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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年02月29日

「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」24 気力喪失

◇気力喪失

写真は山王祭神楽台の獅子(与鹿作)

恵比寿台の屋台を完成させた与鹿には、もうこれ以上、屋台彫刻をする気力を失っていた。
世の中の農民は飢餓者にあふれ、一方で旦那衆と呼ばれる人たちはお金を無尽蔵に使える
ギャップがあまりにも激しい。また、世相は、伊勢の「おかげ参り」の風潮がこの飛騨にも入って
きており、「ええじゃないか」の民衆暴動にまで発展する事態となっていた。

自分自身は、旦那衆に支えられて彫刻で実をなし、酒を十分に与えられ、貧乏であるが食うに
困らずに裕福にしていられるが、こんな生き方でいいのだろうか。自分は世の中にとって何なん
だろう。自分が世の中に大してできることは他にもあるのではないか。人の生とは何か、死とは
何か。自分はこのままでいいのか。
 高山の衆は屋台を立派に作れというが、努力して作っても、最高の彫刻を求められる。自分に
対する風あたりも強くなる・・・・ああ面倒くさい。などと考えるようになり、余計に酒におぼれるよう
になったと思われる。

 したがって、山王神楽台、応龍台の彫刻を手がけているが、記録によればいずれの屋台も与鹿が
高山を去ってから完成の暁を見ている。彫刻自体が半年以上もかけて作る手間を考えると、この頃
にすでに大半の彫刻を完成させており、家人が嫌がる与鹿を説得して屋台組に売却したり、牡丹、
龍などを追加して彫らせていたのではないかと思われる。

写真は山王祭神楽台の獅子(与鹿作か不明)

 また、自分の練習用に彫った未完成品を後で屋台に使えるようにしたり、弟子の浅井一之が与鹿の
試し彫りした彫刻を、屋台用に手を加えたなどとも考えられるので、想像の域を出ず、調査が待たれる
ところである。

また、与鹿は、富田礼彦著「公私日次記」によると、嘉永二年(一八四五)四月の歌会に「谷与」
として出席者の一人に名を連ねており、この年の十月には本居宣長、田中大秀の三回忌歌会が
催されたが、山崎父子、富田父子、上木清成、加賀屋長右衛門、加賀屋清三郎など当時の高山の
著名な学者、文人と同席している。 一枚の短冊が残っている。(谷口与鹿略伝)

ことからも、彫刻以外のものを学び取ろうとしていた与鹿の姿が忍ばれる。

徳積善太  

2008年02月28日

「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」23 

◇子連れ龍

また、子連れ龍については、一説によれば「下段丸窓の龍は側面より前面が大きく、ために龍の
バランスが取れず、与鹿は組内の料亭州さきに連日痛飲して想を練り、ついに子連れ龍の妙案を
思いついた」と云われる。

 これについては、「割烹を営む州岬和作さんが、当初夫婦龍にしようかと悩んでいた与鹿に、あの
スペースには他の龍との約合がとれず、添乳をしている母と子の寝姿を指示して、独創的な彫刻を
編み出せた。与鹿が興がわき仕事にかかるまでは幾日までも居続けさせた。」(代瀬山彦先生)
という逸話も残っている。

 また中断勾欄には笑っている獅子がいる。これは大口を開いたゆかいな獅子であるが、獅子の
生態には困った与鹿のいたずらだと云われている。」(組内記録)という話もある。

 また、「子持ち龍(恵比寿台)(一八四八)」も和四郎作による「興正寺(更埴市)山門の子持ち龍
(弘化二年(一八四五))や「武水分八幡本殿正面(更埴市)の子持ち龍(嘉永二年(一八四九))に
よく似ている。
 麒麟台の「唐子群雄の鶏(一八四五)」も和四郎作の「信州諏訪神社拝殿(天保六年(一八三五)
作)」と「半田亀崎力神車の鶏(文政十年(一八二七)作)」から ヒントを得たものとされる。

また、恵比寿台組記録によると、「まず設計図によって検討した後、十分の一の模型を造って(
州岬屋店頭にあるミニチュア屋台の可能性もあると思ったが、それは後年、大工畑氏の作品で
あった。)意匠にこること半年で本製作に着手した。
 しかし実際に造ってみると組内衆の中に「龍そのものは至極立派にできているが、前面の飾りに
しては少し物足りない」という意見が出た。与鹿も同感だった。

そうかといって龍身のボリュームを出すためにこれより太くしたら他の物が見えなくなる。何かいい
工夫はないかと迷ったあげく、与鹿はぽんと膝を打ち、「この龍は牝龍として刻んだもの、さすれば」
とそこまでいいかけたとき、滑川屋が 「子竜をつける」と続けた。
組内衆はみんな、それはいい考えだと賛意を表した。」 (高山祭)という逸話も残っている。

徳積善太

















  
Posted by rekisy at 21:00Comments(0)TrackBack(0)

2008年02月27日

「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」22 手長足長

◇手長足長(二五歳)
 
恵比寿台の彫刻には、『手長足長』が有名である。この手長足長とは、「根付の意匠など
にも多いものであったそうだが、根付研究の加藤先生によると「元々は山海経(四世紀頃の
中国)にも登場する古い人種だが、一六〇七年の「中国三才図」、一七〇八年に長崎の学者
西川如見の「華夷通商考」、そして一七一五年の「和漢三才図会」にも記載され、源内の
書いた大ヒット滑稽本「風流志道軒伝(一七六三年)」に登場し主人公志道軒(実在した講釈師)
が追いかけられる。

当時(一八世紀)庶民の間では世界の国の中に紅毛人の住む阿蘭陀(オランダ)同様に、長脚国
(ちょうきゃくこく)、長擘国(ちょうひこく)があたりまえに実在していると信じられていた。学者レベル
の知識層ではない根付師、及び注文客らが、難解で古い「山海経」より時代背景を考えると、
むしろ源内の書いた「風流志道軒伝」によって存在を知り根付の意匠に取り入れたと思われる。」
(根付研究 松本雄一郎氏)といわれるように、彫刻師の間では、むしろ根付に取り入れられた
図案であったようである。

また「この意匠は、源内の門人出身の親正の弟友親が得意とした図のようである。飛騨高山の
山車に谷口与鹿がこの手長足長を出雲の伝説から取り入れたとあるが、友親の弟子の平田亮朝は、
江戸在住だが、飛騨高山の出身である。

 また、その弟子、松田亮長、江黒亮春は後、飛騨高山に戻ってきているので、与鹿はこの内の
誰かから聞いてこの意匠を山車に取り入れたのかもしれない。」(前述 松本氏)とある。

この頃、与鹿は二十五歳。松田亮長は四十七歳であり、江戸から帰って一刀彫を始めたころ
であるので、同じ町内に住んでいた彼から、与鹿が聞いて『手長足長』を彫るようにしたのか、
また、師匠の吉兵衛が、和四郎彫刻の下絵を渡して用いたのかは今後研究の余地があると
思われる。

ただし、前述した通り、松田亮長と兄延恭とは一歳違いであり、同じ町内に住んでいた事から
幼馴染だったと思われる。
亮長は、「天保十一年十一月十五日から下諏訪を経て江戸に四月八日まで滞在し、翌日江戸を
発ち、宇都宮―中禅寺―高崎―安中―下諏訪―塩尻―野麦―高山と旅をしており」(川瀬善忠氏)、
おそらく江戸で聞いた情報を延恭に話したに違いないことから、亮長の存在が気にかかる。

また、和四郎彫刻には、「豊田市本町の山車にこの『手長足長』があり、彫刻収蔵の箱書きに
「『脇障子人物彫物 信陽高島城下 手長足長布袋唐子(以下省略)巳文政二年卯九月 立川内匠
正』とあり、現存最古の立川流山車彫刻ということになる。」(立川流の山車と彫刻)という、彫刻が
現存する。
 
また、半田市の『唐子車』にもこの手長足長の彫刻があり、立川昌敬が天保九年(一八三八年)
に完成させている。
この『手長足長』に与鹿の『手長足長』はどこかすっきりしているが、酷似している。

 このことから、下絵に同じものを用いたのではと思われることから、亮長説よりも和四郎=吉兵衛
から伝え聞いたのではないかと想像できる。

この与鹿の『手長足長』であるが、どこかすっきりしたものであっても、そこに全体のバランスや配置
を考えた作品は、山間幽谷に住む当時の高山の人たちは、見たことも想像した事もないような彫刻で
あったし、彼らを魅了するに十分な作品であったろう。

余談であるが、この『手長足長』の高山の下絵について次のようなエピソードがある。
屋台組の小鳥栄一氏によれば、「この下絵は昔恵比寿臺組にあったが、戦後の動乱期に二分し、
一枚は恵比寿台組に残ったものの、もう一枚は、相続で台組の親戚に流れてしまった。残念なこと
である。」と調査中に洩らしておられたことを付け加えておく。

徳積善太  

2008年02月26日

東本願寺設立を家康に斡旋した「金森長近」

高山には、真宗大谷派と本願寺派の寺院があるのをご存知ですか?
いわゆる、東本願寺と西本願寺の末寺です。

どちらが先にできたかというと、石山本願寺の戦いのあと、教如が門責を継ぐ予定でしたが、
豊臣秀吉へ、教如の母 如春尼が「顕如の書状が出てきて、弟の准如が継ぐことになっている」
と進言したために、教如が跡を継げませんでした。

そのあと、高山の城主 金森長近が、徳川家康に進言して、東本願寺ができたことが、下記の
書類に書かれています。



① 『飛騨編年史要』大正十年十一月五日発行
  「素玄親子、家康に従いて入洛す。是日東本願寺教如、書を素玄へ送りて連日の戦功を犒らう」

② 『飛騨真宗史年表』昭和九年八月発行
  「九月二十二日教如長近ニ書ヲ送ル」(願生寺蔵)

③ 『金森長近年譜』昭和四十三年八月十四日発行 大野俊也編
  「九月二十二日東本願寺教如が長近に書を送り、家康に新寺創立の斡旋を懇望した。」(願生寺文書)

④ 『高山別院史』 上巻 昭和五十八年五月十五日発行
  「九月二十二日長近父子は家康に従って京都に入った。そのとき本願寺教如は長近に書を送って、この度の戦功を犒った。」

⑤ 『定本金森歴代記』 平成五年四月二十五日発行 森本一雄著
  「九月二十三日長近は家康に従って入洛した。本願寺教如は書を長近に送って連日の戦功わねぎらい、次いで家康へ新寺創立の斡旋を懇望した。」(願生寺記)

⑥ 『真宗教団の構造と地域社会』 平成十七年八月二十七日発行
  「九月二十二日付けで教如は「金森法印 陣所」宛に書状を送っている。


高山城主の金森長近という人は、すごい人だったんですね。

徳積善太
  

2008年02月25日

2/25放送分 「飛騨のめでたについて」

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。

今年ももうすぐ3月に入ります。飛騨ではまだ寒い日が続いていますが、いかがお過
ごしですか? 11月に国分寺のいちょうが青いまま一斉に落ちたために、今年は雪が
多いと言われていましたが、暮れからお正月にかけての どか雪が降った以外は
今のところ、まとまった雪が降りませんでしたね。

 高山市も飛騨市も除雪の予算というのが、毎年数億円に上りますから、市民としては
ありがたかったのではないでしょうか。土木建築業者の方は、売り上げ減となったことと
思いますが、雪が少ないというのも一長一短ですね。

 さて、今日の放送は、高山の宴会でなくてはならない風習、めでたのお話をしたいと
思います。
 ある方から、お尋ねがありました。"高山では「めでた」が出る前は立ってはいけない
と習っておりますので「めでた」の前には『席にお戻りください』は、言いすぎなんじゃ
ないかと思いますが、地方で違うのでしょうか?」ということでした。
 また、「荘川の方に聞くと、荘川には めでた が無いそうです。周りではあるのに
めずらしいですね。」" というお話でした。

 "飛騨高山で、現在でも厳格に守られている酒宴のしきたりは、「『めでた』が出る
までは、席を立って、酒を注ぎに行っては行けない。」ということが一般的です。
 あるとき、司会者の方が、飛騨の伝統を言い忘れてしまい、お伝えにならなかった
ので、飛騨地域以外の方も参加した酒宴で、めでたの前に無礼講になった経験が
あります。

 「お席におもどり下さい」は皆さんへのせめてものお願いのようですが、皆さんも、
飛騨の宴会に於いては、この「めでた」の前は席を立たないようにして下さい。

 さて、これには、いろいろな意味があります。 まずは、
①料理をしっかりいただいて、悪酔いを避ける。
②料理を作って下さった方に感謝する。
③座席の両側の方が知らない方でもちゃんと交流を持つ。
④宴席といえども目上の方などに失礼のないようにする。
                     。。などの4つの意味があると伺っております。

 次に「めでた」の歌詞についてですが、「めでた」の歌詞は、次のようになっています。
「めーでーたー、めーでーーたーのー、(以上歌い出し)わーかーまーつー、うーーさー
まーー、はーよーおーえーえーだーもー、おーえーさーあー、かーよーうるー、うーはー
あーもー、おーしゅーげ、えーるー」
                つまり「めでためでたの若松様よ 枝も栄える 葉も繁る」
と言う歌詞です。

 これは、山形の花笠音頭と通じるところがありますが、これには諸説あって、金森公が
山形の上山に転封されたときに、再度郡上八幡へ転封されます。そのときに一緒につい
てきた山形出身の家臣が広めたとか、北陸地方から入ってきたとか、いろいろ言われて
おりますが、実は全国にこの祝い歌はあって、そのルーツは実のところわかっていません。

 高山では「葉もしげる」の部分では、「し」が「死」につながるとの意味もあり、わざと「しゅ」
と言っているなどと言うお話もあります。

 このほかに飛騨地方では、上宝地区のように「みなと」と呼ぶ地方もあり、これは、川流し
をした木材が無事に「湊」へ流れ着いたときにこの歌を祝い歌として、中乗りさん達が歌った
という話に基づくものです。

 今でも、上宝のほかに神岡や上麻生では「みなと」と呼ばれているそうですが、いつ頃から
歌われたものなのかははっきりしません。
 この「みなと」の節回しは、高山や古川の物と比較して、マイナー系のコード進行でできて
おり、聞いた感じが暗い感じがします。

 「めでた」の節についてですが、高山のめでたには、大まかに2種類の節があります。
一般に伝わっているものは、保浅流と呼ばれているもので、昭和40年代以降に、民謡師の
保浅太郎氏が宴席などで一般に広めたという話があります。
 もう一つは、民謡調のもので、民謡師の小坂氏によって歌い継がれました。この節回しは
微妙に保浅流とは違いますが、現在の宴席では、一般に保浅流のものが出回っています。

 それ以前のめでたが、どのような節回しであったのかは、私も余り詳しく知りません。
ご存知の方は、お知らせください。

 さて、ちょっとここでブレイクしましょう。
 今日は、「桑江知子で 私のハートはストップモーション」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日のひだ歴史再発見は、高山のめでたについて、お話しています。

 さて、飛騨の「めでた」についてですが、 これが飛騨となると節回しが地域によって違います
し、呼び名も違うところがあります。文章で書き表すのは非常に難しいのですが、高山めでたは
メジャー系のコードで明るい感じになっています。
 また、一般には、「めーでーたー」で歌い出しが行なわれますが、もともと旦那衆の行なって
いためでたは、端唄に「松尽くし」というのがあり、これを歌ってから「めーでーたー」となります。

 「松尽くし」とは、松の数え歌で、
「一本目には、市の松。二本目には 庭の松、三本目には下がり松・・・」などという歌詞になって
います。今では、高尚な宴会以外、使われていません。

 また、昔の宴会では、めでたの後に続くのが、「東海道宿続き」で、東海道五十三次の歌へと
続き、「かいな、かいな、親切かいな」という梅川忠兵衛さんへの歌と続きます。
ただし、最近では古老の方が歌われるだけで、ほとんどの宴会では歌われることは少なくなりました。

 高山めでたと節回しが類似しているものは、「朝日めでた」と「丹生川めでた」・「清見めでた」
です。この違いは節回しが微妙に異なることですが、歌詞はほとんど同じ物です。
 また、荘川地方には、「めでた」という歌自体がありません。
 また、高山の大工さんの間では、「返し」というのがあって、私も一度だけ聞いたことがあります。

 話は変って、古川めでたとなると、節回しも異なりますし、めでたとは呼ばず、「若松様」と呼び、
一般には「ぜんぜのこ」を続けて歌うことで有名です。
こちらでは、「わーかーまつー、さーまー」の節回しで始まりますが、どちらかというとマイナーコード
の暗い感じで始まるのが特徴ですが、終了後は、

 「めでーたー、めでーたの、わかまーつーさーまーよ、枝も栄ゆる、葉もしげーる、ついたとて
なんとせず、ぜんぜのこ、そりゃ、まんまのこー」という歌が続き、明るい民謡が続くのがならわしです。

 以前、古老の方より、「この歌詞が40番以上もあるんやさ」などと伺った事がありましたので、
一度調べて見たいと思い、古川の名物語りべ 鮎飛さんにお尋ねしたところ、「以前、そういう話を
わしも聞いていて調べた事があったんやさ」といって、歌詞カードをコピーして下さいました。
ちょっとここで、面白いものを紹介させていただきます。
まずは、
一般的なもの 
※2.音に名高い 古川祭り 起し太鼓の 勇み打ち
※9.ここの館は 目出度い 館 鶴が御門に 巣をかけた
※10.鶴が御門に 何んと云て 架けた お家繁昌と 云て 架けた

次に有名なもの
※3.道も一筋 杉本様え 祈る心も 一筋に
※4.嫁を見立の 三寺参り 髪を結わせて 礼参り

飛騨やんさの歌詞と同じもの
※6.婆さどこ行きやる 三升樽下げて 嫁の在所へ 孫抱きに
※12.貴方百まで わしゃ九十九まで 共に白髪の はえるまで

端唄からきたもの 
※20.丸い玉子も 切よで四角 ものも云いよで 角が立つ
※11.差いた盃き 中見て上れ 中は鶴亀 五葉の松

下ネタのもの
※18.色で身を売る 西瓜でさえも 中にや 黒の 種がある
※19.酒はよい物 気を勇ませて 顔に五色の 色を出す
※30.見たよな顔だと 振り向く二人 何時かホテルで 寝た相手
※39.いやなお客の 親切よりも 好きなお方の 無理がよい

これ以上は、放送禁止用語が混じっておりますので、この辺にしたいと思います。
歌詞からすると、ホテルが入っているあたり、最近の替え歌のようですね。
 古川では一般的に、酒宴の席で、歌い回しを行なうことが多い様で、場を盛り上げる
ために即興で歌詞を作って歌うことが多かったようです。
私の聞いたところでは、100番近くまであるとのことでしたが、現在はっきりしているもの
をご紹介しました。下ネタも含まれていることがわかります。

 最近の企業においての「めでた」ですが、K木工さんでは、新入社員に対してめでたの
指導を行なっているそうです。
その文を紹介しますと、

「宴席でも飛騨地方の独特のしきたりがあります。新年会、忘年会、懇親会、花見等々
様々な宴席に共通して、その会の半ばに祝い歌『めでた』が披露されます。これは会
の年長者指名されて出だしを唄い、それを引き継いで同席の全員が声を合わせて唄う
ものです。
『めでた』までは基本的には各自自分の席に居て、『めでた』が披露されて初めて席を
離れて酒を注ぎあうこととなります。何かにつけてお酒が出る土地柄です。飲み過ぎや
飲酒運転をしないことを含め、お酒と上手に付き合いましょう。」


 最近の若い社員達が、古いしきたりや宴席でのマナーを知らないために、このような
マニュアルを作って配布しているそうです。企業でも風習を知らない若い方のために
いろいろと努力されているんですね。

 さて、今日のお話はこのへんで。
来週は第一週ですので、「飛騨の匠 屋台を作った 谷口家」のお話をします。
今日は、この曲でお別れです。「薬師丸博子で セーラー服と機関銃」 
ではまた来週。

徳積善太  
Posted by rekisy at 20:00Comments(2)TrackBack(0)毎週の放送内容

2008年02月24日

金森長近の鎧

金森長近の鎧が展示されている場所を知っていますか?


高山別院の中に、寺宝堂というのがあります。
そこには、中世の浄土真宗を中心とした中世史がたくさんあります。

飛騨の歴史の中で、金森氏が高山を知行した以降の資料はたくさんありますが、
それ以前のものは、おそらく郷土館と国府郷土館の蔵に眠ったままです。
どの程度のものがあるかも、わかりません。

そういうものが解明され、飛騨の歴史が詳しくされることを望みます。

徳積善太

  

2008年02月23日

試験

今日は下呂検定があり、受けてきました。
むちゃくちゃ難しい問題ばかりでした。
合否は微妙です。
  
Posted by rekisy at 19:06Comments(7)TrackBack(0)

2008年02月23日

大発見!富山日枝神社のものと思われる行列表

昨日の自己レスです。
本日、富山の日枝神社さんに確認したところ、江戸時代に2回大火があり、史料をほとんど焼失したそうです。
1707年に、祭礼で屋台か山車を曳いていた記録がありますが、詳しくはわからないそうです。
明治の中ごろまで、数台の山車があったそうですが、それも第二次世界大戦の空襲で焼失し、どのような
形であったかなど、現在は何も確認する史料がないそうです。

書類の中に、「明和8卯年に~」という記述があり、明和9年以降のものである事がわかりました。
これは、大発見です。

分析してみたら、行列数が141の役割から成っており、車に関わっている記録を15人で曳いた(他の屋台
などから推定)した場合に、総勢1298人の人たちが行列に関わっている事が分かりました。
これは、高山祭りの行列のほぼ倍の数字です。

やはり、富山は前田家のお膝元という事で、ものすごい数の氏子達によって、祭礼が行われていたようです。

また、東照宮神輿、山王御輿、日光神輿の順で、お神輿が担がれており、当時は3つの神社の祭礼を
同時に行っていたようです。
氏子の区域も現在の日枝神社の区域とは異なっており、とても貴重な史料である事が分かりました。

徳積善太  
Posted by rekisy at 01:28Comments(4)TrackBack(0)調べていること

2008年02月22日

発見

日枝神社の行列図を発見しました。江戸中期のものですが、高山のではありませんでした。

おそらく富山のものです。これから分析します!
  
Posted by rekisy at 13:11Comments(0)TrackBack(0)

2008年02月21日

「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」21 師 山崎弘泰

◇山崎弘泰との出会い

自分の生き方に疑問を持っていた与鹿はこの頃、国学者 田中大秀の筆頭高弟
である山崎弘泰の門に入る(弘化四年十月二十三日)。

 山崎弘泰は橘曙見、富田礼彦、蒲八十村らとともに荏門四天王と呼ばれ、地役人
を経て大秀の門下に入った。
 
大秀墓       荏野文庫看板
 与鹿はこの人から国学・和歌を習ったが、時代の世相を考えると、世の中の尊王
攘夷の流れ、崩壊しゆく徳川幕府に対する不信感、おかげ参りの民衆の深層心理、
富める旦那衆と貧困にあえぐ農民層などや、人としての生き方についても学んだと
思われる。

 与鹿は、古川にて天保十二年に仕事をしていたとき、水害の見回りで郡代に同行
していた山崎に古川で会っていたかもしれないので、既知の間柄であったとも想像
できる。
また、ちょうどこの頃、弘化二年に父とともに来高した十歳になる山岡鉄舟(鉄太郎)
は岩佐一亭に書法を、井上清虎に剣術を習っていたようだが、塾門を叩いたことで
あろう。父朝右衛門の嫡孫鶴二郎はこの人から和歌を習っていたようである。

徳積善太  

2008年02月20日

「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」20 白山神楽台

◇もう一つの仕事(二五歳)
弘化四年(一八四七)、与鹿はもう一つの仕事を請けていた。
白山の神楽台の太鼓木枠に白龍を彫ったのがそれである。


当時、鉄砲町界隈には三町のような豪商はおらず、しかも役人町であったので、扶持
(給与)もそんなに高くもらっている住民はいなかったし、また旦那衆の借家が多く、
職人が多い地域であったために、白山神社の神楽台を作るなどという話は、住民に
とっては大変な負担であったと思われる。

 酒や金に縁のない町内が太鼓枠に立派な彫刻をしてほしいと与鹿に頼もうとしたが、
おそらく、与鹿は何度も断ったに違いない。
断られ続けた挙句、住民たちは白山神社を管轄している雲龍寺の和尚と相談し、おそらく
この人を通せば断れないであろうという宗猷寺の和尚を通して頼んできたのではないかと
想像できる。
 与鹿自身も、かつて宗猷寺の和尚にお世話になったがために、断ることができなかった
のではないか。そうでなければ、縁もゆかりもないこの屋台組に与鹿が作品を残すなどとは、
余程の理由があったに違いない。これについては今後の調査を要する。

また、このころ、与鹿にも弟子ができ、名を浅井一之といった。浅井は下三之町の住人
であったから、おそらく吉兵衛を通じての紹介だったと思われる。この後、与六は弟子一之
とともに、複数の仕事をこなしていくことになる。


現在の東山白山神楽台 (この屋台は明治になってから造られた)

徳積善太  

2008年02月19日

「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」19 恵比寿台

◇恵比寿台組の挑戦
高山に屋台自慢は多いものの、これから建造する、あるいは改造する屋台に今までの
屋台よりもっといいものを作りたいと思うのは、屋台キチのいいところであり、金のかかる
ところである。

 麒麟台の完成を目の当たりにした恵比寿台組の人たちは、こぞって谷口与鹿の手による
屋台をと望むようになった。

 ただ、当の与鹿は大仕事を一つ終えたところで、「やれやれ」という気持ちになっていた
ところに、弘化三年(一八四六)、今度はまた違う組の人から申し出があった。

「さて、今度は受けようか、どうしようか?」

 あれこれ悩んでいたが、そこは恵比寿台組の人のほうが一枚上手だった。

 組内にある有名料亭「州さき」の座敷を借り切り、そこに与鹿を招待して接待のあらん限り
をつくした。
 子供の頃から高嶺の花だった州さきの料亭で、芸子衆をあげての大騒ぎに、この上ない
喜びを与鹿は感じてしまった。あまりの接待に申し訳なく思った与鹿は、つい仕事を請ける
羽目になったのである。

 記録によれば与鹿が料亭州さきで豪遊したとあるが、豪遊させたのは恵比寿台組の人たち
であり、与鹿を説得するための工作をしたと見るのが妥当ではないだろうか。
 与鹿は、人に迷惑をかけたり、金銭を余分に使わせたりということは、本来あまり好まな
かったのではなかろうか。ちゃんと仕事をして返済するという義理堅いのも与鹿の人柄で
あったと思われる。
 ただし、ここでもいい作品作りのために、豪商滑川屋(坂田)長五郎宅に厄介になりながら
彫り続けた。


恵比寿台の親子龍(与鹿作)

徳積善太  

2008年02月18日

2/18放送分 「飛騨のお酒のものがたり」

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。

2月もすでに第3週目に入りました。皆さん、お元気でお過ごしですか?

 今年は大雪になるかと思いましたが、東北から北海道にかけては、かなりの積雪に
なっているようです。この辺は、雪はあまりありませんが、気温が低いですね。
どうぞ、お風邪など引かないようにしてください。

さて、この放送ですが、できるだけ、わかりやすくお伝えしたいと思っていますが、
あまり省略しすぎて、間違っていたり、専門的な言葉が多くて、難しいということもあろうか
と思います。
どうぞ、間違いがあった場合や、分かりにくい、大変良くわかるなどのお言葉を、ヒッツ
FMの方にお知らせいただきたいと思います。
また、この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうに掲載していますので、
そちらもアクセスしてみてください。

さて、今日の放送は先週、予告をしましたように、「飛騨のお酒のものがたり」と称して、
お届けしたいと思います。

 現在、高山市内には8軒のお酒の醸造元があります。
 このごろ、冬のイベントとして「酒蔵めぐり」という催しが行われていて、仕上がった
ばかりの新酒を当番の決められた酒蔵で飲むことが出来ます。一般的には、観光客の
ためのイベントですが、地元の皆さんが行かれても試飲させていただけるようです。
どうぞ、遠慮なしに、お尋ね下さい。でも、あくまで試飲ですから、コップ酒をぐいぐいと
なんてことは、しないようにしてくださいね。

さて、飛騨での造酒ですが、それがいつごろから始まったのか、それは定かではあり
ません。おそらく、醸造が本格的にされたのは、金森時代のことではないかと思いますが、
飛騨には神社があり、そこでいただくお神酒は、各神社で作られていたものと思います。

もちろん、清酒ではなく、どぶろくですが、飛騨には白川郷や荘川のどぶろく祭りのように、
神事として昔から伝わっているお祭りもあります。また、高山でも荒神様の甘酒祭りという
のが4年に一度 高山市の江名子町で開催されており、今年がその4年に一度の年で、
1/13に盛大に開催されました。

 このように、飛騨に醸造の技術が伝わったのは、最初は神事のために始まったのではないか
と思われます。どなたか、ご存知の方がございましたら、お知らせいただきたいと思います。

 わからないお話をしていては、この番組が成り立ちませんので、ここからは、ちゃんと確認
されたお話をしたいと思います。


 まず、清酒の造り方をお話したいと思います。酒造りは、最初に、米を精米します。
精米というのは、もみを取った状態から、米を削る作業のことを言います。
 普通、米は保存しておくときに、もみの状態か玄米の状態で保存しますね。玄米を白米に
するには、米の表面を削っていきます。お酒の場合は、その削る作業を、玄米から白米、
さらに米の芯を取り出すくらいまでに精米します。最近の大吟醸酒などは、米が直径3mm
位になるまで精米したものを使うものがあります。
これについては、吟醸酒によって、違いますからお店でお尋ねください。

 さて、精米した米を洗って蒸します。その蒸した米に、別に発酵させた糀を混ぜます。
今でも飛騨では、杜氏さんたちが冬の寒いときにシャツ姿一枚になって、汗だくで米と糀を
混ぜる作業をされています。それが、十分に混じったところで、今度は、樽に水を張り、
そこに糀を混ぜ発酵させたもろみを入れます。それが酛(もと)といいます。
そこからが、麹菌の仕事となるわけですが、この発酵の具合は、すべて温度調節にかか
っています。時には、雪を使って樽の温度を下げてやったり、時には火を焚いて温度を上
げてやったり。 時々、酛も追加します。昔はすべて杜氏さんの経験と勘が頼りでした。

今では、この温度管理は、どこの酒蔵でも自動化されているところが多くて、ボタン一つで
できますが、昔は、杜氏さんが交代で寝て、昼夜を問わず作業をしたそうです。高山や
古川の酒造場には、今でもこの杜氏さんが寝泊りした場所が確保されています。

 このもろみの状態を維持して、できるのが、最初は甘酒。そして、だんだん発酵が進んで
いくと、糖分がアルコールへと変化し、お酒=どぶろくとなるのです。このどぶろくを甑(こしき)
でこしたものが、清酒です。
 昔は、お酒というとこのどぶろくのことをいい、滅菌していないので、輸送中などに追加発酵
してしまいました。それを、漉すことで清酒に変え、しかも温度処理をして滅菌すると、日持ち
のする清酒になります。

 この清酒の技術を最初にあみ出したのは伊丹の杜氏だと言われています。蔵出しの清酒は、
非常にアルコール分が高いので、焼酎などのアルコール分を追加して調整します。最近の
清酒が、14度以上という表示になっているのは、そのせいですが、蔵出しのアルコール分
未調整の原酒は、アルコール分が16~18度もあるものがあります。

さて、頭をフル回転したので、ちょっとここでブレイクしましょう。 「酒よ」をお届けします。
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今日の飛騨歴史再発見は、「飛騨のお酒のものがたり」についてお話しています。後半は、
歴史の話を中心にお話をしていきます。

 次に、いくつかの樽のお酒をブレンドする場合があります。このお酒の追加作業によって、
平均的なお酒が仕上がるのですが、飛騨の酒造メーカーでは、ほとんど樽出しのものを提供
されると聞いています。
 だから飛騨の酒は、いい水を使って、手間と暇をかけた 美味しい いいお酒なんですよ。

 さて、その歴史ですが、江戸時代には、元禄十年十一月に飛騨国酒株名前帳によると、
飛騨には89件、高山にはその内56件の酒造メーカーが存在したことが確認されています。
 この酒株というのは、今で言う免許状のことで、領主や幕府は、酒造からの運上金を取り
立てるために管理をしていました。明暦三年(1657)に幕府が設定したようですが、最近の
研究では、万治三年(1660)に明暦二年の酒造高を届けさせ、これを明暦3年の酒造株高
と定めて酒株帳に記帳させたものであることがわかりました。
 このことから、飛騨には、89軒の酒株があったことがわかります。

 なぜ、このように酒株を統制したかですが、江戸時代には、流通していた貨幣のほかに、
米も流通貨幣としての役割がありましたから、毎年米を消費し、米価を管理統制する必要が
ありました。米がだぶつくとインフレになりますので、その管理をしていたということです。
 江戸時代の台所といわれた大坂には、幕府が取り立てた年貢としてたくさんの米が集まり
ました。その価格統制のために、酒造りが行われ、有名な酒造りの町として、米の
海上・川輸送の可能な伊丹・灘・京都の伏見といった酒どころがこの大量の米を消費する
地域として選択されていたのです。

 飛騨においては、集まった米をそんな遠隔地にまで持っていくことができませんから、
自国内で消費させる必要がありました。そういうことから、高山のような山の中でお酒造り
が盛んになっていったと思われます。
 もちろん、酒造りにはいい水が欠かせませんから、宮川の伏流水が良く取れる高山の
城下町で、いい水を取得していました。

 この酒造場の数ですが、後に享保7年には、高山が62、古川12、神岡(船津)8、益田
には7軒となっています。ところが、この酒造メーカーは、先ほど申し上げたように、米の
作柄や経済統制によって、非常に左右されます。

 豊作のときは、米の値段を下げないために酒を造れ、酒を造れといって無制限に作らせ
ます。ところが、逆に凶作になりますと、米の値段が上って人民が困ります。そうなると、
一揆などが起こっては大変ですから、今度は逆にあまり造るな、造るなといって、制限
します。
 通常、1000石作れる酒屋が半分の500石しか造ってはいけないといわれると、半分の
設備は寝かせておくわけですから、大変な資本の蓄積がないと持ちこたえることが出来
ません。
 そういうことが理由となって、天保年間には、凶作となり三分の一令とか、二分の一令
というお触れが全国的に流布されます。しかし、お酒も値段がありますから、薄利多売に
ならないように、各地域の酒造場仲間は申し合わせをして、売れ行きを見ながら生産調整
をしていったそうです。

 さて、飛騨の酒と屋台は密接な関係があります。文化年間から文政年間にかけては、
全国的に非常に豊作でした。酒も統制が行われることが無く、どんどん作られました。
しかし、天保時代に入って今度は凶作になり、酒の生産が制限されます。
 高山市史によると文政13年(1830)・天保4年(1833)には1/3を減ぜさせ、天保5年には
2/3を減ぜよと指令が出ています。天保15年にはとうとう値上げをさせてくださいと役所に
申し出ています。
 その間、やっていけない酒造場は酒造株の売買という形で大手の旦那衆に譲ったりして
います。そうして、天保十四年には、高山の酒造場が26軒になりました。
 高山の祭り屋台ができるのは、天保時代のことですから、文化文政期の酒造場の儲けが
どんどん使われていったということなんです。

 明治期になると、さらに厳しくなったのか、酒造場の数が激減します。明治35年に酒造
組合発足時には高山で15軒となり、第二次大戦後には、さらに少なくなって現在の8軒の
酒造場になってしまいました。
 老舗といわれる店舗でも大変な紆余曲折を経て、今日があるというお話でした。
この話の続きはまたの機会にしたいと思います。

 さて、来週は、「飛騨の宴会に伝わる 飛騨のめでた」のお話をします。

 今日は、この曲でお別れです。 「酒と涙と男と女」 ではまた来週。

徳積善太  
Posted by rekisy at 20:00Comments(4)TrackBack(0)毎週の放送内容

2008年02月17日

「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」18 麒麟台の自慢

◇麒麟台の自慢 (二四歳)

「弘化三年(一八四六)三月十四日、春の山王祭。一之町の麒麟台組の人達は、
晴天を祈る気持ちでこの日を迎えた。永年の念願であった屋台下段に嵌められる
待望の彫がようやく完成し、晴れて披露することが出来るのである。

去年の秋から、組合の旦那衆である造り酒屋の借家が彫師の仕事場になってい て、
約半歳ほどの間に誰言うとなく、麒麟台組がたいした「彫」(ほり)を作っているという
噂が広まっていただけに、組の人達はいよいよ屋台を曳き出すこの日がとても待ち
遠しかったのである。

屋台の彫刻は、寺や神社と同じように、殆んど獅子や牡丹、 竜などが題材と して
用いられていた。だが、今現れた麒麟台の彫 は、そうした当 時の一般の常識を破って、
無心に遊ぶ童子に犬や鳥を配した、全く自由で斬新な構図と、高度な技術を駆使した
画期的なものであった。

 屋台は一之町から御旅所前の広場までの街筋を、雅やかな蘭陵王崩しの笛と太鼓の
囃子にあわせて、ゆらりゆらりと揺れながら、ゆっくりと曳かれていった。
祭り見物の町の人や、近郷近在の人達が、一目この彫刻を見なければと屋台の周りに
集まってくる。「彫」をのぞきこむ人人は、この作品の出来ばえに、揃って感嘆の声を
あげるばかりであった。
 このような群集の声を聞いて、組の人達は一様に誇らしい思いと歓びをかくしきれな
かった。

 その頃、一之町の仕事部屋では、一人の若い男が、憑き物が落ちたような表情で、
遠くの鉦の音を聞くともなく聞きながら静かに冷酒を飲んでいた。
 この青年こそ、彼の代表作となった「唐子群遊之図」を完成した若い彫師、谷口与三
次郎与鹿であった。」(飛騨の匠 老田剛著より 原文のまま)

この彫刻の完成こそ、与鹿の名前と名声を挙げた作品はなかったことであろう。

徳積善太  

2008年02月16日

高山陣屋の不思議4 お白州

高山陣屋のお白州は、室内の造りになっています。

これは、飛騨地方が寒い地方であるがために、罪状を白状させたり、お取調べ
をするお白州を、寒さから守るためだったようです。

しかしよく考えてみると、罪人を寒さから守るのではなくて、取調べをする役人を
寒さから守ったのかもしれませんね。

また、お白州で使われているのは、白い砂ではなくて、玉砂利が使われています。
これは、百たたき、せっかんなどのときに、血が流れても、血のりなどで砂が固まって
しまいますが、それを洗い流す事が簡単になるように、わざと砂ではなくて砂利を
使ったそうです。

高山陣屋には、「責台と割り石」という、せっかんの道具がおいてありますが、
並状に切った木の上に座らせその上から、重さ16kgもある石を一枚づつ重ねて
いきます。
あまりの重さに、足の痛さに耐えかねて「自分がやりました」と白状させました。

石は5枚おいてありますが、すべてを載せると5x16=80kgにもなります。
当時の日本人は小さいですから、大人の男性でも平均50kgの体重として、じつに
自分の体重より重い石を載せられます。
きっと、ボキボキと、足のすねの骨が折れて、歩けなくなった事でしょう。

そんな、せっかんの悲鳴が聞こえてきそうな気がします。

徳積善太  
Posted by rekisy at 08:15Comments(0)TrackBack(0)飛騨の風習

2008年02月15日

「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」17 麒麟台

◇唐子群遊 (二三歳)

組内の人は、全く仕事をしようとしない与鹿に半ばあきらめかけていたころ、ある日を
境にして熱心にノミを入れる与鹿にほっとする。待って待って待ちわびた末に出来上が
った唐子群遊の彫刻のできばえは見事なもので、けやきの木目をうまく使い、「唐子
遊びの図」を浮き彫りにしている。

中でも「籠伏せの鶏」は透かし彫りの技法をうまく取り入れたもので、一木で作られて
いる。

最初に籠を外側から彫り、その隙間から彫刻刃を入れて中の鶏を彫るといった神業的
な技術の結集であった。当時は、どうやって作ったのか「見るものをして骸目させる」
ほどのできばえであったほど、高山中で話題となったことであろう。

この彫刻のために、後に「屋台キチ」と呼ばれる方がこの屋台組に数多く登場するが、
それほど「おらが屋台は一番」と自慢するだけの作品である。『この彫りに与鹿は三年
かかった。このとき彼のもらった彫り料は「米三表」とも「金十両前金」とも言われている
が、その金はとうに使ってしまい、「まるで無一文のおけらになって千虎屋(老田)の
細工場を出て行った(元田月山「高山祭」)」という。

徳積善太  

2008年02月14日

「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」16

◇仕事放棄
しかし、結局は組の人たちの熱心な勧めに折れた与鹿だったが、それからというもの、
当人は全く仕事をしようとはせず、毎日城山に出かけては、子供たちと遊び、一向に仕事
をしようとはしなかった。

組内の人たちは心配になり、「いつ仕事をするのか」「一体ぜんたいいつになったら仕事を
始めてくれるのだろう」「こら、いいかげんに仕事をせい」などとあきれたり怒ったりしていたが、
永い間の心配の末、出来上がった唐子の表情を見て大変驚いた。
与鹿はただ遊んでいたのではなく、屋台の彫刻の構想を練る傍ら、子供たちの表情、姿態
をくまなく観察していたのである。

構想は、師匠吉兵衛から和四郎の唐子の図を見せてもらっていたので、その唐子を題材に
した彫刻に仕上げようと以前から考えていたと思われる。半田市の和四郎の手による彫刻
の中に唐子の彫刻が見られることからも、題材はそこから取ったのではないかと想像できる。
ただし、これについては、和四郎富昌の作品が弘化4年の作品となっているので、谷口与鹿
が作った作品を和四郎が実際に見て、彫刻の題材としたとも考えられるが、双方とも何の
題材から取ったか、研究の余地がある。

 
上記二点 麒麟台(高山)の唐子群遊の彫刻より 

 
上記二点 半田市 下半田唐子車の唐子彫刻と成岩旭車の籠伏せの鶏

徳積善太
  

2008年02月13日

「彫に生きる 谷口与鹿ものがたり」15

◇麒麟台の依頼(二二歳)
天保十四年(一八四三)、与鹿は萩原にいた。妙覚寺の経堂向拝の親子獅子を完成させていた。(寺は焼失したが、この獅子が現存していることが最近わかった。)

 

あまりに高山の人がしつこく参上するので、高山から一時的に離れたかったのであろう。彼の行方を捜していた一之町下組の人たちは、彼の帰高を心待ちにしており、帰ってきたときには大変喜んだ。実は、組内にあった「吉野静」の改築に踏み切ろうとしていたからである。組の者の中に、琴高台彫刻に感銘を受けた者があり、何とか他の屋台にはない立派な彫刻をつけた屋台を制作したい、それをするには与鹿の力をと考えた。ところが、大仕事をやり終えて半ば腑抜けになっている与鹿を説得するのには骨が折れた。あの手この手を使って結局は、組内の醸造元 老田屋(当時千虎屋、大阪屋一族)に借家を用意し、酒浸りの日々の中、小遣いを十分に与えてもらって気の向くままに仕事をさせることにした。与鹿も、大好きな酒がたらふく飲めて、小遣いもくれるという気前のいい話に、ついふらふらと乗ってしまうのだった。

徳積善太  

2008年02月12日

飛騨も文化財を火災から守ろう!

韓国ソウルの町のシンボル「南大門」が放火により、焼け落ちました。
 

高山の町は、文化財がたくさんあります。

高山の町も、以前の放送でお話しましたように、高山という町は、度重なる大火に包まれてきました。
江戸時代より前の記録がないので、それ以前のことはわかりませんが、
享保14年(1729)の高山大火975軒をはじめ、
そのわずか5年後の天明4年(1734)には2340軒、
寛政8年(1796)の三町南大火447軒、
天保3年(1832)の西向町大火227軒、
明治5年(1872)の向町大火721軒、
極めつけは明治8年(1875)には、8月と11月に2度の高山大火で1032軒など、
町中が焼けてしまう大火が7回。そして、50軒以上やけた大火事が大正時代までに4回もありました。

高山の別院も放火などによって、8回も焼けたそうです。


昭和22年に焼けた別院の大門(大正2年建造)

そのときに、村山群鳳のこんなに素晴らしい彫刻があったんです。


子々孫々に、高山の文化財を残していきましょう!

徳積善太

  
Posted by rekisy at 08:15Comments(0)TrackBack(0)

2008年02月11日

2月11日放送分 「飛騨の小さな豪族達」1

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。

2月もすでに第2週目に入りました。皆さん、この放送聞いていただいてますでしょうか? このごろ、道で私をご存知の方にお会いすると「聞いてるよ。楽しみにしてます。」とか「わかりやすくて、勉強になります。がんばってください。」などと激励のお言葉をいただきます。私も、調子に乗りやすいので、褒められると俄然がんばってしまいます。どうぞ、私をどんどん乗せてください。頑張って原稿を書きたいと思います。ただ、間違っていることもあろうかと思いますので、間違いがあった場合は、お知らせいただきたいと思います。
また、この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうにも掲載していますので、今までの放送についてご覧になりたい方がございましたら、どうぞそちらのブログにアクセスしてみてください。

さて、今日の放送は先週予告しましたように金森が飛騨に侵攻する前のお話をしたいと思います。「飛騨史考(中世編)」という本を参考にお話をしたいと思います。

まず、鎌倉時代(1192~1333)ですが、この頃は、歴史の時間に習いました守護と地頭という制度があり、実際に飛騨にもそういう人たちがいたようですが、残念ながらよくわかっていません。現在、残されている資料によると、部分的に多家のように都にいた豪族が飛騨のような地方を恩賞でもらって地頭として知行していたり、 京都の山科家のような貴族が飛び地のようにして石浦、岡本、松橋、江名子などの知行する土地を持っていたり、高山の新宮のように郡上の長滝寺が知行する土地があったとの記録が残っています。
後に飛騨を知行した姉小路氏が登場するのは、永仁2年(1294年)の記録からで、姉小路への使者が飛騨に下向したという記録が残っていることから、このころ、姉小路の知行が始まったと伝えられています。

姉小路氏は、藤原氏北家の支流である小一条流=左大臣 藤原師尹(もろただ)の子孫で、9代目の家時の四男に当たる人の出だと言われています。この姉小路家が国司として任命されたということになっていますが、確証できる資料がないために、いつごろから飛騨の国司として赴任したのか。また、国府がどこにあったのか、それは謎のままです。

国府については、江戸時代の代官 長谷川忠宗という人が書き残した飛州史には、高山にあったように書かれていますが、姉小路の拠点は古川にあったとも言われ、いまだ議論の分かれるところとなっています。

その頃、北飛騨 高原郷=現在の神岡あたりには、江馬氏という豪族が知行します。この江馬氏の先祖については、平清盛の弟経(つね)盛(もり)の忘れ形見 輝(てる)経(つね)であるという話がありますが、本当のことはわかっていません。

平成19年 神岡にオープンした「江馬館公園」

そのあと、時代を経て南北朝時代になると、前述した公家や寺が所領した土地を略奪したり横領したりする豪族が増えてきます。先ほどの姉小路氏や江馬氏のほかに、廣瀬氏や垣見氏という豪族が出てきます。
この2家の出自は明らかではなく、おそらく、もともとは、家臣であったものが、主家の領地を没収し、その後、公家や寺の所領地を略奪したり横領したりしてのし上がってきたものではないかといわれています。

一方で、所領の略奪に悩まされていた山科家では、領地替えを幕府に働きかけていたりします。姉小路家と山科家とは親戚で、飛騨の知行地のことでよく相談していたようですが、逆に姉小路家では、山科家が日野家と通じていたことを逆に利用し、姉小路尹(ただ)綱(つな)が自分の出世の道具としていた傾向があったようです。

このことが原因となってか、わかりませんが、応永13年(1406)4月、突如足利義満が姉小路小島家の所領古川庄を、没収してしまいます。その土地は、姉小路家の努力で変換されますが、その後も、姉小路家の所領を守護京極氏に預け置いたりして、姉小路家いじめとも思えるようなことが続きました。2年後の応永15年に義満が没すると、幕府は、山科家の奪われた土地を山科家に返還します。喜んだ山科家では、早速家来を飛騨の地に派遣しますが、そこには、山科家の土地は無く、姉小路尹(ただ)綱(つな)が斯波氏から預かっているという土地でした。

長い間の横領で、所有者が代わってしまっていました。しかし、これは裏を返せば姉小路尹(ただ)綱(つな)の陰謀とも思われるもので、義満が存命中は暗黙の了解にされていましたが、義持の代になって、事件が発覚したということです。
このことがきっかけとなって、北飛騨では応永18年(1411)に「飛騨の乱」がおきます。姉小路尹綱(ただつな)が、幕府軍に追い立てられ、2500騎という兵を送られて、尹綱は朝倉の家臣井上新兵衛という人に討ち取られます。

さて、頭をフル回転したので、ちょっとここでブレイクしましょう。 今日は、「八神純子のパープルタウン」をお届けします。
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今日の飛騨歴史再発見は、三木氏統一前、金森氏が入国する前の飛騨についてお話しています。後半は、飛騨史考や飛騨略記を参考にして、かいつまんだお話をしていきます。

応永18年の飛騨の乱の直後に、姉小路氏は3つに分裂し、小島城の姉小路 小嶋氏。向小島(小鷹利)城に白米城にいた姉小路の家臣 牛丸氏。古川蛤城の姉小路氏に分裂します。ただ、奇妙な事に、姉小路家は分裂しますが、以前の所領地をそのまま幕府から安堵されています。つまり、この乱は、姉小路尹綱(ただつな)個人を成敗するためのものであったのではと岡村先生は著書の中で述べられています。

また、この乱のときに、近江の京極氏が論功行賞として高山地区の石浦、岡、山田などのほかに、下呂の竹原あたりをもらったようです。その守護代として高山付近の知行地を任されたのが多賀氏で、竹原付近を任されたのが多賀氏の家来であった三木(みつき)氏(し)であるとされています。
 この三木氏についての出自は源氏の後胤などとされ、多賀氏の家来とも一族ともなっていますが、定かではありません。いずれにせよ、この益田郡に土着した三木氏が、後に飛騨を統一する豪族になるのです。

後に飛騨を統一する三木自綱(よりつな)

話は進んで、後の室町時代の中ごろ、益田郡は、三木乗綱の子息 綱良や久頼らに治められていました。また弟重頼は萩原の上村に在城して益田郡一円を治め、三福寺町にあった三佛寺城には、三木直頼がいました。石浦には堂洞城主として三木則綱が知行し、あちこちに親族を配置して治めるようになりました。

これ以外にも、室町時代中期の飛騨には、たくさんの小さな豪族が住んでいました。江戸時代の始めに「飛騨略記」という軍記物がありましたので、その本からその頃のお話をかいつまんでさせていただきたいと思います。どこにどんな人がいたのか、ラジオでは、聞きにくいかもしれませんが、あまりご存じないと思いますので、列挙したいと思います。 ゆっくりお話しますので場所をイメージしながら、聞いてください。

まず、高山の町からまいります。

・現在の高山城のあったところ、安河の天神山城主には、高山外記がいたといわれています。=またこの方が、高山の地名の元になった人と言われています。 

・少し南にいきまして、江名子村には畑六郎左衛門林高が知行していました。 

・少し東にいきます。 現在の松ノ木町から漆垣内町にかけてある鍋山の城には鍋山豊後守安室 その家臣には熊原左近 阿尻兵部介。また家臣の大谷蔵人という人が小八賀を治めていました。 

・さらに東、丹生川町町方のあたりは、八賀町と呼ばれていましたが、そこにあった尾崎の城には塩谷筑前守秋貞がいました。 

・ちょっと方角を西に移します。高山の西、高山の岡本付近には、岡本豊前守がいました。 

・中山峠を越えます。西の三枝郷には三枝城主 山田紀伊守がいました。 

・南にいって、高山の千島町、現在の飯(いい)山寺(ざんじ)のあるところにあった 飯山城主には、飯山三郎兵衛保氏がいました。 

・さらに南、一ノ宮町にはいります。 山下城主には山下刑部左衛門利国という人がいました。

・更に西に行って 清見町阪下には内木助左衛門善秋と弟の助十郎がいました。

・もっと西に行って荘川から白川郷付近にまいりますと、白川には帰雲城主 内ヶ島豊後守為氏 その家臣には萩町城主 山下大和守氏安や 中河兼顕 河尻備中守氏信などがいました。
この帰雲城は天正の大地震でたくさんの金塊もろとも、山崩れの下敷きになったといわれています。 

・その外、この地域には 浄土真宗を白川郷に広めた三島将監という人が三代に渡って白川村中野を治めていました。照蓮寺のあったところですね。 

・旧大野郡の南のほう、朝日町・久々野町付近の阿多野郷には 甲城主 東藤相模守 黒川越中守 阿多野蔵人がいました。

・さて、こんどは、旧吉城郡にまいります。 国府町広瀬には高遠の城主 広瀬山城守宗城。家臣には河尻将監・堀越前守がいました。 

・古川方面 荒城郡には小田苅の城主 国司姉小路済継と 家臣には白米城主 牛丸重親 後藤帯刀 渡部筑前守 山賀新兵衛など。 結構広範囲に知行していました。 

・宮川を挟んで杉崎の小島城主には姉小路の親戚の小島時光がいました。

・神岡付近の高原郷には殿村城主 江馬小四郎時盛 家臣には、川上輔忠 和爾経氏 神代常名。
ここは、先ほどの話のように鎌倉時代の終わりごろから200年以上も知行されていました。以上のように、たくさんの小さな豪族が飛騨地方を治めていたんです。この続きはまたお話したいと思います。

さて、今日のお話はこの辺で。  来週は、「飛騨のお酒のものがたり」のお話をいたします。

お別れの曲は懐かしいところで「クラフトの 僕にまかせてください」 ではまた来週!

徳積善太  
Posted by rekisy at 20:00Comments(2)TrackBack(0)毎週の放送内容