2007年12月17日
12月17日放送分 『古川姉小路について』
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月半が過ぎました。今年もあと2週間となりましたね。皆様にとっては、今年一年はどんな年だったでしょうか。
私もこの番組を始めるようになって、今年はたいへん勉強をさせていただきました。今までも地元のことをいろいろと調べていましたが、今年ほど広範囲に、また詳しく調べたことがありませんでしたので、とても勉強になりました。自分も勉強だと思って、この番組をすすめていきたいと思いますので、番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。
お尋ねいただいた内容は、少しお時間をいただいて、知り合いの専門家の方にお尋ねするなり、自分が持っている資料でお調べするなりして、また番組の中でお答えしていきたいと思います。
さて、先週は、飛騨の名前の由来についてのお話をしました。今週は、第三週ということで、古川のことについてお話しましょう。
10月と11月に、飛騨古川ふるさと案内人会で、研修会がありました。地元の歴史家 稲葉六郎先生の御案内で、古川の名勝や寺院について、御案内をいただきました。そのときに教えていただいた内容を一部交えてお話したいと思います。
さて、古川の町ですが、白鳳時代や奈良時代は今の古川町のあたりではなくて、もう少し北の太江、杉崎地区が結構栄えていたそうです。近年、杉崎廃寺の発掘調査が行われて、田んぼだったところから数々の礎石が発見され、このお寺が金堂や塔を備えた立派なものであったことがわかりました。
そのあたりには、今はなき古い寺がほかにもあったらしくて、寺があるということはそこに民衆が営みをしていたということがわかってきています。
また、高山に国府が置かれる前の国府があった場所について、先日行われました第3回ふるさと案内人会 見学ツアーで、稲葉先生は、「現在の上町のところに、国府があったらしい」とおっしゃっていました。現在、栗原神社という神社が古川町の上町にありますが、国府があったと思われる場所が、現在の栗原神社前から大日に掛けての一帯が、いまの上町公民館のあたりではということでした。
このあたりは、昔から久中(くなか)と呼ばれていて、もともと、国中の呼び方が長年の言葉の使い方で変化したものといわれているそうです。つまり、昔は国の役所である国衙(こくが)が設置されていた場所で、飛騨の中心地でした。上町廃寺がこのあたりに確認されているそうです。稲葉先生がおっしゃるには「この辺には栗林があって、毎年栗を朝廷に献上していた。島官といってお旅所だったところに神社を移転した。上町廃寺というところは三菱スタンドより上にあった。役所はどこにあったのかわかりません。飛鳥時代の終わり頃、遅くとも奈良時代の中ごろには高山に国分寺ができて移動しただろう。」ということでした。
奈良時代には、国の政治を行った国府は、国分寺・国分尼寺建設と共に、高山に国府が置かれたそうです。
鎌倉時代には、各地に守護の下に地頭である御家人がいて、いざ鎌倉というときには、鎌倉街道を通って、鎌倉にはせさんずることができるように鎌倉街道が整備されました。今でも、高山には、鎌倉街道のあとが一部残っています。そののち、室町時代の初めころには、この地頭が開墾などをして納める地域を拡大していくわけですが、全国的に見て、どうも、守護のいたところを避けるようにして、地頭が拡大化していったようです。
鎌倉時代や室町時代のことは、残念ながら飛騨に明確な資料が残っていないので、よく分っていませんが、私が確認したことをお話しますと、鎌倉時代には、京都の山科家の知行する地域が、石浦・江名小・岡本の保とあと松橋という場所が記録に残っているそうですが、その場所はよくわかりません。おそらく宮と高山の境目の所に松橋という橋があるので、あのあたりではないかと思われます。
さて、この辺でちょっとブレイクしましょう。 曲は、クリスマス前ということで、辛島美登利でサイレントイブ
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今日の飛騨歴史再発見は、室町時代以前の古川町のことについてお話しています。
さて、そのころ国府地方には、雅楽をやっていた多好方という人が知行していた土地があったそうです。
この人は、建久二年(1191)11月21日に、鎌倉に鶴岡八幡宮が遷宮されたときに、都から招かれて源頼朝の前で奏楽を献上しました。その秘曲に感じ入った頼朝は、家臣大江久家を京都に遣わして好方から神楽を伝習させます。その後、建久4年11月4日に、好方の息子 好節を再度招いて、鶴岡八幡宮で奏楽させたときに、何かいいことがあったのか、褒美として知行地を与えます。それが国府の荒城郷だったそうです。
好方は、正治元年(1199)11月8日に地頭職を子の好節に譲り、将軍源頼家にたのんで、荒城郷を守護不入の地にしてもらいました。それ以後、この国府の地は、安土桃山時代頃まで、長い間、多家の知行であったと考えられます。ただし、多家の人が飛騨に住んでいたのではなくて、京都にいて秘曲を伝授するなどしていたそうです。
話はかわりますが、祭りの歴史を調べているときに、この多家の人が、飛騨楽というものを伝授し、それが現在あちこちでみられる闘鶏楽の原型ではというお話があります。真実はよく分っていませんが、飛騨のあちこちにみられる闘鶏楽は、どうもこのころに始まっているというお話があるようです。
鎌倉時代に多家があったころの守護は、藤原憲俊であったそうですが、このころの国府がどこにあったかは、定かでありません。
その後、室町時代になって、姉小路氏が国司に任命され、守護を京極氏が勤めることになりました。京極氏は、家来の多賀氏を今の高山あたりに。三木氏を今の下呂の竹原あたりに配置したそうです。古川地域は、姉小路氏が治め、北飛騨の神岡あたりは、高原郷と呼ばれて江馬氏が治める地域となっていました。多賀氏が本拠地を今の城山=天神山に城を築いて構えたと伝えられていることから、その地名が多賀山となり高山になったという伝説があります。ただし、これはあくまでいわれであって、本当かどうかはわかりません。
さて、国司の姉小路氏は、その頃どのあたりに国府を置いていたか謎のままですが、古川の蛤城にいて飛騨を知行していたことがわかっています。国司の任務は、当時は神官も兼ねていたそうですが、国司が訪問する神社を一の宮、二ノ宮、三ノ宮といいました。一の宮は現在も知名になってますね。そのどれもを訪問するのが大変なので、姉小路氏は、阿多由太神社など延喜式に載っている5つの神社を城の南側に勧請し、五社神社と名付け、お参りをしていたそうです。
蛤城は、現在の古川バイパスのところにトヨタカローラさんがありますが、そこから宮川をはさんだ対岸の山の上にあったようです。蛤城という名前は、そこに蛤石があったことから、のちの金森時代になって呼ばれた名前ですが、当時は、古川城といわれました。そこの真下には、城下町が広がっていて、古い寺も4つほどあったようです。現在の古川バイパス沿いにある田中木工所近辺にその城下町があり、城に近いほうから一番町、二番町、三番町と呼ばれていたそうです。城と城下町は七堆端(ななついばし)という橋で結ばれ、その遺構は明治時代まであったそうです。この城下町は、のちに金森可重が古川の町を築くにあたって取り壊され、ほとんどが現在の古川町に城下を移転されました。
この姉小路も、尹綱(これつな)の時代に、3つに分裂します。応永18年に飛騨の乱がおこり、尹綱はこの戦闘で殉死しますが、このあと、小鷹利城(向小島城)の牛丸氏、杉崎にいた小嶋氏。そして国府町の広瀬にいた広瀬氏の3つに分裂します。それぞれが、姉小路の流れの人たちとして古川地区を知行して行きます。

小島城跡(古川町杉崎)
室町時代の中期以降には、飛騨は、北から高原郷の江馬氏、古川に牛丸氏、小嶋氏、広瀬氏。高山に多賀氏、益田地域に三木氏と細かく分断されてそれぞれの知行が行われていました。その後、益田地域の三木氏がどんどん勢力を伸ばして、最終的には飛騨を統一します。このお話は、またの機会にお話したいと思います。
ちょっと難しかったでしょうか。さて、今日はこの辺で終わりましょう。最後に曲をお届けします。
曲は、クリスマスということで、「松任谷由美の 恋人がサンタクロース」でお別れします。 ではまた来週!
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、この番組ですが、一人でお伝えするようになって、1ヶ月半が過ぎました。今年もあと2週間となりましたね。皆様にとっては、今年一年はどんな年だったでしょうか。
私もこの番組を始めるようになって、今年はたいへん勉強をさせていただきました。今までも地元のことをいろいろと調べていましたが、今年ほど広範囲に、また詳しく調べたことがありませんでしたので、とても勉強になりました。自分も勉強だと思って、この番組をすすめていきたいと思いますので、番組に対する御要望や感想。「こんなことがわからないので調べてほしい」というようなことなどは、ヒッツFMのほうへ、ファクスかメールください。
お尋ねいただいた内容は、少しお時間をいただいて、知り合いの専門家の方にお尋ねするなり、自分が持っている資料でお調べするなりして、また番組の中でお答えしていきたいと思います。
さて、先週は、飛騨の名前の由来についてのお話をしました。今週は、第三週ということで、古川のことについてお話しましょう。
10月と11月に、飛騨古川ふるさと案内人会で、研修会がありました。地元の歴史家 稲葉六郎先生の御案内で、古川の名勝や寺院について、御案内をいただきました。そのときに教えていただいた内容を一部交えてお話したいと思います。
さて、古川の町ですが、白鳳時代や奈良時代は今の古川町のあたりではなくて、もう少し北の太江、杉崎地区が結構栄えていたそうです。近年、杉崎廃寺の発掘調査が行われて、田んぼだったところから数々の礎石が発見され、このお寺が金堂や塔を備えた立派なものであったことがわかりました。

そのあたりには、今はなき古い寺がほかにもあったらしくて、寺があるということはそこに民衆が営みをしていたということがわかってきています。
また、高山に国府が置かれる前の国府があった場所について、先日行われました第3回ふるさと案内人会 見学ツアーで、稲葉先生は、「現在の上町のところに、国府があったらしい」とおっしゃっていました。現在、栗原神社という神社が古川町の上町にありますが、国府があったと思われる場所が、現在の栗原神社前から大日に掛けての一帯が、いまの上町公民館のあたりではということでした。
このあたりは、昔から久中(くなか)と呼ばれていて、もともと、国中の呼び方が長年の言葉の使い方で変化したものといわれているそうです。つまり、昔は国の役所である国衙(こくが)が設置されていた場所で、飛騨の中心地でした。上町廃寺がこのあたりに確認されているそうです。稲葉先生がおっしゃるには「この辺には栗林があって、毎年栗を朝廷に献上していた。島官といってお旅所だったところに神社を移転した。上町廃寺というところは三菱スタンドより上にあった。役所はどこにあったのかわかりません。飛鳥時代の終わり頃、遅くとも奈良時代の中ごろには高山に国分寺ができて移動しただろう。」ということでした。
奈良時代には、国の政治を行った国府は、国分寺・国分尼寺建設と共に、高山に国府が置かれたそうです。
鎌倉時代には、各地に守護の下に地頭である御家人がいて、いざ鎌倉というときには、鎌倉街道を通って、鎌倉にはせさんずることができるように鎌倉街道が整備されました。今でも、高山には、鎌倉街道のあとが一部残っています。そののち、室町時代の初めころには、この地頭が開墾などをして納める地域を拡大していくわけですが、全国的に見て、どうも、守護のいたところを避けるようにして、地頭が拡大化していったようです。
鎌倉時代や室町時代のことは、残念ながら飛騨に明確な資料が残っていないので、よく分っていませんが、私が確認したことをお話しますと、鎌倉時代には、京都の山科家の知行する地域が、石浦・江名小・岡本の保とあと松橋という場所が記録に残っているそうですが、その場所はよくわかりません。おそらく宮と高山の境目の所に松橋という橋があるので、あのあたりではないかと思われます。
さて、この辺でちょっとブレイクしましょう。 曲は、クリスマス前ということで、辛島美登利でサイレントイブ
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日の飛騨歴史再発見は、室町時代以前の古川町のことについてお話しています。
さて、そのころ国府地方には、雅楽をやっていた多好方という人が知行していた土地があったそうです。
この人は、建久二年(1191)11月21日に、鎌倉に鶴岡八幡宮が遷宮されたときに、都から招かれて源頼朝の前で奏楽を献上しました。その秘曲に感じ入った頼朝は、家臣大江久家を京都に遣わして好方から神楽を伝習させます。その後、建久4年11月4日に、好方の息子 好節を再度招いて、鶴岡八幡宮で奏楽させたときに、何かいいことがあったのか、褒美として知行地を与えます。それが国府の荒城郷だったそうです。
好方は、正治元年(1199)11月8日に地頭職を子の好節に譲り、将軍源頼家にたのんで、荒城郷を守護不入の地にしてもらいました。それ以後、この国府の地は、安土桃山時代頃まで、長い間、多家の知行であったと考えられます。ただし、多家の人が飛騨に住んでいたのではなくて、京都にいて秘曲を伝授するなどしていたそうです。
話はかわりますが、祭りの歴史を調べているときに、この多家の人が、飛騨楽というものを伝授し、それが現在あちこちでみられる闘鶏楽の原型ではというお話があります。真実はよく分っていませんが、飛騨のあちこちにみられる闘鶏楽は、どうもこのころに始まっているというお話があるようです。
鎌倉時代に多家があったころの守護は、藤原憲俊であったそうですが、このころの国府がどこにあったかは、定かでありません。
その後、室町時代になって、姉小路氏が国司に任命され、守護を京極氏が勤めることになりました。京極氏は、家来の多賀氏を今の高山あたりに。三木氏を今の下呂の竹原あたりに配置したそうです。古川地域は、姉小路氏が治め、北飛騨の神岡あたりは、高原郷と呼ばれて江馬氏が治める地域となっていました。多賀氏が本拠地を今の城山=天神山に城を築いて構えたと伝えられていることから、その地名が多賀山となり高山になったという伝説があります。ただし、これはあくまでいわれであって、本当かどうかはわかりません。
さて、国司の姉小路氏は、その頃どのあたりに国府を置いていたか謎のままですが、古川の蛤城にいて飛騨を知行していたことがわかっています。国司の任務は、当時は神官も兼ねていたそうですが、国司が訪問する神社を一の宮、二ノ宮、三ノ宮といいました。一の宮は現在も知名になってますね。そのどれもを訪問するのが大変なので、姉小路氏は、阿多由太神社など延喜式に載っている5つの神社を城の南側に勧請し、五社神社と名付け、お参りをしていたそうです。
蛤城は、現在の古川バイパスのところにトヨタカローラさんがありますが、そこから宮川をはさんだ対岸の山の上にあったようです。蛤城という名前は、そこに蛤石があったことから、のちの金森時代になって呼ばれた名前ですが、当時は、古川城といわれました。そこの真下には、城下町が広がっていて、古い寺も4つほどあったようです。現在の古川バイパス沿いにある田中木工所近辺にその城下町があり、城に近いほうから一番町、二番町、三番町と呼ばれていたそうです。城と城下町は七堆端(ななついばし)という橋で結ばれ、その遺構は明治時代まであったそうです。この城下町は、のちに金森可重が古川の町を築くにあたって取り壊され、ほとんどが現在の古川町に城下を移転されました。
この姉小路も、尹綱(これつな)の時代に、3つに分裂します。応永18年に飛騨の乱がおこり、尹綱はこの戦闘で殉死しますが、このあと、小鷹利城(向小島城)の牛丸氏、杉崎にいた小嶋氏。そして国府町の広瀬にいた広瀬氏の3つに分裂します。それぞれが、姉小路の流れの人たちとして古川地区を知行して行きます。

小島城跡(古川町杉崎)
室町時代の中期以降には、飛騨は、北から高原郷の江馬氏、古川に牛丸氏、小嶋氏、広瀬氏。高山に多賀氏、益田地域に三木氏と細かく分断されてそれぞれの知行が行われていました。その後、益田地域の三木氏がどんどん勢力を伸ばして、最終的には飛騨を統一します。このお話は、またの機会にお話したいと思います。
ちょっと難しかったでしょうか。さて、今日はこの辺で終わりましょう。最後に曲をお届けします。
曲は、クリスマスということで、「松任谷由美の 恋人がサンタクロース」でお別れします。 ではまた来週!

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この記事へのコメント
室町時代はかなりマニアでしか分からないわけですが、よく調べていますね。
鎌倉時代は国府エリアのどこが中心だったかは不明で、謎が多いですよね。
江馬氏も出自が北条氏か平家とかいう説がありますが、どうなんでしょうか。
あと、塩屋氏は飛騨のどのあたりに城を構えていたのか知りたいところです。あと、今年に三木氏の歴史が書いてある本が出版されましたが読まれました?
鎌倉時代は国府エリアのどこが中心だったかは不明で、謎が多いですよね。
江馬氏も出自が北条氏か平家とかいう説がありますが、どうなんでしょうか。
あと、塩屋氏は飛騨のどのあたりに城を構えていたのか知りたいところです。あと、今年に三木氏の歴史が書いてある本が出版されましたが読まれました?
Posted by 飛騨郎 at 2007年12月31日 13:23
飛騨郎さん、ありがとうございます。
室町時代は謎が多くて、調べるのに苦労しています。もし御存知でしたら教えてください。
国府の場所は、その時代時代で移転したような形跡があり、断定ができません。
江馬氏については、平家の出自であると言われています。国分寺にある太刀がそのいわれの証拠であると言われています。
塩屋氏は、最初は、丹生川の尾崎城、その次が古川城(蛤城)、そのあとが越中の大沢野に移転したといわれています。現在調査中です。
今年発行された「三木氏一族」は読みました。私には少し難解ですが、禅昌寺の古文書を中心に書かれていますので、ほかの本でも勉強しながら読んでいます。まだ読破できていません。
結構難しいですよね。
室町時代は謎が多くて、調べるのに苦労しています。もし御存知でしたら教えてください。
国府の場所は、その時代時代で移転したような形跡があり、断定ができません。
江馬氏については、平家の出自であると言われています。国分寺にある太刀がそのいわれの証拠であると言われています。
塩屋氏は、最初は、丹生川の尾崎城、その次が古川城(蛤城)、そのあとが越中の大沢野に移転したといわれています。現在調査中です。
今年発行された「三木氏一族」は読みました。私には少し難解ですが、禅昌寺の古文書を中心に書かれていますので、ほかの本でも勉強しながら読んでいます。まだ読破できていません。
結構難しいですよね。
Posted by rekisy at 2007年12月31日 22:57




