2008年02月05日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」13
◇空白の四年間 (~二十歳)
与鹿の一生の中で十七歳から二十一歳まで(天保十年~十三年)の四年間が、老田剛氏(故人)の記録によれば、作品を何も作っていない四年間となっていた。この時期に、和四郎彫刻を習ったのではないかとも想像した。
この頃、和四郎冨昌(二代目)は、飛騨に比較的近い、辰野で仕事をしていたが、翌年、尾張の半田で、屋台彫刻を手がけている。また、その翌年には昌敬が、半田の彫刻を数年に渡り手がけている。(和四郎と与鹿が関係があったとすればこの頃であるが、中川が師匠に宛てた手紙も与鹿の絵図も残っていない。もしそれが認められれば、与鹿と和四郎のつながりを知る重要な手がかりとなるが、諏訪市史跡保存会五台山の記録によれば、「これに関する記録は何もなく二人の関係は何もなかったのではなかろうか」としている。ただし、山本茂実著「高山祭」によれば、「坂ノ上紅葉『与鹿の研究』には『幼にして遊びの中でもノミを手にしたといわれ、その腕前は信州の諏訪和四郎に学んだもの』と記され、五台山組の小森専吉は『与鹿は五台山の飛獅子に魅せられて和四郎に弟子入りしたものと祖父(小森文助)から聞いている』と話した」というが、その事実は定かではない。
先日、郷土館で展示された資料の中に与鹿の雑記帳が見つかり天保十三年の記述があった。内容はあちこちでのスケッチであり、おそらく与鹿は旅行に出ていたと思われる。高山にはない看板や竹垣などのスケッチがあり、これによって、東へ下ったか西へ上ったか調査の待たれるところである。(これについては、後日発表したい。)

与鹿のスケッチ帳(天保13年)
天保十三年四月、丹生川還来寺の「茶道迷和流抜書」として獅子木鼻の下絵(天保十三年寅 宗威写)が現存しているが、還来寺は、丹生川村町方の寺であり、実際にそこまで行って写生を行ったということである。下絵図によれば、還来寺の鐘楼堂は谷口家(おそらく延恭)が設計して建てた物のようである。この鐘楼は前年十一月から建設を開始し、翌年四月に完成している。このとき与鹿は手伝いに行っていたようであり、その完成後に山門の『龍』の写生を行ったようだ。

与鹿が写生した龍の下絵図(宗咸写と書いてある)
この獅子木鼻の下絵は、物議を醸し出したことがある。下絵中に「宗咸(与鹿の別名)・写」とあるのに、別の記録によると、この下絵の存在によって、還来寺の鐘楼堂とその彫刻は与鹿が設計して建てた物だと言う話となっていた。ただし、後の検証によれば、どうも棟札や下絵図の存在から、この鐘堂自体は谷口一門の設計によるもののようであるが、還来寺山門の彫刻は明らかに立川流の流れを汲んだものだと間瀬恒祥氏により判断(平成四年)されているので、どうしてここに立川流の彫刻があり、いつ、誰が寄進したのかなど解明されていない部分もある。この還来寺山門の彫刻は明らかに立川流の流れを汲んだものらしいので、立川流の誰かが高山で彫刻を行った物であるなら、江戸時代に飛騨で彫られた唯一の立川流彫刻であり、立川流の彫刻としては、五台山の彫刻に次いで二つ目のものとなる。これについては調査が待たれる。
徳積善太
与鹿の一生の中で十七歳から二十一歳まで(天保十年~十三年)の四年間が、老田剛氏(故人)の記録によれば、作品を何も作っていない四年間となっていた。この時期に、和四郎彫刻を習ったのではないかとも想像した。
この頃、和四郎冨昌(二代目)は、飛騨に比較的近い、辰野で仕事をしていたが、翌年、尾張の半田で、屋台彫刻を手がけている。また、その翌年には昌敬が、半田の彫刻を数年に渡り手がけている。(和四郎と与鹿が関係があったとすればこの頃であるが、中川が師匠に宛てた手紙も与鹿の絵図も残っていない。もしそれが認められれば、与鹿と和四郎のつながりを知る重要な手がかりとなるが、諏訪市史跡保存会五台山の記録によれば、「これに関する記録は何もなく二人の関係は何もなかったのではなかろうか」としている。ただし、山本茂実著「高山祭」によれば、「坂ノ上紅葉『与鹿の研究』には『幼にして遊びの中でもノミを手にしたといわれ、その腕前は信州の諏訪和四郎に学んだもの』と記され、五台山組の小森専吉は『与鹿は五台山の飛獅子に魅せられて和四郎に弟子入りしたものと祖父(小森文助)から聞いている』と話した」というが、その事実は定かではない。
先日、郷土館で展示された資料の中に与鹿の雑記帳が見つかり天保十三年の記述があった。内容はあちこちでのスケッチであり、おそらく与鹿は旅行に出ていたと思われる。高山にはない看板や竹垣などのスケッチがあり、これによって、東へ下ったか西へ上ったか調査の待たれるところである。(これについては、後日発表したい。)
与鹿のスケッチ帳(天保13年)
天保十三年四月、丹生川還来寺の「茶道迷和流抜書」として獅子木鼻の下絵(天保十三年寅 宗威写)が現存しているが、還来寺は、丹生川村町方の寺であり、実際にそこまで行って写生を行ったということである。下絵図によれば、還来寺の鐘楼堂は谷口家(おそらく延恭)が設計して建てた物のようである。この鐘楼は前年十一月から建設を開始し、翌年四月に完成している。このとき与鹿は手伝いに行っていたようであり、その完成後に山門の『龍』の写生を行ったようだ。
与鹿が写生した龍の下絵図(宗咸写と書いてある)
この獅子木鼻の下絵は、物議を醸し出したことがある。下絵中に「宗咸(与鹿の別名)・写」とあるのに、別の記録によると、この下絵の存在によって、還来寺の鐘楼堂とその彫刻は与鹿が設計して建てた物だと言う話となっていた。ただし、後の検証によれば、どうも棟札や下絵図の存在から、この鐘堂自体は谷口一門の設計によるもののようであるが、還来寺山門の彫刻は明らかに立川流の流れを汲んだものだと間瀬恒祥氏により判断(平成四年)されているので、どうしてここに立川流の彫刻があり、いつ、誰が寄進したのかなど解明されていない部分もある。この還来寺山門の彫刻は明らかに立川流の流れを汲んだものらしいので、立川流の誰かが高山で彫刻を行った物であるなら、江戸時代に飛騨で彫られた唯一の立川流彫刻であり、立川流の彫刻としては、五台山の彫刻に次いで二つ目のものとなる。これについては調査が待たれる。
徳積善太




