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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年03月30日

大威徳寺の戦いについて

武田信玄が飛騨に侵攻したのは、次の5回があります。
「飛騨編年史要」(岡村利平著)には次のようになります。

1)「大威徳寺の戦い」といって、下呂の舞台峠のところにあった大威徳寺で戦いがあった、
時のこと。この時は、苗木の遠山氏が武田の先兵として攻め入ってきました。
永禄3年9月26日


2)「野麦峠越え」
永禄3年8月7日 木曽義康が、飛騨阿多野口へ侵攻し、山村三郎九郎良候は17歳で、
檜枝次郎左衛門の首をとります。
このときの論功行賞か、元亀三年に信玄から良利に美濃国安弘見300貫、其子
七郎右衛門良候へ千旦林茄子川の内300貫の土地を与えられます。

3)「安房峠を越えた飛騨侵攻」
これには、三回あり、(実際には4回来ています)
0回目・・・永禄2年6月下旬 飯富三郎、甘利左衛門尉、馬場民部助に命じて安房峠の手前まで
きました。このときは、実際に飛騨に入っていません。
1回目・・・永禄7年5月11日 飯富昌景が兵を飛騨に勧めました。
2回目・・・永禄7年7月18日 飯富昌景が、小八賀郷に入り、尾崎城を攻め、其後、
千光寺を焼き討ちにかけます。
3回目・・・永禄8年6月上旬 飯富昌景が、飛騨を通って、越中へ攻め入ります。
(飛騨編年史要より)

ところが、この大威徳寺の戦いの年度には諸説あります。
苗木遠山資料館の千早先生によれば、
①1545(天文14)年説 … 安池家文書『苗木伝記中』には、8月2日遠山左近佐
 正廉が三木久庵入道萩原城主三木次郎右 衛門と戦ったとあります。

②1556(弘治2)年説…現在大威徳寺発 掘調査(平成15~17)に従事されてい
 る堀正人氏の発表レジメには「1556年 威徳寺合戦(合戦の年については諸説あ
 り)」とあり、現地威徳寺跡の案内標示 も1556年です。

③1560(永禄3)年説… 岡村利平『飛騨 編年史要』は上記紹介済み

④1569(永禄12)年説…遠山家文書『高 森根元記』は「飛州住人有三木久庵入道
 自綱言者舎弟同国萩原城主三木次郎右衛 門尉与正廉有確執之儀永禄十二年秋之頃
 於同国威徳寺合戦之処…」とします。

⑤1572(元亀3)年説…遠山家文書『御家譜』(天明年間 1780年代)では「直廉(遠山勘太郎
 左近佐 駿河守) 飛州竹原一戦勝利被矢傷凱陣後卒去 元亀三壬申年五月十八日
 」とあります。

濃飛両国通史も⑤の説を採っているのですが、先ほど図書館で発見した「飛騨史の研究」
(多賀秋五郎著)には、②を採っています。
どなたか、ご存知ありませんでしょうか?

徳積善太  
Posted by rekisy at 21:00Comments(4)TrackBack(0)調べていること