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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年07月22日

小鷹利城跡1

先月は、小島城跡について、お知らせしましたが、今週は、小鷹利城跡について、
お知らせしたいと思います。

いずれも、6月1日に行われた、古城めぐりツアーの記録です。

 さて、小鷹利城ですが、場所は、古川町黒内にあるサッカー場の後の山の上にあります。


地理的には、古川町と河合町の境目になります。黒内からも遊歩道があり上がることができますが、河合の
稲越地区に一旦出て、国道360号への橋を渡らないで左へ行きます。
すると、夏に六本木へ持っていく雪が保管してある谷の道をどんどん上がっていくと、丁度小鷹利城の
山の後に出ます。今回のツアーもそこから歩きましたが、その道の方が、城跡へ行きやすいと思います。



ここにはかつて、姉小路一族の小鷹利伊賀守が住んでいたといわれています。ここは、峰続きの黒内城
というお城があって、最初は、この黒内城が、姉小路の宰相藤原頼鑑(よりかね)という人が建武2年
(1335)に築き、その後、防禦に勝れた小鷹利の城を作り、そちらに移転したものとも言われています。


 黒内城と小鷹利城の両方を熊沢先生がご案内くださいました。
なるほど、城の規模も防禦の仕方も小鷹利城の方が勝れている事が素人目にもわかりました。
中でも驚いたのは、畝堀というものが本丸のすぐ下のところにありましたが、本数が14本もありました。


1mほどの巾で傾斜は30度から40度くらいのものでしょうか、そういう堀がたてに何本も掘られていて、
草がぼうぼうのところもありましたが、草の波ができているようにうねった状態を見ることができました。
ただでさえ、険しい山を敵が登ってきても、最後のこの場所に至ったときに、またこんな要害があれば、
上から弓矢や石を投げられたら、ひとたまりもありません。大勢で攻めてきても、この畝堀を登るときには、
巾が狭いので1人づつしか上れませんし、上の人が倒れれば、その人が下に転げ落ちれば下にいる
何人もの人がなぎ倒されます。昔の人は、よくこういう知恵を出して城の構造を考えたのだなと感心しました。
 

徳積善太
  

2008年06月22日

小島城跡5


こんな急斜面にも、堀切があったそうです。

(私には、単なる崖にしか見えませんでした)

ところが、ところどころ、道のようになっているところは、堀切といって、わざとくぼみを
作ったものだったそうです。そこに、土塁を築いて、そこに兵隊が待ち伏せし、下から
敵が上がってくると、石を落としたり、木を落としたり。

こんな急斜面で、上もろくずっぽ見えないのに、いきなり石や丸太が落ちてきたら、
敵もよけきれずに下に落ちていきますよね。

そこが防ぎきれなくなると、今度は、上の堀切に移って、同じことを繰り返したようです。

 
しばらく行くと、「石切場」がありました。

なるほど、ここから、城の上のほうへ、石を運んだんですね。
ここの石は、泥岩質・砂岩質の石で、比較的まっすぐに割りやすかったようです。
そのため、急な場所でも、ちゃんと切って積み上げることができたようですね。

昔は、石は切るのではなくて、楔を入れて割ったようですから、こういう石が存在したことも
城作りには大切な要素だったんでしょうね。


テレビ塔のところで小休止。当日は、お年寄りの方も見えましたが、がんばって登っておられました。
川上先生も、お年ですが、「楽しい」を連発されていました。

それにしても、単なる山と思ったところが、実は城跡で、城跡にはいろんな敵を防ぐ工夫が
なされていたこと。たいへんな驚きでした。
皆さんも機会がございましたら、車でも上がれますので、上がってみてください。

小島城跡(完)

徳積善太  

2008年06月21日

小島城跡4


帰りは杉崎口から降りることになりました。

この城は、西側の沼町口、東側の太江口、北側の杉崎口の3つの上り口があり、
どの場所からも、頂上まではたいへんに険しい山城となっています。


何の変哲もない、山のように見えますが、ここが見張り台、だそうです。

私には、普通の山にしか見えませんでした。(^^;;;)


ちゃんと、その下には、石垣がありました。

砂岩質の石でできていますが、どこからこのような岩を持ってきたのでしょうか。
それにしても、こうして、こんな高いところへ積み上げるだけでも、ものすごい労力です。


道なきところを降りていくと、ちゃんとその下にも石垣らしき痕跡がありました。
かなり崩れていますね。


その石垣は、ずっと下のほうまで続いていました。

この写真、撮影するのに大変でした。木につかまりながら、降りていきました。
斜度は、40度くらいあったでしょうか。杉葉が生い茂っているので、ちょっと間違うと
すぐに滑ってしまうような足場でした。もう二度と行けないでしょう。


それにしても、昔の人は、よくこんな急斜面に、こんなに大きな石を運んだものだと
感心しました。だって、まっすぐに立っていられない場所ですよ。


ちょっと開けたと思ったら、素晴らしい眺め。
袈裟丸方面が見事に一望できました。
やっぱり、こういう見晴らしのいいところに、お城を作ったんですね。

徳積善太
  

2008年06月20日

小島城跡3


小島城の頂上からは、このようになっています。

現在では、建物が建てられていますが、昔はただ陣を張っただけのものだったに違いありません。
いや、このような建物があって、殿様が雨露をしのいだかもしれませんねえ。
まさに歴史ロマンです。


頂上の城跡にあった石碑。昭和31年に建立と書かれています。


一番頂上の一の郭のあった場所。

すごく狭い場所でした。幅10m四方くらいでしょうか。
ただ、ここからの眺めがものすごく素晴らしかったです。


南方向を見ると、古川の町が一望できます。
ちょうど、この先に見えるのが、蛤城跡(古河城)です。


北方向を見ると、袈裟丸の町並みとその向こうに向小島城が見えます。
まさに、交通の要害といえます。

徳積善太

  

2008年06月19日

小島城跡2


先日6月1日に、小島城の見学ツアーがあり、参加してきました。

「飛騨に誇りをもとう会」という会の主催で、約20名が参加されました。
各務ヶ原の古城研究家 熊沢先生による大変詳しい解説つきのツアーで、中世の城が
どのように作られていたか。などの詳しい解説がありました。


小島城の郭配置図

この山城は、尾根に沿って作られており、中央の一番高いところに一の郭(くるわ)があり、
お殿様がここに陣取っておられました。
その下のところには、二の郭、三の郭があり、武者走り(=伝令が走る場所)や、曲輪(まげわ=
家来が敵を待ち伏せした場所)、堀切(空掘り。ここに人を落としたところへ、石や弓を投げた)
などが配置されています。



空堀の跡

一見すると、何の変哲もない、山ですが、古城研究者が見るとぜんぜん違います。
確かに、言われてみると、そうかなと思う程度ですが、昔はこのように木など生えていません
でした。そう考えると、この急峻な谷を登ってくるのは至難の業です。
ところどころ、縦堀があったらしく、谷に向かって線になっていることがわかります。

徳積善太
  

2008年06月18日

小島城跡1

姉小路氏は、金森が入国するずっと以前、建武の新政で、後醍醐天皇から飛騨の国司として
任命されました。

以来、三木氏によって、滅ぼされるまで、ずっと飛騨の国司を勤めていました。

その居城となったのが、小島城です。

普段は、山ノ下の居館に居を構えていましたが、有事の際には、城に立てこもって、
敵の攻撃を防ぎました。

古川町太江にある看板には、このように書かれています。

「県指定史跡 小島城跡  昭和34年11月16日指定

飛騨国司姉小路家、その一族小島氏が代々居城とした城で、応永18年(1411)に四代目
国司尹綱(ただつな)がこの城を守り、幕府派遣の大軍と戦って戦死したと伝えられて
いる。その後、天正13年(1585)8月金森長近によって滅ぼされた。
城郭は山の尾根に沿い、ほぼ東西方向に細長く構築されており、三ヶ所ある平場のうち、
東端の頂上部が主郭と考えられる。
越中西街道と神岡街道とに挟まれた標高630mにあるこの城は、越中あるいは高原郷
からの敵の侵入を防ぐのには、恵まれた位置にある。
   平成18年3月   飛騨市教育委員会」

この表記の中で、二箇所、疑問の部分があります。
1)応永18年にこの城で戦死した・・・諸説あります。
2)金森によって滅ぼされた・・・・・・・諸説あります。
三木氏によってというのが有力。金森は確かこの城は攻めていません。

この点については、諸先生のご指摘をいただきたいと思います。

徳積善太