2007年04月27日
第4回放送終わりました
第4回の放送終わりました。
実は録音がちゃんとできなかったので、文章が完全にできていませんが、そのうち、アップします。
話題は、古川祭のエピソード。ゲストは、高山市郷土館長 田中彰先生でした。
事前に、画像を撮影しました。
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時刻は7時30分をまわりました。この時間はひだ歴史再発見!“のコーナーです。
今日も長瀬公昭さんと共にすすめたいと思います。長瀬さんこんばんは。
こんばんは。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
高山祭りと古川祭りも終わりまして、ようやく一息といったところですか。
そうですね。やっと終わりましたね。
む「古川祭りも終わりましたね、両日ともいい天気だったようですね。」
な「そうですね。前日には雪の予報が出ていて、山の方では雪が降って、心配されたようですが、
珍しく両日とも晴れましたね。」
む「古川祭りは、雨が降るものなんですか?」
な「そのようですね。古川の人達は、『2日とも晴れたもんで勝手が違って、えらかった』って
言っておられました。」
む「長瀬さんは、古川祭りは参加されたのですか?」
な「店をやっているので、そちらの店番でした。夜は、打ち出しに行きましたが、やっぱり、古川祭りの
見所は、起こし太鼓。しかも、打ち出しを見る事ですね。」
む「私も見た事があるんですが、厳粛な中に重々しい雰囲気がいいですね」
な「そうですね。私もここ5年くらい毎年見ていますが、最初の打ち出しから、乱れ打ちがたまらなくいいですね。お腹にドンと響く、ああ、これで一年が始まったと思うようになりました。古川の人に会ったら、『あけましておめでとう』って言われましたよ。古川の人は、一年が 祭りに始まり、祭りに終わるんですね。」
む「その起こし太鼓ですけど、高山のように屋台組が運営するのですか?」
な「古川の場合は、高山と少し違って、屋台主事と起し太鼓主事の2つがあります。どちらも厳粛な抽選で決まります。
同時に2つともあたる場合もあるそうですが、起こし太鼓主事の方は、古川の気多若宮神社の氏子を4つに割ってそれぞれ方位を示す、玄武、朱雀、青龍、白虎の文字が当てはめられています。これは、戦後始まったことだそうです。
そこには、区域毎に数屋台組があって、そこが太鼓の主事を運営します。主事を受け持つとそれはそれは大変で、資金集めから献酒集めから、人の割り振りから、何から何までこなさなければいけません。
献酒の本数でその組のよしあしが決められるようなところもあって、主事を受けた皆さんは毎年必死になっておられます。
今年は、向町の朱雀組の運営でしたが、高山まで献酒を集めにこられていたようです。
また、太鼓の上に登れるのもその主事の組の誇りで、古川の人間なら一度は登ってみたい栄誉なんだそうです。一生に一度あるかないかのことだそうです。
そのため、太鼓をたたくばちも自分で山へ行って柳の木を取ってきて、自分で作る。そういう風習は高山にはないことですよね。」
む「今年のエピソードはありましたか?」
な「そうですね。新聞にも載っていましたが、壱之町の麒麟臺組で木偶を30年ぶりに新調したので披露されたようです。
新しい木樋の上に新しい人形が乗っていました。組の人に聞いたら、58名も若衆がいるんで、練習も含めると、一日6回。2週間練習するので、本番を含めると、100回くらいは一年に動かすそうです。そりゃあ痛みますよね。
でも、後継者育成のためですから、全然惜しくないともおっしゃっていました。
また、起こし太鼓の前にちゃんと夜祭りをやるんですが、神楽臺の人達が、飲みすぎてて、道路の上にある標識に気がつかなかった。丁度本光寺の前あたりで、標識に太鼓の鳳凰の羽根を引っ掛けて、一本折ってしまった。
私のところの屋台なら、『えらいこっちゃ』となるんですが、先日、神楽組にお邪魔したら、涼しい顔をしておられた。
『あれは、消耗品と言うことだから、直せばいい。取り変えて済むものは、変えればいいんやさ。鳥の羽でも抜けるんやで。そやけどな、カカだけは変えれんのやさ。高こうつくでな。』といって笑っておられました。古川の人はそういうところがおおらかですねえ。」
な「あと、私も知らなかったんですが、壱之町筋にはちゃんと決まりがあって、試楽祭の時には、上の三番曳と鳳凰臺組へ下の麒麟臺が屋台を引っ張って行く。最終日に屋台引き別れがあってからは、今度は上の屋台が下へ引っ張って行くという儀式があるんですね。今回はじめて見ました。すごい律儀なんですね。高山にはないことです。
また、カラクリも時間が決まっていないのが古川の祭りです。自分たちの祭りだから自分たちの好きなときにやる。高山のように時間が決まっていないのが特徴です。ですから、観光パンフなどに時間が掲載されていないのです。」
む「じゃあ、私がたまたま子ども歌舞伎を見ることが出来たのはたまたまということですね。着いていました。さあここで、曲に移りたいと思います。紹介していただけますか」
な「タクミをお聞き下さい」
ーーーーーーーーーーーーーーーー曲でブレイク--ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
む「さあ、お届けしましたのは向林利明さんの匠、今日はフルバージョンで聞いていただきました。」
む「それでは、ここで、ゲストをお迎えしたいと思います。今日は 高山市文化財課参事で 高山市郷土館長の田中彰(たなか あきら)さんに登場いただきます。田中さん、こんばんは」
田「はい、こんばんは」
む「すいません、おまたせいたしました。よろしくお願いします。
む「今度、田中さんは、4/27に 飛騨センターで行なわれる 飛騨の匠 市民勉強会で講師を勤められますね」
田「はい、そうです。」
む「今回のテーマはどのようなテーマですか?」
田「今回は『正倉院の文書に見る飛騨の匠』というテーマでお話します。」
な「『正倉院の文書』に飛騨の匠が出てくるのですか?」
田「はい、珍しいですけども、ちゃんと正倉院で保管されている文書に飛騨の匠がちゃんとでてくるというお話をいたします。」
む「田中さんにお尋ねしたい事があるんですが、全国に飛騨の匠が行ったと言うことですが、そんなにたくさんの人口が飛騨にいたんですか?」
田「飛騨の国には推定で掌握している部分だけで14000人、掌握していない部分も含めると2倍か3倍いたんでしょうね。」
思ったよりもたくさんの方がいたんですね。結構栄えていたんですね。田中さん、今度の勉強会でのポイントを簡単におはなし下さい。」
田「はい。正倉院の文書に出てくる飛騨の匠が、どんなふうに出てくるのか。どんなことが紹介されているのかという話をします。そして飛騨の匠、そういう役職があって、大工仕事をした、中央の技術監督=長上というのですが、そういうものも出てきますので、何を紹介しているのか。米をどれくらい食べたかという書類が主なんですが、そういうことからわかりやすく説明したいと思います。」
む「正倉院というと、言葉は歴史で習ったのですが、どういうものか、記憶があいまいになっています。
わかりやすくお話いただけるのですね。桐谷先生の時にわかりやすかったのですが、そういうお話をいただけるのですね。」
た「もうひとつ、米がどういう形で計算されたか。100人行って次の番が100人一年交替で行っていました。その単位がどうやって決められていたか。それは田んぼの面積によって決められていた。全部で10箇所、里というのですが、その里が10あって10づつ出て行って全部で100人ということをお話します。」
な「100人出て行ったということは、次の年は違う100人が出て行ったということですか。」
た「そうです。」
な「そうすると、その100人は大工さんだけじゃなくて、木を加工する人とか、木を切り出す人とか出て行ったという話を聞いたことがあるんですが、そういう技術者集団があったんでしょうか。」
た「その年によって、都で采配されるんでしょうが、慣れていない人は足場係とか、なれた人は大工さんとかそういう担当に割り振られたんでしょうね。」
む「ありがとうございました。では、田中さんからリクエスト曲をいただきたいのですが、曲を紹介いただけますか?」
た「長渕剛の乾杯をお願いします。これは、カラオケでよく歌える中でも新しいほうだということだからです。」
む「では、この曲を最後にお別れいたします。もう一度、市民勉強会の案内をさせていただきます。
4月27日金曜 夜7時から 飛騨センター ミニシアターで 飛騨の匠市民勉強会が開催されます。
田中さん、長瀬さん、本日はありがとうございました。」
な・た「ありがとうございました。」
rekisy
2007年04月17日
4/16 第3回放送終わりました
む「高山祭り終わりましたね。長瀬さんも、氏子としてお出になったんでしょう。お疲れ様でした。」
な「はい、疲れました。今年はいつもより少し寒い春祭りでしたね。毎年のことですが、疲れました。」
む「先日、おはなししましたように、舞と雅楽で参加されたんですよね」
な「はい。私は、日枝雅楽会に所属していますので、采女の担当をしています。お蔭様で子供達が
立派な舞を披露してくれました。また、雅楽としては、朝の拝殿での神事と、14日夜の夜祭(やさい)
の2回参加しました。そのあと、すぐに着替えて、自分の屋台の夜祭(よまつり)に参加しました。
次の日は、自分の屋台組みとして神楽台の「橋渡し」という行事と、そのあと裃に着替えて警固に
参加しました。
→今年は、昔なら喧嘩になりそうな場面があって、4/15は、日枝神社と一本杉白山神社、天満森、
東照宮と4つもお祭りが同時に開催されるんですが、15時頃に陣屋前で一本杉の行列が日枝の行列
をとめました。今は紳士的に、どちらか先の方が、待つようになっていますが、昔の信仰の熱い時期には、
どちらが先で、どちらの神様が偉いなどと、口論になり、喧嘩になったそうです。その後、紳士協定で、
事前に宮本が打ち合わせて、時間が重ならないようにするらしいのですが、今回、闘鶏楽を少し長めに
やったところ、5分ほど時間が遅れて、陣屋前で鉢合せになったというわけです。昔なら喧嘩が始まる
ところだったでしょうね。」
む「へえ、そうだったんですか。でも、相変わらず、一人何役もやっておられるんですね」
な「そうなんです。今では、氏子区域内も若い方が少ないので、私などはあちこちへ参加して
何役もこなします。多い時には、雅楽装束、法被、白丁、裃と4~5回着替える事があります。」
む「そういう影の努力が高山祭りを支えているんですね。お疲れ様でした。」
な「ありがとうございます」
む「さて、今度は、飛騨としての大きな祭りは古川祭りですね。」
な「そうですね。飛騨地方は、何時の頃からかわかりませんが、山王祭を契機にして、春は、次第に祭り区域が北上すると言う面白い状態になっているんですよ。古川などは昔は夏祭りだったようですが、4/19・20に開催されています。そのあと、田舎地区の祭りが5月まで続き、神岡の大津神社の祭りで一区切りですね。」
む「へえ、気が付きませんでした。」
な「祭りとなると、神社の神官の人達も大変で、今日はこっちの祭りの手伝い、明日はあっちへと、走り回られるのもこの頃です。おそらく、神官の人達のスケジュール調整でこうなったのかもしれません。」
む「さて、その古川祭りですが、4/19・20の開催と聞いていますが、本当は21日もあったらしいですね。」
な「そうなんです。私も最近知ったのですが、一般の方には知られていないんですが、還御祭(かんぎょさい)というのがあって、昔は3日間お祭りがあって、最終日には神様を気多若宮のお社に帰っていただくという行事をやっていたそうです。日枝の山王祭でも、還御祭がありますが、最終日の15日の夕方に行なわれます。
日枝の場合は、各屋台組の代表が屋台組の印鑑を持って、台名旗を従えて、神輿の警護をして日枝神社まで行列をしていきます。そのあと本殿に代表者が集まって、神様を神殿にお返しするお祭りをやって、修了後に、宮本が指揮をして、各代表者が祭り終了の印鑑を押す儀式があります。
これは、裃で正装して行かなくてはいけなくて、過去にも着替えてしまった方があって、その方が家に戻って着替えてくるまで待っていたり、屋台組の印鑑を押す順番がありますので、一人でも欠けると、その屋台組に連絡して、その組の印鑑がおされるまで待っていなくてはいけない。それはそれは厳粛な儀式なんです。
私も一度、代表して行った事がありますが、ある屋台組の人が忘れてて、風呂に入ってくつろいでいるという状態だった
ものですから、その方が正装してこられるまで、1時間くらい余分に待っていた事があります。」
な「さて、古川祭りですが、最近では勤めの方が多いので、古川祭りでも2日に短縮されたそうです。ただし、古川の方々は、後片付けの日を一日余分に取っている方が多いので、最終日は後片付けの日としてお休みになるそうです。」
む「時代と共に、儀式も変わってきたということでしょうね」
な「そうですね。各屋台組でも、だんだん組員が減ってきていますから、なかなかどの屋台組も大変ですね。
古川も同じで、このままだと『起し太鼓』ができなくなるのではと懸念されている屋台組があります。
最近、古川の町も、だんだん町が歯抜け状態になりつつありますからね。」
む「起し太鼓は、いつごろから始まったのですか?」
な「これについては、明らかではありません。屋台の曳行は、天明2年(1782)に9台あったことがわかっています。
もともと、起し太鼓は、振れ太鼓といって、高山でも文化年間にみられたものだそうです。一番古い記録では、天保2年(1831)3月にみられるそうですから、今から170年以上前の話ですね。
先日残念ながらおなくなりになった、大野先生の著述によると、昭和の初め頃から、猛獣を威嚇するために行なったという考え方が踏襲されたと書かれています。
熊や猪や、狼を追い払うために、行なったものだということですね。しかし、起こし太鼓の名前の
通り、もともとは目覚まし太鼓の意味合いが強かったもののようです。
また、付け太鼓も、安政二年に規制が行なわれていますから、かなり古くから行われていたという事になります。」
む「私も見た事があるんですが、かなり けんか祭り 的な要素が強いですよね。」
な「いつ頃からか、『付け太鼓を大太鼓に付けるとその組にいい事がある』とうわさされ、各屋台組では、どこの辻で付けるとかの作戦会議があり、他の屋台組と申合せをして、やるようですよ。今でも古川の人達は「昔の方がもっと豪壮で面白かった」などと言っておられますが、明治39年には、警察になだれ込んで、ガラス49枚を割ったり、投石したりした事件があったそうです。何でも、警察に不服を思っていた屋台組が密かに計画し、わざとなだれ込んだそうです。
でも、警察が、器物破損で捕らえようとしたらしいのですが、神事の最中の事といって、誰も逮捕されなかったそうです。
その事件のせいか、今でも、古川署では、古川祭り前後1ヶ月は取締りがゆるくなるとかいう噂があるらしいです。
実際は知りませんがね。」
む「古川の人は、やんちゃっていいますが、すごいですねえ」
な「また奥ゆかしいというか、この警察の話をしても、『そうかもしれないし、そうでないかもしれない』なんていう言葉が
帰ってきますよ(笑) 実際の所は、よくわかりません。」
む「もっと、お聞きしたいのですが、このあとゲストの方に登場していただきますので、そこでまた詳しくお聞きしたいですね。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー曲でブレイク--ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
む「それでは、ここで、ゲストをお迎えしたいと思います。今日は電話での出演です。ひだ古川ふるさと案内人会 代表の
森 要(もりかなめ)さんに登場いただきます。もしもし、森さん、こんばんは」
森「こんばんは」
む「いよいよ古川祭りですねえ」
森「そうですね。楽しみにしていました。」
む「いま、長瀬さんから古川の起こし太鼓についてお聞きしたのですが、森さんも上に乗ってたたかれた事あるんですか?」
森「はい、あります。」
む「その時のお気持ちは?」
森「以前住んでいたところでは、青年部に入っていないとダメだとか、祭りの練習を一生懸命やらないとダメだとか、結婚しているとだめだとかありました。ご縁がありまして、今の場所に代わってからちょっと規制がゆるくなっていて、私は実は直前の4/5に結婚していたのですが、乗る事ができました。誇りに思いました。」
な「森さんに、私ちょっとお尋ねしたい事があるんですが、古川の場合は、高山と少し違って、屋台主事と起し太鼓主事のありますが、どうやって決められているのですか?」
森「以前は起こし太鼓主事と屋台主事は同じ屋台組がやったのですが今は分けられています。」
な「玄武、朱雀、青龍、白虎というあれですか?」
森「そうですね。」
な「気多若宮神社の社紋は葵を反対にしたものですが、これは徳川家とは関係があるんですか?」
森「これについてはよくわかっていません。もともと能登の気多大社からわけていただいた、三つ鶴葵という紋です。金森時代のあと、天領になってから古川の町の自治がよくされていて、認められたとかいう話はありますが、よくわかっていません。」
な「もしそうだとすると、時代が時代だけに、徳川の紋の上に乗ってたたくということは、民衆のパワーを感じますねえ」
森「そうですね。でも実際の所はよくわかっていません」
む「古川の祭りは、屋台もありますが、起こし太鼓と屋台で大変ですねえ」
森「そうですね。たいへんというのは、本当にたいへんなんですが、うれしいなという気持ちがあります。高齢者が多くて、大変だということがあります。」
な「前日、起こし太鼓で怪我をしても、屋台を並べたときに涼しい顔して笑っておられないようですね。」
森「そうですね。黙っております。(笑)」
む「森さん、今年の古川祭りの見所と、起し太鼓の曳行経路をおはなし下さい。」
森「はい。祭り会館前で神事が行われて、9時に打ち出しがあり、壱之町方面へ行きまして、最初の付け太鼓の攻防があり見所です。付け太鼓の見所はパンフレットをご覧下さい。
次の日は、静のまつりで屋台が出て、からくりと子供歌舞伎の奉納があります。高山にも昔あったようですが、今は古川にしかありません。」
む「ありがとうございました。では、森さんからリクエスト曲をいただきたいのですが、曲を紹介いただけますか?」
森「せっかくの機会ですので『有馬 圭の 起こし太鼓』をお願いします。」
む「では、この曲を最後にお別れいたします。森さんありがとうございました。」
ーーーーーーーーーーーーーーー♪起こし太鼓♪ーーーーーーーーーーーーー
む「あっという間でしたね。来週もよろしくお願いいたします」
な「来週は、郷土館長の田中彰さんをお迎えしてお送り致します。」
む「皆さん楽しみにしていて下さい。 長瀬さん、どうもありがとうございました。」
2007年04月10日
4/9第2回放送終わりました
む「まもなく高山祭りが始まります。先週は、私がいっぱいしゃべってしまいましたね。」
な「そうでしたね。先週は、舞についてお話しました。」
む「早速ですが、先日行なわれた市民勉強会。たくさんの人でしたね。」
な「お蔭様で、大盛況の内に終える事ができました」
む「私も拝見しましたが、私のようなものでもわかる、大変興味のわいた、わかりやすい講演会でした。それにしても若い人が多かったですね。」
な「そうですね。私も選挙の各陣営の総決起大会ということで、皆さん御忙しくて、10人くらい可と思ったら、結構な人があった。しかも、若い方の多いことには、関心の高さを物語ると思いました。」
む「さて、今週末にいよいよ迫った、高山祭りですが、あちこちで準備が行なわれていますね。今週も高山祭りの話題をお届けしたいと思います。」
な「そうですね。なるべくわかりやすく、お伝えしたいと思います。ところで、恵子さん。高山祭りのイメージって何色ですか?」
む「そうですね、赤、金、黒でしょうか?」
な「それって屋台の色から来ていますよね。ところが、昔180年前の屋台の色は
赤がなかったんです。あの赤い幕は猩猩の血で染めたという赤い幕ですが、ビロード状の幕ですよね。あれが高山へ入ってきたのは天保時代以降なんです。

それまでは、紺色や絹の幕だったようです。水色とかのね。郷土館の資料(屋台絵図)にあります。」
「古川に黄鶴臺の幕が保存されています。
高山の上一之町にあって、古川へ安政年間に売却されたとの話ですが、紺の青海波(陣屋にあるような波の紋)の模様に黄色の鶴=黄鶴(おしどり)が細かい糸で描かれています。 また、屋台の屋根の形もその頃は、唐破風といって、京都の牛車のように波打っている形をしていました。現在の合掌造りのような切り妻風になったのも、天保以降です。」む「屋台って、何年持つんですか?」
な「江戸時代以降、だいたい60年に1回修理が行われています。老田先生の説によると今までにだいたい4回の修理をされている。現在の修理というのは、天保から明治・大正にかけてのものに復元するという作業が行われています。
昔は、道路もがたがたで、車軸や上段屋根を支える部分からへたってきたそうです。ゆらゆらとゆれますからね。
(また、専門家の話では、漆が落ち着くのはだいたい半年くらいらしいのですが、
年に2日出してやわいとかたづけに2日=4日x60年で240日という数字になる。
日にさらすということは劣化しますから、やっぱり60年くらいで塗り替えなくてはいけないそうです。)」
む「ゆらゆらとゆれると、『だいじょうぶかなあ、壊れないかなあ』などと思ってしまいます。」
な「それが、大丈夫なんです。なぜかというと、屋台の下の部分と上の部分は反対方向にゆれるような構造になっています。これが、東大の先生も驚いたそうですが、免震構造になっているんですね。
先日HPをみていてわかったのですが、昔から、飛騨の匠も作った五重塔が、全国にたくさんあるのに、地震で一つもつぶれたことがないらしいです。
これは、ゆれる構造から来ているらしいんです。今でも、高層建築などは、わざと空洞の階を作っていて、そこを基点に上下が反対にゆれるように設計されている。それを飛騨の大工さん達は、江戸時代にしっていたんですね。」
む「屋台の大きさって、大体同じなのはどうしてですか?」
「これはね、高山の通りにあわせて作られているからです。あとからできた屋台は他組のものより大きく作ろうとしました。しかし、大きすぎるとどうしてもぶつけてしまう。今でも屋台の舵取り=大でこの方は腕の見せ所といいますが、屋台をぶつけた時には、それはそれは大恥になります。他組の方からも『あそこの屋台はへただ』ということになる。一年間言われますからね。誰がやったとか。
そこで、谷口与鹿などの工匠は、通りに合わせた大きさにした。
中には大きいものもあって、山王祭の鳳凰臺などは、上の欄干が折りたためる構造になっていたり、スライドさせて収納させる屋台もあったそうです。
また、回転する時に使う、「戻し車」ですが、大きい屋台には2つついているのがあります。恵比寿臺、八幡の鳳凰臺などがそうです。いずれも谷口家の作品です。」
む「もっと聞きたいのですが、今日もゲストがいらしていますので・・・今日のゲストは、飛騨の匠展実行委員会 副実行委員長の 野尻修二さんです。野尻さんこんばんは¥。」
の「こんばんは」
む「ながせさん、野尻さんにはどのような事をお聞きするといいですか?」
な「今度開催される『飛騨の匠展についてお聞き下さい」
む「飛騨の匠展はどのような展覧会ですか?」
の「7月の21日から9月9日まで 飛騨センターの岐阜県ミュージアム飛騨で開催します。例年、私どもは飛騨の匠を顕彰するために、展覧会を開いていますが、今年は、建築に焦点をあてた展示を行ないたいと思います。」
む「見所はなんですか?」
の「例年、飛騨の匠の道具に焦点をあてて展示を開催してきました。昨年は、やりがんなやちょうなに絞って展示を開催しました。昔は、木を使って建物を立てたりするときには、木をへいで(割って)、そぐようにして板を作るのが通常でしたが、のこぎりの登場によって、木を切るという事に変わってきました。そういうことを展示したいと思います。」
な「やりがんなは、先のとがった丁度長い枝に曲がったナイフがついているようなもので、そういう道具で、木を平に削りました。またちょうなとは、丁度腕を伸ばして、手を直角にしたような形の物で、それで柱などを造りました。陣屋の御蔵などにある柱はすべてそうやってできているもので、貝の内側を並べたような模様が特徴です。」
の「また、大工さんが使っておられる墨壷や、木を運搬する運材方法。これは、飛騨からは木曾川に木を流しましたし、宮川を通っては、富山へ木を流しました。そういう川を使った木の運搬方法について、展示を行ないます。そして4つめには大工さんに焦点をあてて、展示を行なって行きたいと思います。」
な「運材と言うのがまた面白くて、最近わかった事なんですが、江戸時代に江戸城西の丸が炎上した。その時に、飛騨から材木が大量に運ばれました。飛騨は分水嶺があるので、益田郡の木は、飛騨川から木曾川に流すと、そのまま名古屋へ流れますが、分水嶺から北の木材は、宮川から神通川を流して、一旦富山に集め、下関を廻って大阪へ持っていくルートだった。これだと、35日から40日もかかるルートだった。お城のために、早く木材を届けなくてはいけないので、分水嶺を越して、運んでいたという事実が最近わかりました。」
む「どうやって運んだんですか」
な「大体は木ぞりを使ったり、冬には雪を使ってそりをつくってひっぱったりしたようです。」
の「また今年は、両面宿難の特別コーナーの展示も行ないます。三重大学名誉教授の八賀先生の論を展開したいと思っています。」
な「これは、『両面宿難はソマ(樵をする人)の棟梁だった。』という説です。」
む「大変興味がわきました。もっとお聞きしたいのですが、時間が限られていますので、今日はこの辺で終わりたいと思います。お二人ともありがとうございました。」
(徳積善太)
2007年04月08日
市民勉強会 開催しました
今日のテーマは「古代ロマン 飛騨の匠の変遷」と題して、前飛騨春秋編集人の桐谷忠夫先生が講師をされました。

飛騨のひだは、もともと万葉集には、「棐陀」と書かれていて、「棐」の字は「曲がった弓」の意味、「陀」の字は土石流による崖崩れの意味があり、自然災害が多い難所のような意味があったそうです。
それが「斐太」に書き改められた。「斐」は、あやとかすぐれた」という意味。「太」は京都の太秦などのように「まほろば」という意味があるそうです。
おそらく、書き間違えから、いい国の意味を持つ言葉に置き換えられたのではという先生のロマンを感じる事ができました。
当日は、46名の受講の方をお迎えしての開催でしたが、皆さん、大変熱心にお聞きいただきました。中でも若い方が多く参加くださり、関心が高いことに驚きました。
次回は4/27 テーマは「正倉院御物と飛騨の匠」です。
皆さん、ふるってご参加下さい!
(Rekisy)
2007年04月04日
第1回の放送終りました
皆様、聞いていただけましたでしょうか?
今回、初めての放送と言うことで、結構緊張しました。
シナリオを作らずにはじめてしまいましたので、お聞き苦しかったかもしれません。
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今回は、このコーナーについてのご紹介に始まりました。前半部は
私の歴史とのかかわりについて
1)高山祭りの山王祭の神楽台組に所属
2)山王祭の雅楽会に所属 龍笛を担当
3)山王祭の采女(神殿前で舞を舞う)の指導を担当
村田恵子ナビゲーターも天満神社で浦安の舞をやられていたようですが、浦安の舞は、紀元2600年を記念して昭和17年ごろに全国の神社で指導されました。
ところが、日枝神社と八幡神社は、浦安の舞を採用しておりません。
日枝神社は倭舞 求子の舞(もとめごのまい)を昭和44年ごろから宮内省の楽部で作って頂いて奉納しています。八幡様は、櫻山の舞を奉納しています。
浦安の舞は鈴と扇を使いますが、日枝の求子の舞は何も使用しません。(八幡は特殊な鈴を使用します。)
そういうお話をしました。
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古川の歌手「向林利明 さんの『タクミ』」を間に流させていただきました。
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後半は、4月6日に飛騨の匠学会で「市民勉強会」を開催します。
その勉強会で講師を勤めていただく桐谷忠夫先生にゲスト出演していただきました。
先生には、「古代ロマン 飛騨の匠の変遷」と称して、講演をいただきます。今回は、その一部として
・両面宿難はソマの棟梁だった。
・5世紀頃の、仁徳天皇の時代から、飛騨の人間は中央から悪人と思われていた話。
・全国に飛騨の匠が広がって行った話。
・「かにかくにものは思わじひだびとの 墨縄の道 ただひとすじに」という万葉集の話
などのさわりについて、お話いただきました。
飛騨の匠市民勉強会は、4月6日午後7時より 飛騨センター ミニシアターにて 入場無料です。

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先生のリクエスト曲は、「飛騨山娘」でした。思い出の曲、今後広めたい曲ということで、ビルトーゾオーケストラの演奏をお届けしました。
次回は、4月9日月曜日です。180年前の高山祭りや、屋台彫刻についてお伝えします。
(徳積善太)
2007年04月02日
4/2から番組が始まります!

獅子の彫刻(谷口与鹿作=江戸時代)
明日、4/2の夜7:30から毎週30分間、「飛騨の歴史再発見!」と称して、隠れた歴史についてご紹介してまいります。
村田恵子ナビゲーターと私 徳積善太が語る、ヒッツFMの番組にご期待ください。
なお、飛騨の匠学会のブログ
http://blog.livedoor.jp/hida_no_takumi/?blog_id=2180976
もご覧ください。
(徳積善太)




