2008年01月31日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」11
◇琴高台の大改造 (十七歳)

琴高台の与鹿の彫刻「波間の鯉」
文化年間からほぼ五十年が経過し、屋台が傷み始めていたためか、高山のあちこちで屋台を修理する風潮が生まれた。老田氏はこの時期を第二修繕期と呼んでいる。
向町「布袋」(のちの琴高台)でも屋台を修繕することになり、天保九年(一八三八)、同町内に居住していた谷口家と与鹿に白羽の矢が立てられる。
兄の延恭は当時大工の棟梁でこの仕事を引き受け、弟の与鹿に彫刻をやらせることを決意する。
与鹿は一七歳という若さではあったが、この仕事を引き受け、大改造に着手する。
この屋台は飛騨の儒者 赤田臥牛が支那列仙伝中の「琴高、赤鯉に座し来る」の故事を用いて現台名に改めたことから、意匠、装飾、加工をすべてこの「鯉」をモチーフに作ったものであった。その頃、鯉を飼う家などあまりなかったことから、川や池のあった所に通ったことであろう。この屋台では、下段の鯉、うさぎ、上段の烏の彫刻に励み、二年の歳月を経て見事完成させた。下絵を見るかぎりでは、波の下絵の枚数が最も多く、波の表現に一番神経をとがらせていたようである。
徳積善太
琴高台の与鹿の彫刻「波間の鯉」
文化年間からほぼ五十年が経過し、屋台が傷み始めていたためか、高山のあちこちで屋台を修理する風潮が生まれた。老田氏はこの時期を第二修繕期と呼んでいる。
向町「布袋」(のちの琴高台)でも屋台を修繕することになり、天保九年(一八三八)、同町内に居住していた谷口家と与鹿に白羽の矢が立てられる。
兄の延恭は当時大工の棟梁でこの仕事を引き受け、弟の与鹿に彫刻をやらせることを決意する。
与鹿は一七歳という若さではあったが、この仕事を引き受け、大改造に着手する。
この屋台は飛騨の儒者 赤田臥牛が支那列仙伝中の「琴高、赤鯉に座し来る」の故事を用いて現台名に改めたことから、意匠、装飾、加工をすべてこの「鯉」をモチーフに作ったものであった。その頃、鯉を飼う家などあまりなかったことから、川や池のあった所に通ったことであろう。この屋台では、下段の鯉、うさぎ、上段の烏の彫刻に励み、二年の歳月を経て見事完成させた。下絵を見るかぎりでは、波の下絵の枚数が最も多く、波の表現に一番神経をとがらせていたようである。
徳積善太




