2008年01月31日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」11
◇琴高台の大改造 (十七歳)

琴高台の与鹿の彫刻「波間の鯉」
文化年間からほぼ五十年が経過し、屋台が傷み始めていたためか、高山のあちこちで屋台を修理する風潮が生まれた。老田氏はこの時期を第二修繕期と呼んでいる。
向町「布袋」(のちの琴高台)でも屋台を修繕することになり、天保九年(一八三八)、同町内に居住していた谷口家と与鹿に白羽の矢が立てられる。
兄の延恭は当時大工の棟梁でこの仕事を引き受け、弟の与鹿に彫刻をやらせることを決意する。
与鹿は一七歳という若さではあったが、この仕事を引き受け、大改造に着手する。
この屋台は飛騨の儒者 赤田臥牛が支那列仙伝中の「琴高、赤鯉に座し来る」の故事を用いて現台名に改めたことから、意匠、装飾、加工をすべてこの「鯉」をモチーフに作ったものであった。その頃、鯉を飼う家などあまりなかったことから、川や池のあった所に通ったことであろう。この屋台では、下段の鯉、うさぎ、上段の烏の彫刻に励み、二年の歳月を経て見事完成させた。下絵を見るかぎりでは、波の下絵の枚数が最も多く、波の表現に一番神経をとがらせていたようである。
徳積善太
琴高台の与鹿の彫刻「波間の鯉」
文化年間からほぼ五十年が経過し、屋台が傷み始めていたためか、高山のあちこちで屋台を修理する風潮が生まれた。老田氏はこの時期を第二修繕期と呼んでいる。
向町「布袋」(のちの琴高台)でも屋台を修繕することになり、天保九年(一八三八)、同町内に居住していた谷口家と与鹿に白羽の矢が立てられる。
兄の延恭は当時大工の棟梁でこの仕事を引き受け、弟の与鹿に彫刻をやらせることを決意する。
与鹿は一七歳という若さではあったが、この仕事を引き受け、大改造に着手する。
この屋台は飛騨の儒者 赤田臥牛が支那列仙伝中の「琴高、赤鯉に座し来る」の故事を用いて現台名に改めたことから、意匠、装飾、加工をすべてこの「鯉」をモチーフに作ったものであった。その頃、鯉を飼う家などあまりなかったことから、川や池のあった所に通ったことであろう。この屋台では、下段の鯉、うさぎ、上段の烏の彫刻に励み、二年の歳月を経て見事完成させた。下絵を見るかぎりでは、波の下絵の枚数が最も多く、波の表現に一番神経をとがらせていたようである。
徳積善太
2008年01月30日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」10
◇川原町大火と三町大火

天保三年火事の類焼場所地図
天保三年(一八三二)、後の与鹿の人生に大きな影響を与える大火事が発生する。
八月十七日川原町大阪屋佐兵衛控屋より出火した火は、またたく間に川原町、中町、西町に燃え広がり、二二七軒も焼け出される大火事へと発展した。
当時、高山に火消し組は存在したが、数が少ない上に、消火方法が現代と違い、水をかけて消火すると言うよりも、壊して延焼を食止めると言ういう方法だった。したがって、一度火が付くとなかなか消し止められず、おそらく強い風も手伝って大火事となったのではなかろうか。
また、その後十一月二日に、今度は二之町中丁の福島屋五右衛門宅から出火し、三町残らず、片原町まで六百軒余りを焼き尽くす大火事が発生した。(この火災について八幡祭りの記録は多少違い、「二之町の百姓清左衛門方より出火。上三町全町、片原町東側の他、八幡氏子では一之町西側、二之町両側、三之町両側、いずれも北よりの一部を除き類焼した。総焼失戸数四九八軒」となっている。)
このとき、二之町の五台山や鳳凰台も類焼し、跡形もなくなった。これは筆者の想像であるが、この十一月の火事は、恐らくつけ火ではなかったかと想像する。なぜなら、十一月の火事については、おそらく大火事の恐ろしさというものを住民がかなり神経をとがらせていたであろうし、こんな大火事が一年の間に二件も発生するとは考えにくい。
また、当時の社会情勢をみても、農民の飢餓に対する商人の大繁盛と言うギャップがあり、そういう住民感情からの不平不満が火事となってあらわれたのではないかと考えることもできる。
いずれにせよ、大火屋台を失った事で、与鹿には後に、屋台造営という千載一遇のチャンスが訪れる事になる。
徳積善太

天保三年火事の類焼場所地図
天保三年(一八三二)、後の与鹿の人生に大きな影響を与える大火事が発生する。
八月十七日川原町大阪屋佐兵衛控屋より出火した火は、またたく間に川原町、中町、西町に燃え広がり、二二七軒も焼け出される大火事へと発展した。
当時、高山に火消し組は存在したが、数が少ない上に、消火方法が現代と違い、水をかけて消火すると言うよりも、壊して延焼を食止めると言ういう方法だった。したがって、一度火が付くとなかなか消し止められず、おそらく強い風も手伝って大火事となったのではなかろうか。
また、その後十一月二日に、今度は二之町中丁の福島屋五右衛門宅から出火し、三町残らず、片原町まで六百軒余りを焼き尽くす大火事が発生した。(この火災について八幡祭りの記録は多少違い、「二之町の百姓清左衛門方より出火。上三町全町、片原町東側の他、八幡氏子では一之町西側、二之町両側、三之町両側、いずれも北よりの一部を除き類焼した。総焼失戸数四九八軒」となっている。)
このとき、二之町の五台山や鳳凰台も類焼し、跡形もなくなった。これは筆者の想像であるが、この十一月の火事は、恐らくつけ火ではなかったかと想像する。なぜなら、十一月の火事については、おそらく大火事の恐ろしさというものを住民がかなり神経をとがらせていたであろうし、こんな大火事が一年の間に二件も発生するとは考えにくい。
また、当時の社会情勢をみても、農民の飢餓に対する商人の大繁盛と言うギャップがあり、そういう住民感情からの不平不満が火事となってあらわれたのではないかと考えることもできる。
いずれにせよ、大火屋台を失った事で、与鹿には後に、屋台造営という千載一遇のチャンスが訪れる事になる。
徳積善太
2008年01月29日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」9
◇和四郎彫刻との出会い

五台山の噛み獅子彫刻(この獅子が車輪を噛んでいるので曳くのに軽くなったといわれる)
偉大な父の死を経験して生きがいを失っていた与鹿にやる気を起させたのが、和四郎彫刻との出会いであった。天保八年(一八三七)、「五台山」組では、かねてから注文してあった諏訪の和四郎の狂獅子彫刻が完成し、取り付けることになった。諏訪の和四郎は、当時、半田、美濃、松本で屋台の彫刻や神社の造営などに名を馳せていた。このとき与鹿は軒回りの牡丹の彫刻を担当し、この彫刻にかなり影響を受けた。少年与鹿は師匠吉兵衛とともにその彫刻をつぶさに研究し、木目の使い方などを勉強したと思われる。
和四郎との関わりがあったとすれば、おそらく天保十年(一八三九)であったろうと推察される。
天保十年頃、和四郎富昌は、・一色諏訪神社拝殿彫刻(愛知県幡豆郡一色町)・八月十五日 熊野神社本殿(上伊那郡辰野町川島一ノ瀬)・十一月十五日(冨種同行) 光前寺本堂(駒ヶ根市赤穂光明寺)などで彫刻と建築を行っていたし、娘婿の立川昌敬は、・一色諏訪神社拝殿彫刻(愛知県幡豆郡一色町)・八月十五日 江州日野「南大窪町」曳山に携わっていたから、その頃、与鹿もこれらの土地を訪ねたのかもしれないが、確たる資料が現存していない。
(平成十七年十一月に高山市郷土館に於いて開催された「建築の下絵展」に展示されていた与鹿直筆の一冊の絵集がある。それには「天保十三年」の記述があるが、内容からするとおそらく、天保十三年以前に与鹿がどこか西の方へ旅行をし、各所にあった建築付属物のデザインを書き写したものであった。この書物の中に和四郎との関わりのあるものが存在するかどうか、調査の待たれるところである。)

(上記四枚の写真は、下半田の唐子車にある立川和四郎富昌の作品)
後に、恵比寿台の「手長足長」―信州手長神社(諏訪)・下教来古諏訪社(山梨)。「子持龍(恵比寿台)」―信州興正寺山門(更埴)・八幡本殿正面。「麒麟台 唐子群遊」―信州諏訪神社拝殿(諏訪)・亀崎八幡山車の「力神の間にいる鶏」(半田)など、和四郎の下絵と酷似していると思われる作品があることから、少なからず影響を受けていたことは確かである。しかしその記録が和四郎研究家の資料になく、今後調査が必要と思われる。
また、後述するが、与鹿は高山時代に最低二回は立川流彫刻と遭遇している。この五台山の彫刻が一回目であることは、ほぼ間違いないが、後に天保十四年四月には、丹生川村還来寺の山門彫刻で立派な龍の彫刻を写生する。
これ以外に、出会いがあったかどうかは、立川流の彫刻を習ったかどうかにかかっているので、調査の待たれるところである。

(丹生川還来寺の門にある立川流の龍の彫刻)
ところで、誰が、この五台山組にこの「和四郎彫刻」を教えたかということであるが、筆者は一刀彫の祖、松田亮長ではないかとみている。松田亮長は、当時下向町の住人であり、与鹿の兄延恭とは一歳違いであった。お互い高山では著名人であり、後に応龍台の建築を共にしているところから知り合いであったのではと想像できる。
亮長は、旅が好きで方々を旅して歩いていたが、天保二年五月から六月に掛けて、諏訪地方から富士登山をし、また久能山、犬山を経て高山に帰っている。これは和四郎の彫刻がある場所であることから、その見学に行ったのではと想像できる。
また、亮長の作品の写しも前述の下絵展展示の与鹿絵集の中に見る事ができることから関わりがあったことは間違いない。

(与鹿の手帳にあった亮長作の湯のみの彫刻の拓本)
徳積善太
五台山の噛み獅子彫刻(この獅子が車輪を噛んでいるので曳くのに軽くなったといわれる)
偉大な父の死を経験して生きがいを失っていた与鹿にやる気を起させたのが、和四郎彫刻との出会いであった。天保八年(一八三七)、「五台山」組では、かねてから注文してあった諏訪の和四郎の狂獅子彫刻が完成し、取り付けることになった。諏訪の和四郎は、当時、半田、美濃、松本で屋台の彫刻や神社の造営などに名を馳せていた。このとき与鹿は軒回りの牡丹の彫刻を担当し、この彫刻にかなり影響を受けた。少年与鹿は師匠吉兵衛とともにその彫刻をつぶさに研究し、木目の使い方などを勉強したと思われる。
和四郎との関わりがあったとすれば、おそらく天保十年(一八三九)であったろうと推察される。
天保十年頃、和四郎富昌は、・一色諏訪神社拝殿彫刻(愛知県幡豆郡一色町)・八月十五日 熊野神社本殿(上伊那郡辰野町川島一ノ瀬)・十一月十五日(冨種同行) 光前寺本堂(駒ヶ根市赤穂光明寺)などで彫刻と建築を行っていたし、娘婿の立川昌敬は、・一色諏訪神社拝殿彫刻(愛知県幡豆郡一色町)・八月十五日 江州日野「南大窪町」曳山に携わっていたから、その頃、与鹿もこれらの土地を訪ねたのかもしれないが、確たる資料が現存していない。
(平成十七年十一月に高山市郷土館に於いて開催された「建築の下絵展」に展示されていた与鹿直筆の一冊の絵集がある。それには「天保十三年」の記述があるが、内容からするとおそらく、天保十三年以前に与鹿がどこか西の方へ旅行をし、各所にあった建築付属物のデザインを書き写したものであった。この書物の中に和四郎との関わりのあるものが存在するかどうか、調査の待たれるところである。)

(上記四枚の写真は、下半田の唐子車にある立川和四郎富昌の作品)
後に、恵比寿台の「手長足長」―信州手長神社(諏訪)・下教来古諏訪社(山梨)。「子持龍(恵比寿台)」―信州興正寺山門(更埴)・八幡本殿正面。「麒麟台 唐子群遊」―信州諏訪神社拝殿(諏訪)・亀崎八幡山車の「力神の間にいる鶏」(半田)など、和四郎の下絵と酷似していると思われる作品があることから、少なからず影響を受けていたことは確かである。しかしその記録が和四郎研究家の資料になく、今後調査が必要と思われる。
また、後述するが、与鹿は高山時代に最低二回は立川流彫刻と遭遇している。この五台山の彫刻が一回目であることは、ほぼ間違いないが、後に天保十四年四月には、丹生川村還来寺の山門彫刻で立派な龍の彫刻を写生する。
これ以外に、出会いがあったかどうかは、立川流の彫刻を習ったかどうかにかかっているので、調査の待たれるところである。

(丹生川還来寺の門にある立川流の龍の彫刻)
ところで、誰が、この五台山組にこの「和四郎彫刻」を教えたかということであるが、筆者は一刀彫の祖、松田亮長ではないかとみている。松田亮長は、当時下向町の住人であり、与鹿の兄延恭とは一歳違いであった。お互い高山では著名人であり、後に応龍台の建築を共にしているところから知り合いであったのではと想像できる。
亮長は、旅が好きで方々を旅して歩いていたが、天保二年五月から六月に掛けて、諏訪地方から富士登山をし、また久能山、犬山を経て高山に帰っている。これは和四郎の彫刻がある場所であることから、その見学に行ったのではと想像できる。
また、亮長の作品の写しも前述の下絵展展示の与鹿絵集の中に見る事ができることから関わりがあったことは間違いない。
(与鹿の手帳にあった亮長作の湯のみの彫刻の拓本)
徳積善太
2008年01月28日
1月28日放送分 「節分の話。(ひだ歴史再発見風)」
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
今年ももう1ヶ月が過ぎようとしています。皆さん、節分のまめは用意されましたか?
私の本業は、三嶋豆ですので、やわらかく煎った大豆も発売しています。どうぞ御利用ください。
この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうにも掲載していますので、今までの放送についてご覧になりたい方がございましたら、どうぞ「ひだっちブログ」にアクセスしてみてください。また、番組に対するご意見やご要望、調べてほしいことなどがございましたら、ヒッツFMのほうに、ファクスかメールを下さい。ブログのほうへ書き込んでいただいても結構です。なるべくお調べしてお答えしていきたいと思います。
さて、今日の放送は第4週目ですが、節分が近いというので、今週は、節分とお豆のお話をしたいと思います。
元来、節分とは「季節を分ける」ことから「節分」です。現在では節分といえば立春の前日だけを指すようになりましたが、季節の始まりを示す立春、立夏、立秋、立冬の前日はいずれも節分なのです。
現在のように立春の前の節分が特にありがたがられる理由ですが、旧暦の時代では「立春正月」などといい、一年の始まりを立春付近に求めたことから、その前日は年の最後の日という意味合いを持ったと考えられます。このように年を分ける「節分」ということで、他の3つの節分より重要な位置を占めたようです。
豆まきでは、その年のえとの生まれの人:今年12,24,36,48,60,72,84,96,歳になる年男の人か、あるいは一家の主人が「福は内、鬼は外」といいながら煎った大豆をまき、みんな自分の年の数だけ豆を食べるとこれから1年病気にならないと言われています。 また、妊婦のいる家庭ではこの豆を安産のお守りにもします。もともと宮中の行事が一般家庭に普及したものとされますが、最近では大きな神社などで芸能人やスポーツ選手などを招いて豆まき大会をやっているケースも多いですね。
さて、この大豆ですが、硬いですね。 硬いものというのは、陰陽道の「木火土金水」の五行では「金」=かねに属します。この大豆は最初煎ることによって火気にあてられ「火にあぶって、金の力をなくします。」これを陰陽道では剋すといいます、 また、「鬼は外」といって外にまかれて捨てられたり、「福は内」といってまかれてから人々に食べられたりして、要するに豆はみんな「やっつけられてしまいます」。剋されるわけです。

古来疫病や災厄というのも金気に属するものと考えられていました。ですから豆というのは実は鬼をやっつける道具でありながら実は鬼そのものでもあるわけで、豆まきというのは邪気を祓うとともに、「金」の気を剋する」という意味があります。陰陽道で「金を剋するのは植物の木」ですから、金を剋すことによって植物の気を産む。つまり春の気を助ける行事という意味から、春を呼ぶ行事とされているのです。
最近、スーパーなどに行くと、「節分用太巻き」というのが売ってあります。節分の夜にその年の恵方を向いて、太い巻き寿司をらっぱでも吹くかのようにくわえ、無言で食うと、1年間よいことがあるのだそうです。もともとは愛知県の方の風習らしいのですが、1977年に大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとして道頓堀で実施したのをマスコミが取り上げ、早速全国のお寿司屋さんがそれに便乗して全国に広まったということのようです。この日大阪の百貨店では巻き寿司が4万本売れるとのことです。まるでバレンタインデーのチョコレートと同じですよね。
なお、恵方(えほう,あきのかた)というのはその年に美しき歳徳神がいる方角で、昨年の2007年は壬の方角(北のやや西寄り)でした。巻き寿司を使うのは「福を巻き込む」からで、「縁を切らないために包丁を入れない」ということで、まるごと食べることになったようです。この恵方は毎年変化するのですが、ことし、2008年の恵方は丙の方位ですから、南のやや東よりを向いて食べるといいようです。 いいですか、南のやや東よりです。南南東の方角です。間違えないようにしてくださいね。
さて、ここでちょっとブレイクしましょう。 曲は竹内マリアの「駅」をお届けします。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日は、節分とまめのお話を、ひだ歴史再発見風にお届けしています。
さて、節分のお話だけしていますと、飛騨再発見ということになりませんので、ここからは飛騨のお話をしていきたいと思います。私の家の掛け軸にこのようなお話があります。

「昔、飛騨の久々野山の麓に農事に熱心な甚吉というものあり。あるとき豆の木のまま国主に献上せしに、滋養分多く大いに賞賛ありて、姓を青豆と賜りしという」
このお話は、現実のお話で、久々野から朝日の青屋へ抜けるあたりに、現在も青豆さんという一族が住んでおられます。私もまだ見たことがないのですが、この方の御先祖が、「青豆」という姓と帯刀を許されたという書付があるそうです。
青豆甚吉さんは、10代続く旧家で、江戸時代初期にこの青豆を開発されました。時代的には、3代目の金森重頼公か頼直公の頃だと思われますが、一度、確認したいと思っています。この前、うかがったのですが、昔、私のおじいさんと青豆さんのおじいさんが剣道か何かで戦ったことがあり、「三嶋豆と青豆の戦いだ!」といわれたという逸話が残っているそうです。

話がそれましたが、この豆は、現在では「薄青大豆」と呼ばれる豆で、一般に青豆と呼ばれているものよりは色が薄く、黒目で、扁平の丸形で、中流の形をしています。植えると、根元の部分が赤紫色になる品種で、私は、この品種を長年探してまいりました。しかし、ほとんどのものが飛騨で多く流通していた「ハトコロシ」という大粒種との雑種になっていました。この大豆、実は、飛騨から信州にかけての特有の品種で、塩尻にある農業試験場で、原種として農林水産省の種を保存するバンクに保管されていました。一昨年、岐阜県高冷地試験場や、高山市農業委員会の皆様の御協力で、原種の特定にようやくこぎつけ、飛騨の特定品種としての開発が可能になったばかりです。
三嶋豆という商品は、昔からこの大豆を使っていました。明治時代には、私の家は「錦豆」という名前で販売されていましたし、明治時代には、他社製品で「火の出る豆 大和豆」という名前でも販売されていたことがあります。私が20年前に家を継いだときに古老の方から「お前のところの豆は、暗闇でつぶすとぱっと火が出た」とか「衣に火の出る要素が含まれていて、こすり合わせると出た。押入れでやったので、翌日、布団がありだらけになって、親にものすごくおこられた」とかいう話を伺いました。どちらの方にも、「火の色は何色ですか?」と尋ねたら、「青白い火だった」ということでした。
成分を調べてみましたが、衣には発火する元素は含まれておらず、大豆のほうに含まれている「リン」が発光したことがわかりました。世の中に、リンというのは、土壌などに含まれていて、特に人間の骨に含まれているものは、墓場の近くで発行するために「ひとだま」と呼ばれています。高冷地農業試験場の鍵谷先生のお話ですと、「大豆そのものに、リンを生み出す力は無く、おそらく土壌に含まれているリンを体内に蓄えていたのではないだろうか」ということでした。昔から、飛騨では大豆を林間地の痩せた土地や、山間部であまり作物が育たないような場所に植えたらしいので、土中に含まれるリン分が豊富にあったものだと思います。
さて、今年の節分の時には、今日のお話を思い出しながら、「福は内、鬼は外」といって、皆様に幸せが迷い込むように、豆まきをしてくださいね。
来週の放送は、飛騨の匠のお話。水間相模と松田太右衛門をお届けします。
今日は、この曲でお別れです。「寺尾聰で 出航(さすらい)」 ではまた来週。
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
今年ももう1ヶ月が過ぎようとしています。皆さん、節分のまめは用意されましたか?
私の本業は、三嶋豆ですので、やわらかく煎った大豆も発売しています。どうぞ御利用ください。
この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうにも掲載していますので、今までの放送についてご覧になりたい方がございましたら、どうぞ「ひだっちブログ」にアクセスしてみてください。また、番組に対するご意見やご要望、調べてほしいことなどがございましたら、ヒッツFMのほうに、ファクスかメールを下さい。ブログのほうへ書き込んでいただいても結構です。なるべくお調べしてお答えしていきたいと思います。
さて、今日の放送は第4週目ですが、節分が近いというので、今週は、節分とお豆のお話をしたいと思います。
元来、節分とは「季節を分ける」ことから「節分」です。現在では節分といえば立春の前日だけを指すようになりましたが、季節の始まりを示す立春、立夏、立秋、立冬の前日はいずれも節分なのです。
現在のように立春の前の節分が特にありがたがられる理由ですが、旧暦の時代では「立春正月」などといい、一年の始まりを立春付近に求めたことから、その前日は年の最後の日という意味合いを持ったと考えられます。このように年を分ける「節分」ということで、他の3つの節分より重要な位置を占めたようです。
豆まきでは、その年のえとの生まれの人:今年12,24,36,48,60,72,84,96,歳になる年男の人か、あるいは一家の主人が「福は内、鬼は外」といいながら煎った大豆をまき、みんな自分の年の数だけ豆を食べるとこれから1年病気にならないと言われています。 また、妊婦のいる家庭ではこの豆を安産のお守りにもします。もともと宮中の行事が一般家庭に普及したものとされますが、最近では大きな神社などで芸能人やスポーツ選手などを招いて豆まき大会をやっているケースも多いですね。
さて、この大豆ですが、硬いですね。 硬いものというのは、陰陽道の「木火土金水」の五行では「金」=かねに属します。この大豆は最初煎ることによって火気にあてられ「火にあぶって、金の力をなくします。」これを陰陽道では剋すといいます、 また、「鬼は外」といって外にまかれて捨てられたり、「福は内」といってまかれてから人々に食べられたりして、要するに豆はみんな「やっつけられてしまいます」。剋されるわけです。

古来疫病や災厄というのも金気に属するものと考えられていました。ですから豆というのは実は鬼をやっつける道具でありながら実は鬼そのものでもあるわけで、豆まきというのは邪気を祓うとともに、「金」の気を剋する」という意味があります。陰陽道で「金を剋するのは植物の木」ですから、金を剋すことによって植物の気を産む。つまり春の気を助ける行事という意味から、春を呼ぶ行事とされているのです。
最近、スーパーなどに行くと、「節分用太巻き」というのが売ってあります。節分の夜にその年の恵方を向いて、太い巻き寿司をらっぱでも吹くかのようにくわえ、無言で食うと、1年間よいことがあるのだそうです。もともとは愛知県の方の風習らしいのですが、1977年に大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとして道頓堀で実施したのをマスコミが取り上げ、早速全国のお寿司屋さんがそれに便乗して全国に広まったということのようです。この日大阪の百貨店では巻き寿司が4万本売れるとのことです。まるでバレンタインデーのチョコレートと同じですよね。
なお、恵方(えほう,あきのかた)というのはその年に美しき歳徳神がいる方角で、昨年の2007年は壬の方角(北のやや西寄り)でした。巻き寿司を使うのは「福を巻き込む」からで、「縁を切らないために包丁を入れない」ということで、まるごと食べることになったようです。この恵方は毎年変化するのですが、ことし、2008年の恵方は丙の方位ですから、南のやや東よりを向いて食べるといいようです。 いいですか、南のやや東よりです。南南東の方角です。間違えないようにしてくださいね。
さて、ここでちょっとブレイクしましょう。 曲は竹内マリアの「駅」をお届けします。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日は、節分とまめのお話を、ひだ歴史再発見風にお届けしています。
さて、節分のお話だけしていますと、飛騨再発見ということになりませんので、ここからは飛騨のお話をしていきたいと思います。私の家の掛け軸にこのようなお話があります。

「昔、飛騨の久々野山の麓に農事に熱心な甚吉というものあり。あるとき豆の木のまま国主に献上せしに、滋養分多く大いに賞賛ありて、姓を青豆と賜りしという」
このお話は、現実のお話で、久々野から朝日の青屋へ抜けるあたりに、現在も青豆さんという一族が住んでおられます。私もまだ見たことがないのですが、この方の御先祖が、「青豆」という姓と帯刀を許されたという書付があるそうです。
青豆甚吉さんは、10代続く旧家で、江戸時代初期にこの青豆を開発されました。時代的には、3代目の金森重頼公か頼直公の頃だと思われますが、一度、確認したいと思っています。この前、うかがったのですが、昔、私のおじいさんと青豆さんのおじいさんが剣道か何かで戦ったことがあり、「三嶋豆と青豆の戦いだ!」といわれたという逸話が残っているそうです。

話がそれましたが、この豆は、現在では「薄青大豆」と呼ばれる豆で、一般に青豆と呼ばれているものよりは色が薄く、黒目で、扁平の丸形で、中流の形をしています。植えると、根元の部分が赤紫色になる品種で、私は、この品種を長年探してまいりました。しかし、ほとんどのものが飛騨で多く流通していた「ハトコロシ」という大粒種との雑種になっていました。この大豆、実は、飛騨から信州にかけての特有の品種で、塩尻にある農業試験場で、原種として農林水産省の種を保存するバンクに保管されていました。一昨年、岐阜県高冷地試験場や、高山市農業委員会の皆様の御協力で、原種の特定にようやくこぎつけ、飛騨の特定品種としての開発が可能になったばかりです。
三嶋豆という商品は、昔からこの大豆を使っていました。明治時代には、私の家は「錦豆」という名前で販売されていましたし、明治時代には、他社製品で「火の出る豆 大和豆」という名前でも販売されていたことがあります。私が20年前に家を継いだときに古老の方から「お前のところの豆は、暗闇でつぶすとぱっと火が出た」とか「衣に火の出る要素が含まれていて、こすり合わせると出た。押入れでやったので、翌日、布団がありだらけになって、親にものすごくおこられた」とかいう話を伺いました。どちらの方にも、「火の色は何色ですか?」と尋ねたら、「青白い火だった」ということでした。
成分を調べてみましたが、衣には発火する元素は含まれておらず、大豆のほうに含まれている「リン」が発光したことがわかりました。世の中に、リンというのは、土壌などに含まれていて、特に人間の骨に含まれているものは、墓場の近くで発行するために「ひとだま」と呼ばれています。高冷地農業試験場の鍵谷先生のお話ですと、「大豆そのものに、リンを生み出す力は無く、おそらく土壌に含まれているリンを体内に蓄えていたのではないだろうか」ということでした。昔から、飛騨では大豆を林間地の痩せた土地や、山間部であまり作物が育たないような場所に植えたらしいので、土中に含まれるリン分が豊富にあったものだと思います。
さて、今年の節分の時には、今日のお話を思い出しながら、「福は内、鬼は外」といって、皆様に幸せが迷い込むように、豆まきをしてくださいね。
来週の放送は、飛騨の匠のお話。水間相模と松田太右衛門をお届けします。
今日は、この曲でお別れです。「寺尾聰で 出航(さすらい)」 ではまた来週。
徳積善太
2008年01月27日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」8
◇吉兵衛と弟子与鹿
中川吉兵衛は、二代目和四郎富昌の弟子ではないかと伝えられている。しかし、和四郎の系統図
にその名がなく、どの弟子について習ったかは未だに不明である。したがって、立川流の彫刻技法
を身につけていたということには疑問が残る。
後日談であるが、立川流彫刻研究家間瀬恒祥氏が平成になって調査したところによると、「ノミの
使い方等が宮大工の技法が見られるが立川流の流れであるとは断定しにくい」とのことであり、
また、「立川流の関係者であると言う証拠も見つかっていない。」とのお話であった。
吉兵衛は、彫刻の才を与鹿に見出し、彫刻の技術を熱心に教え込んだことだろう。

立川流の彫刻では、当時獅子や牡丹、鳥などの彫刻がもっとも盛んな頃であった。五台山の
彫刻(写真)を見た時にノミの使い方・木目の使い方などを、弟子入りした与鹿に熱心に教え込んだ事
は間違いないと思われる。与鹿には、子供ながらにすごい技術を持った師匠であると映ったに違い
ない。
このとき与鹿は、下絵を取ること、その下絵をもとに荒彫りをし、習作をすること、最終仕上げ彫刻を
すること、そして和四郎の流れである「木目を活かすこと」の技術を習得していく。
また、生活もすべて身の回りの事は自分でやっていかなくてはならないという生活に様変わりする。
ただし、自分で家事などをしたことのない人間は、自分の興味のある事ばかりに没頭し、掃除や洗濯
など身の回りの事には無頓着になることは、昨今の芸術家と呼ばれる人の共通点である。
したがって、後日談として与鹿が酒や彫刻に没頭したことや、蚤がついて綿入れの綿を全部出し、
着物を裏返しにきたという逸話にある通り、少年与鹿には躾がされてなかったのではなかろうか。
吉兵衛も子供の躾について厳しく言ったであろうが、なかなか思うようにいかない少年与鹿には
手を焼いたことであろう。
この頃、仙人台の彫刻には、珍しく吉兵衛、与鹿、浅井一之と三代の彫刻師が関わっているが、
年齢や仕事を行った年度から推定すると弘化四年(一八四七)頃ではないかと思われる。

与鹿の手帳(天保十三年 高山市郷土館蔵)を見ると、馬や鳥の骨格や名称についてまで、
かなり詳細な研究をしており、与鹿が相当な勉強家であったことを物語っている。
この詳細な描写が、のちに獅子や鳳凰、龍といった彫刻の肉体を生き生きとさせる描写
につながっていると思われる。
徳積善太
中川吉兵衛は、二代目和四郎富昌の弟子ではないかと伝えられている。しかし、和四郎の系統図
にその名がなく、どの弟子について習ったかは未だに不明である。したがって、立川流の彫刻技法
を身につけていたということには疑問が残る。
後日談であるが、立川流彫刻研究家間瀬恒祥氏が平成になって調査したところによると、「ノミの
使い方等が宮大工の技法が見られるが立川流の流れであるとは断定しにくい」とのことであり、
また、「立川流の関係者であると言う証拠も見つかっていない。」とのお話であった。
吉兵衛は、彫刻の才を与鹿に見出し、彫刻の技術を熱心に教え込んだことだろう。
立川流の彫刻では、当時獅子や牡丹、鳥などの彫刻がもっとも盛んな頃であった。五台山の
彫刻(写真)を見た時にノミの使い方・木目の使い方などを、弟子入りした与鹿に熱心に教え込んだ事
は間違いないと思われる。与鹿には、子供ながらにすごい技術を持った師匠であると映ったに違い
ない。
このとき与鹿は、下絵を取ること、その下絵をもとに荒彫りをし、習作をすること、最終仕上げ彫刻を
すること、そして和四郎の流れである「木目を活かすこと」の技術を習得していく。
また、生活もすべて身の回りの事は自分でやっていかなくてはならないという生活に様変わりする。
ただし、自分で家事などをしたことのない人間は、自分の興味のある事ばかりに没頭し、掃除や洗濯
など身の回りの事には無頓着になることは、昨今の芸術家と呼ばれる人の共通点である。
したがって、後日談として与鹿が酒や彫刻に没頭したことや、蚤がついて綿入れの綿を全部出し、
着物を裏返しにきたという逸話にある通り、少年与鹿には躾がされてなかったのではなかろうか。
吉兵衛も子供の躾について厳しく言ったであろうが、なかなか思うようにいかない少年与鹿には
手を焼いたことであろう。
この頃、仙人台の彫刻には、珍しく吉兵衛、与鹿、浅井一之と三代の彫刻師が関わっているが、
年齢や仕事を行った年度から推定すると弘化四年(一八四七)頃ではないかと思われる。
与鹿の手帳(天保十三年 高山市郷土館蔵)を見ると、馬や鳥の骨格や名称についてまで、
かなり詳細な研究をしており、与鹿が相当な勉強家であったことを物語っている。
この詳細な描写が、のちに獅子や鳳凰、龍といった彫刻の肉体を生き生きとさせる描写
につながっていると思われる。
徳積善太
2008年01月26日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」7
◇師匠 中川吉兵衛

彫吉こと、師匠中川吉兵衛は文化十三年ごろ以前に、諏訪の和四郎に宮大工の技術を習った
という説がある。
下三之町に居住していた。文化十三年(一八一六)高山 東照宮の本殿の彫刻(写真)を完成させ、
飛騨で一躍有名になる。
「第十八代飛騨郡代芝与市右衛門正盛の要請と、桜山長久寺良賢法院(現桜山八幡宮別当職)
や、江戸にいた金森家ゆかりの者たちの奔走により、文化十三年(一八一六)荒廃していた
東照宮の再建が始められ、主任工匠は水間相模守宗俊であったが、谷口権之守延儔も建築に
参画し、彫刻はすべて中川吉兵衛がてがけている。(東照宮文献)」とある。
中川吉兵衛がそれ以前から工匠谷口家にいたものか、このとき初めて高山に来たものかは不明
だが、それ以後は谷口家工匠の一人として、宮彫りや屋台彫刻に関わっている。(種蔵泰一氏)

吉兵衛の有名な作品は、文化八年(一八一一)に完成させた布袋台中段の六頭の唐獅子彫刻
や上段欄間の「波に龍」・屋根下棟下の「雲に鏡」。文政年間(一八一八頃か)、谷口家において
設計された石橋台(現在の石橋台の前身)、弘化二年(一八四五)に改修された麒麟台の上段・
中段欄間の彩色牡丹の彫刻。山王神楽台の牡丹彫刻。そのほか神社の彫刻にいたるまで数
多い彫刻を携わっていたものと思われる。
(追記:この人については、謎が多く、どこから来たのか、またどこでなくなったのか全く不明であり、
高山にとっては忽然と現われて、忽然と高山から去っている。立川流の彫刻師の系図にもその名
が無く、どこで彫刻の技術を身に着けたかは全く不明の人である。)
徳積善太
彫吉こと、師匠中川吉兵衛は文化十三年ごろ以前に、諏訪の和四郎に宮大工の技術を習った
という説がある。
下三之町に居住していた。文化十三年(一八一六)高山 東照宮の本殿の彫刻(写真)を完成させ、
飛騨で一躍有名になる。
「第十八代飛騨郡代芝与市右衛門正盛の要請と、桜山長久寺良賢法院(現桜山八幡宮別当職)
や、江戸にいた金森家ゆかりの者たちの奔走により、文化十三年(一八一六)荒廃していた
東照宮の再建が始められ、主任工匠は水間相模守宗俊であったが、谷口権之守延儔も建築に
参画し、彫刻はすべて中川吉兵衛がてがけている。(東照宮文献)」とある。
中川吉兵衛がそれ以前から工匠谷口家にいたものか、このとき初めて高山に来たものかは不明
だが、それ以後は谷口家工匠の一人として、宮彫りや屋台彫刻に関わっている。(種蔵泰一氏)
吉兵衛の有名な作品は、文化八年(一八一一)に完成させた布袋台中段の六頭の唐獅子彫刻
や上段欄間の「波に龍」・屋根下棟下の「雲に鏡」。文政年間(一八一八頃か)、谷口家において
設計された石橋台(現在の石橋台の前身)、弘化二年(一八四五)に改修された麒麟台の上段・
中段欄間の彩色牡丹の彫刻。山王神楽台の牡丹彫刻。そのほか神社の彫刻にいたるまで数
多い彫刻を携わっていたものと思われる。
(追記:この人については、謎が多く、どこから来たのか、またどこでなくなったのか全く不明であり、
高山にとっては忽然と現われて、忽然と高山から去っている。立川流の彫刻師の系図にもその名
が無く、どこで彫刻の技術を身に着けたかは全く不明の人である。)
徳積善太
2008年01月25日
了泉寺の本堂
今日は、了泉寺さまに伺って、開基などいろいろとお聞きすることができました。
その折、本堂を見せていただきましたが、昔、専念寺から火が出て類焼したときに、霊雲寺の
旧本堂が、恩林寺に行っていたので、ご縁があって譲り受け、移築したとのことでした。
昔は、お寺などはいい材料で作ってあったので、移築するケースが多かったんです。
伝承ですが、有名な飛騨の匠の作品だということでした。
棟札などは残っていませんのでわかりませんが、虹梁の雲の形からすると、谷口家の
くもの形によく似ていますので、谷口家の人の作品ではないかと思いました。
徳積善太
2008年01月24日
今日は24日市でした
今日は高山市の本町通りで24日市が開かれました。
今では、1月24日(太陽暦)に24日市が開かれていますが、昔は旧暦の1月24日でした。
旧暦でいうと、だいたい現在の年末ということになり、お正月の準備にあけくれているとき、
しょうけや、年取りのおかず、冬の支度などで歳末大売出しで大変にぎわう市でした。
また、場所も、現在では、本町通で行われていますが、昔は安川通りがメインだったようです。
道行く人は、ときどき吹雪くゆきにまぎれながら、道路の真中に設置してある焚き火で
暖を取り、ビニール袋を下げて、家路に急いでおられました。
徳積善太
2008年01月24日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」6
◇弟子入り(八歳~十歳頃)
文政十二年(一八二九)頃ただでさえ人手が足りないところに、相次ぐ不幸が続いた事で、家は多忙を極めるようになった。与鹿は、一人で熱心に刃物を研いでいるものの、時間を見つけては木の破片などを使って彫刻に専念した。もうこの頃になると、兄延恭は一人前の大工として才覚を顕し始め、二人の姉たちは家人と門弟の家事のために忙しくて、なかなか与鹿と遊ぶような暇がなかった。このころから与鹿は、家人からまるで邪魔者扱い。父親から将来は祖父のような立派な大工になるよう言われ修行を始めた。のみやかんなの研ぎ方を習い、絵の修行をし、木の加工を覚えていく。
天保二年(一八三一)、与鹿のすぐ上の姉たきも嫁ぎ、義弟紹芳をも失った谷口家には、とうとう十歳になった少年与鹿の面倒をみるひとがいなくなってしまった。
当時、相変わらず仕事は目白押しで、父も五十代になりすでに引退もささやかれる年代であったし、兄の延恭も棟梁として立派にやっているときに、与鹿は足手まといになりかねない存在であった。年齢的には少し早いと思ったが、父延儔は与鹿を、盟友中川吉兵衛に預ける事にする。与鹿はすでに、絵画や習作の技術は子供ながらかなりのものを身に付けていたが、父としてはやはり大工としての技術を身に付けさせたかったのではないだろうか。
文政十二年(一八二九)頃ただでさえ人手が足りないところに、相次ぐ不幸が続いた事で、家は多忙を極めるようになった。与鹿は、一人で熱心に刃物を研いでいるものの、時間を見つけては木の破片などを使って彫刻に専念した。もうこの頃になると、兄延恭は一人前の大工として才覚を顕し始め、二人の姉たちは家人と門弟の家事のために忙しくて、なかなか与鹿と遊ぶような暇がなかった。このころから与鹿は、家人からまるで邪魔者扱い。父親から将来は祖父のような立派な大工になるよう言われ修行を始めた。のみやかんなの研ぎ方を習い、絵の修行をし、木の加工を覚えていく。
天保二年(一八三一)、与鹿のすぐ上の姉たきも嫁ぎ、義弟紹芳をも失った谷口家には、とうとう十歳になった少年与鹿の面倒をみるひとがいなくなってしまった。
当時、相変わらず仕事は目白押しで、父も五十代になりすでに引退もささやかれる年代であったし、兄の延恭も棟梁として立派にやっているときに、与鹿は足手まといになりかねない存在であった。年齢的には少し早いと思ったが、父延儔は与鹿を、盟友中川吉兵衛に預ける事にする。与鹿はすでに、絵画や習作の技術は子供ながらかなりのものを身に付けていたが、父としてはやはり大工としての技術を身に付けさせたかったのではないだろうか。
2008年01月23日
ショック!(ToT)
大切なハードディスクを落としてしまいました。
いま入院しています。インターフェイスが壊れて接続ができません。
データはわかりません。
一応、11月末までのデータはバックアップしてありますが、それ以降に結構沢山の
データを作っていますので、もし見れなくなったらショックです。
どうか直りますよう!
rekisy
いま入院しています。インターフェイスが壊れて接続ができません。
データはわかりません。
一応、11月末までのデータはバックアップしてありますが、それ以降に結構沢山の
データを作っていますので、もし見れなくなったらショックです。
どうか直りますよう!
rekisy
2008年01月23日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」5
◇叔父紹芳の死(七歳)
文政十一年(一八二八)、そんな悲しみの中に暮れる谷口家に、追い討ちをかけるように更なる不幸が訪れる。
三月におすみ、八月のおつねの一周忌を済ませないうちに、今度は与鹿の叔父の紹芳が相次いで亡くなる。
父延儔は、自分の娘ばかりでなく、最大の右腕とも言える紹芳を失ったことは相当大きな痛手であったに違いない。
このとき、紹芳は十年前に日枝神社神輿の完成をし、このころになってやっと一人前の棟梁として一人立ちできた状態で、延次にとっても権之守拝受と共にこの上ない喜びではあったが、好事魔多しとはこのことで、不幸も続いた。紹芳がすでに下絵も完成させ手がけていた「竜神台基礎」を延儔は、彼の代役として悲しみの中で完成させることになる。
◇母の強さ
文政十三年(一八三〇)頃になると、与鹿の遊び相手でもあった姉たきも年頃となり叔父の一周忌も済ませたので祝言をあげる。
祖母ぎんもようやく安どのここちになったのか、十月にこの世を去る。七十三歳であった。
娘二人、自分の右腕、そして最愛の母までをも失った父母延儔とお佐野であった。中でもお佐野はこの「人の死」ということを通じて息子与鹿にも強く生きることを教えたに違いない。自分はこの時期に精神的な強さを持ったからこそ、当時としては長命の八十四歳までのちのち生きることになる。
つづく
2008年01月22日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」4

◇大工修行
与鹿は遊びのかわりに仕事をさせられるようになり、刃物を研ぐ仕事はもっぱら与鹿の仕事となっていった。このころ飛騨地方の農家では、貧しさのために口減らしといって、まだ幼い子供を旦那衆や武家に奉公に出し、自分達の食い扶持を減らす事を行っていた。こうしたことから、大体の大工は、十歳前後にすでに丁稚、小僧として修行に出されるケースが多かった。大工棟梁として三代にわたる伝統はあっても、実際の生活が質素だった谷口家では、おそらく与鹿に大工仕事の英才教育として、このころにノミを持たせるようにしていったのではないかと想像できる。さすがに大工の血統を持つ与鹿は、覚えが早く、幼少にしてその技を習得していったことであろう。
◇谷口家の好事と不幸
(六歳)
父延儔は、文政九年(一九二六)四月に京都の服職師河合某に認証参内衣装を依頼し、狩衣・冠・単・表袴などの代金として一両六〇五分余りを支出している。文政十年(一八二七)三月に上京し、公家(一条吉田家?)のはからいで宮中参内し、永代「権之守」の称号を得た。この称号は、公家に習うものであり、その地位は従五位という相当高い位であった。
その渦中、地元高山ではやっと三歳になったばかりの妹「おすみ」が三月に不慮の死を遂げる。子供が死ぬか生きるかの病気の時に上洛するとは考えにくく、おそらく事故死だったのではなかろうか。
少年与鹿にとって、初めて経験する人間の「死」であり、自分と四歳しか離れていない妹の死は彼の心に「死の悲しみ」というものを植えつけたであろう。
そんな、悲しみの中で、地元に帰って、父が権之守を授けられ大いに歓喜に沸いた谷口家であった。
しかし、そんな喜びもつかの間、引き続いて、やっと清水家に嫁に行った与鹿の姉おつねが八月に相次いでなくなる。
病死か事故死なのかははっきりしないが、与鹿には、母のような存在であった、やさしい姉の死が、彼の心に「人の死」という事実に対して、さらなる追い討ちをかけた。父母の悲しみも、いかばかりかのものであったに違いない。こんなことなら、権之守などという肩書きなど、もらわない方が、こんな悲しみを味わわなくてもよかったのではと後悔の念もあったのではなかろうか。
つづく
2008年01月21日
1月21日放送分「続 飛騨ぶり街道」
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
今年もあっというまですね。もう3週目に入りました。今年は雪が多いということでしたが、寒い日が続いていますね。どうぞ、風邪など引かないようにしてくださいね。
この放送ですが、昨年の四月から始まりまして、38回目の放送となりました。この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうにも掲載していますので、今までの放送についてご覧になりたい方がございましたら、どうぞ「ひだっちブログ」にアクセスしてみてください。
さて、今日の放送は第3週目ということで、いつもは古川の話題をお届けするところですが、先週、古川の「三寺参り」のお話をしましたので、今週は、飛騨のお話をしたいと思います。
年末に、「ひだぶり街道」についてのお話をしましたが、12月にちょっと富山へ行く機会がありまして、そこで新しく発見したことがありますので、この1ヶ月でお調べした「ひだぶり街道のお話の続編」をお話します。
先月、「飛騨ぶり街道祭」というのが、行われましたが、皆さんいかれましたでしょうか? 12/9には、高山市の朝日町で大々的なイベントがあり、翌週には高山グリーンホテルさんのほうで、富山の商工会議所の皆さんが、ぶりを運んでこられて、高山商工会議所の皆さんにお届けするというイベントが行われました。はっぴ姿に傘をかぶった2人の方が鰤を両てんびんにかついで来られた様子が、新聞などにも掲載されていましたね。
実は、高山のイベントだけではなくて、富山の猪谷でも同じ名称の祭りが12月9日に行われていました。私も知らずに通りかかったのですが、ちょうど高山グリーンホテルにぶりを運んでこられた方が、猪谷の関所跡にぶりを運んでこられたところを目撃しました。調べてみると本当は天秤棒などを使って運んだのではないようです。どしまといって牛の背に乗せたり、人間が背負って運んだんですよ。あの天秤棒は、本当は間違いなんです。
その猪谷の関所館で、宮田館長さんや中村前館長さんとお会いして、いろいろとお話しすることができました。

まず、ひだぶりがどこを通ったかということですが、飛越街道には、東街道、西街道が主要道としてあり、西街道の途中から中街道というのがあったとお話しました。先日の放送では、西街道には、難所が3箇所もあったために、飛騨ぶりは東街道を通ったのではないか、ということでお話しました。「飛騨ぶり街道物語」という本の中で、国府町の郷土史家 菅田先生もこの東街道を通ったのではという書き方をされていました。

この話について、確実な証拠が得られなかったために、宮田館長さんにうかがいました。そうしたら、猪谷関所館にはこういった資料が残っていませんが、飛騨側の「口留め番所記録」というものの中に、面白い記述があったとのことで教えていただきました。
口留め番所というのは、金森時代に作られた飛騨と国境にあった関所で、金山の下原など国内に31箇所あった番所のことを言います。口留め番所と関所の違いですが、関所というのは、国が作った関所のことをいい、各藩が作ったものは、関所とは呼ばずに「番所」と呼んでいたそうです。
小学校や中学校のときに皆さんも習ったと思いますが、この関所の役割は、国へ出入りする人間の改め=お尋ね人などが入国しないかどうかの管理や、国へ出入りする物品に税金を課すという重要な任務がありました。
現在の、入国管理局や、税関のような役割をしていたんですね。
さて、この番所の全体を調べた資料がありませんので、全体の動きというものがわかりませんが、とても興味ある資料がありました。ぶりなどの塩魚にも課税されていたのです。
このぶりに関しては、富山藩は輸出積極策をとっていたらしく、富山藩内で流通するものには、課税をかけなかったので、猪谷の関所には通ったという記録はありませんでしたが、飛騨側の番所にあった記録をもとに類推することができるということでした。詳しいお話の前に、ちょっとブレイクしましょう。
今日は、グループサウンズの曲をお届けしましょう。「ズーニーブー で 白いさんご礁」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日の飛騨歴史再発見は、飛騨のぶり街道の続編をお話しています。
当時、この飛騨の3街道(東、西、中)には、それぞれ、荒田口番所、小豆沢番所、中山口番所という関所があり、それぞれ口銭を取り立てていました。寛政8年(1796中山口)の毎月の記録があって、塩魚、こうぞ、塩、米などの流通した記録がありましたが、なんと、そのときの塩魚は、中街道を通っていました。
時期は、旧暦の11月から2月にかけて。旧暦は太陽暦ですと、この頃は1ヶ月程遅いですから、旧暦11月が太陽暦12月ということです。冬の雪の多い時期に、たくさんの貨物が運ばれていることが分りました。しかも、通ったとされていた東街道では、荒田口番所に夏の間は1人の番人が配置されていましたが、冬の間は通行する人がほとんどないために、封鎖されていたようです。11月の口銭は、荒田口が0.小豆沢が約800文に対して、中山口が2両という金額を徴収していました。2年前の寛政6年には荒田口が2分127文、中山口が9両123文、12月には、荒田口が0、中山口が8両33文という数字です。これが全てではありませんが、非常に興味のある資料でした。もしどなたかがこのことについて、調べていただきますと、ぶりがどこを通ったか、全体像が分ってくるものと思います。

また、猪谷の少し飛騨よりのところに、蟹寺と書いてカンデラという難所があります。この蟹寺という場所が、籠の渡しで有名な場所で、安藤広重の浮世絵にも描かれた難所中の難所であることを申し上げましたが、実際に現場に立ってみると、確かに両側を崖がそびえ立ち、秘境の感じがしますが、対岸までは15mほどの場所で、確かに8mほど下には激流が流れていますが、絵で見るほど高さがなくて、「これなら渡れるな」という印象を受けました。昔は、ダムが無かったんで、土砂も埋まってなく、相当谷が深かったことでしょう。籠の渡しがあったところには、ここで亡くなった方の霊を鎮めるお地蔵様が五体、河の流れも鎮めるようにひっそりと崖の下に立っていました。

その上の蟹寺城跡に上ってみると、まさに絶景で、左に高原川、右に宮川を見ることができる景勝地です。

江戸時代には徳本上人も通られたようで、石碑が残されていました。

この徳本上人は、紀伊国の人で、江戸に一行院を開いた浄土宗近世の大徳でした。念仏百万遍を日課として精進し昼夜寝ず。一日の食事はソバ粉を五勺とカヤの実を一合などで、飯を喰べなかったそうです。晩年は諸国の民を教化して、万人から帰依されました。飛騨には文化十三年(1816)信濃の国から入国し、益田郡を経て高山へ来られました。七月十四日から三日間、大雄寺で本堂の正面縁側に高座を設けて、朝、昼、晩の三度、念信や談義(説教)を行いましたが、参り衆は、国内、わけても八賀筋や高原郷からは一家を挙げ、隣近り所交代でみな集り、はるばる越中の国からもやって来て聴聞し、郡衆は本堂外にもあふれ出て、高山の町では豆腐や菓子がみんな売り切れる騒ぎだったそうです。この人の揮毫による石碑は、飛騨には高山の大雄寺と善光寺の2箇所と蟹寺の1箇所に残されています。以前、半田へ彫刻の調査に行ったときもこの人の石碑をみつけ、非常にご縁を感じたことがあります。今回、蟹寺で見つけたときにも大変驚き、上人様のご縁を感じました。
さて、話を元に戻しますが、猪谷にあった古地図には、その少し下流のところに、点線が画かれていて、「牛渡りセ」という文字をみることができます。これは、籠の渡しを通さないで、荷物をおねた牛は、そのまま浅瀬を通って、対岸に渡り、中街道を通って荷物を運んだという証明です。このことから類推すると、どの街道も、非常に細い通りで、現在の国道のように2車線も広さがあるわけではありませんから、特に崖のようなところは、すれ違うにも大変だったと思います。
江戸時代の後期の逸話話ですが、白真弓肥太右衛門が、「街道を歩いていたときに、反対側から牛に荷駄を背負わせた人に合った。すれ違いに困っていると、肥太右衛門が、牛をひょっこりとかついだために、無事にすれ違うことができた」というお話があります。そのくらい街道を行く人は、すれ違いに気をつかったことでしょう。そんなことからも、旅に出る人は、主に、東街道・西街道を通ったのではないか。中街道はどちらかというと貨物専用の通りとして利用され、旅をするひとは、むしろ中街道は避けて通ったのではないか。と私は思いました。桐谷先生のお話ですと、「いやそうじゃない、国府町上広瀬の落合のあたりで、通行人はどちらの道が安全か情報交換をして、東中西のどれを通ろうか判断したと思う。」とおっしゃっていました。さて、事実はどうだったんでしょうかね。
さて、今日のお話はこのへんで。来週は、節分のお話をしたいと思います。 それでは最後に曲をお届けします。今日は、この曲でお別れです。「松山千春で 長い夜」 ではまた来週お会いしましょう!
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
今年もあっというまですね。もう3週目に入りました。今年は雪が多いということでしたが、寒い日が続いていますね。どうぞ、風邪など引かないようにしてくださいね。
この放送ですが、昨年の四月から始まりまして、38回目の放送となりました。この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうにも掲載していますので、今までの放送についてご覧になりたい方がございましたら、どうぞ「ひだっちブログ」にアクセスしてみてください。
さて、今日の放送は第3週目ということで、いつもは古川の話題をお届けするところですが、先週、古川の「三寺参り」のお話をしましたので、今週は、飛騨のお話をしたいと思います。
年末に、「ひだぶり街道」についてのお話をしましたが、12月にちょっと富山へ行く機会がありまして、そこで新しく発見したことがありますので、この1ヶ月でお調べした「ひだぶり街道のお話の続編」をお話します。
先月、「飛騨ぶり街道祭」というのが、行われましたが、皆さんいかれましたでしょうか? 12/9には、高山市の朝日町で大々的なイベントがあり、翌週には高山グリーンホテルさんのほうで、富山の商工会議所の皆さんが、ぶりを運んでこられて、高山商工会議所の皆さんにお届けするというイベントが行われました。はっぴ姿に傘をかぶった2人の方が鰤を両てんびんにかついで来られた様子が、新聞などにも掲載されていましたね。
実は、高山のイベントだけではなくて、富山の猪谷でも同じ名称の祭りが12月9日に行われていました。私も知らずに通りかかったのですが、ちょうど高山グリーンホテルにぶりを運んでこられた方が、猪谷の関所跡にぶりを運んでこられたところを目撃しました。調べてみると本当は天秤棒などを使って運んだのではないようです。どしまといって牛の背に乗せたり、人間が背負って運んだんですよ。あの天秤棒は、本当は間違いなんです。
その猪谷の関所館で、宮田館長さんや中村前館長さんとお会いして、いろいろとお話しすることができました。
まず、ひだぶりがどこを通ったかということですが、飛越街道には、東街道、西街道が主要道としてあり、西街道の途中から中街道というのがあったとお話しました。先日の放送では、西街道には、難所が3箇所もあったために、飛騨ぶりは東街道を通ったのではないか、ということでお話しました。「飛騨ぶり街道物語」という本の中で、国府町の郷土史家 菅田先生もこの東街道を通ったのではという書き方をされていました。

この話について、確実な証拠が得られなかったために、宮田館長さんにうかがいました。そうしたら、猪谷関所館にはこういった資料が残っていませんが、飛騨側の「口留め番所記録」というものの中に、面白い記述があったとのことで教えていただきました。
口留め番所というのは、金森時代に作られた飛騨と国境にあった関所で、金山の下原など国内に31箇所あった番所のことを言います。口留め番所と関所の違いですが、関所というのは、国が作った関所のことをいい、各藩が作ったものは、関所とは呼ばずに「番所」と呼んでいたそうです。
小学校や中学校のときに皆さんも習ったと思いますが、この関所の役割は、国へ出入りする人間の改め=お尋ね人などが入国しないかどうかの管理や、国へ出入りする物品に税金を課すという重要な任務がありました。
現在の、入国管理局や、税関のような役割をしていたんですね。
さて、この番所の全体を調べた資料がありませんので、全体の動きというものがわかりませんが、とても興味ある資料がありました。ぶりなどの塩魚にも課税されていたのです。
このぶりに関しては、富山藩は輸出積極策をとっていたらしく、富山藩内で流通するものには、課税をかけなかったので、猪谷の関所には通ったという記録はありませんでしたが、飛騨側の番所にあった記録をもとに類推することができるということでした。詳しいお話の前に、ちょっとブレイクしましょう。
今日は、グループサウンズの曲をお届けしましょう。「ズーニーブー で 白いさんご礁」
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今日の飛騨歴史再発見は、飛騨のぶり街道の続編をお話しています。
当時、この飛騨の3街道(東、西、中)には、それぞれ、荒田口番所、小豆沢番所、中山口番所という関所があり、それぞれ口銭を取り立てていました。寛政8年(1796中山口)の毎月の記録があって、塩魚、こうぞ、塩、米などの流通した記録がありましたが、なんと、そのときの塩魚は、中街道を通っていました。
時期は、旧暦の11月から2月にかけて。旧暦は太陽暦ですと、この頃は1ヶ月程遅いですから、旧暦11月が太陽暦12月ということです。冬の雪の多い時期に、たくさんの貨物が運ばれていることが分りました。しかも、通ったとされていた東街道では、荒田口番所に夏の間は1人の番人が配置されていましたが、冬の間は通行する人がほとんどないために、封鎖されていたようです。11月の口銭は、荒田口が0.小豆沢が約800文に対して、中山口が2両という金額を徴収していました。2年前の寛政6年には荒田口が2分127文、中山口が9両123文、12月には、荒田口が0、中山口が8両33文という数字です。これが全てではありませんが、非常に興味のある資料でした。もしどなたかがこのことについて、調べていただきますと、ぶりがどこを通ったか、全体像が分ってくるものと思います。
また、猪谷の少し飛騨よりのところに、蟹寺と書いてカンデラという難所があります。この蟹寺という場所が、籠の渡しで有名な場所で、安藤広重の浮世絵にも描かれた難所中の難所であることを申し上げましたが、実際に現場に立ってみると、確かに両側を崖がそびえ立ち、秘境の感じがしますが、対岸までは15mほどの場所で、確かに8mほど下には激流が流れていますが、絵で見るほど高さがなくて、「これなら渡れるな」という印象を受けました。昔は、ダムが無かったんで、土砂も埋まってなく、相当谷が深かったことでしょう。籠の渡しがあったところには、ここで亡くなった方の霊を鎮めるお地蔵様が五体、河の流れも鎮めるようにひっそりと崖の下に立っていました。

その上の蟹寺城跡に上ってみると、まさに絶景で、左に高原川、右に宮川を見ることができる景勝地です。
江戸時代には徳本上人も通られたようで、石碑が残されていました。
この徳本上人は、紀伊国の人で、江戸に一行院を開いた浄土宗近世の大徳でした。念仏百万遍を日課として精進し昼夜寝ず。一日の食事はソバ粉を五勺とカヤの実を一合などで、飯を喰べなかったそうです。晩年は諸国の民を教化して、万人から帰依されました。飛騨には文化十三年(1816)信濃の国から入国し、益田郡を経て高山へ来られました。七月十四日から三日間、大雄寺で本堂の正面縁側に高座を設けて、朝、昼、晩の三度、念信や談義(説教)を行いましたが、参り衆は、国内、わけても八賀筋や高原郷からは一家を挙げ、隣近り所交代でみな集り、はるばる越中の国からもやって来て聴聞し、郡衆は本堂外にもあふれ出て、高山の町では豆腐や菓子がみんな売り切れる騒ぎだったそうです。この人の揮毫による石碑は、飛騨には高山の大雄寺と善光寺の2箇所と蟹寺の1箇所に残されています。以前、半田へ彫刻の調査に行ったときもこの人の石碑をみつけ、非常にご縁を感じたことがあります。今回、蟹寺で見つけたときにも大変驚き、上人様のご縁を感じました。
さて、話を元に戻しますが、猪谷にあった古地図には、その少し下流のところに、点線が画かれていて、「牛渡りセ」という文字をみることができます。これは、籠の渡しを通さないで、荷物をおねた牛は、そのまま浅瀬を通って、対岸に渡り、中街道を通って荷物を運んだという証明です。このことから類推すると、どの街道も、非常に細い通りで、現在の国道のように2車線も広さがあるわけではありませんから、特に崖のようなところは、すれ違うにも大変だったと思います。
江戸時代の後期の逸話話ですが、白真弓肥太右衛門が、「街道を歩いていたときに、反対側から牛に荷駄を背負わせた人に合った。すれ違いに困っていると、肥太右衛門が、牛をひょっこりとかついだために、無事にすれ違うことができた」というお話があります。そのくらい街道を行く人は、すれ違いに気をつかったことでしょう。そんなことからも、旅に出る人は、主に、東街道・西街道を通ったのではないか。中街道はどちらかというと貨物専用の通りとして利用され、旅をするひとは、むしろ中街道は避けて通ったのではないか。と私は思いました。桐谷先生のお話ですと、「いやそうじゃない、国府町上広瀬の落合のあたりで、通行人はどちらの道が安全か情報交換をして、東中西のどれを通ろうか判断したと思う。」とおっしゃっていました。さて、事実はどうだったんでしょうかね。
さて、今日のお話はこのへんで。来週は、節分のお話をしたいと思います。 それでは最後に曲をお届けします。今日は、この曲でお別れです。「松山千春で 長い夜」 ではまた来週お会いしましょう!
2008年01月20日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」3

◇大工一家谷口家
谷口家は代々大工の棟梁を務める名門であった。
曾祖父五右衛門吉道は、宝暦八年(一七五八)金森頼錦が郡上八幡城主を改易され、浪々の身となった。「彼は金森家の旧地高山へ縁故を頼って移住して来た。
「郡上八幡城主金森頼錦の作事方を勤めており微録の身であったが、宝暦八年に主家がお家断絶となったので高山へ移った。」(代瀬山彦著作集)
また、平成になって発見された池之端家所蔵の古文書(飛騨春秋)によれば、谷口五兵衛の名前が馬回り方として記述が見られ、金森家が上ノ山に転封される前に家来として仕え、再転封となった郡上八幡への国替えの時にまた主家についてきたようである。
吉道は、渡世の業として大工の見習いとなり、当時の名匠松田太右衛門の高弟、今井庄兵衛(延享三年四月二十七日死没)のもとで修行し、工匠として一家をなすに至った。
吉道の子延次は、谷口家の再興の祖とされている。
「谷口家由来記」(谷口家蔵) によれば延次は一八歳のおり、単身尾張に赴いて名古屋の大工 野田五兵衛の御番匠を訪ね入門した。二十歳にして、高山二之町加賀屋長右衛門(二木家)の仕事をしたのがきっかけとなり、次第に大工「谷口与三郎」の名を上げていった。寛政八年(一七九六)、彼は伊勢・京都・大阪に遊んで大いに見聞を広め、後、専念寺や不遠寺などを建築している。谷口家に残る延次の肖像画には、萩原禅昌寺十八世荊林和尚が賛を書き、延次を「当家中興祖」とたたえている。荊林は臨済宗総本山妙心寺管長を務め、勅任となって紫衣を賜り、天子に拝謁している。退欄して禅昌寺に帰り、竜翔庵を立てて隠居した人である。これらの事実を総合すると、延次は相当な人物であったと推定される。」
(飛騨の匠 谷口与鹿 老田剛著)
◇父延儔と谷口家
祖父延次には、老田源七の養女「ぎん」との間に子供が四人あったが、男子吉太郎(幼名乙松)は五歳で死亡、きくは四歳で死亡し、長らく長女お佐野の婿に、玉井伊兵衛の息子の五兵衛(延儔)を婿養子に迎え、谷口家の後を取らせる。
晩年に男子「紹芳」を得るが、その時延次はすでに四四歳となっていた。彼は、寛政一二年(一七九九)頃に娘於佐野と祝言をあげ、大工の棟梁としても素質のあったであろう延儔に跡目をつがせるようにした。
「延儔は、秋声寺、法華寺の鐘堂などを建てており、高山陣屋、東照宮本殿建築にも参画し」(前述 飛騨の匠)ていた。のち文化一三年(一八一六)には、紹芳とともに日枝神社神輿を造ったほどの腕前であった。
大工の谷口家としては、妻のお佐野を中心に展開するこの時期が最も全盛期であった。当時、谷口家は向町(現在の本町一丁目)に家があり、いつ頃からこの地に住んでいたか定かではないが、琴高台記録によれば、・文久四年(一八六四)に三十二文・明治二年(一八六九)に四十八文
・明治十三年(一八八〇)に一円二、三十銭・明治二十七年(一八九四) に屋台講の支払いが、谷口家からあった事が確認できる。その後、大正五年には、この地が平野屋旅館になっているところから、明治後年までこの地に谷口家があったと思われる。(平成十七年現在、その場所は本陣平野屋 花兆庵「すし兆」のあたりである。)
つづく
2008年01月19日
一富士、二鷹、三なすび。そのあとに続くものは?
12日は、所属している雅楽会の新年会でした。高山一番の料亭「州さき」さんで毎年1月12日に開かれます。
私達の新年会は、全員が着物で参加し、座敷ゲームをした後、宴会になります。
宴会も、高山の祝い歌をやるのですが、(今日はなかったですが)松づくしという長歌のあと、高山の
祝い歌 めでたをやります。

その後、昔ながらの芸者あそびをするのですが、高齢の方がおられなくなり、少し寂しかったです。
最近では、着物を着て芸者さんをあげ、芸者さんが自分の芸を披露する宴会はおそらくこの宴会だけに
なっているようです。

ところで、その遊びの後に、「一富士、二鷹、三なすび」の後に続くものは・・・・・
というゲームがあり、とても勉強に成りました。
4・・・白南天 し(四)ろ南天
5・・・鯉 鯉の滝上りは、滝つぼに5匹の鯉を入れるそうです。
6・・・ひょうたん ム(六)病単
7・・・だるま 七ころび八起き
8・・・龍 昇り龍
9・・・馬 左馬
10・・・地蔵 十徳地蔵
というのだそうです。
8、9、10の理由に付いては、また調べておきます。
徳積善太
私達の新年会は、全員が着物で参加し、座敷ゲームをした後、宴会になります。
宴会も、高山の祝い歌をやるのですが、(今日はなかったですが)松づくしという長歌のあと、高山の
祝い歌 めでたをやります。
その後、昔ながらの芸者あそびをするのですが、高齢の方がおられなくなり、少し寂しかったです。
最近では、着物を着て芸者さんをあげ、芸者さんが自分の芸を披露する宴会はおそらくこの宴会だけに
なっているようです。
ところで、その遊びの後に、「一富士、二鷹、三なすび」の後に続くものは・・・・・
というゲームがあり、とても勉強に成りました。
4・・・白南天 し(四)ろ南天
5・・・鯉 鯉の滝上りは、滝つぼに5匹の鯉を入れるそうです。
6・・・ひょうたん ム(六)病単
7・・・だるま 七ころび八起き
8・・・龍 昇り龍
9・・・馬 左馬
10・・・地蔵 十徳地蔵
というのだそうです。
8、9、10の理由に付いては、また調べておきます。
徳積善太
2008年01月18日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」2

◇幼少時の与鹿
文政八年(一八二五)、与鹿は四歳になった。久しぶりの男子と言う事で、彼はある程度、家族の愛情をたくさん受けて過保護にわがままに育ったのではなかろうか。
岐阜県恵那地方の農家に伝わる伝承によれば、「子供時代に過保護に育った人間ほど、年を取ると親の言う事を聞かず、反撥するものだ。親を捨て、自分本位で生きようとするものである」とのことであるので、後年の彼の行動からすれば、幼少時はたくさんの人間の目と愛情に育まれて成長したに違いない。
幼少時の一番遊びが必要な時期に、一番の遊び相手だったのは、おそらく姉のおたき(当時十一才)であったろう。この年に、妹のおすみが生まれ、もっぱら子守はおたきの役目となる。もう一つ上の姉おつねは二二歳になっていたが、体が弱く病気がちだった上に、一門の炊き出し などで仕事に忙しく、母は産後の養生もあって、どちらかというと与鹿は、過保護にたくさんの遊び道具を与えられて、ほったらかしの状態であったと思われる。
一人ぼっちになった時に、寂しがり屋の与鹿は、誰にも遊んでもらえず、もっぱら地面に落書きをしたり、やぶれた端切らずをもってきては、兎や鯉の絵を描くことを覚えていったのではなかろうか。
時には仕事場に連れて行かれ一人になると、一本ののみと木を渡され、削って兄や父親の真似をして鳥などを彫り、姉のおたきが少し手の空いたときに遊んでもらうという毎日だったろうなどということが推察される。
つづく
2008年01月17日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」1
いま、私は、飛騨高山観光協会の会報に連載をしています。

その一部を御紹介します。
「◇はじめに
飛騨において郷土史家の皆さんに、昭和三十一年から研究発表の場として親しまれている「飛騨春秋」に数回投稿したところ、蓑谷観光協会長から、今回より、連載して協会紙に書かせていただく光栄な機会をいただきました。
飛騨の高山と言えば祭屋台が有名ですが、今日の高山の屋台の基礎を作ったのは、麒麟台の「籠伏せの鶏」や、恵比寿台の「手長足長」の彫刻で有名な 谷口与鹿を生んだ 谷口一門であると言っても過言ではありません。
私は、自身の屋台の研究活動をしているうちに、故 老田 剛先生の膨大な史料に出会い、自身の集めていた資料と共に 「与鹿さま」が高山で為した偉大な功績と、その資料収集に人生を掛け、与鹿物語の完成を志半ばで亡くなった老田先生の意志を何とか皆様にお伝えしたいと思い、筆を取る次第です。
これから連載させていただきます中には、諸先輩方がすでにご存知であって私が調査しきれていない部分や、私が脚色した部分も数多くあろうかと思います。その点につきましては、ご批判・ご指導をいただきながら、一つの研究成果にまとめていきたいと思っておりますので、皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます。
巻頭にあたり、このような機会をいただきました観光協会の関係各位の皆様には、一言御礼申し上げます。
なお、今回の物語は研究発表というより、なるべく史実に基づいた読み物としてまとめております。また、年令は数え年で記載しておりますことをご了承ください。
◇与鹿誕生 (一歳)
文政五年(一八二二年)、向町にあった谷口家で男の子が無事誕生した。二十三年ぶりの男子の誕生に、家は大いに沸いたことであろう。その子供には、「与鹿」と名づけられた。
谷口家にはそれまで、 一男五女(延恭、つね、とく、やす、たき、せい)があったが、ずっと生まれてくるのは女性ばかりで、子供はかわいいが、待ちに待った男子の誕生であった。(のちに六女 すみ が出生する)
当時、母の佐野は、四〇歳。父親の権守延儔は、四二歳と大工棟梁としては最も脂の乗った時期であったが、お佐野にとってはかなり遅い出産であった。
当時、谷口家はたくさんの見習い大工を抱え、まかない仕事などで母親お佐野は大変だった。一門郎党の台所を預かるのはこのお佐野と姉おつねの役割だった。が、お佐野は再三の妊娠(おとく、おやす、おたき、おせい、与鹿、おすみ)と連続で妊娠し、家事はおそらく一番上の姉おつねの役割となっていたと思われる。
残念な事に、母お佐野は、とく、やす、せい、すみを病気のため生後間もなく失い、子供ができてもすぐに死なしてしまうため、その心労は大変なものであったことだろう。
また、このころ、高山は再三の大火事で建築の仕事は絶えなかった。父親は家族をほったらかし、弟の紹芳も、長男延恭も忙しい。長男がいい歳になっているのに、なかなか嫁を取らず、晩婚だったことからも、仕事が多すぎて忙しかったことを物語っている。」
つづく

その一部を御紹介します。
「◇はじめに
飛騨において郷土史家の皆さんに、昭和三十一年から研究発表の場として親しまれている「飛騨春秋」に数回投稿したところ、蓑谷観光協会長から、今回より、連載して協会紙に書かせていただく光栄な機会をいただきました。
飛騨の高山と言えば祭屋台が有名ですが、今日の高山の屋台の基礎を作ったのは、麒麟台の「籠伏せの鶏」や、恵比寿台の「手長足長」の彫刻で有名な 谷口与鹿を生んだ 谷口一門であると言っても過言ではありません。
私は、自身の屋台の研究活動をしているうちに、故 老田 剛先生の膨大な史料に出会い、自身の集めていた資料と共に 「与鹿さま」が高山で為した偉大な功績と、その資料収集に人生を掛け、与鹿物語の完成を志半ばで亡くなった老田先生の意志を何とか皆様にお伝えしたいと思い、筆を取る次第です。
これから連載させていただきます中には、諸先輩方がすでにご存知であって私が調査しきれていない部分や、私が脚色した部分も数多くあろうかと思います。その点につきましては、ご批判・ご指導をいただきながら、一つの研究成果にまとめていきたいと思っておりますので、皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます。
巻頭にあたり、このような機会をいただきました観光協会の関係各位の皆様には、一言御礼申し上げます。
なお、今回の物語は研究発表というより、なるべく史実に基づいた読み物としてまとめております。また、年令は数え年で記載しておりますことをご了承ください。
◇与鹿誕生 (一歳)
文政五年(一八二二年)、向町にあった谷口家で男の子が無事誕生した。二十三年ぶりの男子の誕生に、家は大いに沸いたことであろう。その子供には、「与鹿」と名づけられた。
谷口家にはそれまで、 一男五女(延恭、つね、とく、やす、たき、せい)があったが、ずっと生まれてくるのは女性ばかりで、子供はかわいいが、待ちに待った男子の誕生であった。(のちに六女 すみ が出生する)
当時、母の佐野は、四〇歳。父親の権守延儔は、四二歳と大工棟梁としては最も脂の乗った時期であったが、お佐野にとってはかなり遅い出産であった。
当時、谷口家はたくさんの見習い大工を抱え、まかない仕事などで母親お佐野は大変だった。一門郎党の台所を預かるのはこのお佐野と姉おつねの役割だった。が、お佐野は再三の妊娠(おとく、おやす、おたき、おせい、与鹿、おすみ)と連続で妊娠し、家事はおそらく一番上の姉おつねの役割となっていたと思われる。
残念な事に、母お佐野は、とく、やす、せい、すみを病気のため生後間もなく失い、子供ができてもすぐに死なしてしまうため、その心労は大変なものであったことだろう。
また、このころ、高山は再三の大火事で建築の仕事は絶えなかった。父親は家族をほったらかし、弟の紹芳も、長男延恭も忙しい。長男がいい歳になっているのに、なかなか嫁を取らず、晩婚だったことからも、仕事が多すぎて忙しかったことを物語っている。」
つづく
2008年01月16日
旧大雄寺の礎石をみつけました
先日、国府町の町史編纂室の酒井先生にお聞きして、
大雄寺の場所について確認し、現地で確認してきましたので
ご報告します。
調査日時:平成20年1月10日(木) 午後1時
場所:高山市国府町広瀬町小字小洞口 大雄寺遺跡

画像1: 旧大雄寺の礎石と伝わる石(Y氏所蔵)

画像2: 旧大雄寺の礎石と伝わる石のアップ
四角く削られているのが確認できる。(Y氏所蔵)

画像3: 旧大雄寺の礎石と伝わる石のアップ
四角く削られているのが確認できる。(Y氏所蔵)

画像4:場所の遠景(小字小洞口の遠景)

画像5:旧大雄寺があったと伝わる場所
(現在は、杉林になっており、谷あいに広い平坦な場所が確認できた)
地元の方に最初うかがったときには、この辺だと古老から聞いているとの
ことであったが、たまたま、地元のYさんが、その場所をご存知で、
自宅に礎石があるとのことで見せていただいた。
現在も、2個、玄関のところに確認できる。
その場所は、山の谷あいのところで、杉林になっていて、下からは確認しにくい。
ぼたを上ってみると、その杉林は平地になっており、200m四方の結構広い場所。
奥の谷川からは、水が引いてあり、昔は池があったそうだ。現在は、清水として
利用されている。
以上
大雄寺の場所について確認し、現地で確認してきましたので
ご報告します。
調査日時:平成20年1月10日(木) 午後1時
場所:高山市国府町広瀬町小字小洞口 大雄寺遺跡
画像1: 旧大雄寺の礎石と伝わる石(Y氏所蔵)
画像2: 旧大雄寺の礎石と伝わる石のアップ
四角く削られているのが確認できる。(Y氏所蔵)
画像3: 旧大雄寺の礎石と伝わる石のアップ
四角く削られているのが確認できる。(Y氏所蔵)
画像4:場所の遠景(小字小洞口の遠景)
画像5:旧大雄寺があったと伝わる場所
(現在は、杉林になっており、谷あいに広い平坦な場所が確認できた)
地元の方に最初うかがったときには、この辺だと古老から聞いているとの
ことであったが、たまたま、地元のYさんが、その場所をご存知で、
自宅に礎石があるとのことで見せていただいた。
現在も、2個、玄関のところに確認できる。
その場所は、山の谷あいのところで、杉林になっていて、下からは確認しにくい。
ぼたを上ってみると、その杉林は平地になっており、200m四方の結構広い場所。
奥の谷川からは、水が引いてあり、昔は池があったそうだ。現在は、清水として
利用されている。
以上
2008年01月15日
蟹寺の籠の渡し
神通川が流れる細入の谷は、古くから景色の美しいことで知られ、江戸時代には浮世絵にも
描かれました。とりわけ、蟹寺村と対岸の間にかけられた篭の渡しのながめはすばらしく、代々の
富山藩主やその一族が、大勢で見物におとずれました。
安藤広重が画いた篭の渡しの図
高山からも、江戸時代中期には、国学者の田中大秀がこの場所が好きで弟子と再三訪れて、歌を
読んだり、一位一刀彫の祖といわれる松田亮長もこの場所を訪れて、彫刻に表すなど、非常に
有名な場所でした。
現在、その場所には、国道41号線の橋がかかり、その先はトンネルになっています。
絵で見るほど、その淵には、深さがありませんが、現在はダム建設のおかげで流れがゆるやかに
なっているので、昔ほど水量が無く、だんだん土砂がたまってきたものと思われます。
徳積善太
2008年01月14日
1月14日放送分 「三寺参り」
みなさん、あけましておめでとうございます。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、今年も早いものでもう今年に入って2週間が過ぎました?
お正月気分が終わっても、みなさん、今度は新年会で忙しい時期なのではないでしょうか?お酒を飲む機会が多いですが、くれぐれも飲酒運転だけはしないようにしてくださいね。
さあ、今年も、がんばってこの番組を続けさせていただきたいと思います。どうぞ、引き続き、よろしくお願いいたします。
さて、今日のお話ですが、いつもは金森のお話をする週ですが、今週、古川には「三寺参り」という行事がありますので、今日はそのことを中心にお話していきましょう。
古川の方は良く御存知ですが、この三寺というのは、本光寺・真宗寺・円光寺の3か寺におまいりすることで三寺参りといいます。親鸞聖人の御命日に、上人の遺徳を偲んでおまいりすることからこの行事が始まったということです。観光客には3寺参りとなっていますが、古川の人の中には、もう一つ、古川祭り会館の裏手にある お東の誓願寺も一緒におまいりするので「4寺まいりだ」という人もいます。
親鸞上人は、新暦の1月16日に90歳でお亡くなりになられましたが、前日の1月15日には毎年、各お寺で読経、お伝鈔の朗読、説教のお勤めがあります。
この三寺参りは、宝永2年(1705)に、真宗寺、本光寺の転派で、町内の真宗三か寺が皆お西になったことをこぞって喜び、これを機に親鸞上人のご命日のお寺参りは、自分のお手次ぎだけではなく、三か寺を分け隔てなくおまいりするようになったことが、起源と言われています。
もともと、円光寺は、お西のお寺。真宗寺、本光寺はお東のお寺でした。それぞれの開基についてお話しましょう。
まず、円光寺ですが、永正13年(1514)江馬の家臣であった岩佐喜太郎正直の6人の子供のうち、次男が開基し、正祐と号しました。この6人の子供は、くじをひき、一人が岩佐家を継ぎ、残りの5人がお寺を開基するよう父親から言われました。結果的に三男が岩佐家を継ぎ、長男は角川の専勝寺。次男が円光寺。四男が高山の勝久寺のもととなる善国寺、五男が高山の了泉寺、六男が古川の浄徳寺の開基となりました。予断ですが、江戸時代後期に山岡鉄舟に書を教えた岩佐一定は、この専勝寺の末裔です。
本堂は、明治37年の古川大火のときに焼けずに残ったため、三寺の中では一番古い建物です。当初、この寺は、国府町の海具江というところに念仏道場がありましたが、寛文7年(1667)に金森氏家臣で不届きのあった者の土地を与えられ、その場所に移転建造されました。このときに彫った亀が「水呼びの亀」といわれ、この亀が数々の大火からこの本堂を掬ったという言い伝えがあります。

次に、真宗寺ですが、古川の人は、「しんしゅうじ」とは言わず、「しんしょうじ」とよんでいます。
開基は、文亀二年(1502)年に祐念という人が開山しました。 当時、古川の下町に開かれていたそうですが、天正17年(1589)に金森氏が古川の町を造ったのときに、現在の境内地を与えられて現在の地に移転しました。
慶長7年(1602)2月に本願寺が東西に分裂したときに、東本願寺の末寺となりました。
明治37年の古川大火のときに、経蔵を残して、全焼してしまいました。焼けた建物は、先の飛騨の匠展の調査のときに、古川の屋台彫刻を作った八谷理八のおじいさんが建造したものであることがわかりました。
現在の建物は、明治42年に起工式が行われ、明治45年に建造されたものです。輪転蔵という経蔵は、古川大火でも焼け残ったものですが、明和8年(1771)に堀 武兵衛ほか多数の大工によって建造されたものです。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。今年は北京オリンピックの年と言う事で1972年のオリンピックの曲「虹と雪のバラード」をお送りします。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今日は、古川の三寺参りのことについてお話しています。

最後に本光寺ですが、始祖は教了という人です。皆さん帰雲城の伝説を知っていますか?
この人は、内ヶ島氏の家来の末裔です。帰雲城伝説は、天正の大地震で埋蔵金ともどもに山崩れで崩壊した白川郷のお城の話ですが、その内ヶ島氏の家臣 山下市右衛門の次男で、元の名を嘉市郎といいました。嘉市郎は、勇敢な若者でしたが、世の無常を感じて中野の照蓮寺第十世 明心の化導をうけて仏門に入り、法名を教了と改めました。
天文元年(1532)に古川の下町に念仏道場を開き、金森氏が古川の城下町を造ったとき、天正17年(1589)に、現在の場所へ移転しました。
開基本尊となっている方便法身尊像は、文明17年(1485)に蓮如上人から賜ったもので、もともと、清見町楢谷にある、楢谷寺の開基 円実に授けられたもので、蓮如上人の裏書のある、飛騨で最も古いものの一つです。
絹本着色されたもので、岐阜県の重要文化財に指定されています。
また、ご本尊の阿弥陀如来像は、清峰寺という天台宗寺院の奥の院の本尊であったと伝えられています。この清峰寺は姉小路の菩提寺でしたが、千光寺とともに武田信玄の軍に焼かれたと伝わっていますが、私がよく調べてみると、江馬氏の内乱のときにどうも焼かれたようです。このことはまたの機会にお話します。
現在の本堂は、真宗寺と同じく明治37年の大火のときに全焼し、その後明治41年に鐘楼が、大正2年に本堂が再建されました。このときに関わった棟梁は、高山の市制記念権を造った8代坂下甚吉という人です。古川の資料によると、本堂は甚吉の弟子の土村栄吉が作ったとされていますが、写真等が現存していて、どうも坂下甚吉の指導の下で、土村栄吉が大仕事を行っていたようです。現存する本堂は、飛騨の木造建築では、14間もある一番大きなものですが、内部や虹梁に取り付けられた彫刻の精密さにも感心する作品です。
実は、消失した本光寺本堂の前の本堂が古川には残っていて、杉崎に浄慶寺というお寺があります。ここの本堂は、もともと本光寺の本堂でした。この本堂は、正徳3年(1713) 信州の匠 安保九良衛門によって建造されましたが、延享4年(1747)に飛騨の匠 広田良親によって移転されました。当時は、お東のお寺でしたが、お西に転派したときに、茂住にあった浄慶寺が、杉崎に移転されるのにともない、本光寺の建物も移転され、しばらくは高山別院の出張所として使われました。当時、お東から転派したくない人たちの菩提寺として、また、お西に転派した本光寺への対抗策として高山照蓮寺が取った政策だったとのことです。
さて、なぜこの真宗寺、本光寺が転派しなくてはいけなかったか、ですが、これには金森氏が関係しています。高山別院十四世の宣了という方に男子がいなかったため、娘おなけに金森三代重頼の息子を婿に迎え十五代宣心を襲名しました。ところが、このおなけが、早世したので、宣心に後妻をということになり、京都の本山 宣如上人の娘 佐奈姫を迎えることになりました。金森家にとっては、本山と宴席関係を結ぶという絶好の機会となったわけです。
ところがこの、宣心が、無法者で、日々遊興をして暮らし、仏法も法務も行わない人でした。佐奈姫も慣れない飛騨の生活に加えて、夫の行動に悩み、子の琢晴をもうけますが、病弱でもあったためについには命を落としてしまいます。姫が亡くなった後の宣心の行動に困った周囲の人たちは、彼をたしなめますが、彼は僧侶の身でありながらとうとう気に入らない人をあやめてしまいます。そのときにこの宣心をたしなめ、彼の行動をかばっていたのが、本光寺・真宗寺でしたが、本山の取った政策は、高山照蓮寺を別院に格上げし、輪番制といって本山の直轄にしたことと、この2か寺の格下げでした。さらに、この2か寺に対しては、役銀の申し付け、しめつけが厳しくなっていきました。
こうしたことがきっかけとなって、この2つの寺は相談の上、お東からお西への転派を決意したのでした。
古川の人は、この2つのお寺が転派したことで、どのお寺も公平に守らなければいけないという意識がめざめ、親鸞上人の命日におまいりすることが始まったということです。明治時代になると「嫁を見立ての三寺まいり」とも呼ばれるようになり、野麦峠を越えて信州へ行った「糸引きさ」たち若い娘が帰ってくる日でもあったので、若い男衆は嫁さん探しに三寺をお参りするようになり、有名になっていったということです。
それでは最後に曲をお届けします。今日は、ろうそくにちなんで、この曲でお別れです。チェッカーズで「ジュリアにハートブレイク」 ではまた来週。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、今年も早いものでもう今年に入って2週間が過ぎました?
お正月気分が終わっても、みなさん、今度は新年会で忙しい時期なのではないでしょうか?お酒を飲む機会が多いですが、くれぐれも飲酒運転だけはしないようにしてくださいね。
さあ、今年も、がんばってこの番組を続けさせていただきたいと思います。どうぞ、引き続き、よろしくお願いいたします。
さて、今日のお話ですが、いつもは金森のお話をする週ですが、今週、古川には「三寺参り」という行事がありますので、今日はそのことを中心にお話していきましょう。
古川の方は良く御存知ですが、この三寺というのは、本光寺・真宗寺・円光寺の3か寺におまいりすることで三寺参りといいます。親鸞聖人の御命日に、上人の遺徳を偲んでおまいりすることからこの行事が始まったということです。観光客には3寺参りとなっていますが、古川の人の中には、もう一つ、古川祭り会館の裏手にある お東の誓願寺も一緒におまいりするので「4寺まいりだ」という人もいます。
親鸞上人は、新暦の1月16日に90歳でお亡くなりになられましたが、前日の1月15日には毎年、各お寺で読経、お伝鈔の朗読、説教のお勤めがあります。
この三寺参りは、宝永2年(1705)に、真宗寺、本光寺の転派で、町内の真宗三か寺が皆お西になったことをこぞって喜び、これを機に親鸞上人のご命日のお寺参りは、自分のお手次ぎだけではなく、三か寺を分け隔てなくおまいりするようになったことが、起源と言われています。
もともと、円光寺は、お西のお寺。真宗寺、本光寺はお東のお寺でした。それぞれの開基についてお話しましょう。
まず、円光寺ですが、永正13年(1514)江馬の家臣であった岩佐喜太郎正直の6人の子供のうち、次男が開基し、正祐と号しました。この6人の子供は、くじをひき、一人が岩佐家を継ぎ、残りの5人がお寺を開基するよう父親から言われました。結果的に三男が岩佐家を継ぎ、長男は角川の専勝寺。次男が円光寺。四男が高山の勝久寺のもととなる善国寺、五男が高山の了泉寺、六男が古川の浄徳寺の開基となりました。予断ですが、江戸時代後期に山岡鉄舟に書を教えた岩佐一定は、この専勝寺の末裔です。
本堂は、明治37年の古川大火のときに焼けずに残ったため、三寺の中では一番古い建物です。当初、この寺は、国府町の海具江というところに念仏道場がありましたが、寛文7年(1667)に金森氏家臣で不届きのあった者の土地を与えられ、その場所に移転建造されました。このときに彫った亀が「水呼びの亀」といわれ、この亀が数々の大火からこの本堂を掬ったという言い伝えがあります。
次に、真宗寺ですが、古川の人は、「しんしゅうじ」とは言わず、「しんしょうじ」とよんでいます。
開基は、文亀二年(1502)年に祐念という人が開山しました。 当時、古川の下町に開かれていたそうですが、天正17年(1589)に金森氏が古川の町を造ったのときに、現在の境内地を与えられて現在の地に移転しました。
慶長7年(1602)2月に本願寺が東西に分裂したときに、東本願寺の末寺となりました。
明治37年の古川大火のときに、経蔵を残して、全焼してしまいました。焼けた建物は、先の飛騨の匠展の調査のときに、古川の屋台彫刻を作った八谷理八のおじいさんが建造したものであることがわかりました。
現在の建物は、明治42年に起工式が行われ、明治45年に建造されたものです。輪転蔵という経蔵は、古川大火でも焼け残ったものですが、明和8年(1771)に堀 武兵衛ほか多数の大工によって建造されたものです。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。今年は北京オリンピックの年と言う事で1972年のオリンピックの曲「虹と雪のバラード」をお送りします。
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今日は、古川の三寺参りのことについてお話しています。
最後に本光寺ですが、始祖は教了という人です。皆さん帰雲城の伝説を知っていますか?
この人は、内ヶ島氏の家来の末裔です。帰雲城伝説は、天正の大地震で埋蔵金ともどもに山崩れで崩壊した白川郷のお城の話ですが、その内ヶ島氏の家臣 山下市右衛門の次男で、元の名を嘉市郎といいました。嘉市郎は、勇敢な若者でしたが、世の無常を感じて中野の照蓮寺第十世 明心の化導をうけて仏門に入り、法名を教了と改めました。
天文元年(1532)に古川の下町に念仏道場を開き、金森氏が古川の城下町を造ったとき、天正17年(1589)に、現在の場所へ移転しました。
開基本尊となっている方便法身尊像は、文明17年(1485)に蓮如上人から賜ったもので、もともと、清見町楢谷にある、楢谷寺の開基 円実に授けられたもので、蓮如上人の裏書のある、飛騨で最も古いものの一つです。
絹本着色されたもので、岐阜県の重要文化財に指定されています。
また、ご本尊の阿弥陀如来像は、清峰寺という天台宗寺院の奥の院の本尊であったと伝えられています。この清峰寺は姉小路の菩提寺でしたが、千光寺とともに武田信玄の軍に焼かれたと伝わっていますが、私がよく調べてみると、江馬氏の内乱のときにどうも焼かれたようです。このことはまたの機会にお話します。
現在の本堂は、真宗寺と同じく明治37年の大火のときに全焼し、その後明治41年に鐘楼が、大正2年に本堂が再建されました。このときに関わった棟梁は、高山の市制記念権を造った8代坂下甚吉という人です。古川の資料によると、本堂は甚吉の弟子の土村栄吉が作ったとされていますが、写真等が現存していて、どうも坂下甚吉の指導の下で、土村栄吉が大仕事を行っていたようです。現存する本堂は、飛騨の木造建築では、14間もある一番大きなものですが、内部や虹梁に取り付けられた彫刻の精密さにも感心する作品です。
実は、消失した本光寺本堂の前の本堂が古川には残っていて、杉崎に浄慶寺というお寺があります。ここの本堂は、もともと本光寺の本堂でした。この本堂は、正徳3年(1713) 信州の匠 安保九良衛門によって建造されましたが、延享4年(1747)に飛騨の匠 広田良親によって移転されました。当時は、お東のお寺でしたが、お西に転派したときに、茂住にあった浄慶寺が、杉崎に移転されるのにともない、本光寺の建物も移転され、しばらくは高山別院の出張所として使われました。当時、お東から転派したくない人たちの菩提寺として、また、お西に転派した本光寺への対抗策として高山照蓮寺が取った政策だったとのことです。
さて、なぜこの真宗寺、本光寺が転派しなくてはいけなかったか、ですが、これには金森氏が関係しています。高山別院十四世の宣了という方に男子がいなかったため、娘おなけに金森三代重頼の息子を婿に迎え十五代宣心を襲名しました。ところが、このおなけが、早世したので、宣心に後妻をということになり、京都の本山 宣如上人の娘 佐奈姫を迎えることになりました。金森家にとっては、本山と宴席関係を結ぶという絶好の機会となったわけです。
ところがこの、宣心が、無法者で、日々遊興をして暮らし、仏法も法務も行わない人でした。佐奈姫も慣れない飛騨の生活に加えて、夫の行動に悩み、子の琢晴をもうけますが、病弱でもあったためについには命を落としてしまいます。姫が亡くなった後の宣心の行動に困った周囲の人たちは、彼をたしなめますが、彼は僧侶の身でありながらとうとう気に入らない人をあやめてしまいます。そのときにこの宣心をたしなめ、彼の行動をかばっていたのが、本光寺・真宗寺でしたが、本山の取った政策は、高山照蓮寺を別院に格上げし、輪番制といって本山の直轄にしたことと、この2か寺の格下げでした。さらに、この2か寺に対しては、役銀の申し付け、しめつけが厳しくなっていきました。
こうしたことがきっかけとなって、この2つの寺は相談の上、お東からお西への転派を決意したのでした。
古川の人は、この2つのお寺が転派したことで、どのお寺も公平に守らなければいけないという意識がめざめ、親鸞上人の命日におまいりすることが始まったということです。明治時代になると「嫁を見立ての三寺まいり」とも呼ばれるようになり、野麦峠を越えて信州へ行った「糸引きさ」たち若い娘が帰ってくる日でもあったので、若い男衆は嫁さん探しに三寺をお参りするようになり、有名になっていったということです。
それでは最後に曲をお届けします。今日は、ろうそくにちなんで、この曲でお別れです。チェッカーズで「ジュリアにハートブレイク」 ではまた来週。




