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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2007年05月27日

第6回放送終わりました

今回は、野麦峠の話をしました。ゲストは、鮎飛定男さんでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
む「昨日は、野麦峠の山開きがあったようですね」

な「そうですね。昨日は山開きに付随していろんなイベントが行なわれたようです。

そもそも、野麦峠は標高1672m。飛騨(岐阜県)と信州(長野県)の国境にある峠で、
この街道は鎌倉街道、江戸街道と呼ばれるように飛騨と信州、江戸を結ぶ古くからの重要な路線だったんですよ。

今でこそ、車で行くと高山から1時間半くらいで国道361号線を行き、朝日ダムを過ぎたあたりで、
右側に赤いアーチ式の橋を見ながら左に折れて行くと、あっという間につきますが、昔は、右は谷底、
左は山また山と言う、難所でした。ところで、何で野麦峠というか知っていますか?」

む「え、野麦が取れるんですか?」

な「そういう話もあります。じゃ、野麦ってご存知?」

む「え、わかりませんけど、麦の一つですか?」

な「野麦と言うのは、笹に実る実の事です。ほら、笹に花が咲くと、地震が起こるとか、天災が起こるとかいう話を聞いた事ありませんか?
その笹に花が咲いた後に、小さな米粒ほどの実がなるのですが、そのことを野麦といいます。
貧しい地方では、この実を集めて団子にしたりして食べたと言う風習があります。私も食べた事はありませんが、食べた人に聞いたら、
そんなにおいしい物ではないそうです。今で言うとでんぷんを水で固めたもののようですね。」

む「へえ、そうだったんですか。」

な「また、野麦は、ノウミがなまったものだと言う話もあります。野麦峠は一面、笹の原でしょう。
したがって、風が吹くと笹が波のようにゆらいで見える。
そのことを、野原の海=ノウミと呼ぶようになったということらしいです。
それがいつしか、野麦になったという話です。」

む「確か野麦峠は、『女工哀史の峠」として数多くの小説や 映画となっていますよね。」

な「そうですね。昭和46年ごろでしたか、山本茂美さんが書かれた「ああ野麦峠」で一躍有名になりました。

それは、明治・大正時代に 大勢の飛騨の若い女性が「糸引き稼ぎ」に野麦峠を 越えて長野県の
製糸工場へ向かったという物語です。

当時は現金収入も少なく 家族の多い飛騨では、人減らし・口減らしなどという事が本当に行なわれ、
まだ年端もいかない少女達を出稼ぎにやる家があったそうです。食べ物も十分でない時代のことですから、
彼女達の持ち帰るお金で年越しが 出来るくらいでした。今では、スチュワーデスのような花形商売の
イメージもあったそうです。

そんな工女達の一人、岐阜県吉城郡河合村角川で生まれ育ち 14歳頃から毎年製糸工場へ出稼ぎに
行った「政井みね」という人がいました。 「百円工女」といわれ当時模範工女 といわれた女性でした。
彼女達の労働条件は16時間労働という状態で、大変厳しかったということです。

そんな中、政井みねさんも20歳の時、信州・岡谷の工場で病気になり兄がつれて帰る途中、
野麦峠に辿り着いた時、息を引き取ったそうです。

そのときに、兄の背に背負われながら、「ああ飛騨が見える、飛騨が見える」とうれしそうに言って
息を引き取った物語が「女工哀史」として有名になったということです。
これは実際にあった話で、明治42年11月20日のことだそうです。」

む「私もその話は知っていますが、かわいそうな話だと思った事があります。確か、野麦峠の上には
「お助け小屋」というのがありますよね。」

な「お助け小屋の由来は江戸時代までさかのぼります。厳しい峠越えにより命を落とすものが多いことから、
小屋を建て、番人を置き、峠越えをする者を救いたい」という願いを幕府が聞き入れ、天保12年(1841)に建てられました。

雪の峠を越えた工女達が体を休めたのも、このお助け小屋です。現在のお助け小屋は、昭和45年に
野麦峠の麓、野麦集落の古い家屋を移築したものです。また、今では、このお助け小屋で宿泊・休憩・
お食事・なども利用できるそうですから、昔と現代ではかなり違いますね。

今年は、松本市の企画で、小学生の女の子達に、当時の服装をさせ、松本から歩いて野麦峠を
越えるという体験イベントが開かれたそうですよ。 実際、歩かれた方は、大変だったでしょうね。」

む「そんなイベントがあったんですか。
もっといろいろとお聞きしたいのですが、今日も素敵なゲストの方にご出演いただく事になっていますので、
後半部でその辺のお話を聞きたいと思います。さて、今月の曲をご紹介して下さい。」

な「はい、しんや修一の曲で、「飛騨の匠」を、お聞き下さい。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー曲でブレイクーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

む「今月の曲ということで、「飛騨の匠」をお聞きいただいています。さあ、今日も素晴らしいゲストにお来ていただいています。今日のゲストは、古川の案内人と言えばこの人。鮎飛貞男(あゆとび さだお)さんです。
鮎飛さん、こんばんは。」

あ「こんばんは。」

む「村田と申します、よろしくお願いいたします。」

な「鮎飛さんこんばんは、長瀬です。いつもお世話になります、今日はよろしくお願いいたします。
恵子さん、鮎飛さんは、古川の案内人として大変有名な方なんですが、いつも、観光客の皆さんに、
野麦峠の話をされているんですよ。 鮎飛さん、確か、つやばあちゃんが、野麦峠を越えて糸ひきさとして岡谷に行かれていたんですよね。」

あ「はいそうです」

む「おばあさんは、何年くらい、岡谷に行かれていたんですか?」

あ「つやばあちゃんが、14歳から22歳まで行っていました。20歳で結婚してからも行ってたんです」

む「『女工哀史』では、女工の人たちが大変つらい思いをされたという話になっていますが、その話は
本当なんですか?」

あ「そういう話もあったようですが、実際は行ってくれたお陰で土地を買った人もあったし、白いマンマ(ご飯)を食べさせてももらえたし、いいこともあったようです。」

な「今回、鮎飛さんは、野麦峠のイベントで、講演をされたようですが、どんな話をされたのですか?」

あ「信州へ行かせてもらってありがたかったとばあちゃんが言っていました、という話をしました。そうしたら、前列のおばあさんが泣き出されてしまって。。。「私達のご先祖が悪い事ばっかりして、いじめたという話しか聞いていなかったけれども、そうではなかったんですか。安心しました。よかった。」といって泣かれるんです。本当にこっちももらい泣きしましたよ」

な「何人くらいの方が行かれたんでしょうね」

あ「それは調べてないのでわかりませんが、たくさんの人が行かれたようです。」

む「今日までは、野麦峠の話と言うとかわいそうなイメージがありましたが、そうではなかったというお話を聞いて安心しました。今日は、ありがとうございました。
もっと伺いたいのですが、時間が迫ってまいりましたので、
曲の方に行きたいと思います。鮎飛さん、リクエスト曲と選んだ理由をお話くださいますか?」

あ「Yestarday Once Moreをお願いします。 家内と知り合ったときにはやっていた曲という理由で選びました。」

む「はい、では、Yestarday Once Moreを聞きながらお別れしたいと思います。鮎飛さん、長瀬さん、今日はありがとうございました。」

なあ「ありがとうございました。」

む「来週のこのコーナーは、桐谷先生にご登場していただき、金森公のまちづくり
の続編をお届けします。『ひだ、歴史再発見!』来週も楽しみにしていてください。」  
Posted by rekisy at 00:25Comments(0)TrackBack(0)