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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年04月30日

岡村利平翁 邸跡

国府町の旧国道41号線沿いに岡村利平氏の邸宅跡があります。


看板には下記のようにかかれています。

「岡村利平翁は、元治元年七月二十九日、名家 岡村俊平の嫡男として広瀬町村に生まれました。
幼年より漢学は、室匡之助や中村幹に、また国学は桐山玄豹や岡村御蔭について学びました。
長じて医を業とする傍ら、郡会議員、県会議員、村長、村会議員等の公職を歴任し、大正八年には
岐阜県史跡名勝天然記念物調査員を委嘱されました。
また、明治十四年ごろに、同志と共に尚友会を設立し、文化雑誌を発行しました。
大正三年には、飛騨史談会を設立し、それぞれ編集を担当するなど飛騨史学の中心的な人物として
大変活躍しました。
一方では、明治三十三年以来、飛騨史料の編纂に従事されました。

主な著書は、飛騨史料大綱、飛州志備考、飛騨山川、改版飛騨山川、飛騨編年史要、飛州志、
飛騨遺乗合府、飛騨国中案内など数多くの著書がある。
岐阜県が誇る郷土史の大家 岡村利平翁は、昭和八年七月十六日、七十年間の多彩な生涯を
閉じました。

翁が一生涯かけて筆写され、岐阜県史学界の、貴重で草分け的な飛騨史料137巻外 歴史関係
書籍1000冊の寄贈を受け、教育委員会が大切に保管しています。」


いま、私がもっとも読んでみたいと思うのが、この寄贈本や、寄贈史料です。
教育委員会に永年保管されてきましたが、どうもただしまってあっただけのようです。
国府町史編纂室の先生方によって、その全容が明らかになってきているとのことですが、できれば
その中身について、いろいろと研究ができればと思っています。

徳積善太

  
Posted by rekisy at 21:00Comments(4)TrackBack(0)調べていること

2008年04月29日

文化年間の高山地図

先日、真蓮寺へお邪魔したときに、文化年間の高山の古地図を見つけました。


右下のところには、

「飛騨国大野郡高山町古絵図帖
文化元子年五月出来 弐之町 辻屋宇兵衛冩 」の文字があります。

3年ほど前に古物商から買ったものだそうです。
一般公開されています。


東山寺院が、克明に記されています。
まだ、善応寺は古地図になく、大雄寺の塔頭 正定院(いまの善光寺)があります。


別院の門前には、塔頭として不遠寺、円龍寺、真蓮寺、専念寺、霊雲寺があり、その外側に
勝久寺、了泉寺があります。寺内町として、別院の周囲に家並みがあったことがわかります。

ちなみに、この勝久寺は、西本願寺末。了泉寺も現在は、東本願寺末ですが、かつては、
西本願寺末でした。

勝久寺は、江戸時代後期には、東小学校の前身 換章学校ができるまえまでは、庶民の為の
小学校として、機能していましたが、明治8年の大火で寺内町ともども全焼。それまでは、
筑摩県議会などで、小学校建設の機運がありましたが、費用がかかるとのことで、延期に
なっていましたが、一気に建設の機運が高まり、換章学校が庶民の寄付によって建造されました。

徳積善太  
Posted by rekisy at 21:00Comments(4)TrackBack(0)調べていること

2008年04月28日

4月28日放送分「飛騨の匠 坂下甚吉」

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 私、ながせきみあきがお届けしてまいります。

もうすぐ、待ちに待ったゴールデンウィークですね。皆さん、今年はどこか行かれますか? 
とはいえ、高山は観光地ですから、稼ぎ時なんで仕事ですという方も、私を含めて多いのでは
と思います。
ガソリンが一時的に値下げになりましたが、このゴールデンウィークの自家用車は多いでしょうか?
少ないでしょうか? 最近、ゴールデンウィークに高山市内の国道が渋滞するということも見られ
なくなりましたが、たくさんの方が高山に来てくださるといいですね。

 さて、この放送ですが、一年が経過しました。振り返ってみると、最初の半年はゲストをお迎えして
の放送でした。生放送ということもあって、どんなお話が飛び出すのか、一応原稿を作って臨みました
が、少ない時間の中でやりとりをするのが大変だった覚えがあります。数えてみましたら、のべ20人
のゲストの皆さんにご出演いただきました。ご出演下さった方には、ありがとうございます。
 10月以降は、私一人でお届けしてまいりましたが、その都度、原稿を作ってまいりました。
だいたいいつも時間を計算しながら原稿を書くのですが、A4の用紙に2枚くらいを作っています。
書ける内容については、一気に2枚くらい書いてしまうのですが、本を丸写しにすると言葉が難し
かったり、昔の言葉で書かれていて意味が伝わりにくかったりしますので、何度も見直して原稿を
校正します。これが結構時間がかかるので、毎週毎週がたいへんでした。

それにしても、飛騨とか高山とかいうところは、よくもまあこれだけ話題があるものだと、毎回感心
しながら原稿を書いています。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

 今日の放送は、先週予告いたしましたとおり、飛騨の匠についてお話したいと思います。今まで、
飛騨の匠については、
飛騨の匠の祖といわれる藤原宗安の直系といわれる水間相模家。
社寺仏閣をたくさん建造した松田太右衛門一門。
谷口与鹿で有名な高山まつりの屋台をたくさん作った谷口家一門。
屋台の建造や別院の大門を造った村山陸奥守一門。
水間相模について学んだ石田家一門の話をしてまいりました。
今日は、明治時代以降にその一門と肩を並べるくらいであった坂下家一門についてお話します。

 坂下家のことは、5代目以降の事しかよくわかりませんが、5代の甚蔵さんが、江戸の中期に活躍し、
6代も甚蔵を名乗り、七代目以降は代々甚吉を襲名しました。
一番たくさんの建造物を作られるのが、7代目・8代目のときで、明治から昭和にかけて、たくさんの
建造物を高山市街地や周辺に建造しました。

それぞれの代の坂下家の代表的建造物をあげますと、
5代目の建造物は、城山の裏、春日町にある大隆寺の本堂です。
この建造物は、お寺の本堂としては小さなもので、どちらかというと一般の住居建造物と同じような
作り方をしています。柱も五寸角の細い各柱で、古い形態をしています。
また、この人の残した建造物は、高山の素玄寺の前にある絵馬殿が、彼の作品である事がわかりました。

これは、蔵の中に長い間、保管されていた素玄寺の五重塔があったのですが、その五重塔に棟札が
ついていて、その中にこの五重塔とともに絵馬殿の建造もされていたことがかかれていました。
時に、天保13年(1842)のことです。

六代目の甚吉さんは、どうも大工の仕事をしていた記述は少ないとされていますが、唯一、清見町藤瀬の
神明神社が彼の建造物ではないかと推定されているくらいで、今日まで主だった建造物が確認できて
いません。それもそのはず、奥さんの年令からすると七代目の甚吉さんを生んだのが16歳のときですので、
六代目と七代目の年令差があまりなく、調査された建造物がほとんど七代目のものになっているということ
があります。
これは推定ですが、安政4年(1857)建造の大雄寺六角堂や、江戸時代末期に建造された、了心寺本堂、
黄金神社などは、この人と七代目の共同作品ではないかと推定されます。

さて、ちょっとここでブレイクしましょう。 今日の曲は「松山千春で 季節の中で」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日の飛騨歴史再発見は、飛騨の匠 坂下甚吉家についてお話しています。

さて、七代目の甚吉さんは、松田太右衛門から流を汲む、大工で有名な笠原家で修業を行いました。
彼の作品といえば、先ほどのもののほかに、芳国舎の渋草焼きの製陶所や、郷土館の文庫蔵などがあげられ
ます。この郷土館の文庫蔵は、現在の郷土館の第二展示室として使用されていますから、皆さん一度は入った
ことがあるのではと思います。

さて、七代目の子供の八代目甚吉さんが大変すごい人で、彼が坂下甚吉の名を世に知らしめたといっても
過言ではありません。彼の作品は、今でも、高山市街地にたくさんの建造物を見ることができます。
主なものを上げますと、
市の文化財になっています高山測候所、勝久寺本堂、正雲寺本堂、押上邸本館、永田邸本館、
平瀬酒造場、


善応寺本堂
などたくさんの建造物があります。
その中でも、高山の三町の中心地にある旧高山町役場。
これは、現在は市政記念館として使われています。中に入りますと、特に二階の議場として使われていた
場所は、すべてが格天井になっていますが、天井の隅のところが、曲線を描いた構造になっていて、非常に
美しい天井になっています。
また、建物の周囲に張り巡らされている鉄柵は、花柄のハイカラなデザインのもので、最近になって当時の
ものを復元されたものです。

これは、東京神田の鋳物問屋 田中精之商店に特注で頼まれたもので、飛騨の文明開化の象徴であるとか、
古今未曾有のものであると、「飛州」という雑誌に取り上げられた事があります。
この鉄柵には逸話があって、東京から高山まで運んでくるのに、いったん桑名まで船便で運び、高山までは
荷馬車で運びましたが、途中悪路のために13枚ほど大破して一悶着して、破損分は引き取らせて再生させ、
完全品しかがんとして受取らなかったということです。

また、その南にあります、現在は中田邸になっていますが、三星(みつぼし)製糸所の建物。
このどちらも、洋風建築を意識したもので、それまでの社寺建築にはなかったトラス構造というものをふんだんに
使った建造物になっています。
トラスというのは、梁の上に木を三角形に組む方式で屋根を支える構造です。この建築方法では、柱をなくすこと
ができるために、下部の部屋を広く取ることができました。
建築における飛騨の文明開化を積極的に取り入れた建造物です。

彼は、当時の大檀那様であり、初代の高山町長だった永田吉右衛門の肝煎りで、群馬県の富岡製糸場や
東京へ勉強に行き、西洋の建築技術を学んできました。当時の富岡製糸場は、政府が殖産興業政策のため
に、西洋の技術を取り入れ、フランスの協力を得て生糸産業の近代化を推し進めたもので、全国的に工場の
建造物の模範となっていました。
また、押上邸の洋館なども、この建築技術が取り入れられていたようです。

これらの建造物は、白壁が特徴ですが、このころの左官技術は、土に漆喰ではなく石灰を混ぜたものを使用
したらしく、それまでの漆喰を使って仕上げる技法とは異なる斬新な方法を取り入れられていたようです。
したがって、坂下甚吉が東京へ勉強に行っていたときには、おそらく左官の人や、建具師、表具師なども
一緒に東京へ行き、飛騨の建物の文明開化のために技法を勉強してきた事でしょう。

9代目の甚吉さんは、8代目の44歳の時の子供として生まれました。彼は早いうちから大工の技術を学び、
若くして棟梁を勤めるくらいの技術の持ち主でした。彼は、父親の手伝いをしながら、
国分寺の庫裡、
護摩堂、
飛騨天満宮拝殿、
高山日赤など数多くの作品を仕上げています。
中でも昭和5年には、
霊雲寺本堂、
神明町鉢ノ子地蔵堂、
円光寺鐘楼、
清傳寺本堂(甚吉設計・高原常三棟梁)、
勝久寺本堂、塩竈金清神社社殿、住吉神社(松本町)本殿、護国神社大神宮拝殿・渡殿、
大黒台修理など、ものすごい数の仕事をこなしていますが、2年後の昭和7年にわずか28歳の若さで
なくなってしまいました。今思うと、過労死だったのではと思います。

大工としての坂下家は、彼の代で終りますが、8代の甚吉さんが下島さん、畑さん、八野さんをはじめ
たくさんの弟子達を残しました。現在でもその末裔の皆さんが飛騨の匠としてご活躍をされています。

さて、今日の放送もこの辺で時間となりました。来週は、GWですので、話題を変えて高山のまちなみに
ついてのお話をします。では、この曲でお別れです。 矢野顕子で「春先小紅」。ではまた来週。

徳積善太  
Posted by rekisy at 20:00Comments(2)TrackBack(0)毎週の放送内容

2008年04月27日

先日の講演会「教如上人と金森長近」の様子


平成20年4月24日、真蓮寺庫裏において、浄土真宗 高山第一組 研修会がありました。
題名は、「教如上人と金森長近」  講師 東等寺 竹田雅文氏  助手 わたくし

織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代に、飛騨を平定した金森長近。

織田信長は、「天下布武」を目指して、宗教の弾圧を行う為に、石山本願寺との戦いに挑みました。
そのとき、本願寺にいた本願寺11世 顕如上人、12世教如上人の親子と戦いますが、結果的に
顕如上人は、石山本願寺を明け渡し、和歌山の鷺の森に移転する事で、信長に屈服します。

教如は最後まで抵抗しましたが、結果的には石山を明け渡し、その場所には後に大坂城が秀吉
によって建造されます。

後に、顕如の死後、一時は、本願寺の12世を継いだ教如でしたが、母親の如春尼によって、
顕如の遺言があって、「弟の准如が本願寺の正統を継ぐように言われている」と申し出ることで、
准如が本願寺の12世を継ぐ事になり、教如は追放されます。
これが、二つの本願寺が存在する原因となりました。

その後、教如は、命をねらわれる事もあったため、隠棲します。そのときに、親鸞上人が行脚した
地域を訪ねる旅に出ます。教如は、地方を回る事で、結果的には地方の門徒信者を増やす事になり、
そのことで、教如親派を増やす結果になります。

飛騨にも照蓮寺(白川中野)に滞在した事もあり、そのときに、顕如上人絵像や顕如の御文、九字名号
などを下付したりしています。そうやって下付することで、スポンサーをたくさん発見したことも後に
信者を増加させる結果となりました。

金森長近は、秀吉のお話方(相談役)として、秀吉の側近にいましたが、茶の湯を通じて、教如とは
昵懇の間柄であり、教如を家康に紹介したり、教如のためにいろいろと動いたりした人物でした。

家康は、教如に寺院設立(第2本願寺建立)や、門主を継ぐように勧めましたが、教如は弟で本願寺門主の
准如のことを考え、それを拒んだりしました。しかし結果的には、京都に寺地を寄進され、東本願寺の創立
となりました。

そのことから、いままで「東本願寺と西本願寺は、巨大になりすぎた本願寺教団を分裂させる為に家康が
東本願寺を創った」という話がありますが、それは間違いである事が昨年わかりました。

教如と長近は、高山に城下町ができる前(天正十四年)にすでに知りあいの間柄で、越前大野を平定した
ときも、飛騨に入ってきたときも、真宗門徒と仲良くする事で、出血せずにどちらも平定しています。
したがって、飛騨に入ってきてからは、高山に城下を移す事になったときに、自分の留守居役を照蓮寺に
頼んでいますが、そのときに、高山の城下へ白川から引っ越してくるように依頼しています。
(高山別院にあった手紙にはそうかかれています。)

その折にも、教如上人もそのようにした方がいいと述べていると書かれていますが、教如上人との関係を
巧みに政治に生かした、長近公の政治力が示されています。

徳積善太

   
Posted by rekisy at 21:00Comments(0)TrackBack(0)調べていること

2008年04月26日

大雄寺の棟札発見

大雄寺、ご住職に昨年の7月にお願いしていました大雄寺旧本堂の棟札が
発見されたと連絡ありました。水野先生の論文に出ていたものです。

早速、写真を撮っていただきました。。

宝暦12年(1762)壬午九月十三日に建造の拾間三尺・梁間九間八寸七分という大変
大きなものです。

中身を見ていただければ分かりますが、水間相模(初代)宗茂47歳の作品です。
また、広田藤右衛門貴林ほか、25名の大工、5名の木挽きなどの名前があります。
(松田太右衛門は、延享3(1746)没、廣田良親は、宝暦7(1757)没で、没後の作品
ということになります。)

<興味あるのは、>
廣田藤右衛門貴林・・・・・・・・・・・・・・廣田良親の親か?
廣田清五郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・廣田良親の子で、弟子
安保清三郎諄紹・・・・・・・・・・・・・・・・旧本光寺(現 浄慶寺)の棟梁の末裔か?
中村新七・中村弥七・・・・・・・・・・・・・水間相模の旧姓。関係者か?
水間次四郎包好・・・・・・・・・・・・・・・・二代水間相模。
小峠平助......・・・・・・・・・・・・・・・・・小峠家初代?、飯山寺に名前有り
村山善十郎・・・村山家の関係者か不明?系図に無し (桂林寺脇7 明和4(1767))
牛丸甚五郎...・・・・・・・・・・・・・・・・・良親弟子 牛丸半助の子か?
足立七左衛門..・・・・・・・・・・・・・・・・良親弟子(宝暦4 古川信行寺本堂 脇大工7)
平瀬嘉助.....・・・・・・・・・・・・・・・・太右衛門弟子? 福成寺脇3(延享4 1747)

榑師
松山善兵衛....・・・・・・・・・・・・・・・・確か大国寺の棟札にあった人か?
今井忠五郎・今井吉良兵衛・・・・・・今井庄五郎との関係は?
越中富山の大工たち・・・・・・・・・・・井波と関係か?

などということが、保管データより分かりました。
もっと詳しく分かるといいのですが。。。。

徳積善太  

2008年04月25日

「いれもの展」開催中


現在、ひだセンターの岐阜県ミュージアムひだで、「いれもの展」を開催中。

飛騨に伝わる入れ物のほかに、ミュージアムで保管されている、インドなどの着物の
保管する棺なども展示中。


ちょっとマニアックな展示ですが、一度ご覧ください。

徳積善太  
Posted by rekisy at 21:00Comments(0)TrackBack(0)民俗について

2008年04月24日

本願寺教如上人

24日に非公開ですが、「本願寺教如上人と金森長近」という題名で講演会があります。
冬頭町の東等寺のご住職 竹田雅文師が講演を行います。
私も、資料作成とプロジェクターの操作等でお手伝いをさせていただきます。


教如上人像(東等寺所蔵)


金森法印像(高山別院所蔵)

教如上人は、徳川家康によって作られた東本願寺の祖と言われる人です。
金森長近は、高山の城主だった人です。
上記2つの絵画は、高山に存在するんですよ。たいへんな驚きです。

その二人が、茶の湯を通じて、親交があり、徳川家康に教如を紹介した人が長近であったこと。
教如上人との親交の中で、高山の照蓮寺は、その地位を高め、後に長近の孫 宣心が照蓮寺に
養子として入り、本願寺からさな姫を迎える事になったこと。

教如上人は、秀吉により本願寺12代を追放され、諸国を行脚した時代がありますが、
そのころに、照蓮寺が教如上人をかばったこともあったりして、飛騨とつながりが深いようです。
飛騨では天正八年八月大坂本願寺退去より照蓮寺の善了・明了・大進・浄昧・願生寺の
道智・願了(杢之丞)が教如と結縁したことにより飛騨門徒が教如を支持し、教如教団が形成
された。それを示すものが教如が下付した授与物と『岷江記』、『願生寺由来』、願生寺
『由緒書』などで判明する。

400年も前の時代に、飛騨は、宗教の上でもしっかりと中央と結びついていたことを実証を
示しながらお話をされます。

徳積善太  

2008年04月23日

大人の寺子屋 ー まったなしの戊子の年ー

私の先生、徳増省允先生のお話を掲載します。

『志ある人々の奮起を』 ー まったなしの戊子の年ー

平成20年は戊子(ぼし)の年(つちのえ・ね)です。
 繁茂しすぎた枝葉を剪定し、木々を間引き整理して、風通しや日当たりをよくする勇氣ある選択を実行する年です。
 繁茂しすぎたり増殖しすぎたりしては害となります。
 60年前の昭和22年がどんな年であったのか、年表に向かい一考する必要があります。歴史は私達にこれからの方向性を示唆してくれます。
 今日的世相をつらつら思うに、日々発生する諸不祥事に対し、当事者はいうまでもなく、周囲の人々、かかわりのある者全てが「偽(いつわり)」のなかで利己的利益の為に保身し、傍観し、無関心をよそおい、責任をのがれることを第一として生きようとするあり様に止めどがありません。それはまさに誇りなき、恥をしらぬ行為行動を当り前の如くに振舞う、「良心」無き所行であるといえます。言い換えるならば、誇りと恥を失ったところに、誠の「志」はなく、人として最も大切な「良心」(良知)の存在を忘れて生きようとしているといえましょう。
 大きな歴史の周期(日本史の変化400年と世界史の800年、そして1000年期の節目、同時周期は4000年に一度)の今、大人達は誠に目覚めて、この歴史の一大転機に直面し、覚悟を定め、次世代に天理の誠の道を正しく継承せねばならないのです。そのようなあり方こそが、今の世に生きる大人達の役割であり、今の世に生を受けた使命(天命)であると承知すべきです。
 「世の為、人の為」に自らが「何を為すべきか」、「如何に生きるべきか」を、「静かなる時間」をもって深く考え、究めて、分相応に覚悟し、のりを越えず、実践行動すべき時なのです。
 「平成」の年号を残して昭和58年(1983)12月に世を去った、著名な陽明学者であり碩学で啓蒙的思想家として世の指南役でもあった偉大な先人、安岡正篤先生の著書『醒睡記』より、「有志の奮起」と題する説論を紹介します。
 故安岡先生は、アフリカの聖者といわれたA・シュヴァイツァー博士の著書『わが生活と思想』の中より肝銘した言葉として、

「人間性は決して物質的なものではない。人間の内には表面に現われるより遥(はる)かに多くの理想的意欲が存在する。縛(しば)られたものを解き放つこと、底を流れるものを地上に導くこと、一事を成就すべき人間を、人類は待ち焦(こ)がれている」と。
 このシュヴァイツァー博士の言葉を引用し、故安岡先生は次のように説かれています。

「不幸にして今日、人心風俗は、折角進歩した学問、究明されている真理から背馳(はいち・そむく、いきちがう)している。
 親達は子供等を学校に入れるだけで、親(みずか)ら教育しようとせず、教師は本来の使命を怠り労働組合員となり、政治家は民衆に迎合して指導力を失い、世人は不義不正を傍看(ぼうかん)して氣概を亡くしている。
 曽(かつ)ての偉大な指導者達は皆時代の風潮に屈しなかった人々であり、新しい時代の創造は、こういう信念あり勇氣ある少数の人々の不屈の努力に因(よ)るものである。
 日本の危機に臨んで、有志者の雄健(雄大にして剛健なこと)を祈る」と。
 安岡先生は、その生涯の理念を、「一燈照隅、万燈照国」におかれました。さかのぼること1千年余前、伝教大師(比叡山開山、天台宗開祖最澄)の訓にある「一隅を照らす」の教えを思います。
 日本の危機的現状から、誠に、理と義に向かわせるために、大人達、特に指導的立場にある全ての分野の人々が、己の立場や地位に恥ずることなく、誠に学び自らに問うべき時と信ずるからです。
 著名な物理学者、相対性理論の発見者である故アインシュタイン博士が、大正11年(1922)、1ヶ月におよぶ来日の折り、日本国と日本人に託して帰国した言葉を、今一度紹介します。

「世界の未来は進むだけ進み、その間いく度か争いはくり返されて、最後の戦いに疲れるときがくる。そのとき、人類は真の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、もっとも古く、もっとも尊い家柄でなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
 われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」と。
 故ア博士が「神に感謝する」と言明したほどの「尊い国」日本、その国の今日的世相の実状をみて、博士の失望のどれほど大きいことか、その嘆きはいかほどでありましょうか。
 日本人の底流に営々として流れきた大和(だいわ)の精神、大和(やまと)の歴史の継承、その再生と復活こそが一義であり、今、まさにそのことが試(ため)されていると思うからです。
 「世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る」と。それは東方の端に位置し、「日出る国」である日本=日の本(もと)の国であることに「誇り」をもち、そして感謝することを強く自覚することでもあり、自ずとそこに誠の愛国心が生じてくるのです。文字や言葉の表現に左右されるものではないと信じます。

 今から59年前(昭和24年)、ノーベル 物理学賞を授与された初の日本人、故湯川秀樹博士の言葉を紹介します。

「案ずることはない。30年後の日本は、(戦後の廃墟より立ち上がり)科学技術国として先進国と肩をならべる」と。
しかし、
「僕は30年後の日本人のものの考え方を案じているのだ。日本人が開発した科学技術から派生する思想が日本人の心を蝕(むしば)むのではないか」と。
 偉大な先人の言葉や思いは、まさしく今日的日本の様相を予見し、強い警告をわれわれに発していたのです。
 このことからも、歴史や先人に学ぶ、そして今に活かすことがどれほど大切であり、賢明であるか再認識することが大切です。
 21世紀は「美の時代」又「文化の時代」といわれて久しいのですが、「美」は宇宙の根源的要素(基本)といわれる「真・善・美」の美と考えるべきです。
 ただ人や町、環境等、目に見える有形の美のみでなく、大切なのは、基となる無形の美、氣の力や人の心の美しさをも含むのであり、もとの美から発現する美を忘れてはならないのです。
 神=天=自然の計(はか)らいに順ずる、素直な魂の発現(=かむながら=隨神の道)を自覚して生きる人々の住む国ということなのです。
 尊い国、美しい心の人の住む国、歴史と先人達の大和(だいわ)の精神=大和魂がつちかってきた「日本の良心」に立ち戻り、全ての大人達が、残されたそれぞれの人生を志をもって良心に生き、次世代に継承するための努力に勤めることが、使命であると信ずるからです。
平成20年1月21日 記
(前年4月14日分再考加筆)
  
Posted by rekisy at 21:10Comments(4)TrackBack(0)大人の寺子屋

2008年04月23日

岐阜県ミュージアム飛騨の会議

いつも、「飛騨の散歩道」という冊子を発行している文化部会の会議がありました。


今年の「飛騨の散歩道」は、7月から開催される「山の展覧会」にあわせて、6月末に
発行されるそうです。

そのあとは、今までの総集編を発行し、今年は1回だけの発行となります。
来年以降は、デザイン等を変更して、継続されるそうです。

最近、読者が増えてきたのに、ちょっと残念な気もしますが、リニューアルを
ご期待ください。

徳積善太  
Posted by rekisy at 08:00Comments(0)TrackBack(0)

2008年04月22日

宗猷寺の改修

先日、改修中の宗猷寺にお邪魔してきました。



宗猷寺の庫裡は、200年ほど前に建造されたとのことですが、雨漏りがひどく、このほど
全面改修となったそうです。

200年前と聞いて、現地に行ってみましたが、残された材木のくぎのことを、以前、信行寺の
田中先生より聞いていたので、もし落ちていれば、もらってこようかとお尋ねした次第です。

ところが、残された材木に使われていたのは、一般の丸釘でした。

ということは、昭和に入ってからの建造物だったという事です。
釘って、200年も前のものであれば、四角い釘が使われていたはずなので、それは、
たたら製鉄で造ったものであり、それはそれは貴重なものなんだそうです。

また、当時の左官の技術をみようと、こんな写真も撮ってみました。


わらの組み方とか、壁の作り方など、参考になります。

今まで、いろんな匠の方や先生から、技術の事をお聞きしたので、ちょっとしたゴミの中でも
すごく興味を持つようになりました。

徳積善太

  

2008年04月21日

吉村先生に会いました

あの、古川祭の打ち出しのあと、どさくさにまぎれて、TVでおなじみの吉村作治先生と名刺交換しちゃいました。


たまたま、移動中に、隣を歩いておられて、飛騨市の観光部長と
ご一緒だったので、質問された事を、ご本人とは知らずに、たまたま
私が答えたところ、瞬時に挨拶をして、名刺交換となりました。

自分でもすごい出会いだと思いました。
(住所、電話番号は画像処理しております。)

徳積善太  
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2008年04月21日

4月21日放送分「戦国時代 飯山一党のこと」

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。

4月もすでに第3週目に入りました。皆さん、この放送聞いていただいてますでしょうか? 
昨年の4月から、すでに1年が経過しました。先週の放送で、何と50回目の放送となりました。
10月からは一人でお伝えしておりますが、よくこれだけ、ネタが続いたなあと思っていますが、
高山はそれだけ、ネタの宝庫なんです。

私も、生涯学習者といっているだけあって、知らない事ばかりで、いろいろと調べているうちに
自分が持っていた疑問が解けたり、また新たな疑問にぶつかったり。この番組をやらせて
いただいているおかげで、大変勉強になります。今後とも、できるだけ、わかりやすくお伝え
したいと思っていますので、よろしくお付き合い下さい。
ただし、間違っていることもあろうかと思いますので、間違いがあった場合は、是非ともお知らせ
いただきたいと思います。よろしくお願いします。

さて、今日の放送は先月のこの週にお話した、金森が飛騨に侵攻する前のお話の続きをしたい
と思います。
以前の放送をもう一度、振り返ってみましょう。室町時代初期には、姉小路・江馬・廣瀬という
豪族がいて、公家や寺の所有する土地を略奪して大きくなっていきました。

室町時代後期になると姉小路は3つに分裂して、京極氏が台頭してきました。 
その家来が所領を治めることで、当時の飛騨には、たくさんの豪族となっていきました、
というお話をしました。

先月の放送では、白川郷近辺を治めていた内ケ島氏のお話と、照蓮寺を作った三島将監と
いう人が戦争をした後、和睦してお互いに縁戚関係となったんですが、天正の大地震で帰雲山
の崩落と共に滅んだお話をしました。

今月も、数々の軍記物をもとに、お話したいと思います。高山近辺の軍記物で、今日伝わって
いるのは「飛騨略記」「飛騨治乱記」「飛騨国治乱記」「飛騨太平記」「飛騨軍乱記」「飛騨群鑑」
「通夜物語」などという本があります。
いずれも江戸時代になって書かれたものですが、それぞれの内容が少しづつ異なっており、
郷土史研究をしている者にとっては、信頼性がうすいうえに、頭の痛いものになっています。

といいますのは、どれもが異なっているので、研究をする者にとっては大変なんです。
たとえば、年号が違っていたり、関わった人が異なっていたりします。

どうしてもこれらの本は、聞き書きが中心となっていますので、少しづつ異なってくるんです。
また、当時は、コピーといった物がありませんから、前の人の書いた物を、次ぎの人が写して
書き残しました。どうしても、書き間違いや、読み間違いといったことも出てきます。
ですから、そういったものを鵜呑みにすると、間違ったままで伝わってしまうと言う事になります。
そのために、どの本から写したか。それはどの時点で書かれたものかなどということが大事に
なってきます。
私も数多くの本を見比べて見て、「あ、ここは前のと違う」とか、「これは向こうの本では○○さん
になっていた」とかいう分析が必要になってきます。ですから、こうやって原稿を作るのも結構
大変なんですよ。

さきほどご紹介した軍記物のほかにも、「飛州志」「斐太後風土記」「願生寺由来記」「岷江記」
「飛騨編年史要」「寿楽寺大般若経奥書」などという史料などがありますし、軍記物でも、飛騨
以外にも信長のことを書いた「信長公記」ですとか、武田信玄のことを書いた「甲陽軍鑑」です
とか、上杉謙信のことを書いた「謙信公年表」などという軍記物もあります。
したがって、あらかじめ、お断りしておきますが、私がこの放送でお話している事は、あくまで、
「こうであろう」という物語でありますことを、お断りをしておきます。

さて、後半はいよいよ、飛騨の戦国時代のお話に移ってまいります。今日は、飯山一党の事に
ついて、お話します。

飯山党とは、現在の石浦町と千島町の境目に、飯山寺(いいざんじ)というお寺があります。

そこを治めていた飯山氏の一族の事を言います。現在は、41号バイパスのところに、エクス
リース商会がありますが、そこの裏にあるお寺のことです。かつてそこには、飯山氏という
一族が、お城を持って、知行していました。

城主は飯山三郎兵衛保氏という人で、その祖先の飯山三郎兵衛保重と言う人は源氏の
貴族でした。平治の戦のときに鎌倉より流浪して飛騨に蟄居しました。

さて、ちょっとここでブレイクしましょう。曲は、岩崎宏美で「思い出の木の下で」。
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今日の飛騨歴史再発見は、飛騨の戦国時代のお話をしています。

あるとき、この保重が夢を見ます。自分の城館の西にある山の上に、古い松の茂林ありましたが、
其中に老松が三株ありました。その木の下に灮明赫奕(こうみょうかくやく)たる救世観音の尊像が
あらわれ、彼にむかってお告げをされました。
観音様がおっしゃるには、「保重よ、私はあなたに縁のある者です。私はこの西方の教主 阿弥陀
如来の命を受けて、法界に群類を生まらせたい。早く私の体を別室に安置して、阿弥陀佛を以て
家の本尊としなさい。朝夕、弥陀の名号を称えれば安楽を得て子孫が必ず長く久しく繁栄するでしょう。」
とお告げになりました。

保重は、夢が覚めて、不思議に思ってすぐに西山の松林のところへ行ってみると、古松が生い
茂っていて、その光景は夢の中と同じものでした。その林の中へ行ってみると、老松のところに、
金色の観音様がそこにいらっしゃいました。保重は、大変喜んで、すぐにその林の中に祠を建造し、
その観音様の尊像を安置して、霊松院と名附けました。
保重は、この時より家紋を改めて、三株の老松を使うことにしました。のちに保重はなくなりますが、
代々にわたってこの地を治める事になりました。彼がなくなった後、この霊場は真言蜜教の宗派の
お寺として生まれ変わりました。庶民が拝礼の時、少しばかりではありますが、ご志納をいただくなど
して、お告げの如く飯山の一族は、次第に繁昌していったということです。 

飯山氏が真言宗のお寺を建造した頃、三木氏は則綱の代でした。
彼は、長男の綱良に家督を相続させ、四男頼綱を千光寺に遣し尊海阿闍梨という偉いお坊さんに
附けて出家をさせました。この人は出家して尊超と号しましたが、それは学業にすぐれたお方でした。
彼は、三世常恒という偉いお坊さんにもついて、即身即佛の証を得た人です。後に常憲寺というお寺に
住んで大僧都法印乗空と号しました。
年老いてからは浄土真宗に帰依して、本願寺の門徒を集めて遊仙房という道場を起こして、阿弥陀如来
を本尊として祀りました。「阿弥陀如来を常に信ずれば必ず子孫長久なるべし」という飯山家のご先祖に
お告げがあった通りにしたということです。

さて、そのころ、宮村の山下というところには、山下刑部左衛門利国と云う人がいました。彼の家は数代
水無神社の宮司としてお勤めしてまいりましたが、利国の代になって、自分は神社を去って神楽山と云う
所に居館を構えて、最終的には一ノ宮水無神社領を掠(かす)め取ってしまいました。
彼の力が大きくなる前に退治してしまおうといって、三木氏は、内木助左衛門善秋という人を使って、
飯山の城と、山下の両城について、「利国の悪逆を討て神様の力を得よう」と宗徒の者たちに働きかけて、
速に討手を差し向けようとしました。

しかし、どこから漏れ聞こえたのか、山下利国は、急ぎ軍勢を整えたので、戦争になりました。
利国はすぐに押し寄せて、早いうちに勝負を決そうとして、其夜、手勢を引き連て阪下というところに
押し寄せ、火を懸けて夜討に仕懸けました。 内木善秋は、手傷を負った上に、士卒の大半を討死に
させてしまいました。もうこれ以上は防戦が難しいと、善秋は、只一人夜に紛れて信州へ落ちて行き
ました。
丁度そのときに内木善秋の弟の善龍は兄の怪我を治してほしいと、毎日、身を粉にして佛神の加護を
いただくようにお祈りを重ねながら反逆の機会を窺っていました。 
善龍は、内木の残党を集めて多勢山下の居城を取り囲んで日夜合戦をしていたところ、三木氏と飯山氏が
協力して攻めたために、利国は篭城かなわずついに居城を攻出され、ついに宮峠にて内木善秋によって
討たれました。

そのとき、一緒に戦った飯山三郎兵衛は三木より、飯山に居住することを許されました。
永禄の頃、三左衛門保貞の代になって、三木自綱が松倉に新しく城を構えたとき、三木氏が飯山の所領を
奪おうと霊松院を焼払って攻め寄せたので、今は矢長に思とも叶ふべからずと自害して果てました。
しかし、子の新左衛門と弟の新右衛門の二人は逃げ延びて彼方の山奥でじっと時を待ち、のちに金森法印の
家来となって自綱没落の後も金森家に仕えて子々孫々、忠臣の家名を残していったということです。
これも、霊験あらたかな観音様のお導きであったと言うお話でした。このつづきは、またしたいと思います。

さて、今日の放送はこの辺で。来週は、第4週目ですので、飛騨の匠のお話をしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。松田聖子で「Rock’n Rouge」ではまた来週。

徳積善太  
Posted by rekisy at 20:00Comments(2)TrackBack(0)毎週の放送内容

2008年04月21日

この方、ご存知ですか?

こちらは、どなたかご存知ですか?

古川の方でしたら、おそらくご存知だと思いますが、中垣克久先生です。

先生の作品は、スピリットガーデンホールや、アートインふれあい館に展示してあります。

ある方のところへ祭でお邪魔したところ、この日は、古川音楽大賞で有名な武満 徹先生の
奥様とご家族がいらっしゃっていて、先生もご同行されていたそうです。

実は、私と先生とは、10年ぶりの出会いで、以前先生と新宿で一緒にマージャンをやったことが
あります。
東京のど真ん中、新宿で飛騨の人間に会ったということで、マージャンしながら斐高の
校歌を歌ったことがあります。

久しぶりの出会いで、とてもお酒が進みました。

徳積善太  
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2008年04月20日

今年の古川祭





今年の古川祭は、あまり屋台をみずに終ってしまいました。
両日とも仕事で、あまり町内を回れませんでした。

その分、友人がたくさん取っていますので、また、わけてもらってからUPします。

徳積善太  

2008年04月20日

いい祭です

天気もいいし、最高の祭になりました。
  
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2008年04月20日

桜が満開です

店の前のしだれ桜が満開になりました。
いいおまつりです。

高山ではまつりのあと、一週間後には屋台片付けがおこなわれます。さきほども石橋台の片付けが始まってました。また、その後は大変だった奥さんたちのあと吹き(宴会)が、昔はおこなわれました。

今ではあまりおこなわれなくなり、屋台組の打ち上げとして、各屋台組で、近所の人が集まって、飲み会があります。
私の組では来週後片付けがありますので、今日は店に出ています。

今日、古川祭では、屋台のひきそろえがあり、市内を行列が練り歩きます。

起こし太鼓では、怪我をしても、恥じになると言って屋台の前でも涼しい顔をしていたり、足をひきずったりできないんで、男の人は我慢の一日です。
昔から足の骨にヒビがはいろうが、今日一日は我慢して、明日病院に行く人が多いのも古川祭の特徴です。
  
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2008年04月19日

打ち出し前

  
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2008年04月19日

夜祭の準備

各屋台が夜祭の準備を整えて、ひきそろえです。
写真は神楽台。

そろそろたくさんのお客さんでにぎわってきました。
もうすぐ夜祭が始まります。ただし、古川の夜祭は、壱之町通りを上がって終わりです。大変短い夜祭です。その後、起こし太鼓がありますから。
みな、そっちの方が大事です。
  
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2008年04月19日

ゲリラ的な運行

古川まつりは屋台が通る所を決められてないので、このように〓の通行を時には停めてしまいます。

あまり高山ほど規制がないのが特徴です!
  
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2008年04月19日

屋台が引き出されました

晴れてきたので、各屋台が引き出されました。
神楽も獅子舞を舞わしています。
  
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