2008年07月01日
越前大野訪問~長近の越前侵攻~
いま、調べていることは、金森長近と浄土真宗の関係です。
一昨年に発表された文書の存在によって、東本願寺派の開祖 教如上人を徳川家康に紹介
した人が、金森長近であることがわかりました。
これは、「本願寺教如」という本に掲載されています。
さて、その金森長近ですが、越前大野の城主だったことは知られているところです。

越前大野博物館に、金森長近の年表がありました。
それからご紹介しますと、
天正元年(1573)50歳 8月 朝倉義景との戦いで、越前府中に出陣する。
天正三年(1575)52歳 織田の軍団、大挙して越前に進攻。一向一揆の徹底的討伐を行う。
8月 長近、搦手の大将として美濃から大野郡に侵入し、ほどなく一揆を鎮定する。
9月 長近、大野郡の3分の2を与えられる。
天正四年(1576)53歳 8月、長近、築城と城下の建設を始める。
となっています。
ここで、注目していただきたいのは、一向一揆をわずか1ヶ月で平定していることです。
この時期、この地域には、浄土真宗高田派という一派が大野地域にかなりの数いて、朝倉氏や、
織田氏に対して、永年にわたり抵抗をしていました。
その抵抗が、ほとんどなく、わずか1ヶ月で大野地域を平定するということを、長近はやってのけます。
このあと天正14年(1586)に飛騨に進攻しますが、このときも、長近は、浄土真宗を手なづけて、飛騨に
やすやすと進入し、飛騨をわずかの間に平定します。そのとき、飛騨の浄土真宗門徒は、彼に対して
抵抗するどころか、そののち、高山の城下町を作るときには、白川にあった照蓮寺を高山城下に移して、
戦闘などで出ることの多かった、金森長近・可重の代わりに、高山の町を護っています。
つまり、金森長近という人は、浄土真宗の門徒と裏でつながっていたということです。
その史実を、解明するべく、いろんな調査を行っているわけです。
今後の調査については、またの機会に発表していきたいと思いますので、ご期待ください!
徳積善太
一昨年に発表された文書の存在によって、東本願寺派の開祖 教如上人を徳川家康に紹介
した人が、金森長近であることがわかりました。
これは、「本願寺教如」という本に掲載されています。
さて、その金森長近ですが、越前大野の城主だったことは知られているところです。
越前大野博物館に、金森長近の年表がありました。
それからご紹介しますと、
天正元年(1573)50歳 8月 朝倉義景との戦いで、越前府中に出陣する。
天正三年(1575)52歳 織田の軍団、大挙して越前に進攻。一向一揆の徹底的討伐を行う。
8月 長近、搦手の大将として美濃から大野郡に侵入し、ほどなく一揆を鎮定する。
9月 長近、大野郡の3分の2を与えられる。
天正四年(1576)53歳 8月、長近、築城と城下の建設を始める。
となっています。
ここで、注目していただきたいのは、一向一揆をわずか1ヶ月で平定していることです。
この時期、この地域には、浄土真宗高田派という一派が大野地域にかなりの数いて、朝倉氏や、
織田氏に対して、永年にわたり抵抗をしていました。
その抵抗が、ほとんどなく、わずか1ヶ月で大野地域を平定するということを、長近はやってのけます。
このあと天正14年(1586)に飛騨に進攻しますが、このときも、長近は、浄土真宗を手なづけて、飛騨に
やすやすと進入し、飛騨をわずかの間に平定します。そのとき、飛騨の浄土真宗門徒は、彼に対して
抵抗するどころか、そののち、高山の城下町を作るときには、白川にあった照蓮寺を高山城下に移して、
戦闘などで出ることの多かった、金森長近・可重の代わりに、高山の町を護っています。
つまり、金森長近という人は、浄土真宗の門徒と裏でつながっていたということです。
その史実を、解明するべく、いろんな調査を行っているわけです。
今後の調査については、またの機会に発表していきたいと思いますので、ご期待ください!
徳積善太




