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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2007年11月26日

11月26日放送分

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。

さて、この番組ですが、今年の四月にスタートしまして、10月までの半年間は村田恵子ナビゲーターと一緒にお届けしてまいりましたが、今月からは、私ひとりで、お届けしています。

11月からは15分ほどの番組に変更になりました。
放送時間は、毎週月曜日夜7時半からと 毎週土曜日午前10時半から、こちらは再放送でお届けしています。

さて、今月の放送ですが、11月の放送は、4月から10月までお届けした内容を もう一度振り返っています。

先週は、飛騨古川の城下町についてや、瀬戸川のなりたちについてお話いたしました。お聞きいただけましたでしょうか?
今日は、高山祭りの不思議について、今までお話したことからピックアップしてお話しましょう。


まず、屋台の数ですが、現在ある屋台は、春の高山祭りが12台。秋の高山祭りが11台。となっています。これらは、国指定有形民俗文化財の指定を昭和41年に受けていますが、実は、これらのものは国の有形民俗文化財になっていて、このほかに県の有形民族文化財になっている白山神社の神楽台と飛騨総社の神楽台の2台があります。

山・鉾・屋台が有形民俗文化財の指定されているというのは、大変珍しいいらしくて、たいていの場合は、無形民族文化財として指定されているものが多いそうです。

では、有形に指定されるとどういう利点があるかというと、屋台というのは何年も曳いているとあちこちががたついてきて、修理ということが必要になってきます。その修理の際に、費用負担が軽減されるという利点があります。
屋台の修理となると、何千万円もかかるわけですが、この指定を受けているということで、国が5割、市と県が4割負担していただけるので、地元の負担はわずか1割で済みます。無形の指定よりも屋台そのものに修理費の補助金があると言うことは大変ありがたいことです。
しかし、皆さんご存知のように、現在、国の国家予算は非常に逼迫した状態にありますから、そうしょっちゅう修理できるというわけではありません。毎年決まった金額しかもらえませんから、高山では屋台保存会という組織を作って、屋台修理の順番を決めたり、修理箇所の内容などを吟味されて、少しづつ順番に修理しているというのが実情のようです。
新聞などでご存知のように、一昨年は、春祭りの青龍台。昨年は片原町のこんこう台、今年は秋祭りの鳳凰台が大修理ということで、祭りにも引き出さずに、修理されていました。

さて、この修理ですが、老田先生の研究によると、昔からだいたい60年に一回の割合で修理が繰り返されてきました。先生の著書によりますと、高山祭りの屋台は、大体4つの期間にわけることができます。まず最初に、創世記。これは、江戸時代の中ごろの話です。高山祭りは、・元禄五年(1692)金森氏改易以前から「三年に一度づつ三日間高山祭り」が行われ、この四十年以前にすでに高山祭りがあったと述べられており、金森時代にすでに始まったとされていますが、それを証明する資料はほとんど残っていません。想像でしかないのですが、そのころは屋台はなかったようです。屋台が初めて出てくるのは、ずっとあとのことで、享保3年(1718)年になってからです。
長倉先生の本などを見ますと、神様がご巡幸といって、氏子の区域内を回られるときに、高い木に神様が降臨されると信じられていて、最初は、山から取ってきた生木を曳いて回ったようですが、それが荷車に乗せられるようになり、それが次第に山車になり、屋台へと変化して行ったということです。
したがって、神様によくわかるように、上へ上へと伸びていった。それが祇園祭にみられるような、長い鉾のついた形態になっていったというわけです。
ですから、高山祭りの初期のものには、絵図などで確認できますが、長い鉾を有したものや、江戸の山車のように人形と生木を上に乗せたものなど、現在とは違った形の屋台が生まれてきたんですね。また、このころの屋台は、現在のように戻し車はなく、屋台も幕を張っただけの軽いものでしたから、辻のところでひきづって回したようです。
これが創世記で、享保から天保年間にいたるまでのお話です。

ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は 高田みずえで「硝子坂」をお届けします。

さて、今日も、これまでに放送した内容を振り返っています。今日は、高山祭りの屋台のお話をしています。

先ほどの続きですが、今度は江戸末期になって、改良期を迎えます。昔は今のように舗装した道路ではありませんから、屋台の車輪部分や屋根を支える柱の部分が壊れてきました。だいたい初めのものが作られてから60年目くらいの年月がたったころでした。このときに谷口与鹿で有名な谷口家がでてきます。この時代の屋台の特徴は、屋根がそれまでの唐派風という屋根から、白川村の合掌造りのような形態の切派風に変わることです。長倉先生の論ですと、高山にはお葬式のときに棺おけに唐派風の屋根を付けて火葬場まで運ぶという風習があったとのことで、おめでたい祭りとお葬式とが一緒になっては具合が悪いと、各屋台が形を変えていったと述べられています。ただ、現在でも、八幡祭りの仙人台は、この唐派風の屋根をつけていますから、古い形であるといえるでしょう。


また、このころに、ほぼ現在の形になります。戻し車という方向転換機が取り付けられたり、猩猩の血で染めたといわれる赤い幕が取り付けられたり、谷口与鹿という人の登場で、屋台彫刻が取り付けられたりします。
屋台の台数も、飛躍的に増加して、春祭りは15台、秋祭りも15台の屋台数になりますし、古川にも高山祭りの屋台と同じものが作られるようになりました。
天明・天保と続いた飢饉の頃に、こういう屋台が全国的に作られたり、社寺仏閣が造られたりしたのですが、大変不思議ですね。これはおそらく、商人の豊富な財力を利用して、職人を生活させるために、そういう施策がとられたのではと思います。

その屋台もまた60年たつと、あちこちが壊れてきます。しかも、当時は屋台を分解して各家に保管してきましたから、組んだり壊したりということでも、ほぞといって柱をはめ込む部分が削れてきたりして、だんだんガタがくるようになりました。 おまけに、高山も古川も、何度も火事に見舞われます。高山の場合は、明治8年の大火や、大正2年の大火で、いくつかの屋台が被害を受けました。財力のある町内は、その都度作り直すことができましたが、
そうでない町内は、自分の家を作るのがやっとで、とうとう屋台を作るところまでいかなかったと思います。
ですから、山王祭の応龍台・南車台や、八幡祭りの舟鉾台・牛若台・文政台などといった屋台は、作ることができずに、屋台組だけが今もなお存続しています。

さて、最後に第4期ですが、これは、終戦後から現代に至る期間です。この改造は、あくまで第2期、第3期の状態に戻すための、いわゆる修理が行われている状態です。したがって、最近の修理では、どこの屋台も新しく彫刻を取り付けたり、屋台組のアイデアを出して新調するということは、あまり行われていません。いわゆる復元という状態にする修理が行われているんです。
古川の屋台は、有形民俗文化財ではありませんので、屋臺に対しての直接の補助金がありません。そういうことからも、修理をする場合は、地元の人が今でもあちこちから資金を捻出して屋台を修理されています。高山の屋台もまもなく古いものでは200年経とうとしています。今度は、彫刻や屋台に使われている木が寿命を迎える頃です。そういうことからすると、匠の技術や保全ということを考えなければいけない時期に来ているかもしれません。

さて、今日はこの辺で。最後に曲をお届けします。
  加藤和彦で、あの素晴らしい愛をもう一度  また来週!
  
Posted by rekisy at 22:24Comments(2)TrackBack(0)毎週の放送内容