2007年12月03日
12月3日放送分
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月が過ぎました。11月には、10月までにお届けした内容を振り返ってきましたが、いかがでしたでしょうか?ちょっと難しかったでしょうか。
番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。知り合いの方に専門家がたくさんいらっしゃいますので、お尋ねするなり、お調べするなりして、まとめてお答えしたいと思います。また、ひだっちブログにも掲載していますので、バックナンバーなどご覧ください。
さて、今月からですが、原稿を作る関係上、テーマを絞りたいと思います。4週ありますので、週ごとに分けたいと思います。第1週・第2週は、飛騨のまちづくりについて。金森長近から6代に渡る治世のお話や、その後の天領時代についてのお話など、まちに関するお話や、治世、歳時記に関するお話をしたいと思います。
第3週は、今までどおり、旧吉城郡である飛騨市を中心とした区域。古川町や神岡町。そして、国府町のお話をしたいと思います。
第4週は、飛騨の匠について。屋台のお話や社寺仏閣、歴史を作った大工さんのお話などをしていきたいと思います。5週ある月は、ゲストをお呼びするなどして、いろんなお話を伺っていきたいと思います。
さて、今日の放送ですが、先ほど申し上げましたように、飛騨のまちづくり についてお話します。
今日の高山を初めとして、飛騨の町の基礎を作ったのは、金森長近 という武将です。今年から来年にかけて、金森長近公没後400年ということで、高山市内でも数々のイベントが行われていますね。
いままで、この放送では、城下町としての高山のまちづくりがどのようになされてきたか、お話してまいりましたが、さて、この長近という武将。どういう人だったか、今日はその辺について、いろいろな書物のお話をかいつまんでお話しましょう。
もともと、長近のお爺さんは、土岐氏の出であったといわれています。お父さんは、住んでいたところが土岐の大畑というところであったことから大畑の姓を名乗っていました。長近は、今の岐阜県土岐市のあたりで、大永4年に生まれたといわれていますが、お母さんがどのような人だったのか、詳細についてはよくわかっていません。これにはいろんな説がありますが、彼の後の活動から、お母さんは山仕事をする人たちの流れを汲む人の娘だったとかいう説もあります。
彼は、幼少のときに、滋賀県の金が森というところに移り、そこで育ちます。ここには、金森御坊という浄土真宗のお寺があって、環濠集落という、お堀にめぐらされた土地でした。当時、戦国大名の多くが、禅宗を信仰するのに、彼は、浄土真宗と子供の頃から関わりを持ちます。

幼少時、彼は五郎八・あり近という名前ですごします。幼年時代のことはよくわかっていませんが、この金ケ森というところには、高山という小山があることが知られています。また、この地の出身ということで、金森という姓を名乗ったといわれています。土岐から大畑、金森へと名を変えたというのはどういう理由があったのでしょうか。
苗木資料館の先生によれば、土岐氏の一族は、地名にちなんで姓を変えることが多かったということです。
元服して、天文10年に、尾張の織田信勝に父と共に仕えた可近は、織田信長の小姓となります。当時、あり近は18歳。信長は8歳という年齢でしたから、どちらかというとお兄さん的存在だったことでしょう。
信長のいろんな書物には、幼名の五郎八という名前でよく出てきます。年は少し上なのですが、うつけと呼ばれた信長には、大変従順なよく間に合う家来だったことでしょう。
この信長に、それまでのしきたりや風習を教えたのは、長近だったといわれています。しかし、信長は「うつけ」と呼ばれていた。つまり、そういうしきたりや風習が大嫌いな改革者だったんです。
後に、桶狭間の戦いで、今川義元の首を奇襲作戦で破り、信長の名は天下に知れ渡りますが、従来の戦法では、打開しない。数の上でも10倍以上の敵を負かすわけですから、それはそれは、奇抜なアイデアと戦略でたくみに切り抜けた人だった。人とは違うやり方をしたことが、「うつけ」と呼ばれた所以でしょうから、小姓としての五郎八は、大変苦労したことと思われます。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は 稲垣潤一で「クリスマスキャロルの頃には」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、今日は、戦国武将 金森長近についてお話しています。
先ほどの続きですが、五郎八は、この桶狭間の戦功の5年前に、信長の長の字を一字もらい、長近と名前を改め、桶狭間の戦いを契機にこの名前を使います。そういう点では、信長からかなり信頼されていたことが伺えます。
死ぬまでに、彼はのべ5人の武将に仕えます。織田信勝、織田信長、柴田勝家、豊臣秀吉、徳川家康。この5人に仕える間に、彼は、処世術を身に着けていきます。この5人が主君であり師であったということです。中でも茶の湯を利用したことや、状況を見ながらどちらについてもいいように用意周到に従ったからこそ、無名ではありますが、大名としての地位を長く確立できたものと思います。
作家の堂門冬二先生がおっしゃるには、信長の天下布武の目的は、日本人の土地に対する執着心、つまり土地を最大の財産と考える価値観を壊したかったことだそうです。一生懸命ということばがありますが、本当は一所懸命が正しい言葉です。つまり=ひとつところに命をかける という思想があり、そのことから一坪でも所有地を増やしたい。それを奪うものから命がけで守るという考えがあったのですが、彼はそれが大嫌いだった。信長は天下布武という改革事業、この意識改革をすすめるために、茶の湯を利用したということです。
当時、信長は魚屋であった千利休と堺で出会いました。その町には36人の会合衆とよばれる人たちがいて、町が金で武士を雇い、堀をめぐらし、自衛をしていました。公平な負担も行い、自治を行っていた。信長はこのやり方に大変興味を持ったそうです。
その利休が信長を茶室にまねき、「町の中の山小屋です」と申して、亭主が先に入らせていただきますと、申して先に入った。信長にも頭を下げ、茶室に入るときに腰のものをとり、入るように進めました。中に入ると「あなたは今、名刺の肩書きがとれた。あなたはただの人間信長です。私はただの人間千利休です。こころをこめておつとめさせていただきます。終わったら結構なお手前でしたと一言申しください。」と言ってお茶を差し出しました。
この利休と信長から教わった茶の湯での「人間身分平等の精神」を長近が持つようになり、のちに金森宗和を茶道の祖として政治に生かすわけです。
現在、高山市郷土館で大阪冬の陣、夏の陣の陣配置図が展示されていますが、よく見ると豊臣方、徳川方の両方に金森の名前が見られます。これより以前の関が原の戦いでも同じことが行われました。金森長近が徳川方につけば、兄の兵左衛門は、豊臣方につき、世情がどちらに流れても金森家は絶えないように用意周到に仕組んでいたものと思われます。また、城下町経営についても、当時としては、攻められにくいように通りを迷路のようにするまちづくりが普通でした。
観光案内などには商人たちが行き来しやすいように、碁盤の目にしたとのべられていますが、じつはこれは間違いで、『高山の古地図』など見ていただければ南北が通り、東西は横丁になっているのが分かるかと思います。
横丁はあくまで横丁で、建物の正面ではなく、側面が向いています。二木酒造さんの南側を想像して下さい。三川屋さんが今の店を構えるとき、かなり議論になった事実があるそうです。場所によってはずれています。これらは学会では「縦町横筋型」と呼ばれていて(京都大学足利兼亮氏など)信長までの城下町にみられる特徴だそうです。秀吉の伏見城では「横町縦筋型」になっているとのことです。
越前大野
飛騨高山
さて、安定した城か町を経営するためには、平和であることが大前提ですが、越前大野の町も高山の町も外敵から守られた作りになっています。これも信長から学んだ処世術だったようですね。ちょっと難しかったでしょうか。
さて、今日はこの辺で。最後に曲をお届けします。
松田聖子のナンバーで「真冬の恋人たち」 また来週!
12月3日
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月が過ぎました。11月には、10月までにお届けした内容を振り返ってきましたが、いかがでしたでしょうか?ちょっと難しかったでしょうか。
番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。知り合いの方に専門家がたくさんいらっしゃいますので、お尋ねするなり、お調べするなりして、まとめてお答えしたいと思います。また、ひだっちブログにも掲載していますので、バックナンバーなどご覧ください。
さて、今月からですが、原稿を作る関係上、テーマを絞りたいと思います。4週ありますので、週ごとに分けたいと思います。第1週・第2週は、飛騨のまちづくりについて。金森長近から6代に渡る治世のお話や、その後の天領時代についてのお話など、まちに関するお話や、治世、歳時記に関するお話をしたいと思います。
第3週は、今までどおり、旧吉城郡である飛騨市を中心とした区域。古川町や神岡町。そして、国府町のお話をしたいと思います。
第4週は、飛騨の匠について。屋台のお話や社寺仏閣、歴史を作った大工さんのお話などをしていきたいと思います。5週ある月は、ゲストをお呼びするなどして、いろんなお話を伺っていきたいと思います。
さて、今日の放送ですが、先ほど申し上げましたように、飛騨のまちづくり についてお話します。
今日の高山を初めとして、飛騨の町の基礎を作ったのは、金森長近 という武将です。今年から来年にかけて、金森長近公没後400年ということで、高山市内でも数々のイベントが行われていますね。
いままで、この放送では、城下町としての高山のまちづくりがどのようになされてきたか、お話してまいりましたが、さて、この長近という武将。どういう人だったか、今日はその辺について、いろいろな書物のお話をかいつまんでお話しましょう。
もともと、長近のお爺さんは、土岐氏の出であったといわれています。お父さんは、住んでいたところが土岐の大畑というところであったことから大畑の姓を名乗っていました。長近は、今の岐阜県土岐市のあたりで、大永4年に生まれたといわれていますが、お母さんがどのような人だったのか、詳細についてはよくわかっていません。これにはいろんな説がありますが、彼の後の活動から、お母さんは山仕事をする人たちの流れを汲む人の娘だったとかいう説もあります。
彼は、幼少のときに、滋賀県の金が森というところに移り、そこで育ちます。ここには、金森御坊という浄土真宗のお寺があって、環濠集落という、お堀にめぐらされた土地でした。当時、戦国大名の多くが、禅宗を信仰するのに、彼は、浄土真宗と子供の頃から関わりを持ちます。

幼少時、彼は五郎八・あり近という名前ですごします。幼年時代のことはよくわかっていませんが、この金ケ森というところには、高山という小山があることが知られています。また、この地の出身ということで、金森という姓を名乗ったといわれています。土岐から大畑、金森へと名を変えたというのはどういう理由があったのでしょうか。
苗木資料館の先生によれば、土岐氏の一族は、地名にちなんで姓を変えることが多かったということです。
元服して、天文10年に、尾張の織田信勝に父と共に仕えた可近は、織田信長の小姓となります。当時、あり近は18歳。信長は8歳という年齢でしたから、どちらかというとお兄さん的存在だったことでしょう。
信長のいろんな書物には、幼名の五郎八という名前でよく出てきます。年は少し上なのですが、うつけと呼ばれた信長には、大変従順なよく間に合う家来だったことでしょう。
この信長に、それまでのしきたりや風習を教えたのは、長近だったといわれています。しかし、信長は「うつけ」と呼ばれていた。つまり、そういうしきたりや風習が大嫌いな改革者だったんです。
後に、桶狭間の戦いで、今川義元の首を奇襲作戦で破り、信長の名は天下に知れ渡りますが、従来の戦法では、打開しない。数の上でも10倍以上の敵を負かすわけですから、それはそれは、奇抜なアイデアと戦略でたくみに切り抜けた人だった。人とは違うやり方をしたことが、「うつけ」と呼ばれた所以でしょうから、小姓としての五郎八は、大変苦労したことと思われます。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は 稲垣潤一で「クリスマスキャロルの頃には」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、今日は、戦国武将 金森長近についてお話しています。
先ほどの続きですが、五郎八は、この桶狭間の戦功の5年前に、信長の長の字を一字もらい、長近と名前を改め、桶狭間の戦いを契機にこの名前を使います。そういう点では、信長からかなり信頼されていたことが伺えます。
死ぬまでに、彼はのべ5人の武将に仕えます。織田信勝、織田信長、柴田勝家、豊臣秀吉、徳川家康。この5人に仕える間に、彼は、処世術を身に着けていきます。この5人が主君であり師であったということです。中でも茶の湯を利用したことや、状況を見ながらどちらについてもいいように用意周到に従ったからこそ、無名ではありますが、大名としての地位を長く確立できたものと思います。
作家の堂門冬二先生がおっしゃるには、信長の天下布武の目的は、日本人の土地に対する執着心、つまり土地を最大の財産と考える価値観を壊したかったことだそうです。一生懸命ということばがありますが、本当は一所懸命が正しい言葉です。つまり=ひとつところに命をかける という思想があり、そのことから一坪でも所有地を増やしたい。それを奪うものから命がけで守るという考えがあったのですが、彼はそれが大嫌いだった。信長は天下布武という改革事業、この意識改革をすすめるために、茶の湯を利用したということです。
当時、信長は魚屋であった千利休と堺で出会いました。その町には36人の会合衆とよばれる人たちがいて、町が金で武士を雇い、堀をめぐらし、自衛をしていました。公平な負担も行い、自治を行っていた。信長はこのやり方に大変興味を持ったそうです。
その利休が信長を茶室にまねき、「町の中の山小屋です」と申して、亭主が先に入らせていただきますと、申して先に入った。信長にも頭を下げ、茶室に入るときに腰のものをとり、入るように進めました。中に入ると「あなたは今、名刺の肩書きがとれた。あなたはただの人間信長です。私はただの人間千利休です。こころをこめておつとめさせていただきます。終わったら結構なお手前でしたと一言申しください。」と言ってお茶を差し出しました。
この利休と信長から教わった茶の湯での「人間身分平等の精神」を長近が持つようになり、のちに金森宗和を茶道の祖として政治に生かすわけです。
現在、高山市郷土館で大阪冬の陣、夏の陣の陣配置図が展示されていますが、よく見ると豊臣方、徳川方の両方に金森の名前が見られます。これより以前の関が原の戦いでも同じことが行われました。金森長近が徳川方につけば、兄の兵左衛門は、豊臣方につき、世情がどちらに流れても金森家は絶えないように用意周到に仕組んでいたものと思われます。また、城下町経営についても、当時としては、攻められにくいように通りを迷路のようにするまちづくりが普通でした。
観光案内などには商人たちが行き来しやすいように、碁盤の目にしたとのべられていますが、じつはこれは間違いで、『高山の古地図』など見ていただければ南北が通り、東西は横丁になっているのが分かるかと思います。
横丁はあくまで横丁で、建物の正面ではなく、側面が向いています。二木酒造さんの南側を想像して下さい。三川屋さんが今の店を構えるとき、かなり議論になった事実があるそうです。場所によってはずれています。これらは学会では「縦町横筋型」と呼ばれていて(京都大学足利兼亮氏など)信長までの城下町にみられる特徴だそうです。秀吉の伏見城では「横町縦筋型」になっているとのことです。
越前大野
飛騨高山さて、安定した城か町を経営するためには、平和であることが大前提ですが、越前大野の町も高山の町も外敵から守られた作りになっています。これも信長から学んだ処世術だったようですね。ちょっと難しかったでしょうか。
さて、今日はこの辺で。最後に曲をお届けします。
松田聖子のナンバーで「真冬の恋人たち」 また来週!
12月3日




