2008年01月22日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」4

◇大工修行
与鹿は遊びのかわりに仕事をさせられるようになり、刃物を研ぐ仕事はもっぱら与鹿の仕事となっていった。このころ飛騨地方の農家では、貧しさのために口減らしといって、まだ幼い子供を旦那衆や武家に奉公に出し、自分達の食い扶持を減らす事を行っていた。こうしたことから、大体の大工は、十歳前後にすでに丁稚、小僧として修行に出されるケースが多かった。大工棟梁として三代にわたる伝統はあっても、実際の生活が質素だった谷口家では、おそらく与鹿に大工仕事の英才教育として、このころにノミを持たせるようにしていったのではないかと想像できる。さすがに大工の血統を持つ与鹿は、覚えが早く、幼少にしてその技を習得していったことであろう。
◇谷口家の好事と不幸
(六歳)
父延儔は、文政九年(一九二六)四月に京都の服職師河合某に認証参内衣装を依頼し、狩衣・冠・単・表袴などの代金として一両六〇五分余りを支出している。文政十年(一八二七)三月に上京し、公家(一条吉田家?)のはからいで宮中参内し、永代「権之守」の称号を得た。この称号は、公家に習うものであり、その地位は従五位という相当高い位であった。
その渦中、地元高山ではやっと三歳になったばかりの妹「おすみ」が三月に不慮の死を遂げる。子供が死ぬか生きるかの病気の時に上洛するとは考えにくく、おそらく事故死だったのではなかろうか。
少年与鹿にとって、初めて経験する人間の「死」であり、自分と四歳しか離れていない妹の死は彼の心に「死の悲しみ」というものを植えつけたであろう。
そんな、悲しみの中で、地元に帰って、父が権之守を授けられ大いに歓喜に沸いた谷口家であった。
しかし、そんな喜びもつかの間、引き続いて、やっと清水家に嫁に行った与鹿の姉おつねが八月に相次いでなくなる。
病死か事故死なのかははっきりしないが、与鹿には、母のような存在であった、やさしい姉の死が、彼の心に「人の死」という事実に対して、さらなる追い討ちをかけた。父母の悲しみも、いかばかりかのものであったに違いない。こんなことなら、権之守などという肩書きなど、もらわない方が、こんな悲しみを味わわなくてもよかったのではと後悔の念もあったのではなかろうか。
つづく




