2008年07月06日
金山~万福寺の彫刻について4~
中に入ると、和尚様がおられて、その場所へとご案内くださいました。
そこは、本堂のご本尊が祀られているまさにその真上にあり、大変失礼ながら
写真を撮らせていただきました。

ちょっと暗いですが、そこには、看板の通り、3mほどの竜の彫刻がありました。


和尚様のお話ですと、両側の向梁の彫刻も同じ時期に作られたものとの事で、
撮影させていただきました。


前述の郷土史研究家 長瀬先生の書かれた由緒書きには次のようになっています。
「竜の欄間 町指定文化財 昭和四十四年十二月十五日
文政年間(1818年)信州諏訪の宮大工 立川和四郎の作。和四郎は左甚五郎の再来と
言われた名工で幕府から「匠」の称号を受け、一般には諏訪の和四郎と呼ばれている。
宝暦年間、江戸に出て、本所立川通り幕府御用大工棟梁の立川小兵衛について宮彫の
技を習得。諏訪神社の壮麗な彫刻は遠近に聞え特に獅子、雲竜、牡丹、松鷹、波涛の彫刻
を得意とした。
この竜の彫刻は、本堂内陣の鴨居の上にあって、縦二尺、横九尺、その複雑な浮き彫りの
素晴らしさは驚嘆に値する。
又、鶯張りの廊下も和四郎の作で、二百余年を経た今日でも鶯の声を聞くことができる。
その外にも本堂須弥檀にある一対の蓮のうち、片方の蓮は和四郎が昼休みに作ったもので、
もう一方は弟子の手によるものとされている。
昭和四十四年この文化財を岐阜県指定にするために岐阜県文化財審議委員長 中野効四郎
先生が期待して来られたが、調査の結果、昭和二十年の大雪で須弥檀が壊れて銘が見当たら
なかったため、残念乍ら町指定に止まった。」とのことでした。
私が見たところ、私が今までに見た立川流の彫刻とは、異なるような気がしました。
また、向梁の彫り方も、立川流のものとは異なるので、調査が待たれるところであると思いました。
長瀬先生にお聞きしたところ、「先代のご住職からの伝承で、和四郎に間違いないとおっしゃっていた
ので、地元民はその通りだと思っています。」とのお話でした。
いずれにせよ、この彫刻の作者が誰であるかは、棟札や彫刻の落款などで確認するしかありません。
皆さんが信じておられるので、確認しないほうがいいのかもしれませんね。
徳積善太
そこは、本堂のご本尊が祀られているまさにその真上にあり、大変失礼ながら
写真を撮らせていただきました。
ちょっと暗いですが、そこには、看板の通り、3mほどの竜の彫刻がありました。
和尚様のお話ですと、両側の向梁の彫刻も同じ時期に作られたものとの事で、
撮影させていただきました。
前述の郷土史研究家 長瀬先生の書かれた由緒書きには次のようになっています。
「竜の欄間 町指定文化財 昭和四十四年十二月十五日
文政年間(1818年)信州諏訪の宮大工 立川和四郎の作。和四郎は左甚五郎の再来と
言われた名工で幕府から「匠」の称号を受け、一般には諏訪の和四郎と呼ばれている。
宝暦年間、江戸に出て、本所立川通り幕府御用大工棟梁の立川小兵衛について宮彫の
技を習得。諏訪神社の壮麗な彫刻は遠近に聞え特に獅子、雲竜、牡丹、松鷹、波涛の彫刻
を得意とした。
この竜の彫刻は、本堂内陣の鴨居の上にあって、縦二尺、横九尺、その複雑な浮き彫りの
素晴らしさは驚嘆に値する。
又、鶯張りの廊下も和四郎の作で、二百余年を経た今日でも鶯の声を聞くことができる。
その外にも本堂須弥檀にある一対の蓮のうち、片方の蓮は和四郎が昼休みに作ったもので、
もう一方は弟子の手によるものとされている。
昭和四十四年この文化財を岐阜県指定にするために岐阜県文化財審議委員長 中野効四郎
先生が期待して来られたが、調査の結果、昭和二十年の大雪で須弥檀が壊れて銘が見当たら
なかったため、残念乍ら町指定に止まった。」とのことでした。
私が見たところ、私が今までに見た立川流の彫刻とは、異なるような気がしました。
また、向梁の彫り方も、立川流のものとは異なるので、調査が待たれるところであると思いました。
長瀬先生にお聞きしたところ、「先代のご住職からの伝承で、和四郎に間違いないとおっしゃっていた
ので、地元民はその通りだと思っています。」とのお話でした。
いずれにせよ、この彫刻の作者が誰であるかは、棟札や彫刻の落款などで確認するしかありません。
皆さんが信じておられるので、確認しないほうがいいのかもしれませんね。
徳積善太




