2008年03月30日
大威徳寺の戦いについて
武田信玄が飛騨に侵攻したのは、次の5回があります。
「飛騨編年史要」(岡村利平著)には次のようになります。
1)「大威徳寺の戦い」といって、下呂の舞台峠のところにあった大威徳寺で戦いがあった、
時のこと。この時は、苗木の遠山氏が武田の先兵として攻め入ってきました。
永禄3年9月26日

2)「野麦峠越え」
永禄3年8月7日 木曽義康が、飛騨阿多野口へ侵攻し、山村三郎九郎良候は17歳で、
檜枝次郎左衛門の首をとります。
このときの論功行賞か、元亀三年に信玄から良利に美濃国安弘見300貫、其子
七郎右衛門良候へ千旦林茄子川の内300貫の土地を与えられます。
3)「安房峠を越えた飛騨侵攻」
これには、三回あり、(実際には4回来ています)
0回目・・・永禄2年6月下旬 飯富三郎、甘利左衛門尉、馬場民部助に命じて安房峠の手前まで
きました。このときは、実際に飛騨に入っていません。
1回目・・・永禄7年5月11日 飯富昌景が兵を飛騨に勧めました。
2回目・・・永禄7年7月18日 飯富昌景が、小八賀郷に入り、尾崎城を攻め、其後、
千光寺を焼き討ちにかけます。
3回目・・・永禄8年6月上旬 飯富昌景が、飛騨を通って、越中へ攻め入ります。
(飛騨編年史要より)
ところが、この大威徳寺の戦いの年度には諸説あります。
苗木遠山資料館の千早先生によれば、
①1545(天文14)年説 … 安池家文書『苗木伝記中』には、8月2日遠山左近佐
正廉が三木久庵入道萩原城主三木次郎右 衛門と戦ったとあります。
②1556(弘治2)年説…現在大威徳寺発 掘調査(平成15~17)に従事されてい
る堀正人氏の発表レジメには「1556年 威徳寺合戦(合戦の年については諸説あ
り)」とあり、現地威徳寺跡の案内標示 も1556年です。
③1560(永禄3)年説… 岡村利平『飛騨 編年史要』は上記紹介済み
④1569(永禄12)年説…遠山家文書『高 森根元記』は「飛州住人有三木久庵入道
自綱言者舎弟同国萩原城主三木次郎右衛 門尉与正廉有確執之儀永禄十二年秋之頃
於同国威徳寺合戦之処…」とします。
⑤1572(元亀3)年説…遠山家文書『御家譜』(天明年間 1780年代)では「直廉(遠山勘太郎
左近佐 駿河守) 飛州竹原一戦勝利被矢傷凱陣後卒去 元亀三壬申年五月十八日
」とあります。
濃飛両国通史も⑤の説を採っているのですが、先ほど図書館で発見した「飛騨史の研究」
(多賀秋五郎著)には、②を採っています。
どなたか、ご存知ありませんでしょうか?
徳積善太
「飛騨編年史要」(岡村利平著)には次のようになります。
1)「大威徳寺の戦い」といって、下呂の舞台峠のところにあった大威徳寺で戦いがあった、
時のこと。この時は、苗木の遠山氏が武田の先兵として攻め入ってきました。
永禄3年9月26日

2)「野麦峠越え」
永禄3年8月7日 木曽義康が、飛騨阿多野口へ侵攻し、山村三郎九郎良候は17歳で、
檜枝次郎左衛門の首をとります。
このときの論功行賞か、元亀三年に信玄から良利に美濃国安弘見300貫、其子
七郎右衛門良候へ千旦林茄子川の内300貫の土地を与えられます。
3)「安房峠を越えた飛騨侵攻」
これには、三回あり、(実際には4回来ています)
0回目・・・永禄2年6月下旬 飯富三郎、甘利左衛門尉、馬場民部助に命じて安房峠の手前まで
きました。このときは、実際に飛騨に入っていません。
1回目・・・永禄7年5月11日 飯富昌景が兵を飛騨に勧めました。
2回目・・・永禄7年7月18日 飯富昌景が、小八賀郷に入り、尾崎城を攻め、其後、
千光寺を焼き討ちにかけます。
3回目・・・永禄8年6月上旬 飯富昌景が、飛騨を通って、越中へ攻め入ります。
(飛騨編年史要より)
ところが、この大威徳寺の戦いの年度には諸説あります。
苗木遠山資料館の千早先生によれば、
①1545(天文14)年説 … 安池家文書『苗木伝記中』には、8月2日遠山左近佐
正廉が三木久庵入道萩原城主三木次郎右 衛門と戦ったとあります。
②1556(弘治2)年説…現在大威徳寺発 掘調査(平成15~17)に従事されてい
る堀正人氏の発表レジメには「1556年 威徳寺合戦(合戦の年については諸説あ
り)」とあり、現地威徳寺跡の案内標示 も1556年です。
③1560(永禄3)年説… 岡村利平『飛騨 編年史要』は上記紹介済み
④1569(永禄12)年説…遠山家文書『高 森根元記』は「飛州住人有三木久庵入道
自綱言者舎弟同国萩原城主三木次郎右衛 門尉与正廉有確執之儀永禄十二年秋之頃
於同国威徳寺合戦之処…」とします。
⑤1572(元亀3)年説…遠山家文書『御家譜』(天明年間 1780年代)では「直廉(遠山勘太郎
左近佐 駿河守) 飛州竹原一戦勝利被矢傷凱陣後卒去 元亀三壬申年五月十八日
」とあります。
濃飛両国通史も⑤の説を採っているのですが、先ほど図書館で発見した「飛騨史の研究」
(多賀秋五郎著)には、②を採っています。
どなたか、ご存知ありませんでしょうか?
徳積善太




