2008年02月06日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」14
◇洞雲寺彫刻完成 (二一歳)
与鹿は、天保十三年五月には高原郷船津にあった洞雲寺の鐘楼建設に関わっている。
洞雲寺住職によれば、「昭和四年の船津一帯火災焼失 前には、本堂の欄間に龍が取り付けてあった」とのことであるが、その『龍』の彫刻を行っていたことがその下図の存在からわかる。

洞雲寺本堂 (昭和4年の船津大火で焼失後再建)
洞雲寺は高原郷船津にあり、十世仏灯越宗の時代に宗風が隆盛となり、以後玉資、普照、仙受、宗潭らの禅門老師が相次いで住山し、時に常在修行する雲水が五十人にも及ぶという飛騨曹洞宗の名刹であった。
天保十三年(一八四二)与鹿はすでに名工の誉れ高く、洞雲寺よりの依頼により、普通は鐘楼に取りつける彫刻『龍』の製作を依頼されたが、あまりの見事な出来栄えに、風雨にさらされることを忍びないと考えた僧侶の判断で、室内の欄間彫刻にしたものと想像される。(一般には、本堂欄間の彫刻は、天女などの極楽浄土の彫刻が多く、龍の欄間を取り付けるということはあまりない。) 洞雲寺彫刻の下絵は、八幡屋台会館に展示してある。
これほどの寺院の彫刻であるので与鹿も大いなる意欲を燃やして取り組んだに相違ない。
残念ながら昭和四年船津町の大火により、堂塔すべて焼失して、現在は残っていないが、清見村牧ヶ洞了徳寺に現存する鐘楼の彫刻「龍」与鹿作と下絵が類似している。
徳積善太
与鹿は、天保十三年五月には高原郷船津にあった洞雲寺の鐘楼建設に関わっている。
洞雲寺住職によれば、「昭和四年の船津一帯火災焼失 前には、本堂の欄間に龍が取り付けてあった」とのことであるが、その『龍』の彫刻を行っていたことがその下図の存在からわかる。
洞雲寺本堂 (昭和4年の船津大火で焼失後再建)
洞雲寺は高原郷船津にあり、十世仏灯越宗の時代に宗風が隆盛となり、以後玉資、普照、仙受、宗潭らの禅門老師が相次いで住山し、時に常在修行する雲水が五十人にも及ぶという飛騨曹洞宗の名刹であった。
天保十三年(一八四二)与鹿はすでに名工の誉れ高く、洞雲寺よりの依頼により、普通は鐘楼に取りつける彫刻『龍』の製作を依頼されたが、あまりの見事な出来栄えに、風雨にさらされることを忍びないと考えた僧侶の判断で、室内の欄間彫刻にしたものと想像される。(一般には、本堂欄間の彫刻は、天女などの極楽浄土の彫刻が多く、龍の欄間を取り付けるということはあまりない。) 洞雲寺彫刻の下絵は、八幡屋台会館に展示してある。
これほどの寺院の彫刻であるので与鹿も大いなる意欲を燃やして取り組んだに相違ない。
残念ながら昭和四年船津町の大火により、堂塔すべて焼失して、現在は残っていないが、清見村牧ヶ洞了徳寺に現存する鐘楼の彫刻「龍」与鹿作と下絵が類似している。
徳積善太




