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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年08月04日

8月4日放送分 武田軍の飛騨侵攻について

(8月4日)みなさんこんにちは。このコーナーは飛騨歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。

もう8月に入りました。今年の梅雨は、例年より入梅が早かったようですが、あまりまとまった雨は
降らずに終ってしまった観がありますね。しかし、それにしても、暑いですねえ。これも地球温暖化の
影響なんでしょうか、このまえ、台湾の友人にメールを出したら、なんと高山の気温と台湾の気温が
同じである事がわかりました。今年の中部地方は、熱い空気に覆われているようです。
どうぞ、体調管理にはくれぐれもお気をつけ下さい。

さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、武田軍の飛騨侵攻についてお話
させていただきます。

私もこれについては、今まであまり知らなかったのですが、興味を持って
調べてみると、様々な人間関係の狭間に、飛騨という一国は置かれていたんだなということが
わかりました。
皆さんもそうだと思いますが、戦国の世の中で、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった3英傑
の話や、隣国の齋藤道三の話などは、よく大河ドラマなどで取り上げられているので知っています
が、ではその時、地元飛騨ではどうだったか、ということはあまりご存じない事だと思います。

ちょっとここで、戦国時代に金森氏が飛騨に入国する前の戦力状況について、考えて見ましょう。
時代はだいたい永禄年間(1558~1570)前後40年のお話です。
織田信長は、愛知県の尾張にいて、秀吉はその家来として仕えていました。家康は、その少し南、
三河にいました。静岡県の駿河には、今川義元。隣の山梨県、甲斐と信州には武田信玄。
新潟県の越後には、上杉謙信。岐阜県の美濃は、齋藤道三。福井県の越前には朝倉氏。
滋賀県には浅井氏が勢力を張っていました。戦国時代にこういった英傑がいたというお話や、
三英傑の話しは、皆さんすでに大河ドラマなどでよくご存知ですよね。

さて、その頃、飛騨ではどうであったか。この番組でもお伝えしてきましたが、下呂市の竹原から
萩原あたりにかけては、三木氏が知行していました。高山盆地は、鍋山氏、飯山氏、岡本氏などが
知行していました。この3家はのちに三木氏によって滅ぼされますので、最終的には三木氏が
高山盆地を制する事になります。
白川郷は、南側が内島氏。北側が浄土真宗の照蓮寺がありました。
古川盆地は、南側を広瀬氏、北側を姉小路三家である小嶋氏、牛丸氏、姉小路氏が知行していました。
神岡のあたりは江馬氏が知行していました。

こうやって話してみると、かなりたくさんの小さな豪族が、飛騨を分割して仲良く知行していたわけ
ですが、これらの豪族を打ち破って、台頭してくるのが下呂あたりを知行していた三木氏です。
三木氏は、良綱、自綱の2代にわたってこれらの小さな豪族を破り、北へ北へと進出し、最終的
には飛騨を統一するまでになります。
この三木氏を破って飛騨の領主となったのが、再三お話しています金森長近という武将です。

 さて、この飛騨の武将が、この永禄年間にどういう状況にあったかというと、好むと好まざるとに
関わらず、武田と上杉のどちらの配下になるか、二者択一を迫られていました。
まず、三木氏は、自分が北進する為に、眼前の敵は、吉城郡にいた広瀬氏と江馬氏でした。
つまり背後にいた上杉謙信と手を結んでいました。再三、上杉に使者を送り、また最終的には、
自分の手下であった塩屋筑前守秋貞という人を上杉の貴下において、上杉が上洛する為に、
越中富山へ進軍する手助けをさせます。

 一方、攻められる側の広瀬氏は、三木氏の背後にいる武田軍と手を結びます。今まで平和に
小さな豪族達が仲良く暮らしてきたのを脅かそうとする三木氏の動きを広瀬氏は大変警戒して
いました。そこで、武田信玄に書状を送り、再三、出兵を促して三木氏を滅ぼしてくれるように
頼んでいます。
しかし、武田信玄の目的は、上洛と背後にいた上杉勢力の弾圧でしたから、上杉の上洛を阻止
する目的で信州から飛騨を通って、越中の浄土真宗と手を組み、援軍を差し向けています。
そのため、自分の手下や配下の軍を遣わして飛騨を攻めたのです。

 また、その頃の江馬氏は、飛騨のみならず越中にも進軍していましたから、家内が2つに
われていました。武田軍と手を結ぶもの、はたまた上杉軍と手を結ぶものの2つのグループが
ありました。江馬氏は、武田氏についたり、上杉に付いたり揺れ動いていました。
さて、武田軍が実際に飛騨に攻め入ってきたお話は、後半ですることにしましょう。
ちょっとここでブレイク。曲は「サザンで勝手にシンドバッド」をお届けします。
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今日のひだ歴史再発見は、武田軍の飛騨侵攻の事についてお話しています。

さて、飛騨に武田軍が何回来たかについてですが、神岡の郷土史研究家 葛谷先生の著述など
によると5回も飛騨に侵攻してきています。一部、諸説があって、解らない部分もございますが、
先生の著書「中世 江馬氏の研究」という本と、岡村利平氏の本、金森史などをもとに、私なりに
分析した話をご紹介したいと思います。

まず1回目は、永禄2年(1559)六月下旬、第二回の川中島の戦いの翌年に、飯富昌景、馬場景政、
甘利晴吉が、道なき道を切り開き、大木を倒して橋を掛け、安房峠の南側の大峠を越えて、信州から
攻めてきたというものです。この時は、飛騨出身の都竹五郎左衛門の説得により、江馬が武田軍に
降伏して、知行地の安堵をされています。また、平湯温泉はこの時に発見されたとされています。

平湯で発見されたといわれる「神の湯」(平湯温泉HPより)

さて、飛騨に入ってきた2回目は、永禄3年(1560)の大威徳寺の戦い。これは、弘治元年(1555)より
武田軍と同盟下にあった苗木城の遠山氏が、飛騨に攻め入ってきたときの戦いです。下呂の舞台峠
のところに、かつて大威徳寺というお寺がありましたが、三木氏はこのお寺に立て篭もり、遠山軍を
迎え撃ちます。ただし、この時は、伽藍を含めて建物のほとんどを焼き尽くされ、三木氏が敗北する
という結果になりました。
この大威徳寺の戦いの年度については、諸説あって、飛騨では永禄3年(1560)とする説が最も有力と
されていますが、元亀3年(1572)ではないかとする説もあります。

3回目は、永禄7年(1561)3月、飯富軍が安房峠を越えて、飛騨に入り、高原の江馬の館を取り囲んだ
というもの。このとき、江馬父子は、再び武田方の軍門に下り、輝盛の弟 善立を人質として武田に
入れました。

4回目は、永禄7年(1561)5月。これも同じく、飯富昌景が山県昌景と名を変えて、飛騨に入ってきます。
この時は、江馬氏を扇動して、飛騨統一をもくろんでいた三木氏を滅ぼすためでした。
このとき、塩屋筑前守秋貞の居城である丹生川の尾崎城が焼き討ちにあっています。同時に、スポン
サーである三木氏を擁護していた千光寺も一山ことごとく焼き討ちにあっています。この千光寺の焼き
討ちの話には、攻めていた江馬氏に内応して、国府にいた武田方の広瀬氏が裏山から火を掛けたの
ですが、真っ赤に焼けた鐘つきの鐘が、ごろごろところがって武田軍の兵を何人も殺したという逸話が
残っています。このとき、三木軍は一旦兵を引揚げて、益田郡に蟄居し、時期の到来を待ちました。
そのため、一時期、三木の居城であった新宮城、三仏寺城を江馬氏の家来 川上縫殿助に預けて城代と
しました。
このとき、飯富軍は三木氏の息の根を止めることはせず、それからすぐ、兵を引揚げます。
なぜかというと、使者が来て第5回目の川中島の合戦の為、兵をそちらへ差し向ける必要が出てきたので、
信州へと引き上げたといわれています。事実、この年の8月に川中島の合戦が起こっています。
しかしこれは、上杉軍が、三木良頼の要請を受けて、飛騨救援の為に、飛騨方面に江馬を背後から
攻めさせると同時に、自身も川中島へ出陣する事によって、武田勢をけん制するといったものでした。

川中島の戦いのメインとなった八幡原

このように、飛騨の戦いが第五回目の川中島の合戦を引き起こしたということです。これは、あまり知られて
いないお話ですね。
このあと、永禄7年に江馬時盛は、国府の広瀬氏と組んで、三木氏の息の根を止めようと、7月に兵を
挙げます。ところが、子の江馬輝盛が内紛によって、三木方につくため、形勢が逆転します。
時盛は上杉配下の越中松倉城主 椎名康胤によって逆に攻められたために高原の城に立て篭もり、
武田の援軍を待ちます。しかし、第5回の川中島の戦いが60日にも及ぶために、武田の援軍はとうとう
来ず、時盛は和睦を申入れて降伏します。江馬氏はこうして、三木氏と共に上杉方になります。
この話は永禄4年という説もあります。

最後に、5回目ですが、永禄10年(1567)5月に、武田信玄本人が、信州から安房越えに飛騨に入り、
越中に入り、椎名康胤の松倉城、神保氏春の増山城、瑞泉寺、聞名寺などを巡見し、甲州に帰って
いるようです。
この時、どうも神岡の江馬氏の館に信玄は逗留したという記録があるようです。

この辺の話は、興味のある方も多いと思いますので、またあらためて詳しくお話したいと思います。
さて、本日も時間となりました。
来週は、お盆の時期でも有りますので、飛騨の浄土真宗と金森長近のお話をお届けしたいと思います。
今日は、この曲でお別れです。
曲は「ピンクレディで 渚のシンドバッド」ではまた来週お会いしましょう。

徳積善太
  
Posted by rekisy at 20:00Comments(2)TrackBack(0)毎週の放送内容