2008年03月31日
3/31放送分「高山祭りの屋台の不思議1」
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さあ、今年もだんだん高山祭りが近づいてきました。飛騨ではまだ寒い日が続いていて、
梅や桜のつぼみもまだ固いですが、皆さんいかがお過ごしですか?
高山の祭りは、長い冬を待ちわびたように、花という花が一斉に花開きます。梅も桜もこぶしも
山吹も。それは町中が花盛りで、その桜をバックに、しずしずと行く屋台のきらびやかさは、見る
人の目を楽しませます。
私たちのご先祖が、こんな素晴らしいものを残してくれた事に感謝し、今後もこの屋台のお祭りが
続いていってほしいと思います。
さて、この放送ですが、毎週月曜夜7時半からと毎週土曜朝10時半から、こちらは再放送で
お届けしています。番組に対するご意見やご要望、調べてほしいことなどがございましたら、
ヒッツFMのほうに、ファクスかメールを下さい。
ブログのほうへ書き込んでいただいても結構です。なるべくお調べしてお答えしていきたいと
思います。
さて、今日の放送は先週予告をお話しましたように、「高山の屋台の不思議」と題して、「飛騨の
匠が造った屋台」のお話をしたいと思います。
今日の、お話の前に、皆さんにクイズを出しましょう。ちょっと考えてみてください。
まず、第一問 高山まつりの屋台の大きさが皆、大体同じなのは何故でしょうか?
A)設計図が同じだった B)職人さんが合わせた C)通りに合わせた D)作ったお金が同じだった
さあ、どれだと思いますか?
それでは、答えを申し上げましょう。答えは、Cの「通りに合せた」です。
高山の屋台の幅がほぼ同じなのは、通りに合わせて設計してあるからです。
もともと、高山の町は、どの通りも今の三之町と同じくらいに狭い通りでした。そこを通るために、
いろいろと工夫が屋台にほどこされています。たとえば、屋台を高くすると上段の勾欄が屋根の
庇に引っかかります。そこで、山王の鳳凰台には、匂蘭を折りたためる構造になっています。
ちょうど、先っちょのところに蝶番がついていて、内側に折りたためるように工夫されています。
また、これについては、八幡の大八台のように、スライド式 に取り込めるものもあります。

以前に、この放送でもお伝えした事がありますが、もともと、屋台というのは、山から木を取って
きて、台櫃にいれて担いだものが始とされています。そこに、神様が舞い降りると信じられてきた
んですね。
ですから、家の屋根などがあると目立たないとして、だんだん上へ上へと伸びていきます。
そうすると、今度は安定が悪くなりますから、下を重くしないとすぐに転げてしまう。下を重くすると、
人間が担ぐわけに行きませんから、車輪をつけて引っ張る形になった。
それが、山と呼ばれ、車をつけたものを山に車と書いて、山車と呼ぶようになった。
今度は、装飾をつけて、屋根をつけたものを屋台。屋根をつけていては、高さが限られるから、
屋根の上に鉾を乗せた、京都の祇園祭に見られるような、鉾というものもあります。
そうやって、屋台はどんどん上へ上へと伸びていったんですね。
それが、大きいとやっぱりあちこちでぶつけるようになる。それをぶつけないで曳いて見せるのが、
舵取りの大舵子という人の役割です。
屋台を曳くときに、屋台の前で、屋台の下段の真中から延びている太い棒を左右に操っている人
がいるでしょう。あれが大舵子という人です。装束を見てください。どの屋台も、たいへんきらびやかな
羅紗を使ったような装束をまとっています。
祭りでは、彼の腕の見せ所なんですよ。晴れ舞台です。
ところが、毎年、屋台巡行となると、たいていどこかの屋台が、ぶつけたり、電線に引っ掛けたりして
いる。他の屋台組では、そういう屋台組があると、「あそこの組は、普段、けち臭いことを言っているから
罰が当ったんだ」とか、「あんな奴を大舵子に使うもんで、あんなことになるんやさ」などと悪口を言います。
しかし、その逆もあるわけですから、自分たちが屋台をぶつけたりすることはできない。そういう意味でも、
屋台を曳くというのは、大変な技術と組の人たちの心を一つにしないとだめなことなんです。
どの屋台組でも毎年あることなんですが、ある人は右へ寄せろという。ある人は、左へ寄せろという。
曳き手はいったいどっちなんだということになりますが、船頭が多くては、屋台は前に進まない。気持ちを
一つにして曳く事で、初めて屋台は前に進むんです。
これは、高山の人の「助け合いの精神」を現したものだと思います。
さて、この辺で、ちょっとブレイクしましょう、曲は「石川優子 沈丁花」
今日の「飛騨歴史再発見」は、「高山祭りの屋台の不思議」というお話をしています。
先ほどは屋台の大きさについてお話しましたが、さて、もう一つ問題を出します。
第二問 どうやって四輪の屋台を四つ角で回すのでしょうか?
A)むりやり廻す。B)小さい車輪を出して廻す。C)水をまく。D)持ち上げる。
さあ、どれでしょうか。答えは高山の方ならご存知ですね。B)が正解です。
高山祭りの屋台のもう一つの工夫は、狭い通りで転回するための戻し車です。戻し車というのは、4輪の
屋台についているもので、四輪に対して、直角の向きについている小さな車の事です。通りの角に来ると、
係りの人が戻し車を下に下ろして、筒状になったところについている車輪をジャッキで押し出します。
そうすると、屋台の片方の車輪が浮くので、3輪の状態となり、左右に回る事ができるんです。

戻し車という名前は、出したり戻したりというところから来ているのでしょう。 たいていの戻し車は4輪の
屋台には必ず一つついていますが、私が調べたところでは、恵比寿台・八幡鳳凰台など前後に2つ付いて
いるものもあります。これは、狭い通りで、どちらの戻し車を使っても簡単に回れるような工夫なんですね。

さて、構造について、もう一つお話をしますが、高山祭りの屋台のすごいところは、その揺れ方にあります。
この放送をお聞きの皆さんも、永年、屋台を見てこられたことと思いますが、揺れなんてご覧になったことが
ありますか?
よく見てください。
下段が左に動けば、中段は右、上段は左に揺れています。
この構造は、屋台の柱にある「あそび」というものによります。
実はこれは、地震国日本のほとんどの建物に使われているシステムなんです。
東京の新宿に高層ビル群がありますが、あそこの建物にも応用されています。どんな高い建物でも、構造が
揺れに対して力を分散する構造になっていて、上が右へ動けば、中は左、下は右といった構造で、地震などの
揺れを吸収するようになっています。
最近では、地下の部分にゴムを使ったり、屋上の部分に水槽を置いて、揺れを吸収する方法などが考えられ
ています。
この構造は、古くは五重塔に使われている技術です。地震で五重塔が倒れたという話は、聞きませんよね。
先の阪神大震災のときにも、京都や奈良も大変揺れたはずですが、どの五重塔も無事だったのは、
この技術によります。今度、屋台を見るときにそういうところも見てください。
さて、最後にもう一つ。屋台の構造の話ですが、高山祭りの屋台が屋台蔵に入っているときは、上段がすごく
下がっていますよね。曳くときは中段の高さになっています。そして、どこかに停止しているときは、屋根を一番
上げてあります。あの構造って、どうなっていると思いますか?
これについては、あまり屋台組関係者の方以外は見ることができないと思いますが、上段を上げ下げする機構が
ついていて、滑車がつけられています。
小学校のときに理科の時間に習いましたよね。定滑車と動滑車というものです。定滑車は固定された滑車で、
そちらの力を1とすると、動滑車は、紐の上を動かす滑車で、引く紐の長さは倍になるけれども1/2の力で動かす
事ができる。というものです。
屋台の上段を上げ下げする部分には動滑車。屋台本体には定滑車が付けられていて、二人の人間が、紐を巻き
取ることで、簡単に上げ下げする事ができます。この技術っていつごろから高山の屋台にあったのかわかりません
が、今から200年前の文化年間の屋台図には、すでにこの上下させる技術がついた屋台とそうでない屋台が
あったようですので、おそらくこの頃ではないかと思われます。
このいわれについて、長倉先生の屋台雑考に書いてあるのを要約すると、「昔、神田明神の祭りに山車があった。
その屋台は、棄捐令によってぜいたく品ということになり、廃止されてしまったが、屋台のあるころ、必ず江戸城に
見参しなくてはいけなかった。そのときに、江戸城の門をくぐる事ができないので、考え出された方法である。」
ということです。こんなところにも、江戸の技術が用いられているんですね。
この巻き取り方法は、それぞれの屋台によっても違いますが、最も原始的なやり方は、人間の手で持ち上げる
方法です。東山白山神社の神楽台の棟上げや、総社の神楽台など、小さな屋台は、今でも4人ほどの人が
「せえーの」で持ち上げ、上げたところに楔をかって、降りないようにしています。
さて、今日もお時間となってしまいました。来週は、祭りも近いので今日のお話の続き「高山祭りの屋台の
不思議2」をお話ししたいと思います。どうぞお楽しみに。
今日は、この曲でお別れです。30年前の今日、解散をしてしまいました。「キャンディーズで 微笑み返し」
ではまた来週。
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さあ、今年もだんだん高山祭りが近づいてきました。飛騨ではまだ寒い日が続いていて、
梅や桜のつぼみもまだ固いですが、皆さんいかがお過ごしですか?
高山の祭りは、長い冬を待ちわびたように、花という花が一斉に花開きます。梅も桜もこぶしも
山吹も。それは町中が花盛りで、その桜をバックに、しずしずと行く屋台のきらびやかさは、見る
人の目を楽しませます。
私たちのご先祖が、こんな素晴らしいものを残してくれた事に感謝し、今後もこの屋台のお祭りが
続いていってほしいと思います。
さて、この放送ですが、毎週月曜夜7時半からと毎週土曜朝10時半から、こちらは再放送で
お届けしています。番組に対するご意見やご要望、調べてほしいことなどがございましたら、
ヒッツFMのほうに、ファクスかメールを下さい。
ブログのほうへ書き込んでいただいても結構です。なるべくお調べしてお答えしていきたいと
思います。
さて、今日の放送は先週予告をお話しましたように、「高山の屋台の不思議」と題して、「飛騨の
匠が造った屋台」のお話をしたいと思います。
今日の、お話の前に、皆さんにクイズを出しましょう。ちょっと考えてみてください。
まず、第一問 高山まつりの屋台の大きさが皆、大体同じなのは何故でしょうか?
A)設計図が同じだった B)職人さんが合わせた C)通りに合わせた D)作ったお金が同じだった
さあ、どれだと思いますか?
それでは、答えを申し上げましょう。答えは、Cの「通りに合せた」です。
高山の屋台の幅がほぼ同じなのは、通りに合わせて設計してあるからです。
もともと、高山の町は、どの通りも今の三之町と同じくらいに狭い通りでした。そこを通るために、
いろいろと工夫が屋台にほどこされています。たとえば、屋台を高くすると上段の勾欄が屋根の
庇に引っかかります。そこで、山王の鳳凰台には、匂蘭を折りたためる構造になっています。
ちょうど、先っちょのところに蝶番がついていて、内側に折りたためるように工夫されています。
また、これについては、八幡の大八台のように、スライド式 に取り込めるものもあります。

以前に、この放送でもお伝えした事がありますが、もともと、屋台というのは、山から木を取って
きて、台櫃にいれて担いだものが始とされています。そこに、神様が舞い降りると信じられてきた
んですね。
ですから、家の屋根などがあると目立たないとして、だんだん上へ上へと伸びていきます。
そうすると、今度は安定が悪くなりますから、下を重くしないとすぐに転げてしまう。下を重くすると、
人間が担ぐわけに行きませんから、車輪をつけて引っ張る形になった。
それが、山と呼ばれ、車をつけたものを山に車と書いて、山車と呼ぶようになった。
今度は、装飾をつけて、屋根をつけたものを屋台。屋根をつけていては、高さが限られるから、
屋根の上に鉾を乗せた、京都の祇園祭に見られるような、鉾というものもあります。
そうやって、屋台はどんどん上へ上へと伸びていったんですね。
それが、大きいとやっぱりあちこちでぶつけるようになる。それをぶつけないで曳いて見せるのが、
舵取りの大舵子という人の役割です。
屋台を曳くときに、屋台の前で、屋台の下段の真中から延びている太い棒を左右に操っている人
がいるでしょう。あれが大舵子という人です。装束を見てください。どの屋台も、たいへんきらびやかな
羅紗を使ったような装束をまとっています。
祭りでは、彼の腕の見せ所なんですよ。晴れ舞台です。
ところが、毎年、屋台巡行となると、たいていどこかの屋台が、ぶつけたり、電線に引っ掛けたりして
いる。他の屋台組では、そういう屋台組があると、「あそこの組は、普段、けち臭いことを言っているから
罰が当ったんだ」とか、「あんな奴を大舵子に使うもんで、あんなことになるんやさ」などと悪口を言います。
しかし、その逆もあるわけですから、自分たちが屋台をぶつけたりすることはできない。そういう意味でも、
屋台を曳くというのは、大変な技術と組の人たちの心を一つにしないとだめなことなんです。
どの屋台組でも毎年あることなんですが、ある人は右へ寄せろという。ある人は、左へ寄せろという。
曳き手はいったいどっちなんだということになりますが、船頭が多くては、屋台は前に進まない。気持ちを
一つにして曳く事で、初めて屋台は前に進むんです。
これは、高山の人の「助け合いの精神」を現したものだと思います。
さて、この辺で、ちょっとブレイクしましょう、曲は「石川優子 沈丁花」
今日の「飛騨歴史再発見」は、「高山祭りの屋台の不思議」というお話をしています。
先ほどは屋台の大きさについてお話しましたが、さて、もう一つ問題を出します。
第二問 どうやって四輪の屋台を四つ角で回すのでしょうか?
A)むりやり廻す。B)小さい車輪を出して廻す。C)水をまく。D)持ち上げる。
さあ、どれでしょうか。答えは高山の方ならご存知ですね。B)が正解です。
高山祭りの屋台のもう一つの工夫は、狭い通りで転回するための戻し車です。戻し車というのは、4輪の
屋台についているもので、四輪に対して、直角の向きについている小さな車の事です。通りの角に来ると、
係りの人が戻し車を下に下ろして、筒状になったところについている車輪をジャッキで押し出します。
そうすると、屋台の片方の車輪が浮くので、3輪の状態となり、左右に回る事ができるんです。

戻し車という名前は、出したり戻したりというところから来ているのでしょう。 たいていの戻し車は4輪の
屋台には必ず一つついていますが、私が調べたところでは、恵比寿台・八幡鳳凰台など前後に2つ付いて
いるものもあります。これは、狭い通りで、どちらの戻し車を使っても簡単に回れるような工夫なんですね。
さて、構造について、もう一つお話をしますが、高山祭りの屋台のすごいところは、その揺れ方にあります。
この放送をお聞きの皆さんも、永年、屋台を見てこられたことと思いますが、揺れなんてご覧になったことが
ありますか?
よく見てください。
下段が左に動けば、中段は右、上段は左に揺れています。
この構造は、屋台の柱にある「あそび」というものによります。
実はこれは、地震国日本のほとんどの建物に使われているシステムなんです。
東京の新宿に高層ビル群がありますが、あそこの建物にも応用されています。どんな高い建物でも、構造が
揺れに対して力を分散する構造になっていて、上が右へ動けば、中は左、下は右といった構造で、地震などの
揺れを吸収するようになっています。
最近では、地下の部分にゴムを使ったり、屋上の部分に水槽を置いて、揺れを吸収する方法などが考えられ
ています。
この構造は、古くは五重塔に使われている技術です。地震で五重塔が倒れたという話は、聞きませんよね。
先の阪神大震災のときにも、京都や奈良も大変揺れたはずですが、どの五重塔も無事だったのは、
この技術によります。今度、屋台を見るときにそういうところも見てください。
さて、最後にもう一つ。屋台の構造の話ですが、高山祭りの屋台が屋台蔵に入っているときは、上段がすごく
下がっていますよね。曳くときは中段の高さになっています。そして、どこかに停止しているときは、屋根を一番
上げてあります。あの構造って、どうなっていると思いますか?
これについては、あまり屋台組関係者の方以外は見ることができないと思いますが、上段を上げ下げする機構が
ついていて、滑車がつけられています。
小学校のときに理科の時間に習いましたよね。定滑車と動滑車というものです。定滑車は固定された滑車で、
そちらの力を1とすると、動滑車は、紐の上を動かす滑車で、引く紐の長さは倍になるけれども1/2の力で動かす
事ができる。というものです。
屋台の上段を上げ下げする部分には動滑車。屋台本体には定滑車が付けられていて、二人の人間が、紐を巻き
取ることで、簡単に上げ下げする事ができます。この技術っていつごろから高山の屋台にあったのかわかりません
が、今から200年前の文化年間の屋台図には、すでにこの上下させる技術がついた屋台とそうでない屋台が
あったようですので、おそらくこの頃ではないかと思われます。
このいわれについて、長倉先生の屋台雑考に書いてあるのを要約すると、「昔、神田明神の祭りに山車があった。
その屋台は、棄捐令によってぜいたく品ということになり、廃止されてしまったが、屋台のあるころ、必ず江戸城に
見参しなくてはいけなかった。そのときに、江戸城の門をくぐる事ができないので、考え出された方法である。」
ということです。こんなところにも、江戸の技術が用いられているんですね。
この巻き取り方法は、それぞれの屋台によっても違いますが、最も原始的なやり方は、人間の手で持ち上げる
方法です。東山白山神社の神楽台の棟上げや、総社の神楽台など、小さな屋台は、今でも4人ほどの人が
「せえーの」で持ち上げ、上げたところに楔をかって、降りないようにしています。
さて、今日もお時間となってしまいました。来週は、祭りも近いので今日のお話の続き「高山祭りの屋台の
不思議2」をお話ししたいと思います。どうぞお楽しみに。
今日は、この曲でお別れです。30年前の今日、解散をしてしまいました。「キャンディーズで 微笑み返し」
ではまた来週。
徳積善太
2008年03月30日
大威徳寺の戦いについて
武田信玄が飛騨に侵攻したのは、次の5回があります。
「飛騨編年史要」(岡村利平著)には次のようになります。
1)「大威徳寺の戦い」といって、下呂の舞台峠のところにあった大威徳寺で戦いがあった、
時のこと。この時は、苗木の遠山氏が武田の先兵として攻め入ってきました。
永禄3年9月26日

2)「野麦峠越え」
永禄3年8月7日 木曽義康が、飛騨阿多野口へ侵攻し、山村三郎九郎良候は17歳で、
檜枝次郎左衛門の首をとります。
このときの論功行賞か、元亀三年に信玄から良利に美濃国安弘見300貫、其子
七郎右衛門良候へ千旦林茄子川の内300貫の土地を与えられます。
3)「安房峠を越えた飛騨侵攻」
これには、三回あり、(実際には4回来ています)
0回目・・・永禄2年6月下旬 飯富三郎、甘利左衛門尉、馬場民部助に命じて安房峠の手前まで
きました。このときは、実際に飛騨に入っていません。
1回目・・・永禄7年5月11日 飯富昌景が兵を飛騨に勧めました。
2回目・・・永禄7年7月18日 飯富昌景が、小八賀郷に入り、尾崎城を攻め、其後、
千光寺を焼き討ちにかけます。
3回目・・・永禄8年6月上旬 飯富昌景が、飛騨を通って、越中へ攻め入ります。
(飛騨編年史要より)
ところが、この大威徳寺の戦いの年度には諸説あります。
苗木遠山資料館の千早先生によれば、
①1545(天文14)年説 … 安池家文書『苗木伝記中』には、8月2日遠山左近佐
正廉が三木久庵入道萩原城主三木次郎右 衛門と戦ったとあります。
②1556(弘治2)年説…現在大威徳寺発 掘調査(平成15~17)に従事されてい
る堀正人氏の発表レジメには「1556年 威徳寺合戦(合戦の年については諸説あ
り)」とあり、現地威徳寺跡の案内標示 も1556年です。
③1560(永禄3)年説… 岡村利平『飛騨 編年史要』は上記紹介済み
④1569(永禄12)年説…遠山家文書『高 森根元記』は「飛州住人有三木久庵入道
自綱言者舎弟同国萩原城主三木次郎右衛 門尉与正廉有確執之儀永禄十二年秋之頃
於同国威徳寺合戦之処…」とします。
⑤1572(元亀3)年説…遠山家文書『御家譜』(天明年間 1780年代)では「直廉(遠山勘太郎
左近佐 駿河守) 飛州竹原一戦勝利被矢傷凱陣後卒去 元亀三壬申年五月十八日
」とあります。
濃飛両国通史も⑤の説を採っているのですが、先ほど図書館で発見した「飛騨史の研究」
(多賀秋五郎著)には、②を採っています。
どなたか、ご存知ありませんでしょうか?
徳積善太
「飛騨編年史要」(岡村利平著)には次のようになります。
1)「大威徳寺の戦い」といって、下呂の舞台峠のところにあった大威徳寺で戦いがあった、
時のこと。この時は、苗木の遠山氏が武田の先兵として攻め入ってきました。
永禄3年9月26日

2)「野麦峠越え」
永禄3年8月7日 木曽義康が、飛騨阿多野口へ侵攻し、山村三郎九郎良候は17歳で、
檜枝次郎左衛門の首をとります。
このときの論功行賞か、元亀三年に信玄から良利に美濃国安弘見300貫、其子
七郎右衛門良候へ千旦林茄子川の内300貫の土地を与えられます。
3)「安房峠を越えた飛騨侵攻」
これには、三回あり、(実際には4回来ています)
0回目・・・永禄2年6月下旬 飯富三郎、甘利左衛門尉、馬場民部助に命じて安房峠の手前まで
きました。このときは、実際に飛騨に入っていません。
1回目・・・永禄7年5月11日 飯富昌景が兵を飛騨に勧めました。
2回目・・・永禄7年7月18日 飯富昌景が、小八賀郷に入り、尾崎城を攻め、其後、
千光寺を焼き討ちにかけます。
3回目・・・永禄8年6月上旬 飯富昌景が、飛騨を通って、越中へ攻め入ります。
(飛騨編年史要より)
ところが、この大威徳寺の戦いの年度には諸説あります。
苗木遠山資料館の千早先生によれば、
①1545(天文14)年説 … 安池家文書『苗木伝記中』には、8月2日遠山左近佐
正廉が三木久庵入道萩原城主三木次郎右 衛門と戦ったとあります。
②1556(弘治2)年説…現在大威徳寺発 掘調査(平成15~17)に従事されてい
る堀正人氏の発表レジメには「1556年 威徳寺合戦(合戦の年については諸説あ
り)」とあり、現地威徳寺跡の案内標示 も1556年です。
③1560(永禄3)年説… 岡村利平『飛騨 編年史要』は上記紹介済み
④1569(永禄12)年説…遠山家文書『高 森根元記』は「飛州住人有三木久庵入道
自綱言者舎弟同国萩原城主三木次郎右衛 門尉与正廉有確執之儀永禄十二年秋之頃
於同国威徳寺合戦之処…」とします。
⑤1572(元亀3)年説…遠山家文書『御家譜』(天明年間 1780年代)では「直廉(遠山勘太郎
左近佐 駿河守) 飛州竹原一戦勝利被矢傷凱陣後卒去 元亀三壬申年五月十八日
」とあります。
濃飛両国通史も⑤の説を採っているのですが、先ほど図書館で発見した「飛騨史の研究」
(多賀秋五郎著)には、②を採っています。
どなたか、ご存知ありませんでしょうか?
徳積善太
2008年03月29日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」34 谷越獅子の作者
◇谷越え獅子の作者について

高山の、最後の彫刻を施したのが、八幡鳳凰台の「谷越獅子」だった。
これは樫の一枚板につがいの獅子を彫った見事なもので、与鹿作品の中では一番大きな秀作である。

この『谷越え獅子』と呼ばれる鳳凰台の彫刻は、永年、与鹿の作品であると伝えられてきた。
しかし、創建年度が、与鹿が高山を去った後の年号であり、永い間、誰が作者かで物議を醸し出していた。
・「与鹿が嘉永三年夏に高山を去っており、弟子の浅井一之の作ではないか」という説
・「下絵は与鹿で、一部一之がやっているが、与鹿の作に間違いない」という説
・「作図や指導を与鹿が行い、金十両のお金を受け取った末、弟子の一之に彫刻を自分の名前で納め
させたのでは」という説の3つがあった。
また、「龍に比べて獅子は苦手だった」(高山の屋台)などという逸話も残っている。
八幡神社に保管されている書簡には次のような記述がある。
「谷口与鹿、永々上方え参り居られ候処 安政二年卯年三月帰国いたされ、誠によろしき幸い。
手初めに直々諜申し候。しかるに樫木 千光寺に又候 風倒の樫木ありこれ 直様 山下屋より人を遣し
これを買請用ひ申候 谷口与鹿もこの度は手際を顕し 弟子桐山屋和助(浅井一之)初めての彫手伝い
に入り これまた骨折り相働き申し候て 見事にでき、卯年祭礼に相用い申し候」(八幡祭り屋台)
これによると、与鹿は、一時帰国しているが、伊丹に帰ったので一之が仕上げていることがわかる。
筆者の調査では、弘化二年一月に孝明天皇に卯の香盒を献上しているので、何か急ぎ高山へ帰らね
ばならない理由があり、一時帰国し、三月二七日頃に与鹿は伊丹に戻っている。
彫刻の残りを託された弟子の一之はこのあと彫を担当し、秋祭りには完成させたものと思われる。
「安政三年七月、谷越え獅子三間分として組では金十両をを与鹿に渡し、弟子浅井一之には一両
一分しか渡していない。」 という記録から、長らくこの彫刻は与鹿の作であると信じられてきた。
そこへ、谷口家所蔵の書簡=「『安政二年三月、与鹿は伊丹から戻った時に下絵を描き、急ぎ帰ら
なくてはいけなくなったので弟子の浅井一之に彫刻を託させた』という内容の安政二年四月二二日の
組の方に宛てた手紙」が老田氏により発見され一之の作品であるという物議となった。
筆者はこの谷越獅子の瘤の処理の仕方が、それまでの獅子の彫刻とは異なっているため作者は
違なり、与鹿は下絵代金を前金で受取って伊丹に帰るが、老田氏の言われるように最後は一之が
仕上げるが、合作でないかと考えている。

徳積善太
高山の、最後の彫刻を施したのが、八幡鳳凰台の「谷越獅子」だった。
これは樫の一枚板につがいの獅子を彫った見事なもので、与鹿作品の中では一番大きな秀作である。
この『谷越え獅子』と呼ばれる鳳凰台の彫刻は、永年、与鹿の作品であると伝えられてきた。
しかし、創建年度が、与鹿が高山を去った後の年号であり、永い間、誰が作者かで物議を醸し出していた。
・「与鹿が嘉永三年夏に高山を去っており、弟子の浅井一之の作ではないか」という説
・「下絵は与鹿で、一部一之がやっているが、与鹿の作に間違いない」という説
・「作図や指導を与鹿が行い、金十両のお金を受け取った末、弟子の一之に彫刻を自分の名前で納め
させたのでは」という説の3つがあった。
また、「龍に比べて獅子は苦手だった」(高山の屋台)などという逸話も残っている。
八幡神社に保管されている書簡には次のような記述がある。
「谷口与鹿、永々上方え参り居られ候処 安政二年卯年三月帰国いたされ、誠によろしき幸い。
手初めに直々諜申し候。しかるに樫木 千光寺に又候 風倒の樫木ありこれ 直様 山下屋より人を遣し
これを買請用ひ申候 谷口与鹿もこの度は手際を顕し 弟子桐山屋和助(浅井一之)初めての彫手伝い
に入り これまた骨折り相働き申し候て 見事にでき、卯年祭礼に相用い申し候」(八幡祭り屋台)
これによると、与鹿は、一時帰国しているが、伊丹に帰ったので一之が仕上げていることがわかる。
筆者の調査では、弘化二年一月に孝明天皇に卯の香盒を献上しているので、何か急ぎ高山へ帰らね
ばならない理由があり、一時帰国し、三月二七日頃に与鹿は伊丹に戻っている。
彫刻の残りを託された弟子の一之はこのあと彫を担当し、秋祭りには完成させたものと思われる。
「安政三年七月、谷越え獅子三間分として組では金十両をを与鹿に渡し、弟子浅井一之には一両
一分しか渡していない。」 という記録から、長らくこの彫刻は与鹿の作であると信じられてきた。
そこへ、谷口家所蔵の書簡=「『安政二年三月、与鹿は伊丹から戻った時に下絵を描き、急ぎ帰ら
なくてはいけなくなったので弟子の浅井一之に彫刻を託させた』という内容の安政二年四月二二日の
組の方に宛てた手紙」が老田氏により発見され一之の作品であるという物議となった。
筆者はこの谷越獅子の瘤の処理の仕方が、それまでの獅子の彫刻とは異なっているため作者は
違なり、与鹿は下絵代金を前金で受取って伊丹に帰るが、老田氏の言われるように最後は一之が
仕上げるが、合作でないかと考えている。
徳積善太
2008年03月28日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」33
◇京都在住

伊丹の岡田家(阪神大震災前)
さて、高山を去った与鹿であるが、行く当てもなく旅に出たのかというとそうでもないような旅で
あったのではなかろうか。
京都での行動は想像の域を超えないが、まず彼が目指したのは、京都であったに違いない。
前年の秋の田中大秀三回忌歌会には与鹿は出席しており、当時は冬に向かっての旅立ちは、
余程緊急な事のない限り見合わせたであろうから、この上洛の時期はその年の冬を越し、日も
長くなってからと創造されるので、おそらく、四月頃ではなかったかと思われる。
また、流木を拾って琴としてつま弾きながら旅をした。とも言われているが、与鹿の彫刻や絵に、
題材として時々琴が登場しているところを見ると、この流木の琴の逸話も、全く根のないことでは
ないようである。(与鹿略伝)。
京都を目指した時にどこへ訪ねたのかは、次の三人の人間が浮かび上がる。
一人目は、書家 吉田公均方へ南書(唐の書物)の研究に通ったとあるので、彼を頼ったか。
二人目は、別の記録に、「貫名海屋(ぬきなかいおく=書家)を頼る」とある。海屋が天保八年から
九年に高山国分寺に滞在したことがあり、おそらく寺で身を寄せているうちに海屋と知り合いになり、
面識があり直接世話になったかと思われる。
三人目は、宇治の環渓和尚。
彼と後年つきあっているので、彼を宗猷寺の和尚に紹介されて向かったか、あるいは禅宗に深く帰依
していたから、宗猷寺の本山=臨済宗の総本山妙心寺に身を寄せ、そこでしばらく過ごしたものとも
考えられる。
これについては、確たる資料がなく推測の域を越えないが、与鹿は、「画家吉田公均方へ、南書の
指導を受けるため通塾していましたが、公均と昵懇(じっこん)の間柄であった、伊丹の造り酒屋の
岡田利兵衛の祖父が、与鹿の奇才を愛し、彼を食客として自宅に招き優遇しました。」(代情山彦)ようである。
吉田公均が居候の与鹿に手を焼き、貫名海屋に預け、海屋も手を焼き、岡田利兵衛に相談したところ、
利兵衛が他の文人墨客と同じように与鹿を伊丹に招待したと推察される。
ここで、南書を研究していたということは、広く世界の動向に興味を持っていた証であり、唐子、龍、獅子
などの彫刻のことを調べているうちに、南書に行き着いたと考えることもできる。

伊丹の岡田家(阪神大震災後)再建
徳積善太

伊丹の岡田家(阪神大震災前)
さて、高山を去った与鹿であるが、行く当てもなく旅に出たのかというとそうでもないような旅で
あったのではなかろうか。
京都での行動は想像の域を超えないが、まず彼が目指したのは、京都であったに違いない。
前年の秋の田中大秀三回忌歌会には与鹿は出席しており、当時は冬に向かっての旅立ちは、
余程緊急な事のない限り見合わせたであろうから、この上洛の時期はその年の冬を越し、日も
長くなってからと創造されるので、おそらく、四月頃ではなかったかと思われる。
また、流木を拾って琴としてつま弾きながら旅をした。とも言われているが、与鹿の彫刻や絵に、
題材として時々琴が登場しているところを見ると、この流木の琴の逸話も、全く根のないことでは
ないようである。(与鹿略伝)。
京都を目指した時にどこへ訪ねたのかは、次の三人の人間が浮かび上がる。
一人目は、書家 吉田公均方へ南書(唐の書物)の研究に通ったとあるので、彼を頼ったか。
二人目は、別の記録に、「貫名海屋(ぬきなかいおく=書家)を頼る」とある。海屋が天保八年から
九年に高山国分寺に滞在したことがあり、おそらく寺で身を寄せているうちに海屋と知り合いになり、
面識があり直接世話になったかと思われる。
三人目は、宇治の環渓和尚。
彼と後年つきあっているので、彼を宗猷寺の和尚に紹介されて向かったか、あるいは禅宗に深く帰依
していたから、宗猷寺の本山=臨済宗の総本山妙心寺に身を寄せ、そこでしばらく過ごしたものとも
考えられる。
これについては、確たる資料がなく推測の域を越えないが、与鹿は、「画家吉田公均方へ、南書の
指導を受けるため通塾していましたが、公均と昵懇(じっこん)の間柄であった、伊丹の造り酒屋の
岡田利兵衛の祖父が、与鹿の奇才を愛し、彼を食客として自宅に招き優遇しました。」(代情山彦)ようである。
吉田公均が居候の与鹿に手を焼き、貫名海屋に預け、海屋も手を焼き、岡田利兵衛に相談したところ、
利兵衛が他の文人墨客と同じように与鹿を伊丹に招待したと推察される。
ここで、南書を研究していたということは、広く世界の動向に興味を持っていた証であり、唐子、龍、獅子
などの彫刻のことを調べているうちに、南書に行き着いたと考えることもできる。
伊丹の岡田家(阪神大震災後)再建
徳積善太
2008年03月27日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」32 与鹿高山を去る
◇与鹿高山を去る (三十歳(満二九))

与鹿も渡ったかもしれない塚田の渡し
与鹿は、この鳳凰台の仕事を横目に見ながら嘉永四年(一八五一)夏、放浪の旅に出てしまう。
この理由については数々の説がある。
・「大酒飲みで借金がかさんで不義理を生じて高山を去った」(借金説)
・「若年にて大成作品を世に出した天才肌が、広い世界に呼び出されたか、招き入れられた」
(大志説=飛騨の匠老田氏)
・「飛騨では職人が比較的軽率に扱われるのでそれに嫌気がさした」(職人誹謗説=元田氏)
などの説があり、元田氏と老田氏の間で相当の議論がなされたようである。
筆者は、これ以外にも前述のように、「自分の生き方に疑問を持った与鹿が、高山にいては大工と
してだけの人生で井の中の蛙に終わってしまう。禅や国学など好きなことを学ぶうちに、違った世界
を見てみたいと考えていた。そこへ高山独特のねたみや誹謗中傷(最高のものを作り続けても、
新しいものができるたびに「あいつはうちよりいい物を作りやがった」などという中傷)を受けるように
なり、それがわずらわしくなったところへ兄がまた屋台建造を受注してしまった。それが原因で、
高山を去った。」(誹謗中傷説=筆者)のではないかと考える。
今でも飛騨の若者は「古い風習にとらわれず、自分の世界を持ちたい」と考えて都会に出て行くが、
しきたりや習慣にとらわれない生き方を求めたのではないだろうか。その証拠に二百年経っても未だ
に谷口与鹿のことを「与鹿」と呼び捨てにしているが、伊丹では様付けで呼ばれている。
そんなことからも高山の町衆が職人を下に見ていたDNAが私たちの中に流れているのかもしれない。
この理由については、今後も様々な議論がなされることであろう。
また、与鹿同様に中川吉兵衛もこの頃高山の歴史から姿を消していることも史実の一つとして注目
すべきことである。
与鹿が高山を去ったとき、こんなエピソードがある。「彼が益田街道を歩いているとき、良く見ると冬の
綿入れを着て裏返しに、左前に着て平気で歩いていた。そこへ美濃から高山へ帰る顔見知りの魚屋
(代清茂助)が注意すると、『昨晩泊まった宿屋で蚤をひろったので、取るのも面倒だから裏返しに着た
のだ』と語り、「ノミはそれでいいが、冬の綿入れでは暑いだろう」と言ったら彼はびっくりして、
『どうりで暑いと思った』
といたく感心し、着ていた綿入れを脱ぎ、越中ふんどし一つになって今度は手早く着物の破れから手を
突っ込み、あっという間に綿を引き抜いてしまった。座っている回りは綿だらけ。
『さあ、これで軽くなった』
と子供のように喜んで、次の瞬間にはもう南に向かって歩いていったという。」(高山祭)
徳積善太
与鹿も渡ったかもしれない塚田の渡し
与鹿は、この鳳凰台の仕事を横目に見ながら嘉永四年(一八五一)夏、放浪の旅に出てしまう。
この理由については数々の説がある。
・「大酒飲みで借金がかさんで不義理を生じて高山を去った」(借金説)
・「若年にて大成作品を世に出した天才肌が、広い世界に呼び出されたか、招き入れられた」
(大志説=飛騨の匠老田氏)
・「飛騨では職人が比較的軽率に扱われるのでそれに嫌気がさした」(職人誹謗説=元田氏)
などの説があり、元田氏と老田氏の間で相当の議論がなされたようである。
筆者は、これ以外にも前述のように、「自分の生き方に疑問を持った与鹿が、高山にいては大工と
してだけの人生で井の中の蛙に終わってしまう。禅や国学など好きなことを学ぶうちに、違った世界
を見てみたいと考えていた。そこへ高山独特のねたみや誹謗中傷(最高のものを作り続けても、
新しいものができるたびに「あいつはうちよりいい物を作りやがった」などという中傷)を受けるように
なり、それがわずらわしくなったところへ兄がまた屋台建造を受注してしまった。それが原因で、
高山を去った。」(誹謗中傷説=筆者)のではないかと考える。
今でも飛騨の若者は「古い風習にとらわれず、自分の世界を持ちたい」と考えて都会に出て行くが、
しきたりや習慣にとらわれない生き方を求めたのではないだろうか。その証拠に二百年経っても未だ
に谷口与鹿のことを「与鹿」と呼び捨てにしているが、伊丹では様付けで呼ばれている。
そんなことからも高山の町衆が職人を下に見ていたDNAが私たちの中に流れているのかもしれない。
この理由については、今後も様々な議論がなされることであろう。
また、与鹿同様に中川吉兵衛もこの頃高山の歴史から姿を消していることも史実の一つとして注目
すべきことである。
与鹿が高山を去ったとき、こんなエピソードがある。「彼が益田街道を歩いているとき、良く見ると冬の
綿入れを着て裏返しに、左前に着て平気で歩いていた。そこへ美濃から高山へ帰る顔見知りの魚屋
(代清茂助)が注意すると、『昨晩泊まった宿屋で蚤をひろったので、取るのも面倒だから裏返しに着た
のだ』と語り、「ノミはそれでいいが、冬の綿入れでは暑いだろう」と言ったら彼はびっくりして、
『どうりで暑いと思った』
といたく感心し、着ていた綿入れを脱ぎ、越中ふんどし一つになって今度は手早く着物の破れから手を
突っ込み、あっという間に綿を引き抜いてしまった。座っている回りは綿だらけ。
『さあ、これで軽くなった』
と子供のように喜んで、次の瞬間にはもう南に向かって歩いていったという。」(高山祭)
徳積善太
2008年03月26日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」31 八幡鳳凰台の修復
◇八幡鳳凰台修復

嘉永三年(一八五〇)三月に与三郎延恭は、鳳凰台組の屋台改修の仕事を請けていた。
与鹿と長男宗之とともに鳳凰臺の建造に携わることになる。しかし、屋台完成が五年後の
安政二年(一八五五)となっていることから、麒麟臺・恵比寿臺の建造の倍の時間がかかって
いることがわかる。実は与鹿は翌年嘉永四年に(一八五一)夏、高山を去る。
また、棟梁である兄延恭は何らかの病気にかかっていたものと思われる。
なかなか作業の進まない状況に屋台組の人たちがやきもきしていた姿が書簡から読み取れる。
のちに安政二年秋の完成後すぐ、十一月に兄延恭は、五四歳の生涯を閉じることになる。
徳積善太
嘉永三年(一八五〇)三月に与三郎延恭は、鳳凰台組の屋台改修の仕事を請けていた。
与鹿と長男宗之とともに鳳凰臺の建造に携わることになる。しかし、屋台完成が五年後の
安政二年(一八五五)となっていることから、麒麟臺・恵比寿臺の建造の倍の時間がかかって
いることがわかる。実は与鹿は翌年嘉永四年に(一八五一)夏、高山を去る。
また、棟梁である兄延恭は何らかの病気にかかっていたものと思われる。
なかなか作業の進まない状況に屋台組の人たちがやきもきしていた姿が書簡から読み取れる。
のちに安政二年秋の完成後すぐ、十一月に兄延恭は、五四歳の生涯を閉じることになる。
徳積善太
2008年03月25日
田中大秀と荏名神社
高山の荏名神社は、延喜式の式内八社に数えられる一つの神社です。

これを、田中大秀が考証し、江戸時代になって荒廃していた神社を復活させました。
先日、お参りをしてきました。
荏名神社の荏名=エナとは、天照大神がお生まれになったときの胎盤のことを
いうそうです。それを高山の荏名神社のあたりに埋めたという伝説があります。
同じように、岐阜県には、恵那市というところもあり、また中津川には、恵那神社が
あったり、奇岩の夫婦岩があったりします。
夫婦岩は、恵那山が見える川の対岸にあって、二つの岩が、男性性器、女性性器を
かたどっている自然の不思議な岩です。
いったい、どちらの伝説が正しいのでしょうか?
荏名神社の鳥居の左にあった、奇岩も、不思議な霊力を発する岩でした。

徳積善太
これを、田中大秀が考証し、江戸時代になって荒廃していた神社を復活させました。
先日、お参りをしてきました。
荏名神社の荏名=エナとは、天照大神がお生まれになったときの胎盤のことを
いうそうです。それを高山の荏名神社のあたりに埋めたという伝説があります。
同じように、岐阜県には、恵那市というところもあり、また中津川には、恵那神社が
あったり、奇岩の夫婦岩があったりします。
夫婦岩は、恵那山が見える川の対岸にあって、二つの岩が、男性性器、女性性器を
かたどっている自然の不思議な岩です。
いったい、どちらの伝説が正しいのでしょうか?
荏名神社の鳥居の左にあった、奇岩も、不思議な霊力を発する岩でした。
徳積善太
2008年03月24日
3/24放送分「谷口与鹿と村山群鳳」
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
今年もだんだん高山祭りが近づいてきました。飛騨ではまだ寒い日が続いていますが、
いかがお過ごしですか?
今年の冬は、観光客の入込みがいまひとつで、観光業者の方々も頭が痛いところです。
今年の高山祭りはにぎわってくれるように祈っています。
さて、この放送ですが、毎週月曜夜7時半からと毎週土曜朝10時半から、こちらは再放送
でお届けしています。また、毎回お知らせしておりますが、この放送のバックナンバーは、
ひだっちブログのほうにも掲載しています。
先日、友人から心温まるお話を伺いましたのでご紹介します。実は94歳のおじいさんから、
手紙が届いたそうです。今から80年前に自分が蹴った石が醤油の甕に当たって、怖くなって
その場を逃げてしまった。あのときの犯人は私です。お詫びをしたいので、同封のお金で弁償
します。と一万五千円を送ってきたそうです。その頃の輸送は一升瓶ではなくて甕だったそう
ですが、その手紙をもらって、醤油と味噌を持って、届けてきたそうです。
ご本人は申し分けなさそうにされていましたが、ちゃんと誤る事ができたと喜んでおられた
そうです。私がこの番組をやっていることを知っていて、友人がこんな高山の歴史があるんだ
と教えてくれました。
さて、今日の放送は先週予告をお話しましたように、「屋台を造った飛騨の匠」の続編をお話
したいと思います。
前回の放送では、屋台建築で有名な谷口家のお話をしました。谷口家といえば谷口与鹿が
有名ですが、前半は、彼のお話をもう少し詳しくしたいと思います。
谷口与鹿は、飛騨の匠 谷口権守の次男として、文政5年に生まれて、元治元年に伊丹で
43歳で亡くなります。しかし、高山に残された数多くの作品は、彼の14歳から29歳までのわずか
15年間の作品なんです。
29歳の年に突然、高山を離れ、京都に行き、伊丹の豪商岡田家のお世話になります。その後、
孝明天皇に拝謁を許されたりしますが、大きな作品はほとんど残しておらず、この高山に居た
15年間の作品が彼の全ての彫刻作品といっても過言ではありません。
私たちは、祭りの屋台を見るときに、必ず目にするのが彼の作品の数々ですが、現在でも素晴
らしいと思える高山の誇りだと思います。
彼が作った作品の数々を振り返って見ますと、まず、14歳のときに八幡の鳩峰車の屋台設計図
を書きます。
その後、18歳のとき天保10年にお父さんの仕事を手伝って、五台山の屋台蔵を修理しているときに、
諏訪の和四郎の彫刻に出会い、ものすごい感銘を受けます。白木作りの、木目のしっかりした、
今にも動き出しそうな生きている彫刻を見るわけです。

師匠の中川吉兵衛と一緒にその後の彫刻作りに取り組んでいきます。
翌年、19歳のときに、本町の琴高台の波間の鯉やウサギの彫刻を彫って彫刻師としてデビュー
します。波の間から鯉が顔を出す姿は、人々の目を見張ります。

それまで、谷口家では、彫刻といっても、神社の蛙又や、正面の像、獏、龍といった彫刻や、屋台の
上段の下のところにあるボタンを彫刻することが多かったわけですから、ウサギのような小動物や波の
間から顔を出した鯉などの彫刻は相当斬新なものだったことでしょう。
20歳の時には、古川の金亀台の屋台を担当します。あいにく、どの部分が与鹿の彫刻なのか、
確認することができませんが、正面の昇龍降龍がそれではないかと思います。大島五雲の作品も
混じっておりますので、特定ができません。

その翌年には、清見町の了徳寺の鐘楼のところに、四神(玄武、白虎、朱雀、青龍)を与鹿が
仕上げます。

またその翌年には、萩原の妙覚寺の向拝の龍を仕上げ、昭和8年の船津大火で焼失してしまい
ましたが、神岡の洞雲寺の本堂にあった龍などを仕上げます。

琴高台の鯉を見て、彼の帰宅を待っていた麒麟台組の人たちは、屋台を直すのに、与鹿に頼み
ます。彼は、悩んだあげく、籠伏せの鶏、唐子群遊を2年がかりで完成させます。


この時には、なかなか彼が仕事をせず、総代の千虎屋で大酒を飲んでいたかと思うと、城山で
子供と遊んでばかりいるので、組の人が困り果て、毎日頼んだというような逸話が残っています。
その大仕事の次には、恵比寿台組の人が、彼の体が空くのを待っていて、屋台と彫刻を依頼します。
おそらく、彼は連続で屋台を建造することを断ったと思われますが、結局は、高級料亭 洲岬で毎日
酒をたらふく飲ませてもらったことで、引き受けざるを得なくなり、屋台の仕事を受けます。
そのときには、親子龍の彫刻や、手長足長の彫刻を完成させます。

これが元となって鍛冶橋のところに、今でも毎日、手長足長のレプリカをみることができます。
さて、ちょっとこの辺で、ブレイクしましょう。今日は「渡辺真知子 迷い道」をお届けします。
今日の「飛騨歴史再発見」は、高山祭りの屋台彫刻のお話をしています。
彼の作品は、これ以外にも山王神楽台の高欄の巻龍、東山白山神楽台の太鼓枠の昇龍、高山の
宗猷寺玄関の龍の彫刻などを残しています。谷口与鹿のことについては、まだまだお話したいのですが、
時間の関係もあり、詳しくは、観光協会の会報に連載していますのでそちらをご覧いただければと思い
ます。



彼以外にも、屋台に彫刻を残した人がいました。与鹿の弟子 浅井一之。飛騨の匠 村山民次郎と
村山群鳳。神岡の飛騨の匠 石田春皐。古川の屋台には、地元の彫刻家 蜂谷理八。そして、大島五雲
をはじめとする越中井波の彫刻師たちです。後半ではその中でも、浅井一之と村山家についてお話しましょう。
まず、与鹿の弟子、浅井一之は、与鹿とは6歳年下で、早くから彼と一緒に仕事をしていました。与鹿が
29歳で高山を去った後も谷口家の一員として仕事を続け、与鹿の兄 延恭の右腕として行動します。
しかし、棟梁延恭が急逝し、息子宗之もまだ十代という中で、彼は苦悩の日を送ります。石橋台の側面に
付いた獅子の彫刻を残しています。

また、八幡鳳凰台の谷越獅子は、与鹿の下絵で一之が仕上げた作品だといわれています。
これについては、関係者の間で議論の別れる話となっていますが、この鳳凰台が造られたとき、与鹿は高山
におらず伊丹に居ました。どのような理由でかはわかりませんが、おそらく与鹿の兄、延恭が鳳凰台の仕事を
受けていたのに早世したため、19歳の息子の宗之が棟梁として担当することになりました。
内輪もめか何かがあったのでしょう、与鹿は一時高山に帰ります。
しかし、彫刻の下絵を仕上げただけで、彫の方は一之に任せて伊丹に戻ってしまいます。

長年、この彫が与鹿の作品と信じられていましたが、故老田剛先生が伊丹で与鹿の手紙を発見し、
彫に対する細かな指示を弟子の一之にしていたということで、一之の作品ではないかという話が浮上
しました。
しかし、確実な証拠がないために、今でもこれについては、与鹿の作品だとか、いや一之の作品だ
とか議論がなされています。
与鹿という偉大な師匠を持っていた一之は、相当師匠と比較されていたことでしょう。元治元年に与鹿が
亡くなると、翌年の元治2年に37歳という若さで、謎の死を遂げます。
残された一之の息子は、その後津田家に養子に入り、一位一刀彫の祖 松田亮長の弟子となり、子孫は
今でも一刀彫の家業を続けておられます。
さて、明治中期から、大正時代にかけて、村山民次郎とその息子 初代郡鳳が屋台建造で活躍します。
村山家は、幕末に京都の小野様から陸奥の守の称号を受けた飛騨の匠でした。その先祖は、郡上八幡の
遠藤氏の一族で馬瀬地方に住んでいましたが、江戸時代の中期頃に高山に来て、代々大工家業を営んで
いました。
民次郎の親 訓縄は名門水間相模に弟子入りして腕を磨き、法華寺の番神堂など社寺建築を残しています。
息子 民次郎も大工棟梁として明治期に活躍しますが、彼は社寺建築よりも屋台の建造を行うことが多かった
ようです。
代表的なものには、明治修理の山王の神楽台とその獅子彫刻、八幡の神楽台、豊明台、麒麟台の大正修理、
大八台の明治改修などがあります。また、鳩峰車台の前面の龍は彼が下絵を書き、一刀彫の江黒尚古が完成
させています。

彼の晩年の代表作は、大正3年に竣工した別院大門でした。彼は総棟梁として、土村栄吉や8代目坂下甚吉、
三枝伊平という名だたる棟梁のほか、南部鉄太郎、古川亀之助といったたくさんの大工を統率したようです。
残念ながらその大門は、昭和のはじめに火災で焼失してしまいますが、とても素晴らしい建造物でした
民次郎の息子 初代郡鳳は、大工の仕事より、彫刻の仕事を主にしていたようです。父親の大工の仕事を
手伝っていましたが、父親の晩年には彫刻の担当は彼の仕事でした。
。
彼は、井波を訪問してその技術を磨いたという伝承が残っています。彼の作品も、高山祭りの屋台には数多く
残されています。
主なものを上げますと、山王神楽台の獅子彫刻、麒麟台の中段の飛龍の彫刻。豊明台中段の十二支の彫刻
などがあります。

このほかにも残念ながら焼失してしまいましたが、大正5年に別院大門に取り付けられた迦料頻華(かりょうびんが)
の彫刻は、彼の最高傑作でした。今では残念ながら写真でしか見ることが出来ませんが、ものすごく細かい彫の
彫刻でした。
もっと時間があればいいのですが、今日のお話はこの程度にさせていただきます。
来週は、祭りも近いので「高山祭りの屋台の不思議」をお話します。どうぞお楽しみに。
今日は、この曲でお別れです。「杏里 悲しみがとまらない」 ではまた来週。
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
今年もだんだん高山祭りが近づいてきました。飛騨ではまだ寒い日が続いていますが、
いかがお過ごしですか?
今年の冬は、観光客の入込みがいまひとつで、観光業者の方々も頭が痛いところです。
今年の高山祭りはにぎわってくれるように祈っています。
さて、この放送ですが、毎週月曜夜7時半からと毎週土曜朝10時半から、こちらは再放送
でお届けしています。また、毎回お知らせしておりますが、この放送のバックナンバーは、
ひだっちブログのほうにも掲載しています。
先日、友人から心温まるお話を伺いましたのでご紹介します。実は94歳のおじいさんから、
手紙が届いたそうです。今から80年前に自分が蹴った石が醤油の甕に当たって、怖くなって
その場を逃げてしまった。あのときの犯人は私です。お詫びをしたいので、同封のお金で弁償
します。と一万五千円を送ってきたそうです。その頃の輸送は一升瓶ではなくて甕だったそう
ですが、その手紙をもらって、醤油と味噌を持って、届けてきたそうです。
ご本人は申し分けなさそうにされていましたが、ちゃんと誤る事ができたと喜んでおられた
そうです。私がこの番組をやっていることを知っていて、友人がこんな高山の歴史があるんだ
と教えてくれました。
さて、今日の放送は先週予告をお話しましたように、「屋台を造った飛騨の匠」の続編をお話
したいと思います。
前回の放送では、屋台建築で有名な谷口家のお話をしました。谷口家といえば谷口与鹿が
有名ですが、前半は、彼のお話をもう少し詳しくしたいと思います。
谷口与鹿は、飛騨の匠 谷口権守の次男として、文政5年に生まれて、元治元年に伊丹で
43歳で亡くなります。しかし、高山に残された数多くの作品は、彼の14歳から29歳までのわずか
15年間の作品なんです。
29歳の年に突然、高山を離れ、京都に行き、伊丹の豪商岡田家のお世話になります。その後、
孝明天皇に拝謁を許されたりしますが、大きな作品はほとんど残しておらず、この高山に居た
15年間の作品が彼の全ての彫刻作品といっても過言ではありません。
私たちは、祭りの屋台を見るときに、必ず目にするのが彼の作品の数々ですが、現在でも素晴
らしいと思える高山の誇りだと思います。
彼が作った作品の数々を振り返って見ますと、まず、14歳のときに八幡の鳩峰車の屋台設計図
を書きます。
その後、18歳のとき天保10年にお父さんの仕事を手伝って、五台山の屋台蔵を修理しているときに、
諏訪の和四郎の彫刻に出会い、ものすごい感銘を受けます。白木作りの、木目のしっかりした、
今にも動き出しそうな生きている彫刻を見るわけです。
師匠の中川吉兵衛と一緒にその後の彫刻作りに取り組んでいきます。
翌年、19歳のときに、本町の琴高台の波間の鯉やウサギの彫刻を彫って彫刻師としてデビュー
します。波の間から鯉が顔を出す姿は、人々の目を見張ります。
それまで、谷口家では、彫刻といっても、神社の蛙又や、正面の像、獏、龍といった彫刻や、屋台の
上段の下のところにあるボタンを彫刻することが多かったわけですから、ウサギのような小動物や波の
間から顔を出した鯉などの彫刻は相当斬新なものだったことでしょう。
20歳の時には、古川の金亀台の屋台を担当します。あいにく、どの部分が与鹿の彫刻なのか、
確認することができませんが、正面の昇龍降龍がそれではないかと思います。大島五雲の作品も
混じっておりますので、特定ができません。
その翌年には、清見町の了徳寺の鐘楼のところに、四神(玄武、白虎、朱雀、青龍)を与鹿が
仕上げます。
またその翌年には、萩原の妙覚寺の向拝の龍を仕上げ、昭和8年の船津大火で焼失してしまい
ましたが、神岡の洞雲寺の本堂にあった龍などを仕上げます。
琴高台の鯉を見て、彼の帰宅を待っていた麒麟台組の人たちは、屋台を直すのに、与鹿に頼み
ます。彼は、悩んだあげく、籠伏せの鶏、唐子群遊を2年がかりで完成させます。

この時には、なかなか彼が仕事をせず、総代の千虎屋で大酒を飲んでいたかと思うと、城山で
子供と遊んでばかりいるので、組の人が困り果て、毎日頼んだというような逸話が残っています。
その大仕事の次には、恵比寿台組の人が、彼の体が空くのを待っていて、屋台と彫刻を依頼します。
おそらく、彼は連続で屋台を建造することを断ったと思われますが、結局は、高級料亭 洲岬で毎日
酒をたらふく飲ませてもらったことで、引き受けざるを得なくなり、屋台の仕事を受けます。
そのときには、親子龍の彫刻や、手長足長の彫刻を完成させます。
これが元となって鍛冶橋のところに、今でも毎日、手長足長のレプリカをみることができます。
さて、ちょっとこの辺で、ブレイクしましょう。今日は「渡辺真知子 迷い道」をお届けします。
今日の「飛騨歴史再発見」は、高山祭りの屋台彫刻のお話をしています。
彼の作品は、これ以外にも山王神楽台の高欄の巻龍、東山白山神楽台の太鼓枠の昇龍、高山の
宗猷寺玄関の龍の彫刻などを残しています。谷口与鹿のことについては、まだまだお話したいのですが、
時間の関係もあり、詳しくは、観光協会の会報に連載していますのでそちらをご覧いただければと思い
ます。
彼以外にも、屋台に彫刻を残した人がいました。与鹿の弟子 浅井一之。飛騨の匠 村山民次郎と
村山群鳳。神岡の飛騨の匠 石田春皐。古川の屋台には、地元の彫刻家 蜂谷理八。そして、大島五雲
をはじめとする越中井波の彫刻師たちです。後半ではその中でも、浅井一之と村山家についてお話しましょう。
まず、与鹿の弟子、浅井一之は、与鹿とは6歳年下で、早くから彼と一緒に仕事をしていました。与鹿が
29歳で高山を去った後も谷口家の一員として仕事を続け、与鹿の兄 延恭の右腕として行動します。
しかし、棟梁延恭が急逝し、息子宗之もまだ十代という中で、彼は苦悩の日を送ります。石橋台の側面に
付いた獅子の彫刻を残しています。
また、八幡鳳凰台の谷越獅子は、与鹿の下絵で一之が仕上げた作品だといわれています。
これについては、関係者の間で議論の別れる話となっていますが、この鳳凰台が造られたとき、与鹿は高山
におらず伊丹に居ました。どのような理由でかはわかりませんが、おそらく与鹿の兄、延恭が鳳凰台の仕事を
受けていたのに早世したため、19歳の息子の宗之が棟梁として担当することになりました。
内輪もめか何かがあったのでしょう、与鹿は一時高山に帰ります。
しかし、彫刻の下絵を仕上げただけで、彫の方は一之に任せて伊丹に戻ってしまいます。
長年、この彫が与鹿の作品と信じられていましたが、故老田剛先生が伊丹で与鹿の手紙を発見し、
彫に対する細かな指示を弟子の一之にしていたということで、一之の作品ではないかという話が浮上
しました。
しかし、確実な証拠がないために、今でもこれについては、与鹿の作品だとか、いや一之の作品だ
とか議論がなされています。
与鹿という偉大な師匠を持っていた一之は、相当師匠と比較されていたことでしょう。元治元年に与鹿が
亡くなると、翌年の元治2年に37歳という若さで、謎の死を遂げます。
残された一之の息子は、その後津田家に養子に入り、一位一刀彫の祖 松田亮長の弟子となり、子孫は
今でも一刀彫の家業を続けておられます。
さて、明治中期から、大正時代にかけて、村山民次郎とその息子 初代郡鳳が屋台建造で活躍します。
村山家は、幕末に京都の小野様から陸奥の守の称号を受けた飛騨の匠でした。その先祖は、郡上八幡の
遠藤氏の一族で馬瀬地方に住んでいましたが、江戸時代の中期頃に高山に来て、代々大工家業を営んで
いました。
民次郎の親 訓縄は名門水間相模に弟子入りして腕を磨き、法華寺の番神堂など社寺建築を残しています。
息子 民次郎も大工棟梁として明治期に活躍しますが、彼は社寺建築よりも屋台の建造を行うことが多かった
ようです。
代表的なものには、明治修理の山王の神楽台とその獅子彫刻、八幡の神楽台、豊明台、麒麟台の大正修理、
大八台の明治改修などがあります。また、鳩峰車台の前面の龍は彼が下絵を書き、一刀彫の江黒尚古が完成
させています。
彼の晩年の代表作は、大正3年に竣工した別院大門でした。彼は総棟梁として、土村栄吉や8代目坂下甚吉、
三枝伊平という名だたる棟梁のほか、南部鉄太郎、古川亀之助といったたくさんの大工を統率したようです。
残念ながらその大門は、昭和のはじめに火災で焼失してしまいますが、とても素晴らしい建造物でした
民次郎の息子 初代郡鳳は、大工の仕事より、彫刻の仕事を主にしていたようです。父親の大工の仕事を
手伝っていましたが、父親の晩年には彫刻の担当は彼の仕事でした。
。
彼は、井波を訪問してその技術を磨いたという伝承が残っています。彼の作品も、高山祭りの屋台には数多く
残されています。
主なものを上げますと、山王神楽台の獅子彫刻、麒麟台の中段の飛龍の彫刻。豊明台中段の十二支の彫刻
などがあります。
このほかにも残念ながら焼失してしまいましたが、大正5年に別院大門に取り付けられた迦料頻華(かりょうびんが)
の彫刻は、彼の最高傑作でした。今では残念ながら写真でしか見ることが出来ませんが、ものすごく細かい彫の
彫刻でした。
もっと時間があればいいのですが、今日のお話はこの程度にさせていただきます。
来週は、祭りも近いので「高山祭りの屋台の不思議」をお話します。どうぞお楽しみに。
今日は、この曲でお別れです。「杏里 悲しみがとまらない」 ではまた来週。
徳積善太
2008年03月23日
下呂、塚田の渡し
2008年03月22日
若林さんの工房にお邪魔しました
先日、若林さんの工房にもお邪魔しました。

こちらにも、全国の山車の修理依頼が殺到しているそうです。
若林さんの担当は、彫刻の修理とからくりの修理。
「いったい、何屋なんだ。」というくらい、工房には、木工機械のほか旋盤などもあって、
何に使うのかお尋ねしました。
そうしたら、「今は、ちゃんと仕事をしてくれる鍛冶屋さんがいないので、ちょっとしたからくりの
部品に真鍮などが使ってあると、自分で穴を開けたりしないといけない。だから旋盤まで
要るんです。この工場を見ると、何屋かわからんな。」とのこと。
所狭しと、並んでいる彫刻の数々の横には、何の変哲もない木切れがごろごろ。
「彫刻の修理は、欠けたものの修理が多いので、一般の人には唯の木切れに見えるけど、
もとの彫刻にあった木の色や木目をあわせて部品を作るので、大事な材料なんだ。」
といわれていました。
この木切れが職人の手で、見事な彫刻に息吹を生まれ変わらせるんですね。
また、ゴミくずかと思ったテーブルの上にあったものは・・・・
「そのゴミくずは、鯨のひげをすいたものだよ。ゴミではないんやさ。これが意外と丈夫でね。
着物を止めてある部品や、からくりの部品に使うものなんやさ。ゴミみたいにみえるけどな。(笑)
これを造るには、すごい手間ばっかりかかるんやけどな。」
職人さんたちの苦労がみえるようでした。
徳積善太
こちらにも、全国の山車の修理依頼が殺到しているそうです。
若林さんの担当は、彫刻の修理とからくりの修理。
「いったい、何屋なんだ。」というくらい、工房には、木工機械のほか旋盤などもあって、
何に使うのかお尋ねしました。
そうしたら、「今は、ちゃんと仕事をしてくれる鍛冶屋さんがいないので、ちょっとしたからくりの
部品に真鍮などが使ってあると、自分で穴を開けたりしないといけない。だから旋盤まで
要るんです。この工場を見ると、何屋かわからんな。」とのこと。
所狭しと、並んでいる彫刻の数々の横には、何の変哲もない木切れがごろごろ。
「彫刻の修理は、欠けたものの修理が多いので、一般の人には唯の木切れに見えるけど、
もとの彫刻にあった木の色や木目をあわせて部品を作るので、大事な材料なんだ。」
といわれていました。
この木切れが職人の手で、見事な彫刻に息吹を生まれ変わらせるんですね。
また、ゴミくずかと思ったテーブルの上にあったものは・・・・
「そのゴミくずは、鯨のひげをすいたものだよ。ゴミではないんやさ。これが意外と丈夫でね。
着物を止めてある部品や、からくりの部品に使うものなんやさ。ゴミみたいにみえるけどな。(笑)
これを造るには、すごい手間ばっかりかかるんやけどな。」
職人さんたちの苦労がみえるようでした。
徳積善太
2008年03月21日
八野さんの工房
八野さんの工房にお邪魔しました。

現在、八野さんの工房には、京都の「祇園祭」、松本の曳山、八尾の曳山など
数多くの屋台・山車・鉾の修理の依頼が来ているそうです。
現代の飛騨の匠が、日本のまつりを支えているんですね。
「『いいもの』を造るには、いい材料・いい職人が必要。だけど、そういう職人が
なくなる日が近い。」
八野さんはそうおっしゃっていました。
自然の絶滅危惧種を心配するのも大事ですが、こういった日本の技術が廃れていくのを
止める事はできないのでしょうか? 海外に依存して安いものを購入する事が、毎日、
こういうすばらしい技術の低下を招いているのは、皮肉な話です。
たくさんの車輪たちが、明日の祭りに修理されて出番を待っています。
徳積善太
現在、八野さんの工房には、京都の「祇園祭」、松本の曳山、八尾の曳山など
数多くの屋台・山車・鉾の修理の依頼が来ているそうです。
現代の飛騨の匠が、日本のまつりを支えているんですね。
「『いいもの』を造るには、いい材料・いい職人が必要。だけど、そういう職人が
なくなる日が近い。」
八野さんはそうおっしゃっていました。
自然の絶滅危惧種を心配するのも大事ですが、こういった日本の技術が廃れていくのを
止める事はできないのでしょうか? 海外に依存して安いものを購入する事が、毎日、
こういうすばらしい技術の低下を招いているのは、皮肉な話です。
たくさんの車輪たちが、明日の祭りに修理されて出番を待っています。
徳積善太
2008年03月20日
『平成の匠』世紀のご対面
このお二人、どなたかご存知ですか?
)
実は、平成の飛騨の匠 八野明氏と 立川流彫刻研究所長 間瀬恒祥氏です。
八野氏は、ご存知のとおり、まつりの森の屋台を作った大工さんとして有名な方です。
間瀬氏は、五台山の彫刻で有名な立川和四郎の研究を行っておられる大先生で
ニューヨークでご自身の作品を展示された事のある、現代の立川流の名彫刻師です。
どちらも、「平成の匠」として、大変有名なお方です。
このお二人、お互いに名前は知っているのに、なんと初対面だったようです。
その対面が、3月16日に実現しました。
お二人がタッグを組んだら、すばらしい屋台が出来そうな気がします。
先日、このお二人の初の対面が、たまたま私のご紹介で実現しました。
(これって、郷土館の仕事だよね。ちなみに私は、この研究所の後援会会員です。)
丁度、松本の立川の山車を八野さんが修理されているので、彫刻の調査にいらっしゃいました。
徳積善太
実は、平成の飛騨の匠 八野明氏と 立川流彫刻研究所長 間瀬恒祥氏です。
八野氏は、ご存知のとおり、まつりの森の屋台を作った大工さんとして有名な方です。
間瀬氏は、五台山の彫刻で有名な立川和四郎の研究を行っておられる大先生で
ニューヨークでご自身の作品を展示された事のある、現代の立川流の名彫刻師です。
どちらも、「平成の匠」として、大変有名なお方です。
このお二人、お互いに名前は知っているのに、なんと初対面だったようです。
その対面が、3月16日に実現しました。
お二人がタッグを組んだら、すばらしい屋台が出来そうな気がします。
先日、このお二人の初の対面が、たまたま私のご紹介で実現しました。
(これって、郷土館の仕事だよね。ちなみに私は、この研究所の後援会会員です。)
丁度、松本の立川の山車を八野さんが修理されているので、彫刻の調査にいらっしゃいました。
徳積善太
2008年03月20日
2008年03月19日
善光寺のご戒壇
いま、大雄寺のことを調べています。
大雄寺には、昔、林香院(現 善光寺)、栄寿庵(廃絶)、洞雲院(現存)、正定院(廃絶)という4つの
塔頭寺院(大きな寺院の末寺として存在する寺院)がありました。その一つが、善光寺です。

その中で、善光寺のことを調べていましたが、以前、故 泉信潤和尚に教えていただいた、
「ご戒壇」のことを思い出して、写真を撮影してきました。
善光寺の本堂の手前のところに、こんな入り口があります。

その入り口をスライドさせると、ご戒壇の入り口です。

中については、真っ暗ですが、入り口にこんな説明書きがありました。

「ご戒壇めぐり
ご戒壇めぐりはお浄土めぐりとも申します。日本全国で善光寺の寺号若しくは寺号は異なっても
一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)がご本尊の寺院は約六百ケ寺(二十数宗派)在りますが、
ご戒壇めぐりの設けられているお寺は十七ケ寺しか御座いません。
本堂御内陣の右側の余間から地下へ階段を下り又右へ二段下がりますと愈々ご戒壇めぐりの
始まりです。此処からは寺族の者が御案内を致しますので指示に従って御拝観戴きます。
内部は真っ暗闇で一寸先き所かそれこそ鼻をつままれても解りません。私達は明るい光のもと
で暮らさせて戴いて居ることを当り前の事としてその有りがたさを何とも思って居ませんが此の
真っ暗闇の世界へ入りますと光りが如何に有りがたいものか知らず知らずのうちに仏様のみ
光りに因って足もとを照らされ生かされ導いて戴いている私達で有る事に今更ながら気が付か
される事でしょう。
静かにお念仏をお称えしながら右手で壁を撫でて一歩一歩進みます。ご本尊様の真下まで
参りますと右側の壁に御本尊様の所へ通ずる錠前に触れる事ができます。此の錠前がお浄土
への鍵と言われ、どの方もガチャガチャと何回も動かして其の存在感とお浄土への鍵に触れる
事の出来た喜びを表されます。因に此の錠前に触れると今迄に犯した一切の罪が全て取り除かれ、
極楽浄土へ往生できると言われて居り、別名極楽の鍵と言われて居ます。
又其の半間、御仏の正法を誹謗したり又ご戒壇めぐりの中でふざけあったりしますと頭に角が生え
たり堂々めぐりして永久に出られなくなると言われて居ます。
※ 内部の高さは一番低い所で一メートル八十センチになって居ますが、それ以上のお方はご注意下さい。
※ お浄土への鍵は右側の壁、普通のお方ですと、お乳のあたりに有ります。
善光寺大本願飛騨別院 高山善光寺」
現在、このお寺は、ご住職が亡くなられたので、公開はしていませんが、機会があったら
一度、全国にある17のご戒壇をめぐってみてはいかがですか?
徳積善太
大雄寺には、昔、林香院(現 善光寺)、栄寿庵(廃絶)、洞雲院(現存)、正定院(廃絶)という4つの
塔頭寺院(大きな寺院の末寺として存在する寺院)がありました。その一つが、善光寺です。
その中で、善光寺のことを調べていましたが、以前、故 泉信潤和尚に教えていただいた、
「ご戒壇」のことを思い出して、写真を撮影してきました。
善光寺の本堂の手前のところに、こんな入り口があります。
その入り口をスライドさせると、ご戒壇の入り口です。
中については、真っ暗ですが、入り口にこんな説明書きがありました。
「ご戒壇めぐり
ご戒壇めぐりはお浄土めぐりとも申します。日本全国で善光寺の寺号若しくは寺号は異なっても
一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)がご本尊の寺院は約六百ケ寺(二十数宗派)在りますが、
ご戒壇めぐりの設けられているお寺は十七ケ寺しか御座いません。
本堂御内陣の右側の余間から地下へ階段を下り又右へ二段下がりますと愈々ご戒壇めぐりの
始まりです。此処からは寺族の者が御案内を致しますので指示に従って御拝観戴きます。
内部は真っ暗闇で一寸先き所かそれこそ鼻をつままれても解りません。私達は明るい光のもと
で暮らさせて戴いて居ることを当り前の事としてその有りがたさを何とも思って居ませんが此の
真っ暗闇の世界へ入りますと光りが如何に有りがたいものか知らず知らずのうちに仏様のみ
光りに因って足もとを照らされ生かされ導いて戴いている私達で有る事に今更ながら気が付か
される事でしょう。
静かにお念仏をお称えしながら右手で壁を撫でて一歩一歩進みます。ご本尊様の真下まで
参りますと右側の壁に御本尊様の所へ通ずる錠前に触れる事ができます。此の錠前がお浄土
への鍵と言われ、どの方もガチャガチャと何回も動かして其の存在感とお浄土への鍵に触れる
事の出来た喜びを表されます。因に此の錠前に触れると今迄に犯した一切の罪が全て取り除かれ、
極楽浄土へ往生できると言われて居り、別名極楽の鍵と言われて居ます。
又其の半間、御仏の正法を誹謗したり又ご戒壇めぐりの中でふざけあったりしますと頭に角が生え
たり堂々めぐりして永久に出られなくなると言われて居ます。
※ 内部の高さは一番低い所で一メートル八十センチになって居ますが、それ以上のお方はご注意下さい。
※ お浄土への鍵は右側の壁、普通のお方ですと、お乳のあたりに有ります。
善光寺大本願飛騨別院 高山善光寺」
現在、このお寺は、ご住職が亡くなられたので、公開はしていませんが、機会があったら
一度、全国にある17のご戒壇をめぐってみてはいかがですか?
徳積善太
2008年03月18日
下呂検定のご褒美
やったあ、下呂検定の合格通知が届きました
試験なんて久しぶりなので、封筒をあけるときわくわく
になるか、
になるかヒヤヒヤでした
。でも開けて見ると、書類に”合格”の文字が。
よかったあ。思わず、バンザイしました!



中には、こんな絵馬の合格証書と、

「通」のバッチが入っていました

2008年03月17日
3/17放送分 「飛騨の雅楽について」
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう三月も半ばにさしかかりました。だんだん暖かくなってきましたね。高山の春祭りは、
木々も一斉に芽吹きますから、桜が重なると本当に美しいですよね。これで長い冬も終わりか
と思うとわくわくしてきます。
この放送ですが、4月以降も続けることになりましたので、どうぞよろしくお願いいたします。
番組では、番組に対するご意見、ご要望などもお待ちしておりますので、どうぞ、ヒッツFMのほう
へファクスなり、お手紙なり、メールなりでお知らせください。皆さんの声をお待ち申し上げております。
さて、皆さんの地域はどうかわかりませんが、私の住んでいる地域は、日枝神社の氏子の
区域ですので、春の高山祭りの準備があちこちで始まっております。
私は、春祭りでは、3つの役割を毎年担当しています。
1つは、生まれ育った神楽組での仕事。
2つ目には、参加している日枝神社の日枝雅楽会での出仕。
そしてもう一つは、神様の前で舞う、舞の指導をもう20年以上もやっています。
今日の放送は、その中でも雅楽のお話をしたいと思います。
雅楽って皆さんご存知ですか? 誰でも一度は耳にしたことがあると思いますが、よく初詣
のときに、神社に行きますと、神社のBGMとして音楽がなっていますよね。
また、結婚式などでも、三々九度のときに、テープをかけておられますから、一度は耳にした
ことがあるのではと思います。
最近では、東儀秀樹さんが、雅楽の楽器「篳篥」を使って現代音楽を演奏しておられます
から、おなじみなのではないかと思います。

写真は日枝雅楽会の出仕
さて、あの音楽ですが、もともとは、大陸から日本に伝わったものですので、その歴史はかなり
古く、奈良時代の頃、遣隋使やそのあとの遣唐使が派遣された頃までさかのぼります。
平安時代には、貴族の音楽として、宮中でよく演奏されていました。
飛騨がこの雅楽とかかわりを持つ一番最初の文献は、鎌倉時代に、国府町の荒城郷に多好方
(おおのよしかた)・好節(よしとき)という親子が源頼朝から知行地を賜ったのが最初と言われてい
ます。
実は、この多好方という人、雅楽の名家 多家の先祖の一人で、吾妻鏡によると、「鶴岡八幡宮
の遷宮の祭典で秘曲を奏し、頼朝に気に入られ、建久四年(1191)十一月に荒城郷の地頭職を
与えられた」というものです。飛騨の伝説では、現在の国府町宮地に住んだといわれ、今でも、
荒城神社には、大変古い時代の舞楽の面と鼓の胴が残されています。
しかし、彼が実際に住んでいたかどうかは、わかりません。
むしろ、京都の楽人が、この飛騨のような偏狭の地に来ることは考えにくく、実際は京都にいて、
土地だけを知行していたというのが本当のようです。
また、後年、山田白馬という人や堀尾先生が、飛騨の各神社に伝わる闘鶏楽=いわゆるカンカコ
カンの創始者は、この多好方親子だとして、論説を展開したことがありますが、はっきりした確証は
得られていません。

さて、雅楽に話を戻しますが、高山に雅楽が伝わるようになったのは、もっと後の事で、文化年間
になってからのことです。高山の法華寺のご住職だった、止静院日在(しせいいんにちざい)という人
が、篳篥の名手で、お寺で時々演奏していました。その音色につられてか、有名な田中大秀が、
彼の弟子となります。
この田中大秀は、後に本居宣長の弟子となって、国学の大家となる人ですが、子供の頃に、この
雅楽を習ったのが縁で、熱田神宮の粟田氏に国学と雅楽を習うようになり、本居宣長の門人として
出入りを許されます。
雅楽は、三管といって篳篥、笙、龍笛がメロディーを奏で、三鼓といって大太鼓、鐘鼓、鞨鼓で
合奏されるのが通常ですが、大秀はこの三管を習得していました。
一般に雅楽を習得するためには、唱歌といって、楽器を持つ前に、歌を習わないといけないのです
が、彼のすごいところは、この三管のパート全ての歌を習得していたようです。
また、一般的に伝承されていた楽譜が大変分かりにくいので、自分で楽譜を作り、後にそれは、
「高山流水」といわれる、一般の人が見てもわかりやすいものに仕上げていました。
このころ、高山で時々、御忌といって偉いお坊さんの回忌が勤められます。高山市史によると、
文化7年には照蓮寺で親鸞上人の五百五十回忌が開かれましたし、大雄寺では法然上人の回忌が
勤められました。文化12年には、勝久寺で親鸞上人の御忌が開かれ、大秀は雅楽社中を作って、
演奏を行いました。この時のメンバーには、紙魚のやどりで有名な加藤歩蕭という人も龍笛で参加
しています。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。今日は、「竹内まりあ マージービートで唄わせて」をお届け
します。
今日のひだ歴史再発見は、高山の雅楽について、お話しています。
文化年間当時、演奏会を行うというのは、非常にまれなことでした。
どちらかというと、音曲というものは、おめでたい時や、お祭りの時にだけ演奏されるもので、普段は、
幕府のお達しで、民衆は質素倹約に努めなくてはいけないという状況でしたから、あまり開催されなか
ったというのが、一般的でした。
そんな折、高山の豪商 田中半十郎英積という人の息子で、田中半三郎という人が、検校となって、
高山に帰ってきて、いわゆる凱旋コンサートを日枝神社の別当 松樹苑で琴の演奏会を行いました。
この検校というのは、盲目の人の職業では最高の位で、主に音楽を生業とする職業でした。
どうして、高山出身の人がこのような位に上ることができたかというと、お父さんの強力なスポンサー
があったからだと思います。
お父さんの田中半十郎さんは、当時上一之町に本店があって、名古屋の熱田や、東京の馬喰町
あたりに支店も持っていた材木の豪商でした。後に、長谷川代官の書いた飛州史を故郷飛騨に持ち
帰ったことでも有名な方です。
田中大秀は、このとき田中検校と連絡を取り、琴の演奏法にも興味を持ちます。検校は、雅楽にも
通じており、一緒に演奏を楽しんだりしました。そんなことがきっかけとなってか、田中大秀は、後に
京都に赴き、近衛家・二条家などを通じて雅楽の曲二十曲以上を習得していきました。
もともと雅楽というのは、天上の奏楽といって、仏説阿弥陀経などにも書かれていますが、あの世
でも聞くことのできるものですから、一般には門外不出のものでした。宮中での演奏のみならず、仏教
の儀式などに用いられる位の高いもので、一般の人間が演奏できるようなものではありませんでした。
その伝承は、今でも宮内庁の楽部によって代々受け継がれているくらいですから、宮中であるいは
神社・仏教宗派で伝承されてきたものです。
後に、江戸時代末期になって、公家であった楽人の人たちがお金に困っていたのか、古川の豪商に
招かれて雅楽を飛騨に直接伝授しています。私も見せていただきましたが、古川の信行寺に、伝習
したときの免状が残っています。
ただし、その時の約束があるのですが、宴会での余興として演奏してはいけないとか、自分が伝習
したものを子供に教えてはいけないなど、たくさんの厳しい決め事を約束させられています。
飛騨のすごいところは、明治時代になって、雅楽が一般化する60年以上も前に、田中大秀という人を
通じて、広く雅楽が浸透していた土地柄だということです。このことは、全国をみても、あまり見られない
ことなんですよ。
後に、明治時代にかけて、その雅楽は、高山で広まります。神通寺の住職 朝戸円鏡という人が節風社
という雅楽の社中を作り、その会に高山の旦那衆が参加し、雅楽を習得します。そこが元となって、雅楽を
伝習していき、国府に第二節風社などの組織が生まれますが、指導者がいなかったために、一度は衰退
しました。
その後、明治時代後期になって、八幡神社の神官に山下新三郎という人が来て、雅楽の指導に当たり
ました。この人は、宮内庁の楽部を経験した人ということで、たくさんの人間が彼のところへ習いに行き、
高山に新連という新しいグループが出来ました。
彼の教えにより、古川、久々野、一之宮、江名子などに雅楽会が結社され、飛騨一円に広がっていきま
した。
大正時代になって、雅楽の結社が各神社で盛んになり、大正3年には日枝神社の日枝雅楽会が結社され
ました。また、衰退していた節風社が飛騨総社のバックアップをもって再興されたり、辻ケ森の雅楽会、
天満宮の雅楽会が結社されたり、大きな神社での結社が相次ぎ、それが伝統となって、今日まで受け継が
れてきています。

昭和6年ごろの山王祭行列での日枝雅楽出仕
昭和40年代には、日枝神社の日枝雅楽会が中心となって宮内庁の指導を受け、あちこちの雅楽会の指導に
当たっておられましたが、平成になってからは、古川の東興社という気多若宮神社に籍を置く雅楽会が中心と
なって、宮内庁の雅楽会の講習会を企画したり、東京楽所(がくそ)の演奏会を催したりして、雅楽の活動が
盛んになってきています。
こういったことがあり、各神社の行列の時には、神様のお御輿の前で必ず雅楽の演奏が華を添えているわけ
です。
さて、今日のお話はこのへんで。来週は先月の続き、「高山の屋台を作った飛騨の匠 谷口与鹿と村山群鳳」
のお話をします。今日は、この曲でお別れです。「円広志で 夢想花」 ではまた来週。
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう三月も半ばにさしかかりました。だんだん暖かくなってきましたね。高山の春祭りは、
木々も一斉に芽吹きますから、桜が重なると本当に美しいですよね。これで長い冬も終わりか
と思うとわくわくしてきます。
この放送ですが、4月以降も続けることになりましたので、どうぞよろしくお願いいたします。
番組では、番組に対するご意見、ご要望などもお待ちしておりますので、どうぞ、ヒッツFMのほう
へファクスなり、お手紙なり、メールなりでお知らせください。皆さんの声をお待ち申し上げております。
さて、皆さんの地域はどうかわかりませんが、私の住んでいる地域は、日枝神社の氏子の
区域ですので、春の高山祭りの準備があちこちで始まっております。
私は、春祭りでは、3つの役割を毎年担当しています。
1つは、生まれ育った神楽組での仕事。
2つ目には、参加している日枝神社の日枝雅楽会での出仕。
そしてもう一つは、神様の前で舞う、舞の指導をもう20年以上もやっています。
今日の放送は、その中でも雅楽のお話をしたいと思います。
雅楽って皆さんご存知ですか? 誰でも一度は耳にしたことがあると思いますが、よく初詣
のときに、神社に行きますと、神社のBGMとして音楽がなっていますよね。
また、結婚式などでも、三々九度のときに、テープをかけておられますから、一度は耳にした
ことがあるのではと思います。
最近では、東儀秀樹さんが、雅楽の楽器「篳篥」を使って現代音楽を演奏しておられます
から、おなじみなのではないかと思います。
写真は日枝雅楽会の出仕
さて、あの音楽ですが、もともとは、大陸から日本に伝わったものですので、その歴史はかなり
古く、奈良時代の頃、遣隋使やそのあとの遣唐使が派遣された頃までさかのぼります。
平安時代には、貴族の音楽として、宮中でよく演奏されていました。
飛騨がこの雅楽とかかわりを持つ一番最初の文献は、鎌倉時代に、国府町の荒城郷に多好方
(おおのよしかた)・好節(よしとき)という親子が源頼朝から知行地を賜ったのが最初と言われてい
ます。
実は、この多好方という人、雅楽の名家 多家の先祖の一人で、吾妻鏡によると、「鶴岡八幡宮
の遷宮の祭典で秘曲を奏し、頼朝に気に入られ、建久四年(1191)十一月に荒城郷の地頭職を
与えられた」というものです。飛騨の伝説では、現在の国府町宮地に住んだといわれ、今でも、
荒城神社には、大変古い時代の舞楽の面と鼓の胴が残されています。
しかし、彼が実際に住んでいたかどうかは、わかりません。
むしろ、京都の楽人が、この飛騨のような偏狭の地に来ることは考えにくく、実際は京都にいて、
土地だけを知行していたというのが本当のようです。
また、後年、山田白馬という人や堀尾先生が、飛騨の各神社に伝わる闘鶏楽=いわゆるカンカコ
カンの創始者は、この多好方親子だとして、論説を展開したことがありますが、はっきりした確証は
得られていません。

さて、雅楽に話を戻しますが、高山に雅楽が伝わるようになったのは、もっと後の事で、文化年間
になってからのことです。高山の法華寺のご住職だった、止静院日在(しせいいんにちざい)という人
が、篳篥の名手で、お寺で時々演奏していました。その音色につられてか、有名な田中大秀が、
彼の弟子となります。
この田中大秀は、後に本居宣長の弟子となって、国学の大家となる人ですが、子供の頃に、この
雅楽を習ったのが縁で、熱田神宮の粟田氏に国学と雅楽を習うようになり、本居宣長の門人として
出入りを許されます。
雅楽は、三管といって篳篥、笙、龍笛がメロディーを奏で、三鼓といって大太鼓、鐘鼓、鞨鼓で
合奏されるのが通常ですが、大秀はこの三管を習得していました。
一般に雅楽を習得するためには、唱歌といって、楽器を持つ前に、歌を習わないといけないのです
が、彼のすごいところは、この三管のパート全ての歌を習得していたようです。
また、一般的に伝承されていた楽譜が大変分かりにくいので、自分で楽譜を作り、後にそれは、
「高山流水」といわれる、一般の人が見てもわかりやすいものに仕上げていました。
このころ、高山で時々、御忌といって偉いお坊さんの回忌が勤められます。高山市史によると、
文化7年には照蓮寺で親鸞上人の五百五十回忌が開かれましたし、大雄寺では法然上人の回忌が
勤められました。文化12年には、勝久寺で親鸞上人の御忌が開かれ、大秀は雅楽社中を作って、
演奏を行いました。この時のメンバーには、紙魚のやどりで有名な加藤歩蕭という人も龍笛で参加
しています。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。今日は、「竹内まりあ マージービートで唄わせて」をお届け
します。
今日のひだ歴史再発見は、高山の雅楽について、お話しています。
文化年間当時、演奏会を行うというのは、非常にまれなことでした。
どちらかというと、音曲というものは、おめでたい時や、お祭りの時にだけ演奏されるもので、普段は、
幕府のお達しで、民衆は質素倹約に努めなくてはいけないという状況でしたから、あまり開催されなか
ったというのが、一般的でした。
そんな折、高山の豪商 田中半十郎英積という人の息子で、田中半三郎という人が、検校となって、
高山に帰ってきて、いわゆる凱旋コンサートを日枝神社の別当 松樹苑で琴の演奏会を行いました。
この検校というのは、盲目の人の職業では最高の位で、主に音楽を生業とする職業でした。
どうして、高山出身の人がこのような位に上ることができたかというと、お父さんの強力なスポンサー
があったからだと思います。
お父さんの田中半十郎さんは、当時上一之町に本店があって、名古屋の熱田や、東京の馬喰町
あたりに支店も持っていた材木の豪商でした。後に、長谷川代官の書いた飛州史を故郷飛騨に持ち
帰ったことでも有名な方です。
田中大秀は、このとき田中検校と連絡を取り、琴の演奏法にも興味を持ちます。検校は、雅楽にも
通じており、一緒に演奏を楽しんだりしました。そんなことがきっかけとなってか、田中大秀は、後に
京都に赴き、近衛家・二条家などを通じて雅楽の曲二十曲以上を習得していきました。
もともと雅楽というのは、天上の奏楽といって、仏説阿弥陀経などにも書かれていますが、あの世
でも聞くことのできるものですから、一般には門外不出のものでした。宮中での演奏のみならず、仏教
の儀式などに用いられる位の高いもので、一般の人間が演奏できるようなものではありませんでした。
その伝承は、今でも宮内庁の楽部によって代々受け継がれているくらいですから、宮中であるいは
神社・仏教宗派で伝承されてきたものです。
後に、江戸時代末期になって、公家であった楽人の人たちがお金に困っていたのか、古川の豪商に
招かれて雅楽を飛騨に直接伝授しています。私も見せていただきましたが、古川の信行寺に、伝習
したときの免状が残っています。
ただし、その時の約束があるのですが、宴会での余興として演奏してはいけないとか、自分が伝習
したものを子供に教えてはいけないなど、たくさんの厳しい決め事を約束させられています。
飛騨のすごいところは、明治時代になって、雅楽が一般化する60年以上も前に、田中大秀という人を
通じて、広く雅楽が浸透していた土地柄だということです。このことは、全国をみても、あまり見られない
ことなんですよ。
後に、明治時代にかけて、その雅楽は、高山で広まります。神通寺の住職 朝戸円鏡という人が節風社
という雅楽の社中を作り、その会に高山の旦那衆が参加し、雅楽を習得します。そこが元となって、雅楽を
伝習していき、国府に第二節風社などの組織が生まれますが、指導者がいなかったために、一度は衰退
しました。
その後、明治時代後期になって、八幡神社の神官に山下新三郎という人が来て、雅楽の指導に当たり
ました。この人は、宮内庁の楽部を経験した人ということで、たくさんの人間が彼のところへ習いに行き、
高山に新連という新しいグループが出来ました。
彼の教えにより、古川、久々野、一之宮、江名子などに雅楽会が結社され、飛騨一円に広がっていきま
した。
大正時代になって、雅楽の結社が各神社で盛んになり、大正3年には日枝神社の日枝雅楽会が結社され
ました。また、衰退していた節風社が飛騨総社のバックアップをもって再興されたり、辻ケ森の雅楽会、
天満宮の雅楽会が結社されたり、大きな神社での結社が相次ぎ、それが伝統となって、今日まで受け継が
れてきています。

昭和6年ごろの山王祭行列での日枝雅楽出仕
昭和40年代には、日枝神社の日枝雅楽会が中心となって宮内庁の指導を受け、あちこちの雅楽会の指導に
当たっておられましたが、平成になってからは、古川の東興社という気多若宮神社に籍を置く雅楽会が中心と
なって、宮内庁の雅楽会の講習会を企画したり、東京楽所(がくそ)の演奏会を催したりして、雅楽の活動が
盛んになってきています。
こういったことがあり、各神社の行列の時には、神様のお御輿の前で必ず雅楽の演奏が華を添えているわけ
です。
さて、今日のお話はこのへんで。来週は先月の続き、「高山の屋台を作った飛騨の匠 谷口与鹿と村山群鳳」
のお話をします。今日は、この曲でお別れです。「円広志で 夢想花」 ではまた来週。
徳積善太
2008年03月16日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」30 松原一家の台頭
◇松原一家の台頭

松原一家とは、神楽台の囃子方を文化十年より勤め、昭和二十七年に現在の森下組に譲るまで、
永年に渡り神楽台の囃子を担ってきた親子六代である。
江名子の松原兵助(宝暦七-文政十年)が、旅に出てあちこちの獅子舞芸能を視察し、長男政蔵と
共に独創的な獅子舞を完成させた。その曲目数は、二十五曲あった。(現在は十六曲)
その後、長男政蔵(寛政三年―慶応元年)が文化八年(一八一一)二十歳の時に一切の権限を継承し、
江名子で同人を募集して、「兵助獅子舞」若連中を創設。
山王神楽台で文化十年に採用されたのを皮切りに、荏名神社(文政十年)、錦山神社(天保十一年)、
桜山八幡神社(天保十一年)、東山白山神社(天保十一年)、東山稲荷神社(安政二年)、東山神明神社
(明治三十五年)などと、各地の神社の獅子舞を担当し、明治以後は朝日、清見、古川、丹生川、国府など
へも伝授して、兵助獅子舞の普及に尽力された。
その後、神楽台では、兵四郎、道太郎、友次郎、修三と六代 にわたり文化十年(一八一三)~昭和
二十六年(一九五一)の百三十八年の間奉仕をしていただいたのである。
(参考:兵助獅子舞由来記「飛騨春秋九五年七月号」松原修三氏)
文化十年以前の山王祭り神楽台の囃子がどのようなものであったかは知る由もないが、松原一家の
曲の完成度があまりに素晴らしく、しかも二十五曲と言う大曲を完成させていたがために、神楽組に松原
一家に任せてほしいとの話をいただいたときには、おそらく賛否両論紛糾したことであろう。
「祭りの祭礼の道払いを司ってきたある意味山王祭りでは特権とプライドのある屋台組であるから、その
祭礼の権利を人に譲ってまでやるべきでない」現状維持派。
「他の組の屋台が派手な装飾を付けた物になってきているのに、いつまでも大八車ではやるせない。
資金を組内で集め、太鼓を乗せた屋台にすべきである。また、囃子・獅子舞の人数も増やさなくては
いけないから、組外から人足を集め、手伝わせるべきである。」という改革派。
その二つが議論に議論を重ねながら次第に屋台建造の機運が高まって行ったものと思われる。
ただし、突然、何の関係もない者が、獅子舞の総司をやらせてくれと言う話は、いかに松原兵助でも
あつかましい話であると思うので、おそらく上一之町上組に縁のあったものが、何年か前から兵助に
獅子舞か屋台曳きを依頼していたのであろう。
筆者は、これについては、田中大秀が鍵を握っていると考えている。田中大秀は、幼名を田中屋弥兵衛
といい、薬種商の子供として一之町で出生した。後に荏名神社を復興させ、雅楽などを習得し飛騨の音楽
に多大な影響を与えるが、彼が一之町の住民であったことと晩年荏名神社の神官として過ごしたことは、
何らかの関係があったのではと想像する。
さて、松原兵助も神楽台に関わってその囃子を聴いているうちに興味をもったことであろう。
その後、伊勢路、大和路、京(余談であるが、これは大秀の訪問先と共通する)など旅行している旅先など
で目にした獅子舞の振付、囃子方の音曲を覚えて自己流の独自のものを完成させていった。
このことは前述した松原修三氏の著述に見られるところである。
明治二十三年、松原兵助氏あてに感謝状と代々神楽に伝わる古太鼓二個を松原家に譲り渡した。

そのときの礼状と思われる文書が最近見つかった。

安政元年(嘉永七年=一八五四)になって、組内の協議が整い、神楽台の嘉永改修を無事済ませる事が
できた。ようやく資金の目処も付いたので、組頭の中林屋兵助が中心となって、谷口家から彫刻などを約束
どおり買い付けた。このときの棟梁は、延恭が亡くなる年であるから、おそらく子の谷口与三郎宗之であった
ろう。その時は太平楽組を休台にするという示談をして、宮本にまで届け出て一件落着かにみえた。
しかし、文久三年(一八六三)になって、再び太平楽台を再興する話が、組頭が黒木屋勘六に交代した時点
でもちあがり、黒木屋勘六は保管していた大八車を改造して、太平楽の三文字を刺繍した緋羅紗の旗を作り、
台銘旗として行列に加わるようにした。
その後、明治二十六年になって、太平楽台を完全に廃台し、現在の神楽臺を完成させるにいたったという
ことであろう。これについては、更なる調査が必要である。
徳積善太
松原一家とは、神楽台の囃子方を文化十年より勤め、昭和二十七年に現在の森下組に譲るまで、
永年に渡り神楽台の囃子を担ってきた親子六代である。
江名子の松原兵助(宝暦七-文政十年)が、旅に出てあちこちの獅子舞芸能を視察し、長男政蔵と
共に独創的な獅子舞を完成させた。その曲目数は、二十五曲あった。(現在は十六曲)
その後、長男政蔵(寛政三年―慶応元年)が文化八年(一八一一)二十歳の時に一切の権限を継承し、
江名子で同人を募集して、「兵助獅子舞」若連中を創設。
山王神楽台で文化十年に採用されたのを皮切りに、荏名神社(文政十年)、錦山神社(天保十一年)、
桜山八幡神社(天保十一年)、東山白山神社(天保十一年)、東山稲荷神社(安政二年)、東山神明神社
(明治三十五年)などと、各地の神社の獅子舞を担当し、明治以後は朝日、清見、古川、丹生川、国府など
へも伝授して、兵助獅子舞の普及に尽力された。
その後、神楽台では、兵四郎、道太郎、友次郎、修三と六代 にわたり文化十年(一八一三)~昭和
二十六年(一九五一)の百三十八年の間奉仕をしていただいたのである。
(参考:兵助獅子舞由来記「飛騨春秋九五年七月号」松原修三氏)
文化十年以前の山王祭り神楽台の囃子がどのようなものであったかは知る由もないが、松原一家の
曲の完成度があまりに素晴らしく、しかも二十五曲と言う大曲を完成させていたがために、神楽組に松原
一家に任せてほしいとの話をいただいたときには、おそらく賛否両論紛糾したことであろう。
「祭りの祭礼の道払いを司ってきたある意味山王祭りでは特権とプライドのある屋台組であるから、その
祭礼の権利を人に譲ってまでやるべきでない」現状維持派。
「他の組の屋台が派手な装飾を付けた物になってきているのに、いつまでも大八車ではやるせない。
資金を組内で集め、太鼓を乗せた屋台にすべきである。また、囃子・獅子舞の人数も増やさなくては
いけないから、組外から人足を集め、手伝わせるべきである。」という改革派。
その二つが議論に議論を重ねながら次第に屋台建造の機運が高まって行ったものと思われる。
ただし、突然、何の関係もない者が、獅子舞の総司をやらせてくれと言う話は、いかに松原兵助でも
あつかましい話であると思うので、おそらく上一之町上組に縁のあったものが、何年か前から兵助に
獅子舞か屋台曳きを依頼していたのであろう。
筆者は、これについては、田中大秀が鍵を握っていると考えている。田中大秀は、幼名を田中屋弥兵衛
といい、薬種商の子供として一之町で出生した。後に荏名神社を復興させ、雅楽などを習得し飛騨の音楽
に多大な影響を与えるが、彼が一之町の住民であったことと晩年荏名神社の神官として過ごしたことは、
何らかの関係があったのではと想像する。
さて、松原兵助も神楽台に関わってその囃子を聴いているうちに興味をもったことであろう。
その後、伊勢路、大和路、京(余談であるが、これは大秀の訪問先と共通する)など旅行している旅先など
で目にした獅子舞の振付、囃子方の音曲を覚えて自己流の独自のものを完成させていった。
このことは前述した松原修三氏の著述に見られるところである。
明治二十三年、松原兵助氏あてに感謝状と代々神楽に伝わる古太鼓二個を松原家に譲り渡した。

そのときの礼状と思われる文書が最近見つかった。
安政元年(嘉永七年=一八五四)になって、組内の協議が整い、神楽台の嘉永改修を無事済ませる事が
できた。ようやく資金の目処も付いたので、組頭の中林屋兵助が中心となって、谷口家から彫刻などを約束
どおり買い付けた。このときの棟梁は、延恭が亡くなる年であるから、おそらく子の谷口与三郎宗之であった
ろう。その時は太平楽組を休台にするという示談をして、宮本にまで届け出て一件落着かにみえた。
しかし、文久三年(一八六三)になって、再び太平楽台を再興する話が、組頭が黒木屋勘六に交代した時点
でもちあがり、黒木屋勘六は保管していた大八車を改造して、太平楽の三文字を刺繍した緋羅紗の旗を作り、
台銘旗として行列に加わるようにした。
その後、明治二十六年になって、太平楽台を完全に廃台し、現在の神楽臺を完成させるにいたったという
ことであろう。これについては、更なる調査が必要である。
徳積善太
2008年03月15日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」29 災害による被害
◇災害による被害

文化八年(一八〇四)七月三十日に大洪水があり、中橋と鍛冶橋が流失、片原町も四軒が
流出すると言う大惨事が起きている。平成十六年十月の大洪水でもそうであったが、神楽台組
は二班の屋台蔵の両隣あたりが比較的下がった構造となっているために、水が逆流して床下
浸水になったことがあった。
おそらく文化八年の時は、宮川が氾濫するほどの洪水であったろうから、三町地区も相当な
被害を受けていたと思われる。おそらくこれがきっかけとなり、被害を受けた屋台を改造したほう
がいいというグループと、家屋敷を修繕するなどに費用がかかる為、屋台は後廻しにして自分達
の生活の確保の方が先であると言うグループとに分かれたのではなかろうか。
これが、後に太平楽組と神楽臺に分かれるきっかけとなったように思われる。
徳積善太

文化八年(一八〇四)七月三十日に大洪水があり、中橋と鍛冶橋が流失、片原町も四軒が
流出すると言う大惨事が起きている。平成十六年十月の大洪水でもそうであったが、神楽台組
は二班の屋台蔵の両隣あたりが比較的下がった構造となっているために、水が逆流して床下
浸水になったことがあった。
おそらく文化八年の時は、宮川が氾濫するほどの洪水であったろうから、三町地区も相当な
被害を受けていたと思われる。おそらくこれがきっかけとなり、被害を受けた屋台を改造したほう
がいいというグループと、家屋敷を修繕するなどに費用がかかる為、屋台は後廻しにして自分達
の生活の確保の方が先であると言うグループとに分かれたのではなかろうか。
これが、後に太平楽組と神楽臺に分かれるきっかけとなったように思われる。
徳積善太
2008年03月15日
2008年03月14日
彫に生きる「谷口与鹿ものがたり」28 神楽台と太平楽台
◇神楽台と太平楽台
神楽台の建造に付いては、資料が乏しく、相変わらず謎のままである。 しかし、唯一現存する由来記
から想像すると、次のようなストーリーになる。
天明五年(一七八五)にまず、神楽台が二輪車に改造された。黒漆を塗り、柱に朱を塗りこんだものに
梅鉢紋入りの幕を張ったものにしたと思われる。これは絵図が現存する。

次に、文化年間(一八〇四~)の改修となるわけであるが、神楽は四輪車に改造される。このときの
工匠が前述のように谷口権之守延儔であったと思われ、そのときに四輪車の土台に人間が乗り組める
くらいの大きさのものができたが、そのとき屋台組が二つに分裂、太平楽臺組が発生し、そちらは、
大八車に台銘旗を掲げた二輪車の台銘旗を屋台として参加させる。
このとき、斬り合いにまで発展した組内騒動となり、時間をかけないと双方の主義主張が落ち着かない
事態であったと思われる。
中川吉兵衛はこのとき牡丹の彫刻を完成させ、取り付けを行った。その時の計画では、下段、中段に
彫物の彫刻を彫るよう依頼された為、与鹿がその彫刻の任にあたる。おそらく一八四五~一八五〇年の
間に彫刻は完成をみたであろう。
ただし組内騒動の為に取り付けられることなく、時間だけが過ぎて行った。
想像の域を越えないが、この神楽台組紛糾問題は、おそらく災害に端を発した屋台建造の問題と
松原一家の登場に端を発する囃子方の問題とであったように推察する。
徳積善太
神楽台の建造に付いては、資料が乏しく、相変わらず謎のままである。 しかし、唯一現存する由来記
から想像すると、次のようなストーリーになる。
天明五年(一七八五)にまず、神楽台が二輪車に改造された。黒漆を塗り、柱に朱を塗りこんだものに
梅鉢紋入りの幕を張ったものにしたと思われる。これは絵図が現存する。
次に、文化年間(一八〇四~)の改修となるわけであるが、神楽は四輪車に改造される。このときの
工匠が前述のように谷口権之守延儔であったと思われ、そのときに四輪車の土台に人間が乗り組める
くらいの大きさのものができたが、そのとき屋台組が二つに分裂、太平楽臺組が発生し、そちらは、
大八車に台銘旗を掲げた二輪車の台銘旗を屋台として参加させる。
このとき、斬り合いにまで発展した組内騒動となり、時間をかけないと双方の主義主張が落ち着かない
事態であったと思われる。
中川吉兵衛はこのとき牡丹の彫刻を完成させ、取り付けを行った。その時の計画では、下段、中段に
彫物の彫刻を彫るよう依頼された為、与鹿がその彫刻の任にあたる。おそらく一八四五~一八五〇年の
間に彫刻は完成をみたであろう。
ただし組内騒動の為に取り付けられることなく、時間だけが過ぎて行った。
想像の域を越えないが、この神楽台組紛糾問題は、おそらく災害に端を発した屋台建造の問題と
松原一家の登場に端を発する囃子方の問題とであったように推察する。
徳積善太





左官の技術に、こて絵というのがあります。