2007年12月31日
融雪道路はありがたいです!
2007年12月31日
今年もお世話になりました
今年もお世話になりありがとうございました。

昨日、銭湯で知り合いの人と話していましたら、なんとラジオのリスナーさんでした。
「楽しみにしているから、がんばってな」といわれ、大変うれしかったです。
その銭湯とは、こちらです。↓↓
http://takanoyu.hida-ch.com/e34015.html
今年は、銭湯三昧で、いろいろな銭湯や温泉に行きました。
来年も皆さんが、いい年でありますように!
徳積善太
昨日、銭湯で知り合いの人と話していましたら、なんとラジオのリスナーさんでした。
「楽しみにしているから、がんばってな」といわれ、大変うれしかったです。
その銭湯とは、こちらです。↓↓
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今年は、銭湯三昧で、いろいろな銭湯や温泉に行きました。
来年も皆さんが、いい年でありますように!
徳積善太
2007年12月24日
12月24日放送分 「飛騨のぶり街道」
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、今年もあと残すところ1週間となりました。皆さんにとって、今年一年はどんな年だったでしょうか。
みなさんお一人お一人が、今年一年やってきたこと。それぞれが、人生であり、歴史です。後の世に伝わるようなことは、歴史の一ページとして記録されます。歴史ってそういう一人ひとりの積み重ねなんですね。
さて、私もこの番組を始めるようになって、今年はたいへん勉強をさせていただきました。今までも地元のことをいろいろと調べていましたが、今年ほど広範囲に、また詳しく調べたことがありませんでしたので、この番組をもたせていただいたことが、とても勉強になりました。これからも、この番組をすすめていきたいと思いますので、番組に対する御要望や感想をぜひ、お寄せください。またひだっちブログにも掲載しておりますので、そちらのほうへもアクセスください。皆さんの疑問などは、番組の中でも取り上げていきたいと思います。
さて、先週は、古川についてのお話をしました。今週は、第4週ということで、いつもは匠のお話をする週ですが、時期が年末ですので、年末の年取りのことについてお話しましょう。
飛騨地方では、昔から年末には、年取りという行事が行われています。これは、一年間無事に無病息災で過ごせたことを感謝し、また、家族や従業員の幸せを祈って、みんなで御馳走を食べたり酒を飲んだりする行事ですが、昔は数え年で年をとっていっていたので、いうならば、みんなの誕生日みたいだったのかなという感じです。
この風習は、飛騨地方独特のものですが、いつごろから始まったのか、定かではありません。
岐阜県の場所によっても違いますが、この年取りのときに食べるものがありました。それが飛騨鰤とまめ、くり、柿、がやです。ではまず、ひだ鰤のお話からいたしましょう。

毎年暮の12月になると、朝日地方では「飛騨鰤街道まつり」というのが行われます。今年も12月の9日に朝日町の道の駅でおまつりが行われました。飛騨ぶりというのは、御存知の方も多いと思いますが、越中の富山で取れたぶりを塩漬けにして、高山まで運んできます。仲買の人がそれを買って、今度は朝日を抜けて信州の木曽福島に出て、塩尻や松本に運ばれた塩ぶりのことを言います。最近では、ぶり街道というキャンペーンのお陰で、有名になりました。
さて、この塩ぶりですが、最近では冷凍技術が進歩したので、細切れにしたものを焼いてすぐに食べることが出来ますが、浜塩にしたものでも結構今では塩辛いものだったと思います。飛騨鰤は、信州では富山から海を運んだ糸魚川鰤と比較して運送の日数が短く、塩甘だったため、塩辛い糸魚川鰤より人気があったということです。
その塩ぶりのルートですが、越中から飛騨に入るためには、2つのルートがありました。一つは越中東街道、そしてもう一つは、越中西街道と呼ばれていました。この2つの街道は、富山から神通川の右岸と左岸を通るルートです。東街道は、富山から加賀藩の東猪谷関所を通り、今の国道41号線の対岸を神通川沿いに通って神岡に出て、そのあと、山田から上宝の荒原に山越えし、大坂峠から安国寺門前を通り、荒木川の対岸の今から今峠を越えて、国府の広瀬の三川よりにあった追分というところで西街道と合流しました。こちらには神岡の土から吉が原という雪崩の難所を通りました。
一方の西街道は、富山から神通川の西側を通り、富山藩の西猪谷関所を抜けて、宮川沿いに現在の国道360号線を抜けるルートを通りました。ただし、こちらは、交通の難所で、3箇所の難所がありました。
途中、蟹寺でかごの渡しで対岸に渡り、割石あたりを通る中街道という山腹を行く非常に細い道もあったようです。この蟹寺の難所は安藤広重をして日本一の難所と言わしめた所でした。険しい谷のところに下には宮川の激流が流れているといった場所でした。
西街道のかごの渡しは数箇所あって、冬は大雪に見舞われる場所だったようです。かごの渡しというのは、2つの谷を大縄で作った縄をはり、量岸から籠を引っ張り合って一人ひとりかごに載せて渡しました。
江戸時代の後期には、有名な国学者 田中大秀がこのあたりの景色が大好きで、たびたび訪れ、歌を読んでいたり、一刀彫の始祖とされる有名な彫刻師 松田亮長は、このかごの渡しを彫刻にしています。この彫刻は、日下部民芸館や飛騨センターの常設展示館に展示してありますが、かごに乗った人がその恐怖のあまり、いまでも泣き出しそうな顔で描かれています。そしていくつもの難所を越えて、やっと開けた所にでてくるのが、古川町の野口あたりです。そのあと古川、国府を通って三川の落合で東街道に合流します。ここまでお話して、高価なぶりがどちらを通ったかというと東街道の方が安全だったのではと思います。
その後、合流した2つの街道は上野平方面へ抜けて、現在の上水道センターのあたりから松本町に抜け、宮川を横断し、南進。七日町手前の不動橋のあたりでまた宮川を渡り、大新町から二之町に入ったルートを通って、前の図書館の所にあった魚問屋へ運ばれたようです。
さて、この辺でちょっとブレイクしましょう。 今日は、クリスマスということで、松田聖子の天使のウインク
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日の飛騨歴史再発見は、年取りの行事と飛騨鰤街道のことについてお話しています。
高山の魚問屋は、江戸時代には川上家が一手に仕切っていました。川上家は、二之町の町年寄をつとめたりした豪商でした。別荘のあった堀端町のところが、現在は公園として整備されています。
その魚問屋で、仲買人が買った鰤を、今度は美女峠・野麦街道を通って、今度は牛の背に乗せて遠く信州まで運んでいった。その名残から、朝日町で「ぶり街道まつり」が行われている所以なんですね。
さて、ここまでは、ぶりの話をしてきましたが、先ほど、年取りには、鰤以外にまめ、栗、かき、榧を食べた風習があるといいました。この意味は、地域によって違いますが、「まめで、くりくり、がやがやと」とか、「まめでくりくり、かきとる」などと言いながら、健康を祈って食べたそうです。地方によって違うと申し上げましたが、私の調べた所では、美濃、特に郡上から南のほうでは、柿の産地なので、「かきとる」という言葉が使われるそうですし、下呂と加子母の所にある舞台峠のあたりから東濃地方にかけては、「がやがやと」という言葉を使って、カヤのみが食べられたそうです。この言葉の南限と北限がどのあたりなのかははっきりしませんが、これは、榧の実がどこでとれるかにもよります。
実は、私の本業でこのカヤのみを使った商品を作っていますが、うちの商品は、明治時代の中ごろに私の曾々祖父と曾祖父が開発したもので、当時、行商で魚を商っていた関係上、下呂~加子母~付知~中津川にかけて商売をし、帰りに中津川でお菓子を仕入れてきて販売していました。そのときに、あの地方に榧の木が多いことをみつけて、中津川の老舗の菓子屋さんにその製法を伝授しました。そのため、現在でもかやあられという商品が向こうでは売られています。

なぜ、そこにこんなに榧の木が多いか、不思議になって調べましたら、あの一帯はもともと苗木藩で、苗木藩は1万石という小さな外様大名だったために、飢饉のときに榧の木を植えさせたということがわかりました。確かに榧の木は飛騨に入ると禅宗のお寺や庄屋さんの家に植えてあることが多く、尋ねてみると飢饉の時にはそれを非常食としたそうです。
余談ですが、飛騨には、昔から農家に言い伝えがあって、「榧のなりどしは世の中悪い」という諺があります。私も仕事で、カヤのみを扱っていますが、2年前にものすごく取れて、処分に困りました。その年には、台風23号の被害があった翌年で、政情も不安定でしたが、確かに大成する年には世の中が悪いです。バブルがはじけた年も多かったことを記憶しています。でも、ご安心ください、今年は大変少なかったです。
また、ああ野麦峠のお話で、野麦峠を越えた女工さんたちが、巾着に入れて持って行ったのが、この榧の実といり豆だったそうです。これは、最近古川の案内人の方にお聞きしました。
さて、この「まめ」「かき」「くり」「かや」ですが、どれも大変滋養分の多いもので、体にいいものです。まめはたんぱく質が豊富で、栗は滋養分にすぐれています。また、かきは、利尿作用があることから、特に干し柿などは、二日酔いによいとされています。そういう体にいいものを年取りの晩に食す。これは、一年の無病息災を感謝すると同時に、また来年への健康のお祈りとして、行われたのではないでしょうか。
さて、今年の放送は、今日で終わりです。今年一年、皆様には大変お世話になり、ありがとうございました。また来年もこの番組を続けていきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いします。皆様には、今日のお話のように、来年も無病息災であることをお祈りいたします。
それでは最後に曲をお届けします。曲は、来年も皆様が元気で過ごせますようにのお祈りをこめて「槇原則之の どんなときも!」をお届けします。 ではまた1月7日の放送でお会いしましょう!よいお年をお迎えください!
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、今年もあと残すところ1週間となりました。皆さんにとって、今年一年はどんな年だったでしょうか。
みなさんお一人お一人が、今年一年やってきたこと。それぞれが、人生であり、歴史です。後の世に伝わるようなことは、歴史の一ページとして記録されます。歴史ってそういう一人ひとりの積み重ねなんですね。
さて、私もこの番組を始めるようになって、今年はたいへん勉強をさせていただきました。今までも地元のことをいろいろと調べていましたが、今年ほど広範囲に、また詳しく調べたことがありませんでしたので、この番組をもたせていただいたことが、とても勉強になりました。これからも、この番組をすすめていきたいと思いますので、番組に対する御要望や感想をぜひ、お寄せください。またひだっちブログにも掲載しておりますので、そちらのほうへもアクセスください。皆さんの疑問などは、番組の中でも取り上げていきたいと思います。
さて、先週は、古川についてのお話をしました。今週は、第4週ということで、いつもは匠のお話をする週ですが、時期が年末ですので、年末の年取りのことについてお話しましょう。
飛騨地方では、昔から年末には、年取りという行事が行われています。これは、一年間無事に無病息災で過ごせたことを感謝し、また、家族や従業員の幸せを祈って、みんなで御馳走を食べたり酒を飲んだりする行事ですが、昔は数え年で年をとっていっていたので、いうならば、みんなの誕生日みたいだったのかなという感じです。
この風習は、飛騨地方独特のものですが、いつごろから始まったのか、定かではありません。
岐阜県の場所によっても違いますが、この年取りのときに食べるものがありました。それが飛騨鰤とまめ、くり、柿、がやです。ではまず、ひだ鰤のお話からいたしましょう。

毎年暮の12月になると、朝日地方では「飛騨鰤街道まつり」というのが行われます。今年も12月の9日に朝日町の道の駅でおまつりが行われました。飛騨ぶりというのは、御存知の方も多いと思いますが、越中の富山で取れたぶりを塩漬けにして、高山まで運んできます。仲買の人がそれを買って、今度は朝日を抜けて信州の木曽福島に出て、塩尻や松本に運ばれた塩ぶりのことを言います。最近では、ぶり街道というキャンペーンのお陰で、有名になりました。
さて、この塩ぶりですが、最近では冷凍技術が進歩したので、細切れにしたものを焼いてすぐに食べることが出来ますが、浜塩にしたものでも結構今では塩辛いものだったと思います。飛騨鰤は、信州では富山から海を運んだ糸魚川鰤と比較して運送の日数が短く、塩甘だったため、塩辛い糸魚川鰤より人気があったということです。
その塩ぶりのルートですが、越中から飛騨に入るためには、2つのルートがありました。一つは越中東街道、そしてもう一つは、越中西街道と呼ばれていました。この2つの街道は、富山から神通川の右岸と左岸を通るルートです。東街道は、富山から加賀藩の東猪谷関所を通り、今の国道41号線の対岸を神通川沿いに通って神岡に出て、そのあと、山田から上宝の荒原に山越えし、大坂峠から安国寺門前を通り、荒木川の対岸の今から今峠を越えて、国府の広瀬の三川よりにあった追分というところで西街道と合流しました。こちらには神岡の土から吉が原という雪崩の難所を通りました。
一方の西街道は、富山から神通川の西側を通り、富山藩の西猪谷関所を抜けて、宮川沿いに現在の国道360号線を抜けるルートを通りました。ただし、こちらは、交通の難所で、3箇所の難所がありました。
途中、蟹寺でかごの渡しで対岸に渡り、割石あたりを通る中街道という山腹を行く非常に細い道もあったようです。この蟹寺の難所は安藤広重をして日本一の難所と言わしめた所でした。険しい谷のところに下には宮川の激流が流れているといった場所でした。
西街道のかごの渡しは数箇所あって、冬は大雪に見舞われる場所だったようです。かごの渡しというのは、2つの谷を大縄で作った縄をはり、量岸から籠を引っ張り合って一人ひとりかごに載せて渡しました。
江戸時代の後期には、有名な国学者 田中大秀がこのあたりの景色が大好きで、たびたび訪れ、歌を読んでいたり、一刀彫の始祖とされる有名な彫刻師 松田亮長は、このかごの渡しを彫刻にしています。この彫刻は、日下部民芸館や飛騨センターの常設展示館に展示してありますが、かごに乗った人がその恐怖のあまり、いまでも泣き出しそうな顔で描かれています。そしていくつもの難所を越えて、やっと開けた所にでてくるのが、古川町の野口あたりです。そのあと古川、国府を通って三川の落合で東街道に合流します。ここまでお話して、高価なぶりがどちらを通ったかというと東街道の方が安全だったのではと思います。
その後、合流した2つの街道は上野平方面へ抜けて、現在の上水道センターのあたりから松本町に抜け、宮川を横断し、南進。七日町手前の不動橋のあたりでまた宮川を渡り、大新町から二之町に入ったルートを通って、前の図書館の所にあった魚問屋へ運ばれたようです。
さて、この辺でちょっとブレイクしましょう。 今日は、クリスマスということで、松田聖子の天使のウインク
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今日の飛騨歴史再発見は、年取りの行事と飛騨鰤街道のことについてお話しています。
高山の魚問屋は、江戸時代には川上家が一手に仕切っていました。川上家は、二之町の町年寄をつとめたりした豪商でした。別荘のあった堀端町のところが、現在は公園として整備されています。
その魚問屋で、仲買人が買った鰤を、今度は美女峠・野麦街道を通って、今度は牛の背に乗せて遠く信州まで運んでいった。その名残から、朝日町で「ぶり街道まつり」が行われている所以なんですね。
さて、ここまでは、ぶりの話をしてきましたが、先ほど、年取りには、鰤以外にまめ、栗、かき、榧を食べた風習があるといいました。この意味は、地域によって違いますが、「まめで、くりくり、がやがやと」とか、「まめでくりくり、かきとる」などと言いながら、健康を祈って食べたそうです。地方によって違うと申し上げましたが、私の調べた所では、美濃、特に郡上から南のほうでは、柿の産地なので、「かきとる」という言葉が使われるそうですし、下呂と加子母の所にある舞台峠のあたりから東濃地方にかけては、「がやがやと」という言葉を使って、カヤのみが食べられたそうです。この言葉の南限と北限がどのあたりなのかははっきりしませんが、これは、榧の実がどこでとれるかにもよります。
実は、私の本業でこのカヤのみを使った商品を作っていますが、うちの商品は、明治時代の中ごろに私の曾々祖父と曾祖父が開発したもので、当時、行商で魚を商っていた関係上、下呂~加子母~付知~中津川にかけて商売をし、帰りに中津川でお菓子を仕入れてきて販売していました。そのときに、あの地方に榧の木が多いことをみつけて、中津川の老舗の菓子屋さんにその製法を伝授しました。そのため、現在でもかやあられという商品が向こうでは売られています。
なぜ、そこにこんなに榧の木が多いか、不思議になって調べましたら、あの一帯はもともと苗木藩で、苗木藩は1万石という小さな外様大名だったために、飢饉のときに榧の木を植えさせたということがわかりました。確かに榧の木は飛騨に入ると禅宗のお寺や庄屋さんの家に植えてあることが多く、尋ねてみると飢饉の時にはそれを非常食としたそうです。
余談ですが、飛騨には、昔から農家に言い伝えがあって、「榧のなりどしは世の中悪い」という諺があります。私も仕事で、カヤのみを扱っていますが、2年前にものすごく取れて、処分に困りました。その年には、台風23号の被害があった翌年で、政情も不安定でしたが、確かに大成する年には世の中が悪いです。バブルがはじけた年も多かったことを記憶しています。でも、ご安心ください、今年は大変少なかったです。
また、ああ野麦峠のお話で、野麦峠を越えた女工さんたちが、巾着に入れて持って行ったのが、この榧の実といり豆だったそうです。これは、最近古川の案内人の方にお聞きしました。
さて、この「まめ」「かき」「くり」「かや」ですが、どれも大変滋養分の多いもので、体にいいものです。まめはたんぱく質が豊富で、栗は滋養分にすぐれています。また、かきは、利尿作用があることから、特に干し柿などは、二日酔いによいとされています。そういう体にいいものを年取りの晩に食す。これは、一年の無病息災を感謝すると同時に、また来年への健康のお祈りとして、行われたのではないでしょうか。
さて、今年の放送は、今日で終わりです。今年一年、皆様には大変お世話になり、ありがとうございました。また来年もこの番組を続けていきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いします。皆様には、今日のお話のように、来年も無病息災であることをお祈りいたします。
それでは最後に曲をお届けします。曲は、来年も皆様が元気で過ごせますようにのお祈りをこめて「槇原則之の どんなときも!」をお届けします。 ではまた1月7日の放送でお会いしましょう!よいお年をお迎えください!
2007年12月17日
12月17日放送分 『古川姉小路について』
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月半が過ぎました。今年もあと2週間となりましたね。皆様にとっては、今年一年はどんな年だったでしょうか。
私もこの番組を始めるようになって、今年はたいへん勉強をさせていただきました。今までも地元のことをいろいろと調べていましたが、今年ほど広範囲に、また詳しく調べたことがありませんでしたので、とても勉強になりました。自分も勉強だと思って、この番組をすすめていきたいと思いますので、番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。
お尋ねいただいた内容は、少しお時間をいただいて、知り合いの専門家の方にお尋ねするなり、自分が持っている資料でお調べするなりして、また番組の中でお答えしていきたいと思います。
さて、先週は、飛騨の名前の由来についてのお話をしました。今週は、第三週ということで、古川のことについてお話しましょう。
10月と11月に、飛騨古川ふるさと案内人会で、研修会がありました。地元の歴史家 稲葉六郎先生の御案内で、古川の名勝や寺院について、御案内をいただきました。そのときに教えていただいた内容を一部交えてお話したいと思います。
さて、古川の町ですが、白鳳時代や奈良時代は今の古川町のあたりではなくて、もう少し北の太江、杉崎地区が結構栄えていたそうです。近年、杉崎廃寺の発掘調査が行われて、田んぼだったところから数々の礎石が発見され、このお寺が金堂や塔を備えた立派なものであったことがわかりました。
そのあたりには、今はなき古い寺がほかにもあったらしくて、寺があるということはそこに民衆が営みをしていたということがわかってきています。
また、高山に国府が置かれる前の国府があった場所について、先日行われました第3回ふるさと案内人会 見学ツアーで、稲葉先生は、「現在の上町のところに、国府があったらしい」とおっしゃっていました。現在、栗原神社という神社が古川町の上町にありますが、国府があったと思われる場所が、現在の栗原神社前から大日に掛けての一帯が、いまの上町公民館のあたりではということでした。
このあたりは、昔から久中(くなか)と呼ばれていて、もともと、国中の呼び方が長年の言葉の使い方で変化したものといわれているそうです。つまり、昔は国の役所である国衙(こくが)が設置されていた場所で、飛騨の中心地でした。上町廃寺がこのあたりに確認されているそうです。稲葉先生がおっしゃるには「この辺には栗林があって、毎年栗を朝廷に献上していた。島官といってお旅所だったところに神社を移転した。上町廃寺というところは三菱スタンドより上にあった。役所はどこにあったのかわかりません。飛鳥時代の終わり頃、遅くとも奈良時代の中ごろには高山に国分寺ができて移動しただろう。」ということでした。
奈良時代には、国の政治を行った国府は、国分寺・国分尼寺建設と共に、高山に国府が置かれたそうです。
鎌倉時代には、各地に守護の下に地頭である御家人がいて、いざ鎌倉というときには、鎌倉街道を通って、鎌倉にはせさんずることができるように鎌倉街道が整備されました。今でも、高山には、鎌倉街道のあとが一部残っています。そののち、室町時代の初めころには、この地頭が開墾などをして納める地域を拡大していくわけですが、全国的に見て、どうも、守護のいたところを避けるようにして、地頭が拡大化していったようです。
鎌倉時代や室町時代のことは、残念ながら飛騨に明確な資料が残っていないので、よく分っていませんが、私が確認したことをお話しますと、鎌倉時代には、京都の山科家の知行する地域が、石浦・江名小・岡本の保とあと松橋という場所が記録に残っているそうですが、その場所はよくわかりません。おそらく宮と高山の境目の所に松橋という橋があるので、あのあたりではないかと思われます。
さて、この辺でちょっとブレイクしましょう。 曲は、クリスマス前ということで、辛島美登利でサイレントイブ
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今日の飛騨歴史再発見は、室町時代以前の古川町のことについてお話しています。
さて、そのころ国府地方には、雅楽をやっていた多好方という人が知行していた土地があったそうです。
この人は、建久二年(1191)11月21日に、鎌倉に鶴岡八幡宮が遷宮されたときに、都から招かれて源頼朝の前で奏楽を献上しました。その秘曲に感じ入った頼朝は、家臣大江久家を京都に遣わして好方から神楽を伝習させます。その後、建久4年11月4日に、好方の息子 好節を再度招いて、鶴岡八幡宮で奏楽させたときに、何かいいことがあったのか、褒美として知行地を与えます。それが国府の荒城郷だったそうです。
好方は、正治元年(1199)11月8日に地頭職を子の好節に譲り、将軍源頼家にたのんで、荒城郷を守護不入の地にしてもらいました。それ以後、この国府の地は、安土桃山時代頃まで、長い間、多家の知行であったと考えられます。ただし、多家の人が飛騨に住んでいたのではなくて、京都にいて秘曲を伝授するなどしていたそうです。
話はかわりますが、祭りの歴史を調べているときに、この多家の人が、飛騨楽というものを伝授し、それが現在あちこちでみられる闘鶏楽の原型ではというお話があります。真実はよく分っていませんが、飛騨のあちこちにみられる闘鶏楽は、どうもこのころに始まっているというお話があるようです。
鎌倉時代に多家があったころの守護は、藤原憲俊であったそうですが、このころの国府がどこにあったかは、定かでありません。
その後、室町時代になって、姉小路氏が国司に任命され、守護を京極氏が勤めることになりました。京極氏は、家来の多賀氏を今の高山あたりに。三木氏を今の下呂の竹原あたりに配置したそうです。古川地域は、姉小路氏が治め、北飛騨の神岡あたりは、高原郷と呼ばれて江馬氏が治める地域となっていました。多賀氏が本拠地を今の城山=天神山に城を築いて構えたと伝えられていることから、その地名が多賀山となり高山になったという伝説があります。ただし、これはあくまでいわれであって、本当かどうかはわかりません。
さて、国司の姉小路氏は、その頃どのあたりに国府を置いていたか謎のままですが、古川の蛤城にいて飛騨を知行していたことがわかっています。国司の任務は、当時は神官も兼ねていたそうですが、国司が訪問する神社を一の宮、二ノ宮、三ノ宮といいました。一の宮は現在も知名になってますね。そのどれもを訪問するのが大変なので、姉小路氏は、阿多由太神社など延喜式に載っている5つの神社を城の南側に勧請し、五社神社と名付け、お参りをしていたそうです。
蛤城は、現在の古川バイパスのところにトヨタカローラさんがありますが、そこから宮川をはさんだ対岸の山の上にあったようです。蛤城という名前は、そこに蛤石があったことから、のちの金森時代になって呼ばれた名前ですが、当時は、古川城といわれました。そこの真下には、城下町が広がっていて、古い寺も4つほどあったようです。現在の古川バイパス沿いにある田中木工所近辺にその城下町があり、城に近いほうから一番町、二番町、三番町と呼ばれていたそうです。城と城下町は七堆端(ななついばし)という橋で結ばれ、その遺構は明治時代まであったそうです。この城下町は、のちに金森可重が古川の町を築くにあたって取り壊され、ほとんどが現在の古川町に城下を移転されました。
この姉小路も、尹綱(これつな)の時代に、3つに分裂します。応永18年に飛騨の乱がおこり、尹綱はこの戦闘で殉死しますが、このあと、小鷹利城(向小島城)の牛丸氏、杉崎にいた小嶋氏。そして国府町の広瀬にいた広瀬氏の3つに分裂します。それぞれが、姉小路の流れの人たちとして古川地区を知行して行きます。

小島城跡(古川町杉崎)
室町時代の中期以降には、飛騨は、北から高原郷の江馬氏、古川に牛丸氏、小嶋氏、広瀬氏。高山に多賀氏、益田地域に三木氏と細かく分断されてそれぞれの知行が行われていました。その後、益田地域の三木氏がどんどん勢力を伸ばして、最終的には飛騨を統一します。このお話は、またの機会にお話したいと思います。
ちょっと難しかったでしょうか。さて、今日はこの辺で終わりましょう。最後に曲をお届けします。
曲は、クリスマスということで、「松任谷由美の 恋人がサンタクロース」でお別れします。 ではまた来週!
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月半が過ぎました。今年もあと2週間となりましたね。皆様にとっては、今年一年はどんな年だったでしょうか。
私もこの番組を始めるようになって、今年はたいへん勉強をさせていただきました。今までも地元のことをいろいろと調べていましたが、今年ほど広範囲に、また詳しく調べたことがありませんでしたので、とても勉強になりました。自分も勉強だと思って、この番組をすすめていきたいと思いますので、番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。
お尋ねいただいた内容は、少しお時間をいただいて、知り合いの専門家の方にお尋ねするなり、自分が持っている資料でお調べするなりして、また番組の中でお答えしていきたいと思います。
さて、先週は、飛騨の名前の由来についてのお話をしました。今週は、第三週ということで、古川のことについてお話しましょう。
10月と11月に、飛騨古川ふるさと案内人会で、研修会がありました。地元の歴史家 稲葉六郎先生の御案内で、古川の名勝や寺院について、御案内をいただきました。そのときに教えていただいた内容を一部交えてお話したいと思います。
さて、古川の町ですが、白鳳時代や奈良時代は今の古川町のあたりではなくて、もう少し北の太江、杉崎地区が結構栄えていたそうです。近年、杉崎廃寺の発掘調査が行われて、田んぼだったところから数々の礎石が発見され、このお寺が金堂や塔を備えた立派なものであったことがわかりました。

そのあたりには、今はなき古い寺がほかにもあったらしくて、寺があるということはそこに民衆が営みをしていたということがわかってきています。
また、高山に国府が置かれる前の国府があった場所について、先日行われました第3回ふるさと案内人会 見学ツアーで、稲葉先生は、「現在の上町のところに、国府があったらしい」とおっしゃっていました。現在、栗原神社という神社が古川町の上町にありますが、国府があったと思われる場所が、現在の栗原神社前から大日に掛けての一帯が、いまの上町公民館のあたりではということでした。
このあたりは、昔から久中(くなか)と呼ばれていて、もともと、国中の呼び方が長年の言葉の使い方で変化したものといわれているそうです。つまり、昔は国の役所である国衙(こくが)が設置されていた場所で、飛騨の中心地でした。上町廃寺がこのあたりに確認されているそうです。稲葉先生がおっしゃるには「この辺には栗林があって、毎年栗を朝廷に献上していた。島官といってお旅所だったところに神社を移転した。上町廃寺というところは三菱スタンドより上にあった。役所はどこにあったのかわかりません。飛鳥時代の終わり頃、遅くとも奈良時代の中ごろには高山に国分寺ができて移動しただろう。」ということでした。
奈良時代には、国の政治を行った国府は、国分寺・国分尼寺建設と共に、高山に国府が置かれたそうです。
鎌倉時代には、各地に守護の下に地頭である御家人がいて、いざ鎌倉というときには、鎌倉街道を通って、鎌倉にはせさんずることができるように鎌倉街道が整備されました。今でも、高山には、鎌倉街道のあとが一部残っています。そののち、室町時代の初めころには、この地頭が開墾などをして納める地域を拡大していくわけですが、全国的に見て、どうも、守護のいたところを避けるようにして、地頭が拡大化していったようです。
鎌倉時代や室町時代のことは、残念ながら飛騨に明確な資料が残っていないので、よく分っていませんが、私が確認したことをお話しますと、鎌倉時代には、京都の山科家の知行する地域が、石浦・江名小・岡本の保とあと松橋という場所が記録に残っているそうですが、その場所はよくわかりません。おそらく宮と高山の境目の所に松橋という橋があるので、あのあたりではないかと思われます。
さて、この辺でちょっとブレイクしましょう。 曲は、クリスマス前ということで、辛島美登利でサイレントイブ
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日の飛騨歴史再発見は、室町時代以前の古川町のことについてお話しています。
さて、そのころ国府地方には、雅楽をやっていた多好方という人が知行していた土地があったそうです。
この人は、建久二年(1191)11月21日に、鎌倉に鶴岡八幡宮が遷宮されたときに、都から招かれて源頼朝の前で奏楽を献上しました。その秘曲に感じ入った頼朝は、家臣大江久家を京都に遣わして好方から神楽を伝習させます。その後、建久4年11月4日に、好方の息子 好節を再度招いて、鶴岡八幡宮で奏楽させたときに、何かいいことがあったのか、褒美として知行地を与えます。それが国府の荒城郷だったそうです。
好方は、正治元年(1199)11月8日に地頭職を子の好節に譲り、将軍源頼家にたのんで、荒城郷を守護不入の地にしてもらいました。それ以後、この国府の地は、安土桃山時代頃まで、長い間、多家の知行であったと考えられます。ただし、多家の人が飛騨に住んでいたのではなくて、京都にいて秘曲を伝授するなどしていたそうです。
話はかわりますが、祭りの歴史を調べているときに、この多家の人が、飛騨楽というものを伝授し、それが現在あちこちでみられる闘鶏楽の原型ではというお話があります。真実はよく分っていませんが、飛騨のあちこちにみられる闘鶏楽は、どうもこのころに始まっているというお話があるようです。
鎌倉時代に多家があったころの守護は、藤原憲俊であったそうですが、このころの国府がどこにあったかは、定かでありません。
その後、室町時代になって、姉小路氏が国司に任命され、守護を京極氏が勤めることになりました。京極氏は、家来の多賀氏を今の高山あたりに。三木氏を今の下呂の竹原あたりに配置したそうです。古川地域は、姉小路氏が治め、北飛騨の神岡あたりは、高原郷と呼ばれて江馬氏が治める地域となっていました。多賀氏が本拠地を今の城山=天神山に城を築いて構えたと伝えられていることから、その地名が多賀山となり高山になったという伝説があります。ただし、これはあくまでいわれであって、本当かどうかはわかりません。
さて、国司の姉小路氏は、その頃どのあたりに国府を置いていたか謎のままですが、古川の蛤城にいて飛騨を知行していたことがわかっています。国司の任務は、当時は神官も兼ねていたそうですが、国司が訪問する神社を一の宮、二ノ宮、三ノ宮といいました。一の宮は現在も知名になってますね。そのどれもを訪問するのが大変なので、姉小路氏は、阿多由太神社など延喜式に載っている5つの神社を城の南側に勧請し、五社神社と名付け、お参りをしていたそうです。
蛤城は、現在の古川バイパスのところにトヨタカローラさんがありますが、そこから宮川をはさんだ対岸の山の上にあったようです。蛤城という名前は、そこに蛤石があったことから、のちの金森時代になって呼ばれた名前ですが、当時は、古川城といわれました。そこの真下には、城下町が広がっていて、古い寺も4つほどあったようです。現在の古川バイパス沿いにある田中木工所近辺にその城下町があり、城に近いほうから一番町、二番町、三番町と呼ばれていたそうです。城と城下町は七堆端(ななついばし)という橋で結ばれ、その遺構は明治時代まであったそうです。この城下町は、のちに金森可重が古川の町を築くにあたって取り壊され、ほとんどが現在の古川町に城下を移転されました。
この姉小路も、尹綱(これつな)の時代に、3つに分裂します。応永18年に飛騨の乱がおこり、尹綱はこの戦闘で殉死しますが、このあと、小鷹利城(向小島城)の牛丸氏、杉崎にいた小嶋氏。そして国府町の広瀬にいた広瀬氏の3つに分裂します。それぞれが、姉小路の流れの人たちとして古川地区を知行して行きます。

小島城跡(古川町杉崎)
室町時代の中期以降には、飛騨は、北から高原郷の江馬氏、古川に牛丸氏、小嶋氏、広瀬氏。高山に多賀氏、益田地域に三木氏と細かく分断されてそれぞれの知行が行われていました。その後、益田地域の三木氏がどんどん勢力を伸ばして、最終的には飛騨を統一します。このお話は、またの機会にお話したいと思います。
ちょっと難しかったでしょうか。さて、今日はこの辺で終わりましょう。最後に曲をお届けします。
曲は、クリスマスということで、「松任谷由美の 恋人がサンタクロース」でお別れします。 ではまた来週!
2007年12月17日
12月10日放送分 飛騨の名前について
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月が過ぎました。11月には、10月までにお届けした内容を振り返ってきましたが、いかがでしたでしょうか?ちょっと難しかったでしょうか。
番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。知り合いの方に専門家がたくさんいらっしゃいますので、お尋ねするなり、お調べするなりして、まとめてお答えしたいと思います。また、ひだっちブログにも掲載していますので、バックナンバーなどご覧ください。
さて、先週は、金森長近の幼年期のお話をしました。今週は、ひだの地名についてお話しましょう。
この、ひだという地名ですが、昔から国名=国の名として使われていました。
語源は、山のひだひだが多いからそうなったとか、いわれていますね。しかし、使われていた漢字はいろいろな当て字が使われています。
桐谷先生のお話によると、日本の一番古い歴史書物の日本書紀に書いてある文字があります。そのころはたいへん難しい漢字が使われていました。 非=あらずという字の下に樹木の木を書いて「ひ」。そして、こざとへんにうかんむりを書いて下にカタカナのひと書いた字を「だ」と読ませていたそうです。私も元のものを見たことがありません。活字になったものは見ましたが、日本書紀に最初にでてきているものは、こういう風に書いてあるそうです。
これは、字典で調べてみますと、この「棐」ろいうのは、弓が曲がった弓という意味でした。
大昔から石器時代からあった、狩をする道具として使われていました。つるをつけて矢を放す。それが弓ですね。その矢の先に鏃をつけて、猟をした。その弓が、自然のものが、那須与一のようなときの昔話にでてくるようなものでなくて、火であぶってまっすぐにしたような、弓の曲がりをまっすぐにするというのが棐の元の意味です。
また陀の文字は山崩れの意味です。 飛騨では山崩れしそうなところを江戸時代から蛇抜けといいます。50m巾で大蛇が駆けて落ちる、そういう類似の言葉ですが、崩落して落ちてしまう。生えた木も一緒に土石流とながれてしまう。やっとこの前、雪で雪崩が起きて人も木も流されたというのがありましたが、自然の驚異ですが、あまりうれしくない、危険な自然災害を表す字なんです。日本書紀は最初から活字ではありませんので、書くときにこういう寺を当て字にしたんですね。今でも大漢和辞典にしかこういう字はありません。
次に万葉集に使われている字には、斐太高校で有名な「ひだ」の文字です。こちらには、「あやとか、すぐれた」とかいう意味があります。また、太いという文字にも「すぐれた」という意味があります。京都に映画村で有名な場所=太秦(うずまさ)というところがありますが、ここも太いという寺を使います。これも、優れた場所という意味なんだそうです。そこの広隆寺には国宝第1号となった思惟菩薩があります。修学旅行で初めて見たときには、何か惹かれるようなとても素晴らしい仏様でした。
秀でた素晴らしい土地のことを「まほろば」といいますが、飛騨の国は「まほろば」だったのではというのが、桐谷先生の語られる歴史ロマンです。飛騨のことをいつしか「飛騨の国は下下の国」というひとがありますが、先生も私も、飛騨の国はまほろば=上上の上の国だ。そう胸を張っていいたいですね。
同じ、ひだでも、寺によって意味がずいぶん違いますね。
さて、最近使われているのは、この「まほろば」の斐太高校のひだの字ですが、一般的にひだというと飛ぶ馬と書きます。後半部分では、この辺のお話をしていきましょう。
ちょっと、ここでブレイク。今日はクリスマスも近いので、KANの「クリスマスソング」をお送りします。
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さて、今日は、飛騨の名前の由来についてお話しています。
飛騨が飛ぶ馬と書くようになったのは、「飛騨」になったのは奈良時代、全国に地名は好ましい名前(好字)にしなさい、という命令が出て改められました。三野、御野だったものが美濃とか。
八野先生の説によると、「大宝2年(702)に、胴体が黒色で、額に一角があり、たてがみ尾が白色の神馬が飛騨から朝廷に献上された。この時に大赦が行われ多くの罪人が許され、国人に3年の貢租が免ぜられた時である」と言われています。万葉集には、
「ぬばたまの ひだの 大黒みるごとに こせのおくろし おもほゆるかも」
「こまつくる はじのしひまろ しろなれば うべほしからむ その黒色を」
という歌がよまれているそうです。 この歌からもわかるように、飛騨地方は、昔からいい馬の産地でした。隣の県では、木曾駒といって、足の太い、しかし体つきのがっしりした馬が有名で、たくさんの馬が生まれました。昭和の初め頃まで、高山の南東、高根村には、この木曾駒で大もうけした方があって、馬屋敷と呼ばれる建物がつい最近まであったそうです。残念ながら取り壊されてしまいましたが、高値村史などを見ますと、相当素晴らしい建物だったようです。
今の競走馬で名馬と呼ばれるものは、いわゆるサラブレットのような体型で、足はすらりとして、瞬発力があって、かけると早いのが名馬のようです。しかし、そういう現代のスマートな馬は、西洋から移入されたものです。日本の古来からの馬は、そんなにスタイルのいいものではなくて、どちらかというと足が太くて、丈夫で、瞬発力もあって、持久力のある、いわゆる実戦的な馬が名馬であったようです。毛並みも黒毛、白毛、鹿毛と様々で、とびきり毛並みのいいのが名馬だったようです。
話がそれましたが、飛騨に伝わる馬の話はいろいろありますので、ちょっと代表的なものを紹介してみましょう。
まず、奈良時代。飛騨の「騨」の字は連銭葦毛の馬を表しているそうで、名馬の代名詞みたいになってますね。北飛騨では「さくんま」と言って、馬を冬場太らせ、夏場富山や砺波平野の穀倉地帯に貸出するということが行われていました。
平安時代には、源平合戦に宇治川の合戦がありましたが、平治物語に、この合戦で有名な先陣争いをした話が出てきます。寿永3年。1184年の物語です。「やあやあわれこそは」と名乗りを上げて、先陣を切ったものは、勇者の誉れ、武士の誉れとされて、数々の戦では、戦功をあげると勇者として称えられ、たくさんの恩賞をもらえました。当然、命を懸けて生きて帰らないとこの名誉に預かることはできませんでした。
そのときに先陣争いをしたのが、佐々木高綱と梶原景季で、乗っていたのが「いけずき」と「するすみ」という名馬でした。佐々木高綱は、頼朝に与えられた名馬「池月」にまたがって梶原景季と先陣を争い、初めは遅れをとりますが、景季に馬の腹帯が緩んでいるので締め直す様に薦めて行わせ、その間に先陣を切るというお話です。この「池月」は、高山の丹生川村の産で、「する墨」は郡上の旧明宝村の産でした。明宝村では、せせらぎ街道のところに道の駅を作って、するすみの里という公園ができていますね。
また、江戸時代になって、丹生川村の字 池の俣というところに神馬が降下し、国が栄える兆しだとして、国主金森頼直公に献上されました。あるとき、参勤交代で頼直公が江戸に行っていると、八百や町が燃えた「振袖火事」がおきます。江戸の芝辺りにあった金森の屋敷も燃えてしまいますが、そのときに百間堀を飛び越えて、殿様の命を救ったのがこの名馬 山桜号でした。そのときには、馬の背中に殿様を乗せ、あぶみに家来が二人、尻尾のところに一人ぶら下がって命からがら逃げたという話です。実際、百間の堀を飛び越えたと言う話がありますが、これは180mもあり不可能です。どうも百間掘りという名前のお堀だったようです。
後にこの名馬が飛騨に帰ってきたときに病気になり、ほろぼした松倉のたたりだということで、松倉山にあった馬頭観音を修復したら、この病気が治った。それが飛騨の絵馬市の始まりでした。時代的には、江戸時代のお話です。
この馬、なくなってから神様としてお祀りされたのが、本町にある山桜神社で、山桜号の名前からこの神社の名前となりました。また、ご神体が、この馬のしゃれこうべをお祀りしてあることから、一般には馬頭様と呼ばれるようになりました。このご神体である馬のしゃれこうべには角がついているそうです。
角のある馬で、天から舞い降りたということは、西洋のペガサス=ユニコーンの伝説とつながるところがありますね。
日本にもそういうユニコーン伝説があったということですから、たいへん不思議なお話です。
このほかにも、飛騨には御厩野、夏厩、六厩、牧ヶ野という馬にちなんだ地名がありますが、どこも馬の産地だったといういわれがあります。さて、そういう名馬が出た飛騨地方でしたから、それまで使っていた斐太高校のひだの字を、「飛ぶ馬」と書いてひだの当て字にしたという伝説があったというおはなしでした。
ちょっと難しかったでしょうか。さて、今日はこの辺で終わりましょう。最後に曲をお届けします。
曲は、馬にちなみまして、「ソルティシュガー で 走れコータロー」をお届けします。 ではまた来週!
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月が過ぎました。11月には、10月までにお届けした内容を振り返ってきましたが、いかがでしたでしょうか?ちょっと難しかったでしょうか。
番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。知り合いの方に専門家がたくさんいらっしゃいますので、お尋ねするなり、お調べするなりして、まとめてお答えしたいと思います。また、ひだっちブログにも掲載していますので、バックナンバーなどご覧ください。
さて、先週は、金森長近の幼年期のお話をしました。今週は、ひだの地名についてお話しましょう。
この、ひだという地名ですが、昔から国名=国の名として使われていました。
語源は、山のひだひだが多いからそうなったとか、いわれていますね。しかし、使われていた漢字はいろいろな当て字が使われています。

桐谷先生のお話によると、日本の一番古い歴史書物の日本書紀に書いてある文字があります。そのころはたいへん難しい漢字が使われていました。 非=あらずという字の下に樹木の木を書いて「ひ」。そして、こざとへんにうかんむりを書いて下にカタカナのひと書いた字を「だ」と読ませていたそうです。私も元のものを見たことがありません。活字になったものは見ましたが、日本書紀に最初にでてきているものは、こういう風に書いてあるそうです。
これは、字典で調べてみますと、この「棐」ろいうのは、弓が曲がった弓という意味でした。
大昔から石器時代からあった、狩をする道具として使われていました。つるをつけて矢を放す。それが弓ですね。その矢の先に鏃をつけて、猟をした。その弓が、自然のものが、那須与一のようなときの昔話にでてくるようなものでなくて、火であぶってまっすぐにしたような、弓の曲がりをまっすぐにするというのが棐の元の意味です。
また陀の文字は山崩れの意味です。 飛騨では山崩れしそうなところを江戸時代から蛇抜けといいます。50m巾で大蛇が駆けて落ちる、そういう類似の言葉ですが、崩落して落ちてしまう。生えた木も一緒に土石流とながれてしまう。やっとこの前、雪で雪崩が起きて人も木も流されたというのがありましたが、自然の驚異ですが、あまりうれしくない、危険な自然災害を表す字なんです。日本書紀は最初から活字ではありませんので、書くときにこういう寺を当て字にしたんですね。今でも大漢和辞典にしかこういう字はありません。
次に万葉集に使われている字には、斐太高校で有名な「ひだ」の文字です。こちらには、「あやとか、すぐれた」とかいう意味があります。また、太いという文字にも「すぐれた」という意味があります。京都に映画村で有名な場所=太秦(うずまさ)というところがありますが、ここも太いという寺を使います。これも、優れた場所という意味なんだそうです。そこの広隆寺には国宝第1号となった思惟菩薩があります。修学旅行で初めて見たときには、何か惹かれるようなとても素晴らしい仏様でした。
秀でた素晴らしい土地のことを「まほろば」といいますが、飛騨の国は「まほろば」だったのではというのが、桐谷先生の語られる歴史ロマンです。飛騨のことをいつしか「飛騨の国は下下の国」というひとがありますが、先生も私も、飛騨の国はまほろば=上上の上の国だ。そう胸を張っていいたいですね。
同じ、ひだでも、寺によって意味がずいぶん違いますね。
さて、最近使われているのは、この「まほろば」の斐太高校のひだの字ですが、一般的にひだというと飛ぶ馬と書きます。後半部分では、この辺のお話をしていきましょう。
ちょっと、ここでブレイク。今日はクリスマスも近いので、KANの「クリスマスソング」をお送りします。
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さて、今日は、飛騨の名前の由来についてお話しています。
飛騨が飛ぶ馬と書くようになったのは、「飛騨」になったのは奈良時代、全国に地名は好ましい名前(好字)にしなさい、という命令が出て改められました。三野、御野だったものが美濃とか。
八野先生の説によると、「大宝2年(702)に、胴体が黒色で、額に一角があり、たてがみ尾が白色の神馬が飛騨から朝廷に献上された。この時に大赦が行われ多くの罪人が許され、国人に3年の貢租が免ぜられた時である」と言われています。万葉集には、
「ぬばたまの ひだの 大黒みるごとに こせのおくろし おもほゆるかも」
「こまつくる はじのしひまろ しろなれば うべほしからむ その黒色を」
という歌がよまれているそうです。 この歌からもわかるように、飛騨地方は、昔からいい馬の産地でした。隣の県では、木曾駒といって、足の太い、しかし体つきのがっしりした馬が有名で、たくさんの馬が生まれました。昭和の初め頃まで、高山の南東、高根村には、この木曾駒で大もうけした方があって、馬屋敷と呼ばれる建物がつい最近まであったそうです。残念ながら取り壊されてしまいましたが、高値村史などを見ますと、相当素晴らしい建物だったようです。
今の競走馬で名馬と呼ばれるものは、いわゆるサラブレットのような体型で、足はすらりとして、瞬発力があって、かけると早いのが名馬のようです。しかし、そういう現代のスマートな馬は、西洋から移入されたものです。日本の古来からの馬は、そんなにスタイルのいいものではなくて、どちらかというと足が太くて、丈夫で、瞬発力もあって、持久力のある、いわゆる実戦的な馬が名馬であったようです。毛並みも黒毛、白毛、鹿毛と様々で、とびきり毛並みのいいのが名馬だったようです。
話がそれましたが、飛騨に伝わる馬の話はいろいろありますので、ちょっと代表的なものを紹介してみましょう。
まず、奈良時代。飛騨の「騨」の字は連銭葦毛の馬を表しているそうで、名馬の代名詞みたいになってますね。北飛騨では「さくんま」と言って、馬を冬場太らせ、夏場富山や砺波平野の穀倉地帯に貸出するということが行われていました。
平安時代には、源平合戦に宇治川の合戦がありましたが、平治物語に、この合戦で有名な先陣争いをした話が出てきます。寿永3年。1184年の物語です。「やあやあわれこそは」と名乗りを上げて、先陣を切ったものは、勇者の誉れ、武士の誉れとされて、数々の戦では、戦功をあげると勇者として称えられ、たくさんの恩賞をもらえました。当然、命を懸けて生きて帰らないとこの名誉に預かることはできませんでした。
そのときに先陣争いをしたのが、佐々木高綱と梶原景季で、乗っていたのが「いけずき」と「するすみ」という名馬でした。佐々木高綱は、頼朝に与えられた名馬「池月」にまたがって梶原景季と先陣を争い、初めは遅れをとりますが、景季に馬の腹帯が緩んでいるので締め直す様に薦めて行わせ、その間に先陣を切るというお話です。この「池月」は、高山の丹生川村の産で、「する墨」は郡上の旧明宝村の産でした。明宝村では、せせらぎ街道のところに道の駅を作って、するすみの里という公園ができていますね。
また、江戸時代になって、丹生川村の字 池の俣というところに神馬が降下し、国が栄える兆しだとして、国主金森頼直公に献上されました。あるとき、参勤交代で頼直公が江戸に行っていると、八百や町が燃えた「振袖火事」がおきます。江戸の芝辺りにあった金森の屋敷も燃えてしまいますが、そのときに百間堀を飛び越えて、殿様の命を救ったのがこの名馬 山桜号でした。そのときには、馬の背中に殿様を乗せ、あぶみに家来が二人、尻尾のところに一人ぶら下がって命からがら逃げたという話です。実際、百間の堀を飛び越えたと言う話がありますが、これは180mもあり不可能です。どうも百間掘りという名前のお堀だったようです。
後にこの名馬が飛騨に帰ってきたときに病気になり、ほろぼした松倉のたたりだということで、松倉山にあった馬頭観音を修復したら、この病気が治った。それが飛騨の絵馬市の始まりでした。時代的には、江戸時代のお話です。
この馬、なくなってから神様としてお祀りされたのが、本町にある山桜神社で、山桜号の名前からこの神社の名前となりました。また、ご神体が、この馬のしゃれこうべをお祀りしてあることから、一般には馬頭様と呼ばれるようになりました。このご神体である馬のしゃれこうべには角がついているそうです。
角のある馬で、天から舞い降りたということは、西洋のペガサス=ユニコーンの伝説とつながるところがありますね。
日本にもそういうユニコーン伝説があったということですから、たいへん不思議なお話です。
このほかにも、飛騨には御厩野、夏厩、六厩、牧ヶ野という馬にちなんだ地名がありますが、どこも馬の産地だったといういわれがあります。さて、そういう名馬が出た飛騨地方でしたから、それまで使っていた斐太高校のひだの字を、「飛ぶ馬」と書いてひだの当て字にしたという伝説があったというおはなしでした。
ちょっと難しかったでしょうか。さて、今日はこの辺で終わりましょう。最後に曲をお届けします。
曲は、馬にちなみまして、「ソルティシュガー で 走れコータロー」をお届けします。 ではまた来週!
2007年12月06日
塩屋秋貞について
丹生川の今の丹生川中のところに、尾崎城というお城がありました。
そこの城主は、塩屋秋貞といい、一説によると永禄7年に武田が攻めてきたときに、
城を追われ、古川の蛤城にこもります。
そこも追われて、越中に逃げ延び、大沢野の猿倉城主になったと伝えられています。
その後、上杉方につきますが、富山の一向一揆をかばうために、上杉より追われて、
最後は、宮川村で命を落とした武将です。
この説には、いろいろ異説があり、塩屋の名から、商人だったと言う説や、上杉に
ついていたのではなくて、三木の武将として、上杉との交信役として仕えていたとか、
はっきりしていません。
いま、調べている事は、富山の郷土史家の先生の論文です。
いろいろと面白い事がかかれています。また整理してご報告いたします。
徳積善太
2007年12月05日
白真弓の特別展示
白真弓肥太右衛門ってご存知ですか?
幕末に活躍した、飛騨白川郷出身の力士です。

最近では、古川町の蒲酒造さんのお酒がこの名前で有名ですね。
彼の特別展示が、現在、一之宮町 位山文化交流館(一之宮支所横)にて開催中です。
皆さんもご覧ください。
ところで、彼の伝説は、下記のようになっています。
「飛騨の伝説4 白真弓
「瀧は白水お寺は御坊、お角力取なら白真弓」大家族、白水瀧、を思い出す白川は、白真弓の出生地である。木谷村の大家族の一員として生まれ名を奥右衛門といった。村一番の力持ちで、牛に荷物をつけて越中へ出て行く時など、細い山道で向こうから荷物をつけた牛の来るのに出会うと牛の腹の下へ自分の両肩をつき込んで、荷をつけたままの牛をかつぎ上げて道の端によけて向こうから来た牛を通してやるのであった。一人前の若者になってから高山へ来て、二之の大阪町屋七左衛門(今の森彦兵衛氏の家)の下男になり、薪一間背負ったり、色々の怪力を出して人々を驚かした。その頃郡代小野朝右衛門が上野ケ原で陣立をすることになって旗手を募った。大きな幟を持って兵士達と進退を共にするには大力がいる。ところがこの撰にあづかって出たのが奥右衛門であった。大男―六尺八寸―の奥右衛門が大幟を持って軍隊の先頭に立って進退する有様は誠に見事であった。
この時から奥右衛門の怪力がぱっと町内の評判になった。その後世話する人があって江戸に出て相撲取 浦風林右衛門の弟子となって、名を白真弓肥太右衛門と改め、間もなく幕内力士に加えられ前頭となった。白真弓が最も得意としたのは突きであったが、大力の彼は往々相手を害したので突きの手は一切禁じられていた。それで力のある割合に敵を負かすことは少なかったということである。ところが或時幕府からの命で、外国人と相撲をとって力くらべをすることになったが、突きの手を封ぜられている彼はぐんぐん攻めたてられ危うく負けそうになった。この時、審判の係りをしていた武士が「白真弓、突きの手許す」と呼ぶと、急に猛虎のようにたけり立ち、見事に相手をつき倒したという。安政元年二月アメリカのぺルリが軍艦を率いて浦賀に来り開国を迫った時、アメリカから各種の珍しい品を献上した。そこで幕府は返礼の品を贈った。その内の一品に、米があった。日本人の大力を示してやれと相撲取に運ばせた。白真弓も東の大関 小柳常吉等とその選に入った。そこで白真弓は、背に四俵、胸に二俵、両手に一俵づつ、合せて八俵を持ち、アメリカの軍艦へ運んで行ったので流石のアメリカ人もびっくり仰天したということである。
驚くのも尤も、その頃の一俵は五斗入りで目方は約二十貫程あったのである。
アメリカ人が白真弓の大力に感心のあまりそのわけを尋ねると、笑って「日本人はおいしい米の御飯を食べ、米からとったおいしい酒を飲むからだ」と答えたということである。」
(飛騨の伝説 昭和9年発行 より抜粋)
徳積善太
幕末に活躍した、飛騨白川郷出身の力士です。

最近では、古川町の蒲酒造さんのお酒がこの名前で有名ですね。
彼の特別展示が、現在、一之宮町 位山文化交流館(一之宮支所横)にて開催中です。
皆さんもご覧ください。
ところで、彼の伝説は、下記のようになっています。
「飛騨の伝説4 白真弓
「瀧は白水お寺は御坊、お角力取なら白真弓」大家族、白水瀧、を思い出す白川は、白真弓の出生地である。木谷村の大家族の一員として生まれ名を奥右衛門といった。村一番の力持ちで、牛に荷物をつけて越中へ出て行く時など、細い山道で向こうから荷物をつけた牛の来るのに出会うと牛の腹の下へ自分の両肩をつき込んで、荷をつけたままの牛をかつぎ上げて道の端によけて向こうから来た牛を通してやるのであった。一人前の若者になってから高山へ来て、二之の大阪町屋七左衛門(今の森彦兵衛氏の家)の下男になり、薪一間背負ったり、色々の怪力を出して人々を驚かした。その頃郡代小野朝右衛門が上野ケ原で陣立をすることになって旗手を募った。大きな幟を持って兵士達と進退を共にするには大力がいる。ところがこの撰にあづかって出たのが奥右衛門であった。大男―六尺八寸―の奥右衛門が大幟を持って軍隊の先頭に立って進退する有様は誠に見事であった。
この時から奥右衛門の怪力がぱっと町内の評判になった。その後世話する人があって江戸に出て相撲取 浦風林右衛門の弟子となって、名を白真弓肥太右衛門と改め、間もなく幕内力士に加えられ前頭となった。白真弓が最も得意としたのは突きであったが、大力の彼は往々相手を害したので突きの手は一切禁じられていた。それで力のある割合に敵を負かすことは少なかったということである。ところが或時幕府からの命で、外国人と相撲をとって力くらべをすることになったが、突きの手を封ぜられている彼はぐんぐん攻めたてられ危うく負けそうになった。この時、審判の係りをしていた武士が「白真弓、突きの手許す」と呼ぶと、急に猛虎のようにたけり立ち、見事に相手をつき倒したという。安政元年二月アメリカのぺルリが軍艦を率いて浦賀に来り開国を迫った時、アメリカから各種の珍しい品を献上した。そこで幕府は返礼の品を贈った。その内の一品に、米があった。日本人の大力を示してやれと相撲取に運ばせた。白真弓も東の大関 小柳常吉等とその選に入った。そこで白真弓は、背に四俵、胸に二俵、両手に一俵づつ、合せて八俵を持ち、アメリカの軍艦へ運んで行ったので流石のアメリカ人もびっくり仰天したということである。
驚くのも尤も、その頃の一俵は五斗入りで目方は約二十貫程あったのである。
アメリカ人が白真弓の大力に感心のあまりそのわけを尋ねると、笑って「日本人はおいしい米の御飯を食べ、米からとったおいしい酒を飲むからだ」と答えたということである。」
(飛騨の伝説 昭和9年発行 より抜粋)
徳積善太
2007年12月04日
常蓮寺の聖徳太子像
2007年12月03日
12月3日放送分
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月が過ぎました。11月には、10月までにお届けした内容を振り返ってきましたが、いかがでしたでしょうか?ちょっと難しかったでしょうか。
番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。知り合いの方に専門家がたくさんいらっしゃいますので、お尋ねするなり、お調べするなりして、まとめてお答えしたいと思います。また、ひだっちブログにも掲載していますので、バックナンバーなどご覧ください。
さて、今月からですが、原稿を作る関係上、テーマを絞りたいと思います。4週ありますので、週ごとに分けたいと思います。第1週・第2週は、飛騨のまちづくりについて。金森長近から6代に渡る治世のお話や、その後の天領時代についてのお話など、まちに関するお話や、治世、歳時記に関するお話をしたいと思います。
第3週は、今までどおり、旧吉城郡である飛騨市を中心とした区域。古川町や神岡町。そして、国府町のお話をしたいと思います。
第4週は、飛騨の匠について。屋台のお話や社寺仏閣、歴史を作った大工さんのお話などをしていきたいと思います。5週ある月は、ゲストをお呼びするなどして、いろんなお話を伺っていきたいと思います。
さて、今日の放送ですが、先ほど申し上げましたように、飛騨のまちづくり についてお話します。
今日の高山を初めとして、飛騨の町の基礎を作ったのは、金森長近 という武将です。今年から来年にかけて、金森長近公没後400年ということで、高山市内でも数々のイベントが行われていますね。
いままで、この放送では、城下町としての高山のまちづくりがどのようになされてきたか、お話してまいりましたが、さて、この長近という武将。どういう人だったか、今日はその辺について、いろいろな書物のお話をかいつまんでお話しましょう。
もともと、長近のお爺さんは、土岐氏の出であったといわれています。お父さんは、住んでいたところが土岐の大畑というところであったことから大畑の姓を名乗っていました。長近は、今の岐阜県土岐市のあたりで、大永4年に生まれたといわれていますが、お母さんがどのような人だったのか、詳細についてはよくわかっていません。これにはいろんな説がありますが、彼の後の活動から、お母さんは山仕事をする人たちの流れを汲む人の娘だったとかいう説もあります。
彼は、幼少のときに、滋賀県の金が森というところに移り、そこで育ちます。ここには、金森御坊という浄土真宗のお寺があって、環濠集落という、お堀にめぐらされた土地でした。当時、戦国大名の多くが、禅宗を信仰するのに、彼は、浄土真宗と子供の頃から関わりを持ちます。

幼少時、彼は五郎八・あり近という名前ですごします。幼年時代のことはよくわかっていませんが、この金ケ森というところには、高山という小山があることが知られています。また、この地の出身ということで、金森という姓を名乗ったといわれています。土岐から大畑、金森へと名を変えたというのはどういう理由があったのでしょうか。
苗木資料館の先生によれば、土岐氏の一族は、地名にちなんで姓を変えることが多かったということです。
元服して、天文10年に、尾張の織田信勝に父と共に仕えた可近は、織田信長の小姓となります。当時、あり近は18歳。信長は8歳という年齢でしたから、どちらかというとお兄さん的存在だったことでしょう。
信長のいろんな書物には、幼名の五郎八という名前でよく出てきます。年は少し上なのですが、うつけと呼ばれた信長には、大変従順なよく間に合う家来だったことでしょう。
この信長に、それまでのしきたりや風習を教えたのは、長近だったといわれています。しかし、信長は「うつけ」と呼ばれていた。つまり、そういうしきたりや風習が大嫌いな改革者だったんです。
後に、桶狭間の戦いで、今川義元の首を奇襲作戦で破り、信長の名は天下に知れ渡りますが、従来の戦法では、打開しない。数の上でも10倍以上の敵を負かすわけですから、それはそれは、奇抜なアイデアと戦略でたくみに切り抜けた人だった。人とは違うやり方をしたことが、「うつけ」と呼ばれた所以でしょうから、小姓としての五郎八は、大変苦労したことと思われます。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は 稲垣潤一で「クリスマスキャロルの頃には」をお届けします。
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さて、今日は、戦国武将 金森長近についてお話しています。
先ほどの続きですが、五郎八は、この桶狭間の戦功の5年前に、信長の長の字を一字もらい、長近と名前を改め、桶狭間の戦いを契機にこの名前を使います。そういう点では、信長からかなり信頼されていたことが伺えます。
死ぬまでに、彼はのべ5人の武将に仕えます。織田信勝、織田信長、柴田勝家、豊臣秀吉、徳川家康。この5人に仕える間に、彼は、処世術を身に着けていきます。この5人が主君であり師であったということです。中でも茶の湯を利用したことや、状況を見ながらどちらについてもいいように用意周到に従ったからこそ、無名ではありますが、大名としての地位を長く確立できたものと思います。
作家の堂門冬二先生がおっしゃるには、信長の天下布武の目的は、日本人の土地に対する執着心、つまり土地を最大の財産と考える価値観を壊したかったことだそうです。一生懸命ということばがありますが、本当は一所懸命が正しい言葉です。つまり=ひとつところに命をかける という思想があり、そのことから一坪でも所有地を増やしたい。それを奪うものから命がけで守るという考えがあったのですが、彼はそれが大嫌いだった。信長は天下布武という改革事業、この意識改革をすすめるために、茶の湯を利用したということです。
当時、信長は魚屋であった千利休と堺で出会いました。その町には36人の会合衆とよばれる人たちがいて、町が金で武士を雇い、堀をめぐらし、自衛をしていました。公平な負担も行い、自治を行っていた。信長はこのやり方に大変興味を持ったそうです。
その利休が信長を茶室にまねき、「町の中の山小屋です」と申して、亭主が先に入らせていただきますと、申して先に入った。信長にも頭を下げ、茶室に入るときに腰のものをとり、入るように進めました。中に入ると「あなたは今、名刺の肩書きがとれた。あなたはただの人間信長です。私はただの人間千利休です。こころをこめておつとめさせていただきます。終わったら結構なお手前でしたと一言申しください。」と言ってお茶を差し出しました。
この利休と信長から教わった茶の湯での「人間身分平等の精神」を長近が持つようになり、のちに金森宗和を茶道の祖として政治に生かすわけです。
現在、高山市郷土館で大阪冬の陣、夏の陣の陣配置図が展示されていますが、よく見ると豊臣方、徳川方の両方に金森の名前が見られます。これより以前の関が原の戦いでも同じことが行われました。金森長近が徳川方につけば、兄の兵左衛門は、豊臣方につき、世情がどちらに流れても金森家は絶えないように用意周到に仕組んでいたものと思われます。また、城下町経営についても、当時としては、攻められにくいように通りを迷路のようにするまちづくりが普通でした。
観光案内などには商人たちが行き来しやすいように、碁盤の目にしたとのべられていますが、じつはこれは間違いで、『高山の古地図』など見ていただければ南北が通り、東西は横丁になっているのが分かるかと思います。
横丁はあくまで横丁で、建物の正面ではなく、側面が向いています。二木酒造さんの南側を想像して下さい。三川屋さんが今の店を構えるとき、かなり議論になった事実があるそうです。場所によってはずれています。これらは学会では「縦町横筋型」と呼ばれていて(京都大学足利兼亮氏など)信長までの城下町にみられる特徴だそうです。秀吉の伏見城では「横町縦筋型」になっているとのことです。
越前大野
飛騨高山
さて、安定した城か町を経営するためには、平和であることが大前提ですが、越前大野の町も高山の町も外敵から守られた作りになっています。これも信長から学んだ処世術だったようですね。ちょっと難しかったでしょうか。
さて、今日はこの辺で。最後に曲をお届けします。
松田聖子のナンバーで「真冬の恋人たち」 また来週!
12月3日
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月が過ぎました。11月には、10月までにお届けした内容を振り返ってきましたが、いかがでしたでしょうか?ちょっと難しかったでしょうか。
番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。知り合いの方に専門家がたくさんいらっしゃいますので、お尋ねするなり、お調べするなりして、まとめてお答えしたいと思います。また、ひだっちブログにも掲載していますので、バックナンバーなどご覧ください。
さて、今月からですが、原稿を作る関係上、テーマを絞りたいと思います。4週ありますので、週ごとに分けたいと思います。第1週・第2週は、飛騨のまちづくりについて。金森長近から6代に渡る治世のお話や、その後の天領時代についてのお話など、まちに関するお話や、治世、歳時記に関するお話をしたいと思います。
第3週は、今までどおり、旧吉城郡である飛騨市を中心とした区域。古川町や神岡町。そして、国府町のお話をしたいと思います。
第4週は、飛騨の匠について。屋台のお話や社寺仏閣、歴史を作った大工さんのお話などをしていきたいと思います。5週ある月は、ゲストをお呼びするなどして、いろんなお話を伺っていきたいと思います。
さて、今日の放送ですが、先ほど申し上げましたように、飛騨のまちづくり についてお話します。
今日の高山を初めとして、飛騨の町の基礎を作ったのは、金森長近 という武将です。今年から来年にかけて、金森長近公没後400年ということで、高山市内でも数々のイベントが行われていますね。
いままで、この放送では、城下町としての高山のまちづくりがどのようになされてきたか、お話してまいりましたが、さて、この長近という武将。どういう人だったか、今日はその辺について、いろいろな書物のお話をかいつまんでお話しましょう。
もともと、長近のお爺さんは、土岐氏の出であったといわれています。お父さんは、住んでいたところが土岐の大畑というところであったことから大畑の姓を名乗っていました。長近は、今の岐阜県土岐市のあたりで、大永4年に生まれたといわれていますが、お母さんがどのような人だったのか、詳細についてはよくわかっていません。これにはいろんな説がありますが、彼の後の活動から、お母さんは山仕事をする人たちの流れを汲む人の娘だったとかいう説もあります。
彼は、幼少のときに、滋賀県の金が森というところに移り、そこで育ちます。ここには、金森御坊という浄土真宗のお寺があって、環濠集落という、お堀にめぐらされた土地でした。当時、戦国大名の多くが、禅宗を信仰するのに、彼は、浄土真宗と子供の頃から関わりを持ちます。

幼少時、彼は五郎八・あり近という名前ですごします。幼年時代のことはよくわかっていませんが、この金ケ森というところには、高山という小山があることが知られています。また、この地の出身ということで、金森という姓を名乗ったといわれています。土岐から大畑、金森へと名を変えたというのはどういう理由があったのでしょうか。
苗木資料館の先生によれば、土岐氏の一族は、地名にちなんで姓を変えることが多かったということです。
元服して、天文10年に、尾張の織田信勝に父と共に仕えた可近は、織田信長の小姓となります。当時、あり近は18歳。信長は8歳という年齢でしたから、どちらかというとお兄さん的存在だったことでしょう。
信長のいろんな書物には、幼名の五郎八という名前でよく出てきます。年は少し上なのですが、うつけと呼ばれた信長には、大変従順なよく間に合う家来だったことでしょう。
この信長に、それまでのしきたりや風習を教えたのは、長近だったといわれています。しかし、信長は「うつけ」と呼ばれていた。つまり、そういうしきたりや風習が大嫌いな改革者だったんです。
後に、桶狭間の戦いで、今川義元の首を奇襲作戦で破り、信長の名は天下に知れ渡りますが、従来の戦法では、打開しない。数の上でも10倍以上の敵を負かすわけですから、それはそれは、奇抜なアイデアと戦略でたくみに切り抜けた人だった。人とは違うやり方をしたことが、「うつけ」と呼ばれた所以でしょうから、小姓としての五郎八は、大変苦労したことと思われます。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は 稲垣潤一で「クリスマスキャロルの頃には」をお届けします。
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さて、今日は、戦国武将 金森長近についてお話しています。
先ほどの続きですが、五郎八は、この桶狭間の戦功の5年前に、信長の長の字を一字もらい、長近と名前を改め、桶狭間の戦いを契機にこの名前を使います。そういう点では、信長からかなり信頼されていたことが伺えます。
死ぬまでに、彼はのべ5人の武将に仕えます。織田信勝、織田信長、柴田勝家、豊臣秀吉、徳川家康。この5人に仕える間に、彼は、処世術を身に着けていきます。この5人が主君であり師であったということです。中でも茶の湯を利用したことや、状況を見ながらどちらについてもいいように用意周到に従ったからこそ、無名ではありますが、大名としての地位を長く確立できたものと思います。
作家の堂門冬二先生がおっしゃるには、信長の天下布武の目的は、日本人の土地に対する執着心、つまり土地を最大の財産と考える価値観を壊したかったことだそうです。一生懸命ということばがありますが、本当は一所懸命が正しい言葉です。つまり=ひとつところに命をかける という思想があり、そのことから一坪でも所有地を増やしたい。それを奪うものから命がけで守るという考えがあったのですが、彼はそれが大嫌いだった。信長は天下布武という改革事業、この意識改革をすすめるために、茶の湯を利用したということです。
当時、信長は魚屋であった千利休と堺で出会いました。その町には36人の会合衆とよばれる人たちがいて、町が金で武士を雇い、堀をめぐらし、自衛をしていました。公平な負担も行い、自治を行っていた。信長はこのやり方に大変興味を持ったそうです。
その利休が信長を茶室にまねき、「町の中の山小屋です」と申して、亭主が先に入らせていただきますと、申して先に入った。信長にも頭を下げ、茶室に入るときに腰のものをとり、入るように進めました。中に入ると「あなたは今、名刺の肩書きがとれた。あなたはただの人間信長です。私はただの人間千利休です。こころをこめておつとめさせていただきます。終わったら結構なお手前でしたと一言申しください。」と言ってお茶を差し出しました。
この利休と信長から教わった茶の湯での「人間身分平等の精神」を長近が持つようになり、のちに金森宗和を茶道の祖として政治に生かすわけです。
現在、高山市郷土館で大阪冬の陣、夏の陣の陣配置図が展示されていますが、よく見ると豊臣方、徳川方の両方に金森の名前が見られます。これより以前の関が原の戦いでも同じことが行われました。金森長近が徳川方につけば、兄の兵左衛門は、豊臣方につき、世情がどちらに流れても金森家は絶えないように用意周到に仕組んでいたものと思われます。また、城下町経営についても、当時としては、攻められにくいように通りを迷路のようにするまちづくりが普通でした。
観光案内などには商人たちが行き来しやすいように、碁盤の目にしたとのべられていますが、じつはこれは間違いで、『高山の古地図』など見ていただければ南北が通り、東西は横丁になっているのが分かるかと思います。
横丁はあくまで横丁で、建物の正面ではなく、側面が向いています。二木酒造さんの南側を想像して下さい。三川屋さんが今の店を構えるとき、かなり議論になった事実があるそうです。場所によってはずれています。これらは学会では「縦町横筋型」と呼ばれていて(京都大学足利兼亮氏など)信長までの城下町にみられる特徴だそうです。秀吉の伏見城では「横町縦筋型」になっているとのことです。
越前大野
飛騨高山さて、安定した城か町を経営するためには、平和であることが大前提ですが、越前大野の町も高山の町も外敵から守られた作りになっています。これも信長から学んだ処世術だったようですね。ちょっと難しかったでしょうか。
さて、今日はこの辺で。最後に曲をお届けします。
松田聖子のナンバーで「真冬の恋人たち」 また来週!
12月3日
2007年12月02日
第15回 飛騨史学研究大会
2007年12月02日
鶴を彫った場所(鞍作止利の伝説3)
2007年12月01日
鶴の墓(鞍作止利の伝説2)
平成19年7月21日から9月9日まで高山市の「飛騨世界生活文化センター」で行われた
「飛騨の匠展」にて、次のような展示を行いました。
福岡県の博多には、鞍作止利の乗った鶴の墓が存在し、福岡市史「大宰府市史」(200119GAKUさん、よりの情報)にその記述があります
以下は、福岡市史「大宰府市史」に実際にある記述です。

「鶴の墓(榎寺)
榎社の前、踏み切りのすぐ傍らに、楕円形の自然石が立っている。これを「鶴の墓」または「碑」といって、木で作った鶴が、空を飛んだ話が伝わっている。
昔、飛騨の匠が、木で大きな鶴を作った。すばらしい出来栄えで、匠はそれに乗って空を飛んでみたいと思った。匠がつるの背にまたがると、その鶴は、ゆっくりと羽ばたいて、青空高く見事に舞い上がった。鶴は匠を乗せて飛び続け、唐土(中国)まで行った。
やがて、日本へ帰る途中、唐土の人は怪しんで、匠と鶴に向かって遠矢を放った。鶴の片方の羽は矢が当って折れてしまった。匠は片羽になった鶴をあやつって、ようやく大宰府のあたりまで飛んで来たが、とうとう力尽きた鶴は榎社の近くに落ちた。匠は、鶴をいとおしんで、そこに手厚く埋葬し、故郷の飛騨に帰ったという。
この鶴の片羽が折れて落ちた海辺の津を「片羽の津」といい、やがて転訛して「羽片の津」となり「博多の津」となったといわれている。
他に、飛騨の匠ではなく、博多の大工の名人が木で鶴を作り、不時着した場所は、通古賀の「鶴の屋敷」、現在の小字鶴畑あたりだ、という話も土地に伝えられている。
(博多市史 第五編 文化伝承 第3章口頭伝承 P1034)
徳積善太
「飛騨の匠展」にて、次のような展示を行いました。
福岡県の博多には、鞍作止利の乗った鶴の墓が存在し、
以下は、
「鶴の墓(榎寺)
榎社の前、踏み切りのすぐ傍らに、楕円形の自然石が立っている。これを「鶴の墓」または「碑」といって、木で作った鶴が、空を飛んだ話が伝わっている。
昔、飛騨の匠が、木で大きな鶴を作った。すばらしい出来栄えで、匠はそれに乗って空を飛んでみたいと思った。匠がつるの背にまたがると、その鶴は、ゆっくりと羽ばたいて、青空高く見事に舞い上がった。鶴は匠を乗せて飛び続け、唐土(中国)まで行った。
やがて、日本へ帰る途中、唐土の人は怪しんで、匠と鶴に向かって遠矢を放った。鶴の片方の羽は矢が当って折れてしまった。匠は片羽になった鶴をあやつって、ようやく大宰府のあたりまで飛んで来たが、とうとう力尽きた鶴は榎社の近くに落ちた。匠は、鶴をいとおしんで、そこに手厚く埋葬し、故郷の飛騨に帰ったという。
この鶴の片羽が折れて落ちた海辺の津を「片羽の津」といい、やがて転訛して「羽片の津」となり「博多の津」となったといわれている。
他に、飛騨の匠ではなく、博多の大工の名人が木で鶴を作り、不時着した場所は、通古賀の「鶴の屋敷」、現在の小字鶴畑あたりだ、という話も土地に伝えられている。
(博多市史 第五編 文化伝承 第3章口頭伝承 P1034)
徳積善太










