2008年01月17日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」1
いま、私は、飛騨高山観光協会の会報に連載をしています。

その一部を御紹介します。
「◇はじめに
飛騨において郷土史家の皆さんに、昭和三十一年から研究発表の場として親しまれている「飛騨春秋」に数回投稿したところ、蓑谷観光協会長から、今回より、連載して協会紙に書かせていただく光栄な機会をいただきました。
飛騨の高山と言えば祭屋台が有名ですが、今日の高山の屋台の基礎を作ったのは、麒麟台の「籠伏せの鶏」や、恵比寿台の「手長足長」の彫刻で有名な 谷口与鹿を生んだ 谷口一門であると言っても過言ではありません。
私は、自身の屋台の研究活動をしているうちに、故 老田 剛先生の膨大な史料に出会い、自身の集めていた資料と共に 「与鹿さま」が高山で為した偉大な功績と、その資料収集に人生を掛け、与鹿物語の完成を志半ばで亡くなった老田先生の意志を何とか皆様にお伝えしたいと思い、筆を取る次第です。
これから連載させていただきます中には、諸先輩方がすでにご存知であって私が調査しきれていない部分や、私が脚色した部分も数多くあろうかと思います。その点につきましては、ご批判・ご指導をいただきながら、一つの研究成果にまとめていきたいと思っておりますので、皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます。
巻頭にあたり、このような機会をいただきました観光協会の関係各位の皆様には、一言御礼申し上げます。
なお、今回の物語は研究発表というより、なるべく史実に基づいた読み物としてまとめております。また、年令は数え年で記載しておりますことをご了承ください。
◇与鹿誕生 (一歳)
文政五年(一八二二年)、向町にあった谷口家で男の子が無事誕生した。二十三年ぶりの男子の誕生に、家は大いに沸いたことであろう。その子供には、「与鹿」と名づけられた。
谷口家にはそれまで、 一男五女(延恭、つね、とく、やす、たき、せい)があったが、ずっと生まれてくるのは女性ばかりで、子供はかわいいが、待ちに待った男子の誕生であった。(のちに六女 すみ が出生する)
当時、母の佐野は、四〇歳。父親の権守延儔は、四二歳と大工棟梁としては最も脂の乗った時期であったが、お佐野にとってはかなり遅い出産であった。
当時、谷口家はたくさんの見習い大工を抱え、まかない仕事などで母親お佐野は大変だった。一門郎党の台所を預かるのはこのお佐野と姉おつねの役割だった。が、お佐野は再三の妊娠(おとく、おやす、おたき、おせい、与鹿、おすみ)と連続で妊娠し、家事はおそらく一番上の姉おつねの役割となっていたと思われる。
残念な事に、母お佐野は、とく、やす、せい、すみを病気のため生後間もなく失い、子供ができてもすぐに死なしてしまうため、その心労は大変なものであったことだろう。
また、このころ、高山は再三の大火事で建築の仕事は絶えなかった。父親は家族をほったらかし、弟の紹芳も、長男延恭も忙しい。長男がいい歳になっているのに、なかなか嫁を取らず、晩婚だったことからも、仕事が多すぎて忙しかったことを物語っている。」
つづく

その一部を御紹介します。
「◇はじめに
飛騨において郷土史家の皆さんに、昭和三十一年から研究発表の場として親しまれている「飛騨春秋」に数回投稿したところ、蓑谷観光協会長から、今回より、連載して協会紙に書かせていただく光栄な機会をいただきました。
飛騨の高山と言えば祭屋台が有名ですが、今日の高山の屋台の基礎を作ったのは、麒麟台の「籠伏せの鶏」や、恵比寿台の「手長足長」の彫刻で有名な 谷口与鹿を生んだ 谷口一門であると言っても過言ではありません。
私は、自身の屋台の研究活動をしているうちに、故 老田 剛先生の膨大な史料に出会い、自身の集めていた資料と共に 「与鹿さま」が高山で為した偉大な功績と、その資料収集に人生を掛け、与鹿物語の完成を志半ばで亡くなった老田先生の意志を何とか皆様にお伝えしたいと思い、筆を取る次第です。
これから連載させていただきます中には、諸先輩方がすでにご存知であって私が調査しきれていない部分や、私が脚色した部分も数多くあろうかと思います。その点につきましては、ご批判・ご指導をいただきながら、一つの研究成果にまとめていきたいと思っておりますので、皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます。
巻頭にあたり、このような機会をいただきました観光協会の関係各位の皆様には、一言御礼申し上げます。
なお、今回の物語は研究発表というより、なるべく史実に基づいた読み物としてまとめております。また、年令は数え年で記載しておりますことをご了承ください。
◇与鹿誕生 (一歳)
文政五年(一八二二年)、向町にあった谷口家で男の子が無事誕生した。二十三年ぶりの男子の誕生に、家は大いに沸いたことであろう。その子供には、「与鹿」と名づけられた。
谷口家にはそれまで、 一男五女(延恭、つね、とく、やす、たき、せい)があったが、ずっと生まれてくるのは女性ばかりで、子供はかわいいが、待ちに待った男子の誕生であった。(のちに六女 すみ が出生する)
当時、母の佐野は、四〇歳。父親の権守延儔は、四二歳と大工棟梁としては最も脂の乗った時期であったが、お佐野にとってはかなり遅い出産であった。
当時、谷口家はたくさんの見習い大工を抱え、まかない仕事などで母親お佐野は大変だった。一門郎党の台所を預かるのはこのお佐野と姉おつねの役割だった。が、お佐野は再三の妊娠(おとく、おやす、おたき、おせい、与鹿、おすみ)と連続で妊娠し、家事はおそらく一番上の姉おつねの役割となっていたと思われる。
残念な事に、母お佐野は、とく、やす、せい、すみを病気のため生後間もなく失い、子供ができてもすぐに死なしてしまうため、その心労は大変なものであったことだろう。
また、このころ、高山は再三の大火事で建築の仕事は絶えなかった。父親は家族をほったらかし、弟の紹芳も、長男延恭も忙しい。長男がいい歳になっているのに、なかなか嫁を取らず、晩婚だったことからも、仕事が多すぎて忙しかったことを物語っている。」
つづく




