2008年05月02日
広瀬氏について
金森が飛騨に入国する前に、三木氏と共に飛騨を治めていた、広瀬氏のことを調べています。
そのことをお尋ねしに、国府町の菅田一衛先生をお尋ねしました。

(写真は広瀬氏の居城のあった高堂城跡)
広瀬氏の出自は明らかではなく、鎌倉時代から国府町のあたりを治めていた豪族です。
広瀬氏の土地は、山科家によって知行されていた事もありますが、垣根氏が知行した
こともあり、その土地は、所有者が複雑に入れ替わる土地となっていました。
いまの上広瀬~広瀬~古川の入り口にいたるまで広範な土地を知行していました。
広瀬氏の居城 高堂城は、国府町の瓜巣にあり、城址は岐阜県の重要文化財に指定されています。
看板には、次のようにかかれています。
「かつて、広瀬郷を治めていた広瀬氏の居城であり、天文年間(1532~54)年に広瀬左近将監利治
がこの地に築城したとされている。
標高はおよそ700m。四面は天然の要害となっており、宮川を南北に俯瞰することができ、山頂には
平地があり、以下段々に小さな平地がある。
名張地区にある広瀬城の詰城としてその規模は、高山市にある高山城・松倉城に継ぐものと言われて
いる。
後、広瀬氏は三木自綱に滅ぼされ、城の主は三木氏に移ったが、この三木氏も天文十三年(1585)
豊臣秀吉の命を受けた金森長近により攻められ、広瀬城により防戦したが、降伏した。」
のち、広瀬氏は、越前大野にいた金森氏に投降し、金森の先陣役として金森氏の飛騨入国を助けました
が、論功行賞がなく、かつての知行地を与えられなかった為に、金森可重に対して反抗しますが、結果的に
天正十四年に完全に滅ぼされてしまいました。
その後、広瀬氏は、滋賀県に渡り、武士を捨て僧侶となったようです。また、広瀬氏の部下達は、すぐに
武士を捨て、百姓となったためにそれまでの土地を安堵され、その末裔は、今でも国府町の地域に住居
された方が多かったようです。
徳積善太
そのことをお尋ねしに、国府町の菅田一衛先生をお尋ねしました。
(写真は広瀬氏の居城のあった高堂城跡)
広瀬氏の出自は明らかではなく、鎌倉時代から国府町のあたりを治めていた豪族です。
広瀬氏の土地は、山科家によって知行されていた事もありますが、垣根氏が知行した
こともあり、その土地は、所有者が複雑に入れ替わる土地となっていました。
いまの上広瀬~広瀬~古川の入り口にいたるまで広範な土地を知行していました。
広瀬氏の居城 高堂城は、国府町の瓜巣にあり、城址は岐阜県の重要文化財に指定されています。
看板には、次のようにかかれています。
「かつて、広瀬郷を治めていた広瀬氏の居城であり、天文年間(1532~54)年に広瀬左近将監利治
がこの地に築城したとされている。
標高はおよそ700m。四面は天然の要害となっており、宮川を南北に俯瞰することができ、山頂には
平地があり、以下段々に小さな平地がある。
名張地区にある広瀬城の詰城としてその規模は、高山市にある高山城・松倉城に継ぐものと言われて
いる。
後、広瀬氏は三木自綱に滅ぼされ、城の主は三木氏に移ったが、この三木氏も天文十三年(1585)
豊臣秀吉の命を受けた金森長近により攻められ、広瀬城により防戦したが、降伏した。」
のち、広瀬氏は、越前大野にいた金森氏に投降し、金森の先陣役として金森氏の飛騨入国を助けました
が、論功行賞がなく、かつての知行地を与えられなかった為に、金森可重に対して反抗しますが、結果的に
天正十四年に完全に滅ぼされてしまいました。
その後、広瀬氏は、滋賀県に渡り、武士を捨て僧侶となったようです。また、広瀬氏の部下達は、すぐに
武士を捨て、百姓となったためにそれまでの土地を安堵され、その末裔は、今でも国府町の地域に住居
された方が多かったようです。
徳積善太




