2008年07月27日
金山~福来の火打峠
飛騨の下呂門和佐から福来に抜けて、かつては火打峠という峠がありました。
下呂から対岸に渡らずにそのまま陸路を宮地~門和佐~福来~金山へと抜けるルートが
あったところです。

峠の石柱

下呂方面から抜けると、見事な石垣の棚畑になっています。茶畑として利用されています。

しばらく行くと、杉の美林が。かつてはここも茶畑だったと思われます。立派な石垣があります。

峠にある看板。この道を左に行くと、高天良権現跡地へ行く高天良林道に入ります。
この山は、霊山としてあった山で、ふもとの古刹 万福寺の奥の院として、神亀初年(724年)
に泰澄大師が開いた山として知られています。
この林道の分かれ道が、「火打峠」です。

そのことを示す看板があります。

夏らしい画像。今でも清流が流れています。

もう一つ、清流。大変きれいな水です。この水は、福来地区、益田川へと流れています。
徳積善太
下呂から対岸に渡らずにそのまま陸路を宮地~門和佐~福来~金山へと抜けるルートが
あったところです。
峠の石柱
下呂方面から抜けると、見事な石垣の棚畑になっています。茶畑として利用されています。
しばらく行くと、杉の美林が。かつてはここも茶畑だったと思われます。立派な石垣があります。
峠にある看板。この道を左に行くと、高天良権現跡地へ行く高天良林道に入ります。
この山は、霊山としてあった山で、ふもとの古刹 万福寺の奥の院として、神亀初年(724年)
に泰澄大師が開いた山として知られています。
この林道の分かれ道が、「火打峠」です。
そのことを示す看板があります。
夏らしい画像。今でも清流が流れています。
もう一つ、清流。大変きれいな水です。この水は、福来地区、益田川へと流れています。
徳積善太
2008年07月26日
江戸時代に作られた木賊洞の街道
江戸時代に、高山の旦那衆は、自分のお金をつぎ込んで、いろいろと街道整備を行いました。
久々野から渚に行く途中、木賊洞(とくさぼら)という場所がありますが、そこは交通の難所で、
二木長嘯(長右衛門)氏(酒造業)と田中英積(材木商)という人が共同で、文化5年(1808)に私財を
なげうって、土木工事をされました。
その功績をたたえる石碑が、今も木賊洞に残っています。

道路端にある、石碑。河内道改修碑となっていますが、かつてこの地は、河内村と
呼ばれていた地域です。

横から見ると、文化五年の文字がはっきりと見えます。

現在の木賊洞の難所は、洞門になっています。

対岸から見ると、ものすごい崖の連続となっています。

上流部に向かって、左はものすごい崖、右は益田川の流れがあり、交通の難所でした。
以前は、橋が上流部にかけられていたようです。
先人の功績に感謝したいと思います。
徳積善太
久々野から渚に行く途中、木賊洞(とくさぼら)という場所がありますが、そこは交通の難所で、
二木長嘯(長右衛門)氏(酒造業)と田中英積(材木商)という人が共同で、文化5年(1808)に私財を
なげうって、土木工事をされました。
その功績をたたえる石碑が、今も木賊洞に残っています。
道路端にある、石碑。河内道改修碑となっていますが、かつてこの地は、河内村と
呼ばれていた地域です。
横から見ると、文化五年の文字がはっきりと見えます。
現在の木賊洞の難所は、洞門になっています。
対岸から見ると、ものすごい崖の連続となっています。
上流部に向かって、左はものすごい崖、右は益田川の流れがあり、交通の難所でした。
以前は、橋が上流部にかけられていたようです。
先人の功績に感謝したいと思います。
徳積善太
2008年05月18日
飛騨から江戸まで
飛騨から江戸まで、どのようなルートで行ったのか、調べてみました。
嘉永6年に高山で発行された地図をみせていただきました。
それによると、高山を出発して1)野麦峠、2)日和田、3)下呂~付知~中津川の3ルートがあり、
そこから、中仙道を通っていくルートがあることがわかりました。
今のように、下諏訪から甲府方面に抜けるルートではなくて、軽井沢から大宮~板橋といった
ルートを通って行ったようです。
この詳しいお話は、放送でお伝えいたします。
徳積善太




