QRコード
QRCODE
おすすめショップ

トマトジュース
ひだっちショップ








/*飛騨百年水素水*/
今話題の飛騨天然水素水。


アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 3人
プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年02月11日

2月11日放送分 「飛騨の小さな豪族達」1

みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。

2月もすでに第2週目に入りました。皆さん、この放送聞いていただいてますでしょうか? このごろ、道で私をご存知の方にお会いすると「聞いてるよ。楽しみにしてます。」とか「わかりやすくて、勉強になります。がんばってください。」などと激励のお言葉をいただきます。私も、調子に乗りやすいので、褒められると俄然がんばってしまいます。どうぞ、私をどんどん乗せてください。頑張って原稿を書きたいと思います。ただ、間違っていることもあろうかと思いますので、間違いがあった場合は、お知らせいただきたいと思います。
また、この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうにも掲載していますので、今までの放送についてご覧になりたい方がございましたら、どうぞそちらのブログにアクセスしてみてください。

さて、今日の放送は先週予告しましたように金森が飛騨に侵攻する前のお話をしたいと思います。「飛騨史考(中世編)」という本を参考にお話をしたいと思います。

まず、鎌倉時代(1192~1333)ですが、この頃は、歴史の時間に習いました守護と地頭という制度があり、実際に飛騨にもそういう人たちがいたようですが、残念ながらよくわかっていません。現在、残されている資料によると、部分的に多家のように都にいた豪族が飛騨のような地方を恩賞でもらって地頭として知行していたり、 京都の山科家のような貴族が飛び地のようにして石浦、岡本、松橋、江名子などの知行する土地を持っていたり、高山の新宮のように郡上の長滝寺が知行する土地があったとの記録が残っています。
後に飛騨を知行した姉小路氏が登場するのは、永仁2年(1294年)の記録からで、姉小路への使者が飛騨に下向したという記録が残っていることから、このころ、姉小路の知行が始まったと伝えられています。

姉小路氏は、藤原氏北家の支流である小一条流=左大臣 藤原師尹(もろただ)の子孫で、9代目の家時の四男に当たる人の出だと言われています。この姉小路家が国司として任命されたということになっていますが、確証できる資料がないために、いつごろから飛騨の国司として赴任したのか。また、国府がどこにあったのか、それは謎のままです。

国府については、江戸時代の代官 長谷川忠宗という人が書き残した飛州史には、高山にあったように書かれていますが、姉小路の拠点は古川にあったとも言われ、いまだ議論の分かれるところとなっています。

その頃、北飛騨 高原郷=現在の神岡あたりには、江馬氏という豪族が知行します。この江馬氏の先祖については、平清盛の弟経(つね)盛(もり)の忘れ形見 輝(てる)経(つね)であるという話がありますが、本当のことはわかっていません。

平成19年 神岡にオープンした「江馬館公園」

そのあと、時代を経て南北朝時代になると、前述した公家や寺が所領した土地を略奪したり横領したりする豪族が増えてきます。先ほどの姉小路氏や江馬氏のほかに、廣瀬氏や垣見氏という豪族が出てきます。
この2家の出自は明らかではなく、おそらく、もともとは、家臣であったものが、主家の領地を没収し、その後、公家や寺の所領地を略奪したり横領したりしてのし上がってきたものではないかといわれています。

一方で、所領の略奪に悩まされていた山科家では、領地替えを幕府に働きかけていたりします。姉小路家と山科家とは親戚で、飛騨の知行地のことでよく相談していたようですが、逆に姉小路家では、山科家が日野家と通じていたことを逆に利用し、姉小路尹(ただ)綱(つな)が自分の出世の道具としていた傾向があったようです。

このことが原因となってか、わかりませんが、応永13年(1406)4月、突如足利義満が姉小路小島家の所領古川庄を、没収してしまいます。その土地は、姉小路家の努力で変換されますが、その後も、姉小路家の所領を守護京極氏に預け置いたりして、姉小路家いじめとも思えるようなことが続きました。2年後の応永15年に義満が没すると、幕府は、山科家の奪われた土地を山科家に返還します。喜んだ山科家では、早速家来を飛騨の地に派遣しますが、そこには、山科家の土地は無く、姉小路尹(ただ)綱(つな)が斯波氏から預かっているという土地でした。

長い間の横領で、所有者が代わってしまっていました。しかし、これは裏を返せば姉小路尹(ただ)綱(つな)の陰謀とも思われるもので、義満が存命中は暗黙の了解にされていましたが、義持の代になって、事件が発覚したということです。
このことがきっかけとなって、北飛騨では応永18年(1411)に「飛騨の乱」がおきます。姉小路尹綱(ただつな)が、幕府軍に追い立てられ、2500騎という兵を送られて、尹綱は朝倉の家臣井上新兵衛という人に討ち取られます。

さて、頭をフル回転したので、ちょっとここでブレイクしましょう。 今日は、「八神純子のパープルタウン」をお届けします。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日の飛騨歴史再発見は、三木氏統一前、金森氏が入国する前の飛騨についてお話しています。後半は、飛騨史考や飛騨略記を参考にして、かいつまんだお話をしていきます。

応永18年の飛騨の乱の直後に、姉小路氏は3つに分裂し、小島城の姉小路 小嶋氏。向小島(小鷹利)城に白米城にいた姉小路の家臣 牛丸氏。古川蛤城の姉小路氏に分裂します。ただ、奇妙な事に、姉小路家は分裂しますが、以前の所領地をそのまま幕府から安堵されています。つまり、この乱は、姉小路尹綱(ただつな)個人を成敗するためのものであったのではと岡村先生は著書の中で述べられています。

また、この乱のときに、近江の京極氏が論功行賞として高山地区の石浦、岡、山田などのほかに、下呂の竹原あたりをもらったようです。その守護代として高山付近の知行地を任されたのが多賀氏で、竹原付近を任されたのが多賀氏の家来であった三木(みつき)氏(し)であるとされています。
 この三木氏についての出自は源氏の後胤などとされ、多賀氏の家来とも一族ともなっていますが、定かではありません。いずれにせよ、この益田郡に土着した三木氏が、後に飛騨を統一する豪族になるのです。

後に飛騨を統一する三木自綱(よりつな)

話は進んで、後の室町時代の中ごろ、益田郡は、三木乗綱の子息 綱良や久頼らに治められていました。また弟重頼は萩原の上村に在城して益田郡一円を治め、三福寺町にあった三佛寺城には、三木直頼がいました。石浦には堂洞城主として三木則綱が知行し、あちこちに親族を配置して治めるようになりました。

これ以外にも、室町時代中期の飛騨には、たくさんの小さな豪族が住んでいました。江戸時代の始めに「飛騨略記」という軍記物がありましたので、その本からその頃のお話をかいつまんでさせていただきたいと思います。どこにどんな人がいたのか、ラジオでは、聞きにくいかもしれませんが、あまりご存じないと思いますので、列挙したいと思います。 ゆっくりお話しますので場所をイメージしながら、聞いてください。

まず、高山の町からまいります。

・現在の高山城のあったところ、安河の天神山城主には、高山外記がいたといわれています。=またこの方が、高山の地名の元になった人と言われています。 

・少し南にいきまして、江名子村には畑六郎左衛門林高が知行していました。 

・少し東にいきます。 現在の松ノ木町から漆垣内町にかけてある鍋山の城には鍋山豊後守安室 その家臣には熊原左近 阿尻兵部介。また家臣の大谷蔵人という人が小八賀を治めていました。 

・さらに東、丹生川町町方のあたりは、八賀町と呼ばれていましたが、そこにあった尾崎の城には塩谷筑前守秋貞がいました。 

・ちょっと方角を西に移します。高山の西、高山の岡本付近には、岡本豊前守がいました。 

・中山峠を越えます。西の三枝郷には三枝城主 山田紀伊守がいました。 

・南にいって、高山の千島町、現在の飯(いい)山寺(ざんじ)のあるところにあった 飯山城主には、飯山三郎兵衛保氏がいました。 

・さらに南、一ノ宮町にはいります。 山下城主には山下刑部左衛門利国という人がいました。

・更に西に行って 清見町阪下には内木助左衛門善秋と弟の助十郎がいました。

・もっと西に行って荘川から白川郷付近にまいりますと、白川には帰雲城主 内ヶ島豊後守為氏 その家臣には萩町城主 山下大和守氏安や 中河兼顕 河尻備中守氏信などがいました。
この帰雲城は天正の大地震でたくさんの金塊もろとも、山崩れの下敷きになったといわれています。 

・その外、この地域には 浄土真宗を白川郷に広めた三島将監という人が三代に渡って白川村中野を治めていました。照蓮寺のあったところですね。 

・旧大野郡の南のほう、朝日町・久々野町付近の阿多野郷には 甲城主 東藤相模守 黒川越中守 阿多野蔵人がいました。

・さて、こんどは、旧吉城郡にまいります。 国府町広瀬には高遠の城主 広瀬山城守宗城。家臣には河尻将監・堀越前守がいました。 

・古川方面 荒城郡には小田苅の城主 国司姉小路済継と 家臣には白米城主 牛丸重親 後藤帯刀 渡部筑前守 山賀新兵衛など。 結構広範囲に知行していました。 

・宮川を挟んで杉崎の小島城主には姉小路の親戚の小島時光がいました。

・神岡付近の高原郷には殿村城主 江馬小四郎時盛 家臣には、川上輔忠 和爾経氏 神代常名。
ここは、先ほどの話のように鎌倉時代の終わりごろから200年以上も知行されていました。以上のように、たくさんの小さな豪族が飛騨地方を治めていたんです。この続きはまたお話したいと思います。

さて、今日のお話はこの辺で。  来週は、「飛騨のお酒のものがたり」のお話をいたします。

お別れの曲は懐かしいところで「クラフトの 僕にまかせてください」 ではまた来週!

徳積善太

この記事へのトラックバックURL

この記事へのコメント
結構な数のお殿様がいたんすねー。町内会長みたいなモノか?。
来週の話は、必聴ですな。(^^)
Posted by ネコ先生 at 2008年02月11日 22:10
ネコさん、いつもありがとうございます。
私も調べていて、とても勉強になりました。

来週のお話は、江戸時代以降のお話です。
どうぞ、お楽しみに!
Posted by rekisy at 2008年02月12日 12:44
認証文字を入力してください