2008年02月28日
「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」23
◇子連れ龍

また、子連れ龍については、一説によれば「下段丸窓の龍は側面より前面が大きく、ために龍の
バランスが取れず、与鹿は組内の料亭州さきに連日痛飲して想を練り、ついに子連れ龍の妙案を
思いついた」と云われる。
これについては、「割烹を営む州岬和作さんが、当初夫婦龍にしようかと悩んでいた与鹿に、あの
スペースには他の龍との約合がとれず、添乳をしている母と子の寝姿を指示して、独創的な彫刻を
編み出せた。与鹿が興がわき仕事にかかるまでは幾日までも居続けさせた。」(代瀬山彦先生)
という逸話も残っている。
また中断勾欄には笑っている獅子がいる。これは大口を開いたゆかいな獅子であるが、獅子の
生態には困った与鹿のいたずらだと云われている。」(組内記録)という話もある。
また、「子持ち龍(恵比寿台)(一八四八)」も和四郎作による「興正寺(更埴市)山門の子持ち龍
(弘化二年(一八四五))や「武水分八幡本殿正面(更埴市)の子持ち龍(嘉永二年(一八四九))に
よく似ている。
麒麟台の「唐子群雄の鶏(一八四五)」も和四郎作の「信州諏訪神社拝殿(天保六年(一八三五)
作)」と「半田亀崎力神車の鶏(文政十年(一八二七)作)」から ヒントを得たものとされる。
また、恵比寿台組記録によると、「まず設計図によって検討した後、十分の一の模型を造って(
州岬屋店頭にあるミニチュア屋台の可能性もあると思ったが、それは後年、大工畑氏の作品で
あった。)意匠にこること半年で本製作に着手した。
しかし実際に造ってみると組内衆の中に「龍そのものは至極立派にできているが、前面の飾りに
しては少し物足りない」という意見が出た。与鹿も同感だった。
そうかといって龍身のボリュームを出すためにこれより太くしたら他の物が見えなくなる。何かいい
工夫はないかと迷ったあげく、与鹿はぽんと膝を打ち、「この龍は牝龍として刻んだもの、さすれば」
とそこまでいいかけたとき、滑川屋が 「子竜をつける」と続けた。
組内衆はみんな、それはいい考えだと賛意を表した。」 (高山祭)という逸話も残っている。
徳積善太
また、子連れ龍については、一説によれば「下段丸窓の龍は側面より前面が大きく、ために龍の
バランスが取れず、与鹿は組内の料亭州さきに連日痛飲して想を練り、ついに子連れ龍の妙案を
思いついた」と云われる。
これについては、「割烹を営む州岬和作さんが、当初夫婦龍にしようかと悩んでいた与鹿に、あの
スペースには他の龍との約合がとれず、添乳をしている母と子の寝姿を指示して、独創的な彫刻を
編み出せた。与鹿が興がわき仕事にかかるまでは幾日までも居続けさせた。」(代瀬山彦先生)
という逸話も残っている。
また中断勾欄には笑っている獅子がいる。これは大口を開いたゆかいな獅子であるが、獅子の
生態には困った与鹿のいたずらだと云われている。」(組内記録)という話もある。
また、「子持ち龍(恵比寿台)(一八四八)」も和四郎作による「興正寺(更埴市)山門の子持ち龍
(弘化二年(一八四五))や「武水分八幡本殿正面(更埴市)の子持ち龍(嘉永二年(一八四九))に
よく似ている。
麒麟台の「唐子群雄の鶏(一八四五)」も和四郎作の「信州諏訪神社拝殿(天保六年(一八三五)
作)」と「半田亀崎力神車の鶏(文政十年(一八二七)作)」から ヒントを得たものとされる。
また、恵比寿台組記録によると、「まず設計図によって検討した後、十分の一の模型を造って(
州岬屋店頭にあるミニチュア屋台の可能性もあると思ったが、それは後年、大工畑氏の作品で
あった。)意匠にこること半年で本製作に着手した。
しかし実際に造ってみると組内衆の中に「龍そのものは至極立派にできているが、前面の飾りに
しては少し物足りない」という意見が出た。与鹿も同感だった。
そうかといって龍身のボリュームを出すためにこれより太くしたら他の物が見えなくなる。何かいい
工夫はないかと迷ったあげく、与鹿はぽんと膝を打ち、「この龍は牝龍として刻んだもの、さすれば」
とそこまでいいかけたとき、滑川屋が 「子竜をつける」と続けた。
組内衆はみんな、それはいい考えだと賛意を表した。」 (高山祭)という逸話も残っている。
徳積善太




