2007年11月24日
11月19日放送分
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、今年の四月にスタートしまして、10月までの半年間は村田恵子ナビゲーターと
一緒にお届けしてまいりましたが、今月からは、私ひとりで、お届けしています。
11月からは15分ほどの番組に変更になりました。
放送時間は、毎週月曜日夜7時半からと 毎週土曜日午前10時半から、こちらは再放送でお届けして
います。
さて、今月の放送ですが、11月の放送は、4月から10月までお届けした内容を もう一度振り返っています。
毎月第3週目には、古川のことを話題に取り上げてお送りしました。
古川の皆さんにはお聞きいただいていましたでしょうか。
今日も、古川の話題をお話したいと思います。
高山の城下町を作ったのが金森長近といわれていますが、古川の町はその養子であった可重が
作ったとされています。年代的には、長近が飛騨を平定したのが天正14年ですが、高山と古川の
まちづくりには、天正17年から相当の年月をかけています。できあがったのは、古川のほうが少し
早いなどというお話から、古川の人たちは「自分たちの町のほうが先にできたから、高山よりお兄さん
だ」などという話を耳にすることがありますが、実際には、慶長13年(1608)に可重が本家を継ぎ高山城
に移ったので、増島城の工事が中止されました。その後、城代として西脇右近入道と金森兵庫の両人
が入り、屋敷を構えていた可重直属の家臣団もそのまま残って、古川の町は発展していったようです。
ただし、7年後の元和元年(1615)に発令された一国一城令によって、増島城は萩原の諏訪城とともに
金森家の旅館として残されたようです。
さて、高山の城下町も自然の地形をうまく利用したまちづくりがされたと以前の放送で申し上げましたが、
古川の町も、自然の地形をよく利用しているという部分では、同じようなコンセプトで造られています。
たとえば、どちらの町も、最近流行している「風水」を考えて作られているとか、沼地を利用して敵の侵入を
阻止するような構造をしているとかが似ています。
ただ、古川の増島城は、当時としては大変珍しい、飛騨で唯一の平城の作りになっているところが、違います。
増島城のような平城は珍しい形態ですので、戦闘のための城というより、居館という要素が強いものだったと
思われます。お城というからには、お堀などもありました。高山城は、三の丸=現在の護国神社のところに
お堀がありますが、外堀の代わりに宮川や江名子川をお堀にしたてたようですが、古川城では、城の周囲に
張り巡らしたお堀のほかに、荒城川、宮川そして、瀬戸川をお堀に仕立ててるんですよね。
ところで、当時の日本の城は、山城、平山城、平城の3つの形態がありました。
山城は山の急傾斜地を利用して造ったお城。平山城というのは、丘を利用して造ったお城。そして、平城は
平地に作った城のことです。戦国時代以前は山の地形を利用して造る山城が主流でした。
高山城は、山を利用して作った山城です。これは、敵に攻められた時になかなか攻めにくいような構造をして
います。岐阜の金華山・高山の松倉城などもこの山城ですね。
平山城というのは、有る程度、戦国時代に戦争が安定してきてから作られることが多かった城で、平山の名の
とおり、岡に本丸を築いたものです。松本城や熊本城がこの形態です。
飛騨には、地形的に山城が多かったといわれていますが、どちらかというと、天守閣を備えた完全なお城と
いうのは少なく、とりでを築いただけの城るい、要塞といったものが多かったようです。
こういった、城の形と言うのは、槍や刀で戦争する時代から鉄砲の導入によって戦闘の仕方が変わってきた
ことが一番の理由だそうです。さて、前半部分はこの辺にして、少しここでブレイクしましょう。
懐かしいところで、ABBAの「Dancing queen」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日の歴史再発見は、今までにお伝えした内容を振り返ってお届けしています。
毎週第3週目には、古川のことについて、お伝えしてきました。

さて、お堀としての瀬戸川は、現在、大きな鯉と白壁土蔵で有名ですが、
町人町と武家屋敷の境目にあたるところに、川が作られています。
昔は、馬場があったところだそうです。高山にも馬場町がありますが、殿町のあたりには、武家屋敷のみならず
馬を調教するための馬場のあった町のことだそうです。
また、あの川は、昔はお堀でしたが、快存上人という偉いお坊さんが
いらっしゃって、その方の薦めによって、お堀から用水として変えられたそうです。
もともと、旅の僧だった快存上人は、古川の壱之町。現在の匠文化館の大いちょうのところにあった福全寺と
いうお寺が荒れ寺になっているのをみて、そちらにいつかれました。快存上人は、天皇家の関係の方だった
らしいのですが、何か問題があったのか、ずっと素性を隠しておられたんです。
あるとき殿様である金森可重の碁の相手をされているときに、殿様からお寺を寄進したいとお話があったらしい
のですが、上人はお断りになり、「もし寺を作ってくださるというのであれば、瀬戸川に水を引いてもっとたくさんの
水を流してほしい。民のために開墾を奨励されなさい。」と申されて、用水としての瀬戸川を作ってもらいました。
そうすることによって、米の実りが増加して、下流の人たちが助かったという、お話があります。
快存上人を手伝って、開墾を奨励した石屋、瀬戸屋源兵衛にちなんで、瀬戸川と呼ばれるようになりました。
いまでも快存上人ゆかりのものが古川には現存します。古川まつり会館の裏にある、
誓願寺には、快存上人が背負っていたというおいが伝わっています。

このおいは、高さ74cm横60cmの非常にしっかりしたつくりのもので、お経の本や身の回り品を中に入れて
背負った、いわゆる木製のリュックサックのようなものです。先日、私もふるさと案内人会の研修で見せて
いただきましたが、おいの上についている金具には、龍や鳳凰の彫金が施してあって、当時としてはなかなか
立派なものであることがわかりました。
また、快存上人のお墓は、上人塚と呼ばれて匠文化館の北側にあります。
墓石には、よく見ると菊のご紋があしらわれています。先日うかがったお話では、もともと快存上人は鷹司家の
出身とされていたそうですが、五摂家出身の方々がこういう菊のご紋を使うということは考えにくく、天皇直系の
方であったために、お墓にも菊のご紋があしらわれているのではということでした。
皆さんも一度お参りされてはと思います。

いまでは、瀬戸川は鯉で有名ですが、その鯉は、昔から飼われていたのではなくて、最近になってからで、
昭和30年ごろから住民の皆さんが協力して、鯉の住める川を作っていったということでしたね。現在では、
700匹以上の鯉が清流を泳いでいる一大観光地となっています。 一方で、瀬戸川を守る会の皆さんや、
周辺住民の方によって、ごみのそうじなどが毎日行われています。自分たちの川としてちゃんと守られて
いるんですね。
また、白壁も明治37年の古川大火を契機に、町の皆さんが、こつこつお金をためながら一つづつ自分の家の
裏に蔵を造っていった名残なんですね。相当な年月と費用をかけた御先祖様の遺品だと思います。
それが防火壁の役割を今日も担っているんですね。
さあ、今日も時間となりました。今日はこの曲でお別れしましょう!
もうじき冬が来るということで、「冬が来る前に」をお届けします。今日もありがとうございました。
また来週お会いしましょう!
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、今年の四月にスタートしまして、10月までの半年間は村田恵子ナビゲーターと
一緒にお届けしてまいりましたが、今月からは、私ひとりで、お届けしています。
11月からは15分ほどの番組に変更になりました。
放送時間は、毎週月曜日夜7時半からと 毎週土曜日午前10時半から、こちらは再放送でお届けして
います。
さて、今月の放送ですが、11月の放送は、4月から10月までお届けした内容を もう一度振り返っています。
毎月第3週目には、古川のことを話題に取り上げてお送りしました。
古川の皆さんにはお聞きいただいていましたでしょうか。
今日も、古川の話題をお話したいと思います。
高山の城下町を作ったのが金森長近といわれていますが、古川の町はその養子であった可重が
作ったとされています。年代的には、長近が飛騨を平定したのが天正14年ですが、高山と古川の
まちづくりには、天正17年から相当の年月をかけています。できあがったのは、古川のほうが少し
早いなどというお話から、古川の人たちは「自分たちの町のほうが先にできたから、高山よりお兄さん
だ」などという話を耳にすることがありますが、実際には、慶長13年(1608)に可重が本家を継ぎ高山城
に移ったので、増島城の工事が中止されました。その後、城代として西脇右近入道と金森兵庫の両人
が入り、屋敷を構えていた可重直属の家臣団もそのまま残って、古川の町は発展していったようです。
ただし、7年後の元和元年(1615)に発令された一国一城令によって、増島城は萩原の諏訪城とともに
金森家の旅館として残されたようです。
さて、高山の城下町も自然の地形をうまく利用したまちづくりがされたと以前の放送で申し上げましたが、
古川の町も、自然の地形をよく利用しているという部分では、同じようなコンセプトで造られています。
たとえば、どちらの町も、最近流行している「風水」を考えて作られているとか、沼地を利用して敵の侵入を
阻止するような構造をしているとかが似ています。
ただ、古川の増島城は、当時としては大変珍しい、飛騨で唯一の平城の作りになっているところが、違います。
増島城のような平城は珍しい形態ですので、戦闘のための城というより、居館という要素が強いものだったと
思われます。お城というからには、お堀などもありました。高山城は、三の丸=現在の護国神社のところに
お堀がありますが、外堀の代わりに宮川や江名子川をお堀にしたてたようですが、古川城では、城の周囲に
張り巡らしたお堀のほかに、荒城川、宮川そして、瀬戸川をお堀に仕立ててるんですよね。
ところで、当時の日本の城は、山城、平山城、平城の3つの形態がありました。
山城は山の急傾斜地を利用して造ったお城。平山城というのは、丘を利用して造ったお城。そして、平城は
平地に作った城のことです。戦国時代以前は山の地形を利用して造る山城が主流でした。
高山城は、山を利用して作った山城です。これは、敵に攻められた時になかなか攻めにくいような構造をして
います。岐阜の金華山・高山の松倉城などもこの山城ですね。
平山城というのは、有る程度、戦国時代に戦争が安定してきてから作られることが多かった城で、平山の名の
とおり、岡に本丸を築いたものです。松本城や熊本城がこの形態です。
飛騨には、地形的に山城が多かったといわれていますが、どちらかというと、天守閣を備えた完全なお城と
いうのは少なく、とりでを築いただけの城るい、要塞といったものが多かったようです。
こういった、城の形と言うのは、槍や刀で戦争する時代から鉄砲の導入によって戦闘の仕方が変わってきた
ことが一番の理由だそうです。さて、前半部分はこの辺にして、少しここでブレイクしましょう。
懐かしいところで、ABBAの「Dancing queen」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日の歴史再発見は、今までにお伝えした内容を振り返ってお届けしています。
毎週第3週目には、古川のことについて、お伝えしてきました。
さて、お堀としての瀬戸川は、現在、大きな鯉と白壁土蔵で有名ですが、
町人町と武家屋敷の境目にあたるところに、川が作られています。
昔は、馬場があったところだそうです。高山にも馬場町がありますが、殿町のあたりには、武家屋敷のみならず
馬を調教するための馬場のあった町のことだそうです。
また、あの川は、昔はお堀でしたが、快存上人という偉いお坊さんが
いらっしゃって、その方の薦めによって、お堀から用水として変えられたそうです。
もともと、旅の僧だった快存上人は、古川の壱之町。現在の匠文化館の大いちょうのところにあった福全寺と
いうお寺が荒れ寺になっているのをみて、そちらにいつかれました。快存上人は、天皇家の関係の方だった
らしいのですが、何か問題があったのか、ずっと素性を隠しておられたんです。
あるとき殿様である金森可重の碁の相手をされているときに、殿様からお寺を寄進したいとお話があったらしい
のですが、上人はお断りになり、「もし寺を作ってくださるというのであれば、瀬戸川に水を引いてもっとたくさんの
水を流してほしい。民のために開墾を奨励されなさい。」と申されて、用水としての瀬戸川を作ってもらいました。
そうすることによって、米の実りが増加して、下流の人たちが助かったという、お話があります。
快存上人を手伝って、開墾を奨励した石屋、瀬戸屋源兵衛にちなんで、瀬戸川と呼ばれるようになりました。
いまでも快存上人ゆかりのものが古川には現存します。古川まつり会館の裏にある、
誓願寺には、快存上人が背負っていたというおいが伝わっています。
このおいは、高さ74cm横60cmの非常にしっかりしたつくりのもので、お経の本や身の回り品を中に入れて
背負った、いわゆる木製のリュックサックのようなものです。先日、私もふるさと案内人会の研修で見せて
いただきましたが、おいの上についている金具には、龍や鳳凰の彫金が施してあって、当時としてはなかなか
立派なものであることがわかりました。
また、快存上人のお墓は、上人塚と呼ばれて匠文化館の北側にあります。
墓石には、よく見ると菊のご紋があしらわれています。先日うかがったお話では、もともと快存上人は鷹司家の
出身とされていたそうですが、五摂家出身の方々がこういう菊のご紋を使うということは考えにくく、天皇直系の
方であったために、お墓にも菊のご紋があしらわれているのではということでした。
皆さんも一度お参りされてはと思います。

いまでは、瀬戸川は鯉で有名ですが、その鯉は、昔から飼われていたのではなくて、最近になってからで、
昭和30年ごろから住民の皆さんが協力して、鯉の住める川を作っていったということでしたね。現在では、
700匹以上の鯉が清流を泳いでいる一大観光地となっています。 一方で、瀬戸川を守る会の皆さんや、
周辺住民の方によって、ごみのそうじなどが毎日行われています。自分たちの川としてちゃんと守られて
いるんですね。
また、白壁も明治37年の古川大火を契機に、町の皆さんが、こつこつお金をためながら一つづつ自分の家の
裏に蔵を造っていった名残なんですね。相当な年月と費用をかけた御先祖様の遺品だと思います。
それが防火壁の役割を今日も担っているんですね。
さあ、今日も時間となりました。今日はこの曲でお別れしましょう!
もうじき冬が来るということで、「冬が来る前に」をお届けします。今日もありがとうございました。
また来週お会いしましょう!
2007年11月24日
11月12日放送分
ひだ歴史再発見 平成19年11月12日放送分原稿
みなさん、こんにちは。この時間は、ひだ歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号、長瀬公昭がお届けしてまいります。
この番組ですが、今年の4月にスタートしまして、10月までの半年間は、村田恵子ナビゲーターと一緒に
お届けしてまいりましたが、この11月からは、私が一人でお届けしております。
この番組ですが、10月までは30分番組としてお届けしてまいりましたが、11月からは15分の番組となります。
放送時間は、毎週月曜日夜7時半からの15分間と、録音で毎週土曜日の10時半から15分間、こちらは再放送
でお届けします。
さて、今月の放送は、4月から今までお届けした内容をもう一度振り返っています。
先週は、金森長近公没後400年にちなみ、金森長近が作った城下町高山のお話をしましたが、今日は
その続きをお話しましょう。

先週のお話では、金森公が宮川の流れを変えて城下町を作ったお話をしました。お城の堀として、宮川と江名子
川という自然の2つの川の流れを変えたというお話でした。
南側には、春の高山祭で有名な山王様=日枝神社
を置き、南の守りとしました。
東側の江名子川のさらに東には、寺町を形成して、あちこちから寺院を誘致しました。具体的には、法華寺は
西之一色にあったものを現在の地へ誘致したり、大雄寺は、国府町の上広瀬にあったものを誘致したそうです。
当時のお寺には、僧兵がいましたから、お城の警護にはうってつけでした。
また、江名子川には、いくつかの橋を作りましたが、すべて木の橋でした。これは有事の時に、すぐに焼き落としたり、
壊したりしやすいようにしたためです。いくつかの橋は一本橋の丸木橋を用いました。
向町には、現在の陣屋のところに向い屋敷を作り、西側からの敵の来襲に備えました。

昔、宮川もすのり川も、氾濫を繰り返して、現在の高山駅の辺りは、沼地が広がっていました。後に大名田町と
名を変えますが、灘村はもともと、開墾するのに難儀な場所であったために、さんずいに難しいと書いて灘と呼ぶ
地名でしたが、これでは縁起が悪いと、合併のときに名前の名に田と書いて、なだと読ませたと言う逸話があり
ます。名田というのは、みょうでんとも読み、いい米が取れる田んぼの事でした。
さて、地形的にもさることながら、金森氏のすごいところは、当時、信長も秀吉も家康もその存在に手を焼いた
浄土真宗=当時は一向宗を味方につけたことです。長近のまちづくりは、その一向宗の別院である照蓮寺を
城下に組み込む事によって、自分の留守中、城下を守らせました。
当時は戦国時代で、長近も可重もあちこちの戦争に借り出されていました。遠くは、九州にわたり、秀吉の
朝鮮征伐にも借り出されていたり、普段は京都の屋敷にいて、地元の飛騨高山に戻ることがほとんどありま
せんでしたから、高山を留守にする事がほとんどでした。
三代の重頼の時代になって、息子の宣心にさな姫を迎えたり、もう一人の息子を京都の本願寺に預け、
後に井波の瑞泉寺の10代住職にするなど、急速に浄土真宗との距離を近づけます。
さて、今日はこの辺で。
曲をお届けしましょう! 松山千春で「旅立ち」お届けします
みなさん、こんにちは。この時間は、ひだ歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号、長瀬公昭がお届けしてまいります。
この番組ですが、今年の4月にスタートしまして、10月までの半年間は、村田恵子ナビゲーターと一緒に
お届けしてまいりましたが、この11月からは、私が一人でお届けしております。
この番組ですが、10月までは30分番組としてお届けしてまいりましたが、11月からは15分の番組となります。
放送時間は、毎週月曜日夜7時半からの15分間と、録音で毎週土曜日の10時半から15分間、こちらは再放送
でお届けします。
さて、今月の放送は、4月から今までお届けした内容をもう一度振り返っています。
先週は、金森長近公没後400年にちなみ、金森長近が作った城下町高山のお話をしましたが、今日は
その続きをお話しましょう。

先週のお話では、金森公が宮川の流れを変えて城下町を作ったお話をしました。お城の堀として、宮川と江名子
川という自然の2つの川の流れを変えたというお話でした。
南側には、春の高山祭で有名な山王様=日枝神社
東側の江名子川のさらに東には、寺町を形成して、あちこちから寺院を誘致しました。具体的には、法華寺は
西之一色にあったものを現在の地へ誘致したり、大雄寺は、国府町の上広瀬にあったものを誘致したそうです。
当時のお寺には、僧兵がいましたから、お城の警護にはうってつけでした。
また、江名子川には、いくつかの橋を作りましたが、すべて木の橋でした。これは有事の時に、すぐに焼き落としたり、
壊したりしやすいようにしたためです。いくつかの橋は一本橋の丸木橋を用いました。
向町には、現在の陣屋のところに向い屋敷を作り、西側からの敵の来襲に備えました。

昔、宮川もすのり川も、氾濫を繰り返して、現在の高山駅の辺りは、沼地が広がっていました。後に大名田町と
名を変えますが、灘村はもともと、開墾するのに難儀な場所であったために、さんずいに難しいと書いて灘と呼ぶ
地名でしたが、これでは縁起が悪いと、合併のときに名前の名に田と書いて、なだと読ませたと言う逸話があり
ます。名田というのは、みょうでんとも読み、いい米が取れる田んぼの事でした。
さて、地形的にもさることながら、金森氏のすごいところは、当時、信長も秀吉も家康もその存在に手を焼いた
浄土真宗=当時は一向宗を味方につけたことです。長近のまちづくりは、その一向宗の別院である照蓮寺を
城下に組み込む事によって、自分の留守中、城下を守らせました。
当時は戦国時代で、長近も可重もあちこちの戦争に借り出されていました。遠くは、九州にわたり、秀吉の
朝鮮征伐にも借り出されていたり、普段は京都の屋敷にいて、地元の飛騨高山に戻ることがほとんどありま
せんでしたから、高山を留守にする事がほとんどでした。
三代の重頼の時代になって、息子の宣心にさな姫を迎えたり、もう一人の息子を京都の本願寺に預け、
後に井波の瑞泉寺の10代住職にするなど、急速に浄土真宗との距離を近づけます。
さて、今日はこの辺で。
曲をお届けしましょう! 松山千春で「旅立ち」お届けします




