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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年01月21日

1月21日放送分「続 飛騨ぶり街道」

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。

今年もあっというまですね。もう3週目に入りました。今年は雪が多いということでしたが、寒い日が続いていますね。どうぞ、風邪など引かないようにしてくださいね。

この放送ですが、昨年の四月から始まりまして、38回目の放送となりました。この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうにも掲載していますので、今までの放送についてご覧になりたい方がございましたら、どうぞ「ひだっちブログ」にアクセスしてみてください。
さて、今日の放送は第3週目ということで、いつもは古川の話題をお届けするところですが、先週、古川の「三寺参り」のお話をしましたので、今週は、飛騨のお話をしたいと思います。
年末に、「ひだぶり街道」についてのお話をしましたが、12月にちょっと富山へ行く機会がありまして、そこで新しく発見したことがありますので、この1ヶ月でお調べした「ひだぶり街道のお話の続編」をお話します。

先月、「飛騨ぶり街道祭」というのが、行われましたが、皆さんいかれましたでしょうか? 12/9には、高山市の朝日町で大々的なイベントがあり、翌週には高山グリーンホテルさんのほうで、富山の商工会議所の皆さんが、ぶりを運んでこられて、高山商工会議所の皆さんにお届けするというイベントが行われました。はっぴ姿に傘をかぶった2人の方が鰤を両てんびんにかついで来られた様子が、新聞などにも掲載されていましたね。
実は、高山のイベントだけではなくて、富山の猪谷でも同じ名称の祭りが12月9日に行われていました。私も知らずに通りかかったのですが、ちょうど高山グリーンホテルにぶりを運んでこられた方が、猪谷の関所跡にぶりを運んでこられたところを目撃しました。調べてみると本当は天秤棒などを使って運んだのではないようです。どしまといって牛の背に乗せたり、人間が背負って運んだんですよ。あの天秤棒は、本当は間違いなんです。
その猪谷の関所館で、宮田館長さんや中村前館長さんとお会いして、いろいろとお話しすることができました。

まず、ひだぶりがどこを通ったかということですが、飛越街道には、東街道、西街道が主要道としてあり、西街道の途中から中街道というのがあったとお話しました。先日の放送では、西街道には、難所が3箇所もあったために、飛騨ぶりは東街道を通ったのではないか、ということでお話しました。「飛騨ぶり街道物語」という本の中で、国府町の郷土史家 菅田先生もこの東街道を通ったのではという書き方をされていました。

この話について、確実な証拠が得られなかったために、宮田館長さんにうかがいました。そうしたら、猪谷関所館にはこういった資料が残っていませんが、飛騨側の「口留め番所記録」というものの中に、面白い記述があったとのことで教えていただきました。
口留め番所というのは、金森時代に作られた飛騨と国境にあった関所で、金山の下原など国内に31箇所あった番所のことを言います。口留め番所と関所の違いですが、関所というのは、国が作った関所のことをいい、各藩が作ったものは、関所とは呼ばずに「番所」と呼んでいたそうです。
小学校や中学校のときに皆さんも習ったと思いますが、この関所の役割は、国へ出入りする人間の改め=お尋ね人などが入国しないかどうかの管理や、国へ出入りする物品に税金を課すという重要な任務がありました。
現在の、入国管理局や、税関のような役割をしていたんですね。

さて、この番所の全体を調べた資料がありませんので、全体の動きというものがわかりませんが、とても興味ある資料がありました。ぶりなどの塩魚にも課税されていたのです。
このぶりに関しては、富山藩は輸出積極策をとっていたらしく、富山藩内で流通するものには、課税をかけなかったので、猪谷の関所には通ったという記録はありませんでしたが、飛騨側の番所にあった記録をもとに類推することができるということでした。詳しいお話の前に、ちょっとブレイクしましょう。 
今日は、グループサウンズの曲をお届けしましょう。「ズーニーブー で 白いさんご礁」
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今日の飛騨歴史再発見は、飛騨のぶり街道の続編をお話しています。

当時、この飛騨の3街道(東、西、中)には、それぞれ、荒田口番所、小豆沢番所、中山口番所という関所があり、それぞれ口銭を取り立てていました。寛政8年(1796中山口)の毎月の記録があって、塩魚、こうぞ、塩、米などの流通した記録がありましたが、なんと、そのときの塩魚は、中街道を通っていました。

時期は、旧暦の11月から2月にかけて。旧暦は太陽暦ですと、この頃は1ヶ月程遅いですから、旧暦11月が太陽暦12月ということです。冬の雪の多い時期に、たくさんの貨物が運ばれていることが分りました。しかも、通ったとされていた東街道では、荒田口番所に夏の間は1人の番人が配置されていましたが、冬の間は通行する人がほとんどないために、封鎖されていたようです。11月の口銭は、荒田口が0.小豆沢が約800文に対して、中山口が2両という金額を徴収していました。2年前の寛政6年には荒田口が2分127文、中山口が9両123文、12月には、荒田口が0、中山口が8両33文という数字です。これが全てではありませんが、非常に興味のある資料でした。もしどなたかがこのことについて、調べていただきますと、ぶりがどこを通ったか、全体像が分ってくるものと思います。

また、猪谷の少し飛騨よりのところに、蟹寺と書いてカンデラという難所があります。この蟹寺という場所が、籠の渡しで有名な場所で、安藤広重の浮世絵にも描かれた難所中の難所であることを申し上げましたが、実際に現場に立ってみると、確かに両側を崖がそびえ立ち、秘境の感じがしますが、対岸までは15mほどの場所で、確かに8mほど下には激流が流れていますが、絵で見るほど高さがなくて、「これなら渡れるな」という印象を受けました。昔は、ダムが無かったんで、土砂も埋まってなく、相当谷が深かったことでしょう。籠の渡しがあったところには、ここで亡くなった方の霊を鎮めるお地蔵様が五体、河の流れも鎮めるようにひっそりと崖の下に立っていました。
 

その上の蟹寺城跡に上ってみると、まさに絶景で、左に高原川、右に宮川を見ることができる景勝地です。


江戸時代には徳本上人も通られたようで、石碑が残されていました。

この徳本上人は、紀伊国の人で、江戸に一行院を開いた浄土宗近世の大徳でした。念仏百万遍を日課として精進し昼夜寝ず。一日の食事はソバ粉を五勺とカヤの実を一合などで、飯を喰べなかったそうです。晩年は諸国の民を教化して、万人から帰依されました。飛騨には文化十三年(1816)信濃の国から入国し、益田郡を経て高山へ来られました。七月十四日から三日間、大雄寺で本堂の正面縁側に高座を設けて、朝、昼、晩の三度、念信や談義(説教)を行いましたが、参り衆は、国内、わけても八賀筋や高原郷からは一家を挙げ、隣近り所交代でみな集り、はるばる越中の国からもやって来て聴聞し、郡衆は本堂外にもあふれ出て、高山の町では豆腐や菓子がみんな売り切れる騒ぎだったそうです。この人の揮毫による石碑は、飛騨には高山の大雄寺と善光寺の2箇所と蟹寺の1箇所に残されています。以前、半田へ彫刻の調査に行ったときもこの人の石碑をみつけ、非常にご縁を感じたことがあります。今回、蟹寺で見つけたときにも大変驚き、上人様のご縁を感じました。

さて、話を元に戻しますが、猪谷にあった古地図には、その少し下流のところに、点線が画かれていて、「牛渡りセ」という文字をみることができます。これは、籠の渡しを通さないで、荷物をおねた牛は、そのまま浅瀬を通って、対岸に渡り、中街道を通って荷物を運んだという証明です。このことから類推すると、どの街道も、非常に細い通りで、現在の国道のように2車線も広さがあるわけではありませんから、特に崖のようなところは、すれ違うにも大変だったと思います。

江戸時代の後期の逸話話ですが、白真弓肥太右衛門が、「街道を歩いていたときに、反対側から牛に荷駄を背負わせた人に合った。すれ違いに困っていると、肥太右衛門が、牛をひょっこりとかついだために、無事にすれ違うことができた」というお話があります。そのくらい街道を行く人は、すれ違いに気をつかったことでしょう。そんなことからも、旅に出る人は、主に、東街道・西街道を通ったのではないか。中街道はどちらかというと貨物専用の通りとして利用され、旅をするひとは、むしろ中街道は避けて通ったのではないか。と私は思いました。桐谷先生のお話ですと、「いやそうじゃない、国府町上広瀬の落合のあたりで、通行人はどちらの道が安全か情報交換をして、東中西のどれを通ろうか判断したと思う。」とおっしゃっていました。さて、事実はどうだったんでしょうかね。

さて、今日のお話はこのへんで。来週は、節分のお話をしたいと思います。 それでは最後に曲をお届けします。今日は、この曲でお別れです。「松山千春で 長い夜」 ではまた来週お会いしましょう!

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