2008年02月18日
2/18放送分 「飛騨のお酒のものがたり」
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
2月もすでに第3週目に入りました。皆さん、お元気でお過ごしですか?
今年は大雪になるかと思いましたが、東北から北海道にかけては、かなりの積雪に
なっているようです。この辺は、雪はあまりありませんが、気温が低いですね。
どうぞ、お風邪など引かないようにしてください。
さて、この放送ですが、できるだけ、わかりやすくお伝えしたいと思っていますが、
あまり省略しすぎて、間違っていたり、専門的な言葉が多くて、難しいということもあろうか
と思います。
どうぞ、間違いがあった場合や、分かりにくい、大変良くわかるなどのお言葉を、ヒッツ
FMの方にお知らせいただきたいと思います。
また、この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうに掲載していますので、
そちらもアクセスしてみてください。
さて、今日の放送は先週、予告をしましたように、「飛騨のお酒のものがたり」と称して、
お届けしたいと思います。

現在、高山市内には8軒のお酒の醸造元があります。
このごろ、冬のイベントとして「酒蔵めぐり」という催しが行われていて、仕上がった
ばかりの新酒を当番の決められた酒蔵で飲むことが出来ます。一般的には、観光客の
ためのイベントですが、地元の皆さんが行かれても試飲させていただけるようです。
どうぞ、遠慮なしに、お尋ね下さい。でも、あくまで試飲ですから、コップ酒をぐいぐいと
なんてことは、しないようにしてくださいね。
さて、飛騨での造酒ですが、それがいつごろから始まったのか、それは定かではあり
ません。おそらく、醸造が本格的にされたのは、金森時代のことではないかと思いますが、
飛騨には神社があり、そこでいただくお神酒は、各神社で作られていたものと思います。
もちろん、清酒ではなく、どぶろくですが、飛騨には白川郷や荘川のどぶろく祭りのように、
神事として昔から伝わっているお祭りもあります。また、高山でも荒神様の甘酒祭りという
のが4年に一度 高山市の江名子町で開催されており、今年がその4年に一度の年で、
1/13に盛大に開催されました。
このように、飛騨に醸造の技術が伝わったのは、最初は神事のために始まったのではないか
と思われます。どなたか、ご存知の方がございましたら、お知らせいただきたいと思います。
わからないお話をしていては、この番組が成り立ちませんので、ここからは、ちゃんと確認
されたお話をしたいと思います。

まず、清酒の造り方をお話したいと思います。酒造りは、最初に、米を精米します。
精米というのは、もみを取った状態から、米を削る作業のことを言います。
普通、米は保存しておくときに、もみの状態か玄米の状態で保存しますね。玄米を白米に
するには、米の表面を削っていきます。お酒の場合は、その削る作業を、玄米から白米、
さらに米の芯を取り出すくらいまでに精米します。最近の大吟醸酒などは、米が直径3mm
位になるまで精米したものを使うものがあります。
これについては、吟醸酒によって、違いますからお店でお尋ねください。
さて、精米した米を洗って蒸します。その蒸した米に、別に発酵させた糀を混ぜます。
今でも飛騨では、杜氏さんたちが冬の寒いときにシャツ姿一枚になって、汗だくで米と糀を
混ぜる作業をされています。それが、十分に混じったところで、今度は、樽に水を張り、
そこに糀を混ぜ発酵させたもろみを入れます。それが酛(もと)といいます。
そこからが、麹菌の仕事となるわけですが、この発酵の具合は、すべて温度調節にかか
っています。時には、雪を使って樽の温度を下げてやったり、時には火を焚いて温度を上
げてやったり。 時々、酛も追加します。昔はすべて杜氏さんの経験と勘が頼りでした。
今では、この温度管理は、どこの酒蔵でも自動化されているところが多くて、ボタン一つで
できますが、昔は、杜氏さんが交代で寝て、昼夜を問わず作業をしたそうです。高山や
古川の酒造場には、今でもこの杜氏さんが寝泊りした場所が確保されています。
このもろみの状態を維持して、できるのが、最初は甘酒。そして、だんだん発酵が進んで
いくと、糖分がアルコールへと変化し、お酒=どぶろくとなるのです。このどぶろくを甑(こしき)
でこしたものが、清酒です。
昔は、お酒というとこのどぶろくのことをいい、滅菌していないので、輸送中などに追加発酵
してしまいました。それを、漉すことで清酒に変え、しかも温度処理をして滅菌すると、日持ち
のする清酒になります。
この清酒の技術を最初にあみ出したのは伊丹の杜氏だと言われています。蔵出しの清酒は、
非常にアルコール分が高いので、焼酎などのアルコール分を追加して調整します。最近の
清酒が、14度以上という表示になっているのは、そのせいですが、蔵出しのアルコール分
未調整の原酒は、アルコール分が16~18度もあるものがあります。
さて、頭をフル回転したので、ちょっとここでブレイクしましょう。 「酒よ」をお届けします。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日の飛騨歴史再発見は、「飛騨のお酒のものがたり」についてお話しています。後半は、
歴史の話を中心にお話をしていきます。

次に、いくつかの樽のお酒をブレンドする場合があります。このお酒の追加作業によって、
平均的なお酒が仕上がるのですが、飛騨の酒造メーカーでは、ほとんど樽出しのものを提供
されると聞いています。
だから飛騨の酒は、いい水を使って、手間と暇をかけた 美味しい いいお酒なんですよ。
さて、その歴史ですが、江戸時代には、元禄十年十一月に飛騨国酒株名前帳によると、
飛騨には89件、高山にはその内56件の酒造メーカーが存在したことが確認されています。
この酒株というのは、今で言う免許状のことで、領主や幕府は、酒造からの運上金を取り
立てるために管理をしていました。明暦三年(1657)に幕府が設定したようですが、最近の
研究では、万治三年(1660)に明暦二年の酒造高を届けさせ、これを明暦3年の酒造株高
と定めて酒株帳に記帳させたものであることがわかりました。
このことから、飛騨には、89軒の酒株があったことがわかります。
なぜ、このように酒株を統制したかですが、江戸時代には、流通していた貨幣のほかに、
米も流通貨幣としての役割がありましたから、毎年米を消費し、米価を管理統制する必要が
ありました。米がだぶつくとインフレになりますので、その管理をしていたということです。
江戸時代の台所といわれた大坂には、幕府が取り立てた年貢としてたくさんの米が集まり
ました。その価格統制のために、酒造りが行われ、有名な酒造りの町として、米の
海上・川輸送の可能な伊丹・灘・京都の伏見といった酒どころがこの大量の米を消費する
地域として選択されていたのです。
飛騨においては、集まった米をそんな遠隔地にまで持っていくことができませんから、
自国内で消費させる必要がありました。そういうことから、高山のような山の中でお酒造り
が盛んになっていったと思われます。
もちろん、酒造りにはいい水が欠かせませんから、宮川の伏流水が良く取れる高山の
城下町で、いい水を取得していました。

この酒造場の数ですが、後に享保7年には、高山が62、古川12、神岡(船津)8、益田
には7軒となっています。ところが、この酒造メーカーは、先ほど申し上げたように、米の
作柄や経済統制によって、非常に左右されます。
豊作のときは、米の値段を下げないために酒を造れ、酒を造れといって無制限に作らせ
ます。ところが、逆に凶作になりますと、米の値段が上って人民が困ります。そうなると、
一揆などが起こっては大変ですから、今度は逆にあまり造るな、造るなといって、制限
します。
通常、1000石作れる酒屋が半分の500石しか造ってはいけないといわれると、半分の
設備は寝かせておくわけですから、大変な資本の蓄積がないと持ちこたえることが出来
ません。
そういうことが理由となって、天保年間には、凶作となり三分の一令とか、二分の一令
というお触れが全国的に流布されます。しかし、お酒も値段がありますから、薄利多売に
ならないように、各地域の酒造場仲間は申し合わせをして、売れ行きを見ながら生産調整
をしていったそうです。
さて、飛騨の酒と屋台は密接な関係があります。文化年間から文政年間にかけては、
全国的に非常に豊作でした。酒も統制が行われることが無く、どんどん作られました。
しかし、天保時代に入って今度は凶作になり、酒の生産が制限されます。
高山市史によると文政13年(1830)・天保4年(1833)には1/3を減ぜさせ、天保5年には
2/3を減ぜよと指令が出ています。天保15年にはとうとう値上げをさせてくださいと役所に
申し出ています。
その間、やっていけない酒造場は酒造株の売買という形で大手の旦那衆に譲ったりして
います。そうして、天保十四年には、高山の酒造場が26軒になりました。
高山の祭り屋台ができるのは、天保時代のことですから、文化文政期の酒造場の儲けが
どんどん使われていったということなんです。
明治期になると、さらに厳しくなったのか、酒造場の数が激減します。明治35年に酒造
組合発足時には高山で15軒となり、第二次大戦後には、さらに少なくなって現在の8軒の
酒造場になってしまいました。
老舗といわれる店舗でも大変な紆余曲折を経て、今日があるというお話でした。
この話の続きはまたの機会にしたいと思います。
さて、来週は、「飛騨の宴会に伝わる 飛騨のめでた」のお話をします。
今日は、この曲でお別れです。 「酒と涙と男と女」 ではまた来週。
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
2月もすでに第3週目に入りました。皆さん、お元気でお過ごしですか?
今年は大雪になるかと思いましたが、東北から北海道にかけては、かなりの積雪に
なっているようです。この辺は、雪はあまりありませんが、気温が低いですね。
どうぞ、お風邪など引かないようにしてください。
さて、この放送ですが、できるだけ、わかりやすくお伝えしたいと思っていますが、
あまり省略しすぎて、間違っていたり、専門的な言葉が多くて、難しいということもあろうか
と思います。
どうぞ、間違いがあった場合や、分かりにくい、大変良くわかるなどのお言葉を、ヒッツ
FMの方にお知らせいただきたいと思います。
また、この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうに掲載していますので、
そちらもアクセスしてみてください。
さて、今日の放送は先週、予告をしましたように、「飛騨のお酒のものがたり」と称して、
お届けしたいと思います。

現在、高山市内には8軒のお酒の醸造元があります。
このごろ、冬のイベントとして「酒蔵めぐり」という催しが行われていて、仕上がった
ばかりの新酒を当番の決められた酒蔵で飲むことが出来ます。一般的には、観光客の
ためのイベントですが、地元の皆さんが行かれても試飲させていただけるようです。
どうぞ、遠慮なしに、お尋ね下さい。でも、あくまで試飲ですから、コップ酒をぐいぐいと
なんてことは、しないようにしてくださいね。
さて、飛騨での造酒ですが、それがいつごろから始まったのか、それは定かではあり
ません。おそらく、醸造が本格的にされたのは、金森時代のことではないかと思いますが、
飛騨には神社があり、そこでいただくお神酒は、各神社で作られていたものと思います。
もちろん、清酒ではなく、どぶろくですが、飛騨には白川郷や荘川のどぶろく祭りのように、
神事として昔から伝わっているお祭りもあります。また、高山でも荒神様の甘酒祭りという
のが4年に一度 高山市の江名子町で開催されており、今年がその4年に一度の年で、
1/13に盛大に開催されました。
このように、飛騨に醸造の技術が伝わったのは、最初は神事のために始まったのではないか
と思われます。どなたか、ご存知の方がございましたら、お知らせいただきたいと思います。
わからないお話をしていては、この番組が成り立ちませんので、ここからは、ちゃんと確認
されたお話をしたいと思います。

まず、清酒の造り方をお話したいと思います。酒造りは、最初に、米を精米します。
精米というのは、もみを取った状態から、米を削る作業のことを言います。
普通、米は保存しておくときに、もみの状態か玄米の状態で保存しますね。玄米を白米に
するには、米の表面を削っていきます。お酒の場合は、その削る作業を、玄米から白米、
さらに米の芯を取り出すくらいまでに精米します。最近の大吟醸酒などは、米が直径3mm
位になるまで精米したものを使うものがあります。
これについては、吟醸酒によって、違いますからお店でお尋ねください。
さて、精米した米を洗って蒸します。その蒸した米に、別に発酵させた糀を混ぜます。
今でも飛騨では、杜氏さんたちが冬の寒いときにシャツ姿一枚になって、汗だくで米と糀を
混ぜる作業をされています。それが、十分に混じったところで、今度は、樽に水を張り、
そこに糀を混ぜ発酵させたもろみを入れます。それが酛(もと)といいます。
そこからが、麹菌の仕事となるわけですが、この発酵の具合は、すべて温度調節にかか
っています。時には、雪を使って樽の温度を下げてやったり、時には火を焚いて温度を上
げてやったり。 時々、酛も追加します。昔はすべて杜氏さんの経験と勘が頼りでした。
今では、この温度管理は、どこの酒蔵でも自動化されているところが多くて、ボタン一つで
できますが、昔は、杜氏さんが交代で寝て、昼夜を問わず作業をしたそうです。高山や
古川の酒造場には、今でもこの杜氏さんが寝泊りした場所が確保されています。
このもろみの状態を維持して、できるのが、最初は甘酒。そして、だんだん発酵が進んで
いくと、糖分がアルコールへと変化し、お酒=どぶろくとなるのです。このどぶろくを甑(こしき)
でこしたものが、清酒です。
昔は、お酒というとこのどぶろくのことをいい、滅菌していないので、輸送中などに追加発酵
してしまいました。それを、漉すことで清酒に変え、しかも温度処理をして滅菌すると、日持ち
のする清酒になります。
この清酒の技術を最初にあみ出したのは伊丹の杜氏だと言われています。蔵出しの清酒は、
非常にアルコール分が高いので、焼酎などのアルコール分を追加して調整します。最近の
清酒が、14度以上という表示になっているのは、そのせいですが、蔵出しのアルコール分
未調整の原酒は、アルコール分が16~18度もあるものがあります。
さて、頭をフル回転したので、ちょっとここでブレイクしましょう。 「酒よ」をお届けします。
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今日の飛騨歴史再発見は、「飛騨のお酒のものがたり」についてお話しています。後半は、
歴史の話を中心にお話をしていきます。

次に、いくつかの樽のお酒をブレンドする場合があります。このお酒の追加作業によって、
平均的なお酒が仕上がるのですが、飛騨の酒造メーカーでは、ほとんど樽出しのものを提供
されると聞いています。
だから飛騨の酒は、いい水を使って、手間と暇をかけた 美味しい いいお酒なんですよ。
さて、その歴史ですが、江戸時代には、元禄十年十一月に飛騨国酒株名前帳によると、
飛騨には89件、高山にはその内56件の酒造メーカーが存在したことが確認されています。
この酒株というのは、今で言う免許状のことで、領主や幕府は、酒造からの運上金を取り
立てるために管理をしていました。明暦三年(1657)に幕府が設定したようですが、最近の
研究では、万治三年(1660)に明暦二年の酒造高を届けさせ、これを明暦3年の酒造株高
と定めて酒株帳に記帳させたものであることがわかりました。
このことから、飛騨には、89軒の酒株があったことがわかります。
なぜ、このように酒株を統制したかですが、江戸時代には、流通していた貨幣のほかに、
米も流通貨幣としての役割がありましたから、毎年米を消費し、米価を管理統制する必要が
ありました。米がだぶつくとインフレになりますので、その管理をしていたということです。
江戸時代の台所といわれた大坂には、幕府が取り立てた年貢としてたくさんの米が集まり
ました。その価格統制のために、酒造りが行われ、有名な酒造りの町として、米の
海上・川輸送の可能な伊丹・灘・京都の伏見といった酒どころがこの大量の米を消費する
地域として選択されていたのです。
飛騨においては、集まった米をそんな遠隔地にまで持っていくことができませんから、
自国内で消費させる必要がありました。そういうことから、高山のような山の中でお酒造り
が盛んになっていったと思われます。
もちろん、酒造りにはいい水が欠かせませんから、宮川の伏流水が良く取れる高山の
城下町で、いい水を取得していました。

この酒造場の数ですが、後に享保7年には、高山が62、古川12、神岡(船津)8、益田
には7軒となっています。ところが、この酒造メーカーは、先ほど申し上げたように、米の
作柄や経済統制によって、非常に左右されます。
豊作のときは、米の値段を下げないために酒を造れ、酒を造れといって無制限に作らせ
ます。ところが、逆に凶作になりますと、米の値段が上って人民が困ります。そうなると、
一揆などが起こっては大変ですから、今度は逆にあまり造るな、造るなといって、制限
します。
通常、1000石作れる酒屋が半分の500石しか造ってはいけないといわれると、半分の
設備は寝かせておくわけですから、大変な資本の蓄積がないと持ちこたえることが出来
ません。
そういうことが理由となって、天保年間には、凶作となり三分の一令とか、二分の一令
というお触れが全国的に流布されます。しかし、お酒も値段がありますから、薄利多売に
ならないように、各地域の酒造場仲間は申し合わせをして、売れ行きを見ながら生産調整
をしていったそうです。
さて、飛騨の酒と屋台は密接な関係があります。文化年間から文政年間にかけては、
全国的に非常に豊作でした。酒も統制が行われることが無く、どんどん作られました。
しかし、天保時代に入って今度は凶作になり、酒の生産が制限されます。
高山市史によると文政13年(1830)・天保4年(1833)には1/3を減ぜさせ、天保5年には
2/3を減ぜよと指令が出ています。天保15年にはとうとう値上げをさせてくださいと役所に
申し出ています。
その間、やっていけない酒造場は酒造株の売買という形で大手の旦那衆に譲ったりして
います。そうして、天保十四年には、高山の酒造場が26軒になりました。
高山の祭り屋台ができるのは、天保時代のことですから、文化文政期の酒造場の儲けが
どんどん使われていったということなんです。
明治期になると、さらに厳しくなったのか、酒造場の数が激減します。明治35年に酒造
組合発足時には高山で15軒となり、第二次大戦後には、さらに少なくなって現在の8軒の
酒造場になってしまいました。
老舗といわれる店舗でも大変な紆余曲折を経て、今日があるというお話でした。
この話の続きはまたの機会にしたいと思います。
さて、来週は、「飛騨の宴会に伝わる 飛騨のめでた」のお話をします。
今日は、この曲でお別れです。 「酒と涙と男と女」 ではまた来週。
徳積善太

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この記事へのコメント
いつも楽しく拝読させていただいております。
さて飛騨において、清酒は、平瀬酒造の荒川広吉番頭が伊丹まで修行に行って、その方法を伝えたと聞いています。
平瀬に伊丹流なる看板が上がっていたようなきがします。
大正時代のことだと思いますが、それについても、今後触れていただければ幸いです。
それから醸造は縄文時代に遡ると考えられます。三内丸山遺跡や秋田県の遺跡からは、絞りかすと考えられるニワトコなどが出土しています。
高山市上野町の垣内遺跡からは、土瓶形の土器が出土していますが、注ぐものは、やはりお酒だったのではないかと考えられています。
さて飛騨において、清酒は、平瀬酒造の荒川広吉番頭が伊丹まで修行に行って、その方法を伝えたと聞いています。
平瀬に伊丹流なる看板が上がっていたようなきがします。
大正時代のことだと思いますが、それについても、今後触れていただければ幸いです。
それから醸造は縄文時代に遡ると考えられます。三内丸山遺跡や秋田県の遺跡からは、絞りかすと考えられるニワトコなどが出土しています。
高山市上野町の垣内遺跡からは、土瓶形の土器が出土していますが、注ぐものは、やはりお酒だったのではないかと考えられています。
Posted by タンタン@待居楼 at 2008年02月19日 17:41
いつもありがとうございます。
え、伊丹が関わっていたんですか?
もしやと思っていましたが、大発見です。
いま、酒の歴史についていろいろとまとめていますが、今度平瀬さんへ伺って、その荒川広吉さんのことを聞いてきます。
情報ありがとうございます。
醸造について、そうですか。縄文ですか。
結構古いんですねえ。ワインの技術がメソポタミア文明の頃といいますから、世界ではもっと古いですがね。
上野町の遺跡に、そんなのがあったんですか。知りませんでした。
飛騨には、知らない事が多いです。
私は、中世以降ばっかりやっていますが、考古の皆さんのお話は勉強になります。
知らない事ばっかりなので、また、教えてください。
え、伊丹が関わっていたんですか?
もしやと思っていましたが、大発見です。
いま、酒の歴史についていろいろとまとめていますが、今度平瀬さんへ伺って、その荒川広吉さんのことを聞いてきます。
情報ありがとうございます。
醸造について、そうですか。縄文ですか。
結構古いんですねえ。ワインの技術がメソポタミア文明の頃といいますから、世界ではもっと古いですがね。
上野町の遺跡に、そんなのがあったんですか。知りませんでした。
飛騨には、知らない事が多いです。
私は、中世以降ばっかりやっていますが、考古の皆さんのお話は勉強になります。
知らない事ばっかりなので、また、教えてください。
Posted by rekisy at 2008年02月21日 02:09
飛騨で最初に清酒を売り出したのは、平瀬だとずっと聞かされて育ちました。
幼少時、先代社長に、「平瀬ケチベエのクソダマ」と言って、「元気な子供」と言われたのも、恥ずかしい思い出の一つです。
平瀬酒造の荒川番頭については、息子さんで日本画を描かれる杉原健吉さんがおまとめになった「荒川廣吉録音記」という小冊子があります。
先祖にも関わるので中学生の頃楽しく読んだのですが、それにも書いてあったと思います。一度当ってみて下さい。
メソポタミアと縄文はあまり時間差がないのではないでしょうか?
縄文時代に酒があったか/なかったか?は、あくまでも推論の域を脱し得ないのですが、のこされた痕跡や遺物から当時の社会を復元していくのが考古学だと思います。
幼少時、先代社長に、「平瀬ケチベエのクソダマ」と言って、「元気な子供」と言われたのも、恥ずかしい思い出の一つです。
平瀬酒造の荒川番頭については、息子さんで日本画を描かれる杉原健吉さんがおまとめになった「荒川廣吉録音記」という小冊子があります。
先祖にも関わるので中学生の頃楽しく読んだのですが、それにも書いてあったと思います。一度当ってみて下さい。
メソポタミアと縄文はあまり時間差がないのではないでしょうか?
縄文時代に酒があったか/なかったか?は、あくまでも推論の域を脱し得ないのですが、のこされた痕跡や遺物から当時の社会を復元していくのが考古学だと思います。
Posted by タンタン@待居楼 at 2008年02月22日 18:51
へえ、そうなんですか。
平瀬さんがねえ。でも、大正時代にというのは少し遅い感じがしますねえ。
「荒川廣吉録音記」一度探してみます。
どこにあるかなあ。
あるといいのですが。
そうですか。メソポタミアの方が古い感じがしますが、日本の縄文は長いからなあ。
日本の考古学の皆さんに「日本の方が古い」って言ってもらいたいですね。
それでも、いつごろなんでしょうね。
ろうさん、今度高山に戻るとき、また連絡くださいね。また一杯やりましょう。
平瀬さんがねえ。でも、大正時代にというのは少し遅い感じがしますねえ。
「荒川廣吉録音記」一度探してみます。
どこにあるかなあ。
あるといいのですが。
そうですか。メソポタミアの方が古い感じがしますが、日本の縄文は長いからなあ。
日本の考古学の皆さんに「日本の方が古い」って言ってもらいたいですね。
それでも、いつごろなんでしょうね。
ろうさん、今度高山に戻るとき、また連絡くださいね。また一杯やりましょう。
Posted by rekisy at 2008年02月23日 01:09




