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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年05月31日

さんまち用水について3

森下町を抜けると、今度は神明町に入ります。

神明町の旧三星製糸場の裏のところに、調整の水門があります。
昔、ここでは、製糸をするための機械を起動させる水車が並んでいたところです。
その動力を利用して、製糸が行われていました。


製糸産業が発展することで、そういった動力源となる機械の開発も行われ、地元では
特許が取得されるなどして、水源を動力に利用していました。写真は三星製糸裏のところ。


製糸場裏のところでは、今でも結構深い水路を見ることができます。
ここに4台から5台の水車がかつては並んでいました。


枡形橋のたもとのところでは、民家の中を通っています。
Hさん宅では、自分の敷地内の水路を利用して、かつては、ここが料亭だったので、
鯉が飼われていました。昭和49年頃の話です。


完全に個人の敷地の中を通っています。


いまは暗渠に入れられていて、そこは神明公民館の駐車場になっていますが、かつては
ここには、川がむきだしになっていました。

つづきは明日

徳積善太


  
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2008年05月30日

さんまち用水について2

この「さんまち用水」ですが、水源は、宮川の片野町へりにあります。


場所は、山王橋の少し上流のところ、市営片野住宅の裏のところにあります。
(もう一つの水源は、石浦にもありますので、そちらは、後日お知らせします。)


山王橋の下をくぐって、森下町に入ります。


それが、森下町に入って、水量調整の水門を通ります。
この水量調整水門が、うまくできていて、多すぎる水をここで調整し、余った水は宮川へ
返す働きをしています。


用水は、閑静な住宅街を抜けます。

つづきは、明日。

徳積善太


  
Posted by rekisy at 21:00Comments(2)TrackBack(0)高山の用水路

2008年05月29日

さんまち用水について1

高山のまちには、必ず川に水が流れています。


これって、どうしてあるかご存知ですか?

今日も、修学旅行の生徒さんがいらして、その辺をお話しました。

この用水は、「さんまち用水」といって、大野郡史には下記の記述があります。

「享保八年  高山三町用水を通す

 享保八癸卯、午の病時行多く視す、三町用水溝初る、  (押上氏年代記)
 享保八、三町用水溝始る、              (渡辺平蔵年代記)
 同八卯年、高山三町用水新規堰入、矢島氏発起、世話人大工松田太右衛門、
三町溝堀通に付、一之町下板屋高垣屋両組難渋之旨、申上といへども、矢島氏
利害申聞にて済、                          (紙魚のやとり)」

なんと、飛騨の匠 松田太右衛門が作っていることがわかりました。

徳積善太


  
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2008年05月28日

江戸時代の飛騨の酒造業について5 寛政4年の小前帳

寛政四年に、酒造をしていたメーカーの名前が列記されています。

これによると、酒造をしていた者による組合組織のようなものがあったのか、大きな酒造メーカーが
やっていけない小さな酒造メーカーに、酒を造って、樽を分配し、大量生産によって価格を下げた
形で、合理的にお酒を分配するシステムを造っています。

今も昔も、合理的な経営がされていたようですね。

その小前帳にある酒造メーカーの名前です。24軒が記されています。
元禄10年には89件(全飛騨)あったわけですが、大分減ってきたんでしょうね。

久保田屋弥十郎  大坂屋吉右衛門  赤田屋 新 助   赤田屋新右衛門 
千虎屋 甚 六   田中屋半右衛門  都竹屋市右衛門  中村屋 吉兵衛 
大森屋 重三郎   吉野屋 清三郎   奥田屋 小平次  佐藤屋 久兵衛 
水間屋彦右衛門  松木屋 傳兵衛   上木屋 甚四郎  加賀屋長右衛門 
土田屋小左衛門  宇野屋兵右衛門  福島屋清左衛門  長瀬屋 弥兵衛 
松本屋 茂 助   細江屋三右衛門  笠井屋 半 七   鍵 屋 與 作 
三福寺村 七蔵  同村 長右衛門  加賀屋久左衛門  谷 屋 市兵衛 
(造酒米貸借小前帳)

これが、現在では、高山に8軒、古川に2軒、神岡に1軒、萩原に1軒の12軒に
なってしまいました。


徳積善太  
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2008年05月27日

江戸時代の飛騨の酒造業について4 1/2令と1/3令

天明~天保にかけて、全国的に飢饉がおきました。
その時には、1/2令、1/3令などといった、法律を出して、幕府は、酒造りを規制させました。
そのため、本来大量のお酒を造れるだけの設備を持っていた大商人でも、よほどの資金力がなければ、
設備投資が過剰になって倒産するところもあったようです。

一般的には、酒株といって、酒造の権利を持っている人なら、酒造りができたのですが、やっていけない
酒造メーカーは、その酒株を他人に譲渡したり、貸し付けたりすることで、だんだん細々とした商売に
なっていったようです。

全国的に、米の価格統制をする目的は、大坂周辺の酒造メーカーに対するものだったと思われますが、
その法律は、全国の酒造メーカーに適用されました。
天保元年12月12日に出された、1/3令では、従来の酒造のうち1/3を減石するように命ぜられました。

天領であった、飛騨では、高山御役所を通じて、酒造メーカーにも同様の法律が適用されることになり、
大坂周辺と同じような仕打ちにあった飛騨の小さな酒造場では、次第にやっていけないところもでてきた
ようです。
  
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2008年05月26日

5月26日放送分 日下部邸と吉嶋邸

みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。この番組は、飛騨の生涯学習者 第二号 
私、ながせきみあきがお届けしてまいります。

まったく早いですねえ。もう間もなく、今年に入ってから、半年が過ぎようとしています。光陰矢のごとし
といいますが、一日一日を大切に過ごしていきたいですね。

私の尊敬する人に、佐藤一斎という江戸時代の学者がおられます。

先生は、岐阜県の恵那市にある岩村というところでお生まれになり、東京大学の前身となった昌平講の
学長、林羅山と肩を並べる方でした。彼は、たくさんの幕末の志士を育てました。彼の思想を受継いだ
有名な方には、吉田松陰とか、西郷隆盛とか、米百俵で有名な上杉鷹山先生とかがおられます。

また、どこかでまた、先生の話はしたいと思いますが、先生が記した「言志四禄」という1334箇条の
言葉の中にこんな言葉があります。

「少にして学べば、則ち壮にして為すあり。壮にして学べば則ち老いて衰えず、老いて学べば則ち死して朽ちず」

つまり、少年期に勉強すれば、壮年になるとそれが生きてきて、大志を為す。壮年の内に勉強すれば、
老いても衰えを知らない。老年になって学べば、死んでも朽ち果てる事がない。ということです。
生きている限り、学びがあり、学ぶ事によって人は幸せになるという言葉です。
http://www.iw.vrtc.net/~fureai-yakata/kankou/ijin/sato.html

常日頃から、こういう精神を大切にしていないと、矢のように過ぎてしまう時間というものに、人は流されてしまい
ます。目的を持って、毎日を行動したいと思います。

さて、今週は、第四週ということで、飛騨の匠のお話、今日は日下部家と吉島家のお話をしたいと思います。

日下部家を作ったのは、川尻治助という人です。

彼は、屋台の建造で有名な谷口家に弟子入りし、その技術を磨きました。
もともと、高山の町屋建築は、高山が天領だった為に、高さが制限されており、陣屋のご門の高さより低くしない
といけないお達しが江戸時代にありました。そのため、町民達は、できるだけ軒を低く作ることを考えました。

しかし、そこは町人根性、「頭は下げても腹まで下げず」といった精神があったのでしょうか、三町の建物を見ると、
通り側は二階の庇に手が届くくらい低い高さになっていますが、中に入ると奥の座敷では、手を伸ばしても天井に
手が届かないくらい、高い屋根の構造になっています。現在でも三之町の建造物は、こういう構造になっているの
が特徴です。

さて、ではどうして、日下部家住宅の庇が低くないか。これは、火事が原因です。明治8年(1875)4月24日に
高山の安川通りから北半分を焼失する大火がありました。この時には、高山別院をはじめ、寺内町9か寺、
桜山八幡神社や民家1032戸・土蔵44棟のほか、高山祭りの屋台 船鉾台、浦島台、文政台、鳩峰車台、
神馬台、宝珠台、仙人台といった屋台も灰になってしまいました。そのいくつかは、再建されましたが、
とうとう再建されなかった屋台もあります。

日下部家も、同じように焼けてしまいましたが、この建物は明治12年に再建されました。


再建されたときは、すでに明治の世になっていましたので、それまであった建物の高さ制限は関係なく、自由に
建造物を建てる事ができました。
そのため、棟梁の川尻治助は、それまで禁止されていた工法をふんだんに使って、ぜいたくな建物を建造したのです。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は団塊の世代の方にはなつかしい曲。ワイルドワンズで、「想い出の渚」
をお届けします。

今日の飛騨歴史再発見は、飛騨の匠について、高山の町屋建築として有名な、日下部家、吉島家のお話を
しています。

では、川尻治助がどのような建築手法を取り入れたか、ですが、まず、セガイといって、屋根の下のところに
腕木を伸ばして板をはめ込んだ屋根を支える工法が使われました。
また、現在、古川町では「雲」と呼ばれている部分がありますが、屋根の下に白い塗装がほどこされている
部分をみせる工法も使われました。

こういった技法は、宮大工によって社寺仏閣に使われているものだそうです。宮大工の八野さんによると
「この建物のようにセガイを出す工法は、江戸時代には贅沢な建造の手法として禁止されていたので、
明治期になって自由化されたのではないだろうか」とおっしゃっていました。

明治8年に大火があり、この建物が完成するのが明治12年ですから、川尻治助はこの建物の建造にほぼ
3年の年月をかけて作りました。最近の建物で、これほどの年月をかけて作った建物はあまり見当たらない
と思います。
高山にあるどんなホテルのような建物でも、だいたい長くて2年くらいで作られると思います。いかに手間ひま
をかけて作った建物であるかがわかると思います。

治助はこのあと、丹生川の田上家の住宅を作ります。

彼の作品は、生涯で日下部家と田上家の二点しか確認されていませんが、こちらは、12年の歳月をかけて
作られています。やはり、セガイを表に出した重厚な建物で、彼の技術の全てを結集して作ったものであると
言っても過言ではありません。

さて、日下部家の下手にある吉島家。

こちらは、西田伊三郎という棟梁が、明治40年に完成させたものです。

こちらの建物は、日下部家とは違い、セガイはありませんが、高山を代表する重厚な町家建築です。
この建物は、アメリカ人の建築家 チャールズムーアという人が、訪ねてこられたときに、
「地球を半周してきても、見に来た価値があった」と大絶賛でした。

こちらの建造物は、屋根を高くするために、一般の梁の下にもうひとつ梁をめぐらしてあり、屋根自体を下から持ち
上げる構造になっています。そのため、中に入ると、正面のところに大黒柱がありますが、そこから上のところに、
大きな梁がまずあって、その上に小さな梁が互い違いになっているのがわかります。そうやって梁をたくさん使う
ことで、冬の降雪のときにでも耐えられるような構造にしたものと思われます。


また、これはちょっと気づかないのですが、玄関の右手横に、小さな扉があります。これは、葬式のときに棺おけ
を出す為の扉だそうです。葬儀の時には、忌み嫌うものは正面玄関から出さずに、こういった特別の扉から出す
ように仕向けてあった、そういうちょっとした工夫がなされているのも、この建物の特徴です。

西田伊三郎は、父親の代から続く大工で、父親の伊兵衛は、飛騨の匠の末裔として有名な水間相模宗俊と一緒に、
東照宮の造営のときに働いた人でした。彼の作品は、この吉島邸以外にあまり確認されていませんでしたが、
昨年末に国府町にある清峰寺の観音堂が彼の作品である事を知りました。

格天井の素晴らしい、立派な建造物ですので、皆さんも一度、ご覧になるとよろしいでしょう。

さて、本日も時間となりました。来週は、文化八年に天照大神が降臨されたことについて、3年前に私が実際に
経験した事をお話したいと思います。
ではまた、来週、お会いしましょう。今日はこの曲でお別れです。曲は八神純子で「想い出のスクリーン」
ではまた、来週。

徳積善太  
Posted by rekisy at 20:00Comments(7)TrackBack(0)毎週の放送内容

2008年05月25日

江戸時代の飛騨の酒造業について3 飢饉を救った酒粕

天明の大飢饉のとき、高山の旦那衆も民衆の救済に一役買いました。
加賀屋では、酒造りにできる酒粕を、民衆に無償で食料として提供して、飢えをしのぐために
与えています。

「天明三年 三月(ママ)十二日 白川郷凶荒の為、食料として酒の粕の施與を乞ふ、
 一筆啓上仕候、先以春暖相催し候処、御家内様弥御堅勝可被成御座目出度珍重奉存候、
前度ほうさうの節は御薬被下置、千萬忝仕合に奉存候、貴公様の御かげにて、皆々軽く相済
悦申候、扨御願申上候は、去年は国中一同不作にて、特に寺河戸と申所は、白川郷中の切詰
だけの村にて土地柄至て悪敷、作方去年中は一向実入不申、只今にては曾て給者無御座、
いまだ雪消不申、ほり根等も不相成申、餘命を難凌候仕合に付、何分申上兼候儀には御座候へ共、
酒のかす等にても被下置候様奉願上候、酒のかす等御くれ被下候得は、湯にふかし、のみ餘命を
つなき可申、何分奉願上候、こぬか等にても御くれ被下候様願上候、右の趣御慈悲の程、偏奉願上
候以上、
  二月十二日  白川寺河戸村   助左エ門
加賀屋長右衛門様               (二木長右衛門氏所蔵)」
(出典 高山市史)

徳積善太
  
Posted by rekisy at 21:00Comments(0)TrackBack(0)飛騨の酒造業

2008年05月24日

江戸時代の飛騨の酒造業について2 菱垣廻船と樽廻船

米は、天下の台所「大坂」に集められます。

その米は、集りすぎれば消費をしないと、価格が暴落します。そのために米を消費させる為に
お酒造りを奨励しました。
逆に、米が不作のときは集りませんから、逆にお酒を造ることをやめさせないといけません。
通貨のほかに、米が重要な流通貨幣でしたから、幕府は米の価格統制ということが一つの
大切な仕事だったようです。

そのため、大阪の近隣の伊丹(摂津)、灘(神戸)、伏見(京都)といった酒どころでは、淀川や海運をして
米を大量に運び、お酒に変えられたのです。
その作られたお酒は、大消費地である江戸へ海運されました。

最初は、大坂から菱垣廻船で、江戸まで運搬されましたが、困った問題が起きました。
それは、江戸まで日数がかかるために、お酒が腐ってしまう事でした。
そのため、悩んだ酒造メーカーでは、酒のもとである、酒粕を濾しとって、加熱殺菌することを考えました。
これが、現在に伝わる「清酒」というものです。伊丹のメーカーが開発したそうです。

そのため、伊丹の酒造メーカーは、江戸に海運して清酒の販売で大もうけをしました。

ところが、ライバルメーカーが登場しました。それが、灘の酒造メーカーです。
菱垣廻船を仕立てるのに、大坂から近いことを利用して、大坂までの船賃をやすくしたために、それまでの
価格では、立ち行かなくなり、どんどん灘の酒へとシフトしていったのです。

また、菱垣廻船の場合、酒ダルは重いので船の一番下に積まれます。
そうすると、港に着いたときに、運び出されるのが一番最後となります。
当時、大坂から江戸までは一週間くらいで運搬されたそうですが、船底にある樽を運び出すのにそれから
また一週間もかかりました。これではせっかくのお酒も傷むものも出てきました。

おまけに、ときどき、海難事故で、船が沈む事があります。

そのときは、一番重い酒ダルは、船と共に沈んでしまいます。
上のほうに積んだ軽い荷物は、運がよければ水に浮いて、近くの海岸に流れ着く事もあります。
ところが、当時の保険では、一番下に積むものほど、保険料が高く、上のほうに積むものほど安い
保険料で済みました。

一度遭難に遭うと、荷物は海の藻屑と消えるばかりでなく、膨大な船の損害金額も負担させられるために
荷主は、この不公平を是正するように、努めました。ところが、一向に船会社の方は、保険料の制度を
変えようとしませんでした。

そのため、酒造メーカーでは、酒だけを運ぶ運送ができないかと考えるようになり、そうしてできたのが
樽廻船というものでした。
樽だけ運べば、保険料も公平になるばかりでなく、港についてからの陸揚げの時間も大幅に短縮できます。
そうして、樽廻船は、一躍脚光をあびることになったのです。

徳積善太
  
Posted by rekisy at 21:00Comments(0)TrackBack(0)飛騨の酒造業

2008年05月23日

江戸時代の飛騨の酒造業1 「細江屋」について

2月の放送でもお伝えしましたが、高山には元禄時代に酒造業者が89件もあったことが確認されて
います。
高山の豪商の印鑑入れにあった、印鑑のカバーから面白いものを発見しました。


そこには、「酒肆 細江屋茂助」と書いてあります。
肆とは、うちの屋号にもありますが、店という意味です。
酒造メーカーの「細江屋」という店の、手紙をこのように印鑑入れにしたものと思われます。

この細江屋、寛政四年の役所への届けの中では、お酒を造るのに米九十九石四斗六升七合も使っていた
大きな酒屋でした。 このときに、1/3令のおかげで、酒造を減石されていますが、4件の酒造メーカーに
お酒を供給しています。

もともと、酒造業というものは、旦那衆が儲けるために、始めたと思われがちですが、実は、米の価格を
統制する為に、幕府の指導により、あちこちで作らせていたようです。

徳積善太  
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2008年05月22日

江戸時代後期の雅楽の楽譜

本日、大変珍しいものを発見しました。
江戸時代後期に活躍した、旦那衆、桐山力所という人の、天保二年に授与された雅楽の譜面です。


桐山力所という人は、人物辞典によれば
「きりやま・りきしょ 文化7(1810)~安政5(1858)12.16
郷土史家。高山二之町生まれ。浄所の子。幼名は左六、後に新兵衛、新五郎、晩年は新五兵衛。
名は震。字は尉敦。通称を勘兵衛。家を倘徉園と号する。赤田章斎の門に入り詩文をよくする。
書・絵画・雅楽・茶道に通じ門人が多かった。晩年は家を中所に譲り、京都の小野宮増護大僧正
の門に入って、当時の町民としては最高の桐香院敦公法橋力所大居士の法号を受ける。
著書『飛騨遺乗合府』『飛騨群鑑』『飛州志拾遺』」

となっています。高山の豪商桐山家の1人として活躍した方で、雅楽をおそらく国学者 田中大秀に学び、
江戸時代後期に田中大秀の雅楽社中で演奏していた方です。

ところで、この雅楽の譜面は、笙の譜面で、平調(ひょうじょう)17曲、壱越調(いちこつちょう)13曲、
雙調(そうじょう)13曲、黄鐘調(おうしきちょう)9曲、盤渉調(ばんしきちょう)8曲、太食調(たいしきちょう)10曲
の合計70曲を納めた物です。

今まで、飛騨の江戸時代の雅楽は、写本をしなければいけないために、一般には、数曲しか伝授されて
いないものと考えておりましたが、これによると、田中大秀が、京都の近衛家より、殆んど全曲を伝授して
きたという証拠になります。

飛騨春秋用に書いていた原稿を書き直さなければいけない大発見でした。

徳積善太  
Posted by rekisy at 22:31Comments(0)TrackBack(0)民俗について

2008年05月21日

馬場町界隈

馬場町は、もともとお城の馬場があったことから、この名がつけられました。

今でも、歩いてみると、雰囲気のいい面白いものが見つかります。


広田古物さんの前にある、石の道しるべ。
「左 御坊さま、右 城山みち」と書いてあります。


えび坂をあがったところにある、後藤醤油店
私の同級生の家ですが、私が小学校のときから、ぜんぜん変わっていません。
暖簾がかなり古ぼけてしまいました。


店内に飾ってある醤油のビン。昭和のはじめころまで、こういった陶器のものが主流でした。
お酒のボトルも同じ形のもので、飛騨で焼かれていたそうです。


料亭角正の店構え

ここも昔から、変わっていません。洲さき、萬代、月波楼、金亀館といえば、高山の
五大有名料亭でした。時代の波とともに、高級料亭も姿を消しつつあります。


現在、角正さんは、高山市の指定文化財として登録されています。

こちらの庭を一度ゆっくり眺めてください。
町の中に、すばらしい空間が広がっています。

徳積善太


  
Posted by rekisy at 21:00Comments(4)TrackBack(0)調べていること

2008年05月20日

高山のミニチュア屋台1

高山の家庭にある、ミニチュア屋台は、高山祭りのものを模したものと、そうでない
オリジナルのものがあります。


下二之町の柴田商店さんのものは、大工さんが作ったオリジナルの屋台です。

昔の旦那衆の「遊び」の一つとして、こういった巨費をかけた創意工夫があったんですね。
500万円もかけて、作られた屋台とのことです。


徳積善太
  

2008年05月19日

5月19日放送分 古川の城下町を作ったとき

みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号 
私 ながせきみあきがお届けします。

さて、飛騨の山々もだんだん新緑が濃くなってきました。私は、この時期が一年の中で一番好きです。
木々の芽や植物が一斉に大きくなり、何か自然のパワーを感じますね。

再三お知らせしておりますが、この番組の原稿は、ひだっちブログのほうに掲載しております。どうぞご覧
下さい。また、原稿以外にも、私のお調べしたことを掲載しております。最近、高山祭りや飛騨総社の祭り
提燈について掲載しましたら、たくさんの方からアクセスをいただきました。提燈となりますと画像がつきもの
ですから、どうしてもラジオではご紹介できませんので、話ではわかりにくいのですが、画像ですと一目瞭然
です。
おそらく、全部で300種類くらいあるのではないでしょうか。あちこちにお邪魔して撮影した写真の数々とその
意味について、お知らせしていますので、ご覧下さい。将来的には、一冊の本にまとめたいなと思っています。

さて、今日は、第三週目ですので、古川のことについてお話したいと思います。が、その前に、先週の放送で
お知らせした事を一部修正させていただきたいと思います。先週は、高山のまちづくりについて、金森長近公が
高山の城下町を創った事についてお話しました。その中で、まず、願生寺由来記にあった高山の城下町形成の
話ですが、慶長7年と申上げましたが、記録では、慶長10年でした。
ということは、天正16年から、19年の歳月をかけて作られた町ということになります。それともう一つ、江名子川
の流れを改修したことですが、これについては、飛騨大野郡史という本がありまして、そちらには、元和9年(1623)
に改修されたとあります。そうすると、さきほど申上げた慶長10年より18年後のことになります。

もし、こちらの記述を採用したとすると、天正16年から35年をかけて作られたということになります。どちらが
正しい記述なのかは、見たわけではありませんのでわかりませんが、いずれにしても、高山の現在の町は、
20年以上の歳月をかけて作られたことは明らかです。

金森長近が作った越前大野の町がほぼ3年、金森可重が作った古川の町が2年くらいということを考えると、
高山の町は、どちらかというと、最初の基盤が作られた後に、どんどん成長していったと考えた方がよろしいの
かもしれませんね。

さて、それでは、話を古川の話に戻しましょう。願生寺由来記に面白い記述を見つけました。古川の町が形成
されるころの逸話がそこには書かれています。その中から、要約してお伝えしましょう。

願生寺由来記の表紙

まず、金森氏が飛騨を天正十四年に平定したあと、飛騨一国を知行地として与えられます。
将軍秀吉にもそのことは報告されるのですが、攻め滅ぼした三木氏の城=松倉城は、石垣のみならず天守閣も
破却したということが報告されます。
実際、藤瀬新造という人を謀略によって味方にし、城の内側から火をかけることによって総攻撃を仕掛け、松倉
城は落城しますから、それはそれは、見るも無残な姿だったことでしょう。

そんなこともあって、当初、長近は、一旦、鍋山の城に住むわけですが、やはり鍋山の城下は狭いばかりでなく、
風水上もあまりよろしくなかった事もあってか、現在の城山の地を中心とした城下町の形成を決断します。

国中の人を集めて、山を削らせ、削った跡地には二の丸、三の丸の敷地を作ります。その土砂を埋めたところには、
照蓮寺の敷地とします。その間は広々とした平地にならし、大馬場にして侍屋敷を作り、西に下がったところには、
越前大野のように一番町、二番町、三番町という町にします。照蓮寺は、かねてから約束の通り、城の大門と寺の
大門を向かい合わせた形に形成されます。それが、高山の城下町の形成でした。
あれ、高山の話になってしまいました。ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は、小坂明子で「恋におちて」

今日は、高山・古川の城下の作られたときの話を願生寺由来記をもとにお話しています。

さて、その城下町が形成されるときですが、城主の長近は、ほとんど高山におられませんでした。
彼は秀吉の側近、すなわちお話衆として、常に将軍のそばにいて、お城に呼び出されることが多かった為に、
伏見の城下におられました。お話衆というのは、将軍の相談役というような役割の人でした。

長近は、城下町の形成を部下に任せ、養子の可重には、荒城郷六郷を与えていました。本来、大殿が留守の間に、
息子が城下町形成の指揮を執るべきところですが、可重はこれに関わることなく、古川の蛤城に籠り、自分の知行
として与えられた城下町を作る事に専念していました。まず、彼は自分の実父が美濃の樽井にいたので、古川へ
呼んで唐松の舘というところに入居させました。これが、後に林昌院殿と呼ばれました。

可重は、城郭を作るに当って、「これからは鉄砲の戦が多いから、それに備えた城を作らないといけない」と考え、
増島野というところに城を建てることにしました。東はふけ沼田。南西は、流れ川を要害に定めて、川岸は土居、
その内側は百間の大堀。東北のほうも大堀の構えを作りました。西の寺大門の囲みの内側には、12間に8間の
大広間を立て、天守閣は平地に高く作らせました。


(画像提供:金森戦記=ryoさん)

そのような忙しい中で、秀梅という禅僧を招き呼びよせ、城郭へ流れる溝の上に林昌寺を建て、これが後に父親の
菩提所としてなった林昌寺です。

大手の大門より西の手は、大馬場を付け、(現在の瀬戸川のあたりですが)、その左右には侍屋形を作らせました。
そこに作った家来は、原半右衛門、寺戸金兵衛、佐藤彦太夫、手塚弥市右衛門、筧九右衛門、柚原弥五右衛門、
中村兵四郎などという人達でした。

それより西には、北の方へ流れる小さな川をへだてて、一番、二番、三番の町を造り、民衆には蛤の城下から離れて
そこへ移るように命令しました。しかし、民衆は、相次ぐ戦争のために家を建てる資金がなかったのか、はたまた永年
住んだ土地を離れたくなかったのか、誰も移るものはいませんでした。そのときに、滝が端にあった正覚寺(この寺は
のちの円光寺の前身ですが)が、本光寺の対岸あたり、現在の八ツ三館の旧館のあたりへ、とりあえず仮のお堂を
建てて移り、民衆の率先となりました。可重はこのことを大変喜んで、杉板三百枚を褒美として正覚寺に遣わしました。

このことがきっかけとなって、自分達の菩提寺が移ったのなら、自分達もというわけで、民衆が蛤城下から、新しい町の
ほうへ引越しを始めました。時は、天正17年(1589)のことです。

こういうこともあって、可重は民衆の機嫌をとったのか、町名も以前の蛤城下のまま、古川という地名を使ったということ
です。

ところで、城郭の普請は、昼夜をとわず続けられ、夜は女房達にたいまつを灯させ、堀を掘り、石を築かせました。
しかし、そうこうしているうちに普請は中止となりました。なぜなら「長近公は一向に大阪から戻られない上に、出家の
身となり、領地もすべて可重君へ渡されてしまった。」という話が伝わり、可重公自身も高山に御在城ということが
決まったからです。
いう事を聞かなくなった民衆を動かす為に、普請奉行は大変だったということです。こんなことが願生寺由来記に
書かれています。図書館の高山別院史にありますので皆さんも一度ご覧下さい。

さて、今日も時間となりました。来週は、第四週目ですので、飛騨の匠の話、明治時代に作られた日下部邸と
吉島邸のお話をします。今日は、この曲でお別れです。曲は「浜田省吾でもう一つの土曜日」ではまた来週。

徳積善太  
Posted by rekisy at 20:00Comments(2)TrackBack(0)毎週の放送内容

2008年05月18日

飛騨から江戸まで



飛騨から江戸まで、どのようなルートで行ったのか、調べてみました。

嘉永6年に高山で発行された地図をみせていただきました。

それによると、高山を出発して1)野麦峠、2)日和田、3)下呂~付知~中津川の3ルートがあり、
そこから、中仙道を通っていくルートがあることがわかりました。

今のように、下諏訪から甲府方面に抜けるルートではなくて、軽井沢から大宮~板橋といった
ルートを通って行ったようです。

この詳しいお話は、放送でお伝えいたします。

徳積善太
  
Posted by rekisy at 21:00Comments(4)TrackBack(0)街道について

2008年05月17日

錦山について2

錦山について、先日お伝えしましたが、守ケ洞というところに、登山口があります。


守ケ洞という場所は、錦町の一番奥のところ、になります。

地図では、見にくいですが、一番真中の道の突き当たりになります。

入り口には、こんな看板があります。


最初に見えてくるのは、不動様です。


もう少し上ると、お地蔵様がたくさんあります。


途中まであがりましたが、崖が崩れていて、今回は登山をあきらめました。

徳積善太  
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2008年05月16日

錦山神社について2

錦山神社は、高山の城山の東側にありますが、まるで城壁のような石垣が特徴です。



これって、ひょっとして、有事のときには、この建物にこもって、敵の侵入を防ぐ城壁
だったのではないでしょうか?

真実は、謎に包まれたままです。

徳積善太

  
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2008年05月15日

錦山神社

高山の東山の南端、江名子との境目のところに、錦山神社があります。


その由緒について、「大野郡神社明細帳」と「飛州志」「飛騨国中案内」 「飛騨遺乗合府」には、
下記のように記されています。

錦山神社の縁起
大名田村江名子稲荷平
村社 錦 山 神 社
一、祭 神
物部(もののべ)弓削(ゆげ)守屋大連(もりやのおおむらじ)

倉稲(うがの)魂神(みたまのかみ) 火産(ほむす)霊神(びのかみ)

一、由 緒
慶長年間 当国の領主 金森可重再営し、改めて山城国に坐 稲荷大神を勧請し崇敬ありしに
(里人は其頃より本社をいわず稲荷とのみ云いし由)元禄元戊辰年に至り、当国の領主金森頼時、
故有て上ノ山に遷坐す云々とあり、故に当社を里人は奮稲荷社とも称せしを、明治三年丁卯四月
錦山神社と改称せらる。
相殿火産霊神の勧請来由不詳、古来当組及高山町の村社也、
一、 本殿間敷 縦五尺 横五尺
一、 幣殿間敷 縦四間 横三間
一、 境内坪数 百九十四坪
一、 境内神社 二社
春日神社
祭神 武甕突(たけみかづ)智神(ちのかみ)(経津(ふつ)主神(ぬしのかみ)) 天兒(あまのこ)
        屋根(やねの)命(みこと)(姫神)
由緒 当社は高山町大隆寺の鎮守にて天保十一年庚子五月創立する処なり、明治元年
        戊辰六月当地に遷し奉り、錦山神社の末社とす。
保食神社
祭神 宇氣母智神
由緒 当社も高山大隆寺の鎮守にて創立未詳、明治元年戊辰六月当地に遷し奉りて
      錦山神社の末社とす。 〔以上 大野郡神社明細帳〕

金森可重 慶長年間、江名子村守屋の地に、稲荷神を勧請す。
錦山稲荷宮 灘郷江名子村錦山の麓にあり、里人曰、往古は同村守屋の社地にあり、後此地に移す。来由未詳。
〔以上 飛州志〕

別 当 金 剛 院
江名子村、稲荷大明神境内七畝五歩、合一反四畝十八歩、則別当は真言宗にて金剛院と
いふ近年錦山金剛寺と改む、当山方山伏なり、草創年数不相知候、高山の鎮守、金森家より
建立修覆有之、宮守居地は高山一之町村分なり、此山は権者ケ峰という。〔飛騨国中案内〕

錦山稲荷大明神縁起
錦山稲荷大明神は、禾稷蠶(しびさん)飼(し)を守給ふ御神にして、稲生稲成とも、又位成とも奉称、
日本紀神代上之巻に、倉稲魂命、また保食神とも有之、其神霊の掲焉なること世の人々知る所なり、
抑当社は其来歴久し、往古は纔(わずか)の小祠にしてあれともなきか如し、傳へ聞、むかし三木氏
飛騨の押領使たりし時、江名子村に郷士畑氏某か内に、菅茂源左衛門といふ者一人の娘をもてり、
容色艶美なり、十歳計りより癩病になやみて、巫医に家財を抛て(なげうって)仏神の丹心を尽したりと
いへども其功なし。或時源左衛門其娘を誘ひしるへの方へ趣けるに、錦山の辺にて一人の老翁此娘を
見て曰く、此山に毎夜燈をかヽけなば、此病癒えしと告げるに、源左衛門不審ながら、三年に及まで教の
如く油燈を点しければ年を追て其病癒ける、源左衛門夫より小社を再興しけり、其後金森出雲守可重の
代に、山城国日本惣司稲荷宮より勧請あり、森ケ洞山に鎮座成し奉る、飛州稲荷宮の惣社とし給ひ別当
修験宗金剛院に被命、天下太平、国家安全、五穀成就、蠶飼満足の祈り、春秋の御祭礼怠ることなかりき、
斯て凡百年の後邦君頼時公、御霊夢に依て、元禄元年七月、当山御遷宮御造営被成ける、其武誠に
厳重なり、特に
影うつす山のにしきも明らけき神の惠を三つの玉垣
と御詠あり、此時より森ケ洞山を原稲荷宮と申す、此趣は竹渓散人の当社縁起に委しけれども、其記甚だ
繁文にして童蒙に読かたきゆへ、其か十の一を略して後人に知らしむるといふ。
寛永二年乙酉正月 稲荷宮別当金剛院阿闍梨大越家玄祐法印誌
〔以上 飛騨遺乗合府〕

徳積善太  
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2008年05月14日

錦山について

錦山は、735m。高山市内からその姿を見ることができます。


私は、東小学校の卒業生なので、学校時代には、毎日、この山を眺めて勉強しました。
高山の郵便局のあたりから、こんなにはっきりと見えるとは思いませんでした。

実は、錦山と錦山神社について、関係があるのかと思って、調査しました。
関係有りそうでなさそうですので、そのへんがわからず、調査をしておりました。
結論から言うと関係なさそうです。

錦山は霊山となっておりますが、その歴史は確認できる部分では比較的浅く、
昭和28年ごろに正式に霊山となったそうです。
ただし、金森公知行の時代に、水神様を頂上に安置した伝承があり、これが本当だと
すると霊山としての地位は、400年前にさかのぼります。以下、新名藤助さんの孫娘
梅村ちづさんにお聞きした事や、御嶽教の元信者の末裔の方よりお聞きしたことをお知らせします。

現在は、誰も管理されていませんが、戦前に、新名藤助という人が御嶽教の信者で、先達の
位を持っていた。神様を呼び起こすのが先達で、神様が宿り人間の言葉で伝える人を神代
(かみしろ)といった。
ある日、藤助は、「古川へ行って教えを広めるように」との神勅を受け、古川に御嶽教の教会を造り、
古川で教えを広めていた。

歳も取ってきたし、高山で自分だけで御嶽教をやるつもりで、四畳半の小さな道場を高山の島川原町
に造り、自分だけの道場を持った。
以前、製糸業をやっていた関係で、女工さんなどが集まり、四畳半の道場では非常に狭いくらいだった。
近くの岩崎鶴次郎氏(岩崎建具)が神代の資格を持っていたので、一緒にお伺いを立てたところ、
ある日、神勅が下り、「日輪社として勤めよ」との御触れがあった。

そのころには、御嶽教は、高山に3つ道場があり、光明教会、飛州教会(さんまち地区)と飛騨教会
(七日町不動様)があり、日輪教会として4つ目の道場を高山に開いた。ただ、藤助は昭和27年7月1日
に逝去し、彼の死後、残された人達が錦山を霊山として管理するようになった。
この山に登る事で、御嶽山(見る事はできないが)に登山して詣でたことと同じになるというので、
たくさんの信者の方が上るようになりました。
頂上には、金森氏がお祀りしたといわれる水神様など、次ぎの神様がお祀りされています。
1)日輪大神遥拝所、2)御嶽大神遥拝所、3)水神大神、4)中央不動明王尊、5)白川大神、
6)聖観世音菩薩、7)山桜観世音菩薩、8)教会祖霊神碑、9)天荒霊神碑、10)飛鶴霊神碑など

ただし、後を継いだ会長 田中善七氏のご逝去により、その数年後に教会を解散することになり、
後継者もなく現在に至っています。

参道には、天照寺様の所有と言われる観音様があちこちに点在しており、それを信者が数箇所に
まとめて整備したそうです。

麓には、神力不動明王像がありますが、これらのものも信者が管理してきたものだということでした。


江戸時代に、錦山神社の別当として金剛院という山伏が管理する寺院がありましたが、その山伏が
修験道場の山として錦山を使用していたかどうかは、想像の域を出ず、証拠がありません。また、
錦山神社の名称は、明治元年以降に制定されたものですので、直接の関係はなさそうです。

ただし、昨日気がついたのですが、高山駅前、イブの喫茶から見ると、広小路通りから錦山頂上が
正面に見えます。広小路は、北六塗料のあたりで左にカーブしており、喫茶イブのあたりからですと、
ちょうど真正面になります。かつて、田んぼの広がった地域から、正面に見える山に水神を置いたと
なれば非常にうなづける話だと思いました。

徳積善太  
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2008年05月13日

錦山神社の提灯アラカルト2

錦山神社の提灯についてお知らせします。今日は、各町内の提灯です。

最初に、春日町の提灯。

お宮や屋台に使われる鏡を表しています。


こちらは、旧日影町(現在の春日町 大隆寺側)のところの提灯です。
この提灯を見て、思いだしたのは、秋の高山祭りの下一之町~寺内町の提灯と同じことです。
「味楽」と書いてありますが、意味については調査中です。

なぜ、下一之町のと同じなのかは、わかりません。もともとそこの組の方が引っ越されたのでしょうか。
ご参考までに、布袋台の提灯を表示します。

どうです、同じでしょう。


つづいて島川原町。

隣同士で、提灯が異なりますが、これは、島川原町と春日町の境目かもしれません。
ただし、一軒だけ提灯が違うので、おそらく、個人で出されたものでしょう。

島川原町の提灯は、春日町の提灯と同じ、鏡です。
これについて、関係者の方にお聞きしたところ、「昔この区域は高山の56区になっていたので、その
なごりで、提灯が同じなのではないか」とのことでした。

さて、いよいよ、最も提灯のバリエーションが富んだ「堀端町」にまいります。

堀端町1 「明輝」と書いた提灯。堀端町の通り沿い。


堀端町2 桜型の模様の入った提灯。堀端町の護国神社前の通り沿い。


堀端町3 堀端町の裏通りから江名子川にかけての一帯。「献燈」


堀端町4 堀端町の裏通りのところの提灯。鏡ですが、模様が入っています。

堀端町の提灯が異なる事について、地元の方にお聞きした処、どうも班ごとに異なっているようです。
これは、昔、錦山神社の祭礼区域が、火消し組の「東組」だったことと関係あるようで、今でも消防組
が○○分団の第△班となっているように、火消し組の班がわかれていたことによるようです。
なお、桜のマークがありましたが、確か、今の消防のマークは「桜模様」でしたよね。同じです。

最後に、宗猷寺町。

宗猷寺町の宗猷寺下の通りの提灯は、すべて同じですが、傘が異なります。
提灯には、「暉昱」(キイク)=かがやきがあきらかなこと だと思いますが、字体からすると日聿のようにも見えます。
これについては、ご存知の方がありましたらお知らせください。

最後に、私が最も気に入っている提灯。

これは、同じ宗猷寺町の中でも、東橋の東詰の一角、数えてみたら4軒だけがこの提灯です。
この意味が解らないのですが、「適意於国骵」とはどのような意味なのでしょうか。
現在調査中です。もしご存知の方ありましたら、お知らせください。いろいろ聞きましたがわかりません。

徳積善太









  

2008年05月12日

5月12日放送分 金森長近のまちづくり1

みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 
わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。

さて、ゴールデンウィークも終りました。このゴールデンウィークはどこかお出かけになられました
でしょうか?
高山は観光関連の業者の方も多いですから、お仕事だったという方もおられるのではないでしょうか。
そういう方には、お仕事お疲れ様でございました。

今年は、ガソリン代の値下げ、値上げ騒動があって、マイカーの皆さんの財布の紐が大変固いよう
にも思います。三月頃から、観光客は、外国人の方が結構いらっしゃって、日本国内のお客様が
減っているようにも思います。
観光という言葉は、「国の光を見る」という意味があるそうですが、外国人の方が、日本の文化、
とりわけ高山の文化について理解したいというお客様が多くなっているというのは、事実です。
私も、このコーナーを通じて、リスナーの皆様が少しでも高山について、いろいろと知っていただき、
観光客にご説明されるときに、利用していただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

この放送のバックナンバーと、私が調査している内容につきましては、ひだっちブログのほうにも
掲載させていただいていますので、一度ご覧下さい。最近、アクセスが増えてきていまして、
毎日1~200件のアクセスをいただくようになりました。そちらのほうもよろしくお願いいたします。

高山城下町図(文化年間:真蓮寺蔵)

さて、今週は、先週予告いたしましたように、高山のまちづくりについて、振り返ってみたいと思い
ます。
再三、この放送でもお伝えしてまいりましたが、現在の高山という町は、金森長近という武将が、
豊臣秀吉の命を受けて作った城下町です。全国的に見ても、このくらいの城下町というのは、
あちこちにあるのですが、町ぐるみで残っているというところは、非常に稀なようです。
金森氏がこの城下町を作り始めたのは、天正十四年(1586)からのことです。いったい、いつまで
かかってこの城下町が作られたかというと、非常に謎が多く、はっきりした事はわかっていませんが、
高山の岡本町にある願生寺に伝わる「願生寺由来記」によりますと、慶長7年(1602)頃までかかった
と書かれています。それが本当だとすると、実に16年もの歳月をかけて作られた町ということになり
ます。

金森氏が一番最初に、城下町を作ろうと思ったのは、鍋山城下でした。それはすでにそこに鍋山氏の
居城があり、ある程度城下町が形成されていたために、そこをそのまま使おうとしました。しかし、
守備の上では思わしくなかったのか、あるいは、風水上、よくない土地だったのか、結果的には、
古城の天神山を改造して、城下町を作ることにしました。それが、現在の高山の町並みです。

先ず最初に、金森氏が行ったのは、河川の改修でした。宮川はもともと、城山の下あたり、つまり、
現在の上一之町から上二之町にかけて城山に沿って流れていたようですが、その川の流れを変え
ました。現在の枡形橋と中橋の中間のところに、岩が突き出ていて水溜りになっているところがあり
ますが、そこから、現在の真北の方向へ川の流れを変えたそうです。そのため、旧来の川の流れの
あったところには、土砂を埋めて、現在の一之町、ニ之町、三之町を作りました。埋めるための土砂は、
現在の馬場町のあたりが尾根続きになっていましたから、その土砂を使って埋めたといわれています。

土砂を埋めたことで、宮川の流れには、伏流水といって地下水が生まれ、この豊富な地下水を利用して
酒造りや醤油作りがなされたという桐谷先生のお話でしたね。覚えていらっしゃいますか?水がきれい
だったからこそ、いいお酒ができ、城下町に産業が発達したというお話でした。

また、江名子川も流れが現在の八幡のお旅所のあたりから北へ延びていたのを変えて、現在の弥生橋
のところで宮川に合流するようにしました。こうすることによって、高山の城下町がすべて、天然の川を
利用したお堀に囲まれたつくりになったというわけです。

さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。ちょっと懐かしい曲。グレープで「朝刊」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、高山の街づくりについてお話しています。

昔の天神山城は、高山外記という人が居住していたから、高山の名になったということですが、実は
この高山外記という人のことは、よくわかっていません。多賀氏の系列の人とか言われていますが、
いったい、どの史料からそういうことが言われるようになったのか、よくわからない話なんです。

この天神山城は、江戸後期に発行された飛州志という本によると、そのお城の構造が、一番北側に
天守閣、そして南にいくにしたがって、二の丸、三の丸があったと言うことが絵図でわかります。
現在の城山は、天守が一番南にあって、現在の二の丸グランドのところに二の丸。護国神社のところに
三の丸があったようですので、絵図とはまったく逆の形になります。

桐谷先生のお話によりますと、当時は風水を利用して、鬼門の方角に神社などを作ったことを考えると、
天満神社を鬼門の方角とすると、現在の水道山あたりに天神山城があったのではなかろうかというお話
でした。しかし、物証などが発見できない今では、郷土史研究家の皆さんの間でもなぞに包まれている
ようです。

また、高山という名前についてですが、先日、東等寺のご住職さんに、「高山」という地名が書状に出て
くる最初の手紙の写真を見せていただきました。これは、金森長近が書いた書状に初めて書かれた
「高山」の文字ですが、手紙の中に2箇所、「高山」という文字を確認できます。この手紙の年代は、
天正15年頃のことです。このとき以前に現在の場所を高山と読んでいたことは確認できます。しかし、
高山外記という人が活躍したのは、それよりも50年以上も前のことですから、実際に高山と呼ばれた
のはいつなのか。それについてはわかっていません。

最近、郷土史研究家の菅田先生にお会いしてお話を伺うことがありました。先生は、高山別院の建造物に
ついて「あれは、高山城の四の丸だ。石垣も立派だし、要塞としての要素を整えている。」とおっしゃって
いました。確かに、高山別院は、西側も北側も石垣の上に作られていて、城郭と言ってもうなづけるお話
だと思いました。

高山別院裏の石垣 下一之町から写す

以前、この放送でもお話した事がありますが、金森長近という人は、自分の留守の間に、国を守るために、
自分の家来ばかりでなく、浄土真宗を上手く取り入れた人だったようです。高山に入る前には、越前大野の
城主だったことは知られていますが、もともと、越前大野の城主として信長より認定されたときに、越前から
加賀にかけての一向宗、すなわち浄土真宗の門徒による一揆を鎮圧した褒美として知行地を与えられたの
が越前大野でした。

越前大野城(画像提供:金森戦記 RYOさん)

したがって、浄土真宗には、信長も秀吉も非常に手を焼いたことを見ていて、自分の城下町運営の安定の
ために、浄土真宗をうまく自分側に取り入れた人だったようです。高山別院の宝物館に、金森長近が、
白川の照蓮寺にあてた書状が残っています。あれはレプリカで、本物は岡崎の勝蔓寺というところにあり
ますが、浄土真宗を保護する代わりに、自分の知行する飛騨を門徒が盾となって守ってくれるように頼んで
いる内容です。そういう意味では、高山という町を造るときに、城下町としての一面と、お寺の門前町としての
一面を兼ね備えたまちづくりがなされたのではと思います。

事実、高山の城下町が作られる頃には、長近は、生活のほとんどを、伏見城下や大坂城の近辺ですごして
おり、飛騨に戻って生活するという事がありませんでした。お話衆といって、関白秀吉の相談役としておそば
に仕えていた関係上、なかなか飛騨に戻ることはできなかったと思います。あまり知られていませんが、
秀吉の朝鮮征伐の時には、福岡の名護屋というところに陣取っていた時期もあります。

そんなわけで、城下町の整備や知行というものは、養子の可重の仕事でした。飛騨を平定した頃、可重は
古川の増島城主という立場もありましたから、最初は、古川の城主として、そして後には高山の城主として
活動していたわけですが、関が原の合戦や大坂の陣の頃には、可重も金森の一員として出兵を余儀なく
されました。城はあけているわけですから、その留守居役を勤めたのは、家臣であり、浄土真宗の門徒だった
というわけです。

もっとお話したいのですが、このお話の続きはまたの機会にお話したいと思います。
来週は、第三週目ですので古川に関するお話をしたいと思います。

それでは、今日はこの曲でお別れです。曲は石川ひとみで「まちぶせ」。ではまた来週。

徳積善太
  
Posted by rekisy at 20:30Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容