2008年06月30日
6月30日放送分_運材について2
(6月30日)みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、スポーツの祭典がニュースになる季節になりましたね。すでに皆さんの周りでも、子供が
部活動で来週大会があるとか、予選があるとかっていいながら、あちこち飛び回っておられる方も
あろうかと思います。どうぞ、道中の交通安全には充分気をつけてください。
今日の「飛騨歴史再発見」は、先週、お話が出来なかった木材の運材方法について、今日は
時間をかけてたっぷりお話したいと思います。
さて、木の運び出し方ですが、江戸時代の後期に、富田礼彦と言う人が「運材図会」という絵図を
残しています。
これは同じ地役人だった松村梅齋という人に絵を画いてもらって、一連の運材方法を絵画で残されて
います。最近になって、昨年なくなった大野先生が監修されて本として発行されていますので、
大変有名になりましたから、ご覧になった方も多いのではと思います。
しかし、この運材方法は、もっと昔、奈良時代以前より行われていたようですので、それ以前の
ことについての文献は乏しく、正確なところはわかっていないというのが現状です。
奈良時代から江戸時代後期まででも、1000年くらいの歴史がありますから、人々は、いろいろと
工夫をして、運材図会に見られるような形での運材方法を編み出してきたものと思います。
今日は、その運材図会に見られる方法、今から200年前の運材方法について、その中から、
ケヤキの伐りだしについてのお話したいと思います。
まず、木の伐木に関わる人たちを、今では木こりといいますが、木遍に山と書いて「杣(そま)」
とも呼びました。この杣の人たちは、山に入って、下枝を切ったり、間引きをしたりして、木が
ちゃんと生長するように山の管理も行っていました。
彼らは、ある程度育った木を伐りだすのに、まず、山の神様への感謝の念を込めてお祈りを
捧げます。切り出そうとする木の根元のところに、お供えをして、山の恵みに対しての感謝と
仕事の安全を祈願してお祈りをします。
かつては人生50年といわれましたが、最近は日本人も86歳というのが平均余命です。
しかし、木はそれよりももっと長生きです。時には樹齢300年、400年といった木を伐りだす事
だってあります。そうなると、その木を育ててくれた自然への感謝、その木が植えたもので
あれば、木を植えて育ててくれたご先祖への感謝、そういう気持ちが自然と出てこないはずが
ありません。そういったものが山の神信仰となって、杣の人たちに受継がれていました。

お祈りが済むと、先ず最初に、木の株のところに切り込みを入れます。大きな木には斧を
15cm間隔で、周囲ぐるりと入れます。そうしてできたくぼみに、小さなたきぎを詰め、
そこに火をかけます。こうやって火を使うことがケヤキの伐りだしの特徴で、ケヤキは、
高山の屋台などにもあるように、木目が大きくて、一枚板にすると非常にきれいな模様を
見ることが出来ます。しかし反面、木目が大きいという事は、水分をたくさん含んでいる為に、
一度、根元のところで焼いてあげないと、下から上まで乾燥したときに割れが入りやすい
そうです。そのため、杣の人たちは、それを経験でよく知っていて、木の根元を焼く事で、
水分の上昇を抑え、割れが入りにくいように火をかけます。
この火掛の作業は、ケヤキ特有のものですが、現在でも、久々野町と萩原町の境目にある
あららぎ湖から萩原町山之口にかけて行く途中に、このケヤキの火掛の跡を見ることが出来
ます。私も見たのは5年ほど前ですので、もうなくなったかもしれませんが、私が行ったとき
には、たくさんの木株が、真っ黒になって残っていました。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。
曲はおじいさん達には懐かしい曲、欧陽緋緋(オーヤンフィーフィー)で「雨の御堂筋」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、江戸時代の運材方法についてお話しています。
さて、ある程度焼きがはいったところで、今度は本格的に、切り倒す作業に入ります。
杣の人たちが、木に斧で切り込みを入れます。そのときには、山の傾斜、他の木の生え具合
などを見て、どちらの方向に倒せば、一番木が傷みにくいか。また、どの場所なら作業がしや
すいか、などを考えて木を切り倒します。

倒した木は、そのままだと重いので、決められた長さにその場で加工しました。
木を伐るのは、木の成長が止る冬場に行われました。これは、木の状態が冬場の方がいいこと
ばかりでなく、木の運送がしやすいためだったといわれています。切り出した木を、木橇(そり)に
積み、雪の上を曳きました。
人間が一人でひく場合もありますが、大量になると馬に曳かせたようです。
さて、昔は木を運び出すのに、自然の川を使いました。木を伐って丁度いい大きさに、現地で
加工して川流しを行いました。しかし、上流の方は、川といっても小川です。水がそんなに流れて
いるわけではありません。大量の木を一気に流す為には、水が必要です。
そこで、木こりの人たちは堰を造って水をため、水と木を一気に下流へと流しました。
雪どけ時の水は大変冷たいですが水量が多いので木を流すには絶好の条件でした。

ある程度、木ができると、その小川をせき止めた場所まで、運びました。そこでは、2次加工が
されました。裏木曽や飛騨では流すのにちゃんと決められた形があって、大きな木は、皮をはぎ、
中心の芯を取り除いて放射型に伐ります。ちょうど、みかんの皮をむいたときに中の房が現れま
すね。あのような状態にして木の形を整えました。
江戸時代後期になると、この形ではなくて、木を30cm角、15cm角にして、先をとがらせた
ようです。これは、川に流したときに、引っかかりにくくしたことと、水揚げしてから加工をしやすく
したためだそうです。
さあ、水も木も集ると今度は堰を一気に切って、大量の水と大量の材木を一緒に流します。
堰は、いろんな作り方があったようですが、一度壊してしまうと使えなくなるので、大抵は間伐材
(かんばつざい)と石、土、土嚢をうまく組み合わせて、丁度今のダムのような形を作り、真中の
水門を空けて水と木を流す方法や、中央の石の部分を壊して流す方法があったようです。
この方法については、庄川町にある「水の博物館」にて常設展示で見ることが出来ます。
映像と模型で紹介されていますが、堰を切って水を流すときには、実際に大量の水が目の前に
流れてきて、たいへんな迫力がありました。
さて、そうやって、小さな小川から、中流域へと木が流されていきます。
ところで、皆さんご存知のように、飛騨には、中央部分に分水嶺があります。この分水嶺を境に
して、南に流れているのが、長良川と益田川―飛騨川―木曽川の2つのルート。
逆に北方向へ流れる川は、宮川と川上川や高原川から神通川に通るルートと、庄川という2つの
ルートがありました。
この分水嶺を境にする事で、飛騨は、南方山(みなみかたやま)と北方山(きたかたやま)に分け
られていました。
江戸や京都・大坂方面へ材木を出す場合、南方山は、北方山に比べて太平洋に注ぐ分、近い
ですから、北に持っていくより早く大都市へ運ぶ事ができました。
来月は、この点についてお話しする事にしましょう。
さて、今日も時間となりました。
来週は、先月のお話の続き、「高山のまちづくりパート2」をお届けしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は、私の大好きな曲、松田聖子で「瞳はダイヤモンド」
ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、スポーツの祭典がニュースになる季節になりましたね。すでに皆さんの周りでも、子供が
部活動で来週大会があるとか、予選があるとかっていいながら、あちこち飛び回っておられる方も
あろうかと思います。どうぞ、道中の交通安全には充分気をつけてください。
今日の「飛騨歴史再発見」は、先週、お話が出来なかった木材の運材方法について、今日は
時間をかけてたっぷりお話したいと思います。
さて、木の運び出し方ですが、江戸時代の後期に、富田礼彦と言う人が「運材図会」という絵図を
残しています。
これは同じ地役人だった松村梅齋という人に絵を画いてもらって、一連の運材方法を絵画で残されて
います。最近になって、昨年なくなった大野先生が監修されて本として発行されていますので、
大変有名になりましたから、ご覧になった方も多いのではと思います。
しかし、この運材方法は、もっと昔、奈良時代以前より行われていたようですので、それ以前の
ことについての文献は乏しく、正確なところはわかっていないというのが現状です。
奈良時代から江戸時代後期まででも、1000年くらいの歴史がありますから、人々は、いろいろと
工夫をして、運材図会に見られるような形での運材方法を編み出してきたものと思います。
今日は、その運材図会に見られる方法、今から200年前の運材方法について、その中から、
ケヤキの伐りだしについてのお話したいと思います。
まず、木の伐木に関わる人たちを、今では木こりといいますが、木遍に山と書いて「杣(そま)」
とも呼びました。この杣の人たちは、山に入って、下枝を切ったり、間引きをしたりして、木が
ちゃんと生長するように山の管理も行っていました。
彼らは、ある程度育った木を伐りだすのに、まず、山の神様への感謝の念を込めてお祈りを
捧げます。切り出そうとする木の根元のところに、お供えをして、山の恵みに対しての感謝と
仕事の安全を祈願してお祈りをします。
かつては人生50年といわれましたが、最近は日本人も86歳というのが平均余命です。
しかし、木はそれよりももっと長生きです。時には樹齢300年、400年といった木を伐りだす事
だってあります。そうなると、その木を育ててくれた自然への感謝、その木が植えたもので
あれば、木を植えて育ててくれたご先祖への感謝、そういう気持ちが自然と出てこないはずが
ありません。そういったものが山の神信仰となって、杣の人たちに受継がれていました。

お祈りが済むと、先ず最初に、木の株のところに切り込みを入れます。大きな木には斧を
15cm間隔で、周囲ぐるりと入れます。そうしてできたくぼみに、小さなたきぎを詰め、
そこに火をかけます。こうやって火を使うことがケヤキの伐りだしの特徴で、ケヤキは、
高山の屋台などにもあるように、木目が大きくて、一枚板にすると非常にきれいな模様を
見ることが出来ます。しかし反面、木目が大きいという事は、水分をたくさん含んでいる為に、
一度、根元のところで焼いてあげないと、下から上まで乾燥したときに割れが入りやすい
そうです。そのため、杣の人たちは、それを経験でよく知っていて、木の根元を焼く事で、
水分の上昇を抑え、割れが入りにくいように火をかけます。
この火掛の作業は、ケヤキ特有のものですが、現在でも、久々野町と萩原町の境目にある
あららぎ湖から萩原町山之口にかけて行く途中に、このケヤキの火掛の跡を見ることが出来
ます。私も見たのは5年ほど前ですので、もうなくなったかもしれませんが、私が行ったとき
には、たくさんの木株が、真っ黒になって残っていました。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。
曲はおじいさん達には懐かしい曲、欧陽緋緋(オーヤンフィーフィー)で「雨の御堂筋」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、江戸時代の運材方法についてお話しています。
さて、ある程度焼きがはいったところで、今度は本格的に、切り倒す作業に入ります。
杣の人たちが、木に斧で切り込みを入れます。そのときには、山の傾斜、他の木の生え具合
などを見て、どちらの方向に倒せば、一番木が傷みにくいか。また、どの場所なら作業がしや
すいか、などを考えて木を切り倒します。

倒した木は、そのままだと重いので、決められた長さにその場で加工しました。
木を伐るのは、木の成長が止る冬場に行われました。これは、木の状態が冬場の方がいいこと
ばかりでなく、木の運送がしやすいためだったといわれています。切り出した木を、木橇(そり)に
積み、雪の上を曳きました。
人間が一人でひく場合もありますが、大量になると馬に曳かせたようです。
さて、昔は木を運び出すのに、自然の川を使いました。木を伐って丁度いい大きさに、現地で
加工して川流しを行いました。しかし、上流の方は、川といっても小川です。水がそんなに流れて
いるわけではありません。大量の木を一気に流す為には、水が必要です。
そこで、木こりの人たちは堰を造って水をため、水と木を一気に下流へと流しました。
雪どけ時の水は大変冷たいですが水量が多いので木を流すには絶好の条件でした。

ある程度、木ができると、その小川をせき止めた場所まで、運びました。そこでは、2次加工が
されました。裏木曽や飛騨では流すのにちゃんと決められた形があって、大きな木は、皮をはぎ、
中心の芯を取り除いて放射型に伐ります。ちょうど、みかんの皮をむいたときに中の房が現れま
すね。あのような状態にして木の形を整えました。
江戸時代後期になると、この形ではなくて、木を30cm角、15cm角にして、先をとがらせた
ようです。これは、川に流したときに、引っかかりにくくしたことと、水揚げしてから加工をしやすく
したためだそうです。
さあ、水も木も集ると今度は堰を一気に切って、大量の水と大量の材木を一緒に流します。
堰は、いろんな作り方があったようですが、一度壊してしまうと使えなくなるので、大抵は間伐材
(かんばつざい)と石、土、土嚢をうまく組み合わせて、丁度今のダムのような形を作り、真中の
水門を空けて水と木を流す方法や、中央の石の部分を壊して流す方法があったようです。
この方法については、庄川町にある「水の博物館」にて常設展示で見ることが出来ます。
映像と模型で紹介されていますが、堰を切って水を流すときには、実際に大量の水が目の前に
流れてきて、たいへんな迫力がありました。
さて、そうやって、小さな小川から、中流域へと木が流されていきます。
ところで、皆さんご存知のように、飛騨には、中央部分に分水嶺があります。この分水嶺を境に
して、南に流れているのが、長良川と益田川―飛騨川―木曽川の2つのルート。
逆に北方向へ流れる川は、宮川と川上川や高原川から神通川に通るルートと、庄川という2つの
ルートがありました。
この分水嶺を境にする事で、飛騨は、南方山(みなみかたやま)と北方山(きたかたやま)に分け
られていました。
江戸や京都・大坂方面へ材木を出す場合、南方山は、北方山に比べて太平洋に注ぐ分、近い
ですから、北に持っていくより早く大都市へ運ぶ事ができました。
来月は、この点についてお話しする事にしましょう。
さて、今日も時間となりました。
来週は、先月のお話の続き、「高山のまちづくりパート2」をお届けしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は、私の大好きな曲、松田聖子で「瞳はダイヤモンド」
ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太
2008年06月29日
越前大野訪問~大野市の寺町~
先日、ラジオ放送で、越前大野城が作られたときに、高山や古川の町と同じように「風水を考えて
作ったのでは」というお話をしました。
実際、現地に行ってみました。

鬼門の方角に作られた 誓念寺 浄土真宗のお寺

その周囲に集められた浄土真宗のお寺の一つ 長勝寺

そのすぐ南に浄土宗のお寺 善導寺があるのも面白い。浄土宗は、徳川家の宗派。

寺町にある掲示板。この地区には、16カ寺のお寺があり、400年も前から同じ場所で
脈々と法灯を守っておられます。
現在では、石畳の道筋になっていますが、高山が東山に寺院を集めたように、越前大野でも
寺を城下の東側に集めることによって、防御の役目をさせていたことがわかります。
時間がなかったのでゆっくり見ることはできませんでしたが、高山と越前大野、大変よく似た
二つの町は、どちらも金森長近が建設した町です。
またの機会に、時間をとってゆっくりと見たいと思います。
徳積善太
作ったのでは」というお話をしました。
実際、現地に行ってみました。
鬼門の方角に作られた 誓念寺 浄土真宗のお寺
その周囲に集められた浄土真宗のお寺の一つ 長勝寺
そのすぐ南に浄土宗のお寺 善導寺があるのも面白い。浄土宗は、徳川家の宗派。
寺町にある掲示板。この地区には、16カ寺のお寺があり、400年も前から同じ場所で
脈々と法灯を守っておられます。
現在では、石畳の道筋になっていますが、高山が東山に寺院を集めたように、越前大野でも
寺を城下の東側に集めることによって、防御の役目をさせていたことがわかります。
時間がなかったのでゆっくり見ることはできませんでしたが、高山と越前大野、大変よく似た
二つの町は、どちらも金森長近が建設した町です。
またの機会に、時間をとってゆっくりと見たいと思います。
徳積善太
2008年06月28日
越前大野訪問~大野氏歴史資料館~
先日、ラジオの放送原稿を作っていたときに、いろいろとお尋ねした、大野歴史資料館の
岩井先生と、大野市観光課の金森氏にお会いしてまいりました。

大野歴史資料館 遠くに越前大野城が見える。

大野歴史資料館の岩井館長さん(右)と観光課の金森氏
岩井先生は、越前の天台宗研究の第一人者で、大変お寺に関してはお詳しいのですが、
専門が白山信仰と岩佐又兵衛ということで、私も岩佐又兵衛の研究をしている関係で
かなり専門的なお話をうかがうことができました。
金森氏は、名前を聞いて大変驚いたのですが、ご本人は金森の末裔かどうかということは
ご存じなく、おそらく、武生にいた金森左京家の末裔にあたる方ではということを申し上げて
きました。

金森家伝来の甲冑
特別に撮影許可をいただき、いろいろと越前大野で、金森氏に関して調査されていることを
知ることができました。
このブログでは、掲載できませんが、越前大野には、金森に関する資料が乏しく、なかなか
研究が進んでいないというのが現状でした。
また、金森氏は、現在の越前大野の町を造った人ではありますが、天正3年から13年のわずか
10年ほどしかこの地におらず、その後すぐに飛騨に入国したとのことでしたので、地元では、
金森氏の検証があまり行われていませんでした。
そのため、飛騨の歴史研究とはかなり温度差があることもわかりました。
研究者も数名おられたようですが、お亡くなりになって以降は、誰も研究されていないとの事で
残念でしたが、未開の地であることがわかりました。
今後の研究が待たれます。
徳積善太
岩井先生と、大野市観光課の金森氏にお会いしてまいりました。
大野歴史資料館 遠くに越前大野城が見える。
大野歴史資料館の岩井館長さん(右)と観光課の金森氏
岩井先生は、越前の天台宗研究の第一人者で、大変お寺に関してはお詳しいのですが、
専門が白山信仰と岩佐又兵衛ということで、私も岩佐又兵衛の研究をしている関係で
かなり専門的なお話をうかがうことができました。
金森氏は、名前を聞いて大変驚いたのですが、ご本人は金森の末裔かどうかということは
ご存じなく、おそらく、武生にいた金森左京家の末裔にあたる方ではということを申し上げて
きました。
金森家伝来の甲冑
特別に撮影許可をいただき、いろいろと越前大野で、金森氏に関して調査されていることを
知ることができました。
このブログでは、掲載できませんが、越前大野には、金森に関する資料が乏しく、なかなか
研究が進んでいないというのが現状でした。
また、金森氏は、現在の越前大野の町を造った人ではありますが、天正3年から13年のわずか
10年ほどしかこの地におらず、その後すぐに飛騨に入国したとのことでしたので、地元では、
金森氏の検証があまり行われていませんでした。
そのため、飛騨の歴史研究とはかなり温度差があることもわかりました。
研究者も数名おられたようですが、お亡くなりになって以降は、誰も研究されていないとの事で
残念でしたが、未開の地であることがわかりました。
今後の研究が待たれます。
徳積善太
2008年06月27日
越前大野訪問~南専寺~
越前大野では、南専寺さんを訪問しました。

南専寺は、越前大野から東に10kmほど行ったところにあり、昔、教如上人が、石山本願寺の
戦いの後に、諸国を流浪されたとき、飛騨に入る前に立ち寄られたところです。
当時は、天正3年に金森長近が、越前大野を平定し、そこに城下町が作られていました。
長近が、この地を訪問せよと言ったかどうかは定かではありませんが、この地域には、浄土真宗の
信者がたくさんおり、金森氏が信長の命令で、柴田勝家と共に越前の浄土真宗を平定し、そのときに
越前大野地区の2/3を所領としてもらった土地です。
おそらく、長近は、浄土真宗と結託していたからこそ、わずか1年ほどで越前を平定できたものと
思われます。
その土地に、教如上人が、訪問され、蓮如上人の絵像が下賜されています。

また、この南専寺は、井波の瑞泉寺とも関係があり、このお寺から井波の瑞泉寺へ4代目の住職
が行っておられます。
ちなみに、10代目の住職は、金森長近の曾孫 高山城主4代目の頼直の弟であることを、昨年
発見しました。
ということは、金森氏とも何らかのご縁があったと考えても不思議ではありません。
この関係についても、いずれ発表したいと思っています。
徳積善太
南専寺は、越前大野から東に10kmほど行ったところにあり、昔、教如上人が、石山本願寺の
戦いの後に、諸国を流浪されたとき、飛騨に入る前に立ち寄られたところです。
当時は、天正3年に金森長近が、越前大野を平定し、そこに城下町が作られていました。
長近が、この地を訪問せよと言ったかどうかは定かではありませんが、この地域には、浄土真宗の
信者がたくさんおり、金森氏が信長の命令で、柴田勝家と共に越前の浄土真宗を平定し、そのときに
越前大野地区の2/3を所領としてもらった土地です。
おそらく、長近は、浄土真宗と結託していたからこそ、わずか1年ほどで越前を平定できたものと
思われます。
その土地に、教如上人が、訪問され、蓮如上人の絵像が下賜されています。
また、この南専寺は、井波の瑞泉寺とも関係があり、このお寺から井波の瑞泉寺へ4代目の住職
が行っておられます。
ちなみに、10代目の住職は、金森長近の曾孫 高山城主4代目の頼直の弟であることを、昨年
発見しました。
ということは、金森氏とも何らかのご縁があったと考えても不思議ではありません。
この関係についても、いずれ発表したいと思っています。
徳積善太
2008年06月26日
石徹白家の古文書1
石徹白には、12件の石徹白家が存在します。
もともと、石徹白家は、越前朝倉氏の家来でしたが、早くから金森長近の家来となり、代々金森の
家来として石徹白地区を知行していました。
金森が転封になってあとは、代々、白山神社の神主として持ち回りで神官をつとめ、
所領を安堵されてきたそうです。そのため、たくさんの歴史資料が存在しています。

石徹白家の仏壇。
ものすごく大きくて立派な仏壇が掲げられている。中央のご本尊は、お寺に掲げるほどの
立派なもので、ここが在家の道場だったことを示している。

石徹白家に伝わる兜
天正期に戦った武士のもの。かなり古い兜です。

古文書もたくさんあり、中には飛州志に掲載してあるものの原本もありました。
これらの古文書については、これから分析します。
徳積善太
もともと、石徹白家は、越前朝倉氏の家来でしたが、早くから金森長近の家来となり、代々金森の
家来として石徹白地区を知行していました。
金森が転封になってあとは、代々、白山神社の神主として持ち回りで神官をつとめ、
所領を安堵されてきたそうです。そのため、たくさんの歴史資料が存在しています。
石徹白家の仏壇。
ものすごく大きくて立派な仏壇が掲げられている。中央のご本尊は、お寺に掲げるほどの
立派なもので、ここが在家の道場だったことを示している。
石徹白家に伝わる兜
天正期に戦った武士のもの。かなり古い兜です。
古文書もたくさんあり、中には飛州志に掲載してあるものの原本もありました。
これらの古文書については、これから分析します。
徳積善太
2008年06月25日
石徹白の雅楽について
もう一つ、石徹白で、こんなものを見せていただきました。

これは、雅楽の篳篥の「五常楽急」という平調の楽譜で、高山向町の小野儀作という人に伝授されたものです。
伝授した人は、宮中の楽人で安倍季誕と息子の安倍季煕という人です。
この安倍季誕という人は、弘化2年には、古川の信行寺で雅楽を伝授していることが、お寺に伝わる古文書
にてわかっていますが、高山にきていたことを証明する書状です。

古川(信行寺)に伝わる免状
また、小野儀作という人は、高山の節風社という雅楽会を朝戸円鏡氏から受継いだ人で、朝戸氏の古連に対し
新連を組織した人です。
この雅楽については、調査結果をまた発表したいと思っています。
この書状が見つかったことは、大発見でした。
徳積善太

これは、雅楽の篳篥の「五常楽急」という平調の楽譜で、高山向町の小野儀作という人に伝授されたものです。
伝授した人は、宮中の楽人で安倍季誕と息子の安倍季煕という人です。
この安倍季誕という人は、弘化2年には、古川の信行寺で雅楽を伝授していることが、お寺に伝わる古文書
にてわかっていますが、高山にきていたことを証明する書状です。
古川(信行寺)に伝わる免状
また、小野儀作という人は、高山の節風社という雅楽会を朝戸円鏡氏から受継いだ人で、朝戸氏の古連に対し
新連を組織した人です。
この雅楽については、調査結果をまた発表したいと思っています。
この書状が見つかったことは、大発見でした。
徳積善太
2008年06月24日
雅楽について
去る6月18日に、石徹白~越前大野~小松まで調査に行ってきました。
石徹白では、威徳寺へお邪魔しました。

風格のある大変古いお寺でした。
そのとき、石徹白の威徳寺に雅楽の太鼓などがあるのが目に付きました。

この威徳寺の雅楽会は、「節風社」といって、高山にあった節風社とは、由来が同じでした。
威徳寺が、廃仏毀釈のときに、廃寺になりかけていたのを、高山の神通寺のご住職 朝戸円鏡氏
が復興され、ここでお亡くなりになったことがわかりました。
朝戸円鏡氏と言えば、高山の節風社を立ち上げた方です。
その絵像が残されていました。

高山に帰り、神通寺へお邪魔していろいろと伺ったところ、「円鏡という人は、3代前の神通寺の住職で、
現在の住職の曾祖父にあたる人。晩年、威徳寺に行き、そこでなくなった。今でも交流がある。」
とのことでした。
高山の雅楽が、こちらにも波及していたということは、大発見でした。
徳積善太
石徹白では、威徳寺へお邪魔しました。
風格のある大変古いお寺でした。
そのとき、石徹白の威徳寺に雅楽の太鼓などがあるのが目に付きました。
この威徳寺の雅楽会は、「節風社」といって、高山にあった節風社とは、由来が同じでした。
威徳寺が、廃仏毀釈のときに、廃寺になりかけていたのを、高山の神通寺のご住職 朝戸円鏡氏
が復興され、ここでお亡くなりになったことがわかりました。
朝戸円鏡氏と言えば、高山の節風社を立ち上げた方です。
その絵像が残されていました。

高山に帰り、神通寺へお邪魔していろいろと伺ったところ、「円鏡という人は、3代前の神通寺の住職で、
現在の住職の曾祖父にあたる人。晩年、威徳寺に行き、そこでなくなった。今でも交流がある。」
とのことでした。
高山の雅楽が、こちらにも波及していたということは、大発見でした。
徳積善太
2008年06月23日
6月23日放送分_運材について1
(6月23日)みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、サッカーのワールドカップが始りました。それが終ると北京オリンピックです。これから夏場に
かけて、甲子園ですとか、スポーツの祭典がニュースになる季節になりましたね。すでに皆さんの
周りでも、子供が部活動で大会があるとか、予選があるとかっていいながら、あちこち飛び回って
おられる方もあろうかと思います。どうぞ、道中の交通安全には充分気をつけてください。
また、お酒を飲む機会も増えると思いますが、どうぞ、酒気帯び運転、飲酒運転はくれぐれもなさら
ないようにお願い申上げます。
今年に入って、隣の大陸では、5月の始めにミャンマーでのサイクロン被害、四川大地震での
大地震被害など、自然災害が続いています。お亡くなりになった方には、改めて御冥福をお祈り
したいと思います。
さいわい、日本で自然災害がないのがありがたいですが、備えあれば憂い無し。もし、地震に
あったら。台風の被害にあったらどうするか。そういうことを考えて行動することは、必要です。
ちょっとここでお知らせですが、先日、昨年行いました飛騨の匠展のサブ事業、市民勉強会の
記録小冊子が発表されました。私も、谷口与鹿の講演をさせていただきましたので、当日にお話
した内容と、それまで観光協会の広報紙に連載してまいりましたものを一つにまとめて掲載させて
いただきました。
谷口与鹿について、それまで老田先生が書かれたものや、岐阜県が発行した漫画しかありません
でしたが、伊丹に行ってからの与鹿のことや、老田先生がお調べにならなかったことを補稿して
書上げましたので、一度ご覧いただければと思います。
今年の勉強会は7月5日から飛騨センターで始ります。郷土館長の田中館長など3人の方が
シリーズでお話されるようですが、それに申し込みをするとこの本がおまけで着いてくるそうです。
この本について、講演会については、飛騨センターのほうへお問い合わせいただきたいと思います。
その小冊子の中に、現代の匠 高原建設の高原さんの記述があります。大工の組み手について
のことがものすごく詳しく載っています。高原さんがおっしゃっていましたが、「地震のときなどに、
こういった昔ながらの組み手を使っていれば、建物が地震でつぶれるという事はなかった。
ところが、現代の建築物は、組み手などは使わず、ほとんどが釘を打ち付けて止めている建物
だから、どうしても柱と柱の間にはすかいといって、斜めの木組みが必要になる。
しかし、それすら手を抜いて建物が建てられているから、どうしても地震などには弱く、家が倒れて
しまい、たくさんの犠牲者がでるんだ。」ということでした。
確かに、阪神大震災のときも、建物の柱と柱の間に、斜めの「はすかい」というものをつけた
建物や、アメリカで開発されたツーバイフォーの建築物は、倒壊をまぬがれました。
今回の中国の大地震では、建造物のなかでも、小中学校の建造物の倒壊が大きな話題と
なりましたが、大体の建物が柱と天井の枠を作っただけで、壁はレンガを一面に敷き詰めたもの
です。むこうでは、内装は、入居する人が自分でリフォームするという考え方が主流です。
私も以前、海外に住んでいましたときに知ったのですが、中国人の発想では、ブレイクアンドビルド
という考え方ですので、建物にはあまりお金をかけません。日本人のように同じ建物に何年も住む
のではなく、20年くらいすると壊して立て替える。ライフスタイルを新しい生活で行うといった考えが
主流なので、あまり建物にお金をかけず、内装にお金をかける人がほとんどです。
昨年の飛騨の匠展で紹介された、実物の組み手、展示会では仕口となっていましたが、展示され
ている木組みがまるでパズルのようで、なかなか外れませんでした。
そういう日本人の細かい技術があれば、あれだけの死者が出なかったのではと思います。
そういうところに匠の技術は生きているんですね。
あれ、地震の話で済んでしまいましたね。後半は予定のお話をしましょう。ちょっとここでブレイク。
曲は、「イルカで 雨の物語」をお届けします。
さて、今日のお話は、4週目という事で飛騨の匠についてのお話をする週ですが、今日は、江戸時代
の材木の運材方法について、お話したいと思いますが、とても一日でお話できるような内容では
ございませんので、シリーズでお話ししていきたいと思います。
飛騨というところは、金森氏が入国したのが天正十四年で、いまから400年前のことです。
もちろん、それ以前にも、両面宿難の時代があり、飛騨の匠が都へ行ったという話があり、
古代寺院が建造されたなどという話があるわけですが、いつの時代も、注目されていたものが
ありました。それは、「山」です。
山には、豊富な資源としての山林があります。また、掘れば鉱山としての鉱脈があり、金銀銅、
鉄、鉛が取れます。そういう資源が注目されてきたんですね。
なかでも、人間の生活の中で、衣食住は大切な三大要素ですが、日本人は昔からこの住を考えた
ときに、木の建物に住む習慣を持っていました。
そのため、人は、山から木を切り出し、その木を削って建物を作ったり、家具を作ったり、生活の
道具を作ったり、信仰の為の仏像を作ったりしてきました。本当に木は、日本人の生活を豊かに
してきた資源だったんですね。
おそらく、人口の密集地、いわゆる都といわれた地域では、最初は、近くの里山から伐り出した
に違いありません。しかし、木は育てるのに、何年もかかります。一旦伐ってしまうと、もう近くには
ありませんから、どんどん奥山に伐りに行くようになります。そうすると、山奥に行けば行くほど、
今度は持ってくる事を考えなくてはいけない。折角伐った木でも、その場所から都まで運べなければ、
その木はただの倒木になってしまいます。
そんなわけで、人々は自然の川を利用した「運材」ということを考え出したわけです。
また、人が密集すると、火事や地震という災害にあう、被害も多くなってきました。日本人は、
そういった歴史の中で、壊されては建て、また壊されては建て、材木がなくなれば、どこから
持ってくるか=だんだん奥山からということを繰り返してきたんです。
また、木を伐り過ぎてしまえば、今度は水が一気に流れてくるから、水害が起きる。そうして、
また建物が壊されて、また作る。今度は、水害に遭うと困るから、山に植林をして育てることを
考えるようになった。ですから、山と人間の生活というのは、切っても切り離せない、そういう
関係があるのです。
今で言う、「飛騨の匠」というのは、単に木を削って建物を建てる人のことを言うのではなくて、
こういった奥山からいかにして伐った木を運び出すか、そういった技術も含めて、木に関わる
技術を持った人のことを言ったのではないかと思います。
三重大学名誉教授で郷土館名誉館長の八賀晋先生は、昨年の学会での発表の中で、
「両面宿難はそま匠の棟梁だった」ということをおっしゃっていました。飛騨人のもともとの
ルーツは、飛騨の匠に代表されるような、山仕事を最も得意とする民族集団であった。
そういう技術を持っていた人たちの集まりだったから、奈良時代には、非常に重宝されて、
全国の国分寺・国分尼寺の建造に携わるようになり、有名になった。
その時には、これだけの建造物を作るのに、木はどのくらい必要か。これだけの材料を
どこから伐りだすか。どうやって持ってくるか。どのくらいの人足が必要か。
そういうことができる技術者集団が飛騨の匠だったということです。
さて、今日も時間となりました。このお話は次回から具体的にお話しすることにしましょう。
来週は、今日のお話の続きをお届けしたいと思います。今日はこの曲でお別れです。
曲は「ツイストで 燃えろいい女」
ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、サッカーのワールドカップが始りました。それが終ると北京オリンピックです。これから夏場に
かけて、甲子園ですとか、スポーツの祭典がニュースになる季節になりましたね。すでに皆さんの
周りでも、子供が部活動で大会があるとか、予選があるとかっていいながら、あちこち飛び回って
おられる方もあろうかと思います。どうぞ、道中の交通安全には充分気をつけてください。
また、お酒を飲む機会も増えると思いますが、どうぞ、酒気帯び運転、飲酒運転はくれぐれもなさら
ないようにお願い申上げます。
今年に入って、隣の大陸では、5月の始めにミャンマーでのサイクロン被害、四川大地震での
大地震被害など、自然災害が続いています。お亡くなりになった方には、改めて御冥福をお祈り
したいと思います。
さいわい、日本で自然災害がないのがありがたいですが、備えあれば憂い無し。もし、地震に
あったら。台風の被害にあったらどうするか。そういうことを考えて行動することは、必要です。
ちょっとここでお知らせですが、先日、昨年行いました飛騨の匠展のサブ事業、市民勉強会の
記録小冊子が発表されました。私も、谷口与鹿の講演をさせていただきましたので、当日にお話
した内容と、それまで観光協会の広報紙に連載してまいりましたものを一つにまとめて掲載させて
いただきました。
谷口与鹿について、それまで老田先生が書かれたものや、岐阜県が発行した漫画しかありません
でしたが、伊丹に行ってからの与鹿のことや、老田先生がお調べにならなかったことを補稿して
書上げましたので、一度ご覧いただければと思います。
今年の勉強会は7月5日から飛騨センターで始ります。郷土館長の田中館長など3人の方が
シリーズでお話されるようですが、それに申し込みをするとこの本がおまけで着いてくるそうです。
この本について、講演会については、飛騨センターのほうへお問い合わせいただきたいと思います。
その小冊子の中に、現代の匠 高原建設の高原さんの記述があります。大工の組み手について
のことがものすごく詳しく載っています。高原さんがおっしゃっていましたが、「地震のときなどに、
こういった昔ながらの組み手を使っていれば、建物が地震でつぶれるという事はなかった。
ところが、現代の建築物は、組み手などは使わず、ほとんどが釘を打ち付けて止めている建物
だから、どうしても柱と柱の間にはすかいといって、斜めの木組みが必要になる。
しかし、それすら手を抜いて建物が建てられているから、どうしても地震などには弱く、家が倒れて
しまい、たくさんの犠牲者がでるんだ。」ということでした。
確かに、阪神大震災のときも、建物の柱と柱の間に、斜めの「はすかい」というものをつけた
建物や、アメリカで開発されたツーバイフォーの建築物は、倒壊をまぬがれました。
今回の中国の大地震では、建造物のなかでも、小中学校の建造物の倒壊が大きな話題と
なりましたが、大体の建物が柱と天井の枠を作っただけで、壁はレンガを一面に敷き詰めたもの
です。むこうでは、内装は、入居する人が自分でリフォームするという考え方が主流です。
私も以前、海外に住んでいましたときに知ったのですが、中国人の発想では、ブレイクアンドビルド
という考え方ですので、建物にはあまりお金をかけません。日本人のように同じ建物に何年も住む
のではなく、20年くらいすると壊して立て替える。ライフスタイルを新しい生活で行うといった考えが
主流なので、あまり建物にお金をかけず、内装にお金をかける人がほとんどです。
昨年の飛騨の匠展で紹介された、実物の組み手、展示会では仕口となっていましたが、展示され
ている木組みがまるでパズルのようで、なかなか外れませんでした。
そういう日本人の細かい技術があれば、あれだけの死者が出なかったのではと思います。
そういうところに匠の技術は生きているんですね。
あれ、地震の話で済んでしまいましたね。後半は予定のお話をしましょう。ちょっとここでブレイク。
曲は、「イルカで 雨の物語」をお届けします。
さて、今日のお話は、4週目という事で飛騨の匠についてのお話をする週ですが、今日は、江戸時代
の材木の運材方法について、お話したいと思いますが、とても一日でお話できるような内容では
ございませんので、シリーズでお話ししていきたいと思います。
飛騨というところは、金森氏が入国したのが天正十四年で、いまから400年前のことです。
もちろん、それ以前にも、両面宿難の時代があり、飛騨の匠が都へ行ったという話があり、
古代寺院が建造されたなどという話があるわけですが、いつの時代も、注目されていたものが
ありました。それは、「山」です。
山には、豊富な資源としての山林があります。また、掘れば鉱山としての鉱脈があり、金銀銅、
鉄、鉛が取れます。そういう資源が注目されてきたんですね。
なかでも、人間の生活の中で、衣食住は大切な三大要素ですが、日本人は昔からこの住を考えた
ときに、木の建物に住む習慣を持っていました。
そのため、人は、山から木を切り出し、その木を削って建物を作ったり、家具を作ったり、生活の
道具を作ったり、信仰の為の仏像を作ったりしてきました。本当に木は、日本人の生活を豊かに
してきた資源だったんですね。
おそらく、人口の密集地、いわゆる都といわれた地域では、最初は、近くの里山から伐り出した
に違いありません。しかし、木は育てるのに、何年もかかります。一旦伐ってしまうと、もう近くには
ありませんから、どんどん奥山に伐りに行くようになります。そうすると、山奥に行けば行くほど、
今度は持ってくる事を考えなくてはいけない。折角伐った木でも、その場所から都まで運べなければ、
その木はただの倒木になってしまいます。
そんなわけで、人々は自然の川を利用した「運材」ということを考え出したわけです。
また、人が密集すると、火事や地震という災害にあう、被害も多くなってきました。日本人は、
そういった歴史の中で、壊されては建て、また壊されては建て、材木がなくなれば、どこから
持ってくるか=だんだん奥山からということを繰り返してきたんです。
また、木を伐り過ぎてしまえば、今度は水が一気に流れてくるから、水害が起きる。そうして、
また建物が壊されて、また作る。今度は、水害に遭うと困るから、山に植林をして育てることを
考えるようになった。ですから、山と人間の生活というのは、切っても切り離せない、そういう
関係があるのです。
今で言う、「飛騨の匠」というのは、単に木を削って建物を建てる人のことを言うのではなくて、
こういった奥山からいかにして伐った木を運び出すか、そういった技術も含めて、木に関わる
技術を持った人のことを言ったのではないかと思います。
三重大学名誉教授で郷土館名誉館長の八賀晋先生は、昨年の学会での発表の中で、
「両面宿難はそま匠の棟梁だった」ということをおっしゃっていました。飛騨人のもともとの
ルーツは、飛騨の匠に代表されるような、山仕事を最も得意とする民族集団であった。
そういう技術を持っていた人たちの集まりだったから、奈良時代には、非常に重宝されて、
全国の国分寺・国分尼寺の建造に携わるようになり、有名になった。
その時には、これだけの建造物を作るのに、木はどのくらい必要か。これだけの材料を
どこから伐りだすか。どうやって持ってくるか。どのくらいの人足が必要か。
そういうことができる技術者集団が飛騨の匠だったということです。
さて、今日も時間となりました。このお話は次回から具体的にお話しすることにしましょう。
来週は、今日のお話の続きをお届けしたいと思います。今日はこの曲でお別れです。
曲は「ツイストで 燃えろいい女」
ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太
2008年06月22日
小島城跡5
こんな急斜面にも、堀切があったそうです。
(私には、単なる崖にしか見えませんでした)
ところが、ところどころ、道のようになっているところは、堀切といって、わざとくぼみを
作ったものだったそうです。そこに、土塁を築いて、そこに兵隊が待ち伏せし、下から
敵が上がってくると、石を落としたり、木を落としたり。
こんな急斜面で、上もろくずっぽ見えないのに、いきなり石や丸太が落ちてきたら、
敵もよけきれずに下に落ちていきますよね。
そこが防ぎきれなくなると、今度は、上の堀切に移って、同じことを繰り返したようです。
しばらく行くと、「石切場」がありました。
なるほど、ここから、城の上のほうへ、石を運んだんですね。
ここの石は、泥岩質・砂岩質の石で、比較的まっすぐに割りやすかったようです。
そのため、急な場所でも、ちゃんと切って積み上げることができたようですね。
昔は、石は切るのではなくて、楔を入れて割ったようですから、こういう石が存在したことも
城作りには大切な要素だったんでしょうね。
テレビ塔のところで小休止。当日は、お年寄りの方も見えましたが、がんばって登っておられました。
川上先生も、お年ですが、「楽しい」を連発されていました。
それにしても、単なる山と思ったところが、実は城跡で、城跡にはいろんな敵を防ぐ工夫が
なされていたこと。たいへんな驚きでした。
皆さんも機会がございましたら、車でも上がれますので、上がってみてください。
小島城跡(完)
徳積善太
2008年06月21日
小島城跡4
帰りは杉崎口から降りることになりました。
この城は、西側の沼町口、東側の太江口、北側の杉崎口の3つの上り口があり、
どの場所からも、頂上まではたいへんに険しい山城となっています。
何の変哲もない、山のように見えますが、ここが見張り台、だそうです。
私には、普通の山にしか見えませんでした。(^^;;;)
ちゃんと、その下には、石垣がありました。
砂岩質の石でできていますが、どこからこのような岩を持ってきたのでしょうか。
それにしても、こうして、こんな高いところへ積み上げるだけでも、ものすごい労力です。
道なきところを降りていくと、ちゃんとその下にも石垣らしき痕跡がありました。
かなり崩れていますね。
その石垣は、ずっと下のほうまで続いていました。
この写真、撮影するのに大変でした。木につかまりながら、降りていきました。
斜度は、40度くらいあったでしょうか。杉葉が生い茂っているので、ちょっと間違うと
すぐに滑ってしまうような足場でした。もう二度と行けないでしょう。
それにしても、昔の人は、よくこんな急斜面に、こんなに大きな石を運んだものだと
感心しました。だって、まっすぐに立っていられない場所ですよ。
ちょっと開けたと思ったら、素晴らしい眺め。
袈裟丸方面が見事に一望できました。
やっぱり、こういう見晴らしのいいところに、お城を作ったんですね。
徳積善太
2008年06月20日
小島城跡3
小島城の頂上からは、このようになっています。
現在では、建物が建てられていますが、昔はただ陣を張っただけのものだったに違いありません。
いや、このような建物があって、殿様が雨露をしのいだかもしれませんねえ。
まさに歴史ロマンです。
頂上の城跡にあった石碑。昭和31年に建立と書かれています。
一番頂上の一の郭のあった場所。
すごく狭い場所でした。幅10m四方くらいでしょうか。
ただ、ここからの眺めがものすごく素晴らしかったです。
南方向を見ると、古川の町が一望できます。
ちょうど、この先に見えるのが、蛤城跡(古河城)です。
北方向を見ると、袈裟丸の町並みとその向こうに向小島城が見えます。
まさに、交通の要害といえます。
徳積善太
2008年06月19日
小島城跡2
先日6月1日に、小島城の見学ツアーがあり、参加してきました。
「飛騨に誇りをもとう会」という会の主催で、約20名が参加されました。
各務ヶ原の古城研究家 熊沢先生による大変詳しい解説つきのツアーで、中世の城が
どのように作られていたか。などの詳しい解説がありました。
小島城の郭配置図
この山城は、尾根に沿って作られており、中央の一番高いところに一の郭(くるわ)があり、
お殿様がここに陣取っておられました。
その下のところには、二の郭、三の郭があり、武者走り(=伝令が走る場所)や、曲輪(まげわ=
家来が敵を待ち伏せした場所)、堀切(空掘り。ここに人を落としたところへ、石や弓を投げた)
などが配置されています。
空堀の跡
一見すると、何の変哲もない、山ですが、古城研究者が見るとぜんぜん違います。
確かに、言われてみると、そうかなと思う程度ですが、昔はこのように木など生えていません
でした。そう考えると、この急峻な谷を登ってくるのは至難の業です。
ところどころ、縦堀があったらしく、谷に向かって線になっていることがわかります。
徳積善太
2008年06月18日
小島城跡1
姉小路氏は、金森が入国するずっと以前、建武の新政で、後醍醐天皇から飛騨の国司として
任命されました。
以来、三木氏によって、滅ぼされるまで、ずっと飛騨の国司を勤めていました。

その居城となったのが、小島城です。
普段は、山ノ下の居館に居を構えていましたが、有事の際には、城に立てこもって、
敵の攻撃を防ぎました。
古川町太江にある看板には、このように書かれています。

「県指定史跡 小島城跡 昭和34年11月16日指定
飛騨国司姉小路家、その一族小島氏が代々居城とした城で、応永18年(1411)に四代目
国司尹綱(ただつな)がこの城を守り、幕府派遣の大軍と戦って戦死したと伝えられて
いる。その後、天正13年(1585)8月金森長近によって滅ぼされた。
城郭は山の尾根に沿い、ほぼ東西方向に細長く構築されており、三ヶ所ある平場のうち、
東端の頂上部が主郭と考えられる。
越中西街道と神岡街道とに挟まれた標高630mにあるこの城は、越中あるいは高原郷
からの敵の侵入を防ぐのには、恵まれた位置にある。
平成18年3月 飛騨市教育委員会」
この表記の中で、二箇所、疑問の部分があります。
1)応永18年にこの城で戦死した・・・諸説あります。
2)金森によって滅ぼされた・・・・・・・諸説あります。
三木氏によってというのが有力。金森は確かこの城は攻めていません。
この点については、諸先生のご指摘をいただきたいと思います。
徳積善太
任命されました。
以来、三木氏によって、滅ぼされるまで、ずっと飛騨の国司を勤めていました。

その居城となったのが、小島城です。
普段は、山ノ下の居館に居を構えていましたが、有事の際には、城に立てこもって、
敵の攻撃を防ぎました。
古川町太江にある看板には、このように書かれています。

「県指定史跡 小島城跡 昭和34年11月16日指定
飛騨国司姉小路家、その一族小島氏が代々居城とした城で、応永18年(1411)に四代目
国司尹綱(ただつな)がこの城を守り、幕府派遣の大軍と戦って戦死したと伝えられて
いる。その後、天正13年(1585)8月金森長近によって滅ぼされた。
城郭は山の尾根に沿い、ほぼ東西方向に細長く構築されており、三ヶ所ある平場のうち、
東端の頂上部が主郭と考えられる。
越中西街道と神岡街道とに挟まれた標高630mにあるこの城は、越中あるいは高原郷
からの敵の侵入を防ぐのには、恵まれた位置にある。
平成18年3月 飛騨市教育委員会」
この表記の中で、二箇所、疑問の部分があります。
1)応永18年にこの城で戦死した・・・諸説あります。
2)金森によって滅ぼされた・・・・・・・諸説あります。
三木氏によってというのが有力。金森は確かこの城は攻めていません。
この点については、諸先生のご指摘をいただきたいと思います。
徳積善太
2008年06月17日
さんまちの馬つなぎ
高山の古い町並み 船坂酒造の前と原田酒造の前にこんな、鎖があります。

船坂酒造の馬つなぎ

原田酒造の馬つなぎ
これは、「馬つなぎ」といって、昔、ぼっかの人たち(=運送業)の方々が、仕事を終え、
家に帰る前に一杯やるために、ここに馬をつないで、店内に入り、お酒を召し上がったという
ためのものです。
昔の酒屋では、量り売りといって、今のように一升瓶などのビンに入っているのではなく、
その店先で好きなだけ飲むという状態でした。
いわゆる、今で言う居酒屋ですね。
きっと夕方頃になると、たくさんの人が酒屋の前で馬をつないで、情報交換をしたり
仕事の愚痴などを聞いてもらったりしたことでしょう。
徳積善太
船坂酒造の馬つなぎ
原田酒造の馬つなぎ
これは、「馬つなぎ」といって、昔、ぼっかの人たち(=運送業)の方々が、仕事を終え、
家に帰る前に一杯やるために、ここに馬をつないで、店内に入り、お酒を召し上がったという
ためのものです。
昔の酒屋では、量り売りといって、今のように一升瓶などのビンに入っているのではなく、
その店先で好きなだけ飲むという状態でした。
いわゆる、今で言う居酒屋ですね。
きっと夕方頃になると、たくさんの人が酒屋の前で馬をつないで、情報交換をしたり
仕事の愚痴などを聞いてもらったりしたことでしょう。
徳積善太
2008年06月16日
6月16日放送分_古川のまちづくりについて2
<6月16日放送分>みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、6月も第三週に入りました。だんだん暑くなってきましたねえ。いつもなら梅雨の時期ですが、
今年は梅雨らしい梅雨ではないような気がします。梅雨の時期ですと洗濯物が乾きにくいとか、
押入れの壁が結露するとか、主婦泣かせの時期でもございますが、奥様方は大変ご苦労様です。
そんな時期ですから、たまにはちょっと手を休めていただいて、自分達の住んでいるところが、
どういうところなのか、考えていただいては、いかがでしょうか? この放送は、皆様に開かれた
番組をこころがけておりますので、番組に対する要望、調べてほしい事、近くにこんなものがあるん
だけど何だろうなどということがございましたら、わかる範囲内で、なるべくお調べしてお話したいと
思います。どうぞ、ヒッツFMのほうへ、ファクスなりメールなりでお問い合わせ下さい。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、古川のまちづくりパート2と題して、お話したいと思います。
実は、先日の日曜日に、古川の方で小島城と小鷹利城に登るツアーが有り、参加してきました。
実際に上に上がってみることでとても勉強になりました。この二つの古城の話は、またこのコーナー
でしたいと思います。
先月、お話した内容は、願生寺由来記をもとに、古川のお話をさせていただきました。古川の町が、
現在の上町あたりにあって、金森可重が新しく増島野というところに、新しくお城を作った。そのお城は、
これからの戦さ(=鉄砲戦)を考えて平地の中の小山に天守閣を配置するように作られた。
また、可重は堀を延長された川の西側に、城下町である一之町、二之町、三之町が配置して、
城下町を作ったのですが、なかなか民衆が動いてくれない。そこで、円光寺の元であった正覚寺が、
率先して新しい城下町の方へ移転したところ、城主の可重は他の者の見本となると喜んで、杉板3百枚
を褒美として渡した。そこまでは、先週お話した事です。
さて、増島城のお話をする前に、それまでの古川の場所がどこにあったかですが、以前にもこの放送で
お話しましたが、現在の古川町とは異なる場所に古川の城下町はありました。先日、リスナーの方から、
「古川の蛤城の場所がよくわからない」との御指摘をいただきましたので、ちょっと確認してみたいと思い
ます。
現在、国道41号線の古川バイパスが通っていますが、バイパス沿いに、トヨタカローラさんがあります。
あそこから、西の方を見ると、小さな小高い山が宮川を挟んで対岸にあります。その場所が、蛤城の
城址です。明治時代頃までは、そこには橋が架けられていて、対岸と行き来ができたそうです。
そして、トヨタカローラさんの東側に田中製作所という木工会社があります。ちょうどその木工所の
辺りが、旧古川町の城下町でした。宮川から順番に、一之町、二之町、三之町という町が作られて
いたということです。おわかりいただけましたでしょうか。
その場所から、現在の古川の町のほうに、民衆が移転してきたという事です。
さて、増島城ですが、古川のかたには、古川小学校の裏手のところに、増島神社がありましたから、
古川のかたは、場所の事は充分ご存知ですね。 高山のかたには、ちょっとよくわかりにくいので、
お話いたしますと、古川の町の中に入ると、アーチ型の霞橋がありますね。その橋を渡って、本光寺と
いう飛騨で一番大きな本堂のお寺を右手に見て、真っ直ぐ行くと、古川駅のところで突き当たります。
左手に行っていただくと、JRの飛騨古川駅ですが、そこを右手に行っていただきます。
真っ直ぐ、200mくらい行きますと、右手にお堀があって、増島城が見えます。そこは丁度、古川小学校
の裏手に当たります。
今でも、お堀と、石垣が残っていますので、お城の状態がよくわかると思います。昨年でしたか、ここに
あった増島神社は、古川祭りで有名な気多若宮神社に合祀されました。古川祭りに関係している古川の
町の中の皆さんは、殆んどの方が気多若宮神社の氏子ですが、彼らは、今までこの増島神社の氏子も
兼務されていたようです。古川の町に住むという事は、自動的に2つの神社の氏子になるということでも
あったようですので、総代さんなど関係者の皆さんは、春に開催される古川祭りと、秋に開催される
増島神社のお祭りと年に2回のお祭りを出されていたわけですから、大変なご苦労だったと思います。
今年から、お祭りが一つになったわけですから、氏子の皆さんの御負担は、少しは楽になったのでは
ないでしょうか。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「ウインクで 淋しい熱帯魚」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、古川の城下町についてお話しています。
さて、この増島城ですが、金森可重がお城作りに考えたコンセプトは、高山と比較すると大変よく似て
います。
まず、自然の要害を上手く取り入れたお城作りがなされています。高山では、宮川と江名子川をお堀に
見立てて、建設していますが、古川の場合は、荒城川と宮川を考えてまちづくりがなされています。
南の国府方面から流れてくる荒城川をお堀に見立てて、宮川と合流させる位置も、現在の場所まで
川筋を真っ直ぐにしたようです。昨年、古川のふるさと案内人会の研修があったときに、稲葉先生が
おっしゃっていましたが、もともと荒城川と宮川の合流していた場所は、現在の場所よりは、もっと
上流だったそうです。
もともと荒木川は現在の高冷地農業試験場のあたりを流れていたそうですから、古川町福祉センター
のあたりが合流点だったと思われます。今よりも上流ですよね。
余談ですが、この荒城川が氾濫を繰り返したことで、上町あたりの地質が非常に富んでいて、田んぼ
にするには好適地だったそうです。事実、上町の田んぼの収穫は、他の地域よりも1~2割多かったと
いう稲葉先生のお話でした。
あと、自然の要害としては、沼地があります。高山の場合は、向屋敷として作られた現在の高山陣屋
より、高山駅の方角は、だだっ広い沼地が広がっていました。後になってこの場所は、いい田んぼ=
名田町の名田となるわけですが、昔は、開墾の難しい、さんずいに難という=灘という字が使われていた
地域です。すのり川が氾濫を繰り返していた土地の沼地だったそうです。
同じように古川では、この増島野の東側には、広大な沼地が広がっていたようで、昔ここでよく遊んだ
という桐谷先生のお話ですと、「膝の上までどぼしこんでしまうような処やった」、つまり、膝上までずっ
ぽりと入ってしまうような沼だったという状態だったそうです。
もし、安土桃山時代に、こちらの方角から人が攻めてきても、沼に足を取られている間に、弓や鉄砲で
ズドンとやられてしまったでしょうから、難攻不落の要害が、自然の力を利用して作られたということで
しょうね。
また、お城作りには、風水を上手く取り入れた計画がなされました。高山の場合は、お城の鬼門の方角
(つまり丑寅の方角ですから、北東にあたる方角)には、別院とその延長線上に桜山八幡神社を配置して
います。逆に裏鬼門の南西の方角には、日枝神社を配置しています。古川においては、増島城から鬼門
の方角には、気多若宮神社を配置しています。
いま、ここまで原稿を読んでいて、おりょと思ったのですが、高山の裏鬼門は日枝神社があって、増島城の
裏鬼門にも何かあるんじゃないかと考えたら、その方角に、五社神社がありました。これは、もとの蛤城の
方角です。ひょっとすると、場所を特定するときに、可重は、蛤城で、増島城の構想を練ったと思われます
ので、姉小路ゆかりの五社神社の鬼門の方角に、増島城を考えたのかもしれませんね。
もし、これが事実だとすると、この番組のタイトル通り、「飛騨の歴史再発見」ということになります。
まさに歴史ロマンですね。
この鬼門の方角に、社寺を建設するという考え方は、金森氏の常套手段だったようで、高山の前に
作られた越前大野の城下町の場合は、誓念寺。高山の城下町の後に作られた美濃の小倉山城の
場合は、浄土宗の来昌寺を配置しています。実は先ほど、大野市役所に電話しまして、いろいろと
お聞きしました。この誓念寺の周囲には、浄土真宗のお寺を配置していたそうです。高山と同じで
すね。また、この担当者の方が、金森さんという方で、金森家の末裔の方でした。一度お会いしたいと
思っています。
最後にもう一つ、高山の場合は、浄土真宗の門徒をして、高山の城下を守らせるように、照蓮寺を
白川より誘致して、お城の城門と対峙するように配置しましたが、古川でも、本光寺と真宗寺を城下に
引き込んでまちづくりを考えています。円光寺は、江戸時代の中期に、現在の場所に移転されたもの
です。
もともとは、蛤城下にあったものを、前の放送でお知らせしたように、現在の八ツ三館あたりに移転させ、
民衆がなかなか移転しないのに率先して動いたという事で杉板300枚を可重から褒美としてもらって
います。が、寺地は、城主から寄進を受けたものと思われますので、可重が移転させたといっても過言
ではないでしょう。
そういう意味では、高山と同じように、古川の町も、浄土真宗の門徒を上手く利用して、城下を警備させた
といえるのではないでしょうか。
さて、今日もお時間となりました。
来週は、第4週目ですので、匠の話に関するお話、匠になくてはならない話=材木の運材についての
お話をしたいと思います。
それでは、今日は、ハンドルネームP子さんからブログのほうにリクエストをいただきましたので、この曲で
お別れです。曲は「沢田研二で勝手にしやがれ」ではまた来週。
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、6月も第三週に入りました。だんだん暑くなってきましたねえ。いつもなら梅雨の時期ですが、
今年は梅雨らしい梅雨ではないような気がします。梅雨の時期ですと洗濯物が乾きにくいとか、
押入れの壁が結露するとか、主婦泣かせの時期でもございますが、奥様方は大変ご苦労様です。
そんな時期ですから、たまにはちょっと手を休めていただいて、自分達の住んでいるところが、
どういうところなのか、考えていただいては、いかがでしょうか? この放送は、皆様に開かれた
番組をこころがけておりますので、番組に対する要望、調べてほしい事、近くにこんなものがあるん
だけど何だろうなどということがございましたら、わかる範囲内で、なるべくお調べしてお話したいと
思います。どうぞ、ヒッツFMのほうへ、ファクスなりメールなりでお問い合わせ下さい。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、古川のまちづくりパート2と題して、お話したいと思います。
実は、先日の日曜日に、古川の方で小島城と小鷹利城に登るツアーが有り、参加してきました。
実際に上に上がってみることでとても勉強になりました。この二つの古城の話は、またこのコーナー
でしたいと思います。
先月、お話した内容は、願生寺由来記をもとに、古川のお話をさせていただきました。古川の町が、
現在の上町あたりにあって、金森可重が新しく増島野というところに、新しくお城を作った。そのお城は、
これからの戦さ(=鉄砲戦)を考えて平地の中の小山に天守閣を配置するように作られた。
また、可重は堀を延長された川の西側に、城下町である一之町、二之町、三之町が配置して、
城下町を作ったのですが、なかなか民衆が動いてくれない。そこで、円光寺の元であった正覚寺が、
率先して新しい城下町の方へ移転したところ、城主の可重は他の者の見本となると喜んで、杉板3百枚
を褒美として渡した。そこまでは、先週お話した事です。
さて、増島城のお話をする前に、それまでの古川の場所がどこにあったかですが、以前にもこの放送で
お話しましたが、現在の古川町とは異なる場所に古川の城下町はありました。先日、リスナーの方から、
「古川の蛤城の場所がよくわからない」との御指摘をいただきましたので、ちょっと確認してみたいと思い
ます。
現在、国道41号線の古川バイパスが通っていますが、バイパス沿いに、トヨタカローラさんがあります。
あそこから、西の方を見ると、小さな小高い山が宮川を挟んで対岸にあります。その場所が、蛤城の
城址です。明治時代頃までは、そこには橋が架けられていて、対岸と行き来ができたそうです。
そして、トヨタカローラさんの東側に田中製作所という木工会社があります。ちょうどその木工所の
辺りが、旧古川町の城下町でした。宮川から順番に、一之町、二之町、三之町という町が作られて
いたということです。おわかりいただけましたでしょうか。
その場所から、現在の古川の町のほうに、民衆が移転してきたという事です。
さて、増島城ですが、古川のかたには、古川小学校の裏手のところに、増島神社がありましたから、
古川のかたは、場所の事は充分ご存知ですね。 高山のかたには、ちょっとよくわかりにくいので、
お話いたしますと、古川の町の中に入ると、アーチ型の霞橋がありますね。その橋を渡って、本光寺と
いう飛騨で一番大きな本堂のお寺を右手に見て、真っ直ぐ行くと、古川駅のところで突き当たります。
左手に行っていただくと、JRの飛騨古川駅ですが、そこを右手に行っていただきます。
真っ直ぐ、200mくらい行きますと、右手にお堀があって、増島城が見えます。そこは丁度、古川小学校
の裏手に当たります。
今でも、お堀と、石垣が残っていますので、お城の状態がよくわかると思います。昨年でしたか、ここに
あった増島神社は、古川祭りで有名な気多若宮神社に合祀されました。古川祭りに関係している古川の
町の中の皆さんは、殆んどの方が気多若宮神社の氏子ですが、彼らは、今までこの増島神社の氏子も
兼務されていたようです。古川の町に住むという事は、自動的に2つの神社の氏子になるということでも
あったようですので、総代さんなど関係者の皆さんは、春に開催される古川祭りと、秋に開催される
増島神社のお祭りと年に2回のお祭りを出されていたわけですから、大変なご苦労だったと思います。
今年から、お祭りが一つになったわけですから、氏子の皆さんの御負担は、少しは楽になったのでは
ないでしょうか。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「ウインクで 淋しい熱帯魚」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、古川の城下町についてお話しています。
さて、この増島城ですが、金森可重がお城作りに考えたコンセプトは、高山と比較すると大変よく似て
います。
まず、自然の要害を上手く取り入れたお城作りがなされています。高山では、宮川と江名子川をお堀に
見立てて、建設していますが、古川の場合は、荒城川と宮川を考えてまちづくりがなされています。
南の国府方面から流れてくる荒城川をお堀に見立てて、宮川と合流させる位置も、現在の場所まで
川筋を真っ直ぐにしたようです。昨年、古川のふるさと案内人会の研修があったときに、稲葉先生が
おっしゃっていましたが、もともと荒城川と宮川の合流していた場所は、現在の場所よりは、もっと
上流だったそうです。
もともと荒木川は現在の高冷地農業試験場のあたりを流れていたそうですから、古川町福祉センター
のあたりが合流点だったと思われます。今よりも上流ですよね。
余談ですが、この荒城川が氾濫を繰り返したことで、上町あたりの地質が非常に富んでいて、田んぼ
にするには好適地だったそうです。事実、上町の田んぼの収穫は、他の地域よりも1~2割多かったと
いう稲葉先生のお話でした。
あと、自然の要害としては、沼地があります。高山の場合は、向屋敷として作られた現在の高山陣屋
より、高山駅の方角は、だだっ広い沼地が広がっていました。後になってこの場所は、いい田んぼ=
名田町の名田となるわけですが、昔は、開墾の難しい、さんずいに難という=灘という字が使われていた
地域です。すのり川が氾濫を繰り返していた土地の沼地だったそうです。
同じように古川では、この増島野の東側には、広大な沼地が広がっていたようで、昔ここでよく遊んだ
という桐谷先生のお話ですと、「膝の上までどぼしこんでしまうような処やった」、つまり、膝上までずっ
ぽりと入ってしまうような沼だったという状態だったそうです。
もし、安土桃山時代に、こちらの方角から人が攻めてきても、沼に足を取られている間に、弓や鉄砲で
ズドンとやられてしまったでしょうから、難攻不落の要害が、自然の力を利用して作られたということで
しょうね。
また、お城作りには、風水を上手く取り入れた計画がなされました。高山の場合は、お城の鬼門の方角
(つまり丑寅の方角ですから、北東にあたる方角)には、別院とその延長線上に桜山八幡神社を配置して
います。逆に裏鬼門の南西の方角には、日枝神社を配置しています。古川においては、増島城から鬼門
の方角には、気多若宮神社を配置しています。
いま、ここまで原稿を読んでいて、おりょと思ったのですが、高山の裏鬼門は日枝神社があって、増島城の
裏鬼門にも何かあるんじゃないかと考えたら、その方角に、五社神社がありました。これは、もとの蛤城の
方角です。ひょっとすると、場所を特定するときに、可重は、蛤城で、増島城の構想を練ったと思われます
ので、姉小路ゆかりの五社神社の鬼門の方角に、増島城を考えたのかもしれませんね。
もし、これが事実だとすると、この番組のタイトル通り、「飛騨の歴史再発見」ということになります。
まさに歴史ロマンですね。
この鬼門の方角に、社寺を建設するという考え方は、金森氏の常套手段だったようで、高山の前に
作られた越前大野の城下町の場合は、誓念寺。高山の城下町の後に作られた美濃の小倉山城の
場合は、浄土宗の来昌寺を配置しています。実は先ほど、大野市役所に電話しまして、いろいろと
お聞きしました。この誓念寺の周囲には、浄土真宗のお寺を配置していたそうです。高山と同じで
すね。また、この担当者の方が、金森さんという方で、金森家の末裔の方でした。一度お会いしたいと
思っています。
最後にもう一つ、高山の場合は、浄土真宗の門徒をして、高山の城下を守らせるように、照蓮寺を
白川より誘致して、お城の城門と対峙するように配置しましたが、古川でも、本光寺と真宗寺を城下に
引き込んでまちづくりを考えています。円光寺は、江戸時代の中期に、現在の場所に移転されたもの
です。
もともとは、蛤城下にあったものを、前の放送でお知らせしたように、現在の八ツ三館あたりに移転させ、
民衆がなかなか移転しないのに率先して動いたという事で杉板300枚を可重から褒美としてもらって
います。が、寺地は、城主から寄進を受けたものと思われますので、可重が移転させたといっても過言
ではないでしょう。
そういう意味では、高山と同じように、古川の町も、浄土真宗の門徒を上手く利用して、城下を警備させた
といえるのではないでしょうか。
さて、今日もお時間となりました。
来週は、第4週目ですので、匠の話に関するお話、匠になくてはならない話=材木の運材についての
お話をしたいと思います。
それでは、今日は、ハンドルネームP子さんからブログのほうにリクエストをいただきましたので、この曲で
お別れです。曲は「沢田研二で勝手にしやがれ」ではまた来週。
徳積善太
2008年06月15日
さんまち用水について10_下三之町編
上三之町の水も、安川通りで暗渠になり、安川通りをまたぎます。

東側の水は、福田屋前から十六銀行方面へ暗渠で移ります。

西側の水も、暗渠でつながれています。

江名子川へは、一本になって流れています。
これは、手前のところで、西側が東側に流れるような仕組みになっていて、江名子川
へは、一本で流れるためです。
おそらく、川があふれたとき、逆流を防ぐために、一段低い形になって流れ込むような
仕組みになっています。
徳積善太
東側の水は、福田屋前から十六銀行方面へ暗渠で移ります。
西側の水も、暗渠でつながれています。
江名子川へは、一本になって流れています。
これは、手前のところで、西側が東側に流れるような仕組みになっていて、江名子川
へは、一本で流れるためです。
おそらく、川があふれたとき、逆流を防ぐために、一段低い形になって流れ込むような
仕組みになっています。
徳積善太
2008年06月14日
さんまち用水について9_下二之町編
さんまち用水の水は、上二之町から下二之町へと、安川通りを暗渠でまたぎます。

上二之町から暗渠で流れるさんまち用水(東西どちらの水も暗渠で移ります)
平田時計舗前で、上二之町を望む

江名子川に突き当たると、暗渠で橋の下を渡り、大新町方面へと流れます。(東側)

西側も江名子川に突き当たると、暗渠で橋の下を渡り、大新町方面へと流れます。

有名な日下部邸・吉島邸の前の水は、この「さんまち用水」の水です。
徳積善太
上二之町から暗渠で流れるさんまち用水(東西どちらの水も暗渠で移ります)
平田時計舗前で、上二之町を望む
江名子川に突き当たると、暗渠で橋の下を渡り、大新町方面へと流れます。(東側)
西側も江名子川に突き当たると、暗渠で橋の下を渡り、大新町方面へと流れます。
有名な日下部邸・吉島邸の前の水は、この「さんまち用水」の水です。
徳積善太
2008年06月13日
さんまち用水について8_寺内町編
暗渠のまま下一之町通りへと流れ、金鳳台の前では、本通と裏通りへ別れています。
今日、お知らせするのは、旧寺内町方面(下一之町裏通り)についてです。
裏通りに行くのは、旧寺内町へと流れていきます。
旧寺内町方面に行く水は、別院方面からの水と合流します。
たかしん本店裏のところが、旧寺内町通りですが、そこへも水は流れています。
そちらの水は、江名子川につきあたると、江名子川に流れています。
徳積善太
2008年06月12日
さんまち用水について7_下一之町編
さんまち用水は、安川通りのところで、暗渠に入り、上町から下町へ移動します。

安川通りを暗渠で渡る、用水。(上一之町~下一之町)

暗渠のまま下一之町通りへと流れ、金鳳台の前では、本通と裏通りへ別れています。
下一之町本通りについて、お知らせします。旧寺内町方面については明日。

本通り東側は、下一之町の江名子川との合流点で、暗渠になり、橋の下を渡ります。

そして、その水は、大新町方面(野畑茶舗前)へと流れていきます。

また、この場所は、工夫がされていて、水が多い場合は、江名子川に流れ込む
仕組みも作られています。

一方、下一之町西側も、大新町方面へ暗渠でつながっています。
徳積善太
安川通りを暗渠で渡る、用水。(上一之町~下一之町)
暗渠のまま下一之町通りへと流れ、金鳳台の前では、本通と裏通りへ別れています。
下一之町本通りについて、お知らせします。旧寺内町方面については明日。
本通り東側は、下一之町の江名子川との合流点で、暗渠になり、橋の下を渡ります。
そして、その水は、大新町方面(野畑茶舗前)へと流れていきます。
また、この場所は、工夫がされていて、水が多い場合は、江名子川に流れ込む
仕組みも作られています。
一方、下一之町西側も、大新町方面へ暗渠でつながっています。
徳積善太
2008年06月11日
ひだの酒造業について7_古川の酒造業

飛騨古川の酒造業について、現在は、渡辺酒造場→http://www.sake-hourai.co.jp/、
蒲酒造場→http://www.yancha.com/の2件しかありませんが、大野郡史によると
元禄時代に、飛騨に89件あった、酒造業のうち、吉城郡古川町にあった、酒造メーカーは
次の14軒が示されています。
一 伊勢屋 高十六石九斗七升 同 郡古川郷古川町村 彦兵衛(二株之内)
一 柏 屋 高十二石九斗七升 同 郡同 郷同 村 北村屋 五 助
一 越前屋 高八石 同 郡同 郷同 村 田近屋 文三郎
一 三川屋 高三十二石 同 郡同 郷同 村 八ツ尾屋 清七郎
一 柏 屋 高八石 同 郡同 郷同 村 彦兵衛(二株之内)
一 中村屋 高八石 同 郡同 郷同 村 善 吉
一 富山屋 高十二石六斗六升七合 同 郡同 郷同 村 文 七
一 加賀屋 高十七石六斗 同 郡同 郷同 村 與左衛門
一 野首屋 高四石八斗 同 郡同 郷同 村 與惣右衛門
一 升 屋 高六石七斗五合 同 郡同 郷同 村 平 七
一 阿波屋 高十一石八斗六升七合 同 郡同 郷同 村 忍 屋 喜右衛門
一 かな屋 高一石五升 同 郡同 郷同 村 蒲 屋 長左衛門
一 奈良屋 高六石四斗 同 郡同 郷同 村 太江屋 五郎助
一 加賀屋 高三石二斗 同 郡小鷹利郷角川村 徳兵衛

とのことです。
明治時代には、4件になり、吉城酒造株式会社、谷口酒造がありました。
吉城酒造は、現在の渡辺酒造さんの前にある後藤酒店さんのことで、後藤さんのところで
は、かつて、壱之町で製糸業も営んでおられ、会社を閉めると同時に、製糸をやっていた
場所にて酒店を営むことになり、移転をされたそうです。
谷口酒造は、渡辺酒造の下隣にあったそうですが、戦後の復興のときに廃業されました。
徳積善太




