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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年07月27日

金山~福来の火打峠

飛騨の下呂門和佐から福来に抜けて、かつては火打峠という峠がありました。

下呂から対岸に渡らずにそのまま陸路を宮地~門和佐~福来~金山へと抜けるルートが
あったところです。

峠の石柱


下呂方面から抜けると、見事な石垣の棚畑になっています。茶畑として利用されています。


しばらく行くと、杉の美林が。かつてはここも茶畑だったと思われます。立派な石垣があります。


峠にある看板。この道を左に行くと、高天良権現跡地へ行く高天良林道に入ります。
この山は、霊山としてあった山で、ふもとの古刹 万福寺の奥の院として、神亀初年(724年)
に泰澄大師が開いた山として知られています。
この林道の分かれ道が、「火打峠」です。


そのことを示す看板があります。


夏らしい画像。今でも清流が流れています。


もう一つ、清流。大変きれいな水です。この水は、福来地区、益田川へと流れています。

徳積善太  
Posted by rekisy at 21:00Comments(2)TrackBack(0)街道について

2008年07月26日

江戸時代に作られた木賊洞の街道

江戸時代に、高山の旦那衆は、自分のお金をつぎ込んで、いろいろと街道整備を行いました。

久々野から渚に行く途中、木賊洞(とくさぼら)という場所がありますが、そこは交通の難所で、
二木長嘯(長右衛門)氏(酒造業)と田中英積(材木商)という人が共同で、文化5年(1808)に私財を
なげうって、土木工事をされました。

その功績をたたえる石碑が、今も木賊洞に残っています。

道路端にある、石碑。河内道改修碑となっていますが、かつてこの地は、河内村と
呼ばれていた地域です。


横から見ると、文化五年の文字がはっきりと見えます。


現在の木賊洞の難所は、洞門になっています。


対岸から見ると、ものすごい崖の連続となっています。


上流部に向かって、左はものすごい崖、右は益田川の流れがあり、交通の難所でした。
以前は、橋が上流部にかけられていたようです。

先人の功績に感謝したいと思います。

徳積善太
  
Posted by rekisy at 20:00Comments(0)TrackBack(0)街道について

2008年05月18日

飛騨から江戸まで



飛騨から江戸まで、どのようなルートで行ったのか、調べてみました。

嘉永6年に高山で発行された地図をみせていただきました。

それによると、高山を出発して1)野麦峠、2)日和田、3)下呂~付知~中津川の3ルートがあり、
そこから、中仙道を通っていくルートがあることがわかりました。

今のように、下諏訪から甲府方面に抜けるルートではなくて、軽井沢から大宮~板橋といった
ルートを通って行ったようです。

この詳しいお話は、放送でお伝えいたします。

徳積善太
  
Posted by rekisy at 21:00Comments(4)TrackBack(0)街道について