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東勝廣さん_一位一刀彫について

高山市公民館講座 東勝広さん 「一位一刀彫について」 平成22年11月5日 文化会館にて


武川課長より紹介:本日の先生は東勝広さん。彫刻師として有名な方。竹腰さんに師事。屋台保存委員として活躍。大分県の三つ衣広場にも彫刻を手掛ける。彫刻組合の理事長も歴任された。自社の彫刻は国府の山門彫刻とか、奈良とか手掛けてみえる。また最近は光記念館に根付け展があり、展覧会を毎年重ねてみえる。色んな作品を見ることができます。後ほど紹介ありますが、市の市展に作品を出されました。
それでは、東さんよろしくお願いします。
東勝廣さん_一位一刀彫について
紹介されました東でございます。ここの大きな作品は神代という埋まっていた木を彫って、火山灰や土などが染み込んだものを使って彫っています。そういう風な大きい物は、こういう物。一刀彫は小さな物。それが仕事です。
今課長さんからも説明ありましたが、全国工房で根付けをやっています。飛騨の方の根付けの会長をやっています。
社寺彫刻と言って、神社とか、屋台とかそういう彫刻。欄間などもやっています。先ほども紹介していただきましたが、南春寺の山門の龍が取り付けてあります。今年は奈良の龍泉寺という山伏の山岳修行の所の大峰山の下のお寺に八大龍王堂があって、欄間に四方、一面が5間のものに一間の彫刻を一年づつ彫って、今年完成しました。20枚彫りました。
屋台彫刻をいろいろやって、高山の屋台では宝珠台の下段の波間に龍亀という亀が住んでいる彫刻を彫りました。
大垣では、屋台彫刻を付けさせていただき、四国では太鼓台にも上から下までたくさんの彫刻をつけました、

あと、彫刻は、仏像彫刻があります。専門ではありませんが、明日の朝、九州の福岡へ行き、仏像を頼まれました。お仏壇も一式やるようになっています。
あまりは仏像専門にはやっていません。きれいにきちんとする仏像ではなくて、楽なというか面白い物を彫っております。
それから、日展、日彫展に出しております。この頃日展には出していませんが、望郷という文化会館の作品が私の物です。サッカーのキックしているものがビッグアリーナにあります。
3年ほど前に火事があって、ほとんど作品が焼けてしまいました。市の方へ寄附しておいてよかったと思いました。

今日は飛騨一刀彫という事で話しをさせてもらいますが、来週は根付けの事。三週目には、高山の屋台彫刻の事と、谷口与鹿の事を話しをさせていただきます。
新聞などのものではなくて、私たちの目から見た与鹿を話したいと思います。

今日は、飛騨の匠から一位一刀彫という事を話しさせていただきます。

飛騨の匠という言葉、これは素晴らしい言葉だと思います。たくむというのは、いろいろ考えたりする意味と、たくんで物を作るという素晴らしい名前だと思います。この頃新聞などを見ても、匠の名のとかいって、よその人達が匠という言葉を使っています。飛騨こそ昔から匠ということがあるわけですから、飛騨の人が生かさないといけないというので、昨日、市長に飛騨の匠をブランドとして商標登録にすべきと申しました。行政機関としては取れないらしいので、産振とか、そういう団体なら取れるそうです。商工部長にお願いしておきました。
それでこの、飛騨の匠ですが、飛騨の匠はいろいろと考え方があって、若いころに聞いたのは、小林幹先生から、飛騨の匠というとかっこのいいものに見えるが、土方やら土工みたいな物だったと言われた事がある。その頃の飛騨の匠というのは、斐太工だといわれていました。そういう事も当然あったと思います。100人以上土木などに従事したと思います。文献などを見ると一里行くごとに10人づつ。100人入っていたという事だそうです。あとの一人がまかないだったそうです。それで租庸調といって、税金ですが祖=米を献上する。庸=産物を献上した。調というのは、都に運ぶ人。そういったらしいが、飛騨の人は寒いから米も取れなかったかもしれないし、そういうことを免除されるために行ったのだという説もあります。今の考え方は、飛騨の人は器用で優れた技を持っていたので、飛騨の匠と言うんだという説もありますし、、飛騨匠と書く人達が出てきました。敬ったような字になりますが、そういう風になったという説もあります。深くは分りませんが、先祖にどのような人がいたかというと、はっきりしませんが、止利仏師=法隆寺の仏像を造った人。その人が止利仏師。蔵作りの鳥といわれた。河合の人として伝説が残っている。母はしのぶ。月ヶ瀬の伝説となっている。月を見ていたら子供をはらんで、生まれたのが、止利だった。首が鳥のように長いから鳥といったそうです。聖徳太子にも大事にされました。天生の山というのは、止利が生まれたので天生と言うようになったそうです。

あとは、昔の小学校の本に、飛騨の匠と百済の川成の物語りが出ていて、飛騨の匠が建物を立てて、四方に出入り口があったと。西から入ろうとすると南が閉じ、南から入ろうとすると西が閉じたという。絵を描いてくれというと、百済の川成は朝鮮の人だと思いますが、その人が入ろうとすると反対側が開くという事で、なかなかお堂に入れなかった。怒って帰ってしまった。数日して川成が飛騨の匠に遊びに来いと言って、家に入るように言うと、死んだ者の臭いがして、入ると気持ちが悪くなった。それで逃げて行ったという話しがある。百済の川成が飛騨の匠をやっつけたという話しがある。飛騨の匠は名前だけでも有名な人だった。そういう人達のことを飛騨の匠といった。
歴史に残っている人は、まがりのいまろという人。荒木郷の出身で、東大寺や石山院の仕事をした。
陣屋の前に唐の志和の銅像があるが、鶴に乗って、こちらの方から向こうへ渡って鳥に乗って帰って来たという伝説の人。
藤原の宗安、これが本当の飛騨の匠の祖先といわれている。鎌倉時代の後期にみえた人。
與佐野けいじ墨縄という人も鎌倉時代だと思っています。

有名な左甚五郎は、江戸時代初めの人。日光東照宮の眠り猫とか、上野の寛永寺の鐘撞き堂の龍があったらしいが、この人も色々と説があって、左甚五郎は飛騨の人ではないという説もあります。浪曲師等は飛騨の人として説明してくれますが、四国高松の方から左という性の方が、こちらに来て、左甚五郎は四国の出だという事を言って行かれた。左甚五郎の母親が河合の人という説がある。一応講談だとか浪曲などには飛騨の出身ということになっている。よく知られた人です。

それから今日の話の松田亮長ですが、谷口与鹿との年は松田亮長が22歳の時に生まれている。それで亮長より10年ほど早く亡くなっています。本町の一丁目二丁目にあい向で住んでいたようです。松田亮長の話しをさせていただきます。

亮長という人は二十歳のころ、平田亮友という人についた。根付けは男のお洒落で、流行した。江戸時代は派手な物や高価な物は着れないので、根付けなどに掛けたので発展した。亮長という人は、そこら中に旅行に行っている。伊勢から奈良から京都から江戸から言っている。通行手形など無いといけない時代に、この人は経済力があったと思われる。根付けなどが売れたのかなと思っている。

飛騨出身の平田亮友に弟子入りしたと言われていますが、亮長より亮友のほうが10歳以上年下。それの弟子というのはおかしいのではないかと津田さんのお父さんが言っていたとのこと。立派な根付け師だった。江黒さん二代目の亮声さんという人が亡くなられたが4代続いている。江黒さんが系図を書かれた。亮春という人も習いに行った。中村亮芳という人も習いに行った。その中に亮長がいた、
江戸で根付けの修行して、広野亮直に教えた。桜町か左京町に広野まみちゃんという歌を歌ったりした人の祖先。津田亮三郎は、松田の血筋で来たというわけではない。津田清次という人が一位彫刻をやっていたそうです。それの弟子に入ったのが、与鹿の弟子の浅井一之。その人が津田家に婿に入り、亮貞、亮則となっていった。津田さんの作品、を後ほど見て下さい。

そんな風で、根付けを亮長が修行して彫った。帰ってきてから、彫ったんですが、柘植の木がほとんど。柘植は硬くてねばい。小さいものを掘るには非常に適している。この辺では、やどみといって、下の方へはウキがありますが、太いのがありません。 直径3cmくらいの物しかありません。柘植の木があるのは、伊勢神宮の山=浅間山に産する柘植の木は目が細かくていい木です。それが本当の根付けに適した材料なんですが、亮長も柘植の作品を残していますが、飛騨には一位があります。何で一位かというと、神主の杓がありますが、杉などでもいいらしいのですが、平安時代の終わり頃に飛騨の一位をもって杓として献上したところ、木目つやがいいということで、正一位という名前をもらったので、一位というようになった。一位の名前が使えるのは、本当は位山しか使えない。あららぎとか、みずまつとか、北海道ではおんこといいます。飛騨では位山に産する木を一位というそうです。
東勝廣さん_一位一刀彫について
一位の木の美しさに亮長は目をつけたんですね。彫った時は明るい茶色をしています。白太というのがあって、非常に赤太と白太がはっきりしていてきれい。タンニンを含んでいますから、年数が経てば経つほど、黒いつやを出してくる。深いつやが出て来る。そこに亮長は目をつけて、一位で根付けを作った。根付けはつけるから、一位の木は傷ついたりすれたりする。オークションなどでは、すり減っていて耳がなくなったようなもの=慣れのものはオークションで2・3千万します。根付けは日本の一番の文化として、金銀根付けといって、外国人は認めている。根付けの本がありますが、外國人の本が多いです。だから一位に目をつけて彫っていった、木が柔らかいので(桧よりは硬い、柘植と比べると柔らかい)つやを出すためには、一刀彫調で、大きく削った方が表現が出る。

細かい毛彫をしても合わない。後から見ていただければわかるが、のみをすかすかと彫ったのが一刀彫。一刀彫だから刀一本で掘ったかというとそうではありません。
一刀で彫ったという彫り方で一位一刀彫という名前がついたそうです。

丸太半分に割って、木口を台にして農家のおじいさんが仕事をしている脇に鶏がいるようなそんな彫刻を見ました。江黒亮声さんのは、いい彫刻があります。
亮長はスサノオノミコトがヤマタのオロチと戦っているのを彫ったりしています。付知に収集している人もいます。亀の物も彫ったのもあります。一位一刀彫をはじめて、江黒さんなどもやって見えた。

私たちも仕事に行きまして、彫っていますが、弟子に入って独立する頃には、飛騨ブームで観光客がどんどんみえた。今の観光客の人はほとんど買ってくれませんが、すごく売れました。一日に10も20もできましたが、どんどん売れました。昔は売れたんですけど今は売れなくなりました。そこへもってきて材料が無くなってきました。何度も北海道へ買いに行きました。一位の木は寒い所に多い木なんです。また水を好きな木なので、谷の一合目から三合目くらいまでの湿地にしか生えません。

細かいですから成長が遅いです。早くても300年のもの。大きなものでも500年たっていないと彫刻にならない。新が真ん中にあっても外しますから全部は使えません。大きな木で長さが3mくらいのものがずっと積んでありました。年齢が細かいというのは成長が遅いですから、芯が腐っているものが多くて、節も多くて、ヤニといって、冬のマイナス20度に下がった時に凍結割れを起して、石のように硬い所があります。道具が欠けます。一位の木は、土場に積んでありますが、まあまあ彫れるかなという木は10本に一本です。殆ど焚き物になったと思います。

そこへもってきて、鈴木宗男さん、営林署の人を紹介して出してくれた。そんなことで一位の木は北海道へ行っても材がありません。貴重な木になってきました。

亮長さんの頃のように原点に返って根付け、これはいまある材料でできます。そんなことを思っています。業界は悩んでいます。大きいものは、神代でやります。小さなものは一位で彫ります。

これは、飛騨の匠が都の方へ行っているというもの。 でも飛騨の方の未練もあるし彼女家族を思って後を向いています。市展の運営委員をやっていますが、運営委員が市展の方が52・3回続けてきましたが、美術協会と名前を変えて、我々が元で運営していくという方法にしていきたいと思います。プロジェクトに入っているので、都に行く飛騨の匠を彫りました。

粗末な木綿のような物しか着ていなかったのではと思い、風呂敷に包んだ物かどうかはわかりませんが想像で彫ってみました。
東勝廣さん_一位一刀彫について
虎は神代で、玉置らいせきという人の絵があります。家が焼けた時に中から箱が顔を出していました。これだけ残ったものです。戒めとして掛けています。今年寅年ですので彫りました。向こうの方は、動物が特に雀がうまかった竹内西鳳という人です。竹内西鳳は、スズメを描く時は雀のちゅんを描けという人だったんですが、それに今年鬼瓦に雀を彫りました。絵と彫刻をあわせて掘ることを考えています。

私の作品を見ていただきます。

飛騨の匠と匠街道の資料を持って来て下さいました。朱雀門が立派でしたが、大極殿が今年できます。行ってみたいと思います。

飛騨匠が行った地図がありますが、下呂は下留、上呂は上留だったらしいです。いまでも位山に石畳で歩いた道があるんですね。梶田さん。熊野古道みたいなのがあります。

飛騨の匠は、最初は税金のことばかりで、都へ行って苦労した人もあったそうです。脱走した人もあったようですが、言葉が違って奇怪な顔をしているという事ですぐわかるとされていました。丸一年間しっかり仕事をしたそうです。そして技術を覚えて、戻らなかった人もいて、都の方では100人づつ送られましたが、豪族のお抱え大工になった人もいたようです。
その血の流れを持った人であるということを知るべきだと思います。

下下の国と言われますが、下下の国はなかった。飛騨は昔から貧乏でああ野麦峠のように苦労したとか言われますが、都の技術をみにつけて広め、豊かだったと思います。江戸の終りは天領で飛騨は発展していた。名古屋の次に栄えていたそうです。岐阜とかは高山に及びがつかないところです。自信を持って下さい。文化が残っているんですが地元の人は気がつかないでいます。他所へいくと高山は違うなということを思います。

質問
屋台の彫刻とかが残っていますが、麒麟台の籠の鳥はどうやって彫るんですか。

屋台の麒麟台のは素晴らしいです。与鹿という人はどうやって彫ったかわからないところがあります。パンフに出て来る鳥籠の外を彫って、籠目を描いていくのが非常に難しい。寸法が合わないと変な形の籠目になります。難しいのですが、描いて穴を開けて、中に鶏のいる事を描きながら取っていく。そうしてから今度できるだけ外から中を取って、頭で描きながら彫っていく。中を彫るのはそんなに難しくない。鳥籠が難しいのは、内側の裏側を彫るのが難しい。平塚市と高山市が提携したときに10周年記念で彫れと言われて彫りましたが、手間はかかるし大変でした。平塚の博物館に納めるようになったんですが、鳥籠が立派で、平塚の市長が気に入って、市長室に置いていたということです。サカになる部分が難しいです。

質問 さきほど、お弟子さんとか師匠という単語が出ましたが、次世代の担い手は減っているんですか。どのくらいみえますか。

減っています。弟子として修行しているのは一人か二人。一応弟子の期間は過ぎて弟子で修業しているのはうちくらいですかね。

質問 どのくらいの日数をかけて作品を仕上げるのですか。

たくむ仕事ですから、生活もありますので、数日でやっつけます。大体かけても4・5日です。
匠 工 巧 内匠 企とかきますが、飛騨の匠という言葉は素晴らしい言葉です。

質問 神代というのはどういう字をかきますか
神代と書きます。火山の灰で埋まったものです。腐らない。長野には檜もあります。
神代の時代に生まれたという意味です。


事務局:それでは、これで終りたいと思います。

飛騨一位一刀彫という題名でお話しいただきました。ありがとうございました。
次回その次とまたご参加ください。


徳積善太 (記録)




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