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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2007年05月28日

第7回放送 終わりました

ひだ歴史再発見 第7回 平成19年5月28日

む「ひだ歴史再発見のコーナーです。今日は桐谷忠夫先生と二人で進めて行きたいと思います。桐谷先生よろしくお願いします。」
き「よろしくお願いします。」
む「前回は、古川との共通点などをうかがったのですが、高山の町はもともと三之町というのは川沿いというか、川原で、そこを埋めたと言うことでしたね。」
き「はいそうです。」
む「河川敷を埋め立てて、作ったから、おいしい水がでて、おいしい醤油ができ、お酒のおいしいのができたということだったですね。
き「砂地を埋めているので、地下水を上手く取り入れています。今でも造り酒屋では、伊殿と頃に良水という古い文字をみることができます。」
む「私もその話をあまり知りませんでしたが、前回その話を進めさせていただいたとき、じっくりお話をうかがったいましたが、今日は東山の寺町についてじっくりと伺いたいと思います。私はじっくり歩いた事がありません。観光客の皆さんの方が詳しいと思います。」

き「団体は案内した事がありません。少人数の外国の方が求めておいでになる、古い歴史を知りたいと、アメリカの方が歴史をもたれていないところで生活をされているので、遊歩道辺りを、じっくり、パンを片手に散策した事があります。」
む「先生は、案内人としても活躍されていますよね。」
き「ボランティアガイドの会がありまして、飛騨の里をホームグランドになっておりますが、私は飛騨中をフォローして、下呂や神岡、白川郷まで頼まれればお供して出かけると言う具合です。」
む「観光客の方のルートは、先生が決めたり、観光客が決めたりするのですか?」
き「もう16~7年になりますが、名刺を渡して語っていると、口コミで向こうから頼まれることもあります。観光業者の方が私を理解していただいて、仲介する場合もあります。歴市民俗学会と言う勉強会で事務局長をやっていましたので、そこから全国へ発信しました。
実はね、ガイドをするということは私の健康のためにやっています。私個人のためにはね。折角頼まれてご案内するなら、本物、一番いい所を、ノンフィクションをガイドしたいと思っています。」

む「高山は古い町並とか東山が見所となっていますが、どういう背景でできたとか、見落とされる場合もありますが、先生に伺いながら歩くと興味深いですよね。」
き「金森長近が城下町、城を作る頃に東山寺院軍も名が近い、可重、重頼あたりが寺院群をつくっているということですね。金森衆和なども手伝って京都の東山寺院、のミニチュア版を東の方に作って、そして城の守りをさせたんです。観光のために集めたんではなくて、城を守るためにお寺をいくつか作ったと。秀吉から家康の時代に、戦い上手は僧兵が一番強かった。とくに信心をもった軍団、これに信長、秀吉、家康三人とも皆てこずりました。だから、それを見ていた金森氏が上手に取り入れたんだと思います。」

む「地元の人は行く機会が逆に少ないかもしれません。知らないことがたくさんあろうかと思いますが、後ほど伺いたいと思います。ここで曲をお届けします。今月の曲ということで、しんや修一さんで匠を贈ります。」


む「今月の一曲、匠を聞いていただきました。今日この時間は桐谷忠夫先生とお届けしていますが、じっくりと寺町について、わたしにわかるようにお話いただきたいと思います。」
む「今日はある、パンフレットのゲラといいますか、製作途中のものをおもちいただいているのですが、桐谷先生の歴史探訪というパンフレットですが、これはいつごろできるんですか?」

き「6月上旬には完成しまして、7~9月のお金持ちを特別に高山へお招きしながら、高山の高級料亭で1万円を超えるお昼をいただきながら、やろうという新しい企画です。普通はA4くらいですが、B4の一回り大きいんです。現地をまわって、カメラマンが直接撮影されたということです。原稿造りを手伝いして、語ったことですが、長近公、可重公の時は、大阪の夏の陣、冬の陣の前ですが、そこで豊臣家が滅びますよね。そこでトラブルがあったかたを重頼に預ける。加藤清正の孫、光正公を預かる。その人が住まいとするところが、天性寺です。1632年ということになっていますが、ざっと300~400年近い昔です。その光正の住まいとして持ってきた。それより前、1618には家康の六男、松平忠照という人を預かります。加藤家はその後潰れますが、光正公も19歳で亡くなるのですが、毒殺でなかったかといわれています。加藤光正公だけではなくて、加藤家そのものが法華宗(日蓮宗)ですので、法華寺という寺をつくりました。法華宗は高山ではこの1カ寺だけなんです。真宗はたくさんありますがね。
遊歩道の江名子川のはずれにある、宗猷寺さん、この本堂は2重の寺で、非常に珍しいものです。今年の匠の展示会でやる建造物であることに間違いないと思います。」

む「歩きながら実際に今のお話を聞きながら歩く事ができるんですね。今日、パンフをもってきていただいていますが、直接お願いしてもいいんですよね。」
き「時間さえあれば、もちろん地元の方にもご案内したいですし、社会教育の希望者を集めてもやっていますし、今でも城山へカップルでお越しになる方もおられます。照蓮寺というのもありますよね。別院も同じです。
城山のは、御母衣ダムのダム底に沈むのを昭和になって持ってきたものです。400年前には今の御母衣ダムのを分けて、鉄砲町に持ってきたんですね。高山に同じ 2つの光陽山照蓮寺というのがあるんです。」

む「目をつけておられる方もあろうかと思います。気に付かないところを見られるというのもいいですよね。
観光客ばかりでなく、地元の方も参加していただきたいですね。」

き「高山市民がうっかりすることでも、勉強しておられる。有名になればなるほど、そういう人が増えてきて、大学レベルの勉強をされた方もおられるので、こっちも勉強して向かわないといけない。ビールをあけてこられる方とは違うんです。」

む「そういう観光客の方もいらっしゃいますし、調べながらいらっしゃる方とは、目的も違うと思いますが、是非たくさんの方に知識をつけていただきたいと思います。私もいつか機会があれば、案内していただきたいと思います。」

き「ぜひご一緒しましょうよ。」
む「ありがとうございます。」

む「今日は、東山寺町についてじっくりと伺いました。桐谷先生、今日はありがとうございました。」
き「失礼致しました。」

  
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2007年05月27日

第6回放送終わりました

今回は、野麦峠の話をしました。ゲストは、鮎飛定男さんでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
む「昨日は、野麦峠の山開きがあったようですね」

な「そうですね。昨日は山開きに付随していろんなイベントが行なわれたようです。

そもそも、野麦峠は標高1672m。飛騨(岐阜県)と信州(長野県)の国境にある峠で、
この街道は鎌倉街道、江戸街道と呼ばれるように飛騨と信州、江戸を結ぶ古くからの重要な路線だったんですよ。

今でこそ、車で行くと高山から1時間半くらいで国道361号線を行き、朝日ダムを過ぎたあたりで、
右側に赤いアーチ式の橋を見ながら左に折れて行くと、あっという間につきますが、昔は、右は谷底、
左は山また山と言う、難所でした。ところで、何で野麦峠というか知っていますか?」

む「え、野麦が取れるんですか?」

な「そういう話もあります。じゃ、野麦ってご存知?」

む「え、わかりませんけど、麦の一つですか?」

な「野麦と言うのは、笹に実る実の事です。ほら、笹に花が咲くと、地震が起こるとか、天災が起こるとかいう話を聞いた事ありませんか?
その笹に花が咲いた後に、小さな米粒ほどの実がなるのですが、そのことを野麦といいます。
貧しい地方では、この実を集めて団子にしたりして食べたと言う風習があります。私も食べた事はありませんが、食べた人に聞いたら、
そんなにおいしい物ではないそうです。今で言うとでんぷんを水で固めたもののようですね。」

む「へえ、そうだったんですか。」

な「また、野麦は、ノウミがなまったものだと言う話もあります。野麦峠は一面、笹の原でしょう。
したがって、風が吹くと笹が波のようにゆらいで見える。
そのことを、野原の海=ノウミと呼ぶようになったということらしいです。
それがいつしか、野麦になったという話です。」

む「確か野麦峠は、『女工哀史の峠」として数多くの小説や 映画となっていますよね。」

な「そうですね。昭和46年ごろでしたか、山本茂美さんが書かれた「ああ野麦峠」で一躍有名になりました。

それは、明治・大正時代に 大勢の飛騨の若い女性が「糸引き稼ぎ」に野麦峠を 越えて長野県の
製糸工場へ向かったという物語です。

当時は現金収入も少なく 家族の多い飛騨では、人減らし・口減らしなどという事が本当に行なわれ、
まだ年端もいかない少女達を出稼ぎにやる家があったそうです。食べ物も十分でない時代のことですから、
彼女達の持ち帰るお金で年越しが 出来るくらいでした。今では、スチュワーデスのような花形商売の
イメージもあったそうです。

そんな工女達の一人、岐阜県吉城郡河合村角川で生まれ育ち 14歳頃から毎年製糸工場へ出稼ぎに
行った「政井みね」という人がいました。 「百円工女」といわれ当時模範工女 といわれた女性でした。
彼女達の労働条件は16時間労働という状態で、大変厳しかったということです。

そんな中、政井みねさんも20歳の時、信州・岡谷の工場で病気になり兄がつれて帰る途中、
野麦峠に辿り着いた時、息を引き取ったそうです。

そのときに、兄の背に背負われながら、「ああ飛騨が見える、飛騨が見える」とうれしそうに言って
息を引き取った物語が「女工哀史」として有名になったということです。
これは実際にあった話で、明治42年11月20日のことだそうです。」

む「私もその話は知っていますが、かわいそうな話だと思った事があります。確か、野麦峠の上には
「お助け小屋」というのがありますよね。」

な「お助け小屋の由来は江戸時代までさかのぼります。厳しい峠越えにより命を落とすものが多いことから、
小屋を建て、番人を置き、峠越えをする者を救いたい」という願いを幕府が聞き入れ、天保12年(1841)に建てられました。

雪の峠を越えた工女達が体を休めたのも、このお助け小屋です。現在のお助け小屋は、昭和45年に
野麦峠の麓、野麦集落の古い家屋を移築したものです。また、今では、このお助け小屋で宿泊・休憩・
お食事・なども利用できるそうですから、昔と現代ではかなり違いますね。

今年は、松本市の企画で、小学生の女の子達に、当時の服装をさせ、松本から歩いて野麦峠を
越えるという体験イベントが開かれたそうですよ。 実際、歩かれた方は、大変だったでしょうね。」

む「そんなイベントがあったんですか。
もっといろいろとお聞きしたいのですが、今日も素敵なゲストの方にご出演いただく事になっていますので、
後半部でその辺のお話を聞きたいと思います。さて、今月の曲をご紹介して下さい。」

な「はい、しんや修一の曲で、「飛騨の匠」を、お聞き下さい。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー曲でブレイクーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

む「今月の曲ということで、「飛騨の匠」をお聞きいただいています。さあ、今日も素晴らしいゲストにお来ていただいています。今日のゲストは、古川の案内人と言えばこの人。鮎飛貞男(あゆとび さだお)さんです。
鮎飛さん、こんばんは。」

あ「こんばんは。」

む「村田と申します、よろしくお願いいたします。」

な「鮎飛さんこんばんは、長瀬です。いつもお世話になります、今日はよろしくお願いいたします。
恵子さん、鮎飛さんは、古川の案内人として大変有名な方なんですが、いつも、観光客の皆さんに、
野麦峠の話をされているんですよ。 鮎飛さん、確か、つやばあちゃんが、野麦峠を越えて糸ひきさとして岡谷に行かれていたんですよね。」

あ「はいそうです」

む「おばあさんは、何年くらい、岡谷に行かれていたんですか?」

あ「つやばあちゃんが、14歳から22歳まで行っていました。20歳で結婚してからも行ってたんです」

む「『女工哀史』では、女工の人たちが大変つらい思いをされたという話になっていますが、その話は
本当なんですか?」

あ「そういう話もあったようですが、実際は行ってくれたお陰で土地を買った人もあったし、白いマンマ(ご飯)を食べさせてももらえたし、いいこともあったようです。」

な「今回、鮎飛さんは、野麦峠のイベントで、講演をされたようですが、どんな話をされたのですか?」

あ「信州へ行かせてもらってありがたかったとばあちゃんが言っていました、という話をしました。そうしたら、前列のおばあさんが泣き出されてしまって。。。「私達のご先祖が悪い事ばっかりして、いじめたという話しか聞いていなかったけれども、そうではなかったんですか。安心しました。よかった。」といって泣かれるんです。本当にこっちももらい泣きしましたよ」

な「何人くらいの方が行かれたんでしょうね」

あ「それは調べてないのでわかりませんが、たくさんの人が行かれたようです。」

む「今日までは、野麦峠の話と言うとかわいそうなイメージがありましたが、そうではなかったというお話を聞いて安心しました。今日は、ありがとうございました。
もっと伺いたいのですが、時間が迫ってまいりましたので、
曲の方に行きたいと思います。鮎飛さん、リクエスト曲と選んだ理由をお話くださいますか?」

あ「Yestarday Once Moreをお願いします。 家内と知り合ったときにはやっていた曲という理由で選びました。」

む「はい、では、Yestarday Once Moreを聞きながらお別れしたいと思います。鮎飛さん、長瀬さん、今日はありがとうございました。」

なあ「ありがとうございました。」

む「来週のこのコーナーは、桐谷先生にご登場していただき、金森公のまちづくり
の続編をお届けします。『ひだ、歴史再発見!』来週も楽しみにしていてください。」  
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2007年05月18日

金山へ調査に行きました

先日、金山の加藤家へ調査に行きました。

金森頼直あての書状や、江戸時代の知行地の地図などを拝見し、いろんな話を伺うことができました。

・昔、金山町は下原までは天領で、遠藤家の旗本知行地2つと、尾張領が合併してできた町だそうです。
・村ではあまり米が実らなかったため、川の木材流しを仕事としていたために、上流と下流では争いが耐えなかったそうです。
・金山町の人は、わざと木材を門原であげて陸送したために、下原に木材が届かず、争いになりました。
・また、下原から金山に渡す船は、金山町の管理だったために、船賃を取っていたのですが、後日、申し渡しがあり、下原の人間は無料となったそうです。
・川の向こうとこちらではあまり行き来がなかったようですが、下原の上手に中津原と言う場所があり、そこにあったお店に物を買いに来るのに、筏場があったそうです。

などなど、いろんな話を伺う事ができました。  
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2007年05月15日

運材の図絵について

土屋秀世という高山の地役人が調査し、松村梅斎というひとが書いた「官材画譜」という図絵があります。
その元絵を、先日、高山の個人宅で拝見しました。

この図絵は、江戸時代後期のものですが、後ほど「木曾式運材画絵」というのが発行されました。


これは、明治期のものですが、着色されています。内容は、ほとんど「官材画譜」のものと内容が一緒です。

飛騨には、運材に関して、貴重な資料も残っています。

(Rekisy)  
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2007年05月14日

第7回放送終わりました


む「明日はいよいよ乗鞍スカイラインの山開きですね。」

な「そうですね。私はここ3年ほど、演奏を頼まれて行っていましたが、今年は日程の関係でなくなりました。」

む「演奏って、得意のサックスを吹いておられたのですか?」

な「はいそうです、でも、空気が薄いので、管楽器には大変でしたよ。ところで、この空気の薄さを利用した施設が乗鞍にあったのをご存知ですか?」

む「え、空気の薄さですか?確かに乗鞍は3026mですか、空気が薄いですよね。」

な「今は、平和利用で観光道路として発達した乗鞍スカイラインですが、もともとは軍事用道路だったようです。
昭和9年(1934)に乗鞍岳は中部山岳国立公園として指定されましたが、のちの昭和14年に陸軍航空本部は、航空エンジンの高地実験をするための施設建設を計画して、日本各地の候補地から、最終的に乗鞍岳 畳平に白羽の矢が立ったそうです。
実験のための機械器具、材料運搬のための輸送路を建設することが急がれ、スタート地点を松本側にするか、岐阜県側にするか検討された結果、道路は岐阜県側の平湯峠から付けられることになったということです。
その道路ですが、昭和17年にわずか1年で道路を作ったということですから、
当時の陸軍のあせりがあったんでしょうね。」

む「そうなんですか。でも、どうして航空エンジンの開発が必要だったのでしょうか?」

な「それは、広島や長崎を空襲したB-29という飛行機がありましたよね。
その飛行機が当時、1万メートルという上空を飛行していた。飛行機というのは、構造的にタービンを回して空気を圧縮して燃料を爆発させるのですが、
日本の飛行機はゼロ戦をはじめ、プロペラ機の小型機では世界の群を抜いた技術を持っていましたが、小型機では高空へ上昇すると、空気が薄いのでエンジン出力が下がってしまって、どうしても上れなかった。
そのため、高度の高いところでのエンジン開発が不可欠だったというわけです。」

む「その道路が、戦争が終わって平和利用するということになり、スカイラインとして利用されているんですね。」

な「そうなんです。当時、濃飛バスの社長さんが、将来的にバスの運行を可能にするために、道幅を3mの計画から3.6mにするように、軍に申し入れて変更してもらったことが、今日の観光利用ということにつながったんですね。

ところで、乗鞍って、高山側から見ると、女性が横たわった形になっているのはご存知ですか?」

む「え、そうなんですか。そういわれてみれば、そうですねえ」

な「よく見ると、高山側から一番右側の鞍が峰(3026m)のあたりが、女性の顔で、北に向かうと胸があって、横たわっているように見えます。高山出身の詩人 福田夕咲は、『みほとけの思惟の姿に似たらずや 静けきかもよ岳の夕映え』と歌っています。

もともと馬の鞍に似ていることから「鞍が峰」と名付けられ、やがて「乗鞍」と呼ばれるようになったといわれる乗鞍岳ですが、なだらかで女性的な山容は、詩人には弥勒菩薩が横たわっているように見えたのですね。

 北アルプスの南端に位置する乗鞍岳は、最高峰の剣ヶ峰(3,026m)をはじめとして、大日岳・摩利支天岳など23の峰、権現池・五ノ池など7つの湖、桔梗ヶ原など8つの平原があります。新生代の第4紀(1万年程前)の火山活動にできた火山帯で有史時代の噴火記録はありませんが、気象庁では活火山と認定されているそうです。」

む「いま、御岳が活火山ですが、乗鞍もそうなんですね」

な「そうらしいですね。焼岳も御岳も私が小学校の時に噴火したことを覚えていますから、それにはさまれた乗鞍が活火山でも不思議ではありませんね。」

ところで、地元丹生川村の作成した乗鞍岳略年表には、「807年(大同2)坂上田村麻呂将軍、乗鞍岳登山し大願成就を祈願(伝)」とある。しかし坂上田村麻呂は、同じ807年に奥州の蝦夷(えみし)征伐を祈願して、各地に神社や寺を100以上も建てたといわれ、年齢も50歳になっていたことから、本当に本人が登頂したのだろうかという疑問が残ります。

また、平安時代には、木曽義仲の書記、大夫覚明(だゆうかくめい)乗鞍岳奥の院(大日岳)に大日如来を安置したり、円空は大丹生池に円空仏を沈めたといわれていますし、山祠を修復した明覚法師(みょうがくほうし)などの名が伝えられています。乗鞍岳は神の山として、人と神仏が出会う場であり、天と地を結ぶ神秘の山であったということです。

 時代は下って、1877年(明治10)、英国人ウィリアム・ガウランドが乗鞍岳に登り、飛騨の山々を「日本アルプス」と命名した。その15年後の1892年(明治25)、同じ英国人宣教師ウォルター.ウエストンが乗鞍岳に登頂。世界に乗鞍岳が知れ渡るようになったということです。」

む「もっといろいろとお聞きしたいのですが、今日も素敵なゲストをお招きしておりますので、曲のほうへうつりたいと思います。長瀬さん、曲紹介をお願いします。」

な「はい、今月の曲は、『飛騨の匠』です。飛騨が生んだ歌手 しんや修一さんのデビュー曲です。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
曲でブレイク

む「この曲を選ばれたきっかけはなんですか?」

な「私は、高山スイングエコーという楽団に所属しているのですが、もうお亡くなりになって10年になりますが、堀内義勝さんというかたが見えました。彼の作曲で、当時メンバーだった新家さんが、歌手としてデビューする時に贈った曲なんです。今日も天国で堀内さんが聞いてくれていると思います。」

む「この曲は、飛騨の歌手で飛騨の人の作曲というものなんですね。」

な「そうなんです。作詞も大森清男さんという、飛騨の詩人の作品です。」

む「さて、今日のゲストをご紹介します。今日のゲストは、飛騨センターにあります、岐阜県ミュージアムひだ学芸員の牛丸岳彦(うしまるたけひこ)さんです。牛丸さんこんばんは。」

う「こんばんは。」

む「牛丸さんには、この前、屋台を作った道具展でいろいろとわかりやすくご説明いただきまして、
ありがとうございました。それにしても今まで、いろんなゲストの方に登場いただきましたが、お若いですねえ。お年を伺ってもよろしいですか?」

う「はい、34歳です。」

む「牛丸さんは若い方ですけど、いろいろと高山の歴史をよく知っておられるんですよね。」

な「そうです。わたしよりずいぶん詳しい方で、わたしにとっても大事な人です。」

む「そうなんですか。よろしくお願いします。ところで、牛丸さんは、考古学にお詳しいと言うことですが、最近では秋葉様の研究をしておられるということですが。」

う「はい。考古学の分野と秋葉様の研究はちょっとジャンルが違うんですが、最近、秋葉様の調査をしまして、いろいろと調べて見ました。」

な「ここで、恵子さんに質問ですが、高山に秋葉様はいくつあるでしょうか?
じゃあ、答えは、①30くらい、②50くらい、③それ以上 のどれでしょうか?」

む「そうですねえ、結構高山にはありますよね。確か、③ですよね。」

な「はい、大正解です!よく知っていましたね。」

む「実は、先日読んだパンフレットに66って書いてありましたので、知っていました。」

な「なあんだ、ならよくご存知だったと言うことですね。牛丸さん、実際にはいくつですか?」

う「そうですね。私が確認したところでは、66だったんですが、上三之町の家の中にある秋葉様を数え忘れていまして、67というのが正解です。」

む「それで、神社ですからお祭があるんですよね。」

う「はい、基本的に秋葉様のおまつりは年に3回あります。正五九といって、お正月と、五月と九月にお祭りをやられるところが多いようです。でも、場所によっては月に2回やられるところもあります。」

む「どうしてこんなにたくさん、秋葉様があるんですか?」

う「やはり高山は昔から火事が多くて、そのために火に対する信仰というのが厚くなって行ったんだと思います。」

な「私の調べたところでは、昔から高山で700軒以上焼けた火事が5回、200回以上となると11回もあったんですよ。そのため、大切な高山祭りの屋台も焼けてしまったと言う記録があります。」

む「へえ、屋台も焼けてしまったんですか。 私もこのヒッツのまっすぐ行ったところの橋、そうですね筏橋のところの秋葉様のお祭りをされているのを見た事があるんですが、氏子は、やっぱり町内の人がやっておられるのですか?」

う「そうですね。実際にはもっと小さな単位で、屋台組毎に行なわれている場合が多いようです。

中でも面白かったのは、毎日、秋葉様の火を替えておられるところがあって、その火をサラダ油を
使って持っていったりしておられる組がありました。そこには、秋葉様セットのようなものが箱にしまってあり、その箱を当番の所へ渡すと、その家の人がそのセットを使って夜に火を灯しに行かれる。
そういう風習が残っているんですね。」

む「ありがとうございました。もっと伺いたいのですが、時間が迫ってまいりましたので、曲の方に行きたいと思います。牛丸さん、リクエスト曲と選んだ理由をお話くださいますか?」

う「コブクロの「エール」 をお願いします。」

ーーーーーーーーーーーー曲でブレイクーーーーーーーーーーーーーーー

む「牛丸さん、この曲はどうしてお選びになったのですか?」

う「はい、聞いていて何となく元気が出てくるので選びました。」

む「コブクロのエールをお届けしました。さて、今日も長瀬さんと一緒に「ひだ、歴史再発見!」を
お届けしてまいりましたが、来週もお楽しみ下さい。長瀬さん、来週のゲストはどなたですか?」

な「はい、古川の有名な案内人 鮎飛貞男さんをゲストにお迎えします。」

む「また来週もお楽しみに。 牛丸さん、長瀬さん、今日はありがとうございました。」

なう「ありがとうございました。」

  
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2007年05月13日

今日も資料の整理をしました

7月21日から開催される「飛騨の匠展」
その資料整理を行ないました。

たくさんの資料があって、何日も同じ事ばかりやっています。

全部で、谷口家関連243点、森本家関連186点、坂下家関連600点以上の資料を整理しています。
  
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2007年05月13日

井波に行ってきました

先日は、井波に調査に行ってきました。

そこで大発見。なんと、井波の瑞泉寺の10代ご住職が、高山城主 金森長近の孫だったのです。
その記録を発見しました。

高山市役所でも把握していない、大発見でした。

  
Posted by rekisy at 22:43Comments(0)TrackBack(0)

2007年05月08日

第6回放送終わりました

ひだ歴史再発見! 平成19年5月7日
む「GWも終わりましたねえ。」

な「高山もたくさんの人でにぎわいましたねえ。ところで、長瀬さんはお仕事でしたか?」

な「1日は熱田神宮に年に一度の雅楽の舞奉納を見学してきました。観光業者なので、大半は仕事でしたが、昨日は、匠学会で富山の井波町に視察調査に行ってまいりました。」

む「井波と高山って、関係があるんですか?」

な「井波町は、彫刻の町、お座敷の鴨居の上に掲げる「欄間」の町として全国的に大変有名ですが、実は、井波の彫刻師が高山や古川の屋台彫刻をやったり、高山の彫刻師が井波に教えに行ったり、非常に古い歴史があるんですよ。

古川の祭り屋台のいくつかが、大島五雲という人の作品だということが知られていますし、高山の初代 村山群鳳さんが大正から昭和にかけて井波に行って彫刻を教えたりされていたそうです。最近では、まつりの森の屋台の彫刻は、井波の作家の作品なんですよ。
そういう意味では、結構高山と井波って関係が深いんですよね。」

む「へえ、そうなんですか。それで、今回はどんな調査だったんですか?」

な「今回、行った目的は、実は、今回の展示会に向けて調査中に、塩屋町にあります森本家というところから、江戸時代の大工さんの資料が186点も見つかったんです。その中に、彫刻物が6点あって、その3つに墨書きが見つかったんです。それは、「文政8年 井波にて柴田文蒲より彫刻を習う」と書かれていたんです。」

む「へえ、そんなに昔から関係があったんですか。」

な「そうなんです。これは今回の大発見で、さっきお話した大島五雲にしても、村山群鳳さんにしても明治時代以後の話ですから、江戸時代にすでに井波の方と交流があったということがわかれば、彫刻の分野において大発見ということでした。
今回は、井波で観光ボランティアの案内を行っておられる、井波の風というグループの寺井会長さんをはじめ、たくさんの人にお世話になりました。

ただ、その寺井さんに先日、先ほどの話の調査を依頼した時に、「高山の城主の金森出雲守の次男坊が、井波の瑞泉寺の第10代を継いでおられるんです。」
というお話を伺ったので、そちらの調査もしたいと思って伺ったしだいです。
私が高山にある資料を調査した時に、金森出雲守は、初代長近、二代可重、三代重頼の3人が名乗っているんですが、初代の次男坊は二代可重ですし、二代可重の次男坊は、大坂冬の陣で戦死しましたし、三代重頼は可重の三男坊で古川にいたことがわかっていますので、どの人のことをさすのか、それも調べようと思いました。」

む「それで収穫は、ありましたか?」

な「まず、柴田文蒲さんについては、まだよくわかっていません。
井波には瑞泉寺という、浄土真宗の別院があるのですが、そのお寺は、度重なる焼失の歴史があります。
この山門が宝暦十二年(一七六二年)に焼失したときに、京都の大工柴田新八郎という人が棟梁となり、その後井波の宮大工の松井角平が引継ぎ、享和元年(一八〇一年)十七年の歳月をかけ完成しました。楼上には、釈迦三尊の木造が安置されています。
当初、柴田という苗字から、この柴田新八郎の関係者ではないかと思い、調査しましたが、京都の東本願寺のお抱え大工ということしかわかっていませんし、
その末裔に文蒲という方は見当たらないので、おそらく雅号だと思っています。
これについては、詳しい調査が必要です。

また、金森家との関係については天正9年に佐々成政に焼き討ちされた瑞泉寺と安養寺の一向宗の両拠点でした。しかし、その後秀吉方と成政方とで一向宗門徒を自陣に引き入れる作戦がありました。天正12年に前田家に敗れた成政は、勝興寺を擁護し、高岡の古国府に寺院を建立させ自分の陣営の強化をはかった。一方の瑞泉寺は、荒廃の後住職不在のまま9年を過ぎてようやく堂宇を建立しました。そのわずか9年の差が、北陸での地位を失う結果となったんです。
そのときに、10代住職として担ぎ上げられたのが、高山城主 三代金森重頼の遺児 久々丸であった。久々丸は遷化して宣良となるが、子どもの時に本願寺に預けられていたため、高山周辺の系図には記述がない人物なんです。
この宣良は、井波町史によると、出雲守重頼二男となっていますが、高山に残る記録では、二男は後に金森大学を名乗る人物(古川住)であり、妾腹の子である可能性が高いんです。
この宣良の弟「宣心」は、照蓮寺を継ぎ、金森家との橋渡しをした人である。後に、佐奈姫を迎え本願寺とも縁戚を持つようになりましたが、素行が悪く、周囲から大変たしなめられた。佐奈姫は、悲しみの内に若くしてなくなり、今でも伝説の人となっています。
(後に明暦二年(1659)の瑞泉寺本堂着工の際、金森長門守(四代頼直)が瑞泉寺建立のための伐採許可を出し、万治元年(1658)2月、勝手次第の伐採許可を長門守が出して、農民の寄進もあったので一万本もの檜の大木を切り出したという記録があります。)
また、詳しくは、後日発表したいと思います。」

む「もっといろいろとお聞きしたいのですが、今日も素敵なゲストをお招きしておりますので、曲のほうへうつりたいと思います。長瀬さん、曲紹介をお願いします。」

な「はい、今月の曲は、『飛騨の匠』です。飛騨が生んだ歌手 しんや修一さんのデビュー曲です。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 曲でブレイク

む「この曲を選ばれたきっかけはなんですか?」

な「私は、高山スイングエコーという楽団に所属しているのですが、もうお亡くなりになって10年になりますが、堀内義勝さんというかたが見えました。彼の作曲で、当時メンバーだった新家さんが、歌手としてデビューする時に贈った曲なんです。」

む「へえ、では、飛騨の歌手で飛騨の人の作曲というわけですか。」

な「そうなんです。作詞も大森清男さんという、飛騨の詩人の作品です。」

む「しりませんでした。」

む「さて、今日のゲストをご紹介します。今日のゲストは、小杉仏壇店 社長 小杉淑子(こすぎよしこ)さんです。小杉さんこんばんは。」
(飛騨センターにあります、ミュージアムひだ学芸員の牛丸岳彦(うしまるたけひこ)さんです。牛丸さんこんばんは。)」

こ(う)「こんばんは」

む「小杉さんは、今度5/11に飛騨センター ミニシアターで開催される飛騨の匠 市民勉強会に講師としてお話をされる予定です。
小杉さん、「修理者からみた飛騨の匠」ということですが、神社仏閣の修理をたくさんされているようですね」

こ「そうなんです。今まで数多くのお寺様の改修をさせていただきました。」

な「高山市内ばかりではなくて、いろんな場所の修理をされているんですか?」

こ「そうですね。最近ではまだ決まっていませんが、新潟のお寺から修復見積もりを依頼されたところです。」

な「数多くのお寺の改修をされて、飛騨の匠の技術が素晴らしいと思うところは、どういうところですか?」

こ「鐘楼の改修をするときに、飛騨の鐘楼は4つ足の裾野が広がった物が多いですが、その足元が腐ってしまっていました。飛騨の匠は、組手と言って、下の部分だけが簡単には抜けない構造になっています。それを現地の方は、ご存じないので、クレーンで全体を吊り上げて、鐘楼を浮かし、そして修理しようと言う話になりました。そんなことまでしなくても修理できるのに、ご存じないと言うことがありました。」

む「お寺の改修をするときに、一番気をつけたところはどこですか?」

こ「今では、どれだけお金をかけてもいいからと言う仕事はほとんどありません。予算が決められている場合が多いです。ですから、塗にしても安く仕上げることも出来るのですが、それでは何百年と持ってきたような建築にはなりません。私どもが、気を付けるのは、檀家さん達とも相談して、どういう修理をさせていただければ、一番いいのか、そういうところに気を付けます。」

な「小杉さんのところで発行されている新聞『おかげさま』を読ませていただき、大変感動しました。檀家さんの思いなども含めて、いろいろと責任をお感じになっているようですが、そのお話をしていただけますか。」

こ「私達が修理したお堂で坊守のおばあさんが、手を合わせて下さいました。その時に『ああ、こんないい修理をして下さって本当にありがとう。』と言って下さいました。ああ、やっぱりいい修理をして、長い事もたせるようなお手伝いができたと思った時に、いい仕事をしてよかったと感じました。 檀家さんも含めて皆さんに喜んでいただけることが、一番の喜びです。」

む「ありがとうございました。もっと伺いたいのですが、時間が迫ってまいりましたので、このつづきは、今度の市民勉強会でお話いただきたいと思います。
さて、曲の方に行きたいと思います。小杉さん、リクエスト曲と選んだ理由をお話くださいますか?」

こ「越路吹雪の『愛の賛歌』をお願いします。 この年になってシャンソンがいいなあと思うようになったので選びました。」

む「はい、では、愛の賛歌をお聞き下さい。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 曲でブレイク

む「小杉さん、長瀬さん、今日はありがとうございました。」

なこ「ありがとうございました。」

む「来週のゲストは、飛騨センター学芸員 牛丸岳彦さんに登場していただく予定です。今後とも『ひだ、歴史再発見!』来週も楽しみにしていてください。」  
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2007年05月05日

第5回放送終わりました

む「時刻は7:30をまわっています。ひだ歴史再発見のコーナーです。
月曜のこの時間はゲストをお迎えして、ひだの皆さんが意外と知らない歴史を掘り下げていくというコーナーです。毎月最終週はいつも登場いただいています、長瀬公昭さんがお休みとなっておりますので、元飛騨春秋編集人の桐谷忠夫先生にスタジオに来ていただいています。桐谷先生こんばんは、よろしくお願いします。」

き「こんばんは、よろしくお願いします。」

む「先生はこのコーナー2回目の登場ですけども、いつもいつも何にもわかっていない私を教えていただいて。」

き「いえいえいいスピーチをありがとうございます。」

む「2人で進めさせていきますが、何もわかっていないんですよね。今日も子どもに教えるお気持ちで教えてください。」

き「よくお尋ね、いただきまして。ほとんど正確な古文書や文献は残っていないんですよ。」

む「本を先日買わせていただきまして、不殺の軍扇 金森長近ですよね。わからないところはお聞きして進めたいと思います。高山は多くの観光客の皆さんがこられていますが、高山の町は、いつごろできたのですか?」

き「金森長近さんが、秀吉の命によって高山に入ってきて城山に城を築き、城下町を造った。しかしそれより50年も前に高山外記という方が天神山に城を作ってちょっとした町を作ったという話があります。しかし、文献や証拠が何もない。おそらく水道山の辺りだといわれています。ただ観光客が楽しんでいただいている町は長近と可重が都市設計をした。それはいまから400年ほど昔のことです。」

む「古い町並みのあたりは当時の面影があるのだと思いますが、ヒッツFMのあたりは風景がちがったんでしょうね。いまから400年前に基礎ができたんですよね。」

き「城山を作ったときに、山を削った。そこが、馬場町とか吹屋町のあたりですが、そこの山を削って、川原へ落とした。そこが今の三町あたりです。だから、宮川の河川敷を生めたところなんです。」

む「裏手にある川原町は、川ギリギリに町ができていますが、そこが川原だったんですか?」

き「今調べようとすると、立替の縁の下や土台を作るのをみると、砂地、石ころだらけです。宮川の本流は今の一之町あたりを流れていたのではと想像できます。」

む「今は堤防がしっかりしていますが、昔は川もあっちこっちに行っていたのでしょうか。」

き「神明町の辺りから蛇行があったのは間違いない。ただ、砂礫の上に埋め立てて町をつくっているのですから、砂地なんです。これが水を浄化して地下水がきれい。いい水があるから、お酒が造れる。水がいいからお醤油もできる。それにほれた昭和の調理師がこのたまりでしなそば=中華そばを作った。そのスープの味は、金森さんが埋め立てて作ってくれたおかげともいえるのです。それは水のおいしさなんです。」

む「高山祭りのときに観光客の方に、ラーメンのお話をさせていただきましたが、先生のおっしゃったような話ができませんでした。何でしょうゆ味なんだろうなんて、思っていました。いまようやくわかりました。」

き「もうひとつ、高山の味で言えば、高校生、大学生がすぐ手に入る「みだらしだんご」これもお醤油の前身のたまりを使っている。これがまた売れたんですよ。香りもいいですしね。」

む「外のは甘辛いたれですけど、高山のはあまだれでなくておしょうゆなんですよね。知り合いが高山に尋ねてきた時、町中がお醤油のにおいがするといっていました。おなかがすく町だとも行っていました。」

き「割安におこづかいで高校生でも大学生でも、おつまみできるみたらしだんご。格安に食べれるラーメン、それが若い人たちに大人気ですよね。」

む「ご当地ラーメンも全国的にいろいろありますが、高山のラーメンというのも大変人気になってきています。それというのも水がもともとはたいへんきれいな水が取れるというところが理由ですね。」

き「お城作りと河川敷を埋め立てて町を作った。その上に造り酒屋とかお醤油屋さんとかが老舗としてずっと昭和まで続いていて、飛騨のお酒はおいしいなといわれるようになっているんですね。ガイドしていても必ず立ち寄らないといけないくらいです。」

む「ガイドという話もでましたが、ガイドもされているんですよね。」

き「ボランティアガイドとして飛騨の里を拠点にしていますが、飛騨中を案内しています。古川がさくらで有名になりましたが、古川の町も5~10年くらい遅れて建設された町なんですが、全くそっくりなんです。古川は荒城川と宮川の河川敷を埋め立てて作った町なんです。一之町、三之町を作っていますが、瀬戸川の辺りが荒城川の元の流れなんです。増島というお城のところで曲げて切り替えて流し込んでいる。宮川で言えば中橋の上流で流を切り替えているんです。中橋の上流を見ると大きな柳がきれいに枝をたれていますが、あそこで流れを切り替えたんです。一之町に流がこないようにしている。もう一つ、江名子川を若達町でまげて持ってきている。もともとは八幡町のところで中新町を流れて連合橋のあたりで流れ込んでいたのを弥生橋の方向へ直角に曲げている。
今では一之町、二之町、三之町といいますが、戦前までは一之町は大町。二之町は二番町、三之町は三番町と呼ばれていました。これは長近が高山に来る前の越前大野でも同じでした。戦後に整いましたけど、年寄りには大町というほうがなじみがあります。」

む「先生と同じ年代の方はそういう呼び方の方が多いんですね。」

き「大町というのは、お城の近くに道幅を広めに作って、兵士=侍を集めて陣立てをした場所なんです。古川の場合は瀬戸川をわたって、大町・壱之町ですけど、馬渡し橋というのもありました。兵を並べるのが大町でした。古川も高山も越前大野もそっくりなんです。」

む「私は高山と古川は行ったことがありますが、越前大野も共通点が見つかると思います。
途中になりますが、前回先生に来ていただいた時にかけました曲ですが、「飛騨山娘」をお聞き下さい。」

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む「今日は桐谷忠夫先生に来ていただいておりますが、飛騨山娘をお聞きいただいています。
時間の許す限りお話を伺って生きたいのですが、越前大野は福井県ですよね。そのほかにも長近が造ったまちがあったのですか?」

き「美濃のほう、長良川河畔に美濃市があります。長近が80過ぎに小倉山という城を作りその下に町を作っています。しかも城の直下に港を作り、長良川の物産、上有知まで運河を掘らせたりしています。売り出し中の「うだつのあがる町」なんです。」

む「いずれの町も風情が漂っていますね。」

き「金森長近一人ではなくて、可重らとの親子の連帯で作ったものですね。戦国の武将として滅多にない親子関係です。」

む「昔の親子関係だと、どこか一線を引いている印象があったり、計算じみたところがあったりする印象ですが、その中で長近と可重はきずなが強かったんですね。」

き「公的なのは長距(ながのり)というのがいるんですが、人質として小姓にあがっていて、本能寺の戦いで戦死します。可重とは養子と言うことになっていますが、養子縁組のいきさつは、実は小姓であがった翌年に養子になっているんです。おそらくは人質対策で、血縁の養子なのかはわかりませんが、ロマンですね。来年没年400年で、素玄寺で法要があったり、イベントを企画中と聞いています。」

む「古川と高山のまちづくりの礎を築いた人だということはわかりますが、詳しく知らない方たくさんおられると思います。先生の本に詳しく書かれていますし、これにもロマンを含めたお話になっていますね。」

き「85まで生きたことにあやかりたいですよね。」

む「80過ぎても現役だったということでしたよね。」

き「80過ぎに小倉山にお城をつくりましたしね。」

む「本はグリーンホテルの物産館にありますよね。皆さんもぜひお求めになって読んでいただきたいと思います。今日は、桐谷先生にいろいろとお話をうかがいました。今日はどうもありがとうございました。」

き「いろいろおしゃべりさせていただいてありがとうございました。」  
Posted by rekisy at 01:22Comments(2)TrackBack(0)