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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2007年12月17日

12月17日放送分 『古川姉小路について』

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。

さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月半が過ぎました。今年もあと2週間となりましたね。皆様にとっては、今年一年はどんな年だったでしょうか。

私もこの番組を始めるようになって、今年はたいへん勉強をさせていただきました。今までも地元のことをいろいろと調べていましたが、今年ほど広範囲に、また詳しく調べたことがありませんでしたので、とても勉強になりました。自分も勉強だと思って、この番組をすすめていきたいと思いますので、番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。

お尋ねいただいた内容は、少しお時間をいただいて、知り合いの専門家の方にお尋ねするなり、自分が持っている資料でお調べするなりして、また番組の中でお答えしていきたいと思います。

さて、先週は、飛騨の名前の由来についてのお話をしました。今週は、第三週ということで、古川のことについてお話しましょう。
10月と11月に、飛騨古川ふるさと案内人会で、研修会がありました。地元の歴史家 稲葉六郎先生の御案内で、古川の名勝や寺院について、御案内をいただきました。そのときに教えていただいた内容を一部交えてお話したいと思います。
さて、古川の町ですが、白鳳時代や奈良時代は今の古川町のあたりではなくて、もう少し北の太江、杉崎地区が結構栄えていたそうです。近年、杉崎廃寺の発掘調査が行われて、田んぼだったところから数々の礎石が発見され、このお寺が金堂や塔を備えた立派なものであったことがわかりました。

そのあたりには、今はなき古い寺がほかにもあったらしくて、寺があるということはそこに民衆が営みをしていたということがわかってきています。
また、高山に国府が置かれる前の国府があった場所について、先日行われました第3回ふるさと案内人会 見学ツアーで、稲葉先生は、「現在の上町のところに、国府があったらしい」とおっしゃっていました。現在、栗原神社という神社が古川町の上町にありますが、国府があったと思われる場所が、現在の栗原神社前から大日に掛けての一帯が、いまの上町公民館のあたりではということでした。

このあたりは、昔から久中(くなか)と呼ばれていて、もともと、国中の呼び方が長年の言葉の使い方で変化したものといわれているそうです。つまり、昔は国の役所である国衙(こくが)が設置されていた場所で、飛騨の中心地でした。上町廃寺がこのあたりに確認されているそうです。稲葉先生がおっしゃるには「この辺には栗林があって、毎年栗を朝廷に献上していた。島官といってお旅所だったところに神社を移転した。上町廃寺というところは三菱スタンドより上にあった。役所はどこにあったのかわかりません。飛鳥時代の終わり頃、遅くとも奈良時代の中ごろには高山に国分寺ができて移動しただろう。」ということでした。
奈良時代には、国の政治を行った国府は、国分寺・国分尼寺建設と共に、高山に国府が置かれたそうです。

鎌倉時代には、各地に守護の下に地頭である御家人がいて、いざ鎌倉というときには、鎌倉街道を通って、鎌倉にはせさんずることができるように鎌倉街道が整備されました。今でも、高山には、鎌倉街道のあとが一部残っています。そののち、室町時代の初めころには、この地頭が開墾などをして納める地域を拡大していくわけですが、全国的に見て、どうも、守護のいたところを避けるようにして、地頭が拡大化していったようです。

鎌倉時代や室町時代のことは、残念ながら飛騨に明確な資料が残っていないので、よく分っていませんが、私が確認したことをお話しますと、鎌倉時代には、京都の山科家の知行する地域が、石浦・江名小・岡本の保とあと松橋という場所が記録に残っているそうですが、その場所はよくわかりません。おそらく宮と高山の境目の所に松橋という橋があるので、あのあたりではないかと思われます。
さて、この辺でちょっとブレイクしましょう。 曲は、クリスマス前ということで、辛島美登利でサイレントイブ
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今日の飛騨歴史再発見は、室町時代以前の古川町のことについてお話しています。

さて、そのころ国府地方には、雅楽をやっていた多好方という人が知行していた土地があったそうです。
この人は、建久二年(1191)11月21日に、鎌倉に鶴岡八幡宮が遷宮されたときに、都から招かれて源頼朝の前で奏楽を献上しました。その秘曲に感じ入った頼朝は、家臣大江久家を京都に遣わして好方から神楽を伝習させます。その後、建久4年11月4日に、好方の息子 好節を再度招いて、鶴岡八幡宮で奏楽させたときに、何かいいことがあったのか、褒美として知行地を与えます。それが国府の荒城郷だったそうです。

好方は、正治元年(1199)11月8日に地頭職を子の好節に譲り、将軍源頼家にたのんで、荒城郷を守護不入の地にしてもらいました。それ以後、この国府の地は、安土桃山時代頃まで、長い間、多家の知行であったと考えられます。ただし、多家の人が飛騨に住んでいたのではなくて、京都にいて秘曲を伝授するなどしていたそうです。
話はかわりますが、祭りの歴史を調べているときに、この多家の人が、飛騨楽というものを伝授し、それが現在あちこちでみられる闘鶏楽の原型ではというお話があります。真実はよく分っていませんが、飛騨のあちこちにみられる闘鶏楽は、どうもこのころに始まっているというお話があるようです。

鎌倉時代に多家があったころの守護は、藤原憲俊であったそうですが、このころの国府がどこにあったかは、定かでありません。

その後、室町時代になって、姉小路氏が国司に任命され、守護を京極氏が勤めることになりました。京極氏は、家来の多賀氏を今の高山あたりに。三木氏を今の下呂の竹原あたりに配置したそうです。古川地域は、姉小路氏が治め、北飛騨の神岡あたりは、高原郷と呼ばれて江馬氏が治める地域となっていました。多賀氏が本拠地を今の城山=天神山に城を築いて構えたと伝えられていることから、その地名が多賀山となり高山になったという伝説があります。ただし、これはあくまでいわれであって、本当かどうかはわかりません。

さて、国司の姉小路氏は、その頃どのあたりに国府を置いていたか謎のままですが、古川の蛤城にいて飛騨を知行していたことがわかっています。国司の任務は、当時は神官も兼ねていたそうですが、国司が訪問する神社を一の宮、二ノ宮、三ノ宮といいました。一の宮は現在も知名になってますね。そのどれもを訪問するのが大変なので、姉小路氏は、阿多由太神社など延喜式に載っている5つの神社を城の南側に勧請し、五社神社と名付け、お参りをしていたそうです。

蛤城は、現在の古川バイパスのところにトヨタカローラさんがありますが、そこから宮川をはさんだ対岸の山の上にあったようです。蛤城という名前は、そこに蛤石があったことから、のちの金森時代になって呼ばれた名前ですが、当時は、古川城といわれました。そこの真下には、城下町が広がっていて、古い寺も4つほどあったようです。現在の古川バイパス沿いにある田中木工所近辺にその城下町があり、城に近いほうから一番町、二番町、三番町と呼ばれていたそうです。城と城下町は七堆端(ななついばし)という橋で結ばれ、その遺構は明治時代まであったそうです。この城下町は、のちに金森可重が古川の町を築くにあたって取り壊され、ほとんどが現在の古川町に城下を移転されました。
 この姉小路も、尹綱(これつな)の時代に、3つに分裂します。応永18年に飛騨の乱がおこり、尹綱はこの戦闘で殉死しますが、このあと、小鷹利城(向小島城)の牛丸氏、杉崎にいた小嶋氏。そして国府町の広瀬にいた広瀬氏の3つに分裂します。それぞれが、姉小路の流れの人たちとして古川地区を知行して行きます。


小島城跡(古川町杉崎)

 室町時代の中期以降には、飛騨は、北から高原郷の江馬氏、古川に牛丸氏、小嶋氏、広瀬氏。高山に多賀氏、益田地域に三木氏と細かく分断されてそれぞれの知行が行われていました。その後、益田地域の三木氏がどんどん勢力を伸ばして、最終的には飛騨を統一します。このお話は、またの機会にお話したいと思います。

ちょっと難しかったでしょうか。さて、今日はこの辺で終わりましょう。最後に曲をお届けします。
曲は、クリスマスということで、「松任谷由美の 恋人がサンタクロース」でお別れします。 ではまた来週!
  
Posted by rekisy at 23:43Comments(2)TrackBack(0)毎週の放送内容

2007年12月17日

12月10日放送分 飛騨の名前について

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月が過ぎました。11月には、10月までにお届けした内容を振り返ってきましたが、いかがでしたでしょうか?ちょっと難しかったでしょうか。

番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。知り合いの方に専門家がたくさんいらっしゃいますので、お尋ねするなり、お調べするなりして、まとめてお答えしたいと思います。また、ひだっちブログにも掲載していますので、バックナンバーなどご覧ください。

さて、先週は、金森長近の幼年期のお話をしました。今週は、ひだの地名についてお話しましょう。
この、ひだという地名ですが、昔から国名=国の名として使われていました。
語源は、山のひだひだが多いからそうなったとか、いわれていますね。しかし、使われていた漢字はいろいろな当て字が使われています。
桐谷先生のお話によると、日本の一番古い歴史書物の日本書紀に書いてある文字があります。そのころはたいへん難しい漢字が使われていました。 非=あらずという字の下に樹木の木を書いて「ひ」。そして、こざとへんにうかんむりを書いて下にカタカナのひと書いた字を「だ」と読ませていたそうです。私も元のものを見たことがありません。活字になったものは見ましたが、日本書紀に最初にでてきているものは、こういう風に書いてあるそうです。

これは、字典で調べてみますと、この「棐」ろいうのは、弓が曲がった弓という意味でした。
大昔から石器時代からあった、狩をする道具として使われていました。つるをつけて矢を放す。それが弓ですね。その矢の先に鏃をつけて、猟をした。その弓が、自然のものが、那須与一のようなときの昔話にでてくるようなものでなくて、火であぶってまっすぐにしたような、弓の曲がりをまっすぐにするというのが棐の元の意味です。

また陀の文字は山崩れの意味です。 飛騨では山崩れしそうなところを江戸時代から蛇抜けといいます。50m巾で大蛇が駆けて落ちる、そういう類似の言葉ですが、崩落して落ちてしまう。生えた木も一緒に土石流とながれてしまう。やっとこの前、雪で雪崩が起きて人も木も流されたというのがありましたが、自然の驚異ですが、あまりうれしくない、危険な自然災害を表す字なんです。日本書紀は最初から活字ではありませんので、書くときにこういう寺を当て字にしたんですね。今でも大漢和辞典にしかこういう字はありません。

次に万葉集に使われている字には、斐太高校で有名な「ひだ」の文字です。こちらには、「あやとか、すぐれた」とかいう意味があります。また、太いという文字にも「すぐれた」という意味があります。京都に映画村で有名な場所=太秦(うずまさ)というところがありますが、ここも太いという寺を使います。これも、優れた場所という意味なんだそうです。そこの広隆寺には国宝第1号となった思惟菩薩があります。修学旅行で初めて見たときには、何か惹かれるようなとても素晴らしい仏様でした。
秀でた素晴らしい土地のことを「まほろば」といいますが、飛騨の国は「まほろば」だったのではというのが、桐谷先生の語られる歴史ロマンです。飛騨のことをいつしか「飛騨の国は下下の国」というひとがありますが、先生も私も、飛騨の国はまほろば=上上の上の国だ。そう胸を張っていいたいですね。

同じ、ひだでも、寺によって意味がずいぶん違いますね。

さて、最近使われているのは、この「まほろば」の斐太高校のひだの字ですが、一般的にひだというと飛ぶ馬と書きます。後半部分では、この辺のお話をしていきましょう。
ちょっと、ここでブレイク。今日はクリスマスも近いので、KANの「クリスマスソング」をお送りします。
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さて、今日は、飛騨の名前の由来についてお話しています。

飛騨が飛ぶ馬と書くようになったのは、「飛騨」になったのは奈良時代、全国に地名は好ましい名前(好字)にしなさい、という命令が出て改められました。三野、御野だったものが美濃とか。

八野先生の説によると、「大宝2年(702)に、胴体が黒色で、額に一角があり、たてがみ尾が白色の神馬が飛騨から朝廷に献上された。この時に大赦が行われ多くの罪人が許され、国人に3年の貢租が免ぜられた時である」と言われています。万葉集には、

「ぬばたまの ひだの 大黒みるごとに こせのおくろし おもほゆるかも」

「こまつくる はじのしひまろ しろなれば うべほしからむ その黒色を」

という歌がよまれているそうです。 この歌からもわかるように、飛騨地方は、昔からいい馬の産地でした。隣の県では、木曾駒といって、足の太い、しかし体つきのがっしりした馬が有名で、たくさんの馬が生まれました。昭和の初め頃まで、高山の南東、高根村には、この木曾駒で大もうけした方があって、馬屋敷と呼ばれる建物がつい最近まであったそうです。残念ながら取り壊されてしまいましたが、高値村史などを見ますと、相当素晴らしい建物だったようです。

今の競走馬で名馬と呼ばれるものは、いわゆるサラブレットのような体型で、足はすらりとして、瞬発力があって、かけると早いのが名馬のようです。しかし、そういう現代のスマートな馬は、西洋から移入されたものです。日本の古来からの馬は、そんなにスタイルのいいものではなくて、どちらかというと足が太くて、丈夫で、瞬発力もあって、持久力のある、いわゆる実戦的な馬が名馬であったようです。毛並みも黒毛、白毛、鹿毛と様々で、とびきり毛並みのいいのが名馬だったようです。
話がそれましたが、飛騨に伝わる馬の話はいろいろありますので、ちょっと代表的なものを紹介してみましょう。

まず、奈良時代。飛騨の「騨」の字は連銭葦毛の馬を表しているそうで、名馬の代名詞みたいになってますね。北飛騨では「さくんま」と言って、馬を冬場太らせ、夏場富山や砺波平野の穀倉地帯に貸出するということが行われていました。

平安時代には、源平合戦に宇治川の合戦がありましたが、平治物語に、この合戦で有名な先陣争いをした話が出てきます。寿永3年。1184年の物語です。「やあやあわれこそは」と名乗りを上げて、先陣を切ったものは、勇者の誉れ、武士の誉れとされて、数々の戦では、戦功をあげると勇者として称えられ、たくさんの恩賞をもらえました。当然、命を懸けて生きて帰らないとこの名誉に預かることはできませんでした。

そのときに先陣争いをしたのが、佐々木高綱と梶原景季で、乗っていたのが「いけずき」と「するすみ」という名馬でした。佐々木高綱は、頼朝に与えられた名馬「池月」にまたがって梶原景季と先陣を争い、初めは遅れをとりますが、景季に馬の腹帯が緩んでいるので締め直す様に薦めて行わせ、その間に先陣を切るというお話です。この「池月」は、高山の丹生川村の産で、「する墨」は郡上の旧明宝村の産でした。明宝村では、せせらぎ街道のところに道の駅を作って、するすみの里という公園ができていますね。

また、江戸時代になって、丹生川村の字 池の俣というところに神馬が降下し、国が栄える兆しだとして、国主金森頼直公に献上されました。あるとき、参勤交代で頼直公が江戸に行っていると、八百や町が燃えた「振袖火事」がおきます。江戸の芝辺りにあった金森の屋敷も燃えてしまいますが、そのときに百間堀を飛び越えて、殿様の命を救ったのがこの名馬 山桜号でした。そのときには、馬の背中に殿様を乗せ、あぶみに家来が二人、尻尾のところに一人ぶら下がって命からがら逃げたという話です。実際、百間の堀を飛び越えたと言う話がありますが、これは180mもあり不可能です。どうも百間掘りという名前のお堀だったようです。

後にこの名馬が飛騨に帰ってきたときに病気になり、ほろぼした松倉のたたりだということで、松倉山にあった馬頭観音を修復したら、この病気が治った。それが飛騨の絵馬市の始まりでした。時代的には、江戸時代のお話です。
この馬、なくなってから神様としてお祀りされたのが、本町にある山桜神社で、山桜号の名前からこの神社の名前となりました。また、ご神体が、この馬のしゃれこうべをお祀りしてあることから、一般には馬頭様と呼ばれるようになりました。このご神体である馬のしゃれこうべには角がついているそうです。

角のある馬で、天から舞い降りたということは、西洋のペガサス=ユニコーンの伝説とつながるところがありますね。
日本にもそういうユニコーン伝説があったということですから、たいへん不思議なお話です。
このほかにも、飛騨には御厩野、夏厩、六厩、牧ヶ野という馬にちなんだ地名がありますが、どこも馬の産地だったといういわれがあります。さて、そういう名馬が出た飛騨地方でしたから、それまで使っていた斐太高校のひだの字を、「飛ぶ馬」と書いてひだの当て字にしたという伝説があったというおはなしでした。

ちょっと難しかったでしょうか。さて、今日はこの辺で終わりましょう。最後に曲をお届けします。
曲は、馬にちなみまして、「ソルティシュガー で 走れコータロー」をお届けします。 ではまた来週!
  
Posted by rekisy at 23:32Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容