2008年02月27日
「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」22 手長足長
◇手長足長(二五歳)

恵比寿台の彫刻には、『手長足長』が有名である。この手長足長とは、「根付の意匠など
にも多いものであったそうだが、根付研究の加藤先生によると「元々は山海経(四世紀頃の
中国)にも登場する古い人種だが、一六〇七年の「中国三才図」、一七〇八年に長崎の学者
西川如見の「華夷通商考」、そして一七一五年の「和漢三才図会」にも記載され、源内の
書いた大ヒット滑稽本「風流志道軒伝(一七六三年)」に登場し主人公志道軒(実在した講釈師)
が追いかけられる。
当時(一八世紀)庶民の間では世界の国の中に紅毛人の住む阿蘭陀(オランダ)同様に、長脚国
(ちょうきゃくこく)、長擘国(ちょうひこく)があたりまえに実在していると信じられていた。学者レベル
の知識層ではない根付師、及び注文客らが、難解で古い「山海経」より時代背景を考えると、
むしろ源内の書いた「風流志道軒伝」によって存在を知り根付の意匠に取り入れたと思われる。」
(根付研究 松本雄一郎氏)といわれるように、彫刻師の間では、むしろ根付に取り入れられた
図案であったようである。
また「この意匠は、源内の門人出身の親正の弟友親が得意とした図のようである。飛騨高山の
山車に谷口与鹿がこの手長足長を出雲の伝説から取り入れたとあるが、友親の弟子の平田亮朝は、
江戸在住だが、飛騨高山の出身である。
また、その弟子、松田亮長、江黒亮春は後、飛騨高山に戻ってきているので、与鹿はこの内の
誰かから聞いてこの意匠を山車に取り入れたのかもしれない。」(前述 松本氏)とある。
この頃、与鹿は二十五歳。松田亮長は四十七歳であり、江戸から帰って一刀彫を始めたころ
であるので、同じ町内に住んでいた彼から、与鹿が聞いて『手長足長』を彫るようにしたのか、
また、師匠の吉兵衛が、和四郎彫刻の下絵を渡して用いたのかは今後研究の余地があると
思われる。
ただし、前述した通り、松田亮長と兄延恭とは一歳違いであり、同じ町内に住んでいた事から
幼馴染だったと思われる。
亮長は、「天保十一年十一月十五日から下諏訪を経て江戸に四月八日まで滞在し、翌日江戸を
発ち、宇都宮―中禅寺―高崎―安中―下諏訪―塩尻―野麦―高山と旅をしており」(川瀬善忠氏)、
おそらく江戸で聞いた情報を延恭に話したに違いないことから、亮長の存在が気にかかる。
また、和四郎彫刻には、「豊田市本町の山車にこの『手長足長』があり、彫刻収蔵の箱書きに
「『脇障子人物彫物 信陽高島城下 手長足長布袋唐子(以下省略)巳文政二年卯九月 立川内匠
正』とあり、現存最古の立川流山車彫刻ということになる。」(立川流の山車と彫刻)という、彫刻が
現存する。

また、半田市の『唐子車』にもこの手長足長の彫刻があり、立川昌敬が天保九年(一八三八年)
に完成させている。
この『手長足長』に与鹿の『手長足長』はどこかすっきりしているが、酷似している。
このことから、下絵に同じものを用いたのではと思われることから、亮長説よりも和四郎=吉兵衛
から伝え聞いたのではないかと想像できる。
この与鹿の『手長足長』であるが、どこかすっきりしたものであっても、そこに全体のバランスや配置
を考えた作品は、山間幽谷に住む当時の高山の人たちは、見たことも想像した事もないような彫刻で
あったし、彼らを魅了するに十分な作品であったろう。
余談であるが、この『手長足長』の高山の下絵について次のようなエピソードがある。
屋台組の小鳥栄一氏によれば、「この下絵は昔恵比寿臺組にあったが、戦後の動乱期に二分し、
一枚は恵比寿台組に残ったものの、もう一枚は、相続で台組の親戚に流れてしまった。残念なこと
である。」と調査中に洩らしておられたことを付け加えておく。
徳積善太
恵比寿台の彫刻には、『手長足長』が有名である。この手長足長とは、「根付の意匠など
にも多いものであったそうだが、根付研究の加藤先生によると「元々は山海経(四世紀頃の
中国)にも登場する古い人種だが、一六〇七年の「中国三才図」、一七〇八年に長崎の学者
西川如見の「華夷通商考」、そして一七一五年の「和漢三才図会」にも記載され、源内の
書いた大ヒット滑稽本「風流志道軒伝(一七六三年)」に登場し主人公志道軒(実在した講釈師)
が追いかけられる。
当時(一八世紀)庶民の間では世界の国の中に紅毛人の住む阿蘭陀(オランダ)同様に、長脚国
(ちょうきゃくこく)、長擘国(ちょうひこく)があたりまえに実在していると信じられていた。学者レベル
の知識層ではない根付師、及び注文客らが、難解で古い「山海経」より時代背景を考えると、
むしろ源内の書いた「風流志道軒伝」によって存在を知り根付の意匠に取り入れたと思われる。」
(根付研究 松本雄一郎氏)といわれるように、彫刻師の間では、むしろ根付に取り入れられた
図案であったようである。
また「この意匠は、源内の門人出身の親正の弟友親が得意とした図のようである。飛騨高山の
山車に谷口与鹿がこの手長足長を出雲の伝説から取り入れたとあるが、友親の弟子の平田亮朝は、
江戸在住だが、飛騨高山の出身である。
また、その弟子、松田亮長、江黒亮春は後、飛騨高山に戻ってきているので、与鹿はこの内の
誰かから聞いてこの意匠を山車に取り入れたのかもしれない。」(前述 松本氏)とある。
この頃、与鹿は二十五歳。松田亮長は四十七歳であり、江戸から帰って一刀彫を始めたころ
であるので、同じ町内に住んでいた彼から、与鹿が聞いて『手長足長』を彫るようにしたのか、
また、師匠の吉兵衛が、和四郎彫刻の下絵を渡して用いたのかは今後研究の余地があると
思われる。
ただし、前述した通り、松田亮長と兄延恭とは一歳違いであり、同じ町内に住んでいた事から
幼馴染だったと思われる。
亮長は、「天保十一年十一月十五日から下諏訪を経て江戸に四月八日まで滞在し、翌日江戸を
発ち、宇都宮―中禅寺―高崎―安中―下諏訪―塩尻―野麦―高山と旅をしており」(川瀬善忠氏)、
おそらく江戸で聞いた情報を延恭に話したに違いないことから、亮長の存在が気にかかる。
また、和四郎彫刻には、「豊田市本町の山車にこの『手長足長』があり、彫刻収蔵の箱書きに
「『脇障子人物彫物 信陽高島城下 手長足長布袋唐子(以下省略)巳文政二年卯九月 立川内匠
正』とあり、現存最古の立川流山車彫刻ということになる。」(立川流の山車と彫刻)という、彫刻が
現存する。

また、半田市の『唐子車』にもこの手長足長の彫刻があり、立川昌敬が天保九年(一八三八年)
に完成させている。
この『手長足長』に与鹿の『手長足長』はどこかすっきりしているが、酷似している。
このことから、下絵に同じものを用いたのではと思われることから、亮長説よりも和四郎=吉兵衛
から伝え聞いたのではないかと想像できる。
この与鹿の『手長足長』であるが、どこかすっきりしたものであっても、そこに全体のバランスや配置
を考えた作品は、山間幽谷に住む当時の高山の人たちは、見たことも想像した事もないような彫刻で
あったし、彼らを魅了するに十分な作品であったろう。
余談であるが、この『手長足長』の高山の下絵について次のようなエピソードがある。
屋台組の小鳥栄一氏によれば、「この下絵は昔恵比寿臺組にあったが、戦後の動乱期に二分し、
一枚は恵比寿台組に残ったものの、もう一枚は、相続で台組の親戚に流れてしまった。残念なこと
である。」と調査中に洩らしておられたことを付け加えておく。
徳積善太




