2008年01月20日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」3

◇大工一家谷口家
谷口家は代々大工の棟梁を務める名門であった。
曾祖父五右衛門吉道は、宝暦八年(一七五八)金森頼錦が郡上八幡城主を改易され、浪々の身となった。「彼は金森家の旧地高山へ縁故を頼って移住して来た。
「郡上八幡城主金森頼錦の作事方を勤めており微録の身であったが、宝暦八年に主家がお家断絶となったので高山へ移った。」(代瀬山彦著作集)
また、平成になって発見された池之端家所蔵の古文書(飛騨春秋)によれば、谷口五兵衛の名前が馬回り方として記述が見られ、金森家が上ノ山に転封される前に家来として仕え、再転封となった郡上八幡への国替えの時にまた主家についてきたようである。
吉道は、渡世の業として大工の見習いとなり、当時の名匠松田太右衛門の高弟、今井庄兵衛(延享三年四月二十七日死没)のもとで修行し、工匠として一家をなすに至った。
吉道の子延次は、谷口家の再興の祖とされている。
「谷口家由来記」(谷口家蔵) によれば延次は一八歳のおり、単身尾張に赴いて名古屋の大工 野田五兵衛の御番匠を訪ね入門した。二十歳にして、高山二之町加賀屋長右衛門(二木家)の仕事をしたのがきっかけとなり、次第に大工「谷口与三郎」の名を上げていった。寛政八年(一七九六)、彼は伊勢・京都・大阪に遊んで大いに見聞を広め、後、専念寺や不遠寺などを建築している。谷口家に残る延次の肖像画には、萩原禅昌寺十八世荊林和尚が賛を書き、延次を「当家中興祖」とたたえている。荊林は臨済宗総本山妙心寺管長を務め、勅任となって紫衣を賜り、天子に拝謁している。退欄して禅昌寺に帰り、竜翔庵を立てて隠居した人である。これらの事実を総合すると、延次は相当な人物であったと推定される。」
(飛騨の匠 谷口与鹿 老田剛著)
◇父延儔と谷口家
祖父延次には、老田源七の養女「ぎん」との間に子供が四人あったが、男子吉太郎(幼名乙松)は五歳で死亡、きくは四歳で死亡し、長らく長女お佐野の婿に、玉井伊兵衛の息子の五兵衛(延儔)を婿養子に迎え、谷口家の後を取らせる。
晩年に男子「紹芳」を得るが、その時延次はすでに四四歳となっていた。彼は、寛政一二年(一七九九)頃に娘於佐野と祝言をあげ、大工の棟梁としても素質のあったであろう延儔に跡目をつがせるようにした。
「延儔は、秋声寺、法華寺の鐘堂などを建てており、高山陣屋、東照宮本殿建築にも参画し」(前述 飛騨の匠)ていた。のち文化一三年(一八一六)には、紹芳とともに日枝神社神輿を造ったほどの腕前であった。
大工の谷口家としては、妻のお佐野を中心に展開するこの時期が最も全盛期であった。当時、谷口家は向町(現在の本町一丁目)に家があり、いつ頃からこの地に住んでいたか定かではないが、琴高台記録によれば、・文久四年(一八六四)に三十二文・明治二年(一八六九)に四十八文
・明治十三年(一八八〇)に一円二、三十銭・明治二十七年(一八九四) に屋台講の支払いが、谷口家からあった事が確認できる。その後、大正五年には、この地が平野屋旅館になっているところから、明治後年までこの地に谷口家があったと思われる。(平成十七年現在、その場所は本陣平野屋 花兆庵「すし兆」のあたりである。)
つづく




