2008年01月26日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」7
◇師匠 中川吉兵衛

彫吉こと、師匠中川吉兵衛は文化十三年ごろ以前に、諏訪の和四郎に宮大工の技術を習った
という説がある。
下三之町に居住していた。文化十三年(一八一六)高山 東照宮の本殿の彫刻(写真)を完成させ、
飛騨で一躍有名になる。
「第十八代飛騨郡代芝与市右衛門正盛の要請と、桜山長久寺良賢法院(現桜山八幡宮別当職)
や、江戸にいた金森家ゆかりの者たちの奔走により、文化十三年(一八一六)荒廃していた
東照宮の再建が始められ、主任工匠は水間相模守宗俊であったが、谷口権之守延儔も建築に
参画し、彫刻はすべて中川吉兵衛がてがけている。(東照宮文献)」とある。
中川吉兵衛がそれ以前から工匠谷口家にいたものか、このとき初めて高山に来たものかは不明
だが、それ以後は谷口家工匠の一人として、宮彫りや屋台彫刻に関わっている。(種蔵泰一氏)

吉兵衛の有名な作品は、文化八年(一八一一)に完成させた布袋台中段の六頭の唐獅子彫刻
や上段欄間の「波に龍」・屋根下棟下の「雲に鏡」。文政年間(一八一八頃か)、谷口家において
設計された石橋台(現在の石橋台の前身)、弘化二年(一八四五)に改修された麒麟台の上段・
中段欄間の彩色牡丹の彫刻。山王神楽台の牡丹彫刻。そのほか神社の彫刻にいたるまで数
多い彫刻を携わっていたものと思われる。
(追記:この人については、謎が多く、どこから来たのか、またどこでなくなったのか全く不明であり、
高山にとっては忽然と現われて、忽然と高山から去っている。立川流の彫刻師の系図にもその名
が無く、どこで彫刻の技術を身に着けたかは全く不明の人である。)
徳積善太
彫吉こと、師匠中川吉兵衛は文化十三年ごろ以前に、諏訪の和四郎に宮大工の技術を習った
という説がある。
下三之町に居住していた。文化十三年(一八一六)高山 東照宮の本殿の彫刻(写真)を完成させ、
飛騨で一躍有名になる。
「第十八代飛騨郡代芝与市右衛門正盛の要請と、桜山長久寺良賢法院(現桜山八幡宮別当職)
や、江戸にいた金森家ゆかりの者たちの奔走により、文化十三年(一八一六)荒廃していた
東照宮の再建が始められ、主任工匠は水間相模守宗俊であったが、谷口権之守延儔も建築に
参画し、彫刻はすべて中川吉兵衛がてがけている。(東照宮文献)」とある。
中川吉兵衛がそれ以前から工匠谷口家にいたものか、このとき初めて高山に来たものかは不明
だが、それ以後は谷口家工匠の一人として、宮彫りや屋台彫刻に関わっている。(種蔵泰一氏)
吉兵衛の有名な作品は、文化八年(一八一一)に完成させた布袋台中段の六頭の唐獅子彫刻
や上段欄間の「波に龍」・屋根下棟下の「雲に鏡」。文政年間(一八一八頃か)、谷口家において
設計された石橋台(現在の石橋台の前身)、弘化二年(一八四五)に改修された麒麟台の上段・
中段欄間の彩色牡丹の彫刻。山王神楽台の牡丹彫刻。そのほか神社の彫刻にいたるまで数
多い彫刻を携わっていたものと思われる。
(追記:この人については、謎が多く、どこから来たのか、またどこでなくなったのか全く不明であり、
高山にとっては忽然と現われて、忽然と高山から去っている。立川流の彫刻師の系図にもその名
が無く、どこで彫刻の技術を身に着けたかは全く不明の人である。)
徳積善太




