2008年02月21日
「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」21 師 山崎弘泰
◇山崎弘泰との出会い
自分の生き方に疑問を持っていた与鹿はこの頃、国学者 田中大秀の筆頭高弟
である山崎弘泰の門に入る(弘化四年十月二十三日)。
山崎弘泰は橘曙見、富田礼彦、蒲八十村らとともに荏門四天王と呼ばれ、地役人
を経て大秀の門下に入った。

大秀墓 荏野文庫看板
与鹿はこの人から国学・和歌を習ったが、時代の世相を考えると、世の中の尊王
攘夷の流れ、崩壊しゆく徳川幕府に対する不信感、おかげ参りの民衆の深層心理、
富める旦那衆と貧困にあえぐ農民層などや、人としての生き方についても学んだと
思われる。
与鹿は、古川にて天保十二年に仕事をしていたとき、水害の見回りで郡代に同行
していた山崎に古川で会っていたかもしれないので、既知の間柄であったとも想像
できる。
また、ちょうどこの頃、弘化二年に父とともに来高した十歳になる山岡鉄舟(鉄太郎)
は岩佐一亭に書法を、井上清虎に剣術を習っていたようだが、塾門を叩いたことで
あろう。父朝右衛門の嫡孫鶴二郎はこの人から和歌を習っていたようである。
徳積善太
自分の生き方に疑問を持っていた与鹿はこの頃、国学者 田中大秀の筆頭高弟
である山崎弘泰の門に入る(弘化四年十月二十三日)。
山崎弘泰は橘曙見、富田礼彦、蒲八十村らとともに荏門四天王と呼ばれ、地役人
を経て大秀の門下に入った。

大秀墓 荏野文庫看板
与鹿はこの人から国学・和歌を習ったが、時代の世相を考えると、世の中の尊王
攘夷の流れ、崩壊しゆく徳川幕府に対する不信感、おかげ参りの民衆の深層心理、
富める旦那衆と貧困にあえぐ農民層などや、人としての生き方についても学んだと
思われる。
与鹿は、古川にて天保十二年に仕事をしていたとき、水害の見回りで郡代に同行
していた山崎に古川で会っていたかもしれないので、既知の間柄であったとも想像
できる。
また、ちょうどこの頃、弘化二年に父とともに来高した十歳になる山岡鉄舟(鉄太郎)
は岩佐一亭に書法を、井上清虎に剣術を習っていたようだが、塾門を叩いたことで
あろう。父朝右衛門の嫡孫鶴二郎はこの人から和歌を習っていたようである。
徳積善太




