2008年01月29日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」9
◇和四郎彫刻との出会い

五台山の噛み獅子彫刻(この獅子が車輪を噛んでいるので曳くのに軽くなったといわれる)
偉大な父の死を経験して生きがいを失っていた与鹿にやる気を起させたのが、和四郎彫刻との出会いであった。天保八年(一八三七)、「五台山」組では、かねてから注文してあった諏訪の和四郎の狂獅子彫刻が完成し、取り付けることになった。諏訪の和四郎は、当時、半田、美濃、松本で屋台の彫刻や神社の造営などに名を馳せていた。このとき与鹿は軒回りの牡丹の彫刻を担当し、この彫刻にかなり影響を受けた。少年与鹿は師匠吉兵衛とともにその彫刻をつぶさに研究し、木目の使い方などを勉強したと思われる。
和四郎との関わりがあったとすれば、おそらく天保十年(一八三九)であったろうと推察される。
天保十年頃、和四郎富昌は、・一色諏訪神社拝殿彫刻(愛知県幡豆郡一色町)・八月十五日 熊野神社本殿(上伊那郡辰野町川島一ノ瀬)・十一月十五日(冨種同行) 光前寺本堂(駒ヶ根市赤穂光明寺)などで彫刻と建築を行っていたし、娘婿の立川昌敬は、・一色諏訪神社拝殿彫刻(愛知県幡豆郡一色町)・八月十五日 江州日野「南大窪町」曳山に携わっていたから、その頃、与鹿もこれらの土地を訪ねたのかもしれないが、確たる資料が現存していない。
(平成十七年十一月に高山市郷土館に於いて開催された「建築の下絵展」に展示されていた与鹿直筆の一冊の絵集がある。それには「天保十三年」の記述があるが、内容からするとおそらく、天保十三年以前に与鹿がどこか西の方へ旅行をし、各所にあった建築付属物のデザインを書き写したものであった。この書物の中に和四郎との関わりのあるものが存在するかどうか、調査の待たれるところである。)

(上記四枚の写真は、下半田の唐子車にある立川和四郎富昌の作品)
後に、恵比寿台の「手長足長」―信州手長神社(諏訪)・下教来古諏訪社(山梨)。「子持龍(恵比寿台)」―信州興正寺山門(更埴)・八幡本殿正面。「麒麟台 唐子群遊」―信州諏訪神社拝殿(諏訪)・亀崎八幡山車の「力神の間にいる鶏」(半田)など、和四郎の下絵と酷似していると思われる作品があることから、少なからず影響を受けていたことは確かである。しかしその記録が和四郎研究家の資料になく、今後調査が必要と思われる。
また、後述するが、与鹿は高山時代に最低二回は立川流彫刻と遭遇している。この五台山の彫刻が一回目であることは、ほぼ間違いないが、後に天保十四年四月には、丹生川村還来寺の山門彫刻で立派な龍の彫刻を写生する。
これ以外に、出会いがあったかどうかは、立川流の彫刻を習ったかどうかにかかっているので、調査の待たれるところである。

(丹生川還来寺の門にある立川流の龍の彫刻)
ところで、誰が、この五台山組にこの「和四郎彫刻」を教えたかということであるが、筆者は一刀彫の祖、松田亮長ではないかとみている。松田亮長は、当時下向町の住人であり、与鹿の兄延恭とは一歳違いであった。お互い高山では著名人であり、後に応龍台の建築を共にしているところから知り合いであったのではと想像できる。
亮長は、旅が好きで方々を旅して歩いていたが、天保二年五月から六月に掛けて、諏訪地方から富士登山をし、また久能山、犬山を経て高山に帰っている。これは和四郎の彫刻がある場所であることから、その見学に行ったのではと想像できる。
また、亮長の作品の写しも前述の下絵展展示の与鹿絵集の中に見る事ができることから関わりがあったことは間違いない。

(与鹿の手帳にあった亮長作の湯のみの彫刻の拓本)
徳積善太
五台山の噛み獅子彫刻(この獅子が車輪を噛んでいるので曳くのに軽くなったといわれる)
偉大な父の死を経験して生きがいを失っていた与鹿にやる気を起させたのが、和四郎彫刻との出会いであった。天保八年(一八三七)、「五台山」組では、かねてから注文してあった諏訪の和四郎の狂獅子彫刻が完成し、取り付けることになった。諏訪の和四郎は、当時、半田、美濃、松本で屋台の彫刻や神社の造営などに名を馳せていた。このとき与鹿は軒回りの牡丹の彫刻を担当し、この彫刻にかなり影響を受けた。少年与鹿は師匠吉兵衛とともにその彫刻をつぶさに研究し、木目の使い方などを勉強したと思われる。
和四郎との関わりがあったとすれば、おそらく天保十年(一八三九)であったろうと推察される。
天保十年頃、和四郎富昌は、・一色諏訪神社拝殿彫刻(愛知県幡豆郡一色町)・八月十五日 熊野神社本殿(上伊那郡辰野町川島一ノ瀬)・十一月十五日(冨種同行) 光前寺本堂(駒ヶ根市赤穂光明寺)などで彫刻と建築を行っていたし、娘婿の立川昌敬は、・一色諏訪神社拝殿彫刻(愛知県幡豆郡一色町)・八月十五日 江州日野「南大窪町」曳山に携わっていたから、その頃、与鹿もこれらの土地を訪ねたのかもしれないが、確たる資料が現存していない。
(平成十七年十一月に高山市郷土館に於いて開催された「建築の下絵展」に展示されていた与鹿直筆の一冊の絵集がある。それには「天保十三年」の記述があるが、内容からするとおそらく、天保十三年以前に与鹿がどこか西の方へ旅行をし、各所にあった建築付属物のデザインを書き写したものであった。この書物の中に和四郎との関わりのあるものが存在するかどうか、調査の待たれるところである。)

(上記四枚の写真は、下半田の唐子車にある立川和四郎富昌の作品)
後に、恵比寿台の「手長足長」―信州手長神社(諏訪)・下教来古諏訪社(山梨)。「子持龍(恵比寿台)」―信州興正寺山門(更埴)・八幡本殿正面。「麒麟台 唐子群遊」―信州諏訪神社拝殿(諏訪)・亀崎八幡山車の「力神の間にいる鶏」(半田)など、和四郎の下絵と酷似していると思われる作品があることから、少なからず影響を受けていたことは確かである。しかしその記録が和四郎研究家の資料になく、今後調査が必要と思われる。
また、後述するが、与鹿は高山時代に最低二回は立川流彫刻と遭遇している。この五台山の彫刻が一回目であることは、ほぼ間違いないが、後に天保十四年四月には、丹生川村還来寺の山門彫刻で立派な龍の彫刻を写生する。
これ以外に、出会いがあったかどうかは、立川流の彫刻を習ったかどうかにかかっているので、調査の待たれるところである。

(丹生川還来寺の門にある立川流の龍の彫刻)
ところで、誰が、この五台山組にこの「和四郎彫刻」を教えたかということであるが、筆者は一刀彫の祖、松田亮長ではないかとみている。松田亮長は、当時下向町の住人であり、与鹿の兄延恭とは一歳違いであった。お互い高山では著名人であり、後に応龍台の建築を共にしているところから知り合いであったのではと想像できる。
亮長は、旅が好きで方々を旅して歩いていたが、天保二年五月から六月に掛けて、諏訪地方から富士登山をし、また久能山、犬山を経て高山に帰っている。これは和四郎の彫刻がある場所であることから、その見学に行ったのではと想像できる。
また、亮長の作品の写しも前述の下絵展展示の与鹿絵集の中に見る事ができることから関わりがあったことは間違いない。
(与鹿の手帳にあった亮長作の湯のみの彫刻の拓本)
徳積善太




