2008年08月07日
兼山に行ってきました5
欄丸のお兄さん 森長可(ながよし) 第二代金山城主 永禄年(1558)~天正12年(1584)
織田氏の家臣、のち羽柴秀吉に仕える。森可成の次男。一説に嫡男。
通称:勝蔵(勝三)武蔵守。 本名:長可
いみな:前武州太守鉄囲秀公大禅定門 菩提寺:可成寺(かじょうじ)
元亀元年(1570)、父可成討ち死にに伴い、十三歳で家督相続し、美濃兼山城主となる。
天正二年(1574)頃より織田信忠に属し、畿内諸国に従軍している。同十年二月甲斐・信濃
武田領侵攻の際にも、先方を務める信忠に従軍。飯田城・高遠城攻めに参加し、その
直後から上野(群馬県)へ進軍して国人(在地領主)を従属化させている。
戦後、信濃の高井・水内・更科・埴科四郡(金山を含め、約二十万石)を与えられ、信濃
海津城に在城。領内の治安維持、安定化に努めていたが、信長父子が本能寺で死去
(天正10年(1582))すると、信濃から撤収。本貫(本地)美濃金山城にもどり、
羽柴秀吉に所属。岐阜城の織田信孝と対峙する。
同12年3月織田信雄・徳川家康と交戦する秀吉に従軍。犬山城を陥れる。
同年4月9日、義父池田恒興とともに三河侵攻を図るが、長久手において家康の奇襲
に遭遇し、討ち死に。行年27歳。
なお、直前の3月26日付けで、尾藤知宣(甚右衛門)に対して遺言状を残している。」
徳積善太




