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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年04月27日

先日の講演会「教如上人と金森長近」の様子


平成20年4月24日、真蓮寺庫裏において、浄土真宗 高山第一組 研修会がありました。
題名は、「教如上人と金森長近」  講師 東等寺 竹田雅文氏  助手 わたくし

織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代に、飛騨を平定した金森長近。

織田信長は、「天下布武」を目指して、宗教の弾圧を行う為に、石山本願寺との戦いに挑みました。
そのとき、本願寺にいた本願寺11世 顕如上人、12世教如上人の親子と戦いますが、結果的に
顕如上人は、石山本願寺を明け渡し、和歌山の鷺の森に移転する事で、信長に屈服します。

教如は最後まで抵抗しましたが、結果的には石山を明け渡し、その場所には後に大坂城が秀吉
によって建造されます。

後に、顕如の死後、一時は、本願寺の12世を継いだ教如でしたが、母親の如春尼によって、
顕如の遺言があって、「弟の准如が本願寺の正統を継ぐように言われている」と申し出ることで、
准如が本願寺の12世を継ぐ事になり、教如は追放されます。
これが、二つの本願寺が存在する原因となりました。

その後、教如は、命をねらわれる事もあったため、隠棲します。そのときに、親鸞上人が行脚した
地域を訪ねる旅に出ます。教如は、地方を回る事で、結果的には地方の門徒信者を増やす事になり、
そのことで、教如親派を増やす結果になります。

飛騨にも照蓮寺(白川中野)に滞在した事もあり、そのときに、顕如上人絵像や顕如の御文、九字名号
などを下付したりしています。そうやって下付することで、スポンサーをたくさん発見したことも後に
信者を増加させる結果となりました。

金森長近は、秀吉のお話方(相談役)として、秀吉の側近にいましたが、茶の湯を通じて、教如とは
昵懇の間柄であり、教如を家康に紹介したり、教如のためにいろいろと動いたりした人物でした。

家康は、教如に寺院設立(第2本願寺建立)や、門主を継ぐように勧めましたが、教如は弟で本願寺門主の
准如のことを考え、それを拒んだりしました。しかし結果的には、京都に寺地を寄進され、東本願寺の創立
となりました。

そのことから、いままで「東本願寺と西本願寺は、巨大になりすぎた本願寺教団を分裂させる為に家康が
東本願寺を創った」という話がありますが、それは間違いである事が昨年わかりました。

教如と長近は、高山に城下町ができる前(天正十四年)にすでに知りあいの間柄で、越前大野を平定した
ときも、飛騨に入ってきたときも、真宗門徒と仲良くする事で、出血せずにどちらも平定しています。
したがって、飛騨に入ってきてからは、高山に城下を移す事になったときに、自分の留守居役を照蓮寺に
頼んでいますが、そのときに、高山の城下へ白川から引っ越してくるように依頼しています。
(高山別院にあった手紙にはそうかかれています。)

その折にも、教如上人もそのようにした方がいいと述べていると書かれていますが、教如上人との関係を
巧みに政治に生かした、長近公の政治力が示されています。

徳積善太

   
Posted by rekisy at 21:00Comments(0)TrackBack(0)調べていること