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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2012年04月25日

第48回GS暮らしっく_赤谷城について

今日は、白川郷で第48回GS暮らしっくの講演会がありました。城郭研究家の佐伯先生が
講演をされました。その記録です。

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平成24年4月25日  白川郷総合研修センター
48回GS暮らしっく

司会:本日の司会は佐藤が行います。それでは、会を代表して山崎秀信が御挨拶します。



山崎です。何時も集まって頂き有難うございます。いつも同じ話になりますが、白川郷五箇山が
世界遺産になって見えなくなることを無くそうと48回前から話をしていただいています。
今日も面白い話しが窺えるのではと思います。
ガイドをやっていまして、研究するというのではなく、他の人の話しを面白おかしく話すということを
やっています。講演をやってくれないかと言われ出掛けることも有ります。南砺市の井波町で五箇山
の平家伝説を話してきました。

いつもたどたどしい挨拶をしておりますが、その中で一番受けた話を紹介します。
白川と五箇山の人はどこから来たか。いろんな話の中の一つですが、米沢やすしさん。利賀村の
歴史研究者の書かれたノート。昭和37年の中に、金沢大学医学部解剖学教室の論文がありました。
五箇山白川郷の解剖学的人類学的研究。どういうことかというと、身体計測をやったり瞳の色、
髪の毛。男女ともに最も飛騨人に類似し、アイヌ系。富山とは隔絶している。
どちらかというと九州の人に近い。関東・東北とは明らかに相違。
何故平家の話と関係するかというと、九州の人たちを漕ぎ手で雇ったので落人になった可能性が
あると言って紹介しました。
少なくとも五箇山と白川は同じだという事でした。
北日本新聞に取り上げられました。昭和25年の調査と云う事で、戦後すぐDNAを調べることが
できない時代に、同じだった。
最近、自分がお話しして下さいといって話した話しで受けた話でした。
今日の話しは大変興味深い話しですので、よろしくお願いします。お集まりいただき有難うございました。

司会:佐伯先生の紹介をします。北陸城郭研究会会員。富山市在住。関西電力にお勤めの傍ら、
全国の城を研究。1500か所以上。岐阜県300カ所。200か所が岐阜県。講演や白川郷の城郭調査
などを行っておられます。
今日は赤谷で発見された城についてお話しいただきます。

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御紹介いただきました佐伯です。
今日は、赤谷で発見されたお城と云う事で白川村ではなく荘川町で発見されたお城の説明となります。最初にお断りしますが、この中には帰雲城の話と思って期待されていると思いますが、その話しはしません。赤谷の城についてお話ししたいと思います。ただ、帰雲城はわかりません。これが帰り雲に対して貴重なヒントをもたらせてくれるかもしれない部分があります。
それでは、スライドで説明します。

1)平成21年に発見された赤谷の城です。赤谷城と云うのは荘川にあります。
156号線の対岸になります。



2)赤谷城につきましては田口さんが発見されました。その年の論文に既に発表されています。荘川と白川の境目にある。日崎の「むっきりこっきり」といわれていた伝承がありました。凹凸のある所をそう呼んでいたそうです。ます。その時の名前が日崎山城と中野山城として紹介されています。
本人がどういうつもりで付けたか存じませんが、一度論文に発表されるとそれが正式な名前になります。今のところそういう名前になっています。それが非常によろしくない。
中野があって、海上。城跡はどこにあるかと云うと、上の方になります。
字名は日崎でもなければ中野でもない所にありますので、学会に発表し直したいと思っています。赤谷城と下向山城で訂正したいと思っています。


3)因みに日崎山城は、尾神川と荘川の境目にある。日崎のむっきりこっきりといわれていた。凹凸のある所をそう呼んでいたそうです。そういう事で行きたいと思います。


4)赤谷城平面図
もう一つお断りしたいのは、3年立っていますので、幾人かの城郭研究者が調査済みです。
お城の上の方や下の方にあるという話も有りましたが、下流にも上流にも城跡が認められませんでした。この範囲が城跡だという事で話しをさせていただきます。


この資料の3番を見ていただきたいのですが、934m 遺構が240m飛騨ではまだまだ高い方ではありません。飛騨では標準的です。保存状態は良い。昔の姿をよくとどめています。もう一つこの城で重要なのは、場所です。昔は街道が下に走っていましたが、尾神郷からおりてくる丁度合流点に築かれているということを覚えておいてください。
道についても後ほど触れますが、信仰の道として重要です。


5)から堀の形です。人工的に切ってあります。6m位の自然地形を45度くらい削ってある。


6)尾根続きの処10m深さ4m大規模なもの。

お城の概要としては、こんな所ですが、お城に行ってびっくりしたのは大きさです。
130m位の大きさ。飛騨では之を超える規模のものは16個しかありません。16のうち、高原諏訪城や廣瀬城などの江馬や三木の城などです。

堀切は幅が14mくらい。回りの切ぬしが6m。之を超える規模のものは飛騨では8つ。飛騨でも10本の指に入る位の大きさと言える。

こういうものを築くことができる人間は、一村や二村を支配する人ではなくて郡クラスの豪族しかできない。御母衣湖の対岸に見つかったという事で、信じられませんでした。
観発見で残っていることが考えられなかった。発見できた喜びと云うより未発見であることの衝撃があった。

庄川沿いのお城。新渕城、向牧戸、荻町城。小白川砦は50mクラス。いかに大きいかと云うことがわかると思う。

7)小白川砦。堺川ダムの合流点。このお城の大事な所はその下に高坊と中坊と云うのがある。城の下の台地にお寺があったかもしれない。

これが小白川砦です。
今見つかったのは如何に巨大か解ると思います。

8)ただ大きいというだけではなく巧妙に造ってあります。尾根の先端に向けて城がありますが、尾根の先端から攻めてきた敵は堀切にぶつかります。45度も有ります。これはほとんど絶壁です。登れなかったと思います。敵はどうするかというと二手に別れます。分かれた敵は谷底に行くだけ。南に行った敵をどう対応するか考えられている。側面に廻り込ませないように、ずっと尾根に人工的な壁を延々と作っている。廻り込ませないようにしている。敵に対して、廓を造り、小さな廓があり見張っている。ここで廻り込ませない工夫をしています。尾根を切って横堀を廻らして絶対に敵を廻り込ませない工夫が見られます。
一つ考えていただきたいのは、これが全部ワンセットのお城だということです。どういうことかというと、これは堀とか切ぬしと云う斜面なんですが、ワンセットで機能する。どれか一つ欠けても機能しない。一つがワンセット。堀があったとしても、切ぬしがなければ敵が中に入ってきます。ずっと張り巡らすことで、敵がなかなか入れない。もう一つ谷に向けて切ぬしを造っている。小さな弊とか廓を造っている。ワンセットの防御機能になっている。これをさらに言わせていただくと、これが一つ欠けても機能しない。同一の人間が同一の時代に全部造ったということが言えます。ばらばらの時代に造ったとかいうのではありません。
東側についても、堀切を造って廻り込ませないような工夫がされています。
これが、お城を考える上で重要になってきます。
同一時代に同一の人間が造ったとすると、先祖代々何代にも渡って造ってきたお城ではないということです。一定の時期に造ったものでしかないということが言えます。それが現われているのが、平坦面です。ほとんど自然地形になっています。ほとんど建物が立っていた形跡がありません。これはどういうことかといいますと、建物が立って、ほとんど自然地形で整形されていないということです。回りは整形されています。
ほとんど自然地形の儘で残っています。そう解釈すると、大規模な建物が立たないということが裏返していえばいえます。大規模な建物が立たないということは、簡単なものであったと思われます。プレハブや小屋みたいなものだと思います。
短期間の籠城でしかあり得ない。先祖代々何100年にもたって使われたお城ではないということが言えます。

これはいつ頃のものか。
いつ誰が造ったかという決定的な遺構が残っています。幸いなことに残っているので年代の絞り込みが可能です。横堀がありますが、そこに溝があります。深さが50cmくらいですが、昔は1m位あったと思います。
その横堀が残っている事例は、13条残っていて、12条までが天正年間のものです。
さらに、この中で重要なのは、横堀が残っているという事と廻り込ませないような遺構がある。これは最終的には天正年間まで下ることができます。
下るつまり、下限の話しです。天正年間まで下がることができるだろうと思います。そしたら、上限はどこになるのか。横堀を持つお城は天正年間。もう一つはワンセットで全部作られているということでは、同一の人間が造ったということであれば、天正年間を余り遡らない時代だと思われます。
もう少し古いものが見られれば1500年代まで遡る事ができるのですが、そういうものがありません。

上の大規模な平坦面しかないという事で、天正年間に築城されてそのまま廃城になったと考えられます。

誰が築城したのか
小さな土豪クラスではない。まさに郡単位を支配。築城が天正年間。ということになると、たった1人しか該当しない。内ヶ島氏でいいのではと思います。
帰雲城とは言いません。そういう風に考えて行くと、内ヶ島氏が天正年間に築城した可能性が大です。

何故ここか。金森長近軍が飛騨に進攻。越前の石徹白から尾神郷を下ったという話しがある。しかし否定的な見解を持っている。石徹白にて話しを窺ったところ、尾神郷の、三の峰から下りたという人も有れば、勝山から赤兎岳を超えて来たという人も有った。修験者位しかないという見解を持っていた。ところが、石徹白に白山絵図があった。

この囲ってある所が重要で、「ひだがたへ」という峠があった。中州宿。尾根と尾根を修験していく尾根越えをする一般の宿であった。これがどこかと云うと、こちらになります。
金森軍が通ったとなると、これが重要なルート。
越前から飛騨に抜ける最短ルートとして信仰の道と相まって、存在していたと思われる。

そういうことであると、尾神郷のルートは重要なルートとなる。
何故ここに城があるかは、ルートがあった。天正13年飛騨に来た時には、赤谷城跡は内ヶ島氏の城であった。金森軍を撃退するということが考えられる。短期間と云うことであるので、金森軍が攻めてくることがわかり、この城を造った。一ヶ月くらいで出来たと思う。ということで考え方は合致する。
赤谷城は天正13年に内ヶ島氏によって築城されたと思われる、一時的な城郭だと思います。

色んな推測から言えるので有ります。これが赤谷城についての見解であります。

下向山城がもう一つ発見されています。800mしか離れていません。
この城は、超省エネの城。全く無駄を省いてある。平坦面が全くない。ずっと自然地形。城の鉄則である尾根の前と後ろを切ってある。だけど残念ながら時代を特定する物を残していない。形からだけでは推測ができない。推測すれば、赤谷と800mしか離れていないということ。このお城も、平坦面が全くないという事で、臨時的なお城だとすると、一つの可能性としては赤谷城と一緒に造られた出城・子城として作られたと考えてもよい。

残念ながら今言えるのはそれだけ。
下向山城については詳しく言及できない。800mしか離れていないので、赤谷城とつながりがあったものと思われます。

以上で2つの城を説明しました。縄張りを見ることで、天正13年に造ったものとして内ヶ島氏が造ったのではと思います。
内ヶ島氏は越中、美濃等に隣接する大きなエリアを持っていた。内ヶ島氏と云うのが国人級の人だということが、物証で証明できたと思う。
帰り雲城が、どんな形をしてどこにあったかというヒントを与えてくれたと思います。

お城の話しはこんなところで終わっておきます。
もう一つお話ししたいのは、お城の研究を30年やっていますが、登山も30年経験しています。日本の山を大体いっていますが、白川村の白山は年に45回登っています。好きな山です。白山は山陵がなだらか。ブナ林が多い。東北の白神山地のブナ林は知りませんが、白山のブナ林はトップクラス。立山もいいが、比較にならないくらいすごい。白山は富山石川岐阜福井にまたがっているが良く残っているのが白川村のブナ林。石川県のちぶりおね白山釈迦岳のブナ林がすごいというが白川村は問題にならないくらいすごい。白川村の貴重な宝の一部だと思います。うまく生かしていくことも重要。というのは、石川県の白山はバスを何台も連ねてくるので有名だが、単なるレジャー。白川村の白山は自然豊かで森の美しさを残している。だから、今日は石川県は悪い例として、ああなっちゃいけないということで白川村の宝を生かす手立てはないかと思います。
今後村の方と話し合っていきたいと思います。

石川、富山からみた白山の歴史がありますが、白川村からみた白山の歴史を研究してPRした方がいいと思います。
お城同様、失敗しない形でお勧めできればいいなと思います。

司会:それではせっかくの機会ですので、質疑応答に入りたいと思います。質問のある方は挙手をしてお願いします。

Q質問 山崎:山城は専門ではないのですが、どういう戦いをしたのですか。城に籠もって待っているというのではないと思いますが。

佐伯:おそらく立て籠って戦ったというものです。おそらくこの下に国人級の領主がいて、臨時的に1カ月か2カ月廃棄されたお城だと思います。

Q山崎:そこに立て籠もったという。ものですか。

佐伯:普段の居館は麓にあったと思います。
通り過ぎるのを待つか、籠城して戦ったものだと思います。
金森が石徹白から攻めてくるだろうというのは1年くらい前からありました。

Q長瀬:城と砦とのろし台というのは具体的にどう違うのですか?

佐伯:ほとんど違わないので答えがありません。でっかいのをお城。小さいのを砦。どこからどこまでが大きくて、どこからどこまでが小さいかというとわからない。
感覚的に、50mを下回ると何となく砦。50mを上回ると城かなと思います。のろし台は大きいとか小さいではなくて、いわゆる防御施設が無いもの。空掘りなどが無いもの。のろしの施設を併用したものだと言えます。
1カ月で作れるくらいの城なので、そんなに手は掛けてないと思います。
長期間滞在するつもりはないから、プレハブの小屋みたいなものだったと思います。

Q何人位籠城できるのか。
100人位は大丈夫かと思います。

Q飛騨界隈の城跡で短期間の城跡はあるのか
わずかながらあります。金森が攻めるにあたって造られたものは、三木氏も作っていまして、国府の城がそうです。

Q鉄砲は使わなかったのか
大規模な鉄砲の導入はなかったと思います。この形からは内ヶ島と三木はほんの数丁だった思われます。

それでは、これで、佐伯先生の後援を終りたいと思います。本日はどうもありがとうございました。


徳積善太記  
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2012年03月09日

合掌造りの屋根の葺き方


今日、仕事で白川郷帰りに、今度の4/7 GS暮らしっくの講演の打ち合わせをしました。上手さんと板谷さんとお話していたところへ、五箇山の山崎さんが登場され、五箇山と白川郷の合掌造りの違いや研究内容について、とても貴重なお話を伺うことができました。

驚いたのは、五箇山の茅の葺き方が、白川郷と違うこと。白川郷では、屋根全体を葺くのに対し、五箇山では、片方の屋根を1/3づつ葺く家があったとか。3年ごとに、6回に分けて葺いたそうです。

下ろした茅は、肥料として農業に使ったようで、小さな村では白川郷でもこのようなふき方をしていたそうです。とても勉強になりました。








こちらは、白川郷の一般的な屋根の葺き方。


白川郷では結の団結を使って村総出で、一気に葺くそうです。ただし、最近は五箇山でもこの方式をとるらしい。理由は、つなぎ目から雨漏りしやすいことと、足場を組むのに費用がかかること。効率が悪いこと。また、作業する方の年齢が上がってきて最近2人ほど怪我や事故があったからだそうです。

  
Posted by rekisy at 22:25Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2012年02月24日

白山広域文化研究会の設立準備2

白川郷や白山の東側の歴史、文化、民俗、風土を研究するための研究会を
このほど立ち上げることになりました。

本日、第二回の設立準備会の会議を白川郷道の駅図書館で開催しました。

今まで、白山文化については、勝山市、白山市、郡上市など、白山の馬場と呼ばれる
登山口がある所で、研究がおこなわれてまいりました。
しかし、白山のふもとである東側の白川郷(大野郡白川村)、南砺市五箇山町、高山市荘川町・
清見町、郡上市高鷲町などでは、研究がなかなか進んでいませんでした。

このほど、名称も広域文化研究会とつけることで、既存の団体とも連携を取っていきたい
と思います。

3月24日13時より、道の駅白川郷 研修室にて設立総会を開催いたします。

14時頃から記念講演会を開催しますので、ぜひともご参加ください。

なお、年会費(入会金)は3000円。講演会費用(資料代)500円です。
講演会のみの参加も可能です。


徳積善太
  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2012年02月13日

白川郷荻町の獅子頭

先日、白川郷荻町の荻町八幡神社にお邪魔した時に、横に隣接している「どぶろくの館」の
展示物を見せていただきました。

冬の間は、閉鎖中ですが、特別に見せていただいた時の写真です。

夏季営業期間中には、拝観料の代わりにお賽銭をあげていただくと、お神酒として本物の
どぶろくがいただけます。

その時に、展示してあった、獅子舞の獅子頭の写真です。
もともと、古い獅子頭が伝わっていましたが、昭和58年に補修されて、新しく見えますが、
もとは、古いままの獅子頭です。



キャプションの表示については下記のようになっています。

「白川八幡神社の獅子舞

当神社の獅子舞には、寛永12年(1635)再建の折、宮居の悠久
の鎮めにと作られ奉納された姫獅子と、その後天保年間に天災、
悪疫があいついだため、獅子を抑えるために獅子取りの少年二
人を加えてつくられた雄獅子の二つの舞があります。
 姫獅子は七つの形よりなる静かで優雅な舞であり、姫獅子の
獅子頭は大切に取り扱われてきました。
 それに対し雄獅子は十の形よりなる勇壮で荒々しく乱舞する
ものであり、その獅子頭のいたみも激しく、左に展示されてい
る獅子頭にもあるように、歯が欠けたり、無数の刀傷などによ
り、これまでに何度も作り直されています。」

獅子頭(姫獅子)
(社宝)
製作:江戸時代初期
(昭和58年破損により修正された)


獅子頭(雄獅子)
昭和初期のもの(左)

大正時代のもの(右)

徳積善太
  
Posted by rekisy at 23:02Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2012年02月03日

白川郷荻町八幡神社の節分祭

いつもは、大隆寺の妙見祭(節分祭)にお邪魔していますが、今日は、調査を兼ねて白川郷の
節分祭にお邪魔してきました。



昨日まで186cmの大雪の降った白川郷は、ごらんのとおりの積雪。
この状態では、そろそろ雪下ろしをしないと、あぶないですね。



神社の境内も人が住んでいないのでご覧のとおりの積雪。
こんな雪で、神事ができるのかと心配しました。



神事の前の風景。こちらの神社では、神主さんも出仕の前は下段から進まれるんですね。



雅楽の演奏が始まりました。
出仕の曲は「越天楽」。距離がないのですぐに終わりました。

自分の雅楽会の演奏はよく聞きますが、他の雅楽会の演奏を聴いたのは久しぶりです。



献撰の儀。神様の前にお供え物をします。
雅楽の演奏の中、こちらの神社では、神主さんではなく、一般の方が正装して行ないます。



さすがに、神事の最中は、写真撮影ができないので、遠慮しました。
こちらの氏子の方は、祝詞奏上の最中は、畳に頭がつくくらい平伏されていました。
とても驚きました。


祝詞の後は、氏子の皆さんの名前をすべて呼ばれました。結構時間がかかった祝詞でした。
また、おそらく神社本庁の祝詞と節分の厄祓いの祝詞でしょう。祝詞が三つありました。


玉串奉奠では、総代さんから順番に奉奠されましたが、総代さんの装束を見てください。
神主さんのように、白の着物を羽織の下にお召しになっています。

よくみると、下の着物は、袴ではなくモンペです。そういうところで神主さんと差別がされて
いるんですね。
こちらでは、年中行事を小祭、中祭、大祭に区別され、中祭以上は、正装が義務付けられて
いるそうです。ちなみに、大祭は、新年祭と例大祭の2つです。

また、通常の神社では、玉串奉奠の時には太々神楽が奏上されますが、こちらでは、雅楽が
奏上されました。この曲は、初めて聞いた曲で、聞いたことのない曲でした。



(手ぶれですいません)
驚いたのは、羽織の紋。よく見ると16枚の菊になっています。
16枚の菊は、天皇家と同じ。

高山の桜山八幡神社でも、こちらの神社と同じ「応神天皇」を御祭神としてお祭りになっていますが、
そちらは遠慮して、紋は1枚たして17枚になっています。
今まで、16枚の菊の紋の神社を見たことがありません。これには驚きました。



神事が終わり、出席者から福男と福女の方が選ばれました。
お二人とも、厄祓いでご出席でしたが、突然の御指名にびっくり。
それでも、ちゃんと着物を着て、臨まれました。

(あわてて着たからか、袴のはき方が、前後ろひもの結び方が逆でした)



福男、福女の人と、神主さんが一緒に豆をまかれました。
「鬼は外、福は内」の声が拝殿に響きました。



最後に、神主さんがご挨拶をされ、今日のお参りのお礼。そして、厄祓いをされたお二人の
お話をされました。



さすがは、どぶろく祭の里。
こちらのお神酒は、もちろん「どぶろく」でした。
このお酒、大変口当たりがいいのですが、あとからかなり酔うんですよね。
私もかつて、どぶろく祭りで、めったに酔わないんですが、その時は全く覚えていなくて、いろんな
方にご迷惑をかけたそうです。



一排のあと、みんなでお神酒をいただきました。
とってもおいしかったです。

こちらの神社では直会(なおらい)という料理をふるまうことはなく、どぶろくをいただいてお開きと
なりました。



最後に、雅楽で玉串奉奠の時に演奏されていたのは、「底清み」という曲でした。
雅楽の曲でしょうが、聞いたことのない曲でした。

楽長さんにうかがったら、昔からこの神社ではこれを演奏しているとのこと。
大変珍しい曲に驚きました。

楽譜を見ると、歌詞も付いていますね。

「そこきよみ なかるるかわの
さやかにも はらふることを
かみはきかなん」

底清み、流るる川の さやかにも 払うることを 神は聞かなん」だと思いますが、さすがに和銅元年
(708年)創設のいわれのある神社ですから、意味が深いと思いました。

この曲のいわれは、また調べたいと思います。


最後は、雅楽の皇城急(徹撰)と鶏倍楽(退出)が演奏されました。


いろんな神社の作法を知ることができました。

徳積善太  
Posted by rekisy at 21:15Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2012年02月02日

山下家の系図_城山館

以前、山王古文書研究会でお邪魔した時に見つけた「山下家の系図」です。

山下氏勝のことが詳しく書かれていました。
城山館のなくなったお爺さんが生前に調査されたものらしいです。



徳積善太  
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2012年01月26日

白川郷の雪

昨日、白川郷に行き、打ち合わせをしてまいりました。

今度、「白山広域文化研究会」を発足するための準備会として打合せをしました。
2月か3月に発足式を行ない、今後白川郷、荘川町、高鷲町、南砺市五箇山を中心とした
研究会を発足させます。

ところで、昨日の寒波により、帰るときには大雪。


3時間の打ち合わせの後、車に戻ったら30cmの積雪で車が埋っていました。

その後、会食をして帰るときには、また30cmの積雪。道路は雪で埋まっていましたが、
白川郷の人のたくましさを痛感しました。


徳積善太
  
Posted by rekisy at 20:59Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2012年01月09日

白山広域文化研究会の設立準備

昨年末に発見された白川郷の中世の城について、いろいろと新発見の事実がでてきそうです。

そのため、白川郷地域の歴史研究者や、飛騨地域、越前、加賀を含めた広域の研究者を集めた
広域文化研究会を設立する動きになります。

昨日、名古屋の方と白川郷の方と、設立準備会の打ち合わせをしました。



詳細については、また準備ができ次第ご連絡いたします。


徳積善太

  
Posted by rekisy at 00:23Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2011年12月20日

山下家系図

先日、名古屋に行き、蓬佐文庫に行きました。

今まで謎とされて来た、山下家の系図を発見しましたので、コピーし、整理してみました。



これによると、国府の廣瀬家とも関係があったことがわかります。

以前、「姉小路と廣瀬」に掲載した、私の原稿にも廣瀬家と山下家の関係が書かれていましたが、
これで、はっきりいたしました。

徳積善太

  
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2011年10月24日

白川郷の合掌造り1_金山のドライブイン飛山1

先日、金山のドライブイン飛山にお邪魔しました。

そこには、白川郷の足倉地区から運んできた合掌造りがあります。



合掌造りとしてはかなり大きなもので、かつて庄屋さんを務めていたお宅から移送してきた
ものだそうです。

看板を見てびっくり。



「ご案内
ここは飛騨の玄関口です。ようこそ、おいでくださいました。
 この合掌家屋は安永7年(1778)今から約200年前、奥飛騨の
白川村に建立された文化財相当の家屋です。
この地にいてんしました、この家屋は「飛騨の山海会席料理の店」
として営業いたしております。
法要・商談にグループの小宴会にご利用いただければ幸いです。
くわしくは、フロントでお尋ねくださいませ。
ご来店をお待ち申し上げております。
山海会席料理(予約制)

合掌庵」

となっています。

これをみて、「えー、安永7年???」と気になりました。


白川郷荻町の合掌集落が建設されたのがだいたい天保4年のものが多いと聞いていましたので
これは、それよりも40年も古いものであることがわかります。

棟札があるはずと思い、いろいろとお尋ねしたら、内部を特別に見せてくださいました。


つづく


徳積善太  
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2011年10月13日

昔の白川郷写真

昔の白川郷の写真(絵ハガキ)を見せていただきました。







徳積善太  
Posted by rekisy at 20:00Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2011年08月31日

GSクラシック講演会_柿崎先生講演録

庄川峡の歴史探究の課題 柿崎京一

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映画上映
まさに庄川は白川郷/五箇山にとって母なる川であった。ところが近代水力発電用のダムサイトによって寸断された。

第40回クラシック
主催 GSクラシック 市民発表学習会
共催 飛騨ん爺塾 好雲塾 五箇山自然文化研究会(上平村) 利賀飛翔の会 五箇山合掌いろりの会
協力 白川村。南砺市教育委員会

GSクラシックとは
五箇山白川郷の歴史文化自然等を研究し発表しています。

各講師による発表事例の紹介、

時には和田家なども利用して発表勉強会が行われた、

庄川峡の歴史 柿崎京一先生   司会 板谷さん

司会:ご出席いただきありがとうございます。1万円で本を販売しております。高島さんの方へお声を掛けて下さい。コキリコの曲がかかりましたが、馬渕たかしさん、GSクラシックでコンサートしていただいた。民謡をシンセサイザーで演奏。1500円でCDを販売。重い障害を抱え、シンセやピアノの練習をするうちに回復。一宮市役所兼、シンセの演奏。体の障害のある方に寄附をされています。お声をかけてください。
只今より、40回GSクラシック発表会を開催します。
GS世話人、山崎秀信より御挨拶申し上げます。

山崎:こんばんは、今回も集っていただきありがとうございます。平で写真屋をやっていて白川郷によくやってきます。事故が原因ですが、板谷さんと知り合いになり、毎月一回やっております。4年もやっていますが、何故か自分が始めのあいさつをしております。白川郷五箇山には文化、生活に関する事が残っています。世界遺産になり、大きな光の影になり見えなくなってきています。もう一度勉強しようとやっております。昨日、民主党の選挙があり、野田さんが総理に。聞いたことあると思ったら、富山県の方で、お父さんが富山の八尾のひと。TVを見ていたら、親戚が挨拶。自分の知り合いでした。従弟がなったということです。世間は狭いと思いました。番組の途中で、新聞記者のコメント。柿崎さんといわれたので、先生に尋ねたら弟さんの息子さんだったそうです。つくづく狭いと思いました。日本も狭いと思います。あちこち掘り起こすと眠っていると思います。先生のお話しは興味深い話ですが、皆さんの興味のある事を取上げてやっていきます。またいつかこうして講演してみたいという人は申し出て欲しい。だれでも拒みません。本日はありがとうございます。

教育委員会から、教育長さんがみえています

倉でございます。4月から教育長、なんとか頑張っていきたいのでご支援いただきたい。GSクラシックについて教えていただきましたが、40回を迎えたとのこと。専門的な分野のことをお話しいただきありがたいと思います。見識という言葉を調べたら、安岡雅弘さん、「この人生人間生活はどういうものか。どういう風に生きていくべきか、単なる知識ではない。それを見識という。知識は単に知っていることでしかないが、見識は見方が出てくるので人によって違う。そういう方から話を聴けるのは財産。柿崎先生の話を楽しみにしております。よろしくお願いします。

司会:研究会に移ります。本日の講演は柿崎先生ですが、冊子の裏側に紹介させていただいています。
早稲田名誉教授。GSクラシック最高顧問。1926秋田生れ、東京教育大大学院文化学科博士課程満期退学、宇都宮大学、早稲田大学教授を歴任。など。著書は、白川村に関して多数あります。文化フォーラム10年間。教育長2年間務められ、白川郷、五箇山に大きな影響を与えておられます。それでは講演よろしくお願いいたします。

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こんばんは、柿崎と申します
この所、白川に来ることも少なくなりましたが、お元気でお過ごしの様子でうれしく思います。私自身は85歳になりましたが、生涯が白川村です。エッセイを書くとすれば私の学問は一村の学、1つの村と書く。生涯白川村と学問が終るということで、私にとって、育ててくれた土地だと思っております。勝手に思っているだけですが、長いこと白川郷にお世話になりました。前口上すると時間がなくなりますので、本論に入ります。

私自身、白川研究をやっていて大家族のことはだいたいわかってきました。M21年に最初に白川の大家族の研究。学者が入りこんで白川にはこういう大家族制があるとしました。M31年です。その後、本庄英次郎という京都大学の社会経済史の教授が、若い頃、M40年代に白川に入り、本格的な研究をやりました。以後大正昭和戦前、1つの村の研究としては世界でも珍しいほど外国人も含めて入りました。今でこそ合掌造りで有名になっていますが、それ以前は、大家族制の研究で有名でした。人類学者も含めて入りました。中には高山から金持ちの大学の先生は人力車でT4頃に来た。御母衣の中切に入った。一度は白川へ行こうという研究者が多かった。けれども、大体が皆間違い。私の研究から見ると、白川は貧困だ。貧困だから家長權が強くて直系傍系を問わず奴隷の如く使ってきたという話が多いが、最初の頃S28年に入った頃、白川の人は、おぞい所だと言っていた。中にはとにかく、買い物をした時に包紙、新聞紙を大事にとっていて勉強したということを教えてくれた。最初はそう聞いて、大変秘境の文化のはつる所で、ひどい所で生活し、生きてきたという印象を受けた。あるとき、城山照蓮寺に行った時にあの本堂を見て、こんな素晴らしい建築が庄川の上流 中野にあったと云う事を知り、おぞいなんていう事はない。素晴らしい建築物を作りだした庄川峡の生活はそんなおぞすぎるはずがないと思いました。しかし、印象として最初からおぞい所、貧困な所という先入観を持つと、封建制の典型的な例という状態で研究が進んできた。ですから、それに対してものすごく白川の村民の先祖のプライドを挽回すべく、白川研究をし、村史の下巻に大家族制を書き、最後に何故この大家族制を上げたか。要するに名誉にかけて正しく理解してもらいたいために書きましたと村史に書きました。
かつては、そういう僻地で秘境であった。お米が食べられない、そういうイメージを持ったという事です。先入観というのは、おそらく、そういうイメージで観光客は入って来ていると思いますが、白川の人はそうだと言ってはいけない。先祖はこういう生き方をしたという事を観光客に話してあげるくらいの自信とプライドを持ってほしい。観光客は、心まで売ってしまう。先祖が築いてきたものも失ってしまうと思います。是非白川の庄川峡の、近年になって、白川の歴史だけではわからない、庄川峡のことを考えないとわからない、そういう視点で、庄川峡文化圏と云う構想で中身の話をしながら、わからない部分をクラシックの研究グループがやっているわからないことを一つ一つ明らかにしていきながら、先祖のやってきた歴史を自信を持って外部に伝えてほしい。そういう意味で是非郷土史というものは大変大事な、自分たちが生きていく上で大事なものだと理解しながら一緒に勉強していって欲しいと思います。

実は私、庄川峡文化圏という事をぼんやりと感じ始めたのは、新編白川村史というものをたまたま私が高島さんなり谷口さんなりおられますが、最後に完成しなければいけないという事で、2年で3巻を完成するという事をやりました。村史を通してわかってきました。そういう事がわかった上で、平成19年城端の三地域交流会というのがありましたが、城端の金島というところで講演会をやりました。白川郷・五箇山から見た城端ということで話をしました。商工会の主催でした。今から3年ほど前に第1回の五箇山白川郷文化フォーラム、今解き明かされる合掌造りのルーツということでお話しました。
もう一つは昨年、この場所でカズラ集落の残した教訓ということで、内ヶ戸村の話をしました。いずれにしても、3つの最近の講演を少し集約しながら今日は庄川峡文化圏構想について話をしていきたいと思います。

実は、白川村の研究というのを大家族制の研究から始めましたが、白川が白川だけで完結していない。むしろ近代になると岐阜県ができ、高山が飛騨地区の中心になる。したがって、白川郷の人は高山に目を向けました。先ほどもう一つ、字幕に出ましたが、高山にだんだんに関心を振り向けていって、五箇山、隣の方の関心が薄れていった。行政上の原因がありましたが、庄川と云うのは昭和の初めからダム建設が始まり寸断されていった。流送と言って伐った木を川下しして、金屋の土場まで流して行くという、土地の産物を富山に流して様々な交流がありました。だんだんそういうものが薄れていった。改めて高速ができて、ふたたび経済生活圏は富山と関係が深くなったということですが、肝心のそういう文化交流がこのクラシックという市民グループの研究組織によって、少し芽生えてきました。これからが本番です。是非発展して育てていただきたい。

私は庄川峡文化圏なるものを構想していく上で、いくつかの要素があると思います。

1) 風土的要件、自然環境
白川、五箇山は日本海的気象条件に影響される。時々台風で南の方からも来ますが、近世の、中世の記録はありませんが、北との気象条件によって凶作になったりしている。
冷夏になった時に飢餓的状態になり、伝染病が発生。小白川はある時人がいなくなる時期があった。そういう記録もあります。
あるいはダムができる前までは、ずっと白川の方まで鮭が遡上していた。今でも民具に遡上した魚を獲る道具がある。どう見ても自然環境条件は北との交流にあります。先祖達はそういう五箇山、砺波平野、日本海への関心が高かった。
大きな一つの問題は、塩。能登半島で取れます。輪島でも富山湾の中でも取っていましたが、塩が生きて行く上で大変大事でした。小矢部川を遡上して、津沢という所。小矢部の近くにある地名。そこまで川船で持って来て、海の塩を運んできた。陸上げして、二手に別れて城端を通って、飛州小白川官道を通って、尾瀬(上平)、椿原、まかれ谷、大窪、上流の方へ出てきた。海上まで出てきた。(荘川村)昔は、海塩、海の塩。願生寺という寺があった。山号が海塩山願生寺となっていた。塩の道に象徴される生活圏が出来上がっていた。
それの運搬役が歩荷(ぼっか)。ぼっかの道でもあった。この云わば生活圏というものが塩だけではなく、こちらからいろんな生産物を運び出した。海の魚類も塩とともに上がってきた。そういういわば生活物資の交流のいわば頻繁に動いた地域が五箇山、白川郷だと思います。そういう意味では共通の要素があります。

次に、これが今日の一つの問題ですが、切妻合掌造り民家。従来は白川研究をやって来られた方々が、合掌造りというと白川郷の切妻が合掌造りと規定していた。ところが、必ずしも、そういう風に規定していいのかという問題が起こってくる。
合掌造りというのはあちこちにある。九州の椎葉村。合掌と云っている。宮崎県。要するに簡単なことで、合掌というのは合掌材を組み合わせてこま尻をうすば梁という形にして差しこむ。それが合掌だろうと、三角形の。そういう構造なら寄棟、入母屋、それも合掌造り。簡単にご紹介すると、民家研究者、文化庁の先生方は、皆さん合掌造りといえば白川郷といいますが、飛騨の北の方にも切妻でない合掌がある。入母屋でありました。そういうのがありました。したがって、どうも最初から切り塚合掌と言った方がいいと提唱していましたが、民家研究の提唱者達がそういうものですから、合掌造り又兵衛、越中数河の高原にもともとあって、熱田神宮に寄贈されて現在ある。M32 報告書の中では、合掌造りの著しい特徴である、うすばりに注目して小屋組みをうすばりとさすじりで構成している。先端を削ってうすばりに差した構造を持つ家屋で、越中から飛騨山地に分布している。と定義しています。国登録有形文化財 又兵衛工事報告書。に書かれています。
名古屋大学小寺武久。長谷川芳雄(文化庁OB)が報告書を出している。どう見ても白川村のそれや五箇山は、切妻造りに問題がある。あちこちに分布しているが、切妻というのは、片方は切妻で片方は寄棟というのもある。ミックスしたのもある。合掌造りに切妻は最も不安定。入母屋や寄棟は三角形が並ぶが、倒れやすいのだが、縦方向に倒れ易い構造を持っているが、前からも後ろからも柱が入るので、構造的に丈夫。全体を大きな長い、筋交いでもって貫いて固定していくという歯がい。大はがい、小はがいという合掌造りの屋根を固定していく方法は、五箇山・白川郷の特徴だと思います。
専門家の松本さんがおられますが、反論していただきたい。松本さんの師匠は白川の合掌造りこそが合掌造りと言っておられたが、修正した方がいいと思っております。入母屋とか寄棟の合掌もあるということです。五箇山・白川は切妻です。
いわゆる合掌造りという物の、庄川峡文化圏における特徴だと思います。

前回の話しの時に、大窪大工が作ったと云う話をしました。この大窪大工がいつ頃から庄川筋に進出して来たか。1つの大きな課題、謎です。これは実は私の研究というより高桑啓真さん(上梨)ご住職の方。亡くなられましたが、大変優れた研究だと思っております。それによりますと、実はご存じのように大窪大工は加賀藩の抱え棟梁集団ですので、いわば、腕のいい、権威のある大工集団でした。そういう大工集団が、庄川筋に入って来るきっかけは何だったのか。最初から合掌造りをするために入ってきたのではない。高桑啓真さんが触れておられます。それによると加賀藩では、政治が安定してくるといろいろな産業を興しますが、その中で特重要として和紙と煙硝があった。加賀藩の択一な生産物として奨励された。その仕組みが作られてきた。その中で、特に大事なのは、紙が加賀藩にとって重要と云う事である時は加賀藩が桧の板、白川郷三の御用木の中からヒノキ板を200枚、村二階もぐらの集落の助九郎という者が、製糸の改作法の実施に伴い藩の指定を受ける。白川郷からのヒノキの板(干すための物)ヒノキの板を200枚下付している。
紙は冬場の仕事。板につけて乾かす。冬場の仕事。板が平でないといけない。でこぼこしていてはいけない。平にするのはやりがんな。ちょうなけずりは粗い。なめらかではない。なめらかにする台かんなでできるというのが、大窪大工の技術だった。
これがおそらく大窪大工の最初であって、民家まで入らなかったであろう。といっておられる。

屋内で乾すためのいわば空間は、かなり広いところで乾燥させないといけない。そんなに軸組の構造を作るという事は地元大工ではできない。どうするかというとこれを作るための、合奏作りの軸組み、一階部分は、蚕のためというより和紙の乾燥のための空間であったのでは。蚕だけでは、小屋組みだけでいいと思う。夏場ですから、仮小屋で寝てもいい。養蚕のためというより、和紙の乾燥空間のための合掌造りの基礎ができた。
高桑啓真さんの素晴らしい見方だと思っております。

助九郎という人が個人的に請け負ったという事がありますが、集落共同で請け負った。公民館の様な物が出来て作業した。紙すきの。やったところは、上梨、あるいは、対岸のあたり。利賀の方の集落。あの辺りが中心。盛んにやった。最初はそこでやった。やがて、そういう事があって、出入りをしている間に、お宮さんを作ろうとなった。上梨のお宮さんに大窪大工に頼んで作ってもらった。一晩づつ一日づつ交替で作った。今日はどこの家、明日はどこの家と割り振っている。その板が残っている。金のかかる財力を蓄積した。煙硝生産が財力を作っていく上で大きな力となった。煙硝も、産地問屋、土地で有力な家で集めて出荷した。産地問屋式の人が蓄積していった。白川村でいうと、山家地方では、倉教育長さんの家がその家です。かつてはそういう家でした。今でも川縁には何かあります。産地問屋です。それから大郷では、和田家。産地問屋。中切では遠山家です。御母衣の。有力な産地問屋です。経済力が最初に出てきます。やがて、各村村の有力な家が蓄積していく。藤井家。元々上平の、岩瀬家です。その藤井家が傾いて身売りをして本家、家主が156号線に藤井家がありますが、(上平行政センターのセンター長)元々家主だったろう。遊び呆けた。分家筋かどういう筋かわかりませんが、藤井家が白川郷にもある。江戸時代の中頃から白川郷の土地を買収している。規模からいうと時の図面がありますが、100坪位の大きな合掌造りだった。藤井家のそういう財力をバックにしながらやがて白川郷に入ってきた。そういう家。元々神主系統の様ですが、高島さんの家もそうですが、財力を作ってきた。そういう形で合掌造りというのは、非常に財力のある人しか抱える事ができなかった。一年以上住みこんだ。まかないもした。結いというのでしょうか、遠山家でやろうとすると中切の人が手伝うでしょうが、家の人は大変でした。遠山家のきみこさんが、言っておられましたが、あるとき、嘉永年間、火事で焼けた遠山家を作るときに、大窪大工がくる。後継ぎの娘と仲よくなった。一人男の子が生れた。大工は住みつくかというとそうではなく、能登の方に帰った。娘さんが婿さんを取って、家を相続した。生れた男の子が、叔父か誰かの戸籍に入れた。遠山さんのきみこさんが公然と言われた。そういう事、長く住みこんで、作ったのが合掌造り。何百年も前から合掌造りということはありえない。まかないをしてということはなかなかできない。やがてだんだんに民家の方で力がついてくると、そういう物が登場してくる。庄川筋と云うのはそういう形で、上梨から一帯になって、小屋組みを載せたというのが合掌の起源だと思います。

前に話をしたので二番煎じになりますが、一つだけ申上げますと、大家族制というのは、合掌造りは大家族制というと皆そうだと言いますが、本当の大家族制というのは中切だけ。若干、大家族なのは、かずらと内ヶ戸。大家族で展開するのは中切だけ。五箇山には出てこない。煙硝と和紙は部分的にやっていますが、養蚕をやっている。ところが、意外と五箇山は養蚕が少ない。紙と煙硝で加賀藩が買ってくれた。白川は季節毎の違いで夏場は養蚕に力をいれた。白川郷ではむしろ合掌造りというものが養蚕をやるための家屋として活用されていったのであろう。しかもこれは、城端という所は、門前町であると同時に機や製糸業のメッカであった。製糸業をやったのが五箇山の人。
白川郷は繭を売って歩くというのがない。生糸にして搬出した。どうしても女性労働が必要であった。そういうことが重なって大家族制が生産と関わって展開していったと考えられる。


少し急ぎます
郷土芸能の展開。白川おけさ。こだいじん。おけさは。はいや節。トカラ列島に近い方の民謡。私は天草ではいや節を見た。日本海を北上。おけさ節になってしまっている。佐渡おけさ、輪島おけさ。五箇山にもありますか?(はいや節の系統でまだらという。まだら島の物が流れて来て能登まだら。まだら島のまだら)
南の方から来た民謡の系譜。白川輪島というのもある。北からも入っている。
こだいじん、白川村では古い太い神様という漢字を当ててますが、元々は新潟の高台寺の盆踊り。やがて、一旦新潟から日本海に行って、関東地方では八木節。
氷見辺りの獅子舞がやがて定着して普及したという流れ。中には競ってかっこよくしようと変えていった。獅子舞のルーツは大窪大工集団が持ってきたのではと思います。研究の余地があります。

平高校の研究グループ。麦屋節。いつ頃できたか。あの形態。昭和28年。麦屋=明治末に大正天皇が皇太子の時に富山に来られ、見せようというので今の形になった。古いと思うが意外と新しい。その時々の住んでいる人が知恵を出して自分達の伝統を生かしながら新しい物を創造する、そういう意味では、白川五箇山の民謡は共通している部分が多いと見た方がいい。

次に白山のみくまり信仰。白山の霊峰、信仰は大変古くからあるが、古い時代の白山信仰は、水を分けてくれるみくまり信仰。白川の白山神社、八幡神社は水の出る所。そこに神社がある。水と関係がある。人形山(栂野)あれも白山信仰。五箇山の人に地下水が川底通って湧くのかと思ったら違った。白山で雨雲ができると流れていって、人形山にぶつかって、人形山で雨が降る。そして潤ってくれる。それが白山信仰。いわば、白山信仰というのは、白川郷と庄川筋、江戸時代までは庄川と言わなかった。富山から向こうが庄川。こちらは白川。大白川、小白川があった。明治の時代に一本になった。庄川の水の流れが白山から分けてもらったみくまり信仰であると同時に、山岳信仰の山になった。おそらく、五箇山もそうだし白川もそうです。八幡神社は修験の子孫が守をしていた。修験のみち、山岳信仰の問題が課題。
白山連山の信仰の由緒ある名所が多いが、仏教が入ってくると山岳信仰と仏教がミックスして、天台系、真言系の宗教が出てくる。村の人には山に入って修業をしてものすごいスーパー的な人、修験者が祈祷してくれ、病気を治してくれることが大事だった。そういう意味では、密教系の修験との関係がこれからの五箇山白川のもう一つの研究課題。

と同時に、やがて、加賀一向一揆の拠点としての五箇山、白川郷を考えないといけない。中世は難しい世界。というのは、仏教が今のようにお寺さんが信仰の対象としてではなく、戦闘集団。政治に影響力を持った。中世は仏教が政治を動かしたと言っても過言ではない。その位大きな力を持っていた。

15世紀後半の白川郷、内ヶ島氏進出以前の白川郷。高田派の一派と、三島氏の一派。いくつかの派閥があるが、高田派というのが強かった。元々は親鸞が越後に流され、京都に帰っていいという時に、常陸の国に行った。笠間に行った。稲田。そこで教行信証を書いて、その教えをあみだしていった。そうして弟子達が入ってきて、その中の一人、真仏というお坊さんが、栃木県の稲田から歩いて、4kmから5kmの所に高田という所がある。そこに道場を作った。親鸞が京都に帰るとき、それぞれの地域の道場に配置して帰ってきた。その時高田に入った真仏という人が力を得て高田派を作る。三河から美濃飛騨、越中に掛けて大変な力を持つ。浄土真宗の本家ということを言っている。本願寺派と高田派の対立があって、越中五箇山、越中加賀、白川郷にまで争いが波及した。
想像ですが、当時の内ヶ島がやがて入って来て明教あるいは三島という還俗して武士団になった人がいますが、そういう明教という人が白川郷を中心として浄土真宗高田派の流れをくむ勢力を作った。内ヶ島はやっつけられるが、最終的には打ち負かした。そして本願寺派に立った。そういう背景をして高田派を追いつめていく。
くわしいことは専門の研究をした上でご紹介したい。

穏やかに白川郷は嘉念坊が開いて道宗が入って来て内ヶ島がやっつけて明心が逃げて越前で育って、中の照蓮寺を作ったと云うのが物語ですがもっと複雑な関係があったようです。
明教というのが高田派のリーダーであったろうと思われる。
やがて、(2)にあるように、1475年に明教を1485年には三嶋氏を討った。加賀では蓮如を中心とする本願寺派と高田派の抗争が激化。広い場面で本願寺派と高田派の抗争が出てきます。
聞名寺からわかれた善俊の活躍、内ヶ島氏支配のもとで善俊門徒が急成長したという考え方がでてくる。明教と云う系譜、高田派の系統と善俊門徒がやがて、内ヶ島のバックを受けながら急成長していく。善俊門徒があとになるのではないか。みん江記より後の事ではないかとされております。そういう説がでてきております。

内ヶ島と云うのは厄介。前に話をしましたが、内ヶ島と云うのは保木脇というところに本城を築いた。帰り雲城がどこにあったかというので調査をされている。帰雲と云う地名は内ヶ島入国前にあった。「きうん」といってもいいが、難しい地名がどうして保木脇にあるのか。山の方にもある。左岸の方にもある。小字が残っている。内ヶ島がつけたと云うより、以前よりあった、山下が荻町に来て荻町城を作った。牧戸は向牧戸城ができた。おそらく保木脇にも帰雲と云う地名があってその名がついた。帰雲というのは誰がつけたか。宇多さんという人が、京都へ行って木地師集団のお寺に、帰雲庵という寺があったと報告してくれた。河合もそうですが、木地師集団が早い時期から入り込んでいた。ひょっとすると木地師集団を遣って内ヶ島は山案内をさせたのではないかと思う。河合の方には帰雲系の木地師集団があったとされている。あるのは一つだけ、樅糠山と云うのがあって、木地師が住んでいたとされる伝承がある。木地師集団の事も考えないといけないのではないか。

最後に、白川村史に白壁さんが中世の内ヶ島について書いています。史料的にははっきりしているが、荻町城主の山下氏勝、尾張徳川に貢献として仕える人ですが、この人の記録の中に前略「飛州の屋形は内島と号す、その先武蔵国に住す、伝え云う、源尊氏今日の末裔也、兄弟家督の事で争い有りて飛州へ配され、白川の庄帰雲の郷に居す、子孫ばんえん十三世を経、而威名嚇の如、白川の庄を領し越中国数県を蚕食・・・」

前九年役、後三年の役で秀衡が残った。供養のために平泉に金色堂を作り、浄土の世界を作ろうとしたのがこの世界遺産になった。その時の戦争(前九年の役)、で戦った人が源義家。この人が後三年の役(横手)で戦い、手柄を立てた。その子が頼朝。これが帰ってくることを拒否した。栃木の足利に住みついた、その子孫が尊氏。系統から云うと玄寺の系統。源の尊氏卿の余裔ということになっている、兄弟で戦い飛州に配されたと云うのはよくわからない。
内ヶ島は東国の武士であったと云うことは間違いないと思われる。
鎌倉期から戦国期については、浄土真宗にまつわって、調べていかないといけない。道場が残っていたりしている。いずれにしても道場と云う物が一向一揆と農民の力が結集して戦っていくと云う、百姓の国と加賀が宣言し結集していくことと関係しながら歴史が展開していきます。その全体の流れで五箇山や白川郷がどう問題を派生させていったか。庄川峡の世界と云うのは切っても切れない繋がりを持った世界。
庄川峡文化圏と定義して郷土史と云うのは広い視野で見て行かなければと思います。

麦屋節ですが平瀬が速くて鳩谷は遅い。川の流れに比例。鳩谷は速くて川の流れに比例して居ると思いますので、そう思って聞いてください。
それは昔からそういいました。店舗は下流へ行くとゆるやかになっていくということはいっています。

ご静聴ありがとうございました。


(質問が何人かの方からありましたが、カットします)

徳積善太記



  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2011年08月30日

白川郷の講演会

本日は白川郷で講演会がありました。

白川郷の郷土史研究者 板谷さんにお誘いいただき、講師の柿崎先生にぜひお会いいただきたい
とのことで、白川郷まで行ってまいりました。

「庄川峡の歴史探究の課題 柿崎京一

1はじめに 庄川峡文化圏構想に関連して

2.文化圏の検証

1) 風土的要件
2) 「塩の道」に象徴される生活圏:小矢部川、津沢~庄川、海上(塩)
3) 切妻合掌造り民家の創出 大窪大工集団の進出を中心として
4) 郷土芸能の展開 オケサ節(ハイヤ節)、コダイジン、獅子舞
5) 白山「水分信仰」を原点とする産土神 山岳信仰と浄土真宗
6) 白川街道(北国街道裏)と内ヶ島氏の覇権
7) その他

3.大窪大工の庄川峡入りと切妻合掌造り
1)加賀藩と白川郷の木材
2)藩御用和紙の製造と大窪大工
3)切妻合掌造りの創出

4.15世紀後半の白川郷
1)内ヶ島氏進出以前の白川郷―土着勢力の三島氏と関東系の真宗一派(高田派)が地盤を築き、明教がその指導者
2)内ヶ島氏1475年(文明7)に明教を、1485年(文明17)に三島氏を討つ」


今までいろんなお話を聞いてまいりましたが、白川郷の話は初めてで、とても勉強になりました。


徳積善太
  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)白川郷