QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2007年11月30日

飛騨の匠の伝説1

飛騨の匠の伝説について、先に御紹介した「飛騨の伝説」(昭和9年刊行)の中に
「飛騨の匠の伝説」がありましたので、ご紹介します。

「飛騨の工(その2)

いつの頃かたいへんすぐれた腕の飛騨の工がいた。
日本国内に並ぶ者がないので、かねて噂に聞く唐の国へ行って修業したいと考えた。
ある日鶴が悠々ととんでいくのを見て大いに悟り、身を清め心をこめて大きな木で鶴をつくった。
心血そそいだだけあってそれはそれは見事な出来栄えであった。
そしてその木の鶴は元気よく羽ばたきをした。工はこれに乗って千人の雲上をかけるように西へ西へと進んだ。

程へて越前の国の上空にさしかかった処、この国の弓の名人が怪しいとにらみ、空をかける
この鶴に向って矢を放ったが、幸に矢は鶴の体にも工にもあたらず翼を射抜きとび去った。
その時翼の羽の落ちた処を羽形と呼ぶようになった。
工は負傷した鶴をはげまし、とうとう大会を渡って唐の国へ着き、彼の国随一と聞こえた工匠の
弟子となり、のち唐の玄宗皇帝のお抱え大工として並ぶ者のない名工となった。

長年異国にあった工は、桜咲く大和の国がなつかしく、再び木の鶴に打ち乗って大和の国の都へ帰った。
工の帰国後、唐にあった彼の仮の妻が玉の様な男子を産み落した。
この子が13歳になった時まだ見たことのない父が恋しく、遂に母の許しを得て便船を求め、
長い船旅の浪にもまれ、漸く父の在ます大和の国土をふんだのであった。探し求めて吾が父
工を訪ねたが、工はこの子に疑を抱き一室に閉じ込め錠をおろし「お前がほんとうに私の子ならば、
この室にこもってこの木で仏像の左半身を刻め。我も亦右半身を造ろう。この二つが合して一体の
仏像になったら慥(たしか)に私の子だ。」と言った。

やがて各々刻んだのを合わせたら、不思議にも一厘の差もなくピッタリ合って、一体の尊い仏像に
なった。ここに始めて親子の名のりをあげたということである。
 
(高山市国分寺の工堂には、この工の木蔵が祀られている。号して飛騨工木鶴大明神と言い、
大工の守り神様として信者が多い)」


明日は、この伝説の一部にある「羽形=はかた=博多」のことである資料を掲載します。

徳積善太



  
Posted by rekisy at 20:57Comments(0)TrackBack(0)飛騨の伝説

2007年11月29日

月が瀬伝説2

先日お伝えした「月ケ瀬伝説」の少し違った見方があるようです。

飛騨木工連合会(監修:匠学会)の発行した「新飛騨の匠物語」には先日掲載
したものと、少し違った記述がされています。


「飛騨の匠(止利仏師)
 むかし、九郎兵衛という百姓が小鳥川に沿う余部の里に住んでいました。来る日も来る日も暗いうちから、山仕事に、田畑に精出しても暮らしは少しもよくなりません。さらに九郎兵衛を暗くしたのは、一人娘の忍のことでありました。
 
 忍はうまれつき見るにたえないような醜い顔の女でありました。25歳をすぎたというのにお婿さんも見つかりません。「困ったなぁ、あの娘には」「早いこと婿をさがさにゃ、おれたちの末が心配じゃ」こんな話を聞くにつけますます自分の醜さが恥ずかしくなり外にも出ず、一人寂しく夜じゅう泣いて泣き通したこともありました。

 今年も村祭りがやってきました。一年一夜の楽しい村祭りの夜、忍はにぎやな鎮守の森へはいかず、川辺の淵にぼんやりとたたずんでいました。淵には、満月の月が映っていました。遥か籾糠山から一羽の鳥が川に映る月影に飛び込んだのであります。忍は美しい月影をすくって飲みほしました。

 このことがあってから、この里には月影が映らなくなり里人はこのあたりを月ヶ瀬と呼ぶようになりました。月影をすくって飲みほした娘忍は、不思議にも身ごもってしまいました。九郎兵衛は、父親のいない子を生むなんてそんな恥ずかしいことはないと、人里離れた山中に住まわせました。「お月さまより授かった子」「天より授かった子」といわれ、この土地を「天生」と呼ぶようになりました。

 生まれた子供は、鳥のような首をしていたので人々は「鳥」と呼びました。鳥は小さい頃から神技的な才能をもっており、鳥が作った木彫りの人形は人間のように働きました。鳥はその人形をつかって一日で田を造り稲を植えました。稲は一夜のうちに実り、夜が明けてみると穂が垂れていました。脱穀をした籾殻で山ができたそうです。

 その住居跡が、今でも天生湿原に匠屋敷として残り、稲田は田形(天生湿原)をなし、両方合わせて「田形屋敷」と呼ばれ、籾がらの山は「籾糠山」と呼ばれています。
 鳥は17歳にして旅立ちをしました。鳥はその後「止利仏師」として名を残し、法隆寺の金堂には釈迦三尊像・壁画等の作品が残っています。
          (河合村発行の「パンフレット」より転載)
              (資料提供/かわい夢らんど塾)」


やはり、伝説と言うのは、いろいろと脚色されて伝わっていくものなんですね。

徳積善太  

2007年11月28日

月ヶ瀬伝説1

月ヶ瀬伝説について調べていましたら、
昭和9年発行の本の中に月が瀬伝説の物語がありました。


「月が瀬        「飛騨の伝説 昭和9年刊 小島千代蔵著 P49 より」

今日も九郎兵衛は、不愉快な顔をして斧を肩に山を登って行った。後に残った妻も一人娘の信夫をつれて畑仕事に出かけた。九郎兵衛一家は小鳥河に沿う、余部の里に住む水呑み百姓であった。
来る日も来る日も暗い中から山仕事に、田畑の耕作に精出しても、暮らしは少しもよくならない。殊に九郎兵衛を暗くしたのは一人娘の信夫のことであった。彼女は生まれつき見るに堪えないような醜い女で、もう25を過ぎたというのに、誰一人婿になろうという者もない有様であった。夕食後、娘のねた後で父母はいろり端でひそひそ話をしている。
「困ったなあ、あの娘には」
「早く婿を探さんと私共の行く末も心細くてなりません」
「そうだ。俺も毎日毎日よい婿のあるようにと神仏に祈ったり、人に頼んだりしているが何のしるしもないよ」
「全く困りました」
こんなささやきをもれ聞いた娘はどんなであったろう。夜中泣いて泣いて泣きとおしたこともあった。
こうして自分の醜さを呪っている信夫は、一年一夜の楽しい村祭りの夜、あの男も女も老人も子供も踊りくるって夜を更かす場所へ顔を出さなかった。孟蘭盆になって盆踊りがあって毎夜若い男女が心ゆくまで踊るのにここへも信夫は顔を出さない。家にいても面白くない。踊りにも行く気のしない信夫は、家をさまよい出て小鳥川に架かっている名ばかりの橋の上まで来て、青淵に砕けて流れる満月の影を見下して、わが身の不幸をかこっていた。
その中に、急にのどが渇いてきたので橋詰から川へ降りて水を掬おうとすると、美しい満月が目の前の水にうつっている。信夫はその月を掬うと皎々たる月影が手に入った。
信夫は美しい月影と水を共に飲み干してしまった。このことがあってからこの村の川の面に満月の影が写らなくなったという。
ところが、不思議にも醜女信夫の腹はだんだんふくらんできた。九郎兵衛夫婦は娘が名も知れぬ人の子をはらんだのを恥しく思い、遂に我が家から追い出した。
信夫は山に隠れて安らかに男の子を産んだ。この子は成人して都に出て立派な工匠となったという。
月の子を産んだ村だから天生といい、川瀬の月を掬って飲んだ所を月ヶ瀬ということになった。
一説にこの立派な飛騨の工は、鞍作鳥(鳥仏師)だともいわれている。」


  
Posted by rekisy at 23:56Comments(0)TrackBack(0)飛騨の伝説

2007年11月27日

止利仏師(鞍作止利)について

皆さん、いかがお過ごしですか?
ネコ先生から「止利仏師の伝承は、どこまで信憑性があるのか?」
とのご質問をいただきました。

この時代(飛鳥時代)の出来事というのは、証拠がなく、なかなか伝承の域を出ません。
しかし、飛騨には、数々の伝承が残っていることも事実です。
今回は、この止利仏師について、お知らせしたいと思います。

まず、私の所属します、匠学会が発行した「新飛騨の匠物語」という本には、つぎのように
出ています。

「この名工の生没年や、生誕地を正史は何も記していない。
しかし、飛騨の山中に生まれたという伝承が、今日まで長く言い伝えられている。

村の伝説では、止利仏師は同村天生の山中に誕生。17歳の時に奈良の都に上がり、
父多須奈に技術を習って彫刻師となった。
その後、法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像など、現在は国宝に指定されている
20数体の仏像を製作したと伝えられている。
飛鳥寺(法興寺)の日本最古の仏像といわれる飛鳥大仏、釈迦如来像(606年)も
止利の作といわれているが、仏像よりお堂が先に完成し、入口より大きい仏像を入れる
という不可能なことを、止利の秘技で入口を壊さず、その日のうちに納めたという逸話もある。

止利仏師(鞍作 鳥)は、飛鳥時代第一とうたわれた仏師で、わが国仏工の租といわれる。
法隆寺の三尊像の光背銘には、司馬鞍首止利仏師と明確に刻まれている。
 「日本書紀」は、父を鞍部多須奈、祖父を鞍作司馬達等と記している。
司馬達等は中国南梁からの渡来人といわれているが、梁を南梁と呼ぶことは少なく、
朝鮮半島の出身であろうという説もある。鞍作部は元来は馬具製作の技術者集団だった
そうである。

天生伝説では、鳥(止利)の父である多須奈が推古天皇の命により、飛騨に入って材をさがし、
河合から白川郷にぬける天生峠で樹を伐ろうと斧を振るうと、樹から血が吹き出したり大荒れ
になった。
そこで多須奈は都に帰って、聖徳太子が16歳の時に作られた自我の仏像三体のうちの一体
を授けられ帰山。天生に安置したところ、それ以後は平穏になり何の異変も起きなかったという。
この仏像は平清盛が病気の時に拠出を命ぜられたが、現在では神岡町の吉田常蓮寺にあるという。


 月ヶ瀬伝説は、天生峠近くの余部の里の農夫九郎兵衛の娘、忍が満月の夜に川面に映った
月を掬って飲みほすと身重になり、生まれた子供は首が鳥に似ているところから鳥と名づけられた
という伝説である。これを裏付けるかのように和漢三才図会(江戸時代正徳2年成立の図入り辞典)に、
止利仏師は司馬達等の孫であるが、飛騨国鞍作の手為名の子である。
天生に来て神女と結ばれ子が生まれた。これが飛騨工となり、と載っている。
更に、それにまつわる伝承も幾つかある。いずれにしてもそれらを実証するものは残っていないが、
飛騨の山村に長い間伝えられてきたのには、やはりそれなりのことがあってのことと思う。
また、止利仏師生誕伝説があるのは、全国でもここだけという。

河合村月ヶ瀬には飛騨の匠の碑が建ち、小鳥川には多須奈渕、忍岩、神女の泉と名付けられた
場所がある。また、聖徳太子の秘仏を祀ったという跡には、法隆寺の間中定泉管主(1963~1982)
の筆による「聖徳太子堂跡」と刻まれた石碑も建っている。


天生伝説の場所に建つ飛騨匠堂では匠祭りも毎年行われ、獅子舞とともに勇壮な匠太鼓も披露され
など、村を挙げて止利仏師での地域活性化、村おこしに取り組んでいる。
 やはり、ここ河合村は止利仏師ゆかりの地であり、飛騨の匠発祥のルーツなのかも知れない・・・。」


飛騨には、鞍作止利の伝承が昔から残っており、月ケ瀬の伝説として今日に受け継がれています。
ただし、実証するものが残っておらず、証拠はありません。

また、月ヶ瀬という地名は、全国に数カ所あるといわれていますが、近くでは、東名阪自動車道の途中に
月ヶ瀬というところがあります。あの場所にはこの月ヶ瀬伝説は残っていないらしいです。
そういうことからすると、飛騨に残っているということは、可能性が高いという話になります。

明日は、この止利仏師の伝説について、お知らせしましょう。

徳積善太



  
Posted by rekisy at 00:04Comments(0)TrackBack(0)飛騨の伝説

2007年11月26日

11月26日放送分

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。

さて、この番組ですが、今年の四月にスタートしまして、10月までの半年間は村田恵子ナビゲーターと一緒にお届けしてまいりましたが、今月からは、私ひとりで、お届けしています。

11月からは15分ほどの番組に変更になりました。
放送時間は、毎週月曜日夜7時半からと 毎週土曜日午前10時半から、こちらは再放送でお届けしています。

さて、今月の放送ですが、11月の放送は、4月から10月までお届けした内容を もう一度振り返っています。

先週は、飛騨古川の城下町についてや、瀬戸川のなりたちについてお話いたしました。お聞きいただけましたでしょうか?
今日は、高山祭りの不思議について、今までお話したことからピックアップしてお話しましょう。


まず、屋台の数ですが、現在ある屋台は、春の高山祭りが12台。秋の高山祭りが11台。となっています。これらは、国指定有形民俗文化財の指定を昭和41年に受けていますが、実は、これらのものは国の有形民俗文化財になっていて、このほかに県の有形民族文化財になっている白山神社の神楽台と飛騨総社の神楽台の2台があります。

山・鉾・屋台が有形民俗文化財の指定されているというのは、大変珍しいいらしくて、たいていの場合は、無形民族文化財として指定されているものが多いそうです。

では、有形に指定されるとどういう利点があるかというと、屋台というのは何年も曳いているとあちこちががたついてきて、修理ということが必要になってきます。その修理の際に、費用負担が軽減されるという利点があります。
屋台の修理となると、何千万円もかかるわけですが、この指定を受けているということで、国が5割、市と県が4割負担していただけるので、地元の負担はわずか1割で済みます。無形の指定よりも屋台そのものに修理費の補助金があると言うことは大変ありがたいことです。
しかし、皆さんご存知のように、現在、国の国家予算は非常に逼迫した状態にありますから、そうしょっちゅう修理できるというわけではありません。毎年決まった金額しかもらえませんから、高山では屋台保存会という組織を作って、屋台修理の順番を決めたり、修理箇所の内容などを吟味されて、少しづつ順番に修理しているというのが実情のようです。
新聞などでご存知のように、一昨年は、春祭りの青龍台。昨年は片原町のこんこう台、今年は秋祭りの鳳凰台が大修理ということで、祭りにも引き出さずに、修理されていました。

さて、この修理ですが、老田先生の研究によると、昔からだいたい60年に一回の割合で修理が繰り返されてきました。先生の著書によりますと、高山祭りの屋台は、大体4つの期間にわけることができます。まず最初に、創世記。これは、江戸時代の中ごろの話です。高山祭りは、・元禄五年(1692)金森氏改易以前から「三年に一度づつ三日間高山祭り」が行われ、この四十年以前にすでに高山祭りがあったと述べられており、金森時代にすでに始まったとされていますが、それを証明する資料はほとんど残っていません。想像でしかないのですが、そのころは屋台はなかったようです。屋台が初めて出てくるのは、ずっとあとのことで、享保3年(1718)年になってからです。
長倉先生の本などを見ますと、神様がご巡幸といって、氏子の区域内を回られるときに、高い木に神様が降臨されると信じられていて、最初は、山から取ってきた生木を曳いて回ったようですが、それが荷車に乗せられるようになり、それが次第に山車になり、屋台へと変化して行ったということです。
したがって、神様によくわかるように、上へ上へと伸びていった。それが祇園祭にみられるような、長い鉾のついた形態になっていったというわけです。
ですから、高山祭りの初期のものには、絵図などで確認できますが、長い鉾を有したものや、江戸の山車のように人形と生木を上に乗せたものなど、現在とは違った形の屋台が生まれてきたんですね。また、このころの屋台は、現在のように戻し車はなく、屋台も幕を張っただけの軽いものでしたから、辻のところでひきづって回したようです。
これが創世記で、享保から天保年間にいたるまでのお話です。

ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は 高田みずえで「硝子坂」をお届けします。

さて、今日も、これまでに放送した内容を振り返っています。今日は、高山祭りの屋台のお話をしています。

先ほどの続きですが、今度は江戸末期になって、改良期を迎えます。昔は今のように舗装した道路ではありませんから、屋台の車輪部分や屋根を支える柱の部分が壊れてきました。だいたい初めのものが作られてから60年目くらいの年月がたったころでした。このときに谷口与鹿で有名な谷口家がでてきます。この時代の屋台の特徴は、屋根がそれまでの唐派風という屋根から、白川村の合掌造りのような形態の切派風に変わることです。長倉先生の論ですと、高山にはお葬式のときに棺おけに唐派風の屋根を付けて火葬場まで運ぶという風習があったとのことで、おめでたい祭りとお葬式とが一緒になっては具合が悪いと、各屋台が形を変えていったと述べられています。ただ、現在でも、八幡祭りの仙人台は、この唐派風の屋根をつけていますから、古い形であるといえるでしょう。


また、このころに、ほぼ現在の形になります。戻し車という方向転換機が取り付けられたり、猩猩の血で染めたといわれる赤い幕が取り付けられたり、谷口与鹿という人の登場で、屋台彫刻が取り付けられたりします。
屋台の台数も、飛躍的に増加して、春祭りは15台、秋祭りも15台の屋台数になりますし、古川にも高山祭りの屋台と同じものが作られるようになりました。
天明・天保と続いた飢饉の頃に、こういう屋台が全国的に作られたり、社寺仏閣が造られたりしたのですが、大変不思議ですね。これはおそらく、商人の豊富な財力を利用して、職人を生活させるために、そういう施策がとられたのではと思います。

その屋台もまた60年たつと、あちこちが壊れてきます。しかも、当時は屋台を分解して各家に保管してきましたから、組んだり壊したりということでも、ほぞといって柱をはめ込む部分が削れてきたりして、だんだんガタがくるようになりました。 おまけに、高山も古川も、何度も火事に見舞われます。高山の場合は、明治8年の大火や、大正2年の大火で、いくつかの屋台が被害を受けました。財力のある町内は、その都度作り直すことができましたが、
そうでない町内は、自分の家を作るのがやっとで、とうとう屋台を作るところまでいかなかったと思います。
ですから、山王祭の応龍台・南車台や、八幡祭りの舟鉾台・牛若台・文政台などといった屋台は、作ることができずに、屋台組だけが今もなお存続しています。

さて、最後に第4期ですが、これは、終戦後から現代に至る期間です。この改造は、あくまで第2期、第3期の状態に戻すための、いわゆる修理が行われている状態です。したがって、最近の修理では、どこの屋台も新しく彫刻を取り付けたり、屋台組のアイデアを出して新調するということは、あまり行われていません。いわゆる復元という状態にする修理が行われているんです。
古川の屋台は、有形民俗文化財ではありませんので、屋臺に対しての直接の補助金がありません。そういうことからも、修理をする場合は、地元の人が今でもあちこちから資金を捻出して屋台を修理されています。高山の屋台もまもなく古いものでは200年経とうとしています。今度は、彫刻や屋台に使われている木が寿命を迎える頃です。そういうことからすると、匠の技術や保全ということを考えなければいけない時期に来ているかもしれません。

さて、今日はこの辺で。最後に曲をお届けします。
  加藤和彦で、あの素晴らしい愛をもう一度  また来週!
  
Posted by rekisy at 22:24Comments(2)TrackBack(0)毎週の放送内容

2007年11月25日

コメントお待ちしています

皆さん、お元気ですか?

今日も再放送でお会いしましたね。
だんだん、寒い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?

さて、このブログでは、皆さんが興味をもたれている記事を募集します。
こんなことを調べてほしいとか、こういうことを聞かれましたがという内容をお知らせください。

なるべくお調べして、お答えしたいと思います。

さて、次回の放送は月曜日です。
月曜日の放送では、高山の屋台についてお話します。

徳積善太
  
Posted by rekisy at 00:13Comments(4)TrackBack(0)毎週の放送内容

2007年11月24日

11月19日放送分

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。

さて、この番組ですが、今年の四月にスタートしまして、10月までの半年間は村田恵子ナビゲーターと
一緒にお届けしてまいりましたが、今月からは、私ひとりで、お届けしています。

11月からは15分ほどの番組に変更になりました。
放送時間は、毎週月曜日夜7時半からと 毎週土曜日午前10時半から、こちらは再放送でお届けして
います。

さて、今月の放送ですが、11月の放送は、4月から10月までお届けした内容を もう一度振り返っています。
毎月第3週目には、古川のことを話題に取り上げてお送りしました。
古川の皆さんにはお聞きいただいていましたでしょうか。
今日も、古川の話題をお話したいと思います。

高山の城下町を作ったのが金森長近といわれていますが、古川の町はその養子であった可重
作ったとされています。年代的には、長近が飛騨を平定したのが天正14年ですが、高山と古川の
まちづくりには、天正17年から相当の年月をかけています。できあがったのは、古川のほうが少し
早いなどというお話から、古川の人たちは「自分たちの町のほうが先にできたから、高山よりお兄さん
だ」などという話を耳にすることがありますが、実際には、慶長13年(1608)に可重が本家を継ぎ高山城
に移ったので、増島城の工事が中止されました。その後、城代として西脇右近入道と金森兵庫の両人
が入り、屋敷を構えていた可重直属の家臣団もそのまま残って、古川の町は発展していったようです。

ただし、7年後の元和元年(1615)に発令された一国一城令によって、増島城は萩原の諏訪城とともに
金森家の旅館として残されたようです。

さて、高山の城下町も自然の地形をうまく利用したまちづくりがされたと以前の放送で申し上げましたが、
古川の町も、自然の地形をよく利用しているという部分では、同じようなコンセプトで造られています。

たとえば、どちらの町も、最近流行している「風水」を考えて作られているとか、沼地を利用して敵の侵入を
阻止するような構造をしているとかが似ています。

ただ、古川の増島城は、当時としては大変珍しい、飛騨で唯一の平城の作りになっているところが、違います。
増島城のような平城は珍しい形態ですので、戦闘のための城というより、居館という要素が強いものだったと
思われます。お城というからには、お堀などもありました。高山城は、三の丸=現在の護国神社のところに
お堀がありますが、外堀の代わりに宮川や江名子川をお堀にしたてたようですが、古川城では、城の周囲に
張り巡らしたお堀のほかに、荒城川、宮川そして、瀬戸川をお堀に仕立ててるんですよね。

ところで、当時の日本の城は、山城、平山城、平城の3つの形態がありました。
山城は山の急傾斜地を利用して造ったお城。平山城というのは、丘を利用して造ったお城。そして、平城は
平地に作った城のことです。戦国時代以前は山の地形を利用して造る山城が主流でした。
高山城は、山を利用して作った山城です。これは、敵に攻められた時になかなか攻めにくいような構造をして
います。岐阜の金華山・高山の松倉城などもこの山城ですね。
平山城というのは、有る程度、戦国時代に戦争が安定してきてから作られることが多かった城で、平山の名の
とおり、岡に本丸を築いたものです。松本城や熊本城がこの形態です。

飛騨には、地形的に山城が多かったといわれていますが、どちらかというと、天守閣を備えた完全なお城と
いうのは少なく、とりでを築いただけの城るい、要塞といったものが多かったようです。
こういった、城の形と言うのは、槍や刀で戦争する時代から鉄砲の導入によって戦闘の仕方が変わってきた
ことが一番の理由だそうです。さて、前半部分はこの辺にして、少しここでブレイクしましょう。
懐かしいところで、ABBAの「Dancing queen」をお届けします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日の歴史再発見は、今までにお伝えした内容を振り返ってお届けしています。
毎週第3週目には、古川のことについて、お伝えしてきました。

さて、お堀としての瀬戸川は、現在、大きな鯉と白壁土蔵で有名ですが、
町人町と武家屋敷の境目にあたるところに、川が作られています。
昔は、馬場があったところだそうです。高山にも馬場町がありますが、殿町のあたりには、武家屋敷のみならず
馬を調教するための馬場のあった町のことだそうです。

 また、あの川は、昔はお堀でしたが、快存上人という偉いお坊さんが
いらっしゃって、その方の薦めによって、お堀から用水として変えられたそうです。

もともと、旅の僧だった快存上人は、古川の壱之町。現在の匠文化館の大いちょうのところにあった福全寺と
いうお寺が荒れ寺になっているのをみて、そちらにいつかれました。快存上人は、天皇家の関係の方だった
らしいのですが、何か問題があったのか、ずっと素性を隠しておられたんです。

あるとき殿様である金森可重の碁の相手をされているときに、殿様からお寺を寄進したいとお話があったらしい
のですが、上人はお断りになり、「もし寺を作ってくださるというのであれば、瀬戸川に水を引いてもっとたくさんの
水を流してほしい。民のために開墾を奨励されなさい。」と申されて、用水としての瀬戸川を作ってもらいました。
そうすることによって、米の実りが増加して、下流の人たちが助かったという、お話があります。
快存上人を手伝って、開墾を奨励した石屋、瀬戸屋源兵衛にちなんで、瀬戸川と呼ばれるようになりました。

いまでも快存上人ゆかりのものが古川には現存します。古川まつり会館の裏にある、
誓願寺には、快存上人が背負っていたというおいが伝わっています。


このおいは、高さ74cm横60cmの非常にしっかりしたつくりのもので、お経の本や身の回り品を中に入れて
背負った、いわゆる木製のリュックサックのようなものです。先日、私もふるさと案内人会の研修で見せて
いただきましたが、おいの上についている金具には、龍や鳳凰の彫金が施してあって、当時としてはなかなか
立派なものであることがわかりました。

また、快存上人のお墓は、上人塚と呼ばれて匠文化館の北側にあります。
墓石には、よく見ると菊のご紋があしらわれています。先日うかがったお話では、もともと快存上人は鷹司家の
出身とされていたそうですが、五摂家出身の方々がこういう菊のご紋を使うということは考えにくく、天皇直系の
方であったために、お墓にも菊のご紋があしらわれているのではということでした。
皆さんも一度お参りされてはと思います。


いまでは、瀬戸川は鯉で有名ですが、その鯉は、昔から飼われていたのではなくて、最近になってからで、
昭和30年ごろから住民の皆さんが協力して、鯉の住める川を作っていったということでしたね。現在では、
700匹以上の鯉が清流を泳いでいる一大観光地となっています。 一方で、瀬戸川を守る会の皆さんや、
周辺住民の方によって、ごみのそうじなどが毎日行われています。自分たちの川としてちゃんと守られて
いるんですね。

また、白壁も明治37年の古川大火を契機に、町の皆さんが、こつこつお金をためながら一つづつ自分の家の
裏に蔵を造っていった名残なんですね。相当な年月と費用をかけた御先祖様の遺品だと思います。
それが防火壁の役割を今日も担っているんですね。

さあ、今日も時間となりました。今日はこの曲でお別れしましょう!
もうじき冬が来るということで、「冬が来る前に」をお届けします。今日もありがとうございました。
また来週お会いしましょう!
  
Posted by rekisy at 00:15Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容

2007年11月24日

11月12日放送分

ひだ歴史再発見 平成19年11月12日放送分原稿

みなさん、こんにちは。この時間は、ひだ歴史再発見のコーナーです。

このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号、長瀬公昭がお届けしてまいります。

この番組ですが、今年の4月にスタートしまして、10月までの半年間は、村田恵子ナビゲーターと一緒に
お届けしてまいりましたが、この11月からは、私が一人でお届けしております。

この番組ですが、10月までは30分番組としてお届けしてまいりましたが、11月からは15分の番組となります。
放送時間は、毎週月曜日夜7時半からの15分間と、録音で毎週土曜日の10時半から15分間、こちらは再放送
でお届けします。

さて、今月の放送は、4月から今までお届けした内容をもう一度振り返っています。

先週は、金森長近公没後400年にちなみ、金森長近が作った城下町高山のお話をしましたが、今日は
その続きをお話しましょう。

先週のお話では、金森公が宮川の流れを変えて城下町を作ったお話をしました。お城の堀として、宮川と江名子
川という自然の2つの川の流れを変えたというお話でした。
南側には、春の高山祭で有名な山王様=日枝神社を置き、南の守りとしました。
東側の江名子川のさらに東には、寺町を形成して、あちこちから寺院を誘致しました。具体的には、法華寺は
西之一色にあったものを現在の地へ誘致したり、大雄寺は、国府町の上広瀬にあったものを誘致したそうです。

当時のお寺には、僧兵がいましたから、お城の警護にはうってつけでした。
また、江名子川には、いくつかの橋を作りましたが、すべて木の橋でした。これは有事の時に、すぐに焼き落としたり、
壊したりしやすいようにしたためです。いくつかの橋は一本橋の丸木橋を用いました。

向町には、現在の陣屋のところに向い屋敷を作り、西側からの敵の来襲に備えました。

昔、宮川もすのり川も、氾濫を繰り返して、現在の高山駅の辺りは、沼地が広がっていました。後に大名田町と
名を変えますが、灘村はもともと、開墾するのに難儀な場所であったために、さんずいに難しいと書いて灘と呼ぶ
地名でしたが、これでは縁起が悪いと、合併のときに名前の名に田と書いて、なだと読ませたと言う逸話があり
ます。名田というのは、みょうでんとも読み、いい米が取れる田んぼの事でした。

さて、地形的にもさることながら、金森氏のすごいところは、当時、信長も秀吉も家康もその存在に手を焼いた
浄土真宗=当時は一向宗を味方につけたことです。長近のまちづくりは、その一向宗の別院である照蓮寺を
城下に組み込む事によって、自分の留守中、城下を守らせました。

当時は戦国時代で、長近も可重もあちこちの戦争に借り出されていました。遠くは、九州にわたり、秀吉の
朝鮮征伐にも借り出されていたり、普段は京都の屋敷にいて、地元の飛騨高山に戻ることがほとんどありま
せんでしたから、高山を留守にする事がほとんどでした。
三代の重頼の時代になって、息子の宣心にさな姫を迎えたり、もう一人の息子を京都の本願寺に預け、
後に井波の瑞泉寺の10代住職にするなど、急速に浄土真宗との距離を近づけます。

さて、今日はこの辺で。
曲をお届けしましょう! 松山千春で「旅立ち」お届けします
  
Posted by rekisy at 00:00Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容

2007年11月23日

11月5日放送分です

皆さん、お久しぶりです。
ブログの方、ながらくお休みしてしまいました。
申し訳ございません。
11月から一人で放送する事になりました。よろしくお願いします。


さて、11月5日の放送分です。

ひだ歴史再発見 平成19年11月5日放送分原稿

みなさん、こんにちは。この時間は、ひだ歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号、長瀬公昭がお届けしてまいります。
この番組ですが、今年の4月にスタートしまして、10月までの半年間は、村田恵子ナビゲーターと一緒にお届けしてまいりましたが、この11月からは、私が一人でお届けする事になりました。一人でお話しするのは初めてですが、どうぞよろしくお願いいたします。

この番組ですが、10月までは30分番組としてお届けしてまいりましたが、これからは15分の番組となります。放送時間は、毎週月曜日夜7時半からの15分間と、録音で毎週土曜日の10時半から15分間、こちらは再放送でお届けします。

さて、今月の放送は、4月から今までお届けした内容をもう一度振り返ってみたいと思います。
今年は、高山の町を作った「金森長近公 没後400年」ということで、高山市内のあちこちでイベントが繰り広げられていますね。現在も、10月30日から高山市郷土館の方で、「金森長近展」が開催中です。
すでに見に行かれた方もいらっしゃいますか? 私も先日、時間を見つけて行ってきましたが、金森長近が着用した陣羽織など普段は見る事のできないものや、金森氏にゆかりのものなど、いろいろ展示されていますので、一度ご覧になるといいと思います。

この金森長近と言う人、1608年8月12日にお亡くなりになりました。正確には来年で没後400年と言う事になります。彼は、この高山の城下町を作った事で知られていますが、天正13年に豊臣秀吉の命令で、越前大野から飛騨に侵攻し、飛騨を平定しました。

高山の城下町を作るときに、最初は松ノ木にある鍋山城下の付近を考えたようですが、結局は天神山と呼ばれていた現在の城山に城を築きました。
その工事は、じつに16~7年もの歳月をかけて作られましたが、一番の難工事は、宮川の川の流れを変える事でした。当時の宮川は、現在の上一之町のあたりを流れていましたが、中橋の少し上流のあたりから流れを変え、現在の流れにしたそうです。

また、その川を埋めるために、現在の馬場町あたりにあった山を削り、平らにしました。そこから出た土砂を下へ落とし、宮川の流れを埋めたそうです。
そこへ、一之町、二之町、三之町といった町人町を作ったために、そこには宮川の伏流水が流れ込み、豊富な地下水が得られる事から、おいしいお酒づくりや醤油づくりといった産業が後に栄えました。
橋も昔は3箇所で、一番南のものは、現在の枡形橋の少し下流のところに大手橋。現在の鍛冶橋のところには鍛冶橋。そしてそのまん中の橋と言う事で作られたのが中橋でした。

一方、江名子川も現在の流れとは違う流れでした。現在の鉄砲町のところで大きく左に曲がっていますが、もともとはあのあたりから北進し、現在の勝久寺あたりで落ち込んで宮川に流れていたそうです。
その流れを、鉄砲町から左京町に至るあたりでせき止め、弥生橋のところで宮川に合流するように流れを変えたそうです。
こうすることによって、城の堀の代わりとして2つの自然の川を利用したんですねえ。
さて、今日のお話はこの辺にして、この曲でお別れしましょう。
オフコースで「眠れぬ夜」をお届けします。

  
Posted by rekisy at 23:46Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容

2007年11月23日

新番組になりました

(金森長近公 銅像 城山公園)

ひだ歴史再発見! お聞きいただいていますでしょうか?

ブログの方、長らく更新できずにすいませんでした。相変わらず調査で走り回っていました。

さて、番組の方は、今日から新番組としてスタートします。
放送時間は 毎週月曜夜7時半からと 毎週土曜日午前10時半からの2回です。

よろしくお願いいたします。

徳積善太
  
Posted by rekisy at 23:40Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容