2007年04月10日
4/9第2回放送終わりました
昨日、第2回の放送が終わりました。この日は、飛騨の匠展実行委員会 副実行委員長の野尻さんをお迎えしての放送でした。
む「まもなく高山祭りが始まります。先週は、私がいっぱいしゃべってしまいましたね。」
な「そうでしたね。先週は、舞についてお話しました。」
む「早速ですが、先日行なわれた市民勉強会。たくさんの人でしたね。」
な「お蔭様で、大盛況の内に終える事ができました」
む「私も拝見しましたが、私のようなものでもわかる、大変興味のわいた、わかりやすい講演会でした。それにしても若い人が多かったですね。」
な「そうですね。私も選挙の各陣営の総決起大会ということで、皆さん御忙しくて、10人くらい可と思ったら、結構な人があった。しかも、若い方の多いことには、関心の高さを物語ると思いました。」
む「さて、今週末にいよいよ迫った、高山祭りですが、あちこちで準備が行なわれていますね。今週も高山祭りの話題をお届けしたいと思います。」
な「そうですね。なるべくわかりやすく、お伝えしたいと思います。ところで、恵子さん。高山祭りのイメージって何色ですか?」
む「そうですね、赤、金、黒でしょうか?」
な「それって屋台の色から来ていますよね。ところが、昔180年前の屋台の色は
赤がなかったんです。あの赤い幕は猩猩の血で染めたという赤い幕ですが、ビロード状の幕ですよね。あれが高山へ入ってきたのは天保時代以降なんです。
それまでは、紺色や絹の幕だったようです。水色とかのね。郷土館の資料(屋台絵図)にあります。」
「古川に黄鶴臺の幕が保存されています。
高山の上一之町にあって、古川へ安政年間に売却されたとの話ですが、紺の青海波(陣屋にあるような波の紋)の模様に黄色の鶴=黄鶴(おしどり)が細かい糸で描かれています。 また、屋台の屋根の形もその頃は、唐破風といって、京都の牛車のように波打っている形をしていました。現在の合掌造りのような切り妻風になったのも、天保以降です。」
む「屋台って、何年持つんですか?」
な「江戸時代以降、だいたい60年に1回修理が行われています。老田先生の説によると今までにだいたい4回の修理をされている。現在の修理というのは、天保から明治・大正にかけてのものに復元するという作業が行われています。
昔は、道路もがたがたで、車軸や上段屋根を支える部分からへたってきたそうです。ゆらゆらとゆれますからね。
(また、専門家の話では、漆が落ち着くのはだいたい半年くらいらしいのですが、
年に2日出してやわいとかたづけに2日=4日x60年で240日という数字になる。
日にさらすということは劣化しますから、やっぱり60年くらいで塗り替えなくてはいけないそうです。)」
む「ゆらゆらとゆれると、『だいじょうぶかなあ、壊れないかなあ』などと思ってしまいます。」
な「それが、大丈夫なんです。なぜかというと、屋台の下の部分と上の部分は反対方向にゆれるような構造になっています。これが、東大の先生も驚いたそうですが、免震構造になっているんですね。
先日HPをみていてわかったのですが、昔から、飛騨の匠も作った五重塔が、全国にたくさんあるのに、地震で一つもつぶれたことがないらしいです。
これは、ゆれる構造から来ているらしいんです。今でも、高層建築などは、わざと空洞の階を作っていて、そこを基点に上下が反対にゆれるように設計されている。それを飛騨の大工さん達は、江戸時代にしっていたんですね。」
む「屋台の大きさって、大体同じなのはどうしてですか?」
「これはね、高山の通りにあわせて作られているからです。あとからできた屋台は他組のものより大きく作ろうとしました。しかし、大きすぎるとどうしてもぶつけてしまう。今でも屋台の舵取り=大でこの方は腕の見せ所といいますが、屋台をぶつけた時には、それはそれは大恥になります。他組の方からも『あそこの屋台はへただ』ということになる。一年間言われますからね。誰がやったとか。
そこで、谷口与鹿などの工匠は、通りに合わせた大きさにした。
中には大きいものもあって、山王祭の鳳凰臺などは、上の欄干が折りたためる構造になっていたり、スライドさせて収納させる屋台もあったそうです。
また、回転する時に使う、「戻し車」ですが、大きい屋台には2つついているのがあります。恵比寿臺、八幡の鳳凰臺などがそうです。いずれも谷口家の作品です。」
む「もっと聞きたいのですが、今日もゲストがいらしていますので・・・今日のゲストは、飛騨の匠展実行委員会 副実行委員長の 野尻修二さんです。野尻さんこんばんは¥。」
の「こんばんは」
む「ながせさん、野尻さんにはどのような事をお聞きするといいですか?」
な「今度開催される『飛騨の匠展についてお聞き下さい」
む「飛騨の匠展はどのような展覧会ですか?」
の「7月の21日から9月9日まで 飛騨センターの岐阜県ミュージアム飛騨で開催します。例年、私どもは飛騨の匠を顕彰するために、展覧会を開いていますが、今年は、建築に焦点をあてた展示を行ないたいと思います。」
む「見所はなんですか?」
の「例年、飛騨の匠の道具に焦点をあてて展示を開催してきました。昨年は、やりがんなやちょうなに絞って展示を開催しました。昔は、木を使って建物を立てたりするときには、木をへいで(割って)、そぐようにして板を作るのが通常でしたが、のこぎりの登場によって、木を切るという事に変わってきました。そういうことを展示したいと思います。」
な「やりがんなは、先のとがった丁度長い枝に曲がったナイフがついているようなもので、そういう道具で、木を平に削りました。またちょうなとは、丁度腕を伸ばして、手を直角にしたような形の物で、それで柱などを造りました。陣屋の御蔵などにある柱はすべてそうやってできているもので、貝の内側を並べたような模様が特徴です。」
の「また、大工さんが使っておられる墨壷や、木を運搬する運材方法。これは、飛騨からは木曾川に木を流しましたし、宮川を通っては、富山へ木を流しました。そういう川を使った木の運搬方法について、展示を行ないます。そして4つめには大工さんに焦点をあてて、展示を行なって行きたいと思います。」
な「運材と言うのがまた面白くて、最近わかった事なんですが、江戸時代に江戸城西の丸が炎上した。その時に、飛騨から材木が大量に運ばれました。飛騨は分水嶺があるので、益田郡の木は、飛騨川から木曾川に流すと、そのまま名古屋へ流れますが、分水嶺から北の木材は、宮川から神通川を流して、一旦富山に集め、下関を廻って大阪へ持っていくルートだった。これだと、35日から40日もかかるルートだった。お城のために、早く木材を届けなくてはいけないので、分水嶺を越して、運んでいたという事実が最近わかりました。」
む「どうやって運んだんですか」
な「大体は木ぞりを使ったり、冬には雪を使ってそりをつくってひっぱったりしたようです。」
の「また今年は、両面宿難の特別コーナーの展示も行ないます。三重大学名誉教授の八賀先生の論を展開したいと思っています。」
な「これは、『両面宿難はソマ(樵をする人)の棟梁だった。』という説です。」
む「大変興味がわきました。もっとお聞きしたいのですが、時間が限られていますので、今日はこの辺で終わりたいと思います。お二人ともありがとうございました。」
(徳積善太)
む「まもなく高山祭りが始まります。先週は、私がいっぱいしゃべってしまいましたね。」
な「そうでしたね。先週は、舞についてお話しました。」
む「早速ですが、先日行なわれた市民勉強会。たくさんの人でしたね。」
な「お蔭様で、大盛況の内に終える事ができました」
む「私も拝見しましたが、私のようなものでもわかる、大変興味のわいた、わかりやすい講演会でした。それにしても若い人が多かったですね。」
な「そうですね。私も選挙の各陣営の総決起大会ということで、皆さん御忙しくて、10人くらい可と思ったら、結構な人があった。しかも、若い方の多いことには、関心の高さを物語ると思いました。」
む「さて、今週末にいよいよ迫った、高山祭りですが、あちこちで準備が行なわれていますね。今週も高山祭りの話題をお届けしたいと思います。」
な「そうですね。なるべくわかりやすく、お伝えしたいと思います。ところで、恵子さん。高山祭りのイメージって何色ですか?」
む「そうですね、赤、金、黒でしょうか?」
な「それって屋台の色から来ていますよね。ところが、昔180年前の屋台の色は
赤がなかったんです。あの赤い幕は猩猩の血で染めたという赤い幕ですが、ビロード状の幕ですよね。あれが高山へ入ってきたのは天保時代以降なんです。

それまでは、紺色や絹の幕だったようです。水色とかのね。郷土館の資料(屋台絵図)にあります。」
「古川に黄鶴臺の幕が保存されています。
高山の上一之町にあって、古川へ安政年間に売却されたとの話ですが、紺の青海波(陣屋にあるような波の紋)の模様に黄色の鶴=黄鶴(おしどり)が細かい糸で描かれています。 また、屋台の屋根の形もその頃は、唐破風といって、京都の牛車のように波打っている形をしていました。現在の合掌造りのような切り妻風になったのも、天保以降です。」む「屋台って、何年持つんですか?」
な「江戸時代以降、だいたい60年に1回修理が行われています。老田先生の説によると今までにだいたい4回の修理をされている。現在の修理というのは、天保から明治・大正にかけてのものに復元するという作業が行われています。
昔は、道路もがたがたで、車軸や上段屋根を支える部分からへたってきたそうです。ゆらゆらとゆれますからね。
(また、専門家の話では、漆が落ち着くのはだいたい半年くらいらしいのですが、
年に2日出してやわいとかたづけに2日=4日x60年で240日という数字になる。
日にさらすということは劣化しますから、やっぱり60年くらいで塗り替えなくてはいけないそうです。)」
む「ゆらゆらとゆれると、『だいじょうぶかなあ、壊れないかなあ』などと思ってしまいます。」
な「それが、大丈夫なんです。なぜかというと、屋台の下の部分と上の部分は反対方向にゆれるような構造になっています。これが、東大の先生も驚いたそうですが、免震構造になっているんですね。
先日HPをみていてわかったのですが、昔から、飛騨の匠も作った五重塔が、全国にたくさんあるのに、地震で一つもつぶれたことがないらしいです。
これは、ゆれる構造から来ているらしいんです。今でも、高層建築などは、わざと空洞の階を作っていて、そこを基点に上下が反対にゆれるように設計されている。それを飛騨の大工さん達は、江戸時代にしっていたんですね。」
む「屋台の大きさって、大体同じなのはどうしてですか?」
「これはね、高山の通りにあわせて作られているからです。あとからできた屋台は他組のものより大きく作ろうとしました。しかし、大きすぎるとどうしてもぶつけてしまう。今でも屋台の舵取り=大でこの方は腕の見せ所といいますが、屋台をぶつけた時には、それはそれは大恥になります。他組の方からも『あそこの屋台はへただ』ということになる。一年間言われますからね。誰がやったとか。
そこで、谷口与鹿などの工匠は、通りに合わせた大きさにした。
中には大きいものもあって、山王祭の鳳凰臺などは、上の欄干が折りたためる構造になっていたり、スライドさせて収納させる屋台もあったそうです。
また、回転する時に使う、「戻し車」ですが、大きい屋台には2つついているのがあります。恵比寿臺、八幡の鳳凰臺などがそうです。いずれも谷口家の作品です。」
む「もっと聞きたいのですが、今日もゲストがいらしていますので・・・今日のゲストは、飛騨の匠展実行委員会 副実行委員長の 野尻修二さんです。野尻さんこんばんは¥。」
の「こんばんは」
む「ながせさん、野尻さんにはどのような事をお聞きするといいですか?」
な「今度開催される『飛騨の匠展についてお聞き下さい」
む「飛騨の匠展はどのような展覧会ですか?」
の「7月の21日から9月9日まで 飛騨センターの岐阜県ミュージアム飛騨で開催します。例年、私どもは飛騨の匠を顕彰するために、展覧会を開いていますが、今年は、建築に焦点をあてた展示を行ないたいと思います。」
む「見所はなんですか?」
の「例年、飛騨の匠の道具に焦点をあてて展示を開催してきました。昨年は、やりがんなやちょうなに絞って展示を開催しました。昔は、木を使って建物を立てたりするときには、木をへいで(割って)、そぐようにして板を作るのが通常でしたが、のこぎりの登場によって、木を切るという事に変わってきました。そういうことを展示したいと思います。」
な「やりがんなは、先のとがった丁度長い枝に曲がったナイフがついているようなもので、そういう道具で、木を平に削りました。またちょうなとは、丁度腕を伸ばして、手を直角にしたような形の物で、それで柱などを造りました。陣屋の御蔵などにある柱はすべてそうやってできているもので、貝の内側を並べたような模様が特徴です。」
の「また、大工さんが使っておられる墨壷や、木を運搬する運材方法。これは、飛騨からは木曾川に木を流しましたし、宮川を通っては、富山へ木を流しました。そういう川を使った木の運搬方法について、展示を行ないます。そして4つめには大工さんに焦点をあてて、展示を行なって行きたいと思います。」
な「運材と言うのがまた面白くて、最近わかった事なんですが、江戸時代に江戸城西の丸が炎上した。その時に、飛騨から材木が大量に運ばれました。飛騨は分水嶺があるので、益田郡の木は、飛騨川から木曾川に流すと、そのまま名古屋へ流れますが、分水嶺から北の木材は、宮川から神通川を流して、一旦富山に集め、下関を廻って大阪へ持っていくルートだった。これだと、35日から40日もかかるルートだった。お城のために、早く木材を届けなくてはいけないので、分水嶺を越して、運んでいたという事実が最近わかりました。」
む「どうやって運んだんですか」
な「大体は木ぞりを使ったり、冬には雪を使ってそりをつくってひっぱったりしたようです。」
の「また今年は、両面宿難の特別コーナーの展示も行ないます。三重大学名誉教授の八賀先生の論を展開したいと思っています。」
な「これは、『両面宿難はソマ(樵をする人)の棟梁だった。』という説です。」
む「大変興味がわきました。もっとお聞きしたいのですが、時間が限られていますので、今日はこの辺で終わりたいと思います。お二人ともありがとうございました。」
(徳積善太)




