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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2012年01月31日

渋草焼工場

ちょっと寄り道して渋草焼の工場にお邪魔してきました。
知らなかったのですが、ここは現在、高山市の文化財になっているんですね。

今からおよそ180年前に豊田郡代が地元民を使って、殖産興業した名残です。

現在の会社芳国舎は、四代目。明治の中頃から続いています。
  
Posted by rekisy at 11:24Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月30日

取材。瀬川さんを訪問3

最後に、抜染画の技術を見せていただきました。


これは、下絵を書いて、にじまないようにゴム系糊等ののりを載せ、そののりののった部分だけを残して
あとは薬品処理をして、白く抜き出すという技法です。

この技術を持っている方は日本でも数少なくなり、瀬川さんでは御兄弟でかつて、京都の
お師匠さんに習って、この技術を習得されているそうです。



緑のものも写真で見せてくださいましたが、観音様の姿がくっきり浮き上がっています。
大変見事なものでした。

徳積善太  
Posted by rekisy at 23:00Comments(0)TrackBack(0)調べていること

2012年01月29日

取材。瀬川さんを訪問2

「染色補正」とは、今では「シミ抜き」という言葉に代表されますが、そもそも京都の京友禅染めの
補正の技術だったそうです。

つまり、着物の布を染め上げた時に、隣の柄のところににじみ出てしまったり、あるいはまた、
色を抜いた後に、塗りを重ねるといった補正をすることによって、着物の歩留まりをなくすという
ことがあったそうです。

ほとんどの技術は、江戸時代中期に確立されていますが、色が重なってしまったところに、
薬品を使って染め上げたものから色を抜くという作業と、色を抜いたところににじみがないように
また色を重ねるという一連の作業が「染色補正」という技術だそうです。

一言で、補正と言いますが、どちらの作業も、抜きと載せという相反する作業であるがために、
元通りの状態に戻すというのは大変な職人の技術を要します。

国家技能検定一級の試験を通った人が一堂に集い、2年に一度、技能グランプリが開催されています。
グランプリは、4つの項目からなり、①シミ抜き。②紋様消し。③菱田なおし。④ぼかしのはき合わせ
(色ぼかし)という作業を2日間、のべ10時間にわたって行われた中から、すべての項目について、
一定以上の得点をあげ、総合点が優秀な人が選定されます。

以下は、技能グランプリの題目の一つ 「疋田なおし」の課題の行程です。


(赤い染色されたところを一度、2/3だけ白く抜きます)


(そこに1/3だけ、元の地の色と同じものを載せるという作業の競技です)

職人さんの言葉で、色が動く。つまり載せた色が隣の部分ににじみ出してしまうことがおきます。
隣の色に補正した時に重なってしまっては、大切な着物が台無しになります。

また、色を抜くときに抜きすぎてしまうと、下地の着物を痛めてしまいます。
色を抜くという作業は、下地に刺繍などが施された場合もありますから、生地を傷めてしまっては
折角の着物がこれまた台無しになります。



(白く丸が付けられたところを色抜きしますが、薬品の度合いによっては色がにじんだり、もとに
戻した時に技術がないとどうしても薄く色が残ってしまいます。これではだめです)



(こちらは成功例。かつては白丸で色抜きがされていましたが、見事に下地と同じ色が載っています。
この色を作るのに、いろんな色を混ぜ、作ってから色載せをして蒸気で蒸します。
ところが、元の色と同じ配合でないと、どうしても先ほどの写真のように跡が残ってしまいます。
この色決めを瞬時に判断して、時間をかけて作業しないといけませんから、色載せというのは相当な
技術を要するそうです。)


瀬川さんのところでは、お兄さんが平成11年にグランプリ優勝。弟さんが平成19年に3位に
輝いたという実績のある方々です。

取材中、失敗談や仕事の難しさというもの。高山の方の技術の高さという物を実感してまいりました。

詳しくは、2月の第二週の放送でお話したいと思いますので、そちらをお聞きください。


徳積善太
  
Posted by rekisy at 23:50Comments(0)TrackBack(0)調べていること

2012年01月28日

取材。瀬川さんを訪問1

正月の新年会で、たまたまお膳をひっくり返されて、着物が酒だらけになってしまいました。
そのため、先日、瀬川さんにお願いしてシミ抜きをしていただきましたが、瀬川家には
一級技能士の方が2人もおられるということで、お願して、取材させていただきました。


なんとも老舗の貫禄をただよわせている門。


看板には仕事の内容が書かれています。
「・着物染色補正
(・染色補正とは、従来のしみぬきを
  より高度にした技術であり、着物の医者です。
  ・国家検定一級技能士
  ・京都で修業をしてきました。)
・着物しみぬき
・ゆのし・仕上げ」



入口に看板がありますが、そこには、下記のようなことが書かれています。

「子供、家族の永遠の幸福と平和と繁栄のために
冠婚葬祭があり、大事だからこそ日本では、第一
礼装、正装である着物を着ます。
幸福になるために、家にある自分の着物を着ます。
着物を着る事で、自分の精神を鍛えて高める事が
できます。着物は、美術品であり日本の風土や
文化や歴史が生んだ大事な衣装です。
だからこそ、瀬川家では、着物を通して皆様の
幸福になるためのお手伝いをさせて頂いています。」

つづく

徳積善太


  
Posted by rekisy at 23:01Comments(0)TrackBack(0)調べていること

2012年01月27日

1月27日放送分_八幡祭番外編と東山白山・飛騨総社神楽台

(1月27日放送分 第230回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 早いですね。もう、今年に入って4週間が過ぎようとしております。
いつものことながら、年月の過ぎるのが早いと思います。こうやって、どんどん歳をとっていくんで
しょうね。

さて、高山市内の積雪は、お陰さまであまりたいしたことなく推移しております。高山は、残った雪が
しみてしまって、氷の塊になりますが、あまり雪下ろしもしなくてもいいですから、有りがたいと思って
おりますが、先日、白川郷の方とお話しておりましたら、すでに、2回目の雪下ろしをされた場所も
あるとか。
どのくらい積もっているのかとお尋ねしましたら、いつもよりは少ないですけど、大体1.5m位は
積もっていますとのこと。冬の間は、それが仕事ですからともおっしゃっていましたが、そういう
心配がないだけ、有りがたいなと思いました。

 その方は、自動車屋さんなんですが、年末にこんなエピソードがあったと教えて下さいました。
何でも、大晦日の日に車が動かなくなったので、見に行って欲しいとJAFから連絡が入ったそうです。
行ってみると、その場所は、清見の六厩だったそうですが、大阪の女性がFF車でしかも、ノーマル
タイヤで来ていた。
恐る恐るゆっくり走って白川郷に向かっていたと云うのですが、さすがに六厩まできて、上り坂で
いよいよ車が上がらなくなった。そこでJAFに連絡されたと云うのですが、これでは白川郷にたどり
つけませんよと説得して、坂を運転して下り、高速道路で帰って貰ったということでした。

チェーンなど滑り止めも積んでいなかったということでしたから、都会の方は雪の怖さを知らないと
云うお話でした。事故というのはいくら気を付けていても、こういう非常識なドライバーもおられます
から、もらい事故というのも有ります。どうぞ、雪道にはくれぐれも運転等気を付けていただければと
思います。

 さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は第四週ですから、匠の話し。この頃は祭屋台の
お話をお届けしております。先月の放送で、ようやく八幡祭りの屋台の話が終わりました。
今日は、八幡祭りにおける屋台のない組のお話と、もう2台の屋台のお話をしたいと思います。

国の有形民俗文化財となっている屋台は、実は25台あって、高山祭の屋台は春祭りの屋台12台と、
秋祭りの屋台が11台のほかに、東山白山神社の神楽台と、飛騨総社の神楽台の2台を合せて、
有形民俗文化財に指定されています。

 まず、八幡祭りの屋台組についてですが、実は、11台の屋台組のほかに、かつて屋台がありましたが、
焼失などでとうとう再建されなかった、文政台、舟鉾台、浦島台、牛若台という4つの屋台があり、現在も
屋台組だけが存続しています。これらの4台については、今までこの放送でお話してまいりました。

実は、この屋台組以外に、3つの屋台組があります。
これらは、屋台の建造はされませんでしたが、屋台組が存在していると云うものです。

まず、大正台組。これは、町内で言いますと大新町の4丁目。

丁度、大新町の勝久寺の下あたりに屋台組があります。こちらは、名前の通り、大正時代に屋台組として
独立したものらしいのですが、屋台建造の計画はあったものの、今日まで屋台が建造されていません。

 次に、水門組。こちらは、大新町の5丁目。

丁度、久美愛病院の東側に広がる一帯の屋台組です。こちらの屋台組ができたのは戦後ですが、現在は
祭の行列に、代車を曳いて参加しています。この屋台組の台名は、かつてここに用水路の水門があった
事から、この屋台組名になったようです。
こちらの屋台組の台紋は、その名の通り、水しぶきと水門が描かれた台紋になっています。

 そして最後に、左久良組といいます。
 
当初、桜町という町名がありますから、その場所に在るのかと思いきや、実は、下三之町の上組で3軒程
が独立した屋台組です。こちらのいわれはよくわかりませんが、実は最近できた屋台組らしく、もともと
仙人台組の区域だったようです。
関係者の方にお聞きしましたら、この3軒程のお宅が、祭礼行事に参加しないと宣言されたということで、
政治的に独立した屋台組として落ち着いたと云うお話でした。
永年の間に、屋台組でもいろいろと問題が起きたりして、こういう形に落ち着くこともあるんですね。

春祭りの屋台組では、あまりこういったことは起こっていませんが、八幡祭りの氏子の方の間では、
いろんなことがあるものだと、感心して伺っておりました。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「松山千春 君を忘れない」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 本日の飛騨の歴史再発見は、八幡祭りの屋台のない屋台組と東山白山神社・飛騨総社の神楽台に
ついてお話しています。

 さて、八幡祭りの屋台組については、今までお話しした、11台の現存する屋台の屋台組。
4台の焼失してしまった屋台組と、先ほどお話しした3軒の屋台のない屋台組の18屋台組ですべてです。

それでは、これ以外に国の有形民俗文化財になっている東山白山神社と飛騨総社の神楽台のお話を
したいと思います。

 東山白山神社というのは、安川通りをまっすぐ東の方に行きますと、大雄寺に突き当たります。
その大雄寺と隣の霊雲寺の間をまっすぐ上がっていきますと、そこに東山白山神社があります。
その神社の氏子によって維持されている神楽台です。屋台蔵は、別の場所に在って、鉄砲町通りを北進
すると、川のたもとの所に屋台蔵があります。

 こちらの屋台は、八幡祭りや山王祭の神楽台よりは一回り小さいですが、ちゃんと立派な大太鼓を載せた
神楽台です。
車は、御所車の三輪で、下段には陣屋の玄関にあるような青海波の浮き彫りとなっています。
屋台の製作者は屋台建造で有名な村山民次郎。明治24年頃の作と言われ、この頃には、村山家はもともと
の苗字であった、遠藤家の名字を名乗っています。

欄間には三嶋富丸の下絵の流水に菊があしらわれています。
この彫刻を彫った人は、二代目の村山郡鳳です。この屋台組の記録には、この屋台が弘化4年(1847)に
建造されたと云う事になっていますが、この年に創られたのは、太鼓枠で、彫刻で有名な谷口与鹿が創った
白木の巻龍の彫刻が現在も蔵に残されています。

この太鼓枠は、屋台蔵に在るのではなく、国道沿いの宝橋東詰に在る蔵に現存しています。
高さ1mほどの赤い朱色の枠一杯に白木の巻龍が2つ、枠を巻くようにして彫られています。
山王神楽台や恵比寿台に龍の彫刻を遺しており、龍の彫刻を得意とした与鹿ですが、力強い雰囲気の龍は
今でも生きているように見え、大変見事なものです。
もし、機会がありましたら、祭礼の5月5日の時には、公開されていますので、一度ご覧になって下さい。

 この屋台で面白いと思ったのは、他の屋台のようにおだまきと呼ばれる屋台の棟を上下させる紐を巻き
取って棟を上下させる仕組みではなく、力のある大人が二人で肩に棟の底の部分をかついで、棟を上げる
方式になっています。
非常に原始的な方法ではありますが、太鼓枠が小さいために、2人の大人が十分に持ち上げられるだけの
重量なんでしょう。この上下方法を見た時には、大変びっくりしました。


 次に、飛騨総社の神楽台についてお話します。
こちらの屋台は、一位一刀彫の祖と言われる松田亮長の設計であるとされています。
亮長はそもそも大工ではなかったわけですから、この屋台、何度もひっくり返ったと云う逸話が残されています。
構造的に、太鼓を叩くたびに屋根が大きく揺れ、挽き手も大変苦労し、バランスを失って倒れてしまうと云う
こともたびたびあったとされています。

そのためか、現在もこの屋台は、祭礼中に屋台蔵の前までは出されますが、行列に曳かれると云う事は
ないようです。飛騨の神楽台と呼ばれる屋台の中で、屋根が就いている屋台はこの屋台だけで、非常に
変わった形になっています。

この屋台の天井絵は、飛騨出身の有名画家 垣内右隣の作と言われ、下からみると見事な龍の絵を見る
ことが出来ます。
また、正月の初夢に「一富士二鷹三なすび」という言葉がありますが、下段の所には、昭和の地元の画家 
櫟文峰下絵によるこの彫刻がとりつけられています。

(一富士二鷹三なすびの彫刻)

余談ですが、発夢とは、新年のある夜に見る夢。この夢の内容で、1年の吉凶を占う風習があります。
字義どおりに新年最初に見る夢とされることは最近は少なく、元日(1月1日)から2日の夜、または、2日
から3日の夜に見る夢とされることが多いそうです。

ちなみに、「一富士二鷹三なすび」の次は、地域・文献などからいくつか存在しています。
四扇(しおうぎ)、五煙草(多波姑)(ごたばこ)、六座頭(ろくざとう)というのが一般的です。富士と扇は末広
がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭[4]は毛がない
ので「怪我ない」と洒落て家内安全を願うというのだそうです。
他にも、四そうろう(葬礼)に五せっちん(雪隠、便所)とか、四に葬式、五に火事などという地域もあるそう
です。

さて本日の放送も時間となりました。
来週の放送は、最近、観光客に大変人気のあります飛騨牛のお話をしたいと思います。

では、この曲でお別れです。曲の方は「八神純子 さよならの言葉」。それでは、またお会いしましょう!

徳積善太  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容

2012年01月26日

白川郷の雪

昨日、白川郷に行き、打ち合わせをしてまいりました。

今度、「白山広域文化研究会」を発足するための準備会として打合せをしました。
2月か3月に発足式を行ない、今後白川郷、荘川町、高鷲町、南砺市五箇山を中心とした
研究会を発足させます。

ところで、昨日の寒波により、帰るときには大雪。


3時間の打ち合わせの後、車に戻ったら30cmの積雪で車が埋っていました。

その後、会食をして帰るときには、また30cmの積雪。道路は雪で埋まっていましたが、
白川郷の人のたくましさを痛感しました。


徳積善太
  
Posted by rekisy at 20:59Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2012年01月25日

ありがたい台湾観光客

最近、中国人や台湾人の観光客がたくさんおみえになってます。日本人観光客が少ない中で大変ありがたいです!
  
Posted by rekisy at 09:27Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月19日

1月19日放送分_山下家と廣瀬家の関係

(1月20日放送分 第229回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 先日、古川の三寺参りが行われました。これは、古川の本光寺、真宗(しんしょう)寺、円光寺の
三か寺が浄土真宗の本願寺派になった事を記念して、江戸時代の中頃に宗祖親鸞上人の御命日
にお参りをしようと始まったものとされています。
観光パンフレットにはそのように書かれていますが、実は私もかなり調べてみましたが、歴史的事実は
はっきりしていません。

古川の円光寺(三寺参りのお寺の一つ)

古川のこの3つの寺のうち、もともと本願寺派の寺院だったのは、円光寺だけで、開基の岩佐喜兵衛正直
・正祐という人は富山の聞名寺末であったと伝わっています。

本光寺と真宗寺の2つの寺院は、そもそも照蓮寺の末寺で、江戸時代に、本願寺の東西分派が起きた
時には、大谷派(お東)の寺院でした。
その筆頭格だったのが、本光寺と真宗寺ですが、本光寺七世了誓の代に、転派という大きな出来事が
発生しました。

理由については今ひとつよくわかっていませんが、照蓮寺との支配関係における僧籍座位や賦課金に
あたる役銀の取り扱いを不服として本願寺派に転派したのではと言われています。

最終的には、宝永3年(1708)五月、西本願寺の寂如上人より、木仏本尊の裏書を賜り、お東からお西に
転派されました。古川のガイドブックの記述が正しければ、三寺参りは、この頃から始まっていると思われ、
すでに300年が経過していますが、残念ながらそれを裏付ける史料は見つかっていません。

 いずれにしても、今年の三寺参りは日曜日という事もあって、たくさんの人でにぎわいました。
このところ、古川の観光客が激減していたので、久しぶりににぎわったと云う感じで、よかったと思うと同時に、
普段から古川にこうやって観光客の皆さんにも来ていただければなあと思いました。

 さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は第三週ですから古川の話題をお届けしないといけない
のですが、ちょっと南の国府の話をしたいと思います。
先週予告をしましたように、「山下氏勝と廣瀬氏の関係」という事でお話したいと思います。

 昨年3月に「姉小路と廣瀬」という本を出版させていただき、大変好評をいただきました。もしお求めで
ない方がありましたら、まだ40冊ほど残っていますので、ぜひお求めください。
私までヒッツFMを通じてご連絡くださいましたら、お届けさせていただきたいと思います。一冊3000円です。

 その本の中に、レポートとして書かせていただいたのですが、廣瀬氏の系図が名古屋で発見されました。
以前から国府町上廣瀬の諏訪神社の総代さんの家に写真が保管されていたのですが、一昨年、私は現物
をお持ちの原栄氏を滋賀県の彦根市に尋ね、原本を見せていただきました。
写真ではなかなか判読できない文字も有りましたが、現物を確認することで、細かな文字や内容がはっきり
しました。その全容については、『姉小路と廣瀬』という本を参照していただきたいのですが、その内容に
ついては、比較検証するものがなく、御紹介にとどめる形でレポートとして掲載させていただきました。

 今回、名古屋の蓬佐文庫で発見した山下家の系図の中に、廣瀬氏に関する部分があり、私が紹介した
レポートに合致する部分がありましたので、今日はそのことについて、お話したいと思います。

まず、調査レポートについてですが、序文の所にこんなことが書かれています。原文は漢文ですので、
意訳文をお話したいと思います。

「広瀬家傳に曰く、廣瀬氏は飛州廣瀬の城主である。天文年中同所高堂城主でもあった。江馬常陸守は
かつて妻が廣瀬右衛門尉の妹であったが、怨恨により、或夜廣瀬の城を襲い不急の強敵を防ぐに無術
であった。
遂に廣瀬父子は自殺したといわれる。右衛門尉の末子は当時二歳であったが、郎従は懐に抱き自ら後の
小門を逃げ去り、漸く成長して廣瀬右近と号しかつて越中国の二郎丸の城に居城後飛騨白川又は鍋山の
城に移り住んだ。飛騨にいた三木秀綱は、この頃、江馬の志を打ち破りひそかに廣瀬右近を興し、是を
認めて右近は自分で父の復讐があったがこれを許したままにしていた。
江馬の居城は高堂の城であったが、江馬常陸を殺し、すぐに三木はこの高堂の城に居住した。
廣瀬はこのため旧里を還し、かつての廣瀬の城に住んだ。山下時慶の娘は同姓山下氏勝の妻であると
いっていたが、一男一女をもうけた。

かつて飛騨に来て中興し、廣瀬の城を為氏に与え、天正十三年乙酉年、秀吉公の命を受けた金森五郎八
長近が飛州を征服し、長屋喜蔵可長(ママ可重)が先鋒として攻入り、内ヶ島家臣の川尻備中が内応した
ために、先制攻撃をした。略。」

などとなっています。ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「伊勢正三で あいつ」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 本日の飛騨の歴史再発見は、廣瀬氏と山下氏の関係についてお話しています。

右近は暫く白川に蟄居し、同年十一月三十日飛州の大地震があり内島氏理の住むところは倒れてしまって、
氏理や幼い息子、家臣など数多の人が亡くなり断絶した。嘗て聞いたのは氏理の領内に大木があり、氏理が
家来に命じてこれを伐らせた。そのとき白木が血がしたたるようであった。
且人夫あまたの人が病にかかったようだ。これは鎮守のご神木だった。家臣や家来は恐れおののいて驚き、
氏理に急いで告げた。氏理はこの話を信用せず遂にその木を切り、谷中に倒しおき、枝葉を打ち切って、
薪とした。
氏理のいえは火事で焼けまたある日氏理の幼い子供がその側を通ったとき誤って火に入ってしまい、周りに
いた家来たちは助けようとしたが、即死だった。
いくほどもなく国中の大地が震え山は崩れ谷は埋まり谷水の流れが滞り、湖水のようであった。

数日後、水が溢れ流れ出した時にあの大木も行方知れずとなった。この原因は神を怒らしたことにある。
右近はその後あちこちを漂い、加賀に身をよせた。
天文廿二年癸丑年に生まれ、飛騨で慶長十四年乙酉年十二月十八加賀において逝去した。
年齢は五十七歳でその子は、廣瀬氏の號を浅野氏と改め、浅野氏と名乗り、俗称助右衛門と称した。」
というものです。

さて、今回、蓬佐文庫で発見した史料の中で、山下家系図がありました。それは、『士林沂洄』 巻第七十三
 庚之部 御外戚家 山下 姓藤原 家紋 左巴という物に書かれていたものですが、徳川義直家の家来・
家臣の出自などを取りまとめた系図です。
その中に、山下氏勝の姉に「廣瀬右近妻」とあるのがわかりました。これが、国府の廣瀬城にいた、廣瀬
右近のことです。

 昨年、御紹介した廣瀬氏の系図の中には、2代目の某となっていますが、これが廣瀬右近であると思われ
ます。そこには、こう書かれています。
「父滅亡の時、越中国次郎丸の城に逃げ去り、後、飛州白川。また鍋山の城に移り居て、三木秀綱と組み、
江馬常陸を再び討つ。廣瀬城主と為し、天正年中金森長近と戦い、軍は不利となりしばらく白川に蟄居し、
その後加州へ退く。慶長14年12月18日加州において死去。法名浄念」などとなっています。

また、その子供貞久のところには、
「母山下大和守氏勝女、実は同苗字の時慶の娘也」となっています。
 今回、発見した山下家系図には、はっきりと山下時慶の女で、氏勝の姉という事が示されていますから、
この2つの史料は適合することになります。となると、かなり信憑性が高まるわけですから、飛騨の歴史に
とって新たな発見となります。

 また、もう一つ、廣瀬氏系図の中に面白い記述があります。
貞久という人は、昨年NHKの大河ドラマで有名になりましたが、江の姉の嫁ぎ先、宮津城主の京極高広に
仕官をして200石を賜り、家来となります。その時に廣瀬の姓を捨てて浅野を名乗ります。
その子供、浅野一郎左衛門隆久という人がいますが、この人は、山下市正氏正の養子となり、慶安4年
辛卯年(1651)に御城代組に召され、知行100石を賜っています。

この城代になった年代が、正保4年(1647)~明暦元年(1655)ですから、年代が一致します。
 これらのことから、山下家の系図も、廣瀬家の系図も信憑性がより一層増すことになりました。
ということは、今まで伝えられてきた廣瀬氏の系図という物については、2つ存在し、今までの物が名前を
つけるとすれば前廣瀬氏。そして上廣瀬の諏訪神社に伝えられたものが、後廣瀬氏ということになり、
後廣瀬氏は廣瀬城という地名の場所に知行したから、廣瀬氏を名乗ったということに信憑性が出てきます。

 歴史検証をする場合に、私もいろんな先生から云われていることは、必ず一つの史料で判断しないで、
複数の史料から類推することが可能であれば、そういったものを比較検証して判断することが肝要だと
いうことです。
今回、名古屋で発見した史料。そして、昨年拝見した廣瀬氏の史料をもとに、もっと具体的な分析を進めて
行きたいと思います。
山下家の系図については、このほどまとめまして、3月のGS暮らしっくという白川郷の勉強会で発表させて
いただきますし、廣瀬家の系図については、冒頭にお話ししましたように『姉小路と廣瀬』という本にレポート
しておりますので、興味のある方はご確認ください。

さて本日の放送も時間となりました。来週の放送は、何時も第四週にお届けしております、高山祭の屋台に
ついて。八幡祭りの屋台が一通り終わりました。あと八幡祭りには、大正台組と水門組、佐久良組という
屋台のない組がありますのでそのお話と、国の有形民俗文化財になっている屋台は、高山祭屋台23台の
ほかに東山白山神社と飛騨総社の神楽台がありますのでそのお話をしたいと思います。

では、この曲でお別れです。曲の方は「由紀さおりで 手紙」。
それでは、またお会いしましょう!

徳積善太
  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容

2012年01月18日

新飛騨の匠_彫刻師村上さん

昨日ご紹介した村上さんは、かつて中日新聞に紹介されたこともあります。



「2011年10月1日中日新聞より

世界一の日本酒ラベル

フランス・パリで開かれた日本酒のアートラベル展
「Paris現代ジャポニズム芸術祭」で、国伝統工芸士の
村上貞夫さん【72】=高山市緑が丘町、の一位一刀彫
作品が最優秀の「仏日国民文化芸術振興賞」に輝いた。

芸術祭は、展覧会などを手掛けるMY・Yコミュニケー
ションズ(東京)が日本の文化を広めようとベルシー
美術館で初めて開催。日本の画家や書家、彫刻家など
の作品役360点を、特別醸造の日本酒「和の神聖寿」
(滋賀、池本酒造)のラベルにデザインして展示した。

村上さんの作品は幼少期の武田信玄をモチーフ。高山市
がJR高山駅前に植樹し、6年前に伐採したイチイで製作
した、来場したフランス人の評価も高く「日本の文化を
知ってもらうのにふさわしい作品」と最優秀に選ばれた。

村上さんは「一位一刀彫が世界に認められてうれしい。
またこのような賞を取れるように頑張っていきたい」と
話している。」


今回のルーブル美術館に展示されることになり、ますます飛騨の一位一刀彫が世界で
有名になることと思います。


徳積善太
  

2012年01月17日

新飛騨の匠_彫刻師の作品がルーブル美術館に

先日、彫刻師の村上さんがご来店くださいました。

最近、彫られた「手長足長」の彫刻が、このほどフランスのルーブル美術館に展示されるそうです。



その証明書。



賞状を見せてくださったのでお願いしたら、写真を撮らせてくださいました。



この手長足長は、平成23年12月15日発行の「美術の森」新年号 223P に掲載されています。


村上貞男さんは、1939年岐阜県生まれ。師 牛丸大峯市に師事した日本の伝統工芸士。一位一刀彫協会の
理事を務める傍ら、辻が森神社の宮司を務めておられます。

伝統工芸展では金賞4回受賞。その他、美術の社第一回伝統工芸作家大賞、パリ現代ジャパニズムj芸術祭、仏日
国民文化芸術振興賞などを受賞され、活躍されている現代の飛騨の匠です。

私とは、伝統工芸士研修会で谷口与鹿のお話をさせていただいた時からご縁が深まり、いろいろと彫刻に
ついて教えていただいています。今回は本当におめでとうございます。


なお、この手長足長像は約60cmくらいの大きさだそうです。

徳積善太

  

2012年01月16日

龍の彫刻4_八幡祭り屋台2

高山祭の屋台には龍がいたるところに使われています。



仙人台の屋根についている巻龍


布袋台の上段幕についている龍



鳩峰車台の龍の彫刻


鳩峰車台の見送り


あちこちに龍の意匠が見られます。


徳積善太


  

2012年01月15日

琴の演奏

三寺参りでは琴の演奏が行われています。今日は音響を頼まれたのでやっています!
  
Posted by rekisy at 19:48Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月15日

三寺参り

いよいよ三寺参りの町中の大ろうそくに火が灯されました。

お寺の方では7時位から各寺院で法要が始まります。
  
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2012年01月15日

古川の飾り物展

飛騨に伝わる飾り物ですが、古川の愛好会の発表が行われています。
  
Posted by rekisy at 15:12Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月14日

1月13日放送分_山下氏勝について

(1月13日放送分 第228回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 今年初めてこの放送をお聞きの皆様には改めまして明けましておめでとうございます。
どうぞ本年もこの「飛騨の歴史再発見」をよろしくお願いいたします。

先日、FBを見ておりましたら、ある若い方が「5日の日に〆縄を外したら、それは7日までかけて
おくものだよと注意された」という内容が載っておりました。
私も「松の内」というのは、そういうものだと思ってよく考えてみましたら、飛騨では「松の内」という
のは、確か15日までのことを指しますよね。旧暦の正月の事を指すはずです。

ちょっと調べてみましたら、関東では7日。関西では15日までを松の内と云うことがわかりました。
どうして地方によってそういう違いがあるのか、更に調べてみましたら、何とこれは、江戸の火事に
由来していることが分かりました。
寛文2年(1662年)1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以て飾り納めを指示する
最初の通達が江戸の城下に町触として発せられていて、それに倣った風習が徐々に関東を中心に
広まったと考えられています。
幕末の考証家である喜田川守貞という人は、この時同時に左義長(いわゆる「どんど焼き」)も禁止
されていることから、松の内短縮発令の理由を注連飾りを燃やすこの火祭りによる火災の予防の
一環ではないかとしているそうです。

飛騨は幕府の直轄地だったことから、同じような触れが出ていることが多いのですが、この松の内の
締め縄外しについては、触れが出ていなかったようですね。
15日には、高山市内のどこの神社でも「どんど焼き」といってこの左義長の行事が行われるところが
多いと思います。昔からこの左義長で締め縄やお札を焼いて沸かしたお湯を飲んだり、この火で
焼いたお餅を食べると風邪をひかないとか、お清めの意味もあるというお話ですが、皆さんもお出かけ
になって、古いお札の御加護に対する感謝の気持ちを神様にお伝えして下さい。

 さて、本日の放送に入りたいと思いますが、ちょっとお詫びがあります。
先週の放送で、初代尾張藩主を徳川義春とお伝えしておりましたが、義直の間違いでした。謹んでお詫び
申し上げます。

さて、本日の放送は、先週予告でお伝えしましたように、「山下氏勝について」今回私が調べて解った
事をお話ししたいと思います。

実は、12月に名古屋城と徳川家の文庫=蓬佐文庫という施設に行ってまいりました。その時に調べて
まいりましたお話をもとにお話ししたいと思います。
先週の放送でも、山下氏勝のことについて少しお話ししましたが、御存じない方のために、改めてこの人の
事についてお話しましょう。
『飛騨編年史要』『飛騨人物辞典』という本などには、次の様に書かれています。

「山下氏勝 (うじかつ)白川郷荻町城主。幼名は万寿丸。長じて半三郎。従五位下大和守と称する。
内島氏が滅びると徳川家康に仕え、慶長7年(1602)に徳川義直の侍臣を命ぜられ随行して尾張へ
移る。名古屋城の築城を建議した人。後に5000石の領主となって三河国蒲生郡を領する。
矢術に優れた。永禄11年(1568)4月~承応2年(1653)11月没(飛騨編年史要・大野郡史・飛騨人物辞典)

先週の放送では、この氏勝について調べたことを簡単に申し上げました。
それは、文禄文永の役の時に、九州の名護屋城にて氏勝は家康の武将として功があった。その折に、
家康が氏勝を呼んで出自を訪ねると、氏勝は自分の出自や佐々の家来になったいきさつを詳しく家康
に話した。家康は、「お前ほどの人物なら、9男義直が今年3歳になる。後見人を引き受けてはくれない
か。そのためには、志水の娘(相応院の妹)と夫婦になる様に」ということで、家康が推薦して相応院の
妹を娶る事になったようです。その後、義直には武蔵国の忍城(川越城)が与えられ、家来として氏勝は
そちらに移ります。その後、忍城が大変湿度の高い場所であったために、相応院が家康に国替えを頼み、
義直は甲州に移ります。

その後、初代尾張藩主なる時に、城を当初は清洲に作ろうとしましたが、かつて清洲城に住んでいたこと
のある氏勝が、家康公に
「あの地は、川があり水運が栄え、要害ではあるが、川があるために湿度が高い。是非とも新しい城造り
には、名古屋の地に移された方がよろしいと存じます」ということをいうわけです。

そうして、清洲城の改築をやめて、名古屋城が築城されたということをお話ししました。
家康の武将として、大変功のあった人物だったというわけです。これで、地元の史料では分からなかった、
相応院の妹を妻にしたこと。家康の武将としての功績というものがわかりました。

さて、ちょっとここでブレイクしましょう。曲は、「岩崎宏美 マドンナたちのララバイ」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「山下氏勝」についてお話ししています。

蓬左文庫で見つけたもう一つの論文は、初代徳川義直の家臣群についての考察と云う論文でした。
大変長い論文なのですが、当時の山下氏勝の立場がうかがえる資料ですので、ちょっと要約して
ご紹介したいと思います。

徳川義直が、武蔵国の忍城から甲斐に移った時に、新たに義直の家臣になった武田の集団がありました。
家康はこの武田の配下の武将たちを取り入れ、義直の家臣として尽くすように云いました。
その筆頭だった人が、もともと三河の出で、甲斐の武田の家臣団を取りまとめていた平岩主計親吉と
云う人でした。
徳川義直の家臣団としては、こうした甲斐系の家臣団だった人たちと、山下氏勝のように家康の息の
かかった相応院系統の人たちと2つの集団がありました。
後に、この平岩親吉が義直家臣団の中でも犬山城12万石を与えられ、力を付けて行きますが、この
甲州系の人たちと相応院系の人たちとの間には、だんだん確執が生まれて行きました。

その確執を一層強めたのが、大坂の冬の陣の時で、一番組を務めた山下氏勝だけが論功行賞の折に
唯一人恩賞を得たと云う事がありました。冬の陣において、此の合戦を機に少しでも高い家中序列と
身分格式を獲得し得る実績を築いておくことに、家臣団は第一の関心があったと思われます。
その中で、一番組を務めた氏勝だけが功績を認められ、他の者は主君について戦わずに帰陣した
わけですから、家康の後備をしていた義直軍に大した功績があろうはずがありません。

その中で、唯一人論功行賞を得たと云う事は、相当のねたみや、主君の坑道に従わずと云う思いが
家臣団の中に芽生えたと言っても不思議ではありません。

その後、家康公の亡くなったあと元和八年に、義直公は江戸の邸を建て、氏勝が経営の事を司りました。
秀忠公は営作速成の事を褒め、物若干を賜りました。
寛永二年に義直公は江戸邸館に於いて、秀忠公を招待しました。また家光公も招待しました。
皆、その時の饗応之総裁は氏勝でした。

酒井忠世が先客と為し、拝謁を奉った。今度饗応の公労は専ら氏勝にあった。忠世がこれを褒めたので、
秀忠公、家光公は御感じあり、若干の物を賜りました。将軍家の人たちは「享燕の式」というものが、
豊臣氏の時代にはありましたが、近年絶えてしまいこれをご存知ありませんでした。

氏勝は古例に従って、そのやり方を披露したので、世人は大いにほめたたえました。
其の後、義直公は江戸と尾張に於いて将軍家を招待し、氏勝は毎度饗応総裁を掌りました。

同年光義卿誕生しますが、母が卑賤の身であるが故に義直公はこれを挙げようとされました。
相応院大夫はかつて義直公に嗣子がないことを憂いたまたま男子が生れ大いに喜び、ひそかに
氏勝に命じ、その家で養ったことにした。
ほとんど二年たち、相応院大夫は人に書を氏勝妻に賜いその書はその子孫が持っているという
ことです。

其の後、義直公は其実子と出ある事を知り、世継としました。
六年江戸西の丸改築し、石塁を作る事を営ず。義直公は石を伊豆相模に於いて取り、氏勝は総裁と
為し、大石を運び出し、その功を成す。
十年酉三月、初めて寄合触れ流頭と為す。
十九年午倒れるまで仕え、承応二年十一月二十日に亡くなりました。八十六歳でした。

氏勝の子供は、市正氏正と云う人ですが、この人も飛騨とかかわりがあります。
この人は、氏勝が大変立派な方であったがゆえに、幼年より義直公に仕え、義直公の外戚となりました。
そのためにしばしば処遇を責められました。大坂の役には供奉した時には十二歳でした。

後に父の家領を継ぎ、寄合となり、寛永11年大番頭。正保4年には御城代となりました。
明暦元年、病により辞職し寄合となりますが、寛文3年卯年6月21日、間宮大隅の私婚姻の締めに
譴(せ)めを蒙り、氏政の一族郎党は改易となりました。
改易となった時には、その子氏輝、半左衛門、半太夫のほか、弟権之助とその子氏重、弟氏紹とその子
氏長、弟秀氏とその子氏定なども同時に改易となりました。
一時的に、現在の下呂市金山町に隠居し、下原旅館の城主として金森氏によって庇護されました。

氏政は金山町では、山下道安という雅号で玉龍寺などを再興した人としても知られ、また茶道宗和流
の祖 金森宗和の娘婿であることでも知られています。

この資料を、白川郷の郷土史研究家上手先生にお渡ししたところ、「今までの謎が一気に解けた」と
喜んでおられましたし、金山の郷土史研究家の長瀬先生からは、「今まで山下道安がいつ飛騨に
来たのかわからずにいましたが、寛文3年6月21日であることがはっきりした。」と喜んでおられました。

さて本日の放送も時間となりました。
来週の放送は、今日お話しした山下氏勝について。今度は、「国府の廣瀬氏との関係について」続きの
お話をお届けします。

では、この曲でお別れです。曲の方は「西城秀樹 ブルースカイブルー」。それでは、またお会いしましょう!

徳積善太  
Posted by rekisy at 10:00Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容

2012年01月13日

三寺参りのろうそく造り

古川町では15日に行われる三寺参りのろうそく造りが盛んなようです。(中日新聞より)



徳積善太  

2012年01月12日

日枝雅楽会の新年会

毎年1月12日は、日枝雅楽会の新年会があります。
全員が着物を着用し、洲岬さんに参集。初奏楽を行ったあとにゲームをして楽しみます。
老若男女、子供に帰ることができます。
このあと、座敷宴会へと移ります。
  
Posted by rekisy at 15:54Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月12日

山がきれい

今日の乗鞍岳がきれいです!
  
Posted by rekisy at 12:49Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月11日

龍の彫刻3_秋祭りの屋台1

行神台の龍の彫金(龍を正面から見たところ)


行神台の龍の調金


金鳳台の欄間彫刻


神馬台の龍の中段高欄彫刻


鳳凰台の龍の彫金1


鳳凰台の龍の彫金2



結構屋台の彫金や彫刻に龍が使われていますね。


徳積善太  

2012年01月10日

小学生の書いたガイドブック

先日、ある市内のホテルで打ち合わせがあり、待っている間に、テーブルのところにおいてあった
手作りのガイドブックが目にとまりました。


見ると、西小学校の子供たちが、それぞれ自分たちの興味のあることを調べたガイドブックでした。


中身を見てびっくり。小学生が調べたにしては、ものすごく詳細にわたり調べられています。

私も、この番組をやっていて、知らないことも書き記してあり、大変勉強になりました。


ご近隣のお爺さんおばあさんに教えていただいたことを壁新聞調にまとめたものですが、
それはそれは、目を見張る内容です。

皆さんも一度、機会があったら、ごらんください。


徳積善太  
Posted by rekisy at 20:33Comments(0)TrackBack(0)調べていること