2008年01月07日
1月7日放送分 「高山の火消し組」
みなさん、あけましておめでとうございます。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、今年も一週間が過ぎました。今年のお正月3が日はいかがお過ごしでしたか?
孫や息子さんたちが帰ってきて、さぞかしにぎやかなお正月だったのではないでしょうか?
今年も、がんばってこの番組を続けさせていただきたいと思います。どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。
さて、今日のお話ですが、いつもはまちづくりのお話をする週ですが、お正月ということで、出初式のお話をしましょう。

高山の火消し組の出初式が初めて行われたのは、いまから165年前の天保14年1月11日のことでした。時の豊田郡代は、陣屋前で火消し人側を集めてそれぞれの組の統率を競わせました。それは「駆け出し」と呼ばれていましたが、現在の出初式の行事の初めとなり、高山の年中行事の一つになりました。
今では、あまり知られていませんが、高山という町は、度重なる大火に包まれてきました。江戸時代より前の記録がないので、それ以前のことはわかりませんが、享保14年(1729)の高山大火975軒をはじめ、そのわずか5年後の天明4年(1734)には2340軒、寛政8年(1796)の三町南大火447軒、天保3年(1832)の西向町大火227軒、明治5年(1872)の向町大火721軒、極めつけは明治8年(1875)には、8月と11月に2度の高山大火で1032軒など、町中が焼けてしまう大火が7回。そして、50軒以上やけた大火事が大正時代までに4回もありました。
高山の人たちが今でも、消防自動車や救急車が行くと、「どこや、どこや」といってすぐに飛び出してくるのは、きっと火事に対する恐怖がDNAによって受け継がれているのかもしれませんね。
さて、どうしてこんなに大火が多かったかというと、町が隣り合わせでくっついている町並みだからという理由のほかに、昔の消防の方法にもよりました。昔は現在のように、水をかけて消火するということができませんから、基本的には、火をくいとめるという消火方法しかありませんでした。つまり、まだ燃えていない家を壊して火の拡大を止めたりするしか方法がなかったのです。燃えている火は、燃え尽きるにまかせていました。したがって、火の勢いはとどまる所を知らず、少しでも風が吹いていたりすると、火はどんどん大きくなり、また、舞い上がった火の粉は、遠くへ飛んでいって、家の板ぶきの屋根に燃え移って、またそこからどんどん広がるといった燃え方をしました。
そのため、江戸時代には、家を造作する大工さんたちが、壊し方を心得ているというので、火消し人足に借り出されました。今でもその名残が、屋台の衣装に見られます。たとえば、川原町の青龍台組の屋台を曳く装束は、この火消しの人たちが着る、分厚い木綿の半纏です。その町内には、笠原甚七長則や、明治時代には坂下甚吉などの有名な大工棟梁が住居していたことが有名です。また、その半纏の裏には、江戸の粋を示すように、昇り龍が描かれていたりして見事なものです。一度、機会がありましたら、見せていただくといいと思います。

また、飛んでくる火の粉から、お寺を守るために、各お寺には、かなり巨大なうちわが用意されていたところもあるそうです。火事になると檀家の人たちが、この巨大うちわを持って屋根に上がり、飛んでくる火の粉からお寺を守ったという勇敢な話も残っています。あの傾斜のきつい、お寺の屋根に上がって、それこそ命がけでうちわを振るわけですから、相当な勇気が要ったことと思います。
さて、火消し組みの話に戻しますが、天明3年までは、組織的な火消し組みがありませんでした。そこで、大原騒動で有名な大原亀五郎郡代は、木工・木挽き職153人に、御用鑑札を渡し、火事場出入りを許したのがもとで、火消し組みが作られていったということです。

その火消し組みに、町の人たちも協力します。文政13年(1830)頃には、火消し用具がどんどん整備されていき、火消し組みも東・西・南・北・水の五つの火消し組みが組織され、はん、ほら貝、かね、太鼓、拍子木などを使って集合離散の合図を行うようになっていきました。その合図の方法は、組によって分けられていました。
さて、この辺でちょっとブレイクしましょう。 今日は、おめでたいお正月ということで、ちょっと明るい曲をお届けしましょう。「EPOで うふふふ」
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今日の飛騨歴史再発見は、出初式と高山の火事のことについてお話しています。
文政の頃から15年後の弘化年間には、急激にその組織が増大します。火消し人足の数も1500人を超え、火消し組みもそれまでの5つが元となって、神明講、いろは組、秋葉港、馬頭組、西組、と組、和組、あずま講、愛宕講、白山講と10組の組織に改変されます。それぞれの組織が50人から大きなものでは120人前後の組織となり、統率する人も必要になってきました。

この頃の、消火方法は、先ほど申し上げたとおり、今のように水をかける消火ではなくて、破壊して食い止めるという消火方法でしたから、火の回りを察知して、火が燃え移る先々でリーダーが指図して建物を壊す。またあるいは、水かごでバケツリレーをして消火活動を行っていました。そのための組織的な消火方法が求められたことでしょう。
その後、消火方法も変化して、水鉄砲を大きくした程度の「龍ど水」といういわゆる消防ポンプの初期のものが町の有力者 江戸天野屋利兵衛という人によってもたらされます。彼は、50挺という消防ポンプを嘉永4年(1851)に寄贈しました。
この火消し組は、火災のほか、水害などの災害にも出動して治安維持に努めたようですが、皮肉にもその巨大化した組織が、明治になると梅村知事の追放活動に加担して、破壊活動に加わるようになったという悲惨な事件も巻き起こしました。
さて、出初式の行事ですが、なんと言っても、出初式の目玉といえば、はしご乗りです。はしごをまっすぐに立てたものを、下ではたくさんの火消し人足たちが、建物をこわすためのとびを持ってそのはしごを支え、上では、はしごに上った人が、アクロバット的な演技をする。時には、手を離したり、片足で真横に立つようなしぐさをする。どこの地域でもこういった演技がみられます。当の男たちは、自分の武勇・勇敢さを誇示するために、いろんな技を披露したりします。これが、いつごろからのものか、はっきりした記録はありませんが、江戸の粋をそのまま取り入れたもののような気がしますね。高山の出初式では、6・7年前に復活してこのはしご乗りもあったそうですが、号令によって会場内を走り回る「駆け込み」「巻き込み」というのが高山の特徴のようです。
一方で、町の人も、火に対する防火・防災活動に取り組んできました。まず、信仰は、静岡にある火の神社 秋葉社から正一位 秋葉大明神を勧請し、各町内の屋台組ごとにお祭りするようにしました。屋台組以外の地域では、神社の氏子か、町内などで管理しました。今でも、秋葉様は、旧高山市内に68社が確認されており、高山の信仰の一つとなっています。
また、享保8年(1723)に、三町用水を作りました。古い町並みに、家の前に必ず水路があって、生活用水としても使っていますが、初期消火になくてはならないものでした。
江戸時代後期になると、土蔵作りが盛んに行われるようになります。この左官技術を飛騨地方に持ち込んだのは、江戸の万蔵という人だったと言われていますが、彼の登場により、巨大な土蔵を作ることができるようになり、それまでばらばらに保管していた高山祭りの屋台を、ばらすことなしに保管できるようになりました。
三町界隈の人たちは、家の裏側に土蔵を作り、それが防火壁の役割をするようになりました。面白いものは、上一之町の日下部味噌さんの所ですが、大正3年に類焼した経験から、先代の方がレンガを使った防火壁を作りました。今でも遊ほう館の駐車場の所に、その遺構を見ることが出来ます。
また、古川でも、明治37年の大火のあと蔵作りが盛んに行われるようになりました。それが、現在の瀬戸川の白壁土蔵なんですね。土蔵のお話はまたの機会にしたいと思います。
さて、今日のお話はこのへんで。また今年もこの番組を続けていきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いします。
それでは最後に曲をお届けします。今日は、この曲でお別れです。「松任谷由美で Happy New Year」 ではまた来週。今年も「火の用心」でまいりましょう!
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、今年も一週間が過ぎました。今年のお正月3が日はいかがお過ごしでしたか?
孫や息子さんたちが帰ってきて、さぞかしにぎやかなお正月だったのではないでしょうか?
今年も、がんばってこの番組を続けさせていただきたいと思います。どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。
さて、今日のお話ですが、いつもはまちづくりのお話をする週ですが、お正月ということで、出初式のお話をしましょう。
高山の火消し組の出初式が初めて行われたのは、いまから165年前の天保14年1月11日のことでした。時の豊田郡代は、陣屋前で火消し人側を集めてそれぞれの組の統率を競わせました。それは「駆け出し」と呼ばれていましたが、現在の出初式の行事の初めとなり、高山の年中行事の一つになりました。
今では、あまり知られていませんが、高山という町は、度重なる大火に包まれてきました。江戸時代より前の記録がないので、それ以前のことはわかりませんが、享保14年(1729)の高山大火975軒をはじめ、そのわずか5年後の天明4年(1734)には2340軒、寛政8年(1796)の三町南大火447軒、天保3年(1832)の西向町大火227軒、明治5年(1872)の向町大火721軒、極めつけは明治8年(1875)には、8月と11月に2度の高山大火で1032軒など、町中が焼けてしまう大火が7回。そして、50軒以上やけた大火事が大正時代までに4回もありました。
高山の人たちが今でも、消防自動車や救急車が行くと、「どこや、どこや」といってすぐに飛び出してくるのは、きっと火事に対する恐怖がDNAによって受け継がれているのかもしれませんね。
さて、どうしてこんなに大火が多かったかというと、町が隣り合わせでくっついている町並みだからという理由のほかに、昔の消防の方法にもよりました。昔は現在のように、水をかけて消火するということができませんから、基本的には、火をくいとめるという消火方法しかありませんでした。つまり、まだ燃えていない家を壊して火の拡大を止めたりするしか方法がなかったのです。燃えている火は、燃え尽きるにまかせていました。したがって、火の勢いはとどまる所を知らず、少しでも風が吹いていたりすると、火はどんどん大きくなり、また、舞い上がった火の粉は、遠くへ飛んでいって、家の板ぶきの屋根に燃え移って、またそこからどんどん広がるといった燃え方をしました。
そのため、江戸時代には、家を造作する大工さんたちが、壊し方を心得ているというので、火消し人足に借り出されました。今でもその名残が、屋台の衣装に見られます。たとえば、川原町の青龍台組の屋台を曳く装束は、この火消しの人たちが着る、分厚い木綿の半纏です。その町内には、笠原甚七長則や、明治時代には坂下甚吉などの有名な大工棟梁が住居していたことが有名です。また、その半纏の裏には、江戸の粋を示すように、昇り龍が描かれていたりして見事なものです。一度、機会がありましたら、見せていただくといいと思います。
また、飛んでくる火の粉から、お寺を守るために、各お寺には、かなり巨大なうちわが用意されていたところもあるそうです。火事になると檀家の人たちが、この巨大うちわを持って屋根に上がり、飛んでくる火の粉からお寺を守ったという勇敢な話も残っています。あの傾斜のきつい、お寺の屋根に上がって、それこそ命がけでうちわを振るわけですから、相当な勇気が要ったことと思います。
さて、火消し組みの話に戻しますが、天明3年までは、組織的な火消し組みがありませんでした。そこで、大原騒動で有名な大原亀五郎郡代は、木工・木挽き職153人に、御用鑑札を渡し、火事場出入りを許したのがもとで、火消し組みが作られていったということです。
その火消し組みに、町の人たちも協力します。文政13年(1830)頃には、火消し用具がどんどん整備されていき、火消し組みも東・西・南・北・水の五つの火消し組みが組織され、はん、ほら貝、かね、太鼓、拍子木などを使って集合離散の合図を行うようになっていきました。その合図の方法は、組によって分けられていました。
さて、この辺でちょっとブレイクしましょう。 今日は、おめでたいお正月ということで、ちょっと明るい曲をお届けしましょう。「EPOで うふふふ」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日の飛騨歴史再発見は、出初式と高山の火事のことについてお話しています。
文政の頃から15年後の弘化年間には、急激にその組織が増大します。火消し人足の数も1500人を超え、火消し組みもそれまでの5つが元となって、神明講、いろは組、秋葉港、馬頭組、西組、と組、和組、あずま講、愛宕講、白山講と10組の組織に改変されます。それぞれの組織が50人から大きなものでは120人前後の組織となり、統率する人も必要になってきました。
この頃の、消火方法は、先ほど申し上げたとおり、今のように水をかける消火ではなくて、破壊して食い止めるという消火方法でしたから、火の回りを察知して、火が燃え移る先々でリーダーが指図して建物を壊す。またあるいは、水かごでバケツリレーをして消火活動を行っていました。そのための組織的な消火方法が求められたことでしょう。
その後、消火方法も変化して、水鉄砲を大きくした程度の「龍ど水」といういわゆる消防ポンプの初期のものが町の有力者 江戸天野屋利兵衛という人によってもたらされます。彼は、50挺という消防ポンプを嘉永4年(1851)に寄贈しました。
この火消し組は、火災のほか、水害などの災害にも出動して治安維持に努めたようですが、皮肉にもその巨大化した組織が、明治になると梅村知事の追放活動に加担して、破壊活動に加わるようになったという悲惨な事件も巻き起こしました。
さて、出初式の行事ですが、なんと言っても、出初式の目玉といえば、はしご乗りです。はしごをまっすぐに立てたものを、下ではたくさんの火消し人足たちが、建物をこわすためのとびを持ってそのはしごを支え、上では、はしごに上った人が、アクロバット的な演技をする。時には、手を離したり、片足で真横に立つようなしぐさをする。どこの地域でもこういった演技がみられます。当の男たちは、自分の武勇・勇敢さを誇示するために、いろんな技を披露したりします。これが、いつごろからのものか、はっきりした記録はありませんが、江戸の粋をそのまま取り入れたもののような気がしますね。高山の出初式では、6・7年前に復活してこのはしご乗りもあったそうですが、号令によって会場内を走り回る「駆け込み」「巻き込み」というのが高山の特徴のようです。
一方で、町の人も、火に対する防火・防災活動に取り組んできました。まず、信仰は、静岡にある火の神社 秋葉社から正一位 秋葉大明神を勧請し、各町内の屋台組ごとにお祭りするようにしました。屋台組以外の地域では、神社の氏子か、町内などで管理しました。今でも、秋葉様は、旧高山市内に68社が確認されており、高山の信仰の一つとなっています。
また、享保8年(1723)に、三町用水を作りました。古い町並みに、家の前に必ず水路があって、生活用水としても使っていますが、初期消火になくてはならないものでした。
江戸時代後期になると、土蔵作りが盛んに行われるようになります。この左官技術を飛騨地方に持ち込んだのは、江戸の万蔵という人だったと言われていますが、彼の登場により、巨大な土蔵を作ることができるようになり、それまでばらばらに保管していた高山祭りの屋台を、ばらすことなしに保管できるようになりました。
三町界隈の人たちは、家の裏側に土蔵を作り、それが防火壁の役割をするようになりました。面白いものは、上一之町の日下部味噌さんの所ですが、大正3年に類焼した経験から、先代の方がレンガを使った防火壁を作りました。今でも遊ほう館の駐車場の所に、その遺構を見ることが出来ます。
また、古川でも、明治37年の大火のあと蔵作りが盛んに行われるようになりました。それが、現在の瀬戸川の白壁土蔵なんですね。土蔵のお話はまたの機会にしたいと思います。
さて、今日のお話はこのへんで。また今年もこの番組を続けていきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いします。
それでは最後に曲をお届けします。今日は、この曲でお別れです。「松任谷由美で Happy New Year」 ではまた来週。今年も「火の用心」でまいりましょう!




