2008年01月14日
1月14日放送分 「三寺参り」
みなさん、あけましておめでとうございます。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、今年も早いものでもう今年に入って2週間が過ぎました?
お正月気分が終わっても、みなさん、今度は新年会で忙しい時期なのではないでしょうか?お酒を飲む機会が多いですが、くれぐれも飲酒運転だけはしないようにしてくださいね。
さあ、今年も、がんばってこの番組を続けさせていただきたいと思います。どうぞ、引き続き、よろしくお願いいたします。
さて、今日のお話ですが、いつもは金森のお話をする週ですが、今週、古川には「三寺参り」という行事がありますので、今日はそのことを中心にお話していきましょう。
古川の方は良く御存知ですが、この三寺というのは、本光寺・真宗寺・円光寺の3か寺におまいりすることで三寺参りといいます。親鸞聖人の御命日に、上人の遺徳を偲んでおまいりすることからこの行事が始まったということです。観光客には3寺参りとなっていますが、古川の人の中には、もう一つ、古川祭り会館の裏手にある お東の誓願寺も一緒におまいりするので「4寺まいりだ」という人もいます。
親鸞上人は、新暦の1月16日に90歳でお亡くなりになられましたが、前日の1月15日には毎年、各お寺で読経、お伝鈔の朗読、説教のお勤めがあります。
この三寺参りは、宝永2年(1705)に、真宗寺、本光寺の転派で、町内の真宗三か寺が皆お西になったことをこぞって喜び、これを機に親鸞上人のご命日のお寺参りは、自分のお手次ぎだけではなく、三か寺を分け隔てなくおまいりするようになったことが、起源と言われています。
もともと、円光寺は、お西のお寺。真宗寺、本光寺はお東のお寺でした。それぞれの開基についてお話しましょう。
まず、円光寺ですが、永正13年(1514)江馬の家臣であった岩佐喜太郎正直の6人の子供のうち、次男が開基し、正祐と号しました。この6人の子供は、くじをひき、一人が岩佐家を継ぎ、残りの5人がお寺を開基するよう父親から言われました。結果的に三男が岩佐家を継ぎ、長男は角川の専勝寺。次男が円光寺。四男が高山の勝久寺のもととなる善国寺、五男が高山の了泉寺、六男が古川の浄徳寺の開基となりました。予断ですが、江戸時代後期に山岡鉄舟に書を教えた岩佐一定は、この専勝寺の末裔です。
本堂は、明治37年の古川大火のときに焼けずに残ったため、三寺の中では一番古い建物です。当初、この寺は、国府町の海具江というところに念仏道場がありましたが、寛文7年(1667)に金森氏家臣で不届きのあった者の土地を与えられ、その場所に移転建造されました。このときに彫った亀が「水呼びの亀」といわれ、この亀が数々の大火からこの本堂を掬ったという言い伝えがあります。

次に、真宗寺ですが、古川の人は、「しんしゅうじ」とは言わず、「しんしょうじ」とよんでいます。
開基は、文亀二年(1502)年に祐念という人が開山しました。 当時、古川の下町に開かれていたそうですが、天正17年(1589)に金森氏が古川の町を造ったのときに、現在の境内地を与えられて現在の地に移転しました。
慶長7年(1602)2月に本願寺が東西に分裂したときに、東本願寺の末寺となりました。
明治37年の古川大火のときに、経蔵を残して、全焼してしまいました。焼けた建物は、先の飛騨の匠展の調査のときに、古川の屋台彫刻を作った八谷理八のおじいさんが建造したものであることがわかりました。
現在の建物は、明治42年に起工式が行われ、明治45年に建造されたものです。輪転蔵という経蔵は、古川大火でも焼け残ったものですが、明和8年(1771)に堀 武兵衛ほか多数の大工によって建造されたものです。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。今年は北京オリンピックの年と言う事で1972年のオリンピックの曲「虹と雪のバラード」をお送りします。
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今日は、古川の三寺参りのことについてお話しています。

最後に本光寺ですが、始祖は教了という人です。皆さん帰雲城の伝説を知っていますか?
この人は、内ヶ島氏の家来の末裔です。帰雲城伝説は、天正の大地震で埋蔵金ともどもに山崩れで崩壊した白川郷のお城の話ですが、その内ヶ島氏の家臣 山下市右衛門の次男で、元の名を嘉市郎といいました。嘉市郎は、勇敢な若者でしたが、世の無常を感じて中野の照蓮寺第十世 明心の化導をうけて仏門に入り、法名を教了と改めました。
天文元年(1532)に古川の下町に念仏道場を開き、金森氏が古川の城下町を造ったとき、天正17年(1589)に、現在の場所へ移転しました。
開基本尊となっている方便法身尊像は、文明17年(1485)に蓮如上人から賜ったもので、もともと、清見町楢谷にある、楢谷寺の開基 円実に授けられたもので、蓮如上人の裏書のある、飛騨で最も古いものの一つです。
絹本着色されたもので、岐阜県の重要文化財に指定されています。
また、ご本尊の阿弥陀如来像は、清峰寺という天台宗寺院の奥の院の本尊であったと伝えられています。この清峰寺は姉小路の菩提寺でしたが、千光寺とともに武田信玄の軍に焼かれたと伝わっていますが、私がよく調べてみると、江馬氏の内乱のときにどうも焼かれたようです。このことはまたの機会にお話します。
現在の本堂は、真宗寺と同じく明治37年の大火のときに全焼し、その後明治41年に鐘楼が、大正2年に本堂が再建されました。このときに関わった棟梁は、高山の市制記念権を造った8代坂下甚吉という人です。古川の資料によると、本堂は甚吉の弟子の土村栄吉が作ったとされていますが、写真等が現存していて、どうも坂下甚吉の指導の下で、土村栄吉が大仕事を行っていたようです。現存する本堂は、飛騨の木造建築では、14間もある一番大きなものですが、内部や虹梁に取り付けられた彫刻の精密さにも感心する作品です。
実は、消失した本光寺本堂の前の本堂が古川には残っていて、杉崎に浄慶寺というお寺があります。ここの本堂は、もともと本光寺の本堂でした。この本堂は、正徳3年(1713) 信州の匠 安保九良衛門によって建造されましたが、延享4年(1747)に飛騨の匠 広田良親によって移転されました。当時は、お東のお寺でしたが、お西に転派したときに、茂住にあった浄慶寺が、杉崎に移転されるのにともない、本光寺の建物も移転され、しばらくは高山別院の出張所として使われました。当時、お東から転派したくない人たちの菩提寺として、また、お西に転派した本光寺への対抗策として高山照蓮寺が取った政策だったとのことです。
さて、なぜこの真宗寺、本光寺が転派しなくてはいけなかったか、ですが、これには金森氏が関係しています。高山別院十四世の宣了という方に男子がいなかったため、娘おなけに金森三代重頼の息子を婿に迎え十五代宣心を襲名しました。ところが、このおなけが、早世したので、宣心に後妻をということになり、京都の本山 宣如上人の娘 佐奈姫を迎えることになりました。金森家にとっては、本山と宴席関係を結ぶという絶好の機会となったわけです。
ところがこの、宣心が、無法者で、日々遊興をして暮らし、仏法も法務も行わない人でした。佐奈姫も慣れない飛騨の生活に加えて、夫の行動に悩み、子の琢晴をもうけますが、病弱でもあったためについには命を落としてしまいます。姫が亡くなった後の宣心の行動に困った周囲の人たちは、彼をたしなめますが、彼は僧侶の身でありながらとうとう気に入らない人をあやめてしまいます。そのときにこの宣心をたしなめ、彼の行動をかばっていたのが、本光寺・真宗寺でしたが、本山の取った政策は、高山照蓮寺を別院に格上げし、輪番制といって本山の直轄にしたことと、この2か寺の格下げでした。さらに、この2か寺に対しては、役銀の申し付け、しめつけが厳しくなっていきました。
こうしたことがきっかけとなって、この2つの寺は相談の上、お東からお西への転派を決意したのでした。
古川の人は、この2つのお寺が転派したことで、どのお寺も公平に守らなければいけないという意識がめざめ、親鸞上人の命日におまいりすることが始まったということです。明治時代になると「嫁を見立ての三寺まいり」とも呼ばれるようになり、野麦峠を越えて信州へ行った「糸引きさ」たち若い娘が帰ってくる日でもあったので、若い男衆は嫁さん探しに三寺をお参りするようになり、有名になっていったということです。
それでは最後に曲をお届けします。今日は、ろうそくにちなんで、この曲でお別れです。チェッカーズで「ジュリアにハートブレイク」 ではまた来週。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、今年も早いものでもう今年に入って2週間が過ぎました?
お正月気分が終わっても、みなさん、今度は新年会で忙しい時期なのではないでしょうか?お酒を飲む機会が多いですが、くれぐれも飲酒運転だけはしないようにしてくださいね。
さあ、今年も、がんばってこの番組を続けさせていただきたいと思います。どうぞ、引き続き、よろしくお願いいたします。
さて、今日のお話ですが、いつもは金森のお話をする週ですが、今週、古川には「三寺参り」という行事がありますので、今日はそのことを中心にお話していきましょう。
古川の方は良く御存知ですが、この三寺というのは、本光寺・真宗寺・円光寺の3か寺におまいりすることで三寺参りといいます。親鸞聖人の御命日に、上人の遺徳を偲んでおまいりすることからこの行事が始まったということです。観光客には3寺参りとなっていますが、古川の人の中には、もう一つ、古川祭り会館の裏手にある お東の誓願寺も一緒におまいりするので「4寺まいりだ」という人もいます。
親鸞上人は、新暦の1月16日に90歳でお亡くなりになられましたが、前日の1月15日には毎年、各お寺で読経、お伝鈔の朗読、説教のお勤めがあります。
この三寺参りは、宝永2年(1705)に、真宗寺、本光寺の転派で、町内の真宗三か寺が皆お西になったことをこぞって喜び、これを機に親鸞上人のご命日のお寺参りは、自分のお手次ぎだけではなく、三か寺を分け隔てなくおまいりするようになったことが、起源と言われています。
もともと、円光寺は、お西のお寺。真宗寺、本光寺はお東のお寺でした。それぞれの開基についてお話しましょう。
まず、円光寺ですが、永正13年(1514)江馬の家臣であった岩佐喜太郎正直の6人の子供のうち、次男が開基し、正祐と号しました。この6人の子供は、くじをひき、一人が岩佐家を継ぎ、残りの5人がお寺を開基するよう父親から言われました。結果的に三男が岩佐家を継ぎ、長男は角川の専勝寺。次男が円光寺。四男が高山の勝久寺のもととなる善国寺、五男が高山の了泉寺、六男が古川の浄徳寺の開基となりました。予断ですが、江戸時代後期に山岡鉄舟に書を教えた岩佐一定は、この専勝寺の末裔です。
本堂は、明治37年の古川大火のときに焼けずに残ったため、三寺の中では一番古い建物です。当初、この寺は、国府町の海具江というところに念仏道場がありましたが、寛文7年(1667)に金森氏家臣で不届きのあった者の土地を与えられ、その場所に移転建造されました。このときに彫った亀が「水呼びの亀」といわれ、この亀が数々の大火からこの本堂を掬ったという言い伝えがあります。
次に、真宗寺ですが、古川の人は、「しんしゅうじ」とは言わず、「しんしょうじ」とよんでいます。
開基は、文亀二年(1502)年に祐念という人が開山しました。 当時、古川の下町に開かれていたそうですが、天正17年(1589)に金森氏が古川の町を造ったのときに、現在の境内地を与えられて現在の地に移転しました。
慶長7年(1602)2月に本願寺が東西に分裂したときに、東本願寺の末寺となりました。
明治37年の古川大火のときに、経蔵を残して、全焼してしまいました。焼けた建物は、先の飛騨の匠展の調査のときに、古川の屋台彫刻を作った八谷理八のおじいさんが建造したものであることがわかりました。
現在の建物は、明治42年に起工式が行われ、明治45年に建造されたものです。輪転蔵という経蔵は、古川大火でも焼け残ったものですが、明和8年(1771)に堀 武兵衛ほか多数の大工によって建造されたものです。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。今年は北京オリンピックの年と言う事で1972年のオリンピックの曲「虹と雪のバラード」をお送りします。
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今日は、古川の三寺参りのことについてお話しています。
最後に本光寺ですが、始祖は教了という人です。皆さん帰雲城の伝説を知っていますか?
この人は、内ヶ島氏の家来の末裔です。帰雲城伝説は、天正の大地震で埋蔵金ともどもに山崩れで崩壊した白川郷のお城の話ですが、その内ヶ島氏の家臣 山下市右衛門の次男で、元の名を嘉市郎といいました。嘉市郎は、勇敢な若者でしたが、世の無常を感じて中野の照蓮寺第十世 明心の化導をうけて仏門に入り、法名を教了と改めました。
天文元年(1532)に古川の下町に念仏道場を開き、金森氏が古川の城下町を造ったとき、天正17年(1589)に、現在の場所へ移転しました。
開基本尊となっている方便法身尊像は、文明17年(1485)に蓮如上人から賜ったもので、もともと、清見町楢谷にある、楢谷寺の開基 円実に授けられたもので、蓮如上人の裏書のある、飛騨で最も古いものの一つです。
絹本着色されたもので、岐阜県の重要文化財に指定されています。
また、ご本尊の阿弥陀如来像は、清峰寺という天台宗寺院の奥の院の本尊であったと伝えられています。この清峰寺は姉小路の菩提寺でしたが、千光寺とともに武田信玄の軍に焼かれたと伝わっていますが、私がよく調べてみると、江馬氏の内乱のときにどうも焼かれたようです。このことはまたの機会にお話します。
現在の本堂は、真宗寺と同じく明治37年の大火のときに全焼し、その後明治41年に鐘楼が、大正2年に本堂が再建されました。このときに関わった棟梁は、高山の市制記念権を造った8代坂下甚吉という人です。古川の資料によると、本堂は甚吉の弟子の土村栄吉が作ったとされていますが、写真等が現存していて、どうも坂下甚吉の指導の下で、土村栄吉が大仕事を行っていたようです。現存する本堂は、飛騨の木造建築では、14間もある一番大きなものですが、内部や虹梁に取り付けられた彫刻の精密さにも感心する作品です。
実は、消失した本光寺本堂の前の本堂が古川には残っていて、杉崎に浄慶寺というお寺があります。ここの本堂は、もともと本光寺の本堂でした。この本堂は、正徳3年(1713) 信州の匠 安保九良衛門によって建造されましたが、延享4年(1747)に飛騨の匠 広田良親によって移転されました。当時は、お東のお寺でしたが、お西に転派したときに、茂住にあった浄慶寺が、杉崎に移転されるのにともない、本光寺の建物も移転され、しばらくは高山別院の出張所として使われました。当時、お東から転派したくない人たちの菩提寺として、また、お西に転派した本光寺への対抗策として高山照蓮寺が取った政策だったとのことです。
さて、なぜこの真宗寺、本光寺が転派しなくてはいけなかったか、ですが、これには金森氏が関係しています。高山別院十四世の宣了という方に男子がいなかったため、娘おなけに金森三代重頼の息子を婿に迎え十五代宣心を襲名しました。ところが、このおなけが、早世したので、宣心に後妻をということになり、京都の本山 宣如上人の娘 佐奈姫を迎えることになりました。金森家にとっては、本山と宴席関係を結ぶという絶好の機会となったわけです。
ところがこの、宣心が、無法者で、日々遊興をして暮らし、仏法も法務も行わない人でした。佐奈姫も慣れない飛騨の生活に加えて、夫の行動に悩み、子の琢晴をもうけますが、病弱でもあったためについには命を落としてしまいます。姫が亡くなった後の宣心の行動に困った周囲の人たちは、彼をたしなめますが、彼は僧侶の身でありながらとうとう気に入らない人をあやめてしまいます。そのときにこの宣心をたしなめ、彼の行動をかばっていたのが、本光寺・真宗寺でしたが、本山の取った政策は、高山照蓮寺を別院に格上げし、輪番制といって本山の直轄にしたことと、この2か寺の格下げでした。さらに、この2か寺に対しては、役銀の申し付け、しめつけが厳しくなっていきました。
こうしたことがきっかけとなって、この2つの寺は相談の上、お東からお西への転派を決意したのでした。
古川の人は、この2つのお寺が転派したことで、どのお寺も公平に守らなければいけないという意識がめざめ、親鸞上人の命日におまいりすることが始まったということです。明治時代になると「嫁を見立ての三寺まいり」とも呼ばれるようになり、野麦峠を越えて信州へ行った「糸引きさ」たち若い娘が帰ってくる日でもあったので、若い男衆は嫁さん探しに三寺をお参りするようになり、有名になっていったということです。
それでは最後に曲をお届けします。今日は、ろうそくにちなんで、この曲でお別れです。チェッカーズで「ジュリアにハートブレイク」 ではまた来週。




