2008年07月31日
茂住~茂住宗貞の謎について8
○敦賀経済発達史 P23 天野久一郎著 昭和五十五年一月十五日発行
一向堂(今の東晴明区)は、古くは此處に椿の井とて伝説の井あり、市の井の遺跡ならん
と謂ふ。この市は朝市の起りであって近郷近在の穀、菜、果、など持ち寄り商売せし所。
後に若州の神人一興なる者堂宇を建てゝ一興堂と称せりとは宮本家記の所載である。
その後もこの境内で朝市が続けられ徳川末葉以後失火ありてこの堂宇灰燼に帰しそれ
より東町(今の組区)に朝市立ちて百年近く明治の末頃まで続いたものである。
(附記)。一興堂に時の鐘とて、敦賀町中に時を報ずる鐘ありたり。鐘楼は寛文年中時の
町人頭宗貞打它伊兵衛の老母清月の建立寄進する所にして後、明治維新となり敦賀町
となりし時この鐘を町役場の楼上に持ち来り爾来、敦賀海岸に大和田二代荘七翁寄附
する所の大市役所移転迄、町中に時を報ずること五十年餘、今昭和十七年秋大東亜戦争
に鐘の應召ありて勇躍、国家鎮護の御用に赴かんとするに際しその鐘銘文を遺して思ひ
出の一助としよう。
敦賀一向堂町時鐘銘文
越刕敦賀郡會所鐘名
蘇迷盧南閻浮州大日本国越之前州敦賀故郡為其風光也氣比宮乃是神式第十四代
仲哀天皇統不孤隔海上常宮在十四代神功皇后金胎両部内證而曰城北陸之為鎮守
在隣天神霊廟年々八月祭禮老夫瞥花児童幣榊歓喜踊躍金ケ崎天筒山一夜涌出之
松原七里半四而金隣国而士農工商朝而来暮而還以夜繼日粤、照清月尼一者為二
世誓願二者為国土静謐令鳧氏而鎔範巨鐘々之為功徳笠支扶桑佛法東漸百八洋々
加旃遠村近縣修諸行老常善縁矧又警安眠困臥 之疎蕪維
時簾高架會處
一楼之上銘曰
一天静謐 七十扶桑 敦賀故郷
士農工商 會所噌雑 諸行無常
簨簾高架 国土繁昌 孫子枝葉
花木向陽 萬春至祝 名鐘彌彰
矢鳥舌止々 恐懼誠惶
寛文上瀧集己巳八月吉祥辰
龜泉禅庵黔驢 子敬白
願主 打宅(ママ=它)伊兵衛老母
照清月尼(敦賀一目鏡)
尚、この釣鐘献納のことは時と場合とこそ違ひ文久年間にもあった。安孫子氏記録によると、
釣鐘等銅器献納願書
奉願上候口上ノ覚
一方今海防御手宛ニ付御意書ヲ以後被仰付候儀深奉恐察候斯而御時體別而此度大砲鋳立
増等ニ付テ茂地銅夥敷御入費之段奉恐察候
右ニ付拙寺檀中安孫子治郎左衛門寄附釣鐘外ニ半鐘ニツ銅燈爈一對大火鉢一ツ金弐十両
相添聊為可奉報御国恩献上仕候乍恐拙寺始檀中一統之所願ニ御座候何卒大砲御鋳立之
中へ御差加被下置候ハヾ難有仕合ニ奉存上候
右願書之通御聞届ケ被下置候様奉願上候以上
文久三癸亥年六月
泉村庄屋
何―――――
檀中総代
安孫子治郎左衛門
本郷彌七
大和田荘兵衛
打宅辨次郎
永厳寺
團 五兵衛殿
原田時之助殿
徳積善太
2008年07月30日
茂住~茂住宗貞の謎について7
○敦賀市文化財 昭和三十五年三月五日発行 敦賀市教育委員会
時鐘
指定年月日 昭和三十三年三月二十八日
指定番号 有形文化財第二十号
名称 時鐘
数量 壱口
所有者 敦賀市金崎町 曹洞宗 永厳寺 住職 池野徹恵
作者時代 寛文五年八月の鋳造にかゝり、打它宗貞の妻であった清月尼の誓願に
よるもので、鐘銘は清月尼の孫にあたる収玄の作である。鐘としての形式手法は江戸
時代の鋳造当時の時代相がひょうげんされているはの、普通当代の鐘と同様である。
材質形状 銅鐘 総高四尺八寸四分 鐘身 三尺七寸五分 龍頭 八寸四分
鐘径 二尺八寸三分
由来伝来 清月尼の発願で時鐘を撞いて出入の船舶や町民近郷へ正確な時刻を報知
する為めが本義であり、非常の災禍の場合に撞く特別の鐘であって極めて異例の(後略)」
徳積善太
2008年07月29日
茂住~茂住宗貞の謎について6
○敦賀人物誌 昭和三十一年九月二十日発行 著者 敦賀市三島 石井左近
打它宗貞 蓬莱の人、糸屋彦次郎と称し、もと飛弾国吉城郡東茂住の豪民であった。
天正十七年に国主の金森長近に仕え、飛弾国東方鉱山奉行となって、鉱山採石に専念し、
開坑するもの数か所に及んだ。中でも東茂住・和佐保の両山は最も盛んで、鉱坑数百に
及び、諸国から人が集まって数千戸に達したという。領主から姓を賜って金森宗貞と称した。
宗貞の開坑したものは一つとして失敗したものがなく、したがって富有は近郷に並ぶものなく、
威勢は大いに揚がったので、世俗に「神や仏のまねなるけれど、茂住宗貞のまねならぬ」と
うたわれた。
時に領主との間に石の疎通を欠いたので、災の身に及ぶのを恐れ、慶長十二年八月二十
四日に敦賀にのがれてきた。その時金百万両を携えたという。
姓を打它と改め、屋号を糸屋と称した。領主の高極氏(ママ=京極氏)と酒井忠勝に仕えて
敦賀代官となった。福井城主の結城秀以も二十人扶持を給した。
寛永二拾年八月二十二日に年八十五才で没し、永厳寺墓地に葬った。
宗貞の鉱坑の功績をたたえ、文化・文政のころに飛弾の高山の建金社に霊を祀られた。
宗貞の子の良亭は家を継がないので、領主の忠勝公の仲介で、大津大官の小野宗左衛門の
子を養子とした。家を次いで伊兵衛と合資、則親と称した。」
徳積善太
2008年07月28日
7月28日放送分 運材について(中流域)
(7月28日)みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう夏になって、猛暑が続いていますね。年々、高山も暑さが増しているような気がします。
つい最近までは、高山は日陰に入ると涼しくて、クーラーが要らない状態だったと思いますが、
これも地球温暖化の影響でしょうか? 空気が「のくとい」ですね。
しかし、朝晩は涼しいですから、都会の熱帯夜を考えると、まだまだすごしやすいようです。
ただ、窓を開け放して眠っていて、朝起きたら寝冷えで夏風邪を引いたというのもよく聴く話です。
どうぞ体調管理には十分気をつけて下さい。
さて、今日のお話は、第4週目ですので、飛騨の匠についてお話しする週です。今日は、
先月お話しました「運材について」の続きを、お話したいと思います。
まず、先週までのお話を振り返ってみたいと思います。
先月の放送でお話したことは、都を建設したり大火にあって町を造るのに、木を使って建物を
作りました。そのため、木は、最初は都となる場所の近くから大木を伐り出しましたが、そのうち、
伐り尽くしてしまってまちの近くには木がなくなってしまいました。
そのため、人々は、大木を山の奥地に求めるようになり、奥山へ入って、木を切り出すようになり
ました。伐った木は、自然の川を使って、奥山から運ばれ、そして、上流部では、ダムを作って、
たまった雪解け水と一緒に一気に川下へ流す。そういうことをして、木を運んだという話でした。

また、飛騨の匠と呼ばれた人たちは、大工さんとしての技術のみならず、こういった奥山から木を
伐りだす方法、そして木を運ぶ方法=運材ということを知っていた技術者集団だったのではという
お話でした。
今日は、そのお話の続きをするわけですが、皆さんが知っておられる川のことを実際に名前をあげて
お話した方がわかりやすいので、今日は、川の名前を言いながら、江戸時代に書かれた「運材図会」
に基づいたお話をしたいと思います。
この前のお話で、飛騨というところは、分水嶺があり、たとえば宮峠のところで、雨が降れば、南側の
斜面の水は、益田川に集められ、途中から飛騨川となって流れ、木曽川に合流して、最終的には、
伊勢湾に流れ込みます。
一方で、北側に降った雨は、宮川に集められ、川上川と合流し、高原川と合流して神通川となり、
富山湾に流れ込みます。これと同じように、木というものは、伐られたら、川に流されたわけですから、
一般的には、分水嶺から北側の木を北方山(きたかたやま)。分水嶺から南側を南方山(みなみかた
やま)と呼びました。
ここで、一般的にと申し上げたのは、いくつか文献が出てきていまして、必ずしも、北方山の木が
北ばかりに流されたのではないという史実があったからです。これについては、またの機会に
お話したいと思います。
では、南方山の例を出してお話したいと思います。益田川の源流といえば、高根の山奥です。
そこで伐られた木は、どうやって、運ばれたかですが、江戸時代のはじめ頃までは、木を倒すと、
まず、決められた長さに切っていました。江戸時代の初めごろ、自由に木を切っていたのですが、
だんだん奥山にも木が少なくなってきて、幕府が制限するようになりました。巣山といって、鷹が
巣をかける天然の木が残っている山を指定して、見張りを立てました。そういう山は、いい材木が
豊富で、林相がよくて、なかなか人が近寄ってもいけないような山でした。
また、留山といって、山を育てるために切り出しを止めた山を作ったのもこの頃です。
最初は、板子といって、平べったい形の板を流したようですが、川に流すと割れるので、頭の部分を
三角の形にして流しやすくしました。最初の板子は、立派なもので、大体幅90cm、長さ2間くらいの
大きなものだったようでしたが、だんだんそういった大きな木がなくなってきたようです。
どちらかというとそういう板子は、正目の木が多かったようです。

天和三年(1683)ごろになると、だんだん板子の幅も小さくなってきました。とうとう享保13年には板子が
廃止されてしまい、山を育てるために留山となった場所も出てくるようになりました。

ちょっとここで、ブレイクしましょう。今日はこの曲をお届けします。渡辺真知子で「唇よ熱く君を語れ」
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
本日の飛騨歴史再発見は、運材について、中流域の運材についてお話しています。
さて、木を切り出して集めたところには、ダムが作ってあって、水の細い川などは、水と一緒に一気に
下流へ流されます。瀧のあるところなどに差し掛かると、木が瀧を落ちたときに折れたり、割れたりして
歩留まりが悪くなりますから、そういったところでは、間伐材を伐ってきて、やぐら状にくみ上げ、
ちょうど木の滑り台のようなものを作って、木の上を滑らせて下に流す。そういうものを作ったという
ことが、運材図会に載っています。
木が割れないように、上手に工夫をこらした様子が描かれています。中には、木のやぐらを三階建て
の建物の高さくらいにくみ上げて、流すというより滑らせるような、構造になっています。
そうして、木をたくみに流しながら、朝日あたりまできます。そこでは、川の流れに任せて、一本づつ、
流していきます。途中で、木が詰まったりするところもありますので、そこは、トビという道具を使って、
木を水の流れのほうへ、移動させたりします。

このトビという道具は、昨年、匠学会の展示会でも展示させていただきましたが、木の棒の先に金具を
とりつけたもので、それがちょうど鳥のとんびのくちばしのような形をしています。

このトビの有名なものが高山で作られていたもので、山口とびといいました。江戸時代から明治時代に
かけて、この山口とびを持っていると、事故にあわない、怪我をしないという噂が、こういった山師の方々
の間で広まり、全国的に有名になったということでした。昨年の展示では、桂川さんという山口とびの
製造元へ全国から注文書が入ったという注文書を展示しましたよね。

さて、木が今度は小坂のあたりに集められました。そこでは、上流部で流した木が、ちゃんと上流部で
チェックされただけの本数、そこまできているか。途中での盗難などはなかったか。また痛みや傷などが
ないかをチェックされます。
(
どうして、このように厳しくチェックをしたかというと、御用木というのは、種類が
決められていました。飛騨も同じだったと思われますが、木曽には、木曽五木(ごぼく)というのがあって、
一番いい商品から順番に檜、さわら、こうやまき、あすなろ、杉といったものが貴重な五木(ごぼく)でした。

江戸時代には、享保の改革以後、だんだん木が少なくなってきたので、幕府が山を管理するようになり、
勝手に伐った者には処罰を与えるようになりました。 たとえば、ヒノキを勝手に伐り倒した場合、木を
一本伐っただけで、その処罰というものは、打ち首になると言われたほどでした。最近でもヒノキの皮を
茶室の壁などに利用する場合がありますが、たとえヒノキの皮をはいだだけでも、牢獄に入れられる
という、厳罰がありました。今ではなかなか考えられない話ですよね。
これについては、加子母村の奥で、実際にあった話ですが、どうしても儲かる木があると犯罪が増加
するというのが人間の常だったようです。いろいろな例がありました。木を切ると音がするので、こだま
がしますからすぐに木を切っているとわかってしまいますよね。
そこで、村人は、木を切らないで鎌を持ってきて皮をはぎました。
ヒノキの皮のことを桧皮(ひわだ)といいますが、この桧皮は、壁などの建築材料のほか、火縄銃にも
使ったりして、良く売れたそうです。そのため、皮はぎの犯罪が多いのが特徴だったそうです。
この他にも山林犯罪の例は12例あるのですが、処罰は、過料、入牢、死罪、切腹などがあって結構
重罪だったようです。
享保改革以降、最初のうちは死刑になることが少なかったのですが、規則を知らしめるためか役人が、
厳しく取り立てました。しかし、その後になると、死刑にまですることは余程でないとなかったようですが、
罰金、所払いなどの状況になっていました。当然、犯罪者が町に行けば、無宿人、非人として扱わ
れたようですから、一生重荷を背負って生きることになりました。木を許可なく切ると一生を台無しに
してしまったんですね。
さて本日も時間となりました。この続きは、来月の第4週にお話します。
来週は、戦国時代のお話。武田軍の飛騨侵攻について、お話したいと思います。
今週はこの曲でお別れです。大瀧詠一で「君は天然色」ではまた、来週。
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう夏になって、猛暑が続いていますね。年々、高山も暑さが増しているような気がします。
つい最近までは、高山は日陰に入ると涼しくて、クーラーが要らない状態だったと思いますが、
これも地球温暖化の影響でしょうか? 空気が「のくとい」ですね。
しかし、朝晩は涼しいですから、都会の熱帯夜を考えると、まだまだすごしやすいようです。
ただ、窓を開け放して眠っていて、朝起きたら寝冷えで夏風邪を引いたというのもよく聴く話です。
どうぞ体調管理には十分気をつけて下さい。
さて、今日のお話は、第4週目ですので、飛騨の匠についてお話しする週です。今日は、
先月お話しました「運材について」の続きを、お話したいと思います。
まず、先週までのお話を振り返ってみたいと思います。
先月の放送でお話したことは、都を建設したり大火にあって町を造るのに、木を使って建物を
作りました。そのため、木は、最初は都となる場所の近くから大木を伐り出しましたが、そのうち、
伐り尽くしてしまってまちの近くには木がなくなってしまいました。
そのため、人々は、大木を山の奥地に求めるようになり、奥山へ入って、木を切り出すようになり
ました。伐った木は、自然の川を使って、奥山から運ばれ、そして、上流部では、ダムを作って、
たまった雪解け水と一緒に一気に川下へ流す。そういうことをして、木を運んだという話でした。
また、飛騨の匠と呼ばれた人たちは、大工さんとしての技術のみならず、こういった奥山から木を
伐りだす方法、そして木を運ぶ方法=運材ということを知っていた技術者集団だったのではという
お話でした。
今日は、そのお話の続きをするわけですが、皆さんが知っておられる川のことを実際に名前をあげて
お話した方がわかりやすいので、今日は、川の名前を言いながら、江戸時代に書かれた「運材図会」
に基づいたお話をしたいと思います。
この前のお話で、飛騨というところは、分水嶺があり、たとえば宮峠のところで、雨が降れば、南側の
斜面の水は、益田川に集められ、途中から飛騨川となって流れ、木曽川に合流して、最終的には、
伊勢湾に流れ込みます。
一方で、北側に降った雨は、宮川に集められ、川上川と合流し、高原川と合流して神通川となり、
富山湾に流れ込みます。これと同じように、木というものは、伐られたら、川に流されたわけですから、
一般的には、分水嶺から北側の木を北方山(きたかたやま)。分水嶺から南側を南方山(みなみかた
やま)と呼びました。
ここで、一般的にと申し上げたのは、いくつか文献が出てきていまして、必ずしも、北方山の木が
北ばかりに流されたのではないという史実があったからです。これについては、またの機会に
お話したいと思います。
では、南方山の例を出してお話したいと思います。益田川の源流といえば、高根の山奥です。
そこで伐られた木は、どうやって、運ばれたかですが、江戸時代のはじめ頃までは、木を倒すと、
まず、決められた長さに切っていました。江戸時代の初めごろ、自由に木を切っていたのですが、
だんだん奥山にも木が少なくなってきて、幕府が制限するようになりました。巣山といって、鷹が
巣をかける天然の木が残っている山を指定して、見張りを立てました。そういう山は、いい材木が
豊富で、林相がよくて、なかなか人が近寄ってもいけないような山でした。
また、留山といって、山を育てるために切り出しを止めた山を作ったのもこの頃です。
最初は、板子といって、平べったい形の板を流したようですが、川に流すと割れるので、頭の部分を
三角の形にして流しやすくしました。最初の板子は、立派なもので、大体幅90cm、長さ2間くらいの
大きなものだったようでしたが、だんだんそういった大きな木がなくなってきたようです。
どちらかというとそういう板子は、正目の木が多かったようです。

天和三年(1683)ごろになると、だんだん板子の幅も小さくなってきました。とうとう享保13年には板子が
廃止されてしまい、山を育てるために留山となった場所も出てくるようになりました。

ちょっとここで、ブレイクしましょう。今日はこの曲をお届けします。渡辺真知子で「唇よ熱く君を語れ」
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本日の飛騨歴史再発見は、運材について、中流域の運材についてお話しています。
さて、木を切り出して集めたところには、ダムが作ってあって、水の細い川などは、水と一緒に一気に
下流へ流されます。瀧のあるところなどに差し掛かると、木が瀧を落ちたときに折れたり、割れたりして
歩留まりが悪くなりますから、そういったところでは、間伐材を伐ってきて、やぐら状にくみ上げ、
ちょうど木の滑り台のようなものを作って、木の上を滑らせて下に流す。そういうものを作ったという
ことが、運材図会に載っています。
木が割れないように、上手に工夫をこらした様子が描かれています。中には、木のやぐらを三階建て
の建物の高さくらいにくみ上げて、流すというより滑らせるような、構造になっています。
そうして、木をたくみに流しながら、朝日あたりまできます。そこでは、川の流れに任せて、一本づつ、
流していきます。途中で、木が詰まったりするところもありますので、そこは、トビという道具を使って、
木を水の流れのほうへ、移動させたりします。

このトビという道具は、昨年、匠学会の展示会でも展示させていただきましたが、木の棒の先に金具を
とりつけたもので、それがちょうど鳥のとんびのくちばしのような形をしています。

このトビの有名なものが高山で作られていたもので、山口とびといいました。江戸時代から明治時代に
かけて、この山口とびを持っていると、事故にあわない、怪我をしないという噂が、こういった山師の方々
の間で広まり、全国的に有名になったということでした。昨年の展示では、桂川さんという山口とびの
製造元へ全国から注文書が入ったという注文書を展示しましたよね。

さて、木が今度は小坂のあたりに集められました。そこでは、上流部で流した木が、ちゃんと上流部で
チェックされただけの本数、そこまできているか。途中での盗難などはなかったか。また痛みや傷などが
ないかをチェックされます。
(どうして、このように厳しくチェックをしたかというと、御用木というのは、種類が
決められていました。飛騨も同じだったと思われますが、木曽には、木曽五木(ごぼく)というのがあって、
一番いい商品から順番に檜、さわら、こうやまき、あすなろ、杉といったものが貴重な五木(ごぼく)でした。
江戸時代には、享保の改革以後、だんだん木が少なくなってきたので、幕府が山を管理するようになり、
勝手に伐った者には処罰を与えるようになりました。 たとえば、ヒノキを勝手に伐り倒した場合、木を
一本伐っただけで、その処罰というものは、打ち首になると言われたほどでした。最近でもヒノキの皮を
茶室の壁などに利用する場合がありますが、たとえヒノキの皮をはいだだけでも、牢獄に入れられる
という、厳罰がありました。今ではなかなか考えられない話ですよね。
これについては、加子母村の奥で、実際にあった話ですが、どうしても儲かる木があると犯罪が増加
するというのが人間の常だったようです。いろいろな例がありました。木を切ると音がするので、こだま
がしますからすぐに木を切っているとわかってしまいますよね。
そこで、村人は、木を切らないで鎌を持ってきて皮をはぎました。
ヒノキの皮のことを桧皮(ひわだ)といいますが、この桧皮は、壁などの建築材料のほか、火縄銃にも
使ったりして、良く売れたそうです。そのため、皮はぎの犯罪が多いのが特徴だったそうです。
この他にも山林犯罪の例は12例あるのですが、処罰は、過料、入牢、死罪、切腹などがあって結構
重罪だったようです。
享保改革以降、最初のうちは死刑になることが少なかったのですが、規則を知らしめるためか役人が、
厳しく取り立てました。しかし、その後になると、死刑にまですることは余程でないとなかったようですが、
罰金、所払いなどの状況になっていました。当然、犯罪者が町に行けば、無宿人、非人として扱わ
れたようですから、一生重荷を背負って生きることになりました。木を許可なく切ると一生を台無しに
してしまったんですね。
さて本日も時間となりました。この続きは、来月の第4週にお話します。
来週は、戦国時代のお話。武田軍の飛騨侵攻について、お話したいと思います。
今週はこの曲でお別れです。大瀧詠一で「君は天然色」ではまた、来週。
徳積善太
2008年07月27日
金山~福来の火打峠
飛騨の下呂門和佐から福来に抜けて、かつては火打峠という峠がありました。
下呂から対岸に渡らずにそのまま陸路を宮地~門和佐~福来~金山へと抜けるルートが
あったところです。

峠の石柱

下呂方面から抜けると、見事な石垣の棚畑になっています。茶畑として利用されています。

しばらく行くと、杉の美林が。かつてはここも茶畑だったと思われます。立派な石垣があります。

峠にある看板。この道を左に行くと、高天良権現跡地へ行く高天良林道に入ります。
この山は、霊山としてあった山で、ふもとの古刹 万福寺の奥の院として、神亀初年(724年)
に泰澄大師が開いた山として知られています。
この林道の分かれ道が、「火打峠」です。

そのことを示す看板があります。

夏らしい画像。今でも清流が流れています。

もう一つ、清流。大変きれいな水です。この水は、福来地区、益田川へと流れています。
徳積善太
下呂から対岸に渡らずにそのまま陸路を宮地~門和佐~福来~金山へと抜けるルートが
あったところです。
峠の石柱
下呂方面から抜けると、見事な石垣の棚畑になっています。茶畑として利用されています。
しばらく行くと、杉の美林が。かつてはここも茶畑だったと思われます。立派な石垣があります。
峠にある看板。この道を左に行くと、高天良権現跡地へ行く高天良林道に入ります。
この山は、霊山としてあった山で、ふもとの古刹 万福寺の奥の院として、神亀初年(724年)
に泰澄大師が開いた山として知られています。
この林道の分かれ道が、「火打峠」です。
そのことを示す看板があります。
夏らしい画像。今でも清流が流れています。
もう一つ、清流。大変きれいな水です。この水は、福来地区、益田川へと流れています。
徳積善太
2008年07月26日
江戸時代に作られた木賊洞の街道
江戸時代に、高山の旦那衆は、自分のお金をつぎ込んで、いろいろと街道整備を行いました。
久々野から渚に行く途中、木賊洞(とくさぼら)という場所がありますが、そこは交通の難所で、
二木長嘯(長右衛門)氏(酒造業)と田中英積(材木商)という人が共同で、文化5年(1808)に私財を
なげうって、土木工事をされました。
その功績をたたえる石碑が、今も木賊洞に残っています。

道路端にある、石碑。河内道改修碑となっていますが、かつてこの地は、河内村と
呼ばれていた地域です。

横から見ると、文化五年の文字がはっきりと見えます。

現在の木賊洞の難所は、洞門になっています。

対岸から見ると、ものすごい崖の連続となっています。

上流部に向かって、左はものすごい崖、右は益田川の流れがあり、交通の難所でした。
以前は、橋が上流部にかけられていたようです。
先人の功績に感謝したいと思います。
徳積善太
久々野から渚に行く途中、木賊洞(とくさぼら)という場所がありますが、そこは交通の難所で、
二木長嘯(長右衛門)氏(酒造業)と田中英積(材木商)という人が共同で、文化5年(1808)に私財を
なげうって、土木工事をされました。
その功績をたたえる石碑が、今も木賊洞に残っています。
道路端にある、石碑。河内道改修碑となっていますが、かつてこの地は、河内村と
呼ばれていた地域です。
横から見ると、文化五年の文字がはっきりと見えます。
現在の木賊洞の難所は、洞門になっています。
対岸から見ると、ものすごい崖の連続となっています。
上流部に向かって、左はものすごい崖、右は益田川の流れがあり、交通の難所でした。
以前は、橋が上流部にかけられていたようです。
先人の功績に感謝したいと思います。
徳積善太
2008年07月25日
無くなった老田酒造
非常に残念な話ですが、このほど、老田酒造さんの建物が取り壊されました。

5月26日撮影 後ろの部分がかなり壊された。

重機で壊しながら、古材がどんどん運ばれていきました。

裏から見ると、かなり広い場所が広がりました。

老田酒造を支えてきた、梁の数々。年代を感じます。

7月23日現在、とうとうサラ地になってしまいました。
天保年間から、200年続いた、千虎屋の暖簾は、なくなってしまいました。
栄枯盛衰を感じます。非常に無常です。悲しいことです。
徳積善太
5月26日撮影 後ろの部分がかなり壊された。
重機で壊しながら、古材がどんどん運ばれていきました。

裏から見ると、かなり広い場所が広がりました。

老田酒造を支えてきた、梁の数々。年代を感じます。
7月23日現在、とうとうサラ地になってしまいました。
天保年間から、200年続いた、千虎屋の暖簾は、なくなってしまいました。
栄枯盛衰を感じます。非常に無常です。悲しいことです。
徳積善太
2008年07月24日
東林寺(浄土宗)に行ってきました
浄土宗のお寺は、飛騨に数が少ないです。
高山には、大雄寺、天照寺、洞雲院、善光寺の4つが現存しますが、飛騨にはあと一つ東林寺という
お寺が、神岡の谷・中山という部落にあります。今回そこへ行ってきました。

現在は、無住となっている本堂

国道41号線沿いにある、東林寺の石柱

南無阿弥陀仏の石柱

ひっそりとした本堂内部

正門のところの、懸魚と向梁 獏が内側を向いています。非常に珍しい。
徳積善太
高山には、大雄寺、天照寺、洞雲院、善光寺の4つが現存しますが、飛騨にはあと一つ東林寺という
お寺が、神岡の谷・中山という部落にあります。今回そこへ行ってきました。
現在は、無住となっている本堂
国道41号線沿いにある、東林寺の石柱
南無阿弥陀仏の石柱
ひっそりとした本堂内部
正門のところの、懸魚と向梁 獏が内側を向いています。非常に珍しい。
徳積善太
2008年07月23日
今日の市民時報
今日の市民時報、久しぶりに屋台の記事がトップでした。

谷越獅子彫刻「一之説」有力に 八幡の鳳凰台・新証拠?出る
「高山祭りの全屋台中最大の大きさを誇り、名工・谷口与鹿(たにぐちよろく)の作という説が
有力だった、八幡祭の鳳凰台の彫刻「谷越獅子」(左写真)が、実は弟子の浅井一之(あさい・かずゆき)
の作である可能性が高まった。

この屋台は、現在、九十九年ぶりの全面改装中。そのため、屋台から彫刻を外したところ、三つある
彫刻の一つに”一之谷口和助則刻”などと彫ってあるのが発見された。(下写真)。和助は一之の通称。
この彫刻については、高山市郷土館にある文書『屋台の再興仕法規定書』の中で、安政三年(1856)
に制作費として与鹿に十両、一之に一両一分支払ったと記されていることや、地元の一刀彫師らが一之の
別の作品と見比べて、作風などが異なっていることなどから「与鹿の作だろう」ということになっていた。
昭和二十七年刊の『高山市史』でも、この説を採用している。
しかし谷口家に「与鹿が下絵を描いて、後を一之にまかせた」と推測できる資料が残っているなど、
「一之説」も根強かった。今回の発見は一之が彫ったという大きな証拠となりそうだ。
ただし、一之が谷口姓を名乗った記録は無いことから「なぜ谷口と彫ってあるのか」という、新たな謎も
合わせて浮上した。」
(高山市民時報 平成20年7月23日(水) 第6265号より)
鳳凰台の谷越え獅子と呼ばれている、3枚の彫刻は、次の通り
屋台正面
屋台右側
屋台左側
いずれもケヤキの一枚板をくり抜いて作ってあり、当時、ケヤキの大板が出たので、それに
彫刻をしてもらおうと、鳳凰台組の方々が依頼したとの言い伝えがあります。
この文中の、『「与鹿が下絵を描いて、後を一之にまかせた」と推測できる資料』というのは、与鹿が
鳳凰台の方に宛てて書いた手紙のことで、次のように書かれています。

屋台会館にある、谷口家所蔵の与鹿書簡
「与鹿書簡訳
仰せにより乱獅子の絵を書いたけれども、急いで帰国(摂津へ)せねばならなくなったので、彫る人
一之に依頼している。本意ではないのですが、宜しくお願いします。獅子は痩せ型に書きました。
屋台に合うように工夫してください。うまくできればと心配をいたしています。五台山の獅子や、以前に
私が手がけた作品などをよく見させ、良いところを取り入れ、まずい部分は捨てさせて彫刻させたいと
願っております。・・・・・・後文略
※これは、大新町組鳳凰台下段彫刻「乱獅子渡渓之図」の製作にあたり、彫刻依頼を受け、
手間賃金十両を受け取った与鹿が、下絵のみを描き、彫りを弟子 浅井一之に頼んで急ぎ
攝津へ旅立つ前に、兄延恭にあてて書き残した手紙と思われる。
これにより、鳳凰台の下段大彫刻の事実が明らかになった。」
この頃、与鹿は、ホームグランドを伊丹においており、この安政三年になぜ高山へ急遽帰ったのか
依然として謎に包まれていますが、私は、次のように考えています。
「兄の延儔の急逝により、鳳凰台の棟梁がいなくなったため、谷口一門が困って、急遽与鹿に高山へ
帰り、采配を振るうように依頼した。そのため、一門の中をとりまとめ、甥の宗之が棟梁として父の後を
継ぐように段取りし、依頼された彫刻については、下絵を急遽仕上げ、彫を弟子の一之にやらせた。
そのあと、伊丹に急遽帰ることになったのは、ある意味口実で、捨てた高山に長居をしたくなかった」
のではないかと考えています。
ただ、伊丹でも、その頃、愛妻の出産を控えていたり、孝明天皇に拝謁するのもこのころでしたので、
それなりの理由はあったものと思います。
早速、明日にでも、鳳凰台の関係者の方にコンタクトをとりたいと思っています。
徳積善太
谷越獅子彫刻「一之説」有力に 八幡の鳳凰台・新証拠?出る
「高山祭りの全屋台中最大の大きさを誇り、名工・谷口与鹿(たにぐちよろく)の作という説が
有力だった、八幡祭の鳳凰台の彫刻「谷越獅子」(左写真)が、実は弟子の浅井一之(あさい・かずゆき)
の作である可能性が高まった。
この屋台は、現在、九十九年ぶりの全面改装中。そのため、屋台から彫刻を外したところ、三つある
彫刻の一つに”一之谷口和助則刻”などと彫ってあるのが発見された。(下写真)。和助は一之の通称。
この彫刻については、高山市郷土館にある文書『屋台の再興仕法規定書』の中で、安政三年(1856)
に制作費として与鹿に十両、一之に一両一分支払ったと記されていることや、地元の一刀彫師らが一之の
別の作品と見比べて、作風などが異なっていることなどから「与鹿の作だろう」ということになっていた。
昭和二十七年刊の『高山市史』でも、この説を採用している。
しかし谷口家に「与鹿が下絵を描いて、後を一之にまかせた」と推測できる資料が残っているなど、
「一之説」も根強かった。今回の発見は一之が彫ったという大きな証拠となりそうだ。
ただし、一之が谷口姓を名乗った記録は無いことから「なぜ谷口と彫ってあるのか」という、新たな謎も
合わせて浮上した。」
(高山市民時報 平成20年7月23日(水) 第6265号より)
鳳凰台の谷越え獅子と呼ばれている、3枚の彫刻は、次の通り
いずれもケヤキの一枚板をくり抜いて作ってあり、当時、ケヤキの大板が出たので、それに
彫刻をしてもらおうと、鳳凰台組の方々が依頼したとの言い伝えがあります。
この文中の、『「与鹿が下絵を描いて、後を一之にまかせた」と推測できる資料』というのは、与鹿が
鳳凰台の方に宛てて書いた手紙のことで、次のように書かれています。
屋台会館にある、谷口家所蔵の与鹿書簡
「与鹿書簡訳
仰せにより乱獅子の絵を書いたけれども、急いで帰国(摂津へ)せねばならなくなったので、彫る人
一之に依頼している。本意ではないのですが、宜しくお願いします。獅子は痩せ型に書きました。
屋台に合うように工夫してください。うまくできればと心配をいたしています。五台山の獅子や、以前に
私が手がけた作品などをよく見させ、良いところを取り入れ、まずい部分は捨てさせて彫刻させたいと
願っております。・・・・・・後文略
※これは、大新町組鳳凰台下段彫刻「乱獅子渡渓之図」の製作にあたり、彫刻依頼を受け、
手間賃金十両を受け取った与鹿が、下絵のみを描き、彫りを弟子 浅井一之に頼んで急ぎ
攝津へ旅立つ前に、兄延恭にあてて書き残した手紙と思われる。
これにより、鳳凰台の下段大彫刻の事実が明らかになった。」
この頃、与鹿は、ホームグランドを伊丹においており、この安政三年になぜ高山へ急遽帰ったのか
依然として謎に包まれていますが、私は、次のように考えています。
「兄の延儔の急逝により、鳳凰台の棟梁がいなくなったため、谷口一門が困って、急遽与鹿に高山へ
帰り、采配を振るうように依頼した。そのため、一門の中をとりまとめ、甥の宗之が棟梁として父の後を
継ぐように段取りし、依頼された彫刻については、下絵を急遽仕上げ、彫を弟子の一之にやらせた。
そのあと、伊丹に急遽帰ることになったのは、ある意味口実で、捨てた高山に長居をしたくなかった」
のではないかと考えています。
ただ、伊丹でも、その頃、愛妻の出産を控えていたり、孝明天皇に拝謁するのもこのころでしたので、
それなりの理由はあったものと思います。
早速、明日にでも、鳳凰台の関係者の方にコンタクトをとりたいと思っています。
徳積善太
2008年07月22日
小鷹利城跡1
先月は、小島城跡について、お知らせしましたが、今週は、小鷹利城跡について、
お知らせしたいと思います。
いずれも、6月1日に行われた、古城めぐりツアーの記録です。
さて、小鷹利城ですが、場所は、古川町黒内にあるサッカー場の後の山の上にあります。

地理的には、古川町と河合町の境目になります。黒内からも遊歩道があり上がることができますが、河合の
稲越地区に一旦出て、国道360号への橋を渡らないで左へ行きます。
すると、夏に六本木へ持っていく雪が保管してある谷の道をどんどん上がっていくと、丁度小鷹利城の
山の後に出ます。今回のツアーもそこから歩きましたが、その道の方が、城跡へ行きやすいと思います。


ここにはかつて、姉小路一族の小鷹利伊賀守が住んでいたといわれています。ここは、峰続きの黒内城
というお城があって、最初は、この黒内城が、姉小路の宰相藤原頼鑑(よりかね)という人が建武2年
(1335)に築き、その後、防禦に勝れた小鷹利の城を作り、そちらに移転したものとも言われています。

黒内城と小鷹利城の両方を熊沢先生がご案内くださいました。
なるほど、城の規模も防禦の仕方も小鷹利城の方が勝れている事が素人目にもわかりました。
中でも驚いたのは、畝堀というものが本丸のすぐ下のところにありましたが、本数が14本もありました。

1mほどの巾で傾斜は30度から40度くらいのものでしょうか、そういう堀がたてに何本も掘られていて、
草がぼうぼうのところもありましたが、草の波ができているようにうねった状態を見ることができました。
ただでさえ、険しい山を敵が登ってきても、最後のこの場所に至ったときに、またこんな要害があれば、
上から弓矢や石を投げられたら、ひとたまりもありません。大勢で攻めてきても、この畝堀を登るときには、
巾が狭いので1人づつしか上れませんし、上の人が倒れれば、その人が下に転げ落ちれば下にいる
何人もの人がなぎ倒されます。昔の人は、よくこういう知恵を出して城の構造を考えたのだなと感心しました。

徳積善太
お知らせしたいと思います。
いずれも、6月1日に行われた、古城めぐりツアーの記録です。
さて、小鷹利城ですが、場所は、古川町黒内にあるサッカー場の後の山の上にあります。
地理的には、古川町と河合町の境目になります。黒内からも遊歩道があり上がることができますが、河合の
稲越地区に一旦出て、国道360号への橋を渡らないで左へ行きます。
すると、夏に六本木へ持っていく雪が保管してある谷の道をどんどん上がっていくと、丁度小鷹利城の
山の後に出ます。今回のツアーもそこから歩きましたが、その道の方が、城跡へ行きやすいと思います。
ここにはかつて、姉小路一族の小鷹利伊賀守が住んでいたといわれています。ここは、峰続きの黒内城
というお城があって、最初は、この黒内城が、姉小路の宰相藤原頼鑑(よりかね)という人が建武2年
(1335)に築き、その後、防禦に勝れた小鷹利の城を作り、そちらに移転したものとも言われています。
黒内城と小鷹利城の両方を熊沢先生がご案内くださいました。
なるほど、城の規模も防禦の仕方も小鷹利城の方が勝れている事が素人目にもわかりました。
中でも驚いたのは、畝堀というものが本丸のすぐ下のところにありましたが、本数が14本もありました。
1mほどの巾で傾斜は30度から40度くらいのものでしょうか、そういう堀がたてに何本も掘られていて、
草がぼうぼうのところもありましたが、草の波ができているようにうねった状態を見ることができました。
ただでさえ、険しい山を敵が登ってきても、最後のこの場所に至ったときに、またこんな要害があれば、
上から弓矢や石を投げられたら、ひとたまりもありません。大勢で攻めてきても、この畝堀を登るときには、
巾が狭いので1人づつしか上れませんし、上の人が倒れれば、その人が下に転げ落ちれば下にいる
何人もの人がなぎ倒されます。昔の人は、よくこういう知恵を出して城の構造を考えたのだなと感心しました。
徳積善太
2008年07月21日
7月21日放送分「小島城と小鷹利城について」
(7月21日)みなさんこんにちは。このコーナーは飛騨歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
7月も第3週に入りました。だんだん夏らしくなってきましたね。この頃飛騨では、朝晩は
いつもと同じで涼しいのに、昼間になると都会と代らないくらい。ひょっとすると、都会よりも
暑い事があります。これは、皆さんがクーラーを使うことと、自動車からの廃熱、パソコンなど
の電化製品の普及などによって、盆地に熱がこもることから起る現象です。都会のヒート
アイランド現象とはちょっと違いますが、以前は、日影に入ると涼しかった飛騨地域ですが、
今はどこへ行っても暑くなりましたから、困り者ですね。できるだけ、エコを考えて、クーラーを
使わずに過ごしたいですね。
さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、6月1日に古川で行われました、
古城めぐりのご報告をさせていただきたいと思います。この企画は、「飛騨を誇る実行委員会」
という有志の皆さんの主催で、開催されました。全部で40人ほどの参加がありましたが、古城
研究の各務ヶ原市 熊沢喜三郎先生による現地の解説と、郷土史研究家の川上節男先生の
歴史背景の解説を交えて、小島城と小鷹利城に登ってまいりました。
皆さん、小島城と小鷹利城といっても、どういう人の城だったか、ご存知でしょうか。
これは、室町時代初期、15世紀に飛騨を知行していた姉小路氏のお城です。ちょっと姉小路氏に
ついて振り返ってみましょう。
姉小路氏は、あねがこうじとも言われ、公家の中では中納言、後に大納言に選ばれた公家でも
上層部の方でした。よく大納言という位は耳にする事がありますが、現在で言う大臣の位にあたり
ます。そんな方が飛騨を知行しておられたのですね。
姉小路氏は、いまから680年ほど前、鎌倉幕府が滅んだ翌年、建武元年(1334)に京都の後醍醐
天皇から国司として任命され、姉小路家綱と言う人が飛騨の地に住んでおられました。その居城が、
現在の古川町太江にある小島城というお城です。おそらく、普段の住まいは、山の麓に館を構えられ、
有事のときには、山城である小島城に登って、敵の攻撃を防いだものでしょう。姉小路家綱は、
京の都を偲んで、この地に東山、嵯峨山、北野、賀茂川、賀茂宮などという地名を名付けられ、
今でもその地名が残っている場所があります。
応永18年(1411)に有名な応永飛騨の乱という戦争が起きます。このときに、姉小路尹綱(ただ
つな)という国司が、反逆したというかどで、越前の朝倉氏、信州の小笠原氏などの5000人とも
いわれる連合軍に10分の一の兵力で立ち向かい、滅ぼされます。
ただし、この時は、尹綱という人一人を排斥するための戦いだったようで、戦争の後、知行地は、
室町幕府よりそのまま姉小路氏に安堵されています。
その後、姉小路家は、3つに分裂し、北から蛤城を拠点とした古河家、太江の小島城を拠点と
した小嶋家、向小島城を拠点とした向小島家に分かれます。
姉小路家は、この3つの家に分かれた事で、現在の古川町から河合町にかけての一帯を知行
する豪族として君臨しました。主家の小島家は天正13年(1585)に小島時光が金森長近と戦い
討死するまで、8代250年の間、公家の名家 姉小路家としての地位を保ち続けました。

説明をされる熊沢先生
さて、小島城は、古川の安望山の尾根続きの山の先端にあり、標高620mあります。麓からは
130mほどの山城で、県の史蹟に指定されています。
熊沢先生の解説によると、曲輪(くるわ)、橋台、掘切、竪堀、石垣、升形虎口などが確認でき、
時代を経て規模を拡大してきた、中世の山城です。
曲輪(くるわ)というのは、城郭や砦などの周りの囲い区域のことで、いわゆる後の安土桃山
時代以降に天守閣や二の丸、三の丸のあった場所で、城の一番中枢の部分です。
ただし、中世の城は、皆さんがイメージされる、天守閣のような建物があったわけではなく、
山の一番上に、柵で囲った平らな場所というものが一般的でした。

小島城の主曲輪
したがって、そこでは、城主が幕などで陣を張り、武装して、戦況を報告させ、指令を出していた
という場所です。
もちろん、普段の生活では、そのような場所は必要ありませんから、普段の生活は、麓にあった
館で、歌でもたしなみながら優雅に暮らしていた事でしょう。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は、夏らしい曲。チャゲと石川優子で「ふたりの愛ランド」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、小島城と小鷹利城のお話をしています。
自然の要害という言葉をよく耳にする事がありますが、先ほど申上げた、堀切、竪堀という言葉や、
土塁、畝堀などという言葉は、まさに自然を生かして作ったものです。それぞれ、地面を掘ったもの
が堀切。山の傾斜に合せて竪に掘ったのが竪堀。掘るのではなくて土を盛り上げたものが土塁。
竪堀を、1m間隔くらいで何本も掘ったものが畝堀というものです。熊沢先生もおっしゃっていましたが、
飛騨は、600年の間、山が自然の形で残っているので、昔の古城の形態が損なわれる事なく、当時の
まま残っているのが特徴だそうです。

竪堀の跡
なるほど、現地に行ってみると、草や笹が生えてぼうぼうになっていますが、少し平らなところがあったり、
畝があって、でこぼこになっていたり、素人の私でも、ここにはどんな堀があったのか、確認できる様子でした。

また、古い石垣が残っていましたが、よく見ると泥岩でできていて、お城のすぐ下のところにあった
石切り場から持ってきたものであることがわかりました。泥岩は加工しやすく、自然の石に比べて、
真っ直ぐに割ったりすることができることから、そういう専門の石工の人がいて、加工したんだなと
思いました。

一般に、お城というと、石垣の堅固なイメージを想像していましたが、飛騨の古城は、崩れやすいところや、
斜面の急なところでは、確かに石垣が組まれていますが、そういう場所は本当に少しで、ほとんどが
地形をそのまま利用したお城だったことがわかりました。
小島城の一番上に立ってみたら、少し木が生い茂っていてわかりにくい部分もありましたが、
南には古河盆地が一望でき、その向こうに蛤城。

北西の方角を見ると、盆地の向こうに向小島城。

そして、後ろ側、北東方向には、神原峠が一望でき、なるほど、交通の要害としては、すべてが
一望できる素晴らしい場所だと思いました。
徒歩で上がる場合は、杉崎からの杉崎口と、沼町からの沼町口、そして太江から上がる太江口が
ありますが、太江口の奥には、途中まで車で上がれる車道があります。途中、車一台分が通れる
くらいの細い砂利道になっていて、慣れないと少し怖いかもしれませんが、乗用車なら楽に行けます
ので、一度行ってみてください。



さて、小鷹利城ですが、場所は、古川町黒内にあるサッカー場の後の山の上にあります。地理的
には、古河町と河合町の境目になります。黒内からも遊歩道があり上がることができますが、河合の
稲越地区に一旦出て、国道360号への橋を渡らないで左へ行きます。
すると、夏に六本木へ持っていく雪が保管してある谷の道をどんどん上がっていくと、丁度小鷹利城の
山の後に出ます。今回のツアーもそこから歩きましたが、その道の方が、城跡へ行きやすいと思います。
ここにはかつて、姉小路一族の小鷹利伊賀守が住んでいたといわれています。ここは、峰続きの黒内城
というお城があって、最初は、この黒内城が、姉小路の宰相藤原頼鑑(よりかね)という人が建武2年
(1335)に築き、その後、防禦に勝れた小鷹利の城を作り、そちらに移転したものとも言われています。

黒内城と小鷹利城の両方を熊沢先生がご案内くださいました。
なるほど、城の規模も防禦の仕方も小鷹利城の方が勝れている事が素人目にもわかりました。
中でも驚いたのは、畝堀というものが本丸のすぐ下のところにありましたが、本数が14本もありました。

1mほどの巾で傾斜は30度から40度くらいのものでしょうか、そういう堀がたてに何本も掘られていて、
草がぼうぼうのところもありましたが、草の波ができているようにうねった状態を見ることができました。
ただでさえ、険しい山を敵が登ってきても、最後のこの場所に至ったときに、またこんな要害があれば、
上から弓矢や石を投げられたら、ひとたまりもありません。大勢で攻めてきても、この畝堀を登るときには、
巾が狭いので1人づつしか上れませんし、上の人が倒れれば、その人が下に転げ落ちれば下にいる
何人もの人がなぎ倒されます。昔の人は、よくこういう知恵を出して城の構造を考えたのだなと感心しました。

さて、本日も時間となりました。この続きは、ブログの方で紹介したいと思います。
来週は、第4週目ですので、匠の話、先月の続きで、木を川に流したお話の続きをしたいと思います。
今日は、この曲でお別れです。
曲は、ちょっとマニアックな曲。山下達郎で「愛を描いて Let's kiss the sun」ではまた来週。
徳積善太
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
7月も第3週に入りました。だんだん夏らしくなってきましたね。この頃飛騨では、朝晩は
いつもと同じで涼しいのに、昼間になると都会と代らないくらい。ひょっとすると、都会よりも
暑い事があります。これは、皆さんがクーラーを使うことと、自動車からの廃熱、パソコンなど
の電化製品の普及などによって、盆地に熱がこもることから起る現象です。都会のヒート
アイランド現象とはちょっと違いますが、以前は、日影に入ると涼しかった飛騨地域ですが、
今はどこへ行っても暑くなりましたから、困り者ですね。できるだけ、エコを考えて、クーラーを
使わずに過ごしたいですね。
さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、6月1日に古川で行われました、
古城めぐりのご報告をさせていただきたいと思います。この企画は、「飛騨を誇る実行委員会」
という有志の皆さんの主催で、開催されました。全部で40人ほどの参加がありましたが、古城
研究の各務ヶ原市 熊沢喜三郎先生による現地の解説と、郷土史研究家の川上節男先生の
歴史背景の解説を交えて、小島城と小鷹利城に登ってまいりました。
皆さん、小島城と小鷹利城といっても、どういう人の城だったか、ご存知でしょうか。
これは、室町時代初期、15世紀に飛騨を知行していた姉小路氏のお城です。ちょっと姉小路氏に
ついて振り返ってみましょう。
姉小路氏は、あねがこうじとも言われ、公家の中では中納言、後に大納言に選ばれた公家でも
上層部の方でした。よく大納言という位は耳にする事がありますが、現在で言う大臣の位にあたり
ます。そんな方が飛騨を知行しておられたのですね。
姉小路氏は、いまから680年ほど前、鎌倉幕府が滅んだ翌年、建武元年(1334)に京都の後醍醐
天皇から国司として任命され、姉小路家綱と言う人が飛騨の地に住んでおられました。その居城が、
現在の古川町太江にある小島城というお城です。おそらく、普段の住まいは、山の麓に館を構えられ、
有事のときには、山城である小島城に登って、敵の攻撃を防いだものでしょう。姉小路家綱は、
京の都を偲んで、この地に東山、嵯峨山、北野、賀茂川、賀茂宮などという地名を名付けられ、
今でもその地名が残っている場所があります。
応永18年(1411)に有名な応永飛騨の乱という戦争が起きます。このときに、姉小路尹綱(ただ
つな)という国司が、反逆したというかどで、越前の朝倉氏、信州の小笠原氏などの5000人とも
いわれる連合軍に10分の一の兵力で立ち向かい、滅ぼされます。
ただし、この時は、尹綱という人一人を排斥するための戦いだったようで、戦争の後、知行地は、
室町幕府よりそのまま姉小路氏に安堵されています。
その後、姉小路家は、3つに分裂し、北から蛤城を拠点とした古河家、太江の小島城を拠点と
した小嶋家、向小島城を拠点とした向小島家に分かれます。
姉小路家は、この3つの家に分かれた事で、現在の古川町から河合町にかけての一帯を知行
する豪族として君臨しました。主家の小島家は天正13年(1585)に小島時光が金森長近と戦い
討死するまで、8代250年の間、公家の名家 姉小路家としての地位を保ち続けました。
説明をされる熊沢先生
さて、小島城は、古川の安望山の尾根続きの山の先端にあり、標高620mあります。麓からは
130mほどの山城で、県の史蹟に指定されています。
熊沢先生の解説によると、曲輪(くるわ)、橋台、掘切、竪堀、石垣、升形虎口などが確認でき、
時代を経て規模を拡大してきた、中世の山城です。
曲輪(くるわ)というのは、城郭や砦などの周りの囲い区域のことで、いわゆる後の安土桃山
時代以降に天守閣や二の丸、三の丸のあった場所で、城の一番中枢の部分です。
ただし、中世の城は、皆さんがイメージされる、天守閣のような建物があったわけではなく、
山の一番上に、柵で囲った平らな場所というものが一般的でした。
小島城の主曲輪
したがって、そこでは、城主が幕などで陣を張り、武装して、戦況を報告させ、指令を出していた
という場所です。
もちろん、普段の生活では、そのような場所は必要ありませんから、普段の生活は、麓にあった
館で、歌でもたしなみながら優雅に暮らしていた事でしょう。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は、夏らしい曲。チャゲと石川優子で「ふたりの愛ランド」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、小島城と小鷹利城のお話をしています。
自然の要害という言葉をよく耳にする事がありますが、先ほど申上げた、堀切、竪堀という言葉や、
土塁、畝堀などという言葉は、まさに自然を生かして作ったものです。それぞれ、地面を掘ったもの
が堀切。山の傾斜に合せて竪に掘ったのが竪堀。掘るのではなくて土を盛り上げたものが土塁。
竪堀を、1m間隔くらいで何本も掘ったものが畝堀というものです。熊沢先生もおっしゃっていましたが、
飛騨は、600年の間、山が自然の形で残っているので、昔の古城の形態が損なわれる事なく、当時の
まま残っているのが特徴だそうです。
竪堀の跡
なるほど、現地に行ってみると、草や笹が生えてぼうぼうになっていますが、少し平らなところがあったり、
畝があって、でこぼこになっていたり、素人の私でも、ここにはどんな堀があったのか、確認できる様子でした。
また、古い石垣が残っていましたが、よく見ると泥岩でできていて、お城のすぐ下のところにあった
石切り場から持ってきたものであることがわかりました。泥岩は加工しやすく、自然の石に比べて、
真っ直ぐに割ったりすることができることから、そういう専門の石工の人がいて、加工したんだなと
思いました。
一般に、お城というと、石垣の堅固なイメージを想像していましたが、飛騨の古城は、崩れやすいところや、
斜面の急なところでは、確かに石垣が組まれていますが、そういう場所は本当に少しで、ほとんどが
地形をそのまま利用したお城だったことがわかりました。
小島城の一番上に立ってみたら、少し木が生い茂っていてわかりにくい部分もありましたが、
南には古河盆地が一望でき、その向こうに蛤城。
北西の方角を見ると、盆地の向こうに向小島城。
そして、後ろ側、北東方向には、神原峠が一望でき、なるほど、交通の要害としては、すべてが
一望できる素晴らしい場所だと思いました。
徒歩で上がる場合は、杉崎からの杉崎口と、沼町からの沼町口、そして太江から上がる太江口が
ありますが、太江口の奥には、途中まで車で上がれる車道があります。途中、車一台分が通れる
くらいの細い砂利道になっていて、慣れないと少し怖いかもしれませんが、乗用車なら楽に行けます
ので、一度行ってみてください。
さて、小鷹利城ですが、場所は、古川町黒内にあるサッカー場の後の山の上にあります。地理的
には、古河町と河合町の境目になります。黒内からも遊歩道があり上がることができますが、河合の
稲越地区に一旦出て、国道360号への橋を渡らないで左へ行きます。
すると、夏に六本木へ持っていく雪が保管してある谷の道をどんどん上がっていくと、丁度小鷹利城の
山の後に出ます。今回のツアーもそこから歩きましたが、その道の方が、城跡へ行きやすいと思います。
ここにはかつて、姉小路一族の小鷹利伊賀守が住んでいたといわれています。ここは、峰続きの黒内城
というお城があって、最初は、この黒内城が、姉小路の宰相藤原頼鑑(よりかね)という人が建武2年
(1335)に築き、その後、防禦に勝れた小鷹利の城を作り、そちらに移転したものとも言われています。
黒内城と小鷹利城の両方を熊沢先生がご案内くださいました。
なるほど、城の規模も防禦の仕方も小鷹利城の方が勝れている事が素人目にもわかりました。
中でも驚いたのは、畝堀というものが本丸のすぐ下のところにありましたが、本数が14本もありました。
1mほどの巾で傾斜は30度から40度くらいのものでしょうか、そういう堀がたてに何本も掘られていて、
草がぼうぼうのところもありましたが、草の波ができているようにうねった状態を見ることができました。
ただでさえ、険しい山を敵が登ってきても、最後のこの場所に至ったときに、またこんな要害があれば、
上から弓矢や石を投げられたら、ひとたまりもありません。大勢で攻めてきても、この畝堀を登るときには、
巾が狭いので1人づつしか上れませんし、上の人が倒れれば、その人が下に転げ落ちれば下にいる
何人もの人がなぎ倒されます。昔の人は、よくこういう知恵を出して城の構造を考えたのだなと感心しました。
さて、本日も時間となりました。この続きは、ブログの方で紹介したいと思います。
来週は、第4週目ですので、匠の話、先月の続きで、木を川に流したお話の続きをしたいと思います。
今日は、この曲でお別れです。
曲は、ちょっとマニアックな曲。山下達郎で「愛を描いて Let's kiss the sun」ではまた来週。
徳積善太
2008年07月20日
茂住~茂住宗貞の謎について5
この大野郡史の「智徳院殿嶋仙忠芳大居士」の位牌のことを調べに、早速大隆寺に行ってきました。

大隆寺本堂。 坂下甚吉の作と伝えられる本堂は、角柱の古い形式の本堂。

大隆寺 本道横にある位牌堂 ここには、金森頼直以下の位牌が祀ってある。

ご本尊裏の位牌堂の中をくまなく探しました。

あった、ありました。
位牌には、2名の方のお名前が刻まれています。
一つは、岩松院殿乾応宗貞大居士=茂住宗貞のものです。
もう一つは、智徳院殿嶋仙忠芳大居士霊となっています。
この位牌の底を見ると

どこかの板に穴を彫って立てかけてあったものであることがわかります。
では、どうして、この位牌が大隆寺にあるのか。
これについては、黄金神社の由来を調べてみましょう。
徳積善太
大隆寺本堂。 坂下甚吉の作と伝えられる本堂は、角柱の古い形式の本堂。
大隆寺 本道横にある位牌堂 ここには、金森頼直以下の位牌が祀ってある。
ご本尊裏の位牌堂の中をくまなく探しました。
あった、ありました。
位牌には、2名の方のお名前が刻まれています。
一つは、岩松院殿乾応宗貞大居士=茂住宗貞のものです。
もう一つは、智徳院殿嶋仙忠芳大居士霊となっています。
この位牌の底を見ると
どこかの板に穴を彫って立てかけてあったものであることがわかります。
では、どうして、この位牌が大隆寺にあるのか。
これについては、黄金神社の由来を調べてみましょう。
徳積善太
2008年07月19日
茂住~茂住宗貞の謎について4
その宮島平左衛門について、大野郡史にこういうことが書かれています。
「寛永8年
重頼、宮島平左衛門を金山奉行となす。
「寛永六年乙巳九月、宮島平左衛門、小島郷片野新田を立退き、後高山に出て滞留中、国守金森家三代
出雲守重頼、之れを召出し家臣の格に列せられ、初め小姓役を務む。後西方半国金山奉行に任せられ、
家禄百五十石を食む。高山綴巷に居宅を定め、鉱石ある山々を巡見し、川上郷、小島郷、白川郷、所々
に新山十余箇所を見立て開坑し、鉱山益々盛んにして威勢大に振い、諸人の羨まさるはなかりきと云う」
(二村家文書)
「寛永八年辛羊年八月、平左衛門は国主出雲守重頼殿の家来となり、金山奉行職として同年九月より
鉱夫数千人を率て西方所々に入山して人夫を支配して諸山に其司人を置く。白川郷六厩村金山の
砂鉱数百人を置て開業するに不日にして黄金を得たり。同郷三谷村の鉱山は赤銅を堀得たり。同郷
三尾河村金山谷鉱山は白銅赤銅を鎔製し、同郷野ノ俣村瀧野鉱山は黄金を鎔製す。同郷新渕村字
宮谷の鉱坑は砂金を得、岩瀬村字向山の鉱山は砂金を得、其外諸山に草分試山と称して鉱坑を
試鑿する事数ヶ所あり。諸山より鎔製して差立る金銀銅鉛数百荷高山城に運送しければ、国主御喜悦
無限其年も月迫に成りければ、奉行を始め司人諸人夫に至る迄褒賞の祝儀として、酒肴物品数多賜り
越年近く下山して皆々住家に帰りけり。(柴田袖水記録)」

とある神社に奉納された 荘川六厩産の金鉱石
寛永十五年
「五月 宮島平左衛門、讒者の言によって高山城中に殺さる
寛永十五年寅五月、乾與右衛門、結党謀を遶(めぐ)らして町中に云觸し、人を替て讒訴しければ、
国主漸く之を信じ玉ひて、急に宮島の邸に使者を遣し、登城を命ぜらる。宮島何心なく登城して、二の丸を
通りかかるに、人の不意に打かかる者あり、宮島不意を被討、戦ひけれ共、早深手を負ひ刀を杖に
突立上り、本丸の方を白眼み、我近来勤功を尽し、莫大の金を製して、飛騨全国の貢金より我納めし
産金は遥に増りて其高多し、然るに其勤功をも思召し玉わず、讒者の舌頭に惑はされて糾明をも不正、
我に無実の罪を負わせ、謀て我不意を討玉ふは、良将に似合わぬ卑怯の致方、金森家世に有る限、
永々此恨を尽さて止ましと、大音にて言叫び遂に息絶えたり、(柴田袖水記録)
其頃諸方の山々に金銀をひただしくわき出、ほれどもほれども尽る事なく太守富貴にあきみち給ひけり、
諸大名の御参会にも萬清らかを尽し宛行はるる御知行より馬、物の具に至る迄花麗に美々しくぞをは
しける、ここに宮島平左衛門といへる者を諸方金山の奉行人と定め給ひける、何事も金山の事みな
平左衛門に打ちまかせ給へば御心のままにぞ金出たりける、其後乾與右衛門といへる者を相役にそ
付られける、此與右衛門といへる者邪曲の侫人なりければ、そひかに訴へ申けるは平左衛門私欲を
構へ夥敷金額をたくはへ候なり、いかやうに致候共相役の者もなく一人の心のままに候得は可然方を
御見立られ相役を御そへ候はば太守の御為可然なりとぞ申ける、太守諸役の人々まで左も有へき事
なりと内談一決しければ、乾與右衛門こそ可然なりとて、頓て乾與右衛門にそ仰付られける、平左衛門、
與右衛門か内訴を伝聞曇りなき心からに與右衛門をうらみ何事もしたしくなかりければ、與右衛門いろ
いろと讒訴して跡方なき事共をさまさまと申侍りければ太守実にもと思召終に平左衛門を斬罪し給ひけり。
(岷江記)
智徳院嶋仙忠芳大居士 宮島平左衛門 (大隆寺位牌)」
徳積善太
「寛永8年
重頼、宮島平左衛門を金山奉行となす。
「寛永六年乙巳九月、宮島平左衛門、小島郷片野新田を立退き、後高山に出て滞留中、国守金森家三代
出雲守重頼、之れを召出し家臣の格に列せられ、初め小姓役を務む。後西方半国金山奉行に任せられ、
家禄百五十石を食む。高山綴巷に居宅を定め、鉱石ある山々を巡見し、川上郷、小島郷、白川郷、所々
に新山十余箇所を見立て開坑し、鉱山益々盛んにして威勢大に振い、諸人の羨まさるはなかりきと云う」
(二村家文書)
「寛永八年辛羊年八月、平左衛門は国主出雲守重頼殿の家来となり、金山奉行職として同年九月より
鉱夫数千人を率て西方所々に入山して人夫を支配して諸山に其司人を置く。白川郷六厩村金山の
砂鉱数百人を置て開業するに不日にして黄金を得たり。同郷三谷村の鉱山は赤銅を堀得たり。同郷
三尾河村金山谷鉱山は白銅赤銅を鎔製し、同郷野ノ俣村瀧野鉱山は黄金を鎔製す。同郷新渕村字
宮谷の鉱坑は砂金を得、岩瀬村字向山の鉱山は砂金を得、其外諸山に草分試山と称して鉱坑を
試鑿する事数ヶ所あり。諸山より鎔製して差立る金銀銅鉛数百荷高山城に運送しければ、国主御喜悦
無限其年も月迫に成りければ、奉行を始め司人諸人夫に至る迄褒賞の祝儀として、酒肴物品数多賜り
越年近く下山して皆々住家に帰りけり。(柴田袖水記録)」
とある神社に奉納された 荘川六厩産の金鉱石
寛永十五年
「五月 宮島平左衛門、讒者の言によって高山城中に殺さる
寛永十五年寅五月、乾與右衛門、結党謀を遶(めぐ)らして町中に云觸し、人を替て讒訴しければ、
国主漸く之を信じ玉ひて、急に宮島の邸に使者を遣し、登城を命ぜらる。宮島何心なく登城して、二の丸を
通りかかるに、人の不意に打かかる者あり、宮島不意を被討、戦ひけれ共、早深手を負ひ刀を杖に
突立上り、本丸の方を白眼み、我近来勤功を尽し、莫大の金を製して、飛騨全国の貢金より我納めし
産金は遥に増りて其高多し、然るに其勤功をも思召し玉わず、讒者の舌頭に惑はされて糾明をも不正、
我に無実の罪を負わせ、謀て我不意を討玉ふは、良将に似合わぬ卑怯の致方、金森家世に有る限、
永々此恨を尽さて止ましと、大音にて言叫び遂に息絶えたり、(柴田袖水記録)
其頃諸方の山々に金銀をひただしくわき出、ほれどもほれども尽る事なく太守富貴にあきみち給ひけり、
諸大名の御参会にも萬清らかを尽し宛行はるる御知行より馬、物の具に至る迄花麗に美々しくぞをは
しける、ここに宮島平左衛門といへる者を諸方金山の奉行人と定め給ひける、何事も金山の事みな
平左衛門に打ちまかせ給へば御心のままにぞ金出たりける、其後乾與右衛門といへる者を相役にそ
付られける、此與右衛門といへる者邪曲の侫人なりければ、そひかに訴へ申けるは平左衛門私欲を
構へ夥敷金額をたくはへ候なり、いかやうに致候共相役の者もなく一人の心のままに候得は可然方を
御見立られ相役を御そへ候はば太守の御為可然なりとぞ申ける、太守諸役の人々まで左も有へき事
なりと内談一決しければ、乾與右衛門こそ可然なりとて、頓て乾與右衛門にそ仰付られける、平左衛門、
與右衛門か内訴を伝聞曇りなき心からに與右衛門をうらみ何事もしたしくなかりければ、與右衛門いろ
いろと讒訴して跡方なき事共をさまさまと申侍りければ太守実にもと思召終に平左衛門を斬罪し給ひけり。
(岷江記)
智徳院嶋仙忠芳大居士 宮島平左衛門 (大隆寺位牌)」
徳積善太
2008年07月18日
茂住~茂住宗貞の謎について3

金森長近が活躍したのは、大永4年(1524)~慶長13年(1608)8月12日まで、85歳という
年齢でなくなるまで、数多くの城下町を作り、活躍しました。
金森頼業は、寛文五年(1665)7月18日、父頼直の卒去により9月21日に飛騨を知行地として
賜ってから、寛文11年(1671)12月28日に江戸にて亡くなるまで、わずか24年の命でした。
(金森 頼業(かなもり よりなり、慶安元年(1648年) - 寛文11年12月28日(1672年1月27日))は、
飛騨国高山藩の第5代藩主。父は第4代藩主・金森頼直。母は本多忠義の娘。正室は井上正任の娘。
側室もいる。官位は従五位下、飛騨守。弟に金森近供、権之助(早世)、金森直清、金森重矩。
寛文5年(1665年)、父の死去により後を継ぐ。寛文8年(1668年)に藩内で鉱山騒動を起こして藩の
衰退を招いた。寛文11年(1671年)12月28日、24歳で死去し、後を子の金森頼時が継いだ。
法号:照見院殿。墓所:大隆寺。後に京都市北区紫野大徳寺町の龍源院。以上 Wikipediaより)
金森史に茂住宗貞・宮島平左衛門については、こう書かれています。
・天正17年(1589) 飛騨国東茂住の豪民にして、糸屋彦次郎宗貞」は国主長近に仕え、姓を賜り
金森宗貞といった。(越前大野城と金森長近)
・慶長13年(1608) 長近が逝去したことを知った金森宗貞は、茂住の我が家に火をつけ、
自身は即刻越中へ逃げ、能登へ退いた。(飛騨国中案内)
・慶長13年(1608)8月24日 金森宗貞、邸を発して敦賀に逃げた。(越前大野城と金森長近)
・寛永8年(1631)この年、重頼、宮島平左衛門を金山奉行となす。(大野郡史)
・寛永15年(1638)5月 宮島平左衛門、讒者の言によって高山城中に殺さる。(大野郡史)
・寛文八年(1668)9月18日 頼業、鉱山師茂住宗貞の驕奢を悪み、其下代宮島平左衛門を城中に
殺す(飛騨編年史要)
さて、これを見てもわかるように、茂住宗貞は、金森長近が卒去したのち、すぐに可重との確執を感じ
越中から越前の敦賀に逃げていることがわかります。
また、下代といわれた宮島平左衛門については、上記の記述が確かならば、2度死んでいるという
不思議なことがあります。こんなことが、ありえるのでしょうか?
徳積善太
2008年07月17日
茂住~茂住宗貞の謎について2

飛騨一日一話に次のような記述があります。
「金森頼業の死 飛騨一日一話P256より
九月十一日 寛文五年(1665)
金森五代頼業は幼名五郎八といって慶安元年(1648)に生まれた。寛文二年従五位下飛騨守に
叙任したが三年後、父長門守頼直の死にあい、この日十七歳で父の遺領飛騨一円を与えられた。
頼業は生まれつき風流を好み、家臣木村昌悦、日根野宣潔などと連歌を興行して楽しみその遺作
が伝わる。寛文八年鉱山師茂住宗亭(ママ)の繁栄を憎んだ頼業は、宗貞の下代宮島平佐衛門を
城中によび寄せ殺害させた。平左衛門は金森家へ呪いの言葉を残して死んだが、異変を知った
宗貞は国外に逃亡し故郷越前に帰った。以来飛騨の鉱山は急激に衰え、高山城内にも怪異が起り、
頼業も病体となって遂に立てず、寛文十一年十二月二十八日江戸の藩邸で卒去した。
年二十四歳。照見院殿覚峰宗因大居士といい、高山大隆寺に帰葬したが元禄五年金森家国替の
とき、京都大徳寺塔頭金龍院(現龍源院)へ移葬した。
頼業は寛文十年武運長久を祈願し飛騨一之宮水無神社へ仁王門を寄進し造立したが、大原
安永騒動後の安永八年(1779)宮村往還寺に移されて現存し、宮村の文化財として保存されている。」
文中、宮島平佐衛門が、茂住宗貞の下代ということになっていますが、茂住宗貞は、金森長近が
高山に連れてきた鉱山師です。
宮島平佐衛門が、頼業の時代になくなったとすると、茂住宗貞は、金森長近の時代から五代あと
の頼業の時代まで、生きていたことになります。
これについて、疑問を持ちました。
徳積善太
2008年07月16日
塩屋筑前守秋貞について2
先日、宮川村前村長さんにお聞きしたので、早速、光明寺におまいりしてきました。

宮川村打保の光明寺

風格のある正面
こちらは、禅宗(曹洞宗)のお寺ですが、高山の素玄寺の末寺だそうです。
そのためか、屋根と玄関には、金森の梅鉢紋があり、何か関係があるのかと思いました。

ご住職に伺うと「金森との関係というより、前田家の菩提寺ということで、あの家紋が
使われていると伺っております」とのことでした。
早速、塩屋筑前守のご位牌を見せていただきました。

塩屋筑前守のご位牌

位牌の裏面
この位牌は、後年になって直された物らしいのですが、ちゃんと文字を確認することが
できました。
こういう記述があります。
「天正六年五月十二日戸谷字山之口ニ戦歿 古川高野城主 塩屋筑前守秋貞
享年六十三歳」
徳積善太
宮川村打保の光明寺
風格のある正面
こちらは、禅宗(曹洞宗)のお寺ですが、高山の素玄寺の末寺だそうです。
そのためか、屋根と玄関には、金森の梅鉢紋があり、何か関係があるのかと思いました。
ご住職に伺うと「金森との関係というより、前田家の菩提寺ということで、あの家紋が
使われていると伺っております」とのことでした。
早速、塩屋筑前守のご位牌を見せていただきました。
塩屋筑前守のご位牌
位牌の裏面
この位牌は、後年になって直された物らしいのですが、ちゃんと文字を確認することが
できました。
こういう記述があります。
「天正六年五月十二日戸谷字山之口ニ戦歿 古川高野城主 塩屋筑前守秋貞
享年六十三歳」
徳積善太
2008年07月15日
塩屋筑前守秋貞について1
以前、お知らせいたしましたが、塩屋筑前守秋貞という人が飛騨にはいました。
彼の足跡は、伝承などをつなげると下記のようになります。
これは、まだ、どの本にも書かれていません。私の私見です。
高山塩屋生まれ→丹生川尾崎城主→古川蛤城主→越中 猿ヶ倉城主→
越中より飛騨に攻め入る(同時期 宮川 塩屋城主として上杉軍を迎え入れ)→
上杉軍の先兵として越中 真宗門徒と戦う→戦いきれず上杉を裏切る→
上杉に追われ 猪谷で鉄砲にあたり戦死(享年63歳)→宮川村に墓が存在(伝承)
ということがわかってきました。
猪谷には、彼の墓があり、宮川村に墓と位牌があります。

猪谷にある 塩屋筑前守の墓と伝えられる墓

宮川にある 塩屋筑前守の墓と伝えられる墓
先日、前村長さんにお会いして、この墓のいきさつについてうかがったところ、
「猪谷に墓があるとの伝承を聞いたので、先に作っておかないとやられてしまうという
ことになり、教育委員会が中心になって、墓を建てた。この戸谷という地域には、
昔、墓があったという伝承があり、塩屋筑前守の位牌を安置した祠があった。
のちに、光明寺という寺がこの地にできたので、そこに位牌が安置された。」
ということでした。
この猪谷の地と、宮川町戸谷の地の二箇所に墓があるというのは非常に不思議でした。
距離にして、大体20kmくらい離れていますので、鉄砲傷を負った人が、いくら戸板に
乗せられて命からがら逃げ帰ったとしても、ここで存命したとは考えにくいです。
私の私見ですが、おそらく猪谷でなくなり、その遺髪を持った家来たちが、飛騨のこの
戸谷の場所に、その遺髪を埋めたのではなかろうか。そこを地元民の人たちが代々、
塩屋筑前の墓として守をしてきたのではないか。と考えました。
まさに、歴史ロマンですね。
徳積善太
彼の足跡は、伝承などをつなげると下記のようになります。
これは、まだ、どの本にも書かれていません。私の私見です。
高山塩屋生まれ→丹生川尾崎城主→古川蛤城主→越中 猿ヶ倉城主→
越中より飛騨に攻め入る(同時期 宮川 塩屋城主として上杉軍を迎え入れ)→
上杉軍の先兵として越中 真宗門徒と戦う→戦いきれず上杉を裏切る→
上杉に追われ 猪谷で鉄砲にあたり戦死(享年63歳)→宮川村に墓が存在(伝承)
ということがわかってきました。
猪谷には、彼の墓があり、宮川村に墓と位牌があります。
猪谷にある 塩屋筑前守の墓と伝えられる墓
宮川にある 塩屋筑前守の墓と伝えられる墓
先日、前村長さんにお会いして、この墓のいきさつについてうかがったところ、
「猪谷に墓があるとの伝承を聞いたので、先に作っておかないとやられてしまうという
ことになり、教育委員会が中心になって、墓を建てた。この戸谷という地域には、
昔、墓があったという伝承があり、塩屋筑前守の位牌を安置した祠があった。
のちに、光明寺という寺がこの地にできたので、そこに位牌が安置された。」
ということでした。
この猪谷の地と、宮川町戸谷の地の二箇所に墓があるというのは非常に不思議でした。
距離にして、大体20kmくらい離れていますので、鉄砲傷を負った人が、いくら戸板に
乗せられて命からがら逃げ帰ったとしても、ここで存命したとは考えにくいです。
私の私見ですが、おそらく猪谷でなくなり、その遺髪を持った家来たちが、飛騨のこの
戸谷の場所に、その遺髪を埋めたのではなかろうか。そこを地元民の人たちが代々、
塩屋筑前の墓として守をしてきたのではないか。と考えました。
まさに、歴史ロマンですね。
徳積善太
2008年07月14日
7月14日放送分「山の展示会について」
<7月14日放送分>みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう7月に入ってだんだん暑くなってきましたねえ。ビールがおいしかったり、清涼飲料がおい
しかったりしますが、あまり飲みすぎますと、冷えからおなかを壊したりします。
どうぞ、健康管理は充分にしていてくださいね。
さて、この放送ですが、放送時間のほうは、毎週月曜日の夜7時半からと、毎週土曜日の午前10時半
からお届けしております。最近、リスナーの方にお聞きしますと、土曜日の放送を聞いておられる方が
多いようですね。
どうしても、野球とかドラマとか、TVのゴールデンタイムには、そっちを楽しみたいですよね。
また、聞き逃してしまったという方には、この放送のバックナンバーを、ひだっちブログのほうにも掲載
させていただいていますので、一度ご覧下さい。
こちらのほうは、昨年12月以降は毎日更新しています。この放送でお伝えできない画像や私が最近
調査したことなどもお知らせしておりますので、どうぞごらんいただければと思います。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、今度、飛騨センターに起きまして、山の展示会が開催
されますので、それについてのお話したいと思います。
今日は、この番組にしては珍しく、というか、昨年10月以来ですから、久しぶりにゲストをお招きして
おります。私が一人でやるようになってからは、初のゲストですが、ご紹介したいと思います。
私のこの原稿をいつも、監修してチェックしていただいています、ミュージアム飛騨 学芸員の
牛丸岳彦さんです。
牛丸さん、こんにちは。
う「こんにちは」
な「牛丸さんには、いつもこのコーナーの原稿をチェックしていただいてありがとうございます。」
う「いえどうも」
な「さて、今度、岐阜県ミュージアム飛騨で開催される展示会ですが、どのような展示会ですか?」
う「タイトル:山とひだびと 雲上の頂に挑む
期間:7月19日から9月15日
目的:飛騨の人にとって山はなじみ深いものです。ひだびとは山とどのようにかかわってきたのか?
特に登山を中心にして取り上げます。
展示内容:「縄文時代の遺跡からは長野県や新潟県でしか採れない石が出土していますし、
縄文土器にも信州系、富山系などと言われているものがありまして、各方面との交流がありました。
当時山を越えていた人がいたということです。
また、山で暮らしを立てている人も多くいました。木を伐る人、木製品を作る人、猟師、漁師などです。
ところがこれらの人には山頂を目指す、という発想はなかったのではないでしょうか?
山頂を目指す、という行為が始まるのは一つは宗教登山であり、もう一つが西洋アルピニズムの影響で
始まる近代登山であると。こういったことに関わる資料を展示します。」
な「今年は、飛騨山岳会が、創立100周年ということですが、そちらの展示もあるのですか?」
う「はい。今回は特に飛騨山岳会が100周年を迎えるということで、共催という形で開催されます。
昨年チベットのモンタ・カンリ峰というまだ誰も登ったことのない山に登ったことは記憶に新しいかと
思いますが、その時の装備なども展示したいと思います。
また、飛騨山岳会の歴史は近代登山の歴史でもあります。これを調べていくと飛騨の、いえ、
日本の近代登山の歴史も分かるのではないかと思います。」
さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。曲は私が選曲しましたが、山に関することということで、
「高山市の歌」をお届けします。冒頭に「しろがねの、雪のアルプス真向かいに~」という歌詞で始まる
んですよ。では、お聞きください。
今日の飛騨歴史再発見は、今度 ミュージアム飛騨で行われる「山の展示会」についてお話しています。
本日は、ゲストに 牛丸岳彦さんをお迎えしてお話を伺っています。
な「さて、牛丸さん、後半では展示についてもう少し細かくお話いただきたいと思いますが、昨年の飛騨の
匠展では、4つのコーナーごとにテーマを決めた展示を行いましたが、今度の展示では、そのような形を
とっているんですか?」
う「今回は小さなコーナーもありますが、大きくは三つに分けています。一つは生活の山、もう一つは宗教
登山、最後に近代登山です。」
な「では、それぞれについて、お話いただきましょう。(各コーナーについての紹介)」
う「一つ目の生活の山、というのは先ほども少しお話しましたが、縄文人とか、木を伐る人などの展示です。
面白いのは、木を伐る前に、山を調べに何日も山にこもるのです。山翅(やまかき)と江戸時代の人は言って
います。また、当時の山小屋は入ると真中に土間があって、その両側に板の間があって居住スペースに
なっているのですが、この形は初期の山小屋に引き継がれていきます。
猟師さんほど山に詳しい人はいません。明治時代に山に登る人はほとんど猟師に案内を頼んでいます。
有名なところでは、上高地にウェストン碑がありますが、このウェストンは上高地の嘉門次という猟師や、
また奥飛騨温泉郷の中尾の猟師などに案内を頼んでいます。
二つ目の宗教登山ですが、山というのは信仰の対象になるものです。私も残雪、新緑、紅葉など、いろんな
山を見ると心が落ち着くような気がします。8年高山を離れ、帰ってきた時に、冬頭町の山から飛騨山脈をみて、
「あ~、この町で生きていこう」という気になりました。
昔福田夕咲という詩人がいたのですが、この人は「山岳は人格を浄化す」なんてことを言ってますね。
話がそれました。まぁ、このように山に対する信仰心は多くの人が抱くものだと思います。縄文人も同じような
感情は持ったと思います。宗教登山が実際に出てくるのは白山や御嶽山などで、白山などは平安時代に
遡ります。実際に山頂の近くからお祭りなどに使ったとみられる土器がたくさん出ています。
新田次郎の小説で『槍ヶ岳開山 播隆』がありますが、この播隆が最初に開山、正確には再興ですが、
したのが笠ヶ岳です。
笠ヶ岳は円空や道泉和尚などが早くに登ったという伝承がありますが、確実なところでは南裔というお坊さん
が山頂に鉄札を置いてきているのが最初です。
その他面白い人がいまして、無尽秀全という行者なんですが、上牧太郎之助や板殿正太郎などの、後に
登山道の整備に尽力する人たちが、この無尽秀全という行者の影響を受けているのです。」
な「 今回は、山岳会の方々とも協力体制を取っているんですか?」
う「飛騨山岳会の歴史は近代登山の歴史、といっても過言ではないと思います。百年の歴史を限られた
時間で話すのは難しいですし、私が適任とも思えませんが、簡単にまとめてみると。100年前、学校の
教員達が山の自然を調査したり、体を鍛えたり、それを子供たちに伝えたり、というようなことを目的に
飛騨山岳会を設立します。これが山に多くの人が入るようになり、山の事が分かってくると、今度はそれを
皆に伝えよう、という活動をするようになります。
今の乗鞍青年の家あたりは昭和のはじめ頃に開発されて「飛騨乗鞍スキー場」というのがありました。
もちろんリフトなどはなく担いで登って滑ってくる、というものですが。飛騨山岳会は一時期五つの山小屋を
持って管理していました。名古屋や大阪の人もやってきて非常に賑わっていたそうです。
そうして、戦後、登山というものが一般に認知されてくると、飛騨山岳会は登山を専門にする団体に
変わってきます。笠ヶ岳や錫杖岳の岩壁のルートを開発したり、海外登山なども盛んに行っています。
それが今回のモンタ・カンリにもつながってくると思います。
あと、今回イベントとして対談「登山医学を考える」、講演会「山頂から宇宙を探る」シンポジウム
「笠ヶ岳を考える」「飛騨の山体験バスツアー」なども計画しています。
日曜日には誰かが鑑賞ガイドを行っていますのでこの日に来ていただけると面白い話が聞けると思います。」
な「それぞれの詳しい時間などは、市内各所に置いてありますパンフレットなどでご確認いただきたいと
思います。では最後に、もう一度、展示会の名前と、期間についてお話いただきたいと思います。」
う「展示会名:山とひだびと 雲上の頂に挑む
開催期間:7月19日から9月15日
入場料:大人の方500円です。高校生以下は無料!です。」
な「ということでございますので、皆さんもぜひこの機会にごらんいただければと思います。」
さて、来週は、第3週目ですので、古川のお話。先日6月1日に古川でツアーがありまして、
小島城と小鷹利城に登ってきました。そのレポートをお話したいと思います。
それでは、最後になりました、今日は牛丸岳彦さんをお迎えしてお届けしました。最後に牛丸さん、
曲のリクエストをいただけますか?
う「村下孝蔵で 初恋」をお願いします。」
な「はい、それでは、牛丸さんからのリクエストでお別れです。曲は「初恋」
牛丸さん、今日はどうもありがとうございました。」
う「ありがとうございました」
な「ではまた、来週、お会いしましょう!」
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう7月に入ってだんだん暑くなってきましたねえ。ビールがおいしかったり、清涼飲料がおい
しかったりしますが、あまり飲みすぎますと、冷えからおなかを壊したりします。
どうぞ、健康管理は充分にしていてくださいね。
さて、この放送ですが、放送時間のほうは、毎週月曜日の夜7時半からと、毎週土曜日の午前10時半
からお届けしております。最近、リスナーの方にお聞きしますと、土曜日の放送を聞いておられる方が
多いようですね。
どうしても、野球とかドラマとか、TVのゴールデンタイムには、そっちを楽しみたいですよね。
また、聞き逃してしまったという方には、この放送のバックナンバーを、ひだっちブログのほうにも掲載
させていただいていますので、一度ご覧下さい。
こちらのほうは、昨年12月以降は毎日更新しています。この放送でお伝えできない画像や私が最近
調査したことなどもお知らせしておりますので、どうぞごらんいただければと思います。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、今度、飛騨センターに起きまして、山の展示会が開催
されますので、それについてのお話したいと思います。
今日は、この番組にしては珍しく、というか、昨年10月以来ですから、久しぶりにゲストをお招きして
おります。私が一人でやるようになってからは、初のゲストですが、ご紹介したいと思います。
私のこの原稿をいつも、監修してチェックしていただいています、ミュージアム飛騨 学芸員の
牛丸岳彦さんです。
牛丸さん、こんにちは。
う「こんにちは」
な「牛丸さんには、いつもこのコーナーの原稿をチェックしていただいてありがとうございます。」
う「いえどうも」
な「さて、今度、岐阜県ミュージアム飛騨で開催される展示会ですが、どのような展示会ですか?」
う「タイトル:山とひだびと 雲上の頂に挑む
期間:7月19日から9月15日
目的:飛騨の人にとって山はなじみ深いものです。ひだびとは山とどのようにかかわってきたのか?
特に登山を中心にして取り上げます。
展示内容:「縄文時代の遺跡からは長野県や新潟県でしか採れない石が出土していますし、
縄文土器にも信州系、富山系などと言われているものがありまして、各方面との交流がありました。
当時山を越えていた人がいたということです。
また、山で暮らしを立てている人も多くいました。木を伐る人、木製品を作る人、猟師、漁師などです。
ところがこれらの人には山頂を目指す、という発想はなかったのではないでしょうか?
山頂を目指す、という行為が始まるのは一つは宗教登山であり、もう一つが西洋アルピニズムの影響で
始まる近代登山であると。こういったことに関わる資料を展示します。」
な「今年は、飛騨山岳会が、創立100周年ということですが、そちらの展示もあるのですか?」
う「はい。今回は特に飛騨山岳会が100周年を迎えるということで、共催という形で開催されます。
昨年チベットのモンタ・カンリ峰というまだ誰も登ったことのない山に登ったことは記憶に新しいかと
思いますが、その時の装備なども展示したいと思います。
また、飛騨山岳会の歴史は近代登山の歴史でもあります。これを調べていくと飛騨の、いえ、
日本の近代登山の歴史も分かるのではないかと思います。」
さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。曲は私が選曲しましたが、山に関することということで、
「高山市の歌」をお届けします。冒頭に「しろがねの、雪のアルプス真向かいに~」という歌詞で始まる
んですよ。では、お聞きください。
今日の飛騨歴史再発見は、今度 ミュージアム飛騨で行われる「山の展示会」についてお話しています。
本日は、ゲストに 牛丸岳彦さんをお迎えしてお話を伺っています。
な「さて、牛丸さん、後半では展示についてもう少し細かくお話いただきたいと思いますが、昨年の飛騨の
匠展では、4つのコーナーごとにテーマを決めた展示を行いましたが、今度の展示では、そのような形を
とっているんですか?」
う「今回は小さなコーナーもありますが、大きくは三つに分けています。一つは生活の山、もう一つは宗教
登山、最後に近代登山です。」
な「では、それぞれについて、お話いただきましょう。(各コーナーについての紹介)」
う「一つ目の生活の山、というのは先ほども少しお話しましたが、縄文人とか、木を伐る人などの展示です。
面白いのは、木を伐る前に、山を調べに何日も山にこもるのです。山翅(やまかき)と江戸時代の人は言って
います。また、当時の山小屋は入ると真中に土間があって、その両側に板の間があって居住スペースに
なっているのですが、この形は初期の山小屋に引き継がれていきます。
猟師さんほど山に詳しい人はいません。明治時代に山に登る人はほとんど猟師に案内を頼んでいます。
有名なところでは、上高地にウェストン碑がありますが、このウェストンは上高地の嘉門次という猟師や、
また奥飛騨温泉郷の中尾の猟師などに案内を頼んでいます。
二つ目の宗教登山ですが、山というのは信仰の対象になるものです。私も残雪、新緑、紅葉など、いろんな
山を見ると心が落ち着くような気がします。8年高山を離れ、帰ってきた時に、冬頭町の山から飛騨山脈をみて、
「あ~、この町で生きていこう」という気になりました。
昔福田夕咲という詩人がいたのですが、この人は「山岳は人格を浄化す」なんてことを言ってますね。
話がそれました。まぁ、このように山に対する信仰心は多くの人が抱くものだと思います。縄文人も同じような
感情は持ったと思います。宗教登山が実際に出てくるのは白山や御嶽山などで、白山などは平安時代に
遡ります。実際に山頂の近くからお祭りなどに使ったとみられる土器がたくさん出ています。
新田次郎の小説で『槍ヶ岳開山 播隆』がありますが、この播隆が最初に開山、正確には再興ですが、
したのが笠ヶ岳です。
笠ヶ岳は円空や道泉和尚などが早くに登ったという伝承がありますが、確実なところでは南裔というお坊さん
が山頂に鉄札を置いてきているのが最初です。
その他面白い人がいまして、無尽秀全という行者なんですが、上牧太郎之助や板殿正太郎などの、後に
登山道の整備に尽力する人たちが、この無尽秀全という行者の影響を受けているのです。」
な「 今回は、山岳会の方々とも協力体制を取っているんですか?」
う「飛騨山岳会の歴史は近代登山の歴史、といっても過言ではないと思います。百年の歴史を限られた
時間で話すのは難しいですし、私が適任とも思えませんが、簡単にまとめてみると。100年前、学校の
教員達が山の自然を調査したり、体を鍛えたり、それを子供たちに伝えたり、というようなことを目的に
飛騨山岳会を設立します。これが山に多くの人が入るようになり、山の事が分かってくると、今度はそれを
皆に伝えよう、という活動をするようになります。
今の乗鞍青年の家あたりは昭和のはじめ頃に開発されて「飛騨乗鞍スキー場」というのがありました。
もちろんリフトなどはなく担いで登って滑ってくる、というものですが。飛騨山岳会は一時期五つの山小屋を
持って管理していました。名古屋や大阪の人もやってきて非常に賑わっていたそうです。
そうして、戦後、登山というものが一般に認知されてくると、飛騨山岳会は登山を専門にする団体に
変わってきます。笠ヶ岳や錫杖岳の岩壁のルートを開発したり、海外登山なども盛んに行っています。
それが今回のモンタ・カンリにもつながってくると思います。
あと、今回イベントとして対談「登山医学を考える」、講演会「山頂から宇宙を探る」シンポジウム
「笠ヶ岳を考える」「飛騨の山体験バスツアー」なども計画しています。
日曜日には誰かが鑑賞ガイドを行っていますのでこの日に来ていただけると面白い話が聞けると思います。」
な「それぞれの詳しい時間などは、市内各所に置いてありますパンフレットなどでご確認いただきたいと
思います。では最後に、もう一度、展示会の名前と、期間についてお話いただきたいと思います。」
う「展示会名:山とひだびと 雲上の頂に挑む
開催期間:7月19日から9月15日
入場料:大人の方500円です。高校生以下は無料!です。」
な「ということでございますので、皆さんもぜひこの機会にごらんいただければと思います。」
さて、来週は、第3週目ですので、古川のお話。先日6月1日に古川でツアーがありまして、
小島城と小鷹利城に登ってきました。そのレポートをお話したいと思います。
それでは、最後になりました、今日は牛丸岳彦さんをお迎えしてお届けしました。最後に牛丸さん、
曲のリクエストをいただけますか?
う「村下孝蔵で 初恋」をお願いします。」
な「はい、それでは、牛丸さんからのリクエストでお別れです。曲は「初恋」
牛丸さん、今日はどうもありがとうございました。」
う「ありがとうございました」
な「ではまた、来週、お会いしましょう!」
徳積善太
2008年07月13日
中日新聞 全国版社会面に掲載されました
昨日の「薩摩琵琶を聴く会」について、中日新聞の全国版に掲載されました。
<番外編>
料亭 州さきの庭。 打ち水をすると涼しい感じの雰囲気のいい庭です。
料亭 州さきの大広間。 座敷が準備される前です。簾戸がいかにも涼しげです。
大広間の床の間。 左側の部分が、「琵琶床」といって、元来飾り琵琶を飾る場所だそうです。
この「琵琶床」のある座敷は、大変珍しいそうです。
井村先生が、飾り琵琶を飾ってくださいました。なお、この琵琶は、15年ほど前に熊谷さんという
飛騨春慶塗の職人さんの作品だそうです。
この琵琶は、4種類あって、西郷隆盛の家訓「敬天愛人」の文字がそれぞれ記されているそうです。
この琵琶には、そのうち「愛」の文字が、後ろに書かれています。
琵琶の弾奏前の勉強会。 徳増先生による「金森宗和」の説明がありました。
井村先生による、薩摩琵琶の弾奏です。 2曲続けて演奏されました。
終了後の懇親会。 いろいろとお話が出ました。
偶然なんですが、徳増先生は「佐藤一斎翁」の研究家で、座敷の額は一斎翁の文字が飾ってありました。
徳積善太
2008年07月12日
薩摩琵琶の演奏会を開催しました
昨日、高山の料亭 州さきにおいて、薩摩琵琶の演奏会を開催しました。

演奏されたのは、薩摩琵琶の弾奏者 井村右水先生です。先生は普段明治村で琵琶の弾奏を
されていますが、「千利休」「佐藤一斎」「中江藤樹」などの歌詞を考え、演奏活動を行われて
います。
今回は、「飛騨の国 都への道」というテーマで、飛騨の匠と金森宗和を題材に作品を作られました。
そこで、金森宗和といえば、洲さきさんの宗和流御膳ということもあり、今回の発表会を企画しました。
今日の中日新聞、市民時報に記事が掲載されることと思います。
皆さんには、9月13日に古川の地で、金森長近公の400年忌法要が行われますので、その折に
琵琶の演奏を聴く機会があります。ぜひ、そちらへもお出かけください。
「魂の演奏」という言葉がふさわしい、演奏を聴くことができると思います。
薩摩琵琶「飛騨の国 都への道」について
井村右水氏の作品による「飛騨の国 都への道」は、二部構成になっており、第一部が、飛騨の匠 (15分)
第二部が、金森宗和 (15分) となっています。
一部では、飛騨の匠が奈良の都を目指して行く風景を中心に薩摩琵琶の弾奏によって表現されています。
二部では、金森家の長男として生まれた重近公が、武門を捨てて茶の湯の道に入り、その精神を貫いた
ことを表現しています。
薩摩琵琶とは
約500年前、薩摩の名君 島津日新公と盲僧琵琶の渕脇寿長院の協力によって生まれた、
薩摩武士のたしなみとしての教養音楽であった。人の道を説いた教訓歌に始まった。
しかし、戦国時代はその音楽と楽器を変容させたのである。
壮絶な戦闘の物語は、勇壮と哀切の極限に達する無類の音楽を創造した。
明治維新のとき、薩摩藩の武士たちによって東京に進出した琵琶楽は、明治天皇にこよなく
愛吟されたことは有名である。

この琵琶は、明治維新の頃まで、藩の領内から他国に出る事はなかったが、明治の世になって、
西郷隆盛をはじめ、薩摩の人たちが、時の政府に仕えるようになり、しだいに東京を中心として
諸地方に広まっていった。 しかし、一時的な流行を見たものの、第二次大戦後は著しく衰退し、
現代ではこの美しい音色を聴く機会すらない現状を黙視するには忍びず、是非1人でも多くの人に
日本古来の音曲にきれいな言葉をのせて次の世代に伝えたいとの切なる思いから、音曲に理解の
ある善意の人たちに弾奏の場を提供して戴き、活動に励んでいる。
また、琵琶歌はすべて自作で、古典の「敦盛」「判官都落ち」。茶道を極めた「千利休」「古田織部」。
戦国時代を生きた「明智光秀」「斎藤道三」「本能寺」。江戸時代の思想家「佐藤一斎」「中江藤樹」
「細井平州」など東海地方を中心として活躍した人物の作詩が多くあります。
薩摩琵琶の製法と材質
大きな桑の木を適当な寸法に切り、胴の部分をくり抜いて腹板と貼り合わせ、腹板を曲面にして
大きな音を出させる。(これは他の琵琶には見られない特徴である。)
端部の糸をつないである部分の裏の腹板に一ヶ所と中央部の三日月に一ヶ所づつ共鳴孔がある。
胴、腹板は桑を以って最良とし、次にケヤキ、桜、モミジを良材とする。
ばち撥は、つげ黄楊の根元を山形の形に切って用いる。
ここに展示してある琵琶は、六面ともすべて桑で作られており、又、保存を良くする為に漆塗りし、
撥面には琵琶の銘を図柄にした蒔絵を施してある。
徳積善太
演奏されたのは、薩摩琵琶の弾奏者 井村右水先生です。先生は普段明治村で琵琶の弾奏を
されていますが、「千利休」「佐藤一斎」「中江藤樹」などの歌詞を考え、演奏活動を行われて
います。
今回は、「飛騨の国 都への道」というテーマで、飛騨の匠と金森宗和を題材に作品を作られました。
そこで、金森宗和といえば、洲さきさんの宗和流御膳ということもあり、今回の発表会を企画しました。
今日の中日新聞、市民時報に記事が掲載されることと思います。
皆さんには、9月13日に古川の地で、金森長近公の400年忌法要が行われますので、その折に
琵琶の演奏を聴く機会があります。ぜひ、そちらへもお出かけください。
「魂の演奏」という言葉がふさわしい、演奏を聴くことができると思います。
薩摩琵琶「飛騨の国 都への道」について
井村右水氏の作品による「飛騨の国 都への道」は、二部構成になっており、第一部が、飛騨の匠 (15分)
第二部が、金森宗和 (15分) となっています。
一部では、飛騨の匠が奈良の都を目指して行く風景を中心に薩摩琵琶の弾奏によって表現されています。
二部では、金森家の長男として生まれた重近公が、武門を捨てて茶の湯の道に入り、その精神を貫いた
ことを表現しています。
薩摩琵琶とは
約500年前、薩摩の名君 島津日新公と盲僧琵琶の渕脇寿長院の協力によって生まれた、
薩摩武士のたしなみとしての教養音楽であった。人の道を説いた教訓歌に始まった。
しかし、戦国時代はその音楽と楽器を変容させたのである。
壮絶な戦闘の物語は、勇壮と哀切の極限に達する無類の音楽を創造した。
明治維新のとき、薩摩藩の武士たちによって東京に進出した琵琶楽は、明治天皇にこよなく
愛吟されたことは有名である。
この琵琶は、明治維新の頃まで、藩の領内から他国に出る事はなかったが、明治の世になって、
西郷隆盛をはじめ、薩摩の人たちが、時の政府に仕えるようになり、しだいに東京を中心として
諸地方に広まっていった。 しかし、一時的な流行を見たものの、第二次大戦後は著しく衰退し、
現代ではこの美しい音色を聴く機会すらない現状を黙視するには忍びず、是非1人でも多くの人に
日本古来の音曲にきれいな言葉をのせて次の世代に伝えたいとの切なる思いから、音曲に理解の
ある善意の人たちに弾奏の場を提供して戴き、活動に励んでいる。
また、琵琶歌はすべて自作で、古典の「敦盛」「判官都落ち」。茶道を極めた「千利休」「古田織部」。
戦国時代を生きた「明智光秀」「斎藤道三」「本能寺」。江戸時代の思想家「佐藤一斎」「中江藤樹」
「細井平州」など東海地方を中心として活躍した人物の作詩が多くあります。
薩摩琵琶の製法と材質
大きな桑の木を適当な寸法に切り、胴の部分をくり抜いて腹板と貼り合わせ、腹板を曲面にして
大きな音を出させる。(これは他の琵琶には見られない特徴である。)
端部の糸をつないである部分の裏の腹板に一ヶ所と中央部の三日月に一ヶ所づつ共鳴孔がある。
胴、腹板は桑を以って最良とし、次にケヤキ、桜、モミジを良材とする。
ばち撥は、つげ黄楊の根元を山形の形に切って用いる。
ここに展示してある琵琶は、六面ともすべて桑で作られており、又、保存を良くする為に漆塗りし、
撥面には琵琶の銘を図柄にした蒔絵を施してある。
徳積善太




