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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2012年03月30日

杉の皮めくり

今日は井戸の屋根を補修するためにタカモクさんで、大工の笠原さんと皮めくりに行きました。
江戸時代には檜の皮をめくっただけで、加子母など尾張藩領では百たたきにあったようですが、これがなかなか難しい。直径30cm位の若木では皮がしっかりくっついていてなかなか剥がれませんでした。直径60cm位の古木だと剥がれやすい。
なかなか難しいものだと実感しました。

取った杉皮でも、ちゃんと30cm四方にはなかなか材料が取れず、いいとこだけ取っても、ほとんどがゴミでした。

昔は皮を売っていたらしいのですが最近では需要がなく、焚き物の材料くらいにしかならないそうです。
  
Posted by rekisy at 02:04Comments(0)TrackBack(0)

2012年03月24日

3月23日放送分_古川鳳凰台について

(3月23日放送分 第238回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

昨年の3月11日に東日本大震災からすでに一年がたちましたね。
去る11日の日曜日には全国で黙とうがささげられ、各地で東日本の復興を祈念したイベントが
開催されたようです。高山でも原発反対のキャンペーンが行われ、国島市長以下たくさんの
皆さんが参加され、原発反対を訴えられたようです。

この震災で、日本と言う国が今までの経済政策や社会のシステムを考え直さなければという気運に
包まれました。使い放題に使っていた電気エネルギーを見直し、その原因の一つとなっていた原発
による夜間電力の消費と言う物を見直そう。人類の生活にとって危険なエネルギー源である原子力
というものや放射能を見直そうという活動だったように思います。

丁度1年前の今日、私は被災されていた福島県の相馬市にいました。
何か自分にできることはないか、被災された方に何とか物資を届けたいとの一念で、居てもたっても
いられずに緊急支援物資を届ける活動に協力し、高山を夜8時に出発。18時間をかけて翌日の朝、
ノンストップで相馬市まで走りました。




非常に疲れましたが、被災直後の現地を見て本当に涙が止まりませんでした。
何も無かったことのありがたさを本当に心から感じた瞬間でした。

 11月にもまちなみコンサートで得た資金で楽器を購入し、相馬市と名取市に届けに行きました。
こんなことを申上げては被災された方に申し訳ないのですが、津波に遭った地域の方は、建物を
直せばある程度の復興は可能です。
しかし、この原発問題にあった相馬市などの地域では、放射能と言う目に見えない敵と戦わなくては
いけません。現在も、支援したはらがま朝市の方と連絡を取っていますが、現在の相馬市では、放射能
のおかげで産業復興ができず、どんどん若い人が流出してしまった。老人だけの町になりつつあります。
そのため、NPOでは外の農産物などを加工して、相馬市の特産品として出荷することを考え、復興の
ための加工場を建設されました。
建設のためには、大工さんにボランティアで来てもらって、ようやく加工場が完成しました。

次には、物資の支援を小田原などからもらって、魚の加工や農産物の加工を行えるようになりました。
ただし、まだまだ資金が足らない状況です。
代表の高橋さんにお聞きしたら、「皆さんの支援金は日赤に入ります。ところが、その資金を目当てに
一時期暴力団の方が利用した時期があり、現在は10万円以内の領収書が無いと資金が得られません。
また、その手続きもものすごく複雑になっています。一方で、雪が降ったのでスコップが欲しいと云うと、
全戸にスコップが与えられる。ところが、雪がなくなればスコップは不要です。それが相馬市の現状です。」
とのことでした。

町が復興するためには、その土地の産業、経済を立て直すことも必須課題です。こんな状況ではいったい
いつまでかかるのか。数10年という長いスパンで物を考えないといけないと思うと、大変心が痛みました。

さて、前置きが長くなりましたが、今週の放送に入りましょう。
本日の放送は、古川祭の屋台の第二弾。壱之町の鳳凰台のお話をしたいと思います。
従来、屋台のお話は2台づつお話しておりましたが、今週の鳳凰台については、ちょっとお伝えしたいこと、
お調べしたことがありますので、一台だけ取り上げてお話したいと思います。


鳳凰台という屋台の名称は、実は、飛騨では神楽台の次に多い屋台名です。
春の高山祭の山王祭にも上二之町下組に鳳凰台があります。また、秋祭りの桜山八幡神社の八幡祭
にも、大新町に鳳凰台があります。
この鳳凰という名称については、以前、八幡祭りの鳳凰台のお話しの時にしましたが、
「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」といわれる瑞獣(瑞鳥)のひとつで、『礼記』では麒麟・霊亀・
応竜とともに「四霊」と総称されている大変縁起のいい鳥です。
朱雀という伝説の鳥とは、厳密には違うらしいのですが、この鳳凰と同じであるとされることが多く、
西洋ではフェニックス(火の鳥)の事を指します。

また、鳳凰の鳳がオス。凰がメスを表します。伝説上の鳥ですので、本来はその姿形は不明なんです
が、高山祭の屋台を見ますと、たいていの鳳凰が同じような形をしていますね。
これは、大工さんが参考にした葛飾北斎の教科書に依ります。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は本日のテーマにあります鳳凰から、手塚治虫の映画「火の鳥」の
テーマソング、渡辺典子で「火の鳥」をお届けします。
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 本日の飛騨の歴史再発見は、古川の祭屋台 鳳凰台についてお話しています。

この屋台は、古川の壱之町中組の屋台で、壱之町通りの真ん中あたりから大通りまでの屋台組の
人たちによって維持管理がされています。
そもそも江戸時代後期、文政年間の創建と伝えられており、屋台はすでに存在しましたが、明治24年に
老朽化を理由に廃台。しばらく屋台がありませんでした。
その後、大正11年(1922)4月に永年の屋台の積み立てによって新築され、現在に至っております。

この時の屋台の設計に当たったのは、高山の有名な大工村山家の初代群鳳です。
彼は高山に数々の屋台建築を成した村山英縄(ひでずみ)とも呼ばれた民次郎の長男で、名を英造と
言いました。この頃、民次郎と英造(郡鳳)は、高山別院の大門の建築にも携わっており、今では写真で
しか見ることができませんが、大変立派な迦陵便の彫刻を遺していました。

彫刻は、中段手すり、見送りの登り竜、下段の前面に有る龍は初代村山郡鳳の作品。
側面の彫刻は大島五雲。中段の鳳凰は南部白雲の作と伝えられています。



村山郡鳳は、高山の彫刻家としても有名で、その作品には、麒麟台の中段麒麟の彫刻。龍神台の飛龍の
彫刻。豊明台の彫刻など数多くの屋台彫刻を残しています。
有名な屋台の彫刻師 谷口与鹿の作品と比較すると、与鹿の作品が取り付けた時のコントラストや奥行き
を表現した作品であるのに対し、群鳳の作品は、実に写実的で、麒麟台組の人をして「つけても飾っても
見事な彫刻」と言わしめた程の作品です。

先ほど申し上げたように、高山別院大門にあった迦陵便の彫刻は、私も写真で見ただけですが、鳳凰に
乗った天女が琵琶を持って音楽を奏でているという大変見事な彫刻でした。
残念ながら、完成してしばらくたってから、戦後になって心無い人の放火によって失われてしまいましたが、
もし再興できるならば、是非現物を見てみたいと思うような彫刻です。

さて、その他の二人、大島五雲と南部白雲については、飛騨ではあまり知られていませんが、実はこの
二人、現在の南砺市井波の彫刻師として大変有名な方々なんです。
5年ほど前に匠学会で開催しました、「飛騨の匠展」において、調査のために井波に赴いたことがあります。
現地でもあまり過去の彫刻師については知られていませんでしたが、このときに彫刻師の系図を入手しま
した。大島五雲も、南部白雲も大正時代に大活躍した井波の有名彫刻師でした。

井波町は現在も彫刻の町として大変に有名ですが、そもそもこの土地には、加賀藩によって拝領地鍛冶と
拝領地大工と言う制度があり、鍛冶屋さんと大工さんが藩主によって保護されていました。
中でも、拝領地大工は、井波に瑞泉寺という浄土真宗の古刹がありますので、そこに本願寺から大工が
派遣され、本願寺が東西分派したのちに、その上納金によって許可される建造物に関するスタンダードが
ありました。
したがって、本願寺ではそのスタンダードをちゃんと守らせるために、京都から大工さんを派遣し、地元の
大工さんに差金の使い方などを教えるきく術や、木の削り方。木を組木にするやり方を教えるようにしま
した。
そのため、井波では、柴田家が本願寺から派遣され、松井家や番匠屋などの地元の大工さんを育てて行き
ました。当時、大工さんと彫刻師は分業されておらず、一連の彫刻法については、大工さんは一通りの勉強を
していました。

そういうこともあって、高山からも森本大和守などが、江戸時代の後期に井波に行き、大工の修業と彫刻が
遺されています。

井波で彫刻が分業化するのは、明治時代に入ってからですが、井波町では彫刻が始められるのが安永三年
(1774)の瑞泉寺本堂再建の時とされています。ただし、この時は専業としていたのではなく、あくまで大工
さんの一つの仕事としてなされているようです。
江戸末期になって当時大工の技術としては飛騨の匠と肩を並べるものがあり、特に庄川沿いにおいては、
白川郷まで井波の大工さんと飛騨の大工さんが入り交って建築物を残しています。

さて、大正に入って、彫刻が分業化する頃に双璧として活躍するのが、大島五雲と南部白雲です。
大島五雲は、初代と二代目の二人がいますが、この鳳凰台の彫刻は初代の大島五雲だと思われます。
彼は、明治初期に大島作兵衛の子として生まれ、明治末年高岡工芸学校で彫刻を教え、南部白雲などの
門弟を指導しました。
現在、井波町が欄間の町として知られるのも、彼の功績によるところが大きいです。

村山郡鳳の経歴書には、
「明治四十三年満一ケ年間彫刻建築絵具其他一般美術研究ノ為京都府並ニ奈良富山県各地遊歴 富山県
井波町大嶋五雲先生ノ元ニ見学ス」とありますので、この屋台は、その後に造られていますから、彼も見方に
よっては大島五雲の弟子であったと言えると思います。

さて、本日も時間となりました。今日でこの番組が始まってからまるまる5年となりました。
ご支援いただきました皆様には本当にありがとうございます。
また、4月からこの番組を続けられることになりましたので、ご報告申し上げます。
今月は5週ありますので、次回の放送は4月の第1金曜日となりますので、来週はお休みになります。
よろしくお願いいたします。

次回の放送はちょっと高山の葬儀についてお話したいと思います。
本日はこの曲でお別れしましょう。曲は「橋幸夫と吉永小百合で いつでも夢を」をお届けします。
それでは、またさ来週、4月にお会いしましょう!

徳積善太  
Posted by rekisy at 11:00Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容

2012年03月21日

昭和33年の日枝神社式年大祭

獅子舞が二対ですが、湯単の色が違います。
昔は雄獅子と雌獅子の獅子舞だったようです。

まむしとりの演目です!
  
Posted by rekisy at 18:09Comments(0)TrackBack(0)

2012年03月21日

大変貴重なビデオ入手

桜山八幡宮の大神輿が動く画像を入手しました。
昭和33年の日枝神社式年大祭の記録映像です!


東さん提供。
  
Posted by rekisy at 17:57Comments(0)TrackBack(0)

2012年03月20日

松田亮長の彫刻

やはりすごい、亮長の彫刻。


亮長彫刻の写真で撮りためたものです。










徳積善太  

2012年03月20日

ねつけの彫刻

こんな商品があったらなあ。





とあるお店で見せていただいた、昔の飛騨匠の作品。

矢立てと印籠です。


徳積善太  

2012年03月20日

一位一刀彫シンポジウム

今日は高山グリーンホテルにあるさるぼぼ神社の神事と、午後からは講演会とシンポジウムが開催されました。

講演では高山の有名な一刀彫師の元田五山先生が講演され、「一位一刀彫の歩みとこれから。目に触れるもの皆師」というテーマで話をされました。一刀彫の歴史やご自身の作品をスライドで紹介されました。

そのあと、シンポジウムが開催され、「飛騨一位一刀彫と観光を語る」というテーマで話し合われました。ました。
  
Posted by rekisy at 13:55Comments(0)TrackBack(0)

2012年03月20日

勝山に行って来ました

世界遺産講演会が福井の勝山で開かれました。
城郭研究家の滋賀県立大准教授 中井均先生の講演がありました。

会場は一杯のお客さんで主催者が資料が足らなくなるほどの盛況ぶりでした。
  
Posted by rekisy at 00:39Comments(0)TrackBack(0)

2012年03月17日

3月16日放送分_神岡について

(3月16日放送分 第237回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 この前、仕事で神岡方面を走りました。いつものとおり、車で走る時は、ヒッツFMにチャンネルを
合わせて車で聴くことが多いです。古川から裏道の神原峠を越えて、山田に行き、そこからトンネルで
吉田方面に向かいました。
古川ではちゃんとラジオが入りますが、神原峠を越えてから山田、吉田のエリアは、電波の届かない
ところですので、受信感度がそんなによろしくないので、そのエリアでは聞けませんでした。

ちょっと考え事をしながら走っておりましたので、ラジオの事は全然気にしていませんでした。
吉田から神岡の温泉口駅の方に行った時に、突然ヒッツFMがなりはじめました。考えてみたら、
上宝の本郷にアンテナがありますから、そこから電波が出ているんですね。
神岡の市街地でヒッツFMが聴けるとは思いませんでした。

 いままで、この放送をずっとしてきておりますが、どうしても放送区域外の話題は取り上げにくいな
と思っておりました。しかし、最近では関連する内容が多いので、下呂方面ですとか、白川郷方面の
話題も取り上げております。
やはり飛騨の歴史再発見という名称で、「飛騨」とうたっている以上は、飛騨全域を取り上げないと
いけないと肝に銘じて調べています。それだけ、調べる内容も範囲もかなりのものになりますが、
各地で作られた町史や村史を拝見すると、今まで大事なことが欠けていたと思うことがあります。

それは、町史や村史は現在の行政区画によって勝手に現代人が区別したものであるということで、
江戸時代やそれ以前にそんな行政区画はなかった、人間の歴史に行政区画のような区切りはない
ということです。
確かに時代時代で政策や方針が、藩主と言うか主人が異なるので違うことはありますが、たとえば
400年前には400年前の考え方で現在の行政区画の隣で同じようなことが起こっていたということが
できます。

例えば、飛騨と郡上を比較すると、400年前には金森藩と青山藩ですから当然、知行の仕方は異なり
ます。ただし、郡上藩の中でも和良村あたりは、200年前には飛騨の天領の一部となっていますから、
政治の政策は飛騨と同じです。
ところが、明治に入ると、そこは郡上郡ですから、飛騨からは除外されます。
その後の昭和に造られた村史には、全く異なる区画として扱われます。そのため、さも独立した行政組織
として区別されていますが、実は、飛騨との人間の交流はちゃんと存在していたといった具合です。
そのため、飛騨を見るときに、その周囲を見ると新しい史実がわかったりすることがあります。

またその逆もあります。先日、白川郷で現地の郷土史研究家の方々とお話ししていた時に、「白川郷と
五箇山の合掌造り」ということで世界遺産登録されていますが、「合掌造り」という一くくりでは、どちらも
同じ物のように見受けられます。
しかし、行政区画では一方は岐阜県。他方は富山県。また、風俗や習慣も違いますし、そして江戸時代の
領主は異なります。
そういったことから、入口も異なるし、屋根のふき方も異なる。

しかし、その違いによって、飛騨と加賀藩の制度の違いなどが見えてくることも有ります。
これについては、又の時間に詳しくお話ししますが、飛騨の周辺地域を調査することで、外からみた飛騨の
本質について、今後も探っていければと思っております。

さて、前置きが長くなりましたが、今週の放送に入りましょう。
実は、今週の放送については、特にテーマを決めておりませんでした。そのため、先週の放送では、何時も
お伝えしております予告をしておりません。毎月第三週は、古川の話題をお届けしておりますが、テーマに
することをちゃんとお調べしてからでないと、公共放送ですから、間違ったことをお話しできません。
そのため、テーマを決めずに、何を話そうかと考えておりました。
先ほどもお話ししましたように、神岡も放送エリアであることがわかりましたので、今日は「神岡のお話」を
したいと思います。

神岡と言う町は、最近では三井金属が開発した町として、最盛期の昭和40年代には人口が30000人近く
になり、一時は町から市になろうとしていた時期がありました。

しかし、その後のオイルショック、第二次オイルショックを経て、人口がどんどん減少。先の平成の大合併で
古川町、宮川村、河合村と合併して飛騨市が誕生し、その一部と成った町です。
それでは、後半でその大まかな歴史についてお話ししたいと思います。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は春のシーズンですから「松田聖子でチェリーブロッサム」を
お届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 本日の飛騨の歴史再発見は、神岡の町についてお話しています。

平成の大合併によって、神岡と古川という二つの大きな町が一緒になりましたが、毎回選挙で2分されて
いる感じがしております。そのことについて「片方は江馬氏の文化の土地やし、片方は金森氏の文化の
土地やで、一緒になることはない」などと囁かれることがありますが、歴史をたどってみると、この2つの町
が一緒だった時期が江戸時代だけなんですね。
それは金森氏が知行していた107年間と、その後の幕府直轄地=天領と言われた時期188年間のほぼ
300年間だけです。

明治になって同じ吉城郡ではありましたが、別々の町として存在していました。
明治時代になると、三井金属の企業城下町としての色合いを神岡町は強めて行きましたから、経済的にも
古川町とは異なった状況を形成していきました。
そういったことが、町の文化の違いとなっていったのではと思います。
 

その大きな違いとなっていたことの一つに、鉱山があります。
神岡の鉱山の歴史は古く、延喜年間(901~922)に京の都から鉱山師の集団が茂住に来て山の上で金属を
採集し、都に送った事が知られています。
しかし、平成になって国府町で出土した「三角縁神獣鏡」の成分分析から銅鏡の中に含まれる鉛が、茂住銀山
のものと判明したそうですので、神岡で鉛が取れたという事は、歴史的史実の確証が得られていませんが、
三角縁神獣鏡が普及した3世紀から4世紀頃にすでにあったものと思われます。


神岡鉱山と一口に言っても、実は南から和佐保、栃洞、円山、茂住の4つの鉱山の総称で、神岡鉱山と言う
抗口はありません。
その歴史の中で、最も古い開抗と伝えられているのが、和佐保銀山で、その年代は明応年間(1492~1500)
 と伝えられています。

その後、大永年間(1521~1528)には、茂住銀山開抗という歴史を持っていますが、実際には、もっと古くから
鉱山として機能していたと考えられます。
有名な茂住宗貞が登場するのはそのあとで、金森氏が飛騨を知行するようになった天正14年以降の事です。


宗貞は、越前大野生まれで当初金森藩の鉱山奉行として高原郷茂住村に住みました。
初名は糸屋彦次郎と言う名前で、天正17年(1589)金森長近に仕え姓を賜って金森宗貞と称しました。
彼は、赴任後、和佐保銀山などを開発し、たくさんの鉱山開発を行い、金森家に莫大な富を提供した
ことで知られています。

その後、慶長13年(1608)長近が亡くなると、宗貞は、二代目金森可重より、私腹を肥やしていると疑いが
かけられ、身の危険を感じました。 
そのため、自ら屋敷に火を放ち、越前の敦賀へ退去して姓を打陀と変えて京極高次に仕え、敦賀では商人
として大活躍しました。
彼は、北前船で運んできたものを敦賀で陸揚げし、北国街道で琵琶湖の北岸まで運搬。その荷物を琵琶湖
~淀川を下って京都に持ち込み、大商人として君臨しました。
その後、京極氏から奉行を命ぜられる活躍しましたが、敦賀で85歳で亡くなりました。

さて、神岡と言う町は、もともと江馬氏の知行する場所でした。江馬氏の出自は、『飛州志』所収の系図に
よれば、「平清盛の弟経盛の妾腹の子輝経が、伊豆の北条時政に養育され、その土地の名をとって江馬
小四郎と名乗った」のが祖であると記されています。
しかし、江馬小四郎とは北条義時のことであり、飛州志の所伝は疑わしいものといわざるをえません。
江馬氏については、数々の系図が存在しますが、比較検証が難しく、未だに謎の一族と言われています。

最近になって江馬氏の館庭園が平成12年に復元工事が始まり、平成19年に会所建物が完成し、史跡公園
「江馬氏館跡公園」としてオープンしました。
この館は1976(昭和51)年の土地改良工事に先立つ発掘調査で発見されました。
元々この地には水田がありましたが、大きな石が5つもあり「五ヶ石」(ごかいし)と呼ばれ、耕作の邪魔ながら
も廃棄せず、地元住民も「江馬の殿様の庭の石である」と言い伝えていたと言われています。
館の発掘調査開始からおよそ30年の月日。遺跡の整備・復原には長い時間がかかって建設されました。

現在大きな石が残っていますが、こういった石も農耕で倒されたり、割れたりしたそうです。
それらを合わせるように復元するのも大変な苦労だったことでしょう。

江馬氏の一番南にあった城は、梨内城といわれ、現在の国府の安国寺の谷向うの山にありました。
もともと越中東海道はこの安国寺~大坂峠(十三墓峠)~上宝町荒原~巣山峠~山田~吉田~船津へと
伸びていましたから、街道沿いにあったお城だということができます。

江馬氏についてはまた詳しくお話したいと思います。

さて、本日も時間と成りました。来週の放送は古川祭の屋台について。今度は壱之町の鳳凰台について
お話したいと思います。
本日はこの曲でお別れしましょう。曲は「渡辺真知子 迷い道」をお届けします。
それでは、また来週、お会いしましょう!

徳積善太  
Posted by rekisy at 11:00Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容

2012年03月16日

高山祭りまであと1カ月

高山祭りまであと1カ月となりました。
のぼりが建てられました。

(小島さん画像提供)

徳積善太  
Posted by rekisy at 16:30Comments(0)TrackBack(0)飛騨のまつり

2012年03月11日

講演会がありました。

今日は、午後から飛騨高山まちの博物館にて講演会がありました。

講師は、まちの博物館名誉館長の八賀晋先生。
題名は、高山歴史講座 「国分寺の成り立ちと赤保木瓦窯」

「こんにちは。お忙しいなかありがとうございます。ただいまから歴史講座を開催させていただき
ます。3.11の日と言う事で黙とうを途中で捧げることになっておりますが、先に黙とうをささげ
たいと思います。
館長の西永より御挨拶します

改めましてこんにちは。本日はおこしいただきましてありがとうございます。
私は館長もしております西永です。本日は4回目の最期と言う事で当館の名誉館長の八賀先生に
お越しいただきお話しいただくことになりました。八賀先生にはありがとうございます。
今程黙とうをいただきましたが、本日は3.11ということで2時46に多くの方が犠牲になり、多くの町が
失われ多くの方が今も苦しみ、復興に頑張っていらっしゃいます。日本そのものが頑張らないといけないと
いう日です。
そういう日にこういう形で開催するのも何かの繋がりかと思います。先日文化庁の方とお話して、地震以降、
自分たちの文化や文化財をしらべてほしい依頼がふえた。こういう時代になって自分たちの原点は
どこにあるのか、何が大切なのかを見直す機会になったように思います。

高山にも町並み、お祭、たくさんの文化が、文化財があり、そういうものをあたりまえのようにしてきた
私たちがいます。時代の変遷も有りますので皆様と共に思いをめぐらしていければ。また新たな取り組みと
できればと思います。
博物館も1年近くになります。たくさんの方に来ていただいております。気軽に寄ってもらって蔵をながめる
だけでもいいですし、桜も咲くと思います。そういうことがきっかけになる施設としてご活用いただければと
思います。
お手元に、来週の土曜日から開催する東山三社の秘宝の特別展示をします。
東山三社は高山の大きなポイントとして地域の文化を伝えて行こうという思いが文化保存会と言う形になり、
祭礼の衣装等も支援させて頂いて、祭礼を守ろうという取り組みをされています。
今回そこに秘蔵の宝を含め、町の皆さんの思いを見ていただくイベントを開催したいと思います。
お越しください。それでは、最後までご静聴をお願いします。」

八賀先生プロフィール

高山市生まれ。斐太高校卒業、名古屋大学卒業。郷土館の名誉館長として平成10年より。国分寺の発掘調査
を平成4年、尼寺の方は60年に発掘。その辺の話もしていただけると思います。


八賀先生

ここで話しをするのは初めて。展示に関連するお話をと言う事で、専門分野の話しの中には展示に関する物が
余り無いと思いましたが、絵図があったり、どんな風な景観が考えられるのかということを手がかりにして、文化
の華やかな奈良時代の物ということになると国分寺とか尼寺ということになります。
スライドを出したことがないので、たまに見ていただいてお話を進めたいと思います。

一年前の今日は大変な日でした。今思いますと、一年前の今日、国府におりました。 国府町史が形が整い、
反省会に来ていた時です。一年おいてまた、呼ばれた事に縁を感じますし、文化等についても地道な認識を
持たないといけないと思います。

簡単な図面ですが、こんな図面を作りました。左半分に文章を書きましたが、絵図を中心に話したいと思います。

高山の郷土館の図面が展示してありますが、城下町の金森後期の年代を考えて欲しいですが、こういう物しか
ありません。金森さんの町絵図の中に、一番左のこれが今の国分寺。すぐが山になっていて、当時の姿とは
違いますが、西側は殆どなかったと考えて下さい。

次、国分寺がありますが、道路があって、西の方は岡本に行く所です。灘田郡となっています。
次は今の、古い図面です、灘郷の物。緑の部分が辻ヶ森三社です。三つの神社をまとめたので辻ヶ森三社と
言います。
性格はよくわからなかった。拝殿の下に礎石があり、ひょっとしたらお寺の後ではないかという気持ちで接して
いた。この神社を建て替える時に、地元との折衝をしていただき、調査することになった。保存状態が良くて
たくさんのものがでてきた。一面、この部分は田んぼになっていました。

古立山というのがあって、辻ヶ森、前の道路が駅へ行く道路です。道路が古い時代からあった。
国分寺から国分尼寺のところを一直線で結んでいたと思われます。

説明にも書きましたが、奈良時代には大野郡、荒城郡の二郡がありました。益田郡は貞観13年に分かれ、
大野郡を分けて宮から向うを益田郡にしました。大野郡になっていた。北の方は荒城郡となっていた。
当時の奈良時代の大野郡、飛騨の国を治める役所は大野郡にありました。今も高山中心にしたものだと
思われます。当時の大野郡は現在の益田郡を含めます。かなり広い場所を役所がおさめていた。

国府がどこにあったのか、議論が出ています。古立山と書いてありますが、フルサシという地名が残って
います。古いヤササの別称が国府だったんではないかと言うことも考えられています。
美濃の国の場合は、美濃の国府は不破郡にあります。不破郡の中には、こんな地名が残っています。
府中というのがあります。全国にも5つ程ありますが、愛知県の尾張には、国府の宮(こうのみや)があり
ます。伊勢にも国府町があります。

飛騨の場合は、文献の中に飛騨の国府町にありましたと書いてあるのが多いです。
飛騨の国府町というのは、ずっと後の話しで、国府村を造った時に廣瀬村名張村荒木村色んな村を集合して
国府村→国府町になるのですが、村の名前を付けるときにたまたま地名に、「こう」とか「こう峠」とか残って
いるので、「こう」というひらがなの字を国府と充てたと思われます。

大野郡の国府の名前と異なっています。惑わっかしいことです。全体を見るときに文化面でのどこが一番開けて
いるか、そういうことを考えて行くと、荒城郡の国府町を中心としたものが内容が先進地です。
そのためこちらのほうに文化が根付いている。当時の関係も国府との関係が非常に根強い。
奈良時代になってからの所謂政治的な動向の中には国府を荒城郡以外の大野郡に於いていたほうが中心の
ようです。
たくさんの人が集まるという前提がある。その前提で国分寺が尼寺を含め立てられたというのが全国共通して
いる。美濃の場合は、府中という町=垂井町にのこっている。府中のどこに建物の中心があったかというのは
わかりません。何回かの発掘調査をして建物を探し出すということが必要です。やはり府中の中です。

全国的に国府の都市の中心であったと思われますが、大野郡にあるのですが、和妙抄には、大野郡と書いて
ある。それがどこなのかはこれからも課題です。

「古舘」というのが国府の建物の名前をさしているのではとも考えられます。
こんな状態が古立山という名前にも残っているのではなかろうかとも思われます。

大灘村明細絵図。
三福寺とか江名子とかまとめた時に高山からみると、上が宮村です。条理の跡が見れます。形が厳密では
ありませんが、そのような形が見て取れます。
学校から南の方は何も無くてたんぼでした。やはりいまのような生活とは違います。そういう状況がお分かり
になろうかと思います。奈良時代は西の方が本命になっていた。金森さんの時に東に移りますが、昔は西に
あってなくなってしまったと思われます。

奈良時代を復元するのは絵図の中から手探りで探り出すことです。金森の時代にもそうですが、以前の時代
の景観の復元と言う物を考えることが大事です。

奈良時代の調査をしたら実際にどのようになるんだろうか。建物などから飛騨の姿がどのようになるか。
それを見てみたいと思います。

国分寺の正面図です。
本堂の建て替えが昭和26年。今の建物は重文。このたてものの痛みがひどいという事で解体修理。
昭和29年に完成。その際、お寺の修理等すべて国が行う調査の前に建物の下の構造の調査をして現在の
ものとの差異などを探し出すということがされました。
当時の解体修理の報告書がありますが、高山市には本はあるけど写真等は国にあります。
私たちも本で見ることしかありません。

芯柱 礎石の写真です。70cm位のものです。すぽんと柱が入ります。むき出しでおいてありますが、県の
重文です。元の場所ではないので、道路の近辺にあったものを写したものだという話を窺っています。
元の場所はわかりません。

国分寺周辺地割。塔の下、大門前、太線は奈良時代の地割。条里―奈良時代の太い線と太い線の間は、
1町あります。当時の田んぼは1町を10に分け1段(たん)とした。それが奈良時代の基本的な決め方です。
その決め方で短冊のような形を長地型。
半分に分けて中を10に分ける。これも広さは同じですが、半折型。
区分するには約束があって、当時の経済基盤は奈良時代は、人々の力を借りた農業力を集めたものでした。
米をもとにしたものでした。班田制というものでした。公地公民、国の土地を人々に与えてその収益の何%
かを吸い上げて、国を運営する。各地の色んな産物を調(みつぎ)の格好で出させたというのもあった。

租庸調…こんなことばがありました。租が米にかかる税金。調が各地の特産物。庸はいろんなところで働く
義務。労働。その代わりに布を出しなさいという税もあった。
飛騨の国は、祖は出しなさい。働く義務。地域の特産物については外された。全国で唯一免除されていた。
全国の税負担の内、全国唯一、飛騨の国は出さなくていいという特例を設けられていた。
その代わり、出さなくてもいいから、この代りに、匠丁を出しなさいということがきめられていた。
これは全国で唯一なんです。

飛騨は匠丁と言う物に非常に知られた存在でした。税金を免じてまでもこの仕事に準ずることになっていた。
いまの宮内省に配属され、国のいろんな建物の造営に携わった。奈良の都へも、平安の都でも飛騨の連中
が行って、中心的な働きをして、平城京、藤原京、平安京を建造しました。

1町は109m。男の人が、2反をもらった。6歳以上。女の人は2/3をもらう仕組み。収益の3%を税金に出して、
国家財政を支えた。男は死んだら返す。そういう風にしていた。

国分寺の本堂の下を掘った。黒い石が土台石。柱を固めるための意志が残っていた。
7間X4間の建物だった。と想像できます。柱との間隔は14尺、12尺、11尺というのがあった。
ほぼ30cm(29。697cm) 3.3mの柱間隔と言うのは大きなものです。
全体は、正面が88尺。奥行きが46尺阿多と言うことがわかります。
私たちが掘ったわけではありませんが、
礎石の下に固定した石が残る場合がありますので、柱の場所を推定できます。

辻ヶ森の写真です。
辻ヶ森の横からみた写真です。縁の下に礎石が残っていました。
たいのうのなかに取り込んでいた。建物をとっぱらったら、杉の木の縁の下側の方から、何十体もの
藁人形が出てきました。黒っぽいものも有りました。

辻ヶ森は100m四方。高山は200m四方だったと思われる。美濃の方は、尼寺は80mくらいと長さ200m位。
塔の中にお経を入れなさい。尼寺の方には塔を支える物がないので塔と言うものはないというのが通説。
詳細は分からない。

国分寺の辻ヶ森を上からみた写真。
下の石積みの状況から、どのような構造だったかがわかる。

地鎮祭をする。その時の祭に必要なものを穴を掘って埋めた。出てきませんでした。

飛騨の大工さん達の仕事が大変丁寧であることがわかる。
屋根の瓦は二万枚。加重がすごかった。柱の礎石が沈下することも考えられたが、礎石の下に石を敷き
詰めてあった。

1mの高さに盛り土をしてあるが、実は、1m最初に掘り下げて、5cm位積み上げてたたき、また5cm
汲んでは敲くという版築工法という工法が取られている。
スコップが通らないくらいの堅い土を敷き詰められていた。
地下2m位まで掘って盛り土がしてありました。

奈良の唐招提寺との比較。同じような形をしている。
奈良の興福寺の東金堂も同じ形をしている。

正面の幅、国分寺88.0 尼寺88.0
側面の幅    46.0   43.4
ほぼ同じ大きさの物であったと考えられる。

唐招提寺金堂、残っている部分は出来るだけ使う。そのため、昔の屋根より明治時代に修理した者の方が、
屋根が高くなっている。

赤保木の風土記の丘北側に赤保木瓦窯が残っています。ちょうど熊の神社の西裏になります。
陶器を焼く窯と同じように山の斜面に階段状にして並べ、2/3を重ねて登り窯にした。
非常に高温にすることができました。1200度くらいになる。薄いものだと支えないとひしゃげてしまうが、
破損がどうしても出土した。奈良から平安時代にかけては、平たい窯に変化した。7回くらい直して使った。
高さが狭くなった。

後ろに出土した瓦類を展示しております。国分寺と同じ物が出土しております。
蓮の花ビラが8枚。奈良時代後半の典型的デザイン。

垂木の先に瓦を敷詰めて、手の込んだ事をしていた。現在は。柱の先を白く塗っている。よその国分寺には
無いような丁寧な作りをしている。

美濃国分寺。公園化をしてある。この輪郭が全域を網羅している。伽藍の配置をほぼ全容を確認し、金堂、
講堂、塔については、確認している
鐘楼の字名=カネツキテン 字名は大事だと思います。
田んぼがあったところに国分寺をあてはめたものと思われる。

基壇の作りが、飛騨は1mほって、2mうわのせしてあったが、美濃の場合は、廻りを化粧してあった。
(基壇化粧)奈良ですと正面に、石で覆いをしてあったと思うが、斬り石で行う場合。川原石でやる場合。
美濃の場合は、レンガをつみたててあった。(土専(せん))という工法であった。三角のレンガも沢山出土している。

飛騨の場合はどのような毛書であったかは分からない。たぶん川原石ではなかったか。
瓦=飛騨の場合は奈良時代の瓦  国分寺を立てるためにデザインされました。
美濃の国では、本堂の下を調査してわかったこと。国分寺は8世紀中頃(741~)建ち始めるが、美濃の
場合は、罪土の中に7世紀末の瓦が大量に地堅めに使われていた。
建物の様式からしても、古い寺をどうも廃止して国分尼寺としたことが想像される。
塔が回廊の中にあるのは古い様式。飛騨は塔が回廊の外にあるので新しい形式。
天平勝宝八歳 飛騨国造 高市麻呂  大野郡大領 郡長官  自国国分寺知識物献物
 金 造営 」  七位→従五位下をもらう。当時は6年に一度しか行かなかった。」


徳積善太記  

2012年03月10日

3月9日放送分_佐々成政の北アルプス越え2

(3月9日放送分 第236回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 最近、仕事ばかりでなく、歴史研究の関係で豪雪地の白川村に行くことが多くなりました。
今までは、雪の白川郷と言えば豪雪地帯という印象がありましたし、国からも特別豪雪地帯の
指定を受けているくらいですから、有数の豪雪地帯と言う事になります。
私も冬場なんて行くところではないと思っておりましたが、東海北陸道の開通によって、今年は
既に4回もお邪魔しました。

以前は、夏場でも2時間くらいの距離でしたが、現在は、東海北陸道飛騨トンネルの開通により
高山からでも僅か40分ほどで荻町に行く事が出来ます。本当に近くなったという印象を持って
います。

先日行きました時に、白川郷の手打ちそばのお店でお話していましたが、白川郷の人たちも
この高速道路の完成によって、生活ががらりと変わったようです。このお蕎麦屋さんも、高速道路の
ICが建設されるということで、山の中腹にお宅があったのですが、現在地に家ごと移転され現在の
商売になったとのことでした。
白川郷の中でも、景気のいいのはICに近い荻町地区と鳩ヶ谷地区などで、ICから離れた平瀬地区
などは行く人も少なくなってしまい、以前に比べて温度差がかなりでているようです。

そんな豪雪の白川郷でも、日差しが長くなり、少し春の息吹が感じられるようになりました。
東北や新潟県などでは大雪のニュースが伝えられていますが、幸い白川郷は今年の「集中豪雪」は
避けられたようで、昨年よりは除雪回数が少ないそうです。
とはいえ、トヨタ自然学校のある馬狩の積雪は2月末現在で210cmもあったそうです。これから雪が
少し溶けて締まってくるために、雪上が歩きやすくなるそうです。

最近では、都会からお客さんを招いてスノーシュー体験や動物の雪上足跡観察などなど、雪の森の
中を歩き回れるイベントが開催されるようです。
今では、2月には雪の白川郷やライトアップを見にたくさんのお客さんが雪の飛騨を楽しみに来られる
ようになりました。
私ども観光業者は、以前は冬になると「冬眠だ」といって、夏場には取れない休みを一挙に取られる
処もありましたが、最近では、2月が稼ぎ時になっていますから、時代が変わったと思います。

 さて、本日の放送に移りましょう。
本日の放送は、先週のお話しの続き、佐々成政の北アルプス越えの話【続編】をお話したいと思います。
先週のお話しは、佐々成政という織田信長の武将が、信長の命令で北陸に侵攻し、その時に本能寺の
変が起きました。本能寺の変では豊臣秀吉が大返しという退去を果たして、謀反を起こした明智光秀を
山崎の合戦で破り、そのあと、信長の長男の子供三法子丸の後見として天下を我がものにしました。

その時に、成政は信長の次男信雄を立てて秀吉と対立したために、秀吉側についた前田利家と対立。
織田の家来同士の戦いとなりました。戦争のさなか、成政は、同盟していた家康に会うために、雪の
北アルプスを越えて、浜松まで行ったというお話でした。
その折に、白川郷の荻町城主だった山下氏勝が同行したという伝承があるとのことでしたので、
それについていろいろと調べていたわけですが、大町市文化財センターの小林先生より教えていただき
ました事をもとにお話ししております。

 さて、先週のお話しの中で、さらさら越えという伝承が、実は、さら峠と針の木峠という2つの大きな峠を
越えないと立山の室堂から大町には出られないということです。現代の技術をもってしても遭難された
事件が4回あったという事でしたが、実は、小林先生とお話をしていて、当時、飛騨の方は三木氏が
いたんじゃないか。三木氏は、佐々成政と同盟していたんじゃないかと言うお話でしたので、調べて
みました。

 飛騨の歴史の事を年代別にまとめた『飛騨編年史要』という本があります。
これは、大正時代に国府町の歴史研究家岡村利平と言う人がまとめたものですが、各所に伝わる古文書
を史料にして、その史料を年代ごとにまとめたものを、題名別に要約したものです。
飛騨の歴史研究者は、この『編年史要』を必ず参考にして、その前後の事象を推測する研究を行って
おられます。情報としては古いですが、参考になりますので三木氏の動向についてそちらの情報を抜き
出してみましたら、天正6年(1578)に三木氏は佐々成政と同盟を結び、その後、天正11年(1583)に
江馬氏と国府町の八日町で戦い、飛騨を統一します。そのわずか2年後に、豊臣秀吉の武将金森長近に
飛騨を攻められ、取られてしまいました。
佐々成政が家康と会った天正12年は、江馬氏を倒す時に同盟していた廣瀬氏を滅ぼし、飛騨をまさに
わがもの顔にした年だったんです。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「H2O ぼくらのダイアリー」をお届けします。
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 本日の飛騨の歴史再発見は、佐々成政の北アルプス越えの新説についてお話しています。

 さて、三木氏はそのあと、金森長近に責められるわけですが、長近が攻めて来た時の大義名分の
一つが、「佐々成政に同盟している三木を滅ぼす」というものでした。
そう考えますと、佐々軍が浜松に行く時に十分に飛騨を通ったという事が考えられます。
しかも、飛騨を通って、浜松まで行く方が、ずっと安全で、確実な方法ではないかと小林先生と話しており
ました。

利家と成政が戦った「末森合戦」の事を記した『末森記』には、
「さらさら越えをして東美濃へ出」という言葉が書かれています。その事から推測すると、東美濃=
中津川付近へ行ったことが考えられます。その仮説に基づいて、当時の人が一日に30km~40km
歩けたとして、飛騨を抜けたルートを考えてみました。それは、次の4つです。

①山下氏勝が先導役を買って出たという仮説と氏勝が一緒に同行したという伝説の下に考えると、
こんなルートになります。
富山―砺波―城端―白川郷(泊)―天生峠―国府(泊)―高山―萩原(泊)―下呂―加子母―付知(泊)
―福岡―坂下 という南を廻ったルート。

この中で、天生峠を越える事は冬場は無理と言うお方もおられると思いますが、昭和30年代まで白川郷
の人たちは、高山の学校に行くのに、冬場の天生峠を越えて河合へ出。角川から汽車で高山に通った
という話をされていました。

また、天正12年当時、苗木遠山城は、秀吉の部下森長可によって占領され、長可が小牧長久手の戦いで
亡くなった後、長可の弟によって知行されていましたから、苗木から中津川には行けなかったものと思い
ます。
苗木遠山氏も城を抜け出し、浜松に行っていたようですから、同じルートを通ったと考えると、
坂下―馬篭―妻籠―飯田―浜松というルートが考えられます。

②次に、富山から真っ直ぐ国府方面に来たとすると、富山―猪谷(泊)-宮川―河合―国府(泊)-高山
―萩原(泊)などとなります。そこから先は、東美濃へ加子母を通り、付知方面に行ったのではと考えます。

③3つめは、当時の街道が何処を通っていたかを考えた場合、松本の服部先生がおっしゃるには、鎌倉街道
が有峰―山之村―上宝町栃尾―平湯―安房平―大峠―奈川―松本と通っていたと考えられるので、そこを
通ったというルートです。

ただしこれには、松本側に伝承が全くなく、しかも大峠を越えると云うのは、飛騨側は比較的ゆるいのですが、
信濃側は断崖絶壁で、まして冬に通行する事は、非常に難しいと思われます。
ちなみに、大峠と言いますのは、現在の安房峠で上高地に降りる側ではなくて、安房平から南方向にいきますと
乗鞍岳と安房山の境目の処に竹田信玄が開いたと言われる峠がありました。その峠の事です。

④4つ目は、先ほどお話しした②の飛騨ルートと同じですが、
富山―国府―高山を通り、江戸街道で朝日―秋神(泊)―高根―開田(泊)―木曽福島―塩尻(泊)―上諏訪
へと通るルートです。
現在の国道361号線が朝日町から秋神を通って、開田高原に抜けておりますが、その行程です。


実は、江戸時代に書かれた『甫庵太閤記』という物語の日程を分析しますと、
「11/23富山―さらさら越え―12/1上諏訪に立ち寄り、そこから家康に連絡を取ると、乗馬五十頭、伝馬百頭を
迎えとして送ってよこした。12/4浜松に到着した。」などとなっておりますので、このルートが確実かと思われ
ます。

ただし、先ほどお話しした『末森記』の東美濃へ出たという話は無視されることになりますし、隠密行動に乗馬
50頭、伝馬100頭などという数字は全く似つかわしくありません。
物語の脚色が入っているのではとの小林先生のお話でした。


私は、②のルートか④のルートの可能性が高いかと思っておりますが、皆さんはいかがでしょうか。
このルートを通れば、安全にしかも確実に飛騨を通って、浜松までたどり着く事が出来ます。
さらさら越えのお話しのように、厳冬の北アルプスを通るのはちょっと考えにくいのではと思いますし、
途中の雪の多い箇所は、もし山下氏勝が同行していたとすると、白川郷で育った彼なら、冬の雪道を
歩くという事はいとも簡単にやってのけたと思います。皆さんは、どうお考えになられるでしょうか。

さて、本日も時間となりました。今日と先週の放送の原稿は、大町市文化財センターの小林先生とお話しした
内容を基に書かせていただきました。小林先生、御協力ありがとうございました。

本日はこの曲でお別れしましょう。曲は「五十嵐弘明 ペガサスの朝」をお届けします。
それでは、また来週、お会いしましょう!


徳積善太
  
Posted by rekisy at 10:51Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容

2012年03月09日

合掌造りの屋根の葺き方


今日、仕事で白川郷帰りに、今度の4/7 GS暮らしっくの講演の打ち合わせをしました。上手さんと板谷さんとお話していたところへ、五箇山の山崎さんが登場され、五箇山と白川郷の合掌造りの違いや研究内容について、とても貴重なお話を伺うことができました。

驚いたのは、五箇山の茅の葺き方が、白川郷と違うこと。白川郷では、屋根全体を葺くのに対し、五箇山では、片方の屋根を1/3づつ葺く家があったとか。3年ごとに、6回に分けて葺いたそうです。

下ろした茅は、肥料として農業に使ったようで、小さな村では白川郷でもこのようなふき方をしていたそうです。とても勉強になりました。








こちらは、白川郷の一般的な屋根の葺き方。


白川郷では結の団結を使って村総出で、一気に葺くそうです。ただし、最近は五箇山でもこの方式をとるらしい。理由は、つなぎ目から雨漏りしやすいことと、足場を組むのに費用がかかること。効率が悪いこと。また、作業する方の年齢が上がってきて最近2人ほど怪我や事故があったからだそうです。

  
Posted by rekisy at 22:25Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2012年03月07日

今日は取材がありました。

今日は、飛騨産業さんの顧客会員様向けの小冊子の取材を受けました。東京から、デザイナーさん、カメラマンさん、ライターさんのインタビューを受けました。


春の高山祭(山王祭)の祭運営のシステム(宮本)について、日枝神社副議長の長尾さんと共に、宮本のシステムについてお話しました。
自分でもびっくりするくらい、いろんなお話が飛び出しましたが、3時間しゃべりっぱなしでした。
改めて、高山祭の奥の深さに驚きましたし、長尾さんの話には、私も知らない話がいっぱいでした。

徳積善太  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)飛騨のまつり

2012年03月05日

だいぶできました

現在、4月7日に白川郷で講演する内容をまとめています。

パワーポイントを使って、説明するので資料や画像を編集しております。

あと少しですが、だいぶできました。


なお、当初「白山広域文化研究会」の講演として行う予定でしたが、会の都合により
「GS暮らしッく」の発表会として行なうことになりそうです。


今のところ、4月7日午後1時からの講演ですが、いろいろな史実についてお話できる
と思います。

タイトルは「山下氏勝と山下家について」

どうぞお楽しみに。



徳積善太
  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)中世の飛騨

2012年03月04日

飛騨歴史民俗学会の第27回大会がありました。

今日は、文化会館にて「飛騨歴史民俗学会」の第27回大会がありました。



高山市副市長さんもご挨拶されました。



新宮の直井さん、「新宮の文化財について」

下呂の小池さん、「下呂御厩野の村札について」
高山の林先生、「大原騒動余聞」
が基調報告を行ない、

吉朝さんの考古学関係の記念講演がありました。

今回は、私の研究関係の話題がなかったので、新宮の直井さんのお話だけ聞いて、早めに
失礼しました。

  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)調べていること

2012年03月03日

八ツ三館のおひなさま

今日は3月3日ひままつりの日です。飛騨地方では、ひなまつりと端午の節句、七夕は旧暦で
お祝いするので、一カ月遅れの4月3日ですが、最近は、どの家もお雛様を3月3日に飾る
ようになりました。

配達の途中で、古川の八ツ三館さんのおひなさまを見せていただきました。


玄関には、スタンダードですが大きなおひなさまがお出迎え。



八ツ三館ならではの、櫓つきのおひなさま。これは明治年間の制作です。



上段部分はこのようになっています。


おひなさまが中に鎮座されています。



館内にはいたるところにおひなさまが。陶器のおひなさま。



こちらも陶器のおひなさま。



かわいらしい、ミニチュアのおひなさま。



こんなに小さなおひなさまもあります。


手水鉢の上にもおひなさまが。



奥の料亭の部屋の前にも大きなおひなさまが飾ってあります。




各部屋にもおひなさまが。



業者ならではですね。こんなふうに各部屋に入らせていただけるなんて。



夜は、ショーウィンドウのぼんぼりに灯りが灯ります。


このおひなさま。昼間は珈琲とセットでお楽しみいただけます。
ぜひ、お越しください。

飛騨市古川町向町 八ツ三館
0577-73-2121
http://www.823kan.com/


徳積善太


  
Posted by rekisy at 19:30Comments(0)TrackBack(0)飛騨の風習

2012年03月03日

3月2日放送分_佐々成政の北アルプス越え1

(3月2日放送分 第235回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 もう3月になりました。あっという間に今年も2カ月が終わってしまいましたね。
いつもですと2月には高山と言う場所は、マイナス15度くらいの寒い日が2回くらいはあるのですが、
今年は、10度までは下がりましたが、10度以上になると云う事があまりなかったようです。
雪も例年より少ないですし、道路の雪も溶けてしまって、余り残っていません。
例年より暖かかったのかと思いきや、全国的には例年より寒い冬だったようです。
北陸や新潟地方では、例年より雪が多く、北海道などでは、積雪が例年の1.5倍というところも
有るようです。

 先日、清流国体の冬季大会が飛騨地区=朴の木スキー場やスズラン高原で開催されましたが、
34000人以上のお客様でにぎわったようです。岐阜県選手団も大活躍し、メダル獲得や入賞者が
多くて大変に盛り上がりました。
選手の活躍やお客様の熱気で溶けたわけではありませんが、実は会場では雪不足で、あちこちから
雪をかき集めての開催だったようです。

国体のマスコット、ミナモなどの雪像がたくさん作られていたようですが、ゲレンデにも雪が少ないのに、
雪像まで作る雪が足らなかった。そのため、合併債などで使っていなかった予算を使って、雪を集めた
そうです。
やはり今年の飛騨地方は、有りがたい事に暖冬だったと言ってもいいのではないでしょうか。
最近のTVを拝見しますと、早くも梅の花の便りが名古屋や岐阜方面では聞かれています。
例年の事ながら、寒い飛騨では、春の訪れが待ち遠しいですね。

  さて、本日の放送に移りましょう。
本日の放送は、先週お伝えいたしましたように、佐々成政の北アルプス越えの話をしたいと思います。
実は、最近、白川郷の合掌造りで有名な荻町にある、荻町城主だった、山下氏勝と言う武将の事を
調べています。
現地に行って、地元の郷土史研究をされている上出さんとお話していましたら、その氏勝が実は、
徳川家康の武将となって、名古屋城を築城の時に、清洲から名古屋の方に家康に進言したのが、
山下氏勝だったと云うお話を伺いました。

それから、名古屋城を訪問したり、名古屋にある徳川家の蓬佐文庫に行って史料調べをしたりして、
いろんな史実を調べてまいりました。
この放送でも、1月に少しお話ししましたが、山下家の系図や、末裔のお話など、いろんなことが分かって
参りました。

 実は、そのお話を今度、講演させていただくことになりました。4月7日(土)午後1時より、白川郷の道の駅
に有ります研修室で、「白山広域文化研究会」の第2回勉強会で発表させていただきます。
もし、この放送をお聞きの方で、興味ある方がございましたら、高山からはちょっと遠いですが、お出かけ
いただければと思います。

 さて、織田信長が天下布武という目標を掲げて、北陸地方に進出しました。
その時に、佐々成政が信長の武将として派遣された話は有名な話ですが、飛騨地方では、武田信玄が
亡くなったあと、強力な背後の恐怖が亡くなり、三木氏が北飛騨に勢力を拡大していきました。
三木氏は当初、上杉謙信と手を結んでいましたが、越中に佐々軍が侵攻して来たときに、部下として
越中に派遣していた塩屋筑前守秋貞が佐々軍と戦って敗れ、猪谷あたりで追手に追われて鉄砲で撃たれ、
その傷がもとで亡くなりました。天正6年5月12日のことです。

この時を境にして、三木氏は、天正6年には越中の佐々成政と同盟を結んだと思われます。
余談ですが、この時亡くなった塩屋秋貞の墓は2つあって、一つは猪谷の高山本線のトンネルの上の所に
一つ。そしてもう一つは、飛騨市宮川町戸谷にあるお墓です。
実は、こちらのお墓は昭和52年9月に宮川村によって、伝承に基づいて作られたものですが、飛騨市の
史跡となっています。
また、塩屋秋貞の命日について、こちらのお墓には、天正11年3月となっていますが、宮川町打保にある
光明寺には位牌が残されていて、こちらの日付が先ほど申し上げた天正6年5月12日となっています。
天正11年ですと三木氏が飛騨一国を統一した時ですので、おそらく天正6年の日付が正しいものと思われます。

さて、その時、西飛騨の白川地方では内ヶ島氏が勢力を持っていたわけですが、当時の内ヶ島氏の勢力は
白川郷に留まらず、五箇山から南砺市の城端のあたりまでのエリアを知行していたものと思われます。
当然、越中に侵攻して来た佐々成政と対立したわけですが、内ヶ島氏は佐々軍に対して人質を送る事で、
同盟を結びました。
その時に人質として送られたのが、内ヶ島氏の縁戚 山下氏勝でした。後半で詳しくお話しましょう。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「澤田聖子 卒業」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 本日の飛騨の歴史再発見は、佐々成政の北アルプス越えについてお話しています。

 わずかの間でしたが、山下氏勝は佐々成政の下で、越中に滞在していたようですが、本能寺の変によって、
信長が天正10年に亡くなり、成政は信長と言う大きな後ろ盾を失う事になります。
そのとき信長の死をいち早く察知した秀吉は、備中岡山で水攻めにしていた戦をいち早く集結させ、有名な
大返しによって、どの武将よりも早く明智光秀討伐に動き、山崎の合戦でとうとう光秀を打ち破りました。
その辺のお話は有名な話ですので、ここではお話しませんが、秀吉は信長の長男の遺児を担ぎあげて
その後見人となって天下を我がものにしていきました。

佐々成政は、魚津にて上杉軍と戦っていたため、信長の弔い合戦には間に合わなかったばかりか、
日頃から成り上がり者の秀吉のことをよく思っていなかったことで、信長の次男信雄を援けて秀吉と
対立しました。
家康も秀吉と対立していましたから、天正12年3月に小牧長久手の戦いで双方が激突し、多数の死者を
出しました。一方で、佐々成政は、前田利家を将軍として討伐に差し向けられています。

 その時、佐々成政は、家康に会うために、天正12年11月23日密かに富山城を出発し、12月4日に浜松で
徳川家康と逢っています。
これは、松平家忠と言う人が書いた日記に書かれているので、おそらく史実だと思われます。

このときに、厳冬の飛騨山脈を越えて行ったと云うのが戦国時代の一大壮挙として捉えられ、各地に伝承が
残っているために、数多くの作家がとりあげて多くの物語が書かれ、さらさら越えの物語として知られています。

 実は、山下氏勝の事を調べている時に、このさらさら越えに氏勝が同行していたと云う伝承があるとの話を
白川郷の上手さんからお聞きしました。今でも白川郷は大雪の降る地域ですから、雪の降らない尾張出身の
成政が氏勝の手助けによってさらさら越えが可能になったのかもしれないと思い、色々と調べてみました。

 さらさら越えと言いますのは、富山から現在の室堂に出て、そこから立山黒部アルペンルートで有名な
黒部ダム付近まで越える事をいいます。そこには、さら峠、針の木峠と言う2つの峠があって、旧暦の11月の
末となると現在の太陽暦では12月25日あたりになりますので、かなりの積雪があったと思われます。
そんなところを越えて果たして行けたのかと思います。

高山の郷土史研究家菅田先生にお尋ねしましたら、先生もかつてこの話に興味を持っておられたようで、
「以前、ヒマラヤなどの登山隊の人に聞いたら、雪洞を掘って中に入ると、ろうそくの火でも中の気温が上がり
暑くて仕方なかったと云う話を聞いたことがある」というお話でした。

先生から、信州の大町あたりに佐々成政の伝承があるようだ。ということを伺い、早速大町市の文化財センター、
小林先生にお話を伺いました。
 小林先生のお話では、大町に残る伝承とは、2つあって、一つは西正院にある大姥尊座像で、これは道中の
安全祈願のため立山の大姥堂から成政が運んで来たと伝わっています。

そしてもう一つは、成政の従者の一人=松沢新助と言う人が重い病にかかり、新助を残して浜松に向かった。
その時に持参していた親鸞聖人直筆の十字名号を与え、それが現在も松沢家に残されているというものです。
ということでした。

ところが、先生はこの針の木峠越えに疑問を抱かれ、いろいろと調査をして見えました。
実は、近年になってこの厳冬のさらさら越えにチャレンジした人が4人も有ります。

大正年代に小林喜作と言う人がこの物語を実践しようと厳冬の針の木峠で遭難。

同じころに伊藤孝一らの挫折。

昭和初年には早稲田大学と同志社大学の登山隊が遭難。

平成21年には京都府立大学助教授の伊藤達夫氏が遭難。などと、登山技術が進んだ現代の登山家でさえも
大変危険なところに、当時の登山技術で果たして可能だったのかということでした。

佐々成政の目的は、迅速にしかも確実に家康に会う事が目的だったわけですから、しかも必ず富山に帰らない
と意味がありません。本当にこの峠を越えたのかどうかということは、非常に疑問が残ります。

当時の飛騨の情勢からしてもっと安全なルートがあったのではないか。今日は時間となってしまいましたので、
来週の放送で、教の放送の続きをお話したいと思います。

来週の放送は、「佐々成政のざら峠越えの新説。本当に北アルプスを越えたのか?」について続きのお話を
したいと思います。どうぞお楽しみになさってください。

それでは本日は、この曲でお別れです。「来生たかお セカンドラブ」をお届けします。
それでは、また来週、お会いしましょう!

徳積善太  
Posted by rekisy at 11:00Comments(0)TrackBack(0)毎週の放送内容

2012年03月02日

金山にお邪魔してきました。

金山の郷土史研究家 長瀬茂樹先生を長尾伴文さんと訪問してきました。

長尾さんは、地元の食材や素材を作って町おこしをされている方です。
今は、「鶏ちゃん」「馬瀬川の魚」「しょうが豚」などを使って数々の展開をされています。

今回、長瀬先生の希望で、「まだまだ伝えたいことがある」ということで、金山の町おこしのために
どんなことが必要か。歴史の素材で、私たちの知らないことがあるのではと訪問させいただきました。



長瀬さんのことが、最近発行された「棚田」を紹介した本に掲載されたそうです。


長瀬さんの棚田は、岐阜県の中でも3か所の一つに認定され、35の棚田を維持されています。
命の続く限り守りたいとのことでしたが、最近、益田地方で人気のある「龍の瞳」にもっとも適した
田んぼとして、今後の協力が期待されます。


かつて、嘉永4年にこの棚田は時の郡代大井帯刀から認められ、その褒美として銀杯が
この家に渡されたそうです。
特別に見せていただきました。


今では、この銀杯で、正月のおとそを飲んでおられるそうです。


徳積善太  
Posted by rekisy at 23:54Comments(0)TrackBack(0)益田編