大変です。

準加役・加役の仕事は、行列の取締りの大締方、弁当の手配、伶人係り、太太神楽係り、獅子舞係り、闘鶏楽係り
をはじめ、主に行列関係の取締りが中心です。また、屋台の運行にあたり、各組へ連絡する青竹の手配なども
一切を行います。

高山の人たちは、祭礼の間に悪い事が起こるとすべて宮本の行いが悪いせいだといって非難します。
たとえば、雨が降っても、宮本のせい。屋台の運行のときに、木の枝が出ていたら、宮本のせい。
祭の間、宮本の人たちは、いろんなことに気を使わなくてはいけないので、大変です。

今年は、屋台年番(宮本)が南車台組(上二之町中組)。 石橋台組が加役、三番叟組が準加役で、
御輿年番(宮本)が片野組。加役が森下組、準加役が慶祥組で行われます。
あと、3日間、宮本組の人は、全ての行事が終るまで、頑張ってください。

ちなみに、宮本の起源は古く、金森時代の前期に始っています。
もともと、元締は、金森城主に命ぜられた東川原町組の組頭(後総代)と、一之町上の神楽を奏する組の
力を併せて行うようになった。これが、のちの川原町青龍台組が永代宮本をつとめるようになった始まりで、
この宮本制度は、明治二十二年まで続きました。(日枝神社史)

もともと、宮本に協力して、獅子舞を司る役目を負っていたということで、神楽組は宮本から除外され、
そのかわり、獅子舞に関する一切を取り仕切ってやることになっているため、その責任があります。
明治26年に一度だけ、神楽組は宮本をやったことがありますが、それ以後はやらなくてもいいことに
日枝議会で決定したそうです。

徳積善太
  

2008年04月10日

手長足長の屋台について

面白い画像を紹介しましょう。これは、谷口与鹿の画いた手長足長の下絵図(本物)と実物です。
 

下絵図を見ると、数箇所なおしたところがありますが、いろいろと思考錯誤して造られたという
ことがわかります。

また、岐阜高専 名誉教授 水野先生によると、屋台や山車に取り付けられている「手長足長」は、
全国に11台ほどあるそうです。そのうち4台ほどが、平成になってから作られたものだそうですが、
江戸時代後期に作られたものは、4台ほどだそうです。
主に、立川和四郎彫刻にその彫刻は見られるそうですが、彫刻の為の見本の本があったと
言われています。

また、神社仏閣に関しても、4つほどが確認できているそうです。

来年、このことについてや、どうして手長足長がこういった屋台に取り付けられるきっかけに
なったのかなどについて、学説をおまとめになるそうです。

徳積善太  

2008年04月09日

手長足長の伝説2

手長足長の伝説について、東北のほうには、次のような伝説があります。


写真は、半田唐子車の手長足長像。

「磐梯山はハシゴだといいます。山がまるで天に通じる磐(岩)の梯(はしご)のようなのでその名がついたという
のです。しかしかつては、「病脳山」とかげ口をたたかれるほど、ふもとの村人にとって頭を痛める山だったそうです。

この山には手長・足長という怪物が住んでいていたずらのし放題。雲を集めて会津地方一帯をまっ暗にしたり、
嵐を呼んで洪水をおこしたり、農作物を荒らして村人を困らしては喜んでいたそうです。
この話を聞いた弘法大師空海は、早速山に登り手長・足長を小箱にとじこめてしまいました。そして磐梯明神
として磐梯山の頂上にまつり封じ込めたといいます。

いまでも山頂に積まれた岩の間に磐梯明神の石碑が埋められ、その肩の弘法清水わきには大師の石像が
まつられています。」

出雲神話のお話からすると、弘法大師の頃のお話ですから随分後の話ですが、手長足長が悪者の
ように描かれていることは、面白いですね。

徳積善太
  

2008年04月08日

手長足長の伝説について1

飛騨の伝説ではありませんが、信州諏訪の方には、有名な御神渡りについて次のような
手長足長の伝説があります。


画像は、立川流彫刻研究所にある手長足長の下絵図

「諏訪湖の伝説(民話)を語る時に欠かせないのが、諏訪の「お明神様」こと建御名方命(タケミナカタノミコト)です。
このタケミナカタと、そのお妃の八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)、そしてタケミナカタに仕える手長様と足長様に
まつわる伝説は、数多く存在しています。
________________________________________
諏訪の"明神様"は、ある年の暮れ、下諏訪にいるお妃に会いに行った帰りに、うっかり足あとを氷の上に残して
しまいました。人々はその足あとを「御神渡り」と呼ぶようになりました。
その頃、上諏訪に一人の売れない行者がいて、明神様の御神渡りをする所を見てやろうと考えていました。
そうすれば、自分が「徳の高い行者」と言われ、お客も集まるようになるだろうと考えたからです。
十二月になって氷が張り始めると、行者は毎夜湖の岸で御神渡りの始まるのを待っていました。いく日かたった
ある日、ついに"バリッ"という氷の割れる音が聞こえました。行者がいよいよだな、と思った途端、
「うん?待てよ」
という声が高い所から響き、静かになってしまいました。行者が見つかったかと身を縮めていると、先程と同じ声が
厳かに言いました。
「手長、足長はいるか」
「はい」
と二人の返事がしました。
「あの岸の下にわしの渡るのを見ようとしている者がいるようだ。とりのけて来るがよい」
「はい、かしこまりました」
そのようなやりとりがすむと、ふいに行者は腰帯をつまみ上げられました。そして、あっというまにどこかに連れ去ら
れてしまいましたので、結局御神渡りを見ることはできなかったというわけです。
この時、湖から行者を運んだのが手長と足長でした。それを命じたのはもちろん明神様です。手長、足長の二人は
明神様につかえていた神様で、その名の通りの姿をしていました。
なので、深い湖で漁をする時は、足長におぶさった手長が長い手をつっ込んで魚や貝を取り、山で狩りをする時は、
やはり手長をおぶった足長がえものを追いかけ、最後に手長がとらえるのでした。
今では、手長は上諏訪に、足長は四賀にまつられて、明神様の社を見守っています。」

各地に、いろんな伝説があるんですね。

徳積善太
  

2008年04月06日

手長足長の不思議

昨日は、自分の屋台組の屋台やわいがありましたが、調査の為、名古屋の建築研究家 水野先生が
お越しになり、恵比寿台の調査に同行しました。
 
現在、先生は、全国にある手長足長の彫刻のことをお調べになっていますが、来年これについて
まとめられるそうです。

私も初めて実測したのですが、どちらも奥行き約21cm、高さ約146cm、幅約31cmありました。

「手長足長とは、元々は山海経(四世紀頃の中国)にも登場する古い人種ですが、一六〇七年の「中国三才図」、
一七〇八年に長崎の学者西川如見の「華夷通商考」、そして一七一五年の「和漢三才図会」にも記載され、
源内の書いた大ヒット滑稽本「風流志道軒伝(一七六三年)」に登場し主人公志道軒(実在した講釈師)が追い
かけられます。当時(一八世紀)庶民の間では世界の国の中に紅毛人の住む阿蘭陀(オランダ)同様に、長脚
国(ちょうきゃくこく)、長擘国(ちょうひこく)があたりまえに実在していると信じられていました。」
(彫に生きる「谷口与鹿」より)

恵比寿台の手長足長ですが、どうして恵比寿台にこの彫刻があるかというと、長倉先生の屋台雑考によれば
「出雲神話のスサノオの命が簛ノ川(シノカワ)に椀と箸の流れてくるのを見て上流に人が住んでいることを
知り、川に沿って上って行き、クシダ媛との出会いとなり八岐大蛇を退治するという物語の彫刻を取り付ける
予定だったのであろう。なお、クシダ媛の両親は、テナヅチ、アシナヅチと呼び、手長と足長で、手長は
山を意味し、足長は海を現わす。(中略) 恵比寿神はスサノオの命の孫であるということからであろう。」
ということだそうです。

なお、この手長の像は、後を見ると、接木してあり、一枚の木ではないことがわかりました。
籠のところに、縦の線がありますが、これは木を接木してある跡です。ただし、おそらくですが、
組木で仕上げてあるので、外れないように、パスルの様な構造になっていると思われます。


また、足長のほうも、ぶら下がっている飾りは、木目からして継ぎ足してあることもわかりました。


こんなに、一つの彫刻をまじまじと見たのは、久しぶりでした。

徳積善太
  

2008年04月05日

屋台やわいがありました


今日は屋台やわいが高山の各所でありました。

午前中には、三番叟組。 午後からは神楽組と、恵比寿台組などが屋台やわいを行いました。

私も他組の屋台やわいを見たことはなかったのですが、今日、恵比寿台組の屋台やわいを見せていただいて、
飾りの止め具が異なっていたり、構造が違ったりしているのを見て、とても勉強になりました。



特別に撮影を許可していただきましたが、骨組みだけになった屋台を見て、一度、伊達柱とか
構造の部分についても、ちゃんと設計図を残しておく必要があるなと思いました。

徳積善太  

2008年03月29日

彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」34 谷越獅子の作者

◇谷越え獅子の作者について


高山の、最後の彫刻を施したのが、八幡鳳凰台の「谷越獅子」だった。
これは樫の一枚板につがいの獅子を彫った見事なもので、与鹿作品の中では一番大きな秀作である。


 この『谷越え獅子』と呼ばれる鳳凰台の彫刻は、永年、与鹿の作品であると伝えられてきた。
しかし、創建年度が、与鹿が高山を去った後の年号であり、永い間、誰が作者かで物議を醸し出していた。

・「与鹿が嘉永三年夏に高山を去っており、弟子の浅井一之の作ではないか」という説

・「下絵は与鹿で、一部一之がやっているが、与鹿の作に間違いない」という説

・「作図や指導を与鹿が行い、金十両のお金を受け取った末、弟子の一之に彫刻を自分の名前で納め
させたのでは」という説の3つがあった。

 また、「龍に比べて獅子は苦手だった」(高山の屋台)などという逸話も残っている。
 八幡神社に保管されている書簡には次のような記述がある。

「谷口与鹿、永々上方え参り居られ候処 安政二年卯年三月帰国いたされ、誠によろしき幸い。
手初めに直々諜申し候。しかるに樫木 千光寺に又候 風倒の樫木ありこれ 直様 山下屋より人を遣し
これを買請用ひ申候 谷口与鹿もこの度は手際を顕し 弟子桐山屋和助(浅井一之)初めての彫手伝い
に入り これまた骨折り相働き申し候て 見事にでき、卯年祭礼に相用い申し候」(八幡祭り屋台)

 これによると、与鹿は、一時帰国しているが、伊丹に帰ったので一之が仕上げていることがわかる。
筆者の調査では、弘化二年一月に孝明天皇に卯の香盒を献上しているので、何か急ぎ高山へ帰らね
ばならない理由があり、一時帰国し、三月二七日頃に与鹿は伊丹に戻っている。
彫刻の残りを託された弟子の一之はこのあと彫を担当し、秋祭りには完成させたものと思われる。

 「安政三年七月、谷越え獅子三間分として組では金十両をを与鹿に渡し、弟子浅井一之には一両
一分しか渡していない。」 という記録から、長らくこの彫刻は与鹿の作であると信じられてきた。
そこへ、谷口家所蔵の書簡=「『安政二年三月、与鹿は伊丹から戻った時に下絵を描き、急ぎ帰ら
なくてはいけなくなったので弟子の浅井一之に彫刻を託させた』という内容の安政二年四月二二日の
組の方に宛てた手紙」が老田氏により発見され一之の作品であるという物議となった。
 筆者はこの谷越獅子の瘤の処理の仕方が、それまでの獅子の彫刻とは異なっているため作者は
違なり、与鹿は下絵代金を前金で受取って伊丹に帰るが、老田氏の言われるように最後は一之が
仕上げるが、合作でないかと考えている。    


徳積善太  

2008年03月28日

彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」33

◇京都在住

伊丹の岡田家(阪神大震災前)

さて、高山を去った与鹿であるが、行く当てもなく旅に出たのかというとそうでもないような旅で
あったのではなかろうか。
 京都での行動は想像の域を超えないが、まず彼が目指したのは、京都であったに違いない。

前年の秋の田中大秀三回忌歌会には与鹿は出席しており、当時は冬に向かっての旅立ちは、
余程緊急な事のない限り見合わせたであろうから、この上洛の時期はその年の冬を越し、日も
長くなってからと創造されるので、おそらく、四月頃ではなかったかと思われる。

 また、流木を拾って琴としてつま弾きながら旅をした。とも言われているが、与鹿の彫刻や絵に、
題材として時々琴が登場しているところを見ると、この流木の琴の逸話も、全く根のないことでは
ないようである。(与鹿略伝)。

京都を目指した時にどこへ訪ねたのかは、次の三人の人間が浮かび上がる。

 一人目は、書家 吉田公均方へ南書(唐の書物)の研究に通ったとあるので、彼を頼ったか。

二人目は、別の記録に、「貫名海屋(ぬきなかいおく=書家)を頼る」とある。海屋が天保八年から
九年に高山国分寺に滞在したことがあり、おそらく寺で身を寄せているうちに海屋と知り合いになり、
面識があり直接世話になったかと思われる。

 三人目は、宇治の環渓和尚。
彼と後年つきあっているので、彼を宗猷寺の和尚に紹介されて向かったか、あるいは禅宗に深く帰依
していたから、宗猷寺の本山=臨済宗の総本山妙心寺に身を寄せ、そこでしばらく過ごしたものとも
考えられる。

 これについては、確たる資料がなく推測の域を越えないが、与鹿は、「画家吉田公均方へ、南書の
指導を受けるため通塾していましたが、公均と昵懇(じっこん)の間柄であった、伊丹の造り酒屋の
岡田利兵衛の祖父が、与鹿の奇才を愛し、彼を食客として自宅に招き優遇しました。」(代情山彦)ようである。

 吉田公均が居候の与鹿に手を焼き、貫名海屋に預け、海屋も手を焼き、岡田利兵衛に相談したところ、
利兵衛が他の文人墨客と同じように与鹿を伊丹に招待したと推察される。
ここで、南書を研究していたということは、広く世界の動向に興味を持っていた証であり、唐子、龍、獅子
などの彫刻のことを調べているうちに、南書に行き着いたと考えることもできる。


伊丹の岡田家(阪神大震災後)再建

徳積善太  

2008年03月27日

彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」32 与鹿高山を去る

◇与鹿高山を去る     (三十歳(満二九))

与鹿も渡ったかもしれない塚田の渡し

与鹿は、この鳳凰台の仕事を横目に見ながら嘉永四年(一八五一)夏、放浪の旅に出てしまう。
この理由については数々の説がある。

 ・「大酒飲みで借金がかさんで不義理を生じて高山を去った」(借金説)

 ・「若年にて大成作品を世に出した天才肌が、広い世界に呼び出されたか、招き入れられた」
(大志説=飛騨の匠老田氏)

 ・「飛騨では職人が比較的軽率に扱われるのでそれに嫌気がさした」(職人誹謗説=元田氏)

などの説があり、元田氏と老田氏の間で相当の議論がなされたようである。
筆者は、これ以外にも前述のように、「自分の生き方に疑問を持った与鹿が、高山にいては大工と
してだけの人生で井の中の蛙に終わってしまう。禅や国学など好きなことを学ぶうちに、違った世界
を見てみたいと考えていた。そこへ高山独特のねたみや誹謗中傷(最高のものを作り続けても、
新しいものができるたびに「あいつはうちよりいい物を作りやがった」などという中傷)を受けるように
なり、それがわずらわしくなったところへ兄がまた屋台建造を受注してしまった。それが原因で、
高山を去った。」(誹謗中傷説=筆者)のではないかと考える。

今でも飛騨の若者は「古い風習にとらわれず、自分の世界を持ちたい」と考えて都会に出て行くが、
しきたりや習慣にとらわれない生き方を求めたのではないだろうか。その証拠に二百年経っても未だ
に谷口与鹿のことを「与鹿」と呼び捨てにしているが、伊丹では様付けで呼ばれている。

 そんなことからも高山の町衆が職人を下に見ていたDNAが私たちの中に流れているのかもしれない。
この理由については、今後も様々な議論がなされることであろう。

 また、与鹿同様に中川吉兵衛もこの頃高山の歴史から姿を消していることも史実の一つとして注目
すべきことである。
与鹿が高山を去ったとき、こんなエピソードがある。「彼が益田街道を歩いているとき、良く見ると冬の
綿入れを着て裏返しに、左前に着て平気で歩いていた。そこへ美濃から高山へ帰る顔見知りの魚屋
(代清茂助)が注意すると、『昨晩泊まった宿屋で蚤をひろったので、取るのも面倒だから裏返しに着た
のだ』と語り、「ノミはそれでいいが、冬の綿入れでは暑いだろう」と言ったら彼はびっくりして、
『どうりで暑いと思った』
といたく感心し、着ていた綿入れを脱ぎ、越中ふんどし一つになって今度は手早く着物の破れから手を
突っ込み、あっという間に綿を引き抜いてしまった。座っている回りは綿だらけ。
『さあ、これで軽くなった』
と子供のように喜んで、次の瞬間にはもう南に向かって歩いていったという。」(高山祭)

徳積善太  

2008年03月26日

彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」31 八幡鳳凰台の修復

◇八幡鳳凰台修復

嘉永三年(一八五〇)三月に与三郎延恭は、鳳凰台組の屋台改修の仕事を請けていた。
与鹿と長男宗之とともに鳳凰臺の建造に携わることになる。しかし、屋台完成が五年後の
安政二年(一八五五)となっていることから、麒麟臺・恵比寿臺の建造の倍の時間がかかって
いることがわかる。実は与鹿は翌年嘉永四年に(一八五一)夏、高山を去る。
また、棟梁である兄延恭は何らかの病気にかかっていたものと思われる。 
 なかなか作業の進まない状況に屋台組の人たちがやきもきしていた姿が書簡から読み取れる。
のちに安政二年秋の完成後すぐ、十一月に兄延恭は、五四歳の生涯を閉じることになる。

徳積善太